浅川 沙千絵
第16話 ポップな表札
翌日、田村は普通に出勤し、自分の席で何事もなかったように仕事をしていた。あんな子供みたいに取り乱して、一言も謝らないでよく平気だなと思う。謝られたところで、また田村と接するのも面倒だと、みんなホッとしているのが空気でわかる。
ムスッとした顔でデスクに向かう田村。会議会議でいつもいない板橋部長は、たまに現れ無理難題を押し付けてくるし、月曜日は決まって大石課長が家族旅行のお土産をみんなに配る。太っている小早川さんはお土産を欲張るし、佐伯さんはまた小さなミスを重ねている。そんな感じで相変わらずの日々は過ぎていった。
ワタシはそんな中で、美幸の変化に気づいてやれなかった。
あの事件の翌日、美幸は普通だった。課内のみんなに明るく振る舞っていたし、自分の機嫌で無視する田村にも、元気よく朝の挨拶をしていた。お昼休憩も一緒にとって、くだらない話をいつも通り笑いながらしていた。
数日経って、彼女にしては珍しく欠勤した。少しくらいの風邪なら平気で出社してくるのに、相当体調が悪いのか、朝LINEで連絡してきたきり、電話をしても出なかった。
その日の夜、帰宅途中にLINEで『寝ていたので気づきませんでした』と返信があった。彼女みたいな《《しっかり者》》でも、そんなことくらいあるだろうな、と深く考えていなかったが、彼女はそれから3日間も休んだ。
「浅川さん、ちょっと」
大石さんはワタシに手招きをし、呼び寄せた。
「あのー、僕も連絡を取っているんだけど、本多さん、どうしたの?何か聞いてない?」
大石さんは小声で言いにくそうにワタシに訊ねた。大石さんは最初の連絡で体調が悪いことを聞いているが、その後の報告がなく欠勤が続いている。無断欠勤ではないけれど、何か引っ掛かる休み方だ。
「ワタシも連絡してるんですけど、今日も電話出ないんです。ちょっとLINE送ってみます」
ワタシがスマホを取り出すと、
「いや、いいんだ。もう少し様子を見よう。熱で寝てるだけかもしれないし」
そう大石さんとやり取りをしているところ、書類を持ってきた田村と目が合った。
「俺に偉そうなこと言って、欠勤ですか?最近の若い奴は自分のことを棚に上げて、言うことだけは言う」
恥をかかせてきた美幸の不始末で勝ち誇ったように、ニンマリ笑って捨て台詞を吐いていった。ワタシはスマホをポーチに仕舞うと、ふと嫌なことが頭をよぎった。
「大石さん。もしかしたら、あの後、美幸、田村課長になんか言われたんじゃないですか」
ワタシは田村を問い詰めようと思ったが、田村とは面倒を起こしたくないことが足枷になり、足が竦んでしまった。あのニンマリ笑った顔は何だったのだろう。自分を責めた相手を、ただ嘲笑っただけなのだろうか。彼女が出社できない理由に心当たりがあるから、あんな笑い方ができるのだと考えてしまう。でも確証はない。
「やっぱり本人に確認してみます」
ワタシは田村に聞こえないように大石さんに耳打ちし、またポーチからスマホを出した。
「いや。きっと寝てるんだよ。それは体調が良くなって出社してきたら、僕から聞いてみるよ」
ワタシは、そう言う大石さんを立てて、その場は彼の言う通りにした。でも気になって昼休みにLINEで、大丈夫?とだけ入れてみた。だがそれは夕方になっても既読にすらならなかった。
ワタシは気になって、仕事帰りに美幸の家を訪ねることにした。彼女の家には1度泊まったことがある。会社の飲み会で、少し調子に乗って飲み過ぎてしまった時だ。ワタシは実家暮らしで、タクシーで帰っても然程料金はかからないが、女が飲み過ぎて、と父から咎められるのが嫌だったので、一人暮らしの彼女の家にそのまま泊めさせてもらったのだ。
彼女の家の最寄りのバス停で降りた。あの時は夜だったから、まだ明るい時間ということもあり道がわからなくなった。少し迷ったが、彼女の家を見つけることができた。2階建の白いアパートだった。
何号室か忘れていたが、たしか真ん中辺りだったと見当をつけると、205号室に『本多』と表札が出ていた。ホームセンターで揃えた立体型の可愛らしい表札だったので、「こういうポップなやつだと、女の一人暮らしってバレるから、普通の文字の表札にした方がいいよ」と注意したのを覚えている。現在嵌られているのは銀のプレートに黒い文字の渋い表札に変わっていた。余計なことだったのかもしれないが、先輩のアドバイスをちゃんと受け入れられるところが、彼女の良さなのだ。
共有通路側の窓から中の様子を伺う。部屋は電気を点けていないのか暗かった。
インターフォンを押してみたが、返答がない。スーパーかどこかに出掛けているかもしれない。
念のため電話をかけてみた。10コールほど待って様子を伺ったが、やはり出ない。あまりしつこくするのも迷惑かと思い、ワタシは彼女の部屋のドアに背を向けた。歩きながらスマホを切ろうとすると、微かに着信音が聞こえた。その着信音はだんだんと大きくなってくる。振り返ると、ガチャッとドアが開いた。
「サチ先輩」
ドアの隙間から、着信音のするスマホを抱えて美幸が現れた。ワタシと目が合うと、彼女はそのまま膝を着いてドアに挟まれた状態で泣き崩れた。




