第1話 国境の子爵領と、銀の封蝋
ウィンスロー子爵領は、地図の端にかろうじて名前が載っている程度の、小さな土地だ。
北には獣人の国との境を流れるセルト川。南には痩せた麦畑。領主の館といっても、去年の嵐で屋根の一部が抜けたままで、雨の日には廊下に桶が三つ並ぶ。
それでも、私はこの土地が好きだった。
「リディア、また丘へ行くのかい?」
玄関で靴紐を結んでいると、奥から父の声がした。冬に悪くした膝をかばいながら、杖をついて出てくる。
「はい。昨日の風で、お花が倒れていないか気になって」
「マリーさんのところか。……おまえは本当に、律儀な子だね」
父は目を細めて笑った。
丘の上には、小さなお墓がひとつある。
眠っているのは、マリーさんという女の人だ。私が六つのとき、ふらりとこの村に現れて、川べりの小屋で暮らし始めた。どこから来たのか、なぜひとりなのか、誰に聞かれても笑うだけで答えなかった。
けれど、とても物知りな人だった。
薬草の見分け方。傷によく効く軟膏の練り方。それから、獣人の国で古くから使われているという、不思議な形の文字。
マリーさんの小屋に通い詰めた三年間で、私はその古い文字を少しだけ読めるようになった。何の役に立つのかは分からなかったけれど、マリーさんが嬉しそうに教えてくれるのが好きだった。
マリーさんが亡くなったのは、私が九つの冬だ。
最期の日、枕元で手を握っていた私に、マリーさんは小さな声で言った。
「ねえ、リディア。……春になったら、ここに白い花を植えてくれる?」
だから私は、それから十年、丘の上に白い花を絶やしたことがない。
丘の上は、思ったとおり風に荒らされていた。
倒れた月影草を一本ずつ起こし、根元に土を寄せる。月影草は夜になると淡く光る白い花で、マリーさんがいちばん好きだと言っていたものだ。種を分けてくれたのも、マリーさん自身だった。
「……あれ?」
墓石の前に、見慣れない花束が置かれていた。
白い月影草を、銀色のリボンで束ねたもの。花びらはまだ瑞々しく、置かれたのは昨日か、せいぜい一昨日だろう。
――また、だ。
毎年、秋のこの時期になると、誰かがこうして花を供えていく。もう何年も続いているけれど、私は一度もその人を見たことがない。村の人に聞いても、心当たりはないという。
(マリーさんのことを覚えている人が、私の他にもいるんだ)
それがなんだか嬉しくて、私はいつも、その花束をそっと自分の花の隣に並べ直す。
「マリーさん。今年も、誰かが会いに来てくれたみたいですよ」
返事はないけれど、風がやわらかく草を揺らした。
館に戻ると、玄関先がやけに騒がしかった。
「お嬢さま! お嬢さま、大変です!」
飛び出してきたのは、館に一人だけ残ってくれている使用人のマーサだ。手に何かを握りしめている。
「どうしたの、マーサ。そんなに慌てて」
「お、お手紙が……! 獣人の国から、早馬で……!」
差し出されたのは、上質な厚紙の封書だった。
封蝋は、銀。
刻まれているのは、九本の尾を持つ狐の紋章。
「……アルジェント公爵家」
思わず読み上げた私の声に、居間にいた父が杖を取り落とした。
アルジェント公爵家。獣人の国でも指折りの名家で、当主は白銀の毛並みを持つ狐の獣人だと聞いている。国境の小さな子爵家とは、どう考えても縁のない相手だ。
震える指で封を切る。
中に入っていたのは、短い文面だった。
『ウィンスロー子爵家令嬢リディア殿を、当家当主シオン・アルジェントの花嫁として迎えたい。
ついては当家の慣例に従い、「九つの試練」を受けていただく。
試練の結果にかかわらず、子爵家には支度金と、セルト川の橋の修繕費を約束する』
……花嫁?
私が?
「り、リディア……これは、何かの間違いじゃないのかい」
「たぶん、そうだと思います」
父と顔を見合わせる。
会ったこともない公爵様が、なぜ私を。理由はどこにも書かれていない。そして「九つの試練」という、聞いたこともない言葉。
(怪しい。どう考えても怪しい)
けれど、文面の最後の一行から、私は目が離せなかった。
――セルト川の橋の修繕費。
三年前の大水で流された橋。あれがないせいで、村の人たちは対岸の町へ麦を売りに行くのに、半日も遠回りしなければならない。父がどれだけ頭を下げても、王都からの援助は届かなかった。
「お父さま」
私は手紙をたたんで、まっすぐ父を見た。
「試練の結果にかかわらず、と書いてあります。私が受けて、たとえ駄目だったとしても、橋は直してもらえるんです」
「リディア、おまえ……」
「行ってきます。駄目で元々ですもの」
父は長いこと黙っていたけれど、やがて、ゆっくりと息を吐いた。
「……マリーさんが生きていたら、きっと同じことを言っただろうね。あの人も、言い出したら聞かない人だった」
その夜、私はもう一度だけ丘に登った。
月影草が、闇の中でぼんやりと白く光っている。
「マリーさん。私、獣人の国へ行ってきます」
マリーさんが教えてくれた古い文字が、少しは役に立つかもしれない。
そう思ったら、不思議と怖くはなかった。




