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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第99話 現在の名前を呼ぶ声が、味方とは限らない


 西側貯水槽へ続く地下通路には、昼間とは思えない暗さが残っていた。


 学院の中央棟から地下へ降りる石段は湿っており、壁へ取り付けられた魔導灯の光も、石の表面に浮いた薄い水膜へ吸い込まれている。先頭を歩く結界術師が一段ずつ足元を確認し、その後ろを警備隊員たちが一定の間隔を保ちながら進んでいた。


 通路の奥からは、絶えず水の音が聞こえる。


 流れている音ではない。


 何か大きなものが、広い水面の下でゆっくり身じろぎをしているような、低く重い響きだった。


 調査班は十七名。


 先行確認を担当する警備隊員四名。


 貯水槽周囲の封鎖を行う結界術師三名。


 魔力変動を測定する教師二名。


 記録役としてミレイ、ケイン、サーラ。


 神器継承者はアリシア、カイル、セレナ、レオンハルトの四人。


 そしてノア。


 風と土の神器継承者は地上に残った。


 風は中央棟と地下の通信維持。


 土は貯水槽周囲の地盤監視。


 同じ場所へ全員で降りない。


 何か起きたとき、別の位置から動ける者を残す。


 眠光井へ向かったときに決めた考えが、今度は誰かに言われる前から守られていた。


「西側貯水槽まで、残り百二十歩」


 先頭の警備隊員が振り返らずに告げる。


「水位の上昇は?」


 副隊長が尋ねる。


「変化なし。ただし、外周壁への魔力付着が増えています」


「色は」


「青と黒です」


 アリシアは腰の黒月へ触れた。


 鞘の中で刀身が微かに震えている。


 拒絶するような強い反応ではない。


 けれど、通路の先に自分とよく似た力が存在することを、黒月は確かに伝えていた。


『気に入らないわね』


 足元を歩くノアが言う。


『何が?』


『闇の力が混ざっていることよ』


『第三の器は水じゃないの?』


『水の器であることと、水だけで動いていることは同じではないわ』


 ノアは暗い通路の奥へ金色の目を向けた。


『最初の器から切り離した線。第二の器が残した術式。失敗したものを捨てず、次へ混ぜている可能性がある』


『失敗した器の力を?』


『一つに戻すことが目的なら、器同士も別々ではないのかもしれない』


 アリシアは返事をしなかった。


 第一の器は、アリシアを「六つ目」と呼んだ。


 第二の器は、レオンハルトへルクスの偽物を見せた。


 第三の器は、セレナの失われた記憶へ手を伸ばしている。


 それぞれ違う相手を狙い、違う形で現れた。


 けれど、根にあるものが同じなら。


 一つを止めるたび、残った器は前の失敗から学んでいる。


 そう考えると、背中に冷たいものが流れた。


「アリシア」


 隣を歩くセレナが呼ぶ。


「うん」


「黒月は反応していますか」


「少し」


「第三の器に?」


「たぶん。闇の力も混ざってるかもしれないって、ノアが」


 セレナは白布を巻かれた手首を見る。


 水の神器は持っていない。


 中央治療棟の封印室に残され、今も複数の教師が監視している。


 それでも貯水槽へ近づくほど、セレナの顔色は少しずつ悪くなっていた。


「声は?」


 アリシアが尋ねる。


「まだ聞こえません」


「気分は」


「少し息苦しいです」


「止まろうか」


「いいえ」


 返事は早かった。


 だが、無理をしているのは明らかだった。


 前を歩いていたカイルが振り返る。


「止まれ」


「カイル」


「今の顔で大丈夫だと言っても信用しない」


「まだ歩けます」


「歩けるかどうかを聞いてるんじゃない」


 カイルは警備隊へ合図し、隊列全体を止めた。


 以前なら、自分だけ先へ進もうとしたかもしれない。


 だが今は、セレナが止まれば全員が止まる。


 それを誰も不満そうには見なかった。


「呼吸を測ります」


 同行していた治療教師がセレナへ近づく。


「胸の痛みは」


「ありません」


「耳鳴り」


