第14話 第九の試練
漆黒の小箱は、ずしりと重かった。
蓋に手をかけると、九本の尾の紋章がほのかに銀色に光り、かちりと小さな音を立てて錠が外れた。
シオン様とトビアスさんが、息を詰めて見守っている。
箱の中に入っていたのは、古びた羊皮紙が一枚だけだった。
びっしりと、古い古語で文字が書かれている。系譜よりもさらに古い書体だったけれど、時間をかければ、なんとか読めた。
「……『この箱を開けた花嫁へ』」
声に出して読み始める。
――私の名は、エーファ。人間の娘で、アルジェントの初代当主の妻です。
――私が嫁いだとき、一族の誰も、人間の花嫁を認めてはくれませんでした。夫は一族を説き伏せようとしましたが、力で黙らせても、心までは従わせられません。
――だから私は、九つの試練を作りました。
シオン様が、小さく息をのんだ。
「試練を作ったのは、初代さまの花嫁……人間、だったのか」
私は続きを読んだ。
――八つの試練は、花嫁が一族に誠を示すためのものです。嘘をつかないこと。見抜くこと。もてなすこと。耐えること。迷っても帰ること。弱さと向き合うこと。家の歴史を知ること。離れても想い続けること。
――けれど、誠を示すべきなのは、花嫁だけではありません。
――九つ目の試練は、花嫁が一族を試すものです。
部屋の空気が、しんと静まり返った。
――花嫁は、狐火の輪の中に一族すべてを集め、ひとつだけ問いを立てることができます。一族の者は、その問いに嘘偽りなく答えなければなりません。
――そして最後に、花嫁は自らに問うのです。この一族と、この人と、生きていきたいかどうかを。
――九つ目の試練は、花嫁が選ぶ試練です。誰かに選ばれるだけの花嫁であってはなりません。どうか、あなた自身の意思で、この家を選んでください。
羊皮紙は、そこで終わっていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……マリーさんの手記の、破れていた続き」
私は、ぽつりと呟いた。
「――あれは、花嫁を試すものではありません。本当は――」
「花嫁が、一族を試すもの」
シオン様が、低い声で引き取った。
「母上は、九つ目の中身を知っていたのか。だから……」
だから、八つ目の直後に追い出された。
九つ目の試練で、マリーさんが一族に問いを立てる前に。
「トビアスさん。この試練の中身を、これまで誰が知っていたのですか」
「……代々、この箱を管理してきたのは、試練の立会人でございます」
トビアスさんの声が、わずかに震えた。
「当代の立会人は――ベアトリクス様です」
十三年前、マリーさんは九つ目の中身にたどり着いた。そして、その直後に偽の手紙と脅しを受けて、屋敷を去った。
手記の続きの頁は、破り取られていた。
「旦那さま、リディアさま」
扉の外から、遠慮がちな声がした。
入ってきたのは、カトリーネ様だった。両手に、小さく折りたたまれた紙を握りしめている。
「大叔母様の……お祖母様の文机の、隠し引き出しにあったの」
お祖母様。カトリーネ様は、ベアトリクス様の孫だったのだ。
「黙っているつもりだった。でも、あなたの手紙の話を聞いて……それに、昨日、あなたがわたくしに『おはよう』って返してくれたから」
カトリーネ様が差し出した紙は、古い古語の、丸みのある字で埋まっていた。
破り取られた、手記の最後の一枚だった。
――九つ目の試練で、私は一族に問います。この家の花嫁になる人間を、これから先、誰も脅さず、追い出さずにいてくれるかと。
――そして、シオンが大きくなって花嫁を迎えるとき、その花嫁が、私のように怯えなくて済むように。
読み終えた私の頬を、涙が伝った。
マリーさんは、逃げようとしていたのではなかった。
最後まで、戦おうとしていたのだ。
息子と、まだ見ぬ息子の花嫁のために。
「……シオン様」
私は涙を拭いて、顔を上げた。
「九つ目の問いは、もう決めました」
「ああ」
シオン様は、私の手を強く握った。
「おまえの好きにしろ。……母上が、果たせなかった問いだ」
第九の試練は、翌日の夜。
一族すべてを、社の狐火の輪の中へ集めることになった。




