第13話 第八の試練「別離」
「第八の試練『別離』は、七日のあいだ、当主さまと一度も顔を合わせずにお過ごしいただくものです」
トビアスさんの声には、隠しきれない緊張がにじんでいた。
十三年前、マリーさんが越え、そして越えた直後にいなくなった試練。
「顔を合わせなければいい、のですね」
「はい。声を交わすこと、手紙をやりとりすることは構いません。ただ、お互いの姿を目にした時点で、試練は終わりとなります」
七日間、シオン様に会えない。
つい数日前までは、なんとも思わなかったはずのことが、今はひどく長く感じられた。
一日目。
朝、部屋の扉の前に、月影草が一輪置かれていた。添えられたカードには、短い一文。
『足は痛まないか』
見慣れた、角ばった字。シオン様の字だ。
私は返事を書いて、ネルに託した。
『もう痛みません。シオン様こそ、ちゃんと眠ってください』
二日目の朝も、月影草とカード。
『眠っている』
――ネルによると、昨夜は書庫の明かりが朝までついていたそうだ。
三日目のカードは、少し長かった。
『母上の手記を、毎晚読み返している。おまえが教わった字と、母上の字が同じなのが、不思議な気がする』
四日目。
『会いたい』
たった一言だった。
カードを持つ手が、熱くなった。
五日目の夜、窓を叩く音がした。
こつ、こつ。
カーテン越しに窓の外を見ようとして、私は慌てて手を止めた。
もし、外にいるのがシオン様だったら。姿を見た時点で、試練は終わってしまう。
私はカーテンに背を向けて、窓に向かって小声で言った。
「……シオン様、ですか?」
返事はなかった。代わりに、窓の外で、何か柔らかいものが绘子をこする音がする。
まさか、と思った。
「シオン様。もしかして、狐の姿になっていらっしゃいます?」
こつ、と一度だけ窓が鳴った。
――はい、ということらしい。
「狐の姿でも、シオン様はシオン様です。見たら、試練は終わってしまいますよ」
こつこつと、少し不満そうに窓が鳴る。
私は、とうとう声を立てて笑ってしまった。
そして、カーテンに背中をもたれかけて、窓の向こうの小さな気配に話しかけた。今日ネルと庭で見つけた花のこと。料理長がこっそり焦き菓子の作り方を聞きに来たこと。カトリーネ様が、ぶらされたように「おはよう」と言ってくれたこと。
窓の外の狐は、ときどき、こつ、と相槌を打った。
その夜、私はカーテンにもたれたまま眠ってしまった。目が覚めると、窓の外の気配はもうなかったけれど、窓枠に白銀の毛が一本、引っかかっていた。
六日目の夜。
部屋の扉が、静かに叩かれた。
入ってきたのは、ベアトリクス様だった。
「お休みのところ、ごめんなさいね。シオンから、あなたに手紙を預かってきたの」
差し出された封筒には、銀の封蠟。
開くと、角ばった字で、こう書かれていた。
『おまえがいると、一族がまとまらない。明朝、夜明け前に馬車を用意する。村へ帰ってくれ。
なお、子爵家への約束は、すべて取り消す』
シオン様の字によく似た字だった。
でも。
「ねえ、リディアさん」
ベアトリクス様は、扇で口元を隠したまま、優しく言った。
「シオンは、人間の血を引いているでしょう。それを快く思わない者は、一族に大勢いの。あなたが九つ目を越えて花嫁になれば、あの子の立場はますます危うくなる。……あの子に何かあっても、わたくしには守りきれないかもしれないわ」
十三年前と、同じやり方。
マリーさんの手記に書かれていた言葉と、ほとんど同じだった。
私は手紙をたたみ、まっすぐにベアトリクス様を見た。
「この手紙は、シオン様が書いたものではありません」
「……なんですって?」
「シオン様は、手紙に『試練の結果にかかわらず』橋を直すと書いてくださいました。たとえ私に帰れと言うことがあっても、村との約束を取り消したりはしません。そういう方です」
それに、と私は続けた。
「シオン様は、毎朝カードをくださいます。いつも一行か二行だけです。こんなに長い手紙、シオン様には書けません」
扇の向こうで、ベアトリクス様の目が凍りついた。
「それから、シオン様のことでしたら、ご心配には及びません」
私は窓のほうを見た。昨夜、白銀の毛が一本、引っかかっていた窓枠を。
「あの方は、とても強いです。……それに、私がそばにいますから」
ベアトリクス様は、しばらく黙って私を見つめていた。
やがて、扇をぱちりと閉じ、何も言わずに部屋を出ていった。
七日目の日没の鐘が鳴った。
「第八の試練、通過でございます」
トビアスさんの声と同時に、廊下を駆けてくる足音が聞こえた。
扉が勢いよく開く。
白銀の髪を乱したシオン様が、息を切らせて立っていた。
「リディア」
「……シオン様。お久しぶりです」
七日ぶりに見るシオン様は、目の下にうっすら隐を作っていて、それでも、どこか安心したような顔をしていた。
シオン様は大股で部屋を横切り、私を強く抱きしめた。
「大叔母上が、夜に部屋を訪ねたと聞いた」
「はい。偽物の手紙を、いただきました」
「……母上のときと、同じか」
「同じでした。でも、私は帰りません」
腕の中で顔を上げると、シオン様の金色の瞳が、すぐそこにあった。
「九つ目、越えますから」
シオン様は何か言いかけて、それから、ただ黙って、私の額に自分の額を押し当てた。
その夜、トビアスさんが、古びた小箱を私の部屋へ運んできた。
漆黒の木箱に、九本の尾を持つ狐の紋章。蓋には、古語でこう刻まれていた。
――第九の試練。この箱は、花嫁の手によってのみ開かれる。




