第2話 白銀の狐公爵
迎えの馬車は、手紙が届いてから十日後にやってきた。
橋のないセルト川を渡し舟で越え、そこから丸三日。窓の外の景色は、麦畑から深い森へ、森から銀色の屋根が連なる街並みへと変わっていった。
アルジェント公爵邸は、その街のいちばん奥にあった。
白い石造りの壁に、銀葺きの屋根。門から玄関までの長い道には、昼間だというのに青白い灯りがいくつも浮かんでいる。
(あれ、ランプじゃない……火が、宙に浮いてる)
「狐火でございますよ、リディアさま」
馬車を降りた私に、穏やかな声がかかった。
灰色の髪をきっちりと撫でつけた、年配の男性だ。頭の上には、毛並みの少し褪せた狐の耳がのっている。
「当家の家令を務めております、トビアスと申します。長旅、さぞお疲れでしょう」
「は、はじめまして。リディア・ウィンスローです」
慌てて頭を下げると、トビアスさんの後ろから、ひょこりと小さな影が飛び出してきた。
「リディアさまですね! 今日からお世話をさせていただく、ネルです!」
栗色の髪に、栗色の大きな耳。年は十三、四歳くらいだろうか。ふさふさの尻尾が、ちぎれそうなほど左右に揺れている。
「人間のお嫁さまなんて、初めてです! ネル、ずっと楽しみにしてたんですよ!」
「ネル。はしたない」
「はっ……失礼しました!」
トビアスさんにたしなめられて、ネルの耳がぺたりと伏せた。それでも尻尾はまだ揺れていて、私は思わず笑ってしまった。
この屋敷にも、歓迎してくれる人はいるのだ。
それだけで、少し肩の力が抜けた。
通されたのは、天井の高い応接室だった。
大きな窓を背にして、一人の男性が立っている。
腰まで届く、白銀の髪。光の加減で淡く青みを帯びて見える、不思議な色だった。頭の上には同じ色の狐の耳、背後には豊かな一本の尾。振り向いた顔は驚くほど整っていて、切れ長の瞳は、溶かした金のような色をしている。
――綺麗な人。
そう思ったのは一瞬だった。
その金色の瞳が、氷のように冷たかったから。
「シオン・アルジェントだ。長旅、ご苦労だった」
低く、温度のない声。
「リディア・ウィンスローです。このたびは、お招きいただき……」
「挨拶はいい。座れ」
短く遮られて、私は口をつぐんだ。勧められるまま長椅子に腰を下ろすと、公爵様は向かいに座りもせず、窓際に立ったまま話し始めた。
「手紙に書いたとおり、当家に嫁ぐ者は九つの試練を受ける。一族の古い掟だ。人間がすべてを越えた例は、過去に一度しかない」
「一度、だけ……」
「途中で辞退してかまわない。辞退しても、約束の金は払う。橋も直す」
淡々とした口調だった。まるで、最初から私が辞退することを前提にしているような。
(……この人、私に試練を越えてほしくないんだ)
なんとなく、そう分かった。
だったら、なぜ。
「あの、公爵様。ひとつ伺ってもよろしいですか」
「なんだ」
「なぜ、私を選ばれたのでしょう。お会いしたこともありませんのに」
公爵様は、ほんの一瞬だけ黙った。
「国境の娘なら、誰でもよかった」
……そうですか。
胸の奥が、小さくちくりと痛んだ。期待なんて、していなかったはずなのに。
でも。
「でしたら、受けます」
「……何?」
「九つの試練。全部、受けます」
顔を上げて、まっすぐに金色の瞳を見返す。
「誰でもよかったのだとしても、ここへ来たのは私です。途中で投げ出して帰ったら、村のみんなに顔向けできませんから」
公爵様は何も言わなかった。
ただ、その背後で、白銀の尻尾がぴくりと一度だけ跳ねたのを、私は見た気がした。
「――まあ。ずいぶんと威勢のいいお嬢さんだこと」
扉のほうから、笑いを含んだ声がした。
入ってきたのは、銀灰色の髪を高く結い上げた、年配の婦人だった。背筋はまっすぐに伸び、身にまとう深紫のドレスには一分の隙もない。
「大叔母上。呼んだ覚えはありませんが」
「あら、試練の立会人が花嫁の顔を見に来て、何がいけないのかしら」
婦人は扇で口元を隠し、値踏みするように私を眺めた。
「ベアトリクス・アルジェントよ。この家の試練は、すべてわたくしが見届けることになっているの」
「よ、よろしくお願いいたします」
「ええ、よろしくね。……人間の花嫁は、本当に久しぶり」
扇の向こうで、細い目がさらに細くなる。
「前の人間の花嫁がどうなったか、あなた、ご存じかしら?」
「大叔母上」
公爵様の声が、部屋の温度を一段下げた。
ベアトリクス様は肩をすくめ、それ以上は何も言わずに扇を閉じた。
「第一の試練は明日の夜よ。せいぜい、よく眠っておきなさいな」
婦人が出ていくと、公爵様もまた、何も言わずに私の横を通り過ぎた。
そのとき、ふわりと甘い香りがした。
(……あれ?)
どこかで嗅いだことのある香り。けれど、それが何だったのか思い出す前に、扉は静かに閉じられていた。




