第12話 狐火のない場所で
どれくらい、そうしていただろう。
書庫の窓の外は、すっかり暗くなっていた。
公爵様は手記を胸に抱いたまま、ゆっくりと顔を上げた。目元は赤く、けれど、その金色の瞳は、どこか憑き物が落ちたように澄んでいた。
「……ずっと、母上を恨んでいた」
ぽつりと、公爵様が言った。
「俺を捨てて逃げた人だと。そう思わなければ、立っていられなかった」
「はい」
「母上の墓の前で、楽しそうに話しかけている少女を見たとき……悔しかった。俺の知らない母上を、この子は知っているのだと」
私は黙って、続きを待った。
「それから毎年、丘へ通った。おまえが花を植えて、墓に話しかけているのを、木の陰から見ていた」
「声を、かけてくださればよかったのに」
「かけられるわけがない」
公爵様は、自嘲するように小さく笑った。
「母上を独りで死なせた一族の当主が、どんな顔をして名乗り出ればいい」
公爵様は手記に視線を落とした。
「だから求婚という形にした。人間の娘なら、試練は越えられない。辞退させて、支度金と橋の修繕費を持たせて村へ帰す。……それが、俺にできる精一杯の礼だった」
「では、『誰でもよかった』というのは」
「嘘だ」
公爵様は、まっすぐに私を見た。
「狐火があれば、真っ赤に燃えていただろうな」
思わず、笑ってしまった。
笑いながら、なぜだか涙がこぼれた。
「ひどいです。あのとき、ちょっと傷ついたんですよ」
「……すまない」
白銀の耳が、しゅんと伏せられる。
その様子が、叱られたネルにそっくりで、私はまた笑ってしまった。
「リディア」
公爵様が、私の名前を呼んだ。
森の外で呼ばれたときよりも、ずっと静かで、ずっと優しい声だった。
「最初は、礼のつもりだった。だが、今は違う」
「……公爵様」
「シオンでいい」
金色の瞳が、すぐ近くにあった。
「狐火の中で、嘘をつかずに『まだ分からない』と言ったおまえを見たときから、ずっと目が離せなかった。声を出せない三日間、侍女を守ろうとするおまえを見て、母上の目と同じだと思った。森から戻ってきて、『ただいま』と言いかけたおまえを見て……」
言葉が途切れる。
公爵様――シオン様は、手記をそっと脇に置き、私の手を取った。
「もう、村へ帰したくないと思った」
大きな手だった。少しひんやりとしていて、けれど、私の手を包む力は、森の外で抱きしめられたときと同じように、震えていた。
「残りの試練は、二つ。……八つ目で、母上はいなくなった。おまえまで同じ目に遭わせたくない。だから、もし辞退したいなら――」
「しません」
シオン様の言葉を、私は遮った。
「辞退は、しません。マリーさんが越えられなかった八つ目も、誰も知らない九つ目も、全部越えます」
「リディア……」
「だって私、まだ、シオン様のことを愛しているかどうか、ちゃんと答えられていないんです」
狐火の輪の中で、「いいえ」と答えた、あの日。
今ならきっと、違う答えを言える。
でも、それは九つの試練をすべて越えてから、ちゃんと伝えたかった。
シオン様は一瞬目を見開き、それから、困ったように眉を下げた。マリーさんにそっくりな、あの眉の下げ方で。
「……強情だな」
「マリーさんに似たんだと思います」
「そうだろうな」
シオン様が、初めて笑った。
ほんの少しだけ、口の端を持ち上げるような、不器用な笑みだった。
書庫を出ると、廊下の暗がりに、赤い人影が立っていた。
カトリーネ様だった。
いつもの華やかなドレスではなく、地味な外套をまとっている。赤い耳は伏せられ、尻尾は力なく垂れていた。
「……話があるの」
カトリーネ様は、私ではなく、シオン様を見て言った。
「ブローチのこと。道しるべの石のこと。……全部、大叔母様に言われてやったわ」
「カトリーネ様……」
「でも、霧を濃くしたのは、わたくしじゃない。わたくしは、石を動かすだけだと聞いていたの。あんな霧、人間が一晩いたら死んでしまうかもしれないじゃない」
カトリーネ様の声が震えていた。
「わたくしはシオン様の花嫁になりたかった。だから、人間の娘に恥をかかせて、追い返せばいいと思っていたの。でも、死んでほしいなんて、思っていなかった」
カトリーネ様は、ぎゅっと外套の裾を握りしめた。
「大叔母様は、八つ目の試練で、また何かするつもりよ。十三年前と同じやり方で、って言っていたわ」
十三年前と同じやり方。
偽の手紙と、脅し。
私とシオン様は、顔を見合わせた。




