↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白銀の狐公爵様に「誰でもよかった」と求婚されたので九つの試練に挑んだら、過保護すぎて試練になりません  作者: フトダマノミコト


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/17

第9話 夜明けの森(シオン視点)

 一晩が、これほど長いと思ったことはなかった。


 日没の鐘とともに森へ消えていったリディアの背中を、俺は森の外の草地から見送った。


 試練の最中、当主は花嫁を助けてはならない。


 分かっている。この掟だけは、破れば試練そのものが無効になる。リディアがここまで積み上げてきた四つの試練が、すべて水の泡になる。


 だから俺は、森の外で待つことしかできなかった。




 異変に気づいたのは、日没から一刻ほど経った頃だった。


 森の霧の匂いが、変わった。


 俺たち狐の術でかける霧には、術者ごとに微かな匂いがある。試練の霧をかけるのは代々の立会人の役目で、今は大叔母上だ。


 その霧に、別の匂いが混じっていた。


 霧が、濃くなっている。本来の試練よりも、ずっと。



「トビアス」



「……はい。私も、今」



 背後で控えていたトビアスが、低い声で応じた。


 俺は森の入口へ一歩踏み出しかけて、トビアスに腕をつかまれた。



「なりません、旦那さま」



「霧に細工がされている。道しるべも、おそらく動かされている」



「存じております。ですが、旦那さまが森に入れば、その時点で試練は無効になります」



「試練などどうでもいい!」



 声を荒らげたのは、何年ぶりだろう。


 トビアスは、俺の腕を離さなかった。



「リディアさまは、どうでもいいとは思っておられません」



「……っ」



「旦那さまが今森に入れば、リディアさまの四つの試練は無駄になります。あの方は、それを望まれますか」



 俺は、何も言えなかった。


 狐火の輪の中で、「最後まで逃げません」と言ったリディア。


 声を出せない三日間、唇を噛んで侍女を守ったリディア。


 あの娘は、俺に守られることを望んでいない。


 自分の足で、ここに立とうとしている。




 夜が更けるにつれて、冷気は厳しさを増した。


 草地には霜が降り、俺の髪も上着も、白く凍りついていった。それでも、屋敷へ戻る気にはなれなかった。


 森の奥から、かすかに人の匂いがする。


 リディアの匂いだ。まだ、生きている。まだ、歩いている。


 その匂いが、ゆっくりと、けれど確かに、出口へ向かって近づいてきていた。白い石の道しるべとは違う道を、まっすぐに。



「……古い道を、辿っておられるのかもしれません」



 トビアスが、ぽつりと呟いた。



「古い道?」



「初代さまの花嫁が、森で迷う者のために刻ませたという道しるべが、古木の幹に残っていると聞いたことがございます。古語で書かれているため、今では読める者もほとんどおりませんが」



 古語。


 リディアは、少しだけ古語が読める。


 ――母上が、教えたのだ。


 あの丘の墓の前で、少女が言っていた。教わった古い文字を、ひとつ思い出せなくて困っている、と。


 母上が教えた文字が、今、リディアを導いている。


 俺は、凍える手を強く握りしめた。




 空が白み始めた頃、霧の向こうに小さな灯りが揺れた。


 足を引きずりながら、リディアが森から転がり出てきた。


 気づいたときには、もう駆け出していた。名前を呼んでいた。抱きしめていた。


 腕の中のリディアは、冷え切っていて、泥だらけで、足首を腫らしていた。


 それなのに、俺を見上げて、「ただいま戻りました」と言おうとした。


 ――ただいま。


 この屋敷で、誰かにそんなふうに言われたのは、母上がいなくなってから初めてだった。


 胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


 十三年かけて積み上げてきたものが、一晩で。


 認めるしかなかった。


 俺はもう、この娘を村へ帰したくない。


 墓の花の礼などではない。母上の代わりでもない。


 ただ、リディアという娘に、ここにいてほしいのだ。




 リディアを部屋へ運び、医師に預けたあと、俺は大叔母上の部屋の扉を叩いた。



「霧に、細工がありましたね」



 大叔母上は、窓辺で扇を広げたまま振り向かなかった。



「さあ、何のことかしら。人間の娘が、勝手に迷っただけでしょう」



「道しるべの石も、動かされていた」



「証拠でもあるの?」



 扇の向こうで、細い目が笑っている。


 証拠はない。霧の匂いは、すでに朝の風に散っていた。



「次に何かあれば、大叔母上でも容赦はしません」



「まあ、怖い。……ねえ、シオン」



 部屋を出ようとした俺の背中に、大叔母上の声が絡みついた。



「あの娘、あなたのお母様に似ているわね。まっすぐで、強情で、身の程を知らない」



「……何が言いたいのです」



「別に。ただ、あなたのお母様も、八つ目までは越えたのよ」



 扇が、ぱちりと閉じられた。



「八つ目までは、ね」



 振り向いたとき、大叔母上は穏やかに微笑んでいた。


 十三年前、母上がいなくなった朝、俺の頭を撫でたときと、同じ顔で。


 背筋を、冷たいものが走った。


 ――母上は、本当に自分の意思で、この屋敷を出たのか。


 十三年間、一度も疑わなかったことを、俺は初めて疑った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。