「少し」


「水音が大きく聞こえますか」


 セレナは目を閉じた。


「はい」


 周囲にいる者たちにも、水音は聞こえている。


 だがセレナには、それ以上のものが届いているらしい。


「言葉にはなっていますか」


「まだです」


「まだ、ということは、声になる前の感覚がある?」


 ミレイが尋ねる。


 質問しながらも、すぐには筆を動かさない。


 セレナの表情を見て、答えられるかを待っている。


「水の中で、誰かが息を吸っているような感じです」


「誰かは分かりますか」


「分かりません」


「子供の影と似ていますか」


 セレナは少し考える。


「似ています。でも、昨日より近いです」


 その言葉に、警備隊員たちが武器の位置を確かめた。


 カイルも火の神器へ手を添える。


「戻るか」


 彼が尋ねる。


 命令ではなかった。


 セレナへ選ばせる声だった。


「もう少し進みます」


「理由は」


「ここで戻っても、何が近づいているのか分かりません」


「分からないまま進む方が危険だ」


「分からないから、一人で来ていません」


 セレナは周囲を見た。


 アリシア。


 カイル。


 レオンハルト。


 ミレイたち。


 教師と警備隊員。


 誰もセレナ一人へ判断を押しつけていない。


「無理だと思ったら言います」


「本当に言えよ」


「はい」


「大丈夫だと言うな」


「では、苦しくなったら苦しいと言います」


「最初からそう言え」


「あなたに言われたくありません」


 緊張した空気の中で、何人かが小さく息を漏らした。


 隊列は再び動き始める。


 残り八十歩。


 六十歩。


 通路の幅が少しずつ広くなり、壁へ走る水路が増えていく。


 左右の溝を流れていた細い水は、貯水槽に近づくほど流れを失っていた。本来なら中央へ向かって落ちていくはずなのに、水面が水平を保ったまま、その場へ留まっている。


「流れが止まっています」


 測定担当の教師がしゃがみ込む。


「水門は開いているはずだ」


「物理的には」


 水へ細い測定針を近づける。


 触れる直前、針の先へ小さな水滴が浮き上がった。


 重力に逆らうように宙へ留まり、ゆっくり六角形へ形を変える。


「触れるな」


 副隊長が命じる。


 教師が針を引くと、水滴は溝へ戻った。


「結界の外側まで影響が出ています」


 サーラが時刻と位置を記録する。


「貯水槽の中心だけではありません」


「範囲が広がっている?」


 レオンハルトが尋ねる。


「あるいは、もともとこちらが本体だったか」


 結界術師の一人が答えた。


「封印室の水球は、ここから水の神器へ伸ばした枝にすぎなかった可能性がある」


 セレナの表情が強張る。


 もしそうなら。


 水の神器を隔離しても、第三の器は止まらない。


 むしろセレナと神器を引き離したことで、本体が別の方法を使い始めたのかもしれない。


『考えすぎないで』


 ノアがアリシアへ言う。


『まだ可能性よ』


 アリシアはセレナの横顔を見る。


 同じことを伝えようとしたが、言葉にする前に、奥から低い振動が届いた。


 一度。


 石壁が震える。


 二度。


 通路の魔導灯が揺れる。


 三度。


 足元の水が波紋を作る。


 四度。


 セレナが胸元を押さえる。


 五度。


 黒月と光の神器が同時に反応する。


 六度。


 すべての水音が消えた。


「構えろ」


 副隊長の声が通路へ響く。


 警備隊員たちが前へ出る。


 結界術師は隊列の周囲へ半透明の壁を展開し、記録役は中央へ集まった。


 誰も走らない。


 何が起きても一人で先へ出ないよう、事前に決めた位置を守る。


 沈黙の中。


 水のないはずの天井から、一滴だけ雫が落ちた。


 石床へ触れる。


 小さな音。


 その瞬間。


「セレナ・アクレイン」


 声がした。


 子供の声だった。


 通路の奥からではない。


 足元。


 壁。


 天井。


 左右の水路。


 周囲にあるすべての水から、同じ声が重なって届いた。


 セレナの身体が硬直する。


