第9話 夜明けの森(シオン視点)
一晩が、これほど長いと思ったことはなかった。
日没の鐘とともに森へ消えていったリディアの背中を、俺は森の外の草地から見送った。
試練の最中、当主は花嫁を助けてはならない。
分かっている。この掟だけは、破れば試練そのものが無効になる。リディアがここまで積み上げてきた四つの試練が、すべて水の泡になる。
だから俺は、森の外で待つことしかできなかった。
異変に気づいたのは、日没から一刻ほど経った頃だった。
森の霧の匂いが、変わった。
俺たち狐の術でかける霧には、術者ごとに微かな匂いがある。試練の霧をかけるのは代々の立会人の役目で、今は大叔母上だ。
その霧に、別の匂いが混じっていた。
霧が、濃くなっている。本来の試練よりも、ずっと。
「トビアス」
「……はい。私も、今」
背後で控えていたトビアスが、低い声で応じた。
俺は森の入口へ一歩踏み出しかけて、トビアスに腕をつかまれた。
「なりません、旦那さま」
「霧に細工がされている。道しるべも、おそらく動かされている」
「存じております。ですが、旦那さまが森に入れば、その時点で試練は無効になります」
「試練などどうでもいい!」
声を荒らげたのは、何年ぶりだろう。
トビアスは、俺の腕を離さなかった。
「リディアさまは、どうでもいいとは思っておられません」
「……っ」
「旦那さまが今森に入れば、リディアさまの四つの試練は無駄になります。あの方は、それを望まれますか」
俺は、何も言えなかった。
狐火の輪の中で、「最後まで逃げません」と言ったリディア。
声を出せない三日間、唇を噛んで侍女を守ったリディア。
あの娘は、俺に守られることを望んでいない。
自分の足で、ここに立とうとしている。
夜が更けるにつれて、冷気は厳しさを増した。
草地には霜が降り、俺の髪も上着も、白く凍りついていった。それでも、屋敷へ戻る気にはなれなかった。
森の奥から、かすかに人の匂いがする。
リディアの匂いだ。まだ、生きている。まだ、歩いている。
その匂いが、ゆっくりと、けれど確かに、出口へ向かって近づいてきていた。白い石の道しるべとは違う道を、まっすぐに。
「……古い道を、辿っておられるのかもしれません」
トビアスが、ぽつりと呟いた。
「古い道?」
「初代さまの花嫁が、森で迷う者のために刻ませたという道しるべが、古木の幹に残っていると聞いたことがございます。古語で書かれているため、今では読める者もほとんどおりませんが」
古語。
リディアは、少しだけ古語が読める。
――母上が、教えたのだ。
あの丘の墓の前で、少女が言っていた。教わった古い文字を、ひとつ思い出せなくて困っている、と。
母上が教えた文字が、今、リディアを導いている。
俺は、凍える手を強く握りしめた。
空が白み始めた頃、霧の向こうに小さな灯りが揺れた。
足を引きずりながら、リディアが森から転がり出てきた。
気づいたときには、もう駆け出していた。名前を呼んでいた。抱きしめていた。
腕の中のリディアは、冷え切っていて、泥だらけで、足首を腫らしていた。
それなのに、俺を見上げて、「ただいま戻りました」と言おうとした。
――ただいま。
この屋敷で、誰かにそんなふうに言われたのは、母上がいなくなってから初めてだった。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
十三年かけて積み上げてきたものが、一晩で。
認めるしかなかった。
俺はもう、この娘を村へ帰したくない。
墓の花の礼などではない。母上の代わりでもない。
ただ、リディアという娘に、ここにいてほしいのだ。
リディアを部屋へ運び、医師に預けたあと、俺は大叔母上の部屋の扉を叩いた。
「霧に、細工がありましたね」
大叔母上は、窓辺で扇を広げたまま振り向かなかった。
「さあ、何のことかしら。人間の娘が、勝手に迷っただけでしょう」
「道しるべの石も、動かされていた」
「証拠でもあるの?」
扇の向こうで、細い目が笑っている。
証拠はない。霧の匂いは、すでに朝の風に散っていた。
「次に何かあれば、大叔母上でも容赦はしません」
「まあ、怖い。……ねえ、シオン」
部屋を出ようとした俺の背中に、大叔母上の声が絡みついた。
「あの娘、あなたのお母様に似ているわね。まっすぐで、強情で、身の程を知らない」
「……何が言いたいのです」
「別に。ただ、あなたのお母様も、八つ目までは越えたのよ」
扇が、ぱちりと閉じられた。
「八つ目までは、ね」
振り向いたとき、大叔母上は穏やかに微笑んでいた。
十三年前、母上がいなくなった朝、俺の頭を撫でたときと、同じ顔で。
背筋を、冷たいものが走った。
――母上は、本当に自分の意思で、この屋敷を出たのか。
十三年間、一度も疑わなかったことを、俺は初めて疑った。




