第8話 第五の試練「迷い森」
第五の試練の朝は、ひどく冷えた。
「『迷い森』は、屋敷の北に広がる森へ、日没とともにひとりで入っていただく試練です。夜明けの鐘が鳴るまでに、森の外へ戻ってきていただければ通過となります」
トビアスさんの声は、いつもより硬かった。
「森には、狐の術で霧がかけられております。道しるべの白い石を辿れば、必ず出口に着くようになっておりますが……」
言いよどんだトビアスさんの代わりに、ベアトリクス様が口を開いた。
「戻れなかった者は、夜明けとともに捜しに入るわ。毎年、何人か凍えかけて見つかるのよ。死んだ者は、まだいないけれど」
まだ、という言葉が、妙に耳に残った。
日没の鐘とともに、私は森へ足を踏み入れた。
手には小さなランタンがひとつ。肩には、ネルが無理やり持たせてくれた厚手の外套。
森の入口で振り返ると、公爵様が立っていた。
何か言いたそうに口を開きかけて、けれど結局、何も言わずに唇を閉じる。
試練の最中、公爵様は花嫁を助けてはならない。それが掟だった。
「行ってまいります」
頭を下げると、公爵様の耳が、ぴくりと動いた。
霧は、森に入ってすぐに濃くなった。
ランタンの灯りが、白い壁に吸い込まれていく。足元すら、ぼんやりとしか見えない。
それでも最初のうちは、道しるべの白い石を見つけることができた。膝ほどの高さの白い石が、一定の間隔で道の脇に置かれている。それを辿って、私は慎重に歩いた。
異変に気づいたのは、一刻ほど歩いた頃だった。
(……この倒木、さっきも見た)
苔むした倒木。その脇の、二股に分かれた木。
同じ場所を、ぐるぐる回っている。
白い石は、確かに道の脇にある。それを辿っているはずなのに、出口に近づくどころか、同じ場所へ戻ってきてしまう。
私は、足元の白い石にしゃがみ込んだ。
石の下の土が、新しい。
誰かが、ついさっき動かしたのだ。
(……道しるべを、入れ替えられた)
背筋が冷たくなった。
霧はますます濃くなり、夜の冷気が外套の上からしみ込んでくる。ランタンの油は、朝まではもたない。
落ち着いて。
自分に言い聞かせる。マリーさんは言っていた。山で迷ったら、まず動かないこと。それから、空と木をよく見ること。
霧で空は見えない。
なら、木を見るしかない。
私はランタンを掲げて、周りの木々を一本ずつ照らしていった。
そして、太い古木の幹に、それを見つけた。
苔に半ば隠れた、古い刻み跡。
ただの傷ではない。形のある、文字だ。
「……『こちら』」
マリーさんに教わった、古い文字だった。
古木の幹に刻まれた、矢印のような印と、「こちら」という古語。何十年、いや、もっと昔に刻まれたものだろう。
白い石の道しるべとは、まったく違う方向を指している。
迷ったのは一瞬だった。
白い石は、誰かに動かされている。でも、この古い刻み跡は、何十年も前からここにある。動かしようがない。
私は、古い文字を信じることにした。
刻み跡は、森の奥へと点々と続いていた。
ひとつ見つけるたびに、次を探す。苔を払い、霧の中で目を凝らし、指でなぞって形を確かめる。
途中、ぬかるみに足を取られて転んだ。右の足首に、嫌な痛みが走る。
(大丈夫。歩ける)
歯を食いしばって立ち上がる。
何十本目かの古木に、少し違う文字が刻まれていた。
「……『帰る場所は、すぐそこ』」
声に出して読んだ瞬間、なぜか涙がこぼれそうになった。
その文字の形を、私は知っていた。
マリーさんが、いちばん最初に教えてくれた言葉だったから。
――リディア。この字は「帰る場所」。誰にでも、きっとあるものよ。
あの日のマリーさんの声が、霧の向こうから聞こえた気がした。
霧が、少しずつ薄くなっていく。
木々の隙間から、白み始めた空が見えた。
足を引きずりながら最後の木立を抜けたとき、遠くで夜明けの鐘が鳴り始めた。
一つ。二つ。
森の外の草地に、私は転がり出た。
三つ目の鐘が鳴り終わるより早く、白銀の影が駆け寄ってきた。
「リディア!」
初めて、名前を呼ばれた。
公爵様の髪は夜露でしっとりと濡れ、上着の肩は霜で白くなっていた。一晩中、ここで待っていたのだと、それだけで分かった。
「公爵、さま……ただいま戻り――」
言い終わる前に、強く抱きしめられた。
息ができないくらい、強く。
公爵様の体は、ひどく冷えていた。それなのに、私を包む腕は震えていた。寒さのせいではないと、なぜか分かった。
「足を、怪我しているな」
「少し、転んで……でも、歩けます」
「歩かなくていい」
次の瞬間、私の体はふわりと宙に浮いていた。
横抱きにされたのだと気づいて、顔が一気に熱くなる。
「こ、公爵様! 自分で歩けますから……!」
「黙っていろ」
公爵様は、私を抱えたまま屋敷のほうへ歩き出した。
その肩越しに、ベアトリクス様の姿が見えた。扇を握りしめたまま、まるで幽霊でも見たかのような顔で、私を――いいえ、私が出てきた森を見つめていた。
「第五の試練、通過でございます」
トビアスさんの声が、朝の空気に響いた。