「返事をするな!」


 カイルが叫ぶ。


 声に反応するように、通路の溝から水が立ち上がった。


 細い水柱が左右に並び、その表面へ子供の輪郭がいくつも浮かぶ。


 顔はない。


 口元だけが動く。


「セレナ・アクレイン」


 現在の名前。


 昨日まで、器は失われた名を餌にしていた。


 過去を返す。


 海へ戻れ。


 だが今は違う。


 器の方から、今の名前を正確に呼んでいる。


「聞かないで」


 アリシアはセレナの手を握った。


 冷たい。


 水へ触れていないのに、指先から体温が抜けている。


「私を見て」


 セレナはゆっくりアリシアへ顔を向ける。


 焦点が合うまでに少し時間がかかった。


「アリシア」


「うん」


「今の声」


「器だよ」


「でも、私の名前を」


「知ってるからって、味方じゃない」


 アリシアは強く言った。


 名前を呼ぶことが、人を役割から守る。


 それはルクスが教えた。


 皆で実際に試し、第三の器の動きが鈍ることも確認した。


 だからこそ、心のどこかで思い込んでいた。


 名前を呼ぶ声は、相手を一人の人間として見ている。


 役割だけを呼ぶ器とは違う。


 けれど。


 器も学ぶ。


 人の名前を呼べば、こちらが警戒を緩めることを。


「セレナ・アクレイン」


 再び声が重なる。


 今度は、少し大人に近い声だった。


 子供の輪郭も変わる。


 水柱の一つへ、女性の姿が浮かぶ。


 長い髪。


 細い腕。


 顔は水に揺れて見えない。


「帰っておいで」


 セレナが息を呑む。


「母さん?」


「違う!」


 カイルが火の神器を抜く。


 炎が通路を照らした。


 水柱の表面で女性の姿が崩れ、次の瞬間には別の男の影へ変わる。


「セレナ」


 低い男の声。


「エドガー?」


「違います」


 セレナ自身が否定した。


 声は震えている。


 それでも、先ほどより早く答えられた。


「父は、そんな呼び方をしません」


 水柱の男が口元を歪める。


「セレナ・アクレイン」


「父は、確認するときに名前だけを呼びません」


 セレナは胸元を押さえながら続ける。


「朝は弱くないふりをすると言います。苦い薬は平気なのに、甘い菓子が苦手だと言います」


 通話で養父が口にした言葉。


 名前だけではない。


 名前に結びついた記憶。


 積み重ねた時間。


 器は現在の名前を知っていても、家族がその名をどう呼ぶかまでは知らない。


「母も、ただ帰っておいでとは言いません」


 水柱の女性を見る。


「怪我はないのか、食べているのか、眠れたのか。先にそれを聞きます」


 女性の影が揺れる。


 水面へ亀裂のような線が走った。


『効いているわ』


 ノアが低く言う。


『名前だけを真似ても、その人との関係までは真似できない』


「記録!」


 ミレイが声を上げる。


「器は現在の名前を取得済み。ただし、家族固有の記憶には不完全!」


 ケインとサーラがすぐに書き留める。


 記録する声を聞き、水柱の顔が一斉にミレイへ向いた。


「記録する者」


 器の声が変わる。


「名を並べる者」


 ミレイの手が止まる。


「ミレイ・ファルン」


 呼ばれた。


 彼女の顔から血の気が引く。


 これまで器は神器継承者を狙っていた。


 役割を持つ者。


 六つの神器へ関わる者。


 だが今。


 記録担当の名前まで口にした。


「私の名前を」


「ミレイ!」


 アリシアが呼ぶ。


 ミレイがこちらを見る。


「今の声に返事をしないで」


「はい」


 声が震える。


 それでも記録帳を手放さない。


「ケイン」


 次の水柱が言う。


「サーラ」


 二人も名を呼ばれる。


 通路にいた者たちの緊張が一気に高まった。


「全員の名前を知っているのか」


 副隊長が剣を構える。


「隊列を崩すな!」


 水柱から声が続く。


 警備隊員。


 結界術師。


 教師。


 一人ずつ。


 正確に。


 名前だけが呼ばれる。


 返事を求めるように。


 存在を確かめるふりをして。


