第4話 第二の試練「化かし」
「第二の試練『化かし』の内容を、お伝えいたします」
翌朝、トビアスさんは朝食の席でそう切り出した。
「本日の日の出から日没までのあいだ、公爵さまが屋敷の誰かに化けて紛れておられます。日没の鐘が鳴るまでに、その方を見つけて名指ししていただきます」
「化けて……公爵様が、ですか」
「狐の一族は、姿を変える術を持っております。声も、背丈も、まったくの別人になります」
機会は一度きり。間違えれば、そこで試練は終わり。
「狐同士なら匂いで分かりますけど、人間のお嫁さまには、すごく難しいんです……」
ネルが、心配そうに耳を伏せた。
匂いでは分からない。声も姿も違う。
なら、見るしかない。
私は朝食を急いで食べ終えると、屋敷の中を歩き始めた。
アルジェント公爵邸には、使用人だけで五十人以上がいる。
庭師、料理人、洗濯係、馬番、侍女に従僕。一人ずつ顔を見て、話しかけて、様子をうかがう。
けれど、誰もがごく普通に見えた。
「あら、まだ見つからないの?」
昼過ぎ、中庭でカトリーネ様に声をかけられた。
「親切に教えてあげるわ。シオン様なら、さっき厨房にいらしたわよ。料理人に化けて、鍋をかき回していたわ」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
にっこりと笑うカトリーネ様の尻尾は、楽しそうに揺れていた。
厨房へは、行かなかった。
あの方が親切で教えてくれるとは、どうしても思えなかったから。
日が傾き始めた頃、私は薬草の籠を抱えて、大階段を下りていた。
庭の隅に、手入れされていない薬草園を見つけたのだ。もったいなくて、少しだけ摘ませてもらった。考えごとをするときは、手を動かしたほうがいい。
(……誰なんだろう。全然分からない)
ため息をついて、次の段に足を下ろした瞬間だった。
足元の敷物が、ずるりと滑った。
「あっ――」
体が前に投げ出される。籠が手を離れ、薬草が宙に散る。
大理石の段が、目の前に迫って――。
ぐい、と強い力で腕を引かれた。
次の瞬間、私は誰かの腕の中にいた。
「……っ」
息が詰まる。
顔を上げると、黒髪の若い従僕が、私を抱きとめていた。さっきまで、階段のずっと下で燭台を磨いていたはずの人だ。
「お、怪我は……ございませんか」
従僕は、ぎこちない口調でそう言った。
抱きとめる腕は驚くほど強いのに、触れ方はひどく慎重だった。まるで、少しでも力を入れたら私が壊れてしまうとでもいうように。
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
従僕はすぐに私を離し、散らばった薬草を手早く拾い集めた。一本も踏まず、一本も折らずに籠へ戻していく。
「どうぞ」
差し出された籠を受け取ったとき、ふわりと甘い香りがした。
昨日、応接室で嗅いだのと、同じ香り。
――そして、その正体を、今度ははっきりと思い出した。
(月影草だ)
マリーさんの好きだった、白い花。丘の上で、十年間嗅ぎ続けてきた香り。
どうして、こんなところで。
「あの……」
声をかけたときには、従僕はもう一礼して、足早に階段を下りていくところだった。
私は、ゆっくりと足元の敷物を見下ろした。
留め金が、外れている。偶然外れたにしては、きれいに、全部。
日没の鐘が鳴る少し前。
大広間に、使用人たちとアルジェント一族が集められた。
「さあ、人間のお嬢さん。答えを聞かせてちょうだい」
ベアトリクス様が扇を開く。カトリーネ様が、その隣でくすりと笑った。
私はまっすぐ歩いて、壁際に控えている黒髪の従僕の前で立ち止まった。
「あなたです」
広間がざわめく。
「……理由を聞いても?」
従僕が、静かに言った。
ぎこちなさの消えた、低い声。
「階段で私が足を滑らせたとき、あなたは誰よりも早く私を受け止めてくださいました。あんなに離れたところにいたのに、普通の方では間に合いません」
「……」
「それから、薬草を一本も折らずに拾ってくださいました。あれは、薬草の扱いを知っている方の手つきです」
少しだけ迷ってから、私は最後の理由を口にした。
「それに……月影草の香りがしました。昨日、応接室で公爵様とすれ違ったときと、同じ香りです」
従僕の姿が、ゆらりと揺れた。
黒髪が白銀に変わり、背が伸び、頭上に狐の耳が現れる。金色の瞳が、私を見下ろしていた。
「……第二の試練、通過だ」
公爵様は、ベアトリクス様のほうを見ずにそう告げた。
その夜、部屋に戻ろうとした私を、回廊で公爵様が呼び止めた。
「階段の敷物は、すぐに直させる」
「え……」
「二度と同じことは起こさせない。……それだけだ」
言い捨てるようにして、公爵様は背を向けた。
その耳が、ほんの少し伏せられていたように見えたのは、灯りのせいだろうか。
「公爵様」
思わず呼び止めると、白銀の尾がぴたりと止まった。
「受け止めてくださって、ありがとうございました」
公爵様は振り向かなかった。
ただ、しばらくその場に立ち止まって、それから黙って歩き去っていった。
眠れなくて、私は窓を開けた。
月が、庭を青白く照らしている。
その庭の片隅に、白銀の人影があった。
公爵様だ。何かの前にしゃがみこんで、じっと動かずにいる。
目を凝らして、私は息をのんだ。
公爵様の足元で、夜の闇にぼんやりと白く光っている花々。
――月影草。
マリーさんが、自分で種を分けてくれた花。この国では見たことがないと、言っていた花。
(どうして……この屋敷に、マリーさんの花が咲いているの?)
夜風が、甘い香りを運んでくる。
白銀の背中は、いつまでもそこから動かなかった。




