第3話 第一の試練「名乗り」
第一の試練は、屋敷の奥にある古い社で行われた。
夜の帳が下りた石畳の広場に、狐火が輪を描いて浮かんでいる。その数、およそ三十。輪の外側には、アルジェント一族の人々がずらりと並んでいた。
尖った耳。揺れる尾。いくつもの金色や琥珀色の瞳が、闇の中で私を見ている。
(……足が、震えそう)
「リディアさま、大丈夫です。ネルがちゃんと見てますからね」
輪の外から、ネルが小声で励ましてくれる。その隣で、トビアスさんが静かに説明を続けた。
「第一の試練『名乗り』は、狐火の輪の中で、ご自分の名を三度名乗っていただくものです。名乗りの合間に、立会人が問いを投げかけます」
「問い、ですか」
「はい。狐火は、偽りに反応して赤く燃え上がります。嘘をつかずに三度名乗りきれば、通過です」
嘘をつかなければいい。
言葉にすれば簡単だけれど、何を聞かれるか分からないのが怖かった。
「あら、怖気づいたのかしら」
くすくすと笑う声がした。
ベアトリクス様の隣に、見事な赤毛の令嬢が立っていた。年は私と同じくらい。燃えるような赤い耳と尾を持ち、華やかなドレスに身を包んでいる。
「カトリーネ・アルジェントよ。分家の者だけれど、本当なら、わたくしがシオン様の花嫁になるはずだったの」
「……そうなのですね」
「人間には無理よ。さっさと帰ったほうが、恥をかかずに済むわ」
言い返す言葉が見つからないまま、私は狐火の輪の中へ足を踏み入れた。
ふと視線を上げると、広場のいちばん奥、社の柱の陰に、白銀の人影があった。
公爵様だ。
腕を組み、壁にもたれて、こちらを見ている。表情は遠くて分からない。
(見に来てくださったんだ。……ううん、ただ結果を確かめに来ただけかもしれない)
私は息を吸って、背筋を伸ばした。
「始めなさい」
ベアトリクス様の声が響く。
「リディア・ウィンスローです」
一度目。狐火は、青白いまま静かに揺れている。
「では、問いましょう。あなたはなぜ、この家の花嫁になろうと思ったの?」
ざわ、と一族の人々が身を乗り出す気配がした。
ここで「公爵様をお慕いして」などと言えば、狐火は真っ赤に燃えるだろう。だから、本当のことを言うしかない。
「橋のためです」
「……橋?」
「私の村の橋が、三年前の大水で流されました。公爵家が修繕費を出してくださると手紙にありましたので、それで参りました」
広場がしんと静まり返った。
次の瞬間、あちこちから失笑が漏れる。カトリーネ様は扇で口を覆い、肩を震わせていた。
けれど、狐火は揺れなかった。青白い光のまま、静かに燃えている。
「リディア・ウィンスローです」
二度目の名乗り。
ベアトリクス様の目が、すっと細くなった。
「では、もうひとつ。あなたは、シオンを愛しているの?」
……来た。
これは、ずるい問いだ。「はい」と言えば嘘になる。「いいえ」と言えば、花嫁の資格などないと言われるかもしれない。
でも、嘘はつけない。
「いいえ」
ざわめきが大きくなった。
「まだ一度しか、お会いしていませんから。愛しているかどうか分かるほど、私はまだ公爵様のことを知りません」
狐火は、やはり揺れなかった。
柱の陰で、白銀の影がわずかに身じろいだように見えた。
「リディア・ウィンスローです」
三度目。
これで終わり――と思ったとき、ベアトリクス様が扇をぱちんと閉じた。
「最後に、ひとつだけ。結局のところ、あなたは公爵家のお金が目当てなのね?」
意地の悪い問いだった。頷けば、一族の前で金目当ての娘と認めることになる。首を振れば、さっきの「橋のため」と矛盾して、嘘になるかもしれない。
私は少しだけ考えて、それから口を開いた。
「お金は、橋が直る分だけで十分です。それ以上は、何もいりません」
一族の人々が息をのむ。
「でも、ここに来たからには、最後まで逃げません。それは、お金のためではなく、私がそう決めたからです」
その瞬間だった。
輪になっていた狐火が、いっせいに色を変えた。
赤ではない。
青白い光が、静かに、銀色へと変わっていく。
「……銀の、狐火」
誰かが呆然と呟いた。
振り向くと、トビアスさんが目を見開いて立ち尽くしていた。いつも穏やかなその顔に、見たことのない表情が浮かんでいる。
「トビアスさん……?」
「……失礼いたしました。第一の試練、通過でございます」
トビアスさんはすぐに表情を整えたけれど、その声はかすかに震えていた。
ベアトリクス様は何も言わず、扇で顔を隠したまま背を向けた。カトリーネ様が慌ててその後を追う。
一族の人々が、ざわめきながら散っていく。
「リディアさまぁ! すごいです、すごいです!」
駆け寄ってきたネルに抱きつかれて、私はようやく、自分の膝が笑っていることに気づいた。
社の柱の陰には、もう誰もいなかった。
部屋へ戻る途中の回廊で、私は公爵様とすれ違った。
「……愚直な答えだ」
足を止めずに、彼は低く言った。
「申し訳ありません。嘘はつけなかったので」
「謝れとは言っていない」
それだけ言って、公爵様は歩き去っていった。
後ろ姿を見送っていると、ネルが私の袖を引いた。
「リディアさま、知ってます? 旦那さま、試練のあいだ、ずーっと耳をこっちに向けてたんですよ」
「え?」
「狐はね、気になるものがあると、耳が勝手にそっちを向いちゃうんです」
ネルは、なぜか得意げに胸を張った。
私は、もう見えなくなった白銀の背中を思い浮かべる。
(……気のせい、だよね)
「誰でもよかった」と言った人だ。
そう言い聞かせながらも、胸のどこかが、ほんの少しだけ温かかった。




