浅川 沙千絵
第103話 花束
ワタシは跨線橋から飛び降りた。
あれは、東京本社勤務の最終日。ちょっと魔が差しただけだった。
転勤には納得していた。なぜワタシが異動なの。初めはそう思ったが、異動を言い渡されてから、いつも通りの仕事をして、いつも通りの電車に乗り、いつも通りの駅からの帰り道を歩いていた。暗い空の下歩いていて、この日常に縋りつくほどの価値はないと思えた。
静岡の父の実家に帰れば、むかしの友達や大好きなお爺ちゃんお婆ちゃんとも一緒に暮らせる。新しい職場に不安はあった。だけど、静岡に帰ることになんの不満も感じていなかった。むしろ、本社勤めが終わりに近づくにつれ、楽しみになっていたくらいだ。
小中学校の友達に、静岡に戻ることを伝えた。会う段取りまで決めた。実家に戻れることになった時の母の嬉しそうな顔。母は10年近く経った今でも東京の暮らしに慣れない、といつもボヤいていた。スーパーは遠いし、物は高いし。車の運転も車が多いし、道が複雑で車を運転したくない。どこへ行っても人混みで、のんびりできない。
父と母は地元の同級生だから、母の実家も近い。母の方のお爺ちゃんは一昨年亡くなっているので、1人で暮らすお婆ちゃんが心配だったから、静岡に戻ればお婆ちゃんの様子もすぐに伺える。ワタシの転勤は何もかもが好都合だった。
送別会の話もあったのだが適当な理由をつけて断った。「まだ引越しの準備とかやらなきゃならないことがあるので、落ち着いてからにしましょう」「じゃあ落ち着いたら連絡して。みんな浅川さんの都合に合わせるから」「わかりました。また連絡します」そういう社交辞令の中、催されることのない送別会の約束をした。
本社には小早川さんとか、いい人もいた。だけど、あの表面顔だけ仲良くやって、パワハラ、セクハラ、不倫がドロドロとした環境の中、ずっとやっていく自信はない。
もしかしたら新しい職場に馴染めないかもしれない。東京では、仕事の人以外の付き合いがなかった。だから愚痴を溢す相手なんかいなかった。他の同僚の愚痴を聞いてあげることは多かった。ワタシは、中立の立場を取り繕って聞き役に徹していた。年数が経つにつれて後輩ができ、相談という名の愚痴を聞かされることは益々増えていった。ワタシは、みんなに分け隔てなく、人当たりの良い人間を演じていた。ワタシはそんな関係に辟易していた。ワタシの方が他の人を拒絶していたのだ。
でも地元に戻れば、気心知れた友達がいる。会社の愚痴だって聞いてもらえる。気を抜く場所がある。そう考えると本社に残るよりも、ずっといい環境だ。だから早く地元に帰りたかった。ほんの少しの辛抱だった。
べつに何かあったわけじゃない。
本社勤務最後の日。美幸から受け取った花束は、すごく重かった。溜まっていた鬱憤や嘘が塊になった重さだった。今まで感じないように、気にしないようにしていた。それが重くワタシの手に伸し掛かってきたのだ。
たぶん、ワタシは大石課長のことが好きだったのだ。それは憧れに等しい。付き合いたいとか、そういうのではなくて、アイドルやアーティストに憧れているのに近い。たとえ既婚者であっても、その人の奥さんに嫉妬するわけでもない。それも含めて、幸せな家庭を持つ大石課長に憧れていたのだ。
少し八方美人のところがあるけれど、誰にだって優しくしている大石さんだけど、他の人と比べてほんの少しだけワタシのことを贔屓してくれていると勝手に思い込んでいた。それはワタシの勘違いだ。
それを美幸が奪った。大石さんはワタシのモノじゃないけど。家族を、そして奥さんを大事にしている大石さんは、ワタシの中の幻想だった。美幸がワタシを慕ってくれる後輩だということも幻想。和気藹々とみんなと上手く仕事していた自分も、淡々と書類を纏める仕事が向いているということも、全部、ぜんぶ、幻想だった。
大石さんや美幸を恨む気持ちは、これっぽっちもない。よく考えたら、ワタシが勝手に信じてただけだった。2人に何かされたわけでもない。ワタシの知らないところで、2人が不倫していただけの話だ。これで2人を恨んだら、ただの逆恨みだ。面倒事を避けて生きてきたつもりだったのに、自ら首を突っ込んで、勝手に嫌な思いをしただけだ。そんな自分が嫌になった。
いつも通りの電車に乗り、いつも通りの駅で降りた。自宅に向かうために、いつも通る跨線橋にあがった。この《《いつも通り》》が凄く嫌だと思った。この《《いつも通り》》を壊したくなった。
会社のみんなにもらった花束を、金網のフェンスの向こうに放り投げた。赤や黄色、紫の花びらが散った。綺麗だった。ワタシも吸い込まれるようにフェンスをよじ登った。




