第11話 第七の試練「系譜」
その夜、私は眠れなかった。
マリーさんが、公爵様のお母様だった。
この屋敷を出て、国境の村へ来て、川べりの小屋で三年を過ごして、亡くなった。最期まで、息子の名前を呼びながら。
――あの子に、伝えて。
何を伝えたかったのか。どうして、息子を置いて屋敷を出たのか。
知りたかった。マリーさんのためにも、公爵様のためにも。
「第七の試練『系譜』は、書庫にて行われます」
翌朝、トビアスさんはいつもより静かな声で告げた。
「書庫に収められた一族の系譜を、ご自分の力で読み解いていただきます。日没までに、初代さまから当代さままで、すべての当主と花嫁の名を書き出せれば通過です」
「系譜は、古語で書かれているのですね」
「はい。それも、現在ではほとんど使われていない、古い書体で」
トビアスさんの視線が、ちらりと私を見た。
人間の花嫁にとって、この試練は本来、とても難しいものなのだろう。古語が読めなければ、書庫に一日こもっても、ひとつも名前を書き出せない。
けれど、私には読める。
マリーさんが、教えてくれたから。
書庫の奥、鍵のかかった書架に、系譜の巻物と革表紙の本が何冊も並んでいた。
初代当主の名から順に、指でなぞりながら読んでいく。古い書体はところどころ崩れていて、ひとつの名前を読むのに何度も首をひねった。それでも昼を過ぎる頃には、紙の上に二十人ほどの名前が並んでいた。
そして、最後の一冊を開いたとき。
「……あった」
当代当主、シオン・アルジェント。
その父、先代当主の名。そして、その隣に記された花嫁の名。
マリアンヌ。
名の下には、短い一文が添えられていた。
――第八の試練の後、出奔。
たった一行だった。
十三年の空白と、国境の村での三年間と、ひとりきりの最期が、たった一行。
唇を噛んで頁をめくろうとしたとき、指先に違和感があった。
革表紙の裏側。内張りの紙が、わずかに浮いている。
そっと端をめくると、薄い紙の束が挟み込まれていた。
びっしりと、細かい古語の文字で埋め尽くされている。
見覚えのある筆跡だった。川べりの小屋で、私に文字を教えてくれたときの、あの丸みのある字。
「マリーさんの……字だ」
それは、マリーさんの手記だった。
日付は、十三年前の秋。第八の試練が終わった夜。
――この手記を、いつか誰かが見つけてくれることを祈って、系譜の裏に隠します。古い文字で書くのは、あの人に読まれないためです。
――今日、第八の試練を越えました。あと一つで、私は本当にこの家の花嫁になれる。
――けれど、試練の後、ベアトリクス様に呼ばれました。
そこから先の文字は、少し乱れていた。
――ベアトリクス様は、夫からの手紙を私に見せました。「おまえがいると、一族がまとまらない。シオンのためにも、身を引いてほしい」と。夫の筆跡によく似た字でした。
――それから、ベアトリクス様はこう言いました。九つ目の試練を越えるなら、それでも構わない。けれど、人間の血を引くシオンを当主と認めない者は、一族に大勢いる。あの子が無事に大人になれるかどうかは、わたくしにも分からない、と。
――あれは、脅しでした。
――夫に確かめたかった。でも、夫は試練の慣例で、あと三日は私と会えない。その三日のあいだに、シオンに何かあったらと思うと、私は怖くて仕方がありませんでした。
――私がいなくなれば、あの子は「人間の母に捨てられた子」になる。でも、一族の者たちは、あの子を憐れみこそすれ、害しはしないでしょう。
――だから、出ていきます。
――シオン。あなたを置いていく母を、許さなくていい。ただ、あなたが生きていてくれれば、それでいい。
最後の頁の文字は、滲んでいた。
――九つ目の試練について、初代さまの花嫁の記録を見つけました。あれは、花嫁を試すものではありません。本当は――
そこで、手記は途切れていた。続きの頁は、破り取られたように失われている。
私は手記を胸に抱いて、しばらく動けなかった。
マリーさんは、逃げたのではなかった。
息子を守るために、自分から消えたのだ。
――あの子に、伝えて。
ようやく、分かった気がした。マリーさんが最期に伝えたかったことは、きっと、この手記に書かれていることだ。
日没の少し前。
私は系譜を写した紙をトビアスさんに差し出し、それから、手記の束を両手で持って、書庫の入口に立つ公爵様の前へ歩いていった。
「公爵様。マリーさんから……お母様から、伝言を預かっていました」
「……伝言?」
「十年かかってしまって、ごめんなさい」
手記を受け取った公爵様は、最初の一行を読んで、息をのんだ。
古語の、丸みのある字。
頁をめくる指が、少しずつ震え始める。
トビアスさんが、何も言わずに書庫の扉を閉め、私と公爵様だけを残して出ていった。
公爵様は、最後の頁まで読み終えると、手記を胸に抱いたまま、その場に膝をついた。
白銀の耳が、力なく伏せられている。
声は聞こえなかった。
ただ、広い背中が、小さく震えていた。
私はそっと隣に膝をつき、その背中に手を添えた。
十三年分の涙を、この人はいま、ようやく流しているのだ。




