第10話 第六の試練「鏡」
足首の腫れが引くまでに、五日かかった。
そのあいだ、公爵様は毎日のように部屋を訪れた。といっても、扉の前で「具合はどうだ」と聞き、「大丈夫です」と答えると「そうか」と言って去っていくだけだ。
「旦那さま、一日に三回も来てましたよ。朝と、昼と、夜と」
ネルが指を三本立てて、くすくす笑った。
「三回とも、同じことを聞いて帰っていくんです」
「……そうなの?」
森の外で抱きしめられたときの、震える腕を思い出す。
頬が熱くなって、私は慌てて毛布を引き上げた。
第六の試練は、屋敷の地下にある小さな部屋で行われた。
部屋の中央に、背の高い姿見がひとつ。枠には狐の彫刻が施され、鏡面は水面のように、かすかに揺らいでいる。
「『鏡』の試練でございます」
トビアスさんが、静かに告げた。
「この狐の鏡は、覗き込んだ者の、いちばん弱い記憶を映し出します。最後まで目をそらさずに見届けることができれば、通過です」
「目をそらしたら……」
「その時点で、鏡は曇ります」
いちばん弱い記憶。
それが何なのか、私には分かっていた。
「始めなさい」
ベアトリクス様の声に促されて、私は鏡の前に立った。
揺らいでいた鏡面が、ゆっくりと澄んでいく。
映ったのは、川べりの小さな小屋だった。
冬の夕暮れ。粗末な寝台に、マリーさんが横たわっている。
頬はこけ、唇は乾き、熱に浮かされた目はぼんやりと天井を見ていた。
枕元には、九つの私がいる。マリーさんの手を、両手でぎゅっと握りしめている。
(……やめて)
分かっている。この先に何が起こるのか。
鏡の中のマリーさんが、かすかに唇を動かした。
「……シオン」
知らない名前だった。九つの私には。
「シオン……ごめんね。ごめんね……」
マリーさんは、何度もその名前を呼んでいた。熱にうなされて、私ではない誰かに、ひたすら謝り続けていた。
「マリーさん、誰のこと? シオンって、誰?」
鏡の中の私が、泣きながら尋ねる。
マリーさんは、ゆっくりと私のほうを見た。焦点の合わない瞳で、それでも、確かに私を見た。
「リディア……お願い。あの子に、伝えて……」
「うん。伝える。なんて伝えればいいの?」
「あの子に……」
それきりだった。
マリーさんの手から、ゆっくりと力が抜けていった。
――何を伝えればよかったのか。
十年間、ずっと分からなかった。分からないまま、ただ花を植え続けることしかできなかった。
約束したのに。伝えると、言ったのに。
それが、私のいちばん弱い記憶だった。
目の奥が焼けるように熱い。鏡から顔を背けたくて、たまらなかった。
けれど、私は目をそらさなかった。
なぜなら、鏡の中のマリーさんの顔を、今、初めてはっきりと見た気がしたからだ。
熱に浮かされて、子どもの名前を呼び続ける母親の顔。
その瞳の色は、溶かした金のようだった。
――シオン。
白銀の髪の、金色の瞳の。
鏡が、ゆっくりと曇っていく。曇ったのは、私が目をそらしたからではない。記憶が終わったからだ。
「……第六の試練、通過でございます」
トビアスさんの声が、遠くに聞こえた。
地下の部屋を出ると、階段の上に公爵様が立っていた。
試練の内容が気になって、待っていてくれたのだろう。私の顔を見て、金色の瞳がわずかに見開かれる。
「泣いているのか。……何を見た」
私は階段を上り、公爵様の前に立った。
近くで見ると、本当にそっくりだった。目の形も、まつげの長さも、困ったときに少しだけ下がる眉も。
どうして今まで、気づかなかったのだろう。
「公爵様。お聞きしてもいいですか」
「……なんだ」
「国境の村で亡くなった、マリーさんという女の人は……公爵様の、お母様ですか?」
公爵様の耳が、ぴたりと止まった。
尻尾も、呼吸も、何もかもが止まったように見えた。
長い沈黙のあと、公爵様は目を伏せた。
「……ああ」
低い、かすれた声だった。
「マリアンヌ・アルジェント。俺の母だ」
マリアンヌ。マリーさんの、本当の名前。
「おまえが十年間、墓を守ってくれていたことも、知っていた」
毎年、秋になると供えられていた月影草の花束。銀色のリボン。
あれは、この人だったのだ。
「……だから、私を選んだんですか」
公爵様は答えなかった。
答えないことが、答えだった。




