浅川 沙千絵
第109話 ワタシたちの実態
いつの間にか、和尚もいた。相変わらず何を考えているかわからない笑顔で、ワタシたちをそっと見つめている。
「お母さん......」
その続きは嗚咽が込み上げて、言葉にならなかった。ありったけの懺悔をグチャグチャな言葉で、ただただ吐いた。くだらない理由で後先考えずに死んでしまったこと。今まで大切に育ててくれたのに命を粗末にしたこと。それからずっとずっと前、子供の頃にお母さんを怒らせてしまったことまで、ありとあらゆることを思いつくままに謝った。どんな理由をつけても言い訳にすらならない。ダメなワタシ。母を悲しませてしまった。
ワタシが謝ってるのに、「気づいてやれなくて、ごめんね」と母の方が謝ってくる。悪いのは、ワタシだ。母が謝ることではない。もう泣きじゃくって、2人して何を言ってるのかわからない。お互い「ごめんね」の言葉しか聞き取れない。母はワタシを優しく抱き寄せて、背中を摩ってくれた。さっき陽夏ちゃんがそうされていたように。
涙も謝罪の言葉も全部出し切ったら、笑いが込み上げてきた。母も濡れた顔を向けて一緒に笑い出した。
「なにが、おかしいのよ」
「わかんない。もう自分がバカ過ぎて、笑えてくる」
「なによ、それ。アンタ、ホント、バカねえ」
辺りが急に薄暗くなり、夕刻を迎えていた。ワタシたちは、どのくらいここで泣いていたのだろう。
ワタシは振り向き、和尚にも話しかけた。
「今まで、ここに置いてくれて、ありがとうございました。やっと気づくことができました」
「フフフ。ワシャ、なんにもしとらんよ」
「美味しいご飯、食べさせてくれました」
「そりゃ、優禅さんがじゃろ」
涼しい風が吹いてきた。
「今日は、ちと寒いなぁ。お母さんもウチで夕食でも食べていかんかね」
和尚が腕を法衣の袖の中に引っ込めて、軽く身震いした。風が夏の終わり、そしてワタシの終わりを知らせてくれている。
「どうじゃね。心残りは、もうないかね」
放課後に先生が、忘れ物はないか、と生徒に確認するようだ。ほとんどの生徒が帰った後。1人寂しい教室に最後まで付き合ってくれている先生。なぜ居残りしていたのかはわからない。先に帰った生徒の名前は、もう忘れてしまった。ワタシと一緒に居残りをしていた生徒が、あと3人くらいいたような気がする。
もう1度確かめてごらんなさい。先生は忘れ物に気がついているわけではない。何もなければ、「忘れている物は何もない」と確認することも必要だ、と。最後には自分で確認することを身につけさせようとしてくれているのだ。
学校の帰りなんて、今生のお別れじゃないんだから。また明日があるんだから。でも、今日をしっかり終えないと、ちゃんとした明日がやってこない。
夕暮れは、そんな空気が漂っている。
忘れ物、やり残したこと......。
「最後に田村課長でも、ぶん殴ってやりたかったかな」
ワタシは最後に冗談を言ってみた。最後に暗いのは、嫌だ。母はワタシの暴言に、「まあ」と素っ頓狂な声をあげて笑った。ついでだから、もう一言、無理難題でも言ってやろう。
「ワタシ。まだ生きてたい」
和尚は困ったような笑顔を浮かべた。
「アナタ、やっぱり欲張りねぇ」
母が笑う。つられてワタシも笑った。それは照れ隠しの笑顔だ。このままだと、ぼやっとしたまま終えてしまう。
咳払いをして、表情を整えた。これはちゃんと伝えなきゃ。
「お母さん。産んでくれてありがとう。元気でね」
「アンタも、元気でね」
死んだ人間に「元気でね」というのも本末転倒な気がするが、母の伝えたいことは痛いほどわかった。無理やりの笑顔でなく、本当の笑顔で別れる。
会社の変なしがらみとか、裏切られた惨めさとか、失恋とか、どうでもいい。母の子供に生まれたことを感謝することなんか、こうならないと気づかなかった。本当は父にも妹にも、お爺ちゃんお婆ちゃんにも感謝の言葉を伝えたい。だけど1番伝えなきゃならないのは、母だ。みんなにも伝えたいと言ったら、きっとまた欲張りと言われてしまう。
体が急に軽くなった。泡のように体が舞う。ワタシの器は、粒子になり細かく分散し、空気と混ざり合う。ワタシは空気になった。空を飛んでるみたいだ。
境内で雲仙さんと優禅さんが、陽夏ちゃんと一緒に空を見上げていた。陽夏ちゃんが手を振っていた。ワタシは手を振り返そうとしたが、ワタシは空気なのだ。それでも気持ちは伝わったようで、陽夏ちゃんは更に大きく手を振ってくれた。
墓地の方では、母と和尚、利休くんが空を見上げて微笑んでくれている。
ワタシはここにいると感じた。
器なんか、さして重要ではない。
ワタシたちには実態がないだけなのだ。




