第6話 墓の花(シオン視点)
口の中に、蜂蜜とヤマハッカの味がまだ残っている。
自室に戻り、扉を閉めた途端、膝から力が抜けた。床に座り込み、両手で顔を覆う。
――母上の味だった。
間違えるはずがない。熱を出して寝込んだ夜、母上が枕元で食べさせてくれた焼き菓子。「疲れた人に食べさせるお菓子よ」と笑いながら、俺の口にひとつずつ運んでくれた。
十三年ぶりに、その味がした。
「……旦那さま」
控えめな声とともに、トビアスが部屋に入ってきた。俺の様子を見ても、何も言わずに扉を閉める。
「分かっていて、俺に食べさせたな」
「申し訳ございません。ですが、旦那さまには召し上がっていただくべきだと思いました」
トビアスは静かに頭を下げた。
この老狐は、昔からそうだ。俺が目を背けようとするものを、黙って目の前に置いていく。
母上が屋敷を出ていったのは、俺が十一の秋だった。
人間の娘だった母上は、父上に望まれてこの家に嫁ぎ、九つの試練のうち八つまでを越えた。一族の誰もが、母上はいずれ九つ目も越えるだろうと思っていた。
けれど八つ目の試練が終わった翌朝、母上は姿を消した。
俺には何も言わずに。
大叔母上は、俺の頭を撫でながら言った。
――人間は、結局逃げ出すものなのよ。あなたのお母様も、この家が重荷になったのね。
父上は母上を探したが、見つけられないまま、二年後に病で亡くなった。俺は十三で当主の座を継ぎ、母上を恨むことで、どうにか立っていた。
母上がすでに亡くなっていると知ったのは、十六の秋だ。
トビアスが、震える手で一通の手紙を差し出した。国境の小さな村の子爵が、トビアス宛てに送ってきたものだった。村で亡くなった女性の遺品に、この屋敷の家令の名が書かれた紙があった、と。
俺はその足で、国境へ向かった。
小さな丘の上に、小さな墓があった。
墓石に刻まれていたのは、「マリー」という短い名前だけ。
そして墓の周りは、白い花で埋め尽くされていた。
月影草。この屋敷の庭にしか咲かない花だ。母上が屋敷を出るとき、種を持ち出していたのだろう。
誰が植えたのか。
答えはすぐに分かった。
丘の下から、籠を抱えた小さな少女が登ってきたからだ。
茶色の髪を二つに結んだ、十二、三歳ほどの少女。少女は俺に気づかず、墓の前にしゃがみ込むと、手慣れた様子で雑草を抜き始めた。
「マリーさん。今日はね、村の橋で釣りをしたの。全然釣れなかったけど」
少女は、墓に向かって楽しそうに話しかけていた。
昨日の出来事。父親の膝の具合。畑の麦の出来。教わった古い文字を、ひとつ思い出せなくて困っていること。
まるで、そこに生きている人がいるかのように。
「マリーさんがいないと寂しいけど、ちゃんとお花は咲かせるからね。約束だもの」
木の陰で、俺は動けなかった。
俺は母上を恨んでいた。逃げ出した母上を、許せないと思っていた。
なのにこの少女は、母上の最後の三年間を知っている。母上が、ここでどんなふうに笑っていたのかを知っている。
そして、母上が死んだあとも、ずっと母上のそばにいてくれた。
俺がいなかった場所に、この少女はいてくれたのだ。
あの日、俺は少女に声をかけられなかった。月影草を一束だけ墓に供えて、逃げるように丘を下りた。
それから毎年、母上が屋敷を出た秋の日に、俺は丘へ通った。
少女は年ごとに背が伸び、髪が伸び、娘らしくなっていった。花は一度も絶えたことがなかった。
一族の掟では、当主は二十五になるまでに花嫁を迎えなければならない。迎えられなければ、当主の座は分家に移る。
大叔母上は、カトリーネを娶れと迫った。
俺は、誰も娶る気がなかった。母上を壊したあの試練を、二度と誰にも受けさせたくなかった。
だから、考えたのだ。
人間の娘に求婚すればいい。試練はまず越えられない。娘が辞退すれば、俺は「花嫁を迎えようとした」という形だけは残せる。掟を引き延ばすくらいはできるだろう、と。
そして、どうせ人間の娘を選ぶなら。
――あの丘の娘の家に、礼をしたかった。
十年間、母上の墓を守ってくれた礼を。けれど、名乗り出て礼をする勇気は、俺にはなかった。どんな顔をして「あなたが看取った女は、俺の母だ」と言えばいい。母上を独りで死なせた一族の当主が。
だから求婚という形にした。試練に挑んで、辞退して、支度金と橋の修繕費を持って村へ帰ってもらう。それで終わるはずだった。
――誰でもよかった、など。
狐火のない場所で、俺は嘘ばかりついている。
「旦那さま。リディアさまは、辞退なさらないでしょう」
トビアスが、静かに言った。
「分かっている」
分かっていた。
狐火の輪の中で、「最後まで逃げません」と言ったときの、あのまっすぐな目。母上と同じ目だった。
だから、怖い。
あの娘が、母上と同じように壊されることが。
「トビアス。軟膏は、届けたな」
「はい。机の上に、置き手紙なしで」
「……それでいい」
窓の外では、月影草が白く光っていた。
母上が植え、俺が守ってきた花。
あの丘の花と、同じ花だ。




