第5話 第三の試練「供物」
「第三の試練『供物』は、社の奥に棲む白狐さまに、ご自分の手で作った供物を捧げていただくものです」
朝食の席で、トビアスさんはそう説明した。
「白狐さまは、一族の祖である九尾さまの使いとされております。供物を受け取っていただければ通過。お気に召さなければ、白狐さまは姿をお見せになりません」
「何を作ってもいいのですか?」
「はい。ただし、作るのはリディアさまご自身の手で。材料を誰かから分けてもらうのは構いません」
自分の手で作る供物。
それなら、料理だろうか。村では母の代わりに台所に立つことも多かったから、少しは自信がある。
そう思って厨房を訪ねた私を、料理長は気まずそうな顔で出迎えた。
「申し訳ございません、リディアさま。……ベアトリクス様より、花嫁さまに食材をお分けしてはならぬと」
料理長の大きな熊の耳が、すまなそうに垂れている。
厨房の入口では、カトリーネ様が扇をあおぎながら笑っていた。
「あら、困ったわね。お庭の草でも摘んで、お供えしたらいかが?」
(……お庭の草)
嫌味のつもりだったのだろう。
けれどその言葉で、私は思い出した。
屋敷の裏手、使用人もほとんど通らない一角に、荒れた薬草園がある。
第二の試練の日、薬草を少しだけ摘ませてもらった場所だ。あのときは気づかなかったけれど、改めて見て回るうちに、私は奇妙なことに気づいた。
(この並び……マリーさんの畑と、同じだ)
入口の脇にカミツレ。その奥に香りの強いヤマハッカ。日陰の角には、湿った土を好むユキノシタ。
川べりの小屋の裏で、マリーさんが育てていた畑とそっくり同じ順番で、薬草が植えられている。もちろん、どこの薬草園でも似たような並びになるのかもしれない。
でも、なぜだか胸がざわついた。
「リディアさまぁ!」
ネルが、両腕に大きな袋を抱えて駆けてきた。
「小麦粉と、お砂糖と、卵です! 使用人の食料庫から、みんなが少しずつ分けてくれました!」
「ネル……そんな、皆さんが叱られてしまうわ」
「ベアトリクス様が止めたのは、厨房の食材だけです。ネルたちのご飯は、ネルたちのものですから!」
ネルは胸を張り、尻尾をぶんぶん振った。
「それに、みんな言ってましたよ。橋のために来たって正直に言ったお嫁さま、気に入ったって」
思わず、目の奥が熱くなった。
作るものは決めていた。
マリーさんが教えてくれた、薬草の焼き菓子だ。
刻んだヤマハッカとカミツレを生地に練り込み、蜂蜜で甘みをつけて、小さな丸に焼き上げる。マリーさんはこれを「疲れた人に食べさせるお菓子」と呼んでいた。熱を出した子どもにも、畑仕事で腰を痛めたおじいさんにも、マリーさんはいつもこれを配っていた。
使用人用の小さな窯を借りて、焼き上がりを確かめようとしたとき。
「あつっ……!」
天板の端に触れた指先に、鋭い痛みが走った。
慌てて水で冷やす。赤くなった指を見て、ネルがおろおろと耳を揺らした。
「大丈夫よ。このくらい、すぐ治るわ」
そう言って笑ってみせたけれど、夕方、部屋に戻った私は目を瞬いた。
机の上に、小さな陶器の器が置かれていた。
蓋を開けると、ふわりと薬草の香りがする。火傷によく効く軟膏だった。
「ネル、これ、あなたが?」
「いいえ? ネル、知りません」
置き手紙も何もない。
私は首をかしげながら、その軟膏を指に塗った。ひんやりとして、痛みがすっと引いていった。
夜。社の奥の祠の前に、焼き菓子を盛った皿を置く。
一族の人々が見守る中、私は手を合わせて目を閉じた。
(白狐さま。どうか、召し上がってください)
しばらくは、何も起こらなかった。
ひそひそと、失望とも嘲笑ともつかない声が聞こえ始める。カトリーネ様の小さな笑い声が、それに混じった。
そのとき。
祠の奥から、ふわりと白い光がこぼれ出た。
光はゆっくりと形をとり、小さな白い狐の姿になる。透きとおるような毛並みの白狐は、私の皿に鼻先を寄せて、くんくんと匂いを嗅いだ。
そして、焼き菓子をひとつ、ぱくりとくわえた。
もうひとつ。さらにもうひとつ。
皿が空になると、白狐は満足そうに目を細め、私の膝の上にくるりと丸くなった。
「……白狐さまが、膝に」
トビアスさんの声が、かすかに震えていた。
「第三の試練、通過でございます」
白狐は私の膝の上でしばらく眠ったあと、光の粒になって消えていった。
一族の人々が散ったあと、祠の脇には、予備に焼いておいた焼き菓子の包みが残っていた。トビアスさんがそれを手に取り、広場の奥へ歩いていく。
その先に、公爵様がいた。
トビアスさんに何か言われて、公爵様は焼き菓子をひとつ、口に運んだ。
――その瞬間、公爵様の動きが止まった。
白銀の耳が、ぴんと立ったまま動かない。手の中の焼き菓子を見下ろしたまま、彫像のように固まっている。
やがて公爵様は、何も言わずに踵を返した。
月明かりの下、遠ざかっていく横顔が、ほんの一瞬だけ見えた。
それは、泣くのを必死にこらえている子どものような顔だった。