「呼び返すな!」


 学院長から地上通信を預かっていた教師が叫ぶ。


「互いに呼べ!」


 その指示へ、最初に動いたのはミレイだった。


「ケイン」


「いる」


「サーラ」


「ここにいます」


「アリシアさん」


「いる」


「カイルさん」


「ここだ」


「セレナさん」


「ここにいます」


「レオンハルトさん」


「はい」


 一人ずつ。


 器ではなく、隣にいる者が名前を呼ぶ。


 名前が同じでも、声が違う。


 呼び方が違う。


 返事を待つ間が違う。


 ミレイは警備隊員と教師たちの名も呼び始めた。


 名簿に書かれた文字としてではない。


 ここまで同じ通路を歩いてきた相手として。


「ハロルド隊員」


「いる!」


「ネリス術師」


「ここに」


「ルーファス先生」


「無事だ!」


 呼び合う声が通路へ重なる。


 器も名前を呼び続ける。


 人間たちも名前を呼び返す。


 同じ言葉なのに、意味が違う。


 器の声は誰へ向けても同じだった。


 音の高さも。


 間も。


 呼んだあとの沈黙も。


 名前を知っているだけ。


 返事をした相手の顔も、呼吸も、震えも見ていない。


 一方で、人が呼ぶ声は一つずつ違った。


 怯えている者へは強く。


 負傷している者へは近く。


 離れた場所にいる者へは大きく。


 返事が遅れれば、もう一度呼ぶ。


 そこには、名前の先にいる人間を確かめる意志があった。


「なぜ」


 水柱から声が響く。


 初めて、器の声に揺らぎが混じった。


「同じ名を呼んでいる」


 六つの水柱が大きくうねる。


「なぜ、我らの声を拒む」


「同じじゃないから」


 アリシアが答えた。


 黒月を抜く。


 すぐには振らない。


 切るべき線を見つけるため、水柱の間を走る魔力へ目を凝らす。


「名前を言えばいいわけじゃない」


「名は、名だ」


「違う」


 セレナがアリシアの隣へ立つ。


「あなたは、私が返事をするかしか見ていません」


「セレナ・アクレイン」


「そう呼べば、私が安心すると思ったのですか」


 水柱が一斉にセレナへ向く。


「名を持つ者は、戻る」


「どこへ?」


「水へ」


「そこは、私の帰る場所ではありません」


「お前は水だ」


 声が戻った。


 役割を呼ぶ声へ。


「水は、沈んだ名を持つ」


「私は水の神器継承者です」


 セレナははっきり答える。


「でも、それだけではありません」


「水」


「セレナ・アクレインです」


「水」


「エドガーとリーナの娘です」


「水」


「学院で治療を学んでいます」


「水」


「苦い薬は平気ですが、甘すぎる菓子は苦手です」


 カイルが一瞬セレナを見る。


 通話で父親が言ったことを、自分の言葉として口にした。


「冬の朝は少し寝台から出るのが遅いです」


「水」


「薬草畑の札を書き直しました」


「水」


「アリシアと一緒に怖がると決めました」


 器の声が、ほんの一瞬途切れた。


 アリシアの胸が熱くなる。


「カイルは言い方が偉そうです」


「おい」


 緊迫した場面にもかかわらず、何人かの口元がわずかに動いた。


「レオンハルトは、自分が呼ばれたときでもルクスの偽物を選びませんでした」


 レオンハルトが静かに目を伏せる。


「ミレイは、私の記録を勝手に開きません」


 ミレイの筆が止まりかけ、すぐにまた動き出す。


「私は、水だけではありません」


 セレナは白布の巻かれた手首を押さえる。


 神器はない。


 水を操る力も使えない。


 それでも立っている。


「だから、あなたが水と呼んでも返事はしません」


 水柱が膨れ上がった。


 通路の両側から、水が一斉に中央へ流れ込む。


「結界!」


 三人の術師が壁を展開する。


 水が半透明の膜へ衝突し、激しい音が響く。


「長く持ちません!」


「水圧ではない!」


 測定担当の教師が叫ぶ。


「記憶干渉が結界へ入っている!」


 結界の表面へ映像が浮かぶ。


 学院の中庭。


 食堂。


 訓練場。


 病室。


 そこにいる調査班の一人一人が持つ記憶が、水面へ反射している。


「見るな!」


 副隊長が声を上げる。


 だが目を閉じるだけでは防げない。


 水柱の声が直接頭の中へ響く。


 アリシアの前へ、黒い髪の少女が浮かぶ。


 幼い自分。


 一人で部屋の隅へ座り、扉の外の声を聞いている。


「出なくていい」


 幼いアリシアの声がする。


「誰にも呼ばれなければ、失敗しない」


 胸が締めつけられる。


 かつて何度も思った。


 誰にも見つからなければ。


 話しかけられなければ。


 期待されなければ。


 間違えずに済む。


『アリシア』


 ノアの声が聞こえる。


 だが映像は消えない。


「今も同じでしょう」


 水の中の幼い自分が囁く。


「みんなは神器があるから呼んでいる」


 黒月を持っているから。


 六つ目だから。


 闇だから。


「アリシア自身が必要なわけじゃない」


 指先から力が抜けそうになる。


 黒月が重い。


 そのとき。


「アリシア!」


 セレナの声がした。


 近い。


 水の中ではない。


 隣から。


「私を見てください」


 昨日、アリシアがセレナへ言った言葉。


 今度はセレナが返している。


 アリシアは映像から視線を外し、セレナを見る。


「私は、黒月を持っていないあなたとも話します」


「セレナ」


「昨日、神器を持っていない私と話してくれたでしょう」


「うん」


「だから、今は私が呼びます」


 セレナがアリシアの手首を掴む。


 冷たい。


 けれど確かな力がある。


「アリシア」


「いる」


「もう一度」


「ここにいる」


 幼い自分の映像へひびが入った。


 黒月の重さが戻る。


『線が見えるでしょう』


 ノアが言う。


 アリシアは水柱を見る。


 それぞれの水柱から、人の記憶へ細い糸が伸びている。


 名前を呼ぶ声。


 映像。


 不安。


 すべてを通じて相手の意識へ入り込み、一つの中心へ集めようとしている。


 貯水槽の方向。


 通路のさらに奥。


「本体はここじゃない」


 アリシアが言う。


「水柱を作っている線が奥へ戻ってる」


「切れるか」


 カイルが炎で結界を支えながら尋ねる。


「全部は無理」


 人へつながった糸が多すぎる。


 一度に切れば、記憶へ傷をつけるかもしれない。


「一本ずつなら」


「時間がない!」


 結界術師の一人が膝をつく。


 膜の一部が破れ、水が通路へ流れ込む。


 カイルが炎を広げようとする。


「蒸気が出ます!」


 セレナが止める。


「視界を奪われます!」


「ならどうする!」


「水を止めるのではなく、道を変えてください!」


 カイルは一瞬だけ考えた。


 炎を水へ向けず、通路の天井へ放つ。


 熱で古い排水弁を支える金具が溶け、土の神器継承者が地上から遠隔で振動を送った。


 壁の一部が開く。


 新しい排水路。


 流れ込んだ水が横穴へ吸い込まれ始めた。


「成功!」


 サーラが叫ぶ。


「水位低下!」


 水柱の形が崩れる。


 だが記憶へ伸びた糸は残る。


「アリシア!」


 レオンハルトが光の神器を掲げる。


「線を照らします!」


 白い光が通路全体へ広がった。


 水と闇が混ざった糸だけが、黒い影として浮かび上がる。


 一本。


 二本。


 十本。


 調査班全員へつながっている。


「名前を呼び続けて!」


 アリシアが叫ぶ。


 ミレイが真っ先に動く。


「ケイン!」


「いる!」


「サーラ!」


「ここに!」


 次々に名前が呼ばれる。


 返事が戻るたび、糸の色が薄くなる。


 器が呼ぶ名前ではない。


 人が互いを確かめる声が、記憶への侵入を押し返す。


 アリシアは黒月を振るう。


 最初の一本を切る。


 警備隊員の肩から黒い糸が離れ、水へ落ちる。


 二本目。


 三本目。


 急がない。


 短く。


 確実に。


 線と人の記憶が重なっていない位置を選ぶ。


「ハロルド!」


「いる!」


 返事。


 切る。


「ネリス!」


「ここに!」


 返事。


 切る。


「ミレイ!」


「はい!」


 黒い糸が彼女の記録帳へ巻きついている。


 アリシアは一度動きを止める。


 記録そのものへつながっている。


 人ではない。


「ミレイ、帳面を離して」


 ミレイの手が強張る。


「でも、記録が」


「器に読まれる」


 ミレイは歯を食いしばる。


 これまで書いた情報。


 養父母の名前。


 現在の家族。


 調査班全員の役割。


 第三の器が知りたいものばかりが残っている。


「離して!」


 ケインが叫ぶ。


 ミレイは記録帳を床へ置き、手を離した。


 黒い糸が一気に冊子を包む。


 表紙が水へ濡れ、文字が浮かび上がる。


 器が読もうとしている。


「記録は、名前を並べる」


 水の声が響く。


「名を集める」


「違います」


 ミレイが震える声で答える。


「記録は、あなたへ渡すために残しているのではありません」


「名は、器へ戻る」


「人へ返すために残しています」


 ミレイは床の冊子を見る。


 自分で書いたもの。


 だが、それを守ろうとして捕まれば、今度は本人が器へ取り込まれる。


「アリシアさん」


「うん」


「切ってください」


「記録も傷つく」


「構いません」


 一瞬だけ、ミレイの顔が苦しそうに歪む。


「内容は、覚えています」


「全部?」


「全部ではありません」


 正直に答えた。


「でも、また本人に聞きます」


 記録が消えても。


 誰かの言葉を勝手に補わない。


 もう一度聞く。


 本人が話してくれるまで待つ。


「だから、切ってください」


 アリシアは黒月を振るった。


 記録帳を包んでいた糸が切れる。


 同時に、冊子の中央が裂けた。


 紙が何枚も宙へ舞い、水へ落ちる。


 ミレイの顔に痛みが走る。


 けれど追わない。


 ケインとサーラが左右から彼女を支えた。


「ミレイ」


「はい」


「ここにいる?」


「います」


「記録がなくても?」


 ミレイは水に濡れた紙を見た。


「います」


 その返事と同時に、最後の黒い糸が薄くなる。


 アリシアが切る。


 調査班全員から、器の線が離れた。


 水柱が崩れる。


 大量の水が排水路へ流れ込み、通路を覆っていた映像も消えていく。


 しかし奥から響く声は止まらなかった。


「名を持つ者は、失う」


 子供の声。


 女性の声。


 男性の声。


 調査班の者たちの声。


 すべてが重なっている。


「呼ばれなければ、消える」


「違う」


 セレナが答える。


「名を呼ぶだけでは、人を残せません」


「名は、存在」


「名前の中にある時間が、私を残します」


 セレナはアリシアの手を離し、一歩前へ出た。


「あなたは私の現在の名前を知りました」


 水の流れが止まる。


「父と母の名前も知ったかもしれません」


 通話へ入り込んだ線。


 記録帳へ触れた糸。


 器は今まで知らなかった現在の情報を、確かに集めている。


「でも、私たちが何を話したかを知っても、その意味までは分かっていません」


「意味」


「父が私を呼ぶ声と、あなたが私を呼ぶ声は違います」


「同じ名」


「同じではありません」


 セレナははっきり言う。


「あなたは、返事をさせるために呼びました」


「名は、応える」


「父と母は、私が返事をしなくても呼び続けます」


 アリシアは胸の奥が熱くなる。


 返事ができなくても。


 名前を忘れても。


 今の自分を見失っても。


 それでも呼ぶ。


 器は返事を求める。


 人は相手が戻ってくるまで呼ぶ。


「アリシアも呼びます」


 セレナが続ける。


「カイルも。レオンハルトも。ミレイも」


 名前を呼ばれた者が、それぞれセレナを見る。


「だから、あなたの声へ返事はしません」


 水面の奥で、何かが大きく動いた。


 通路の最奥。


 貯水槽へ続く鉄扉の隙間から、黒い水が滲み出す。


「扉が!」


 警備隊員が前へ出る。


 古い鉄扉が、内側からゆっくり開き始める。


 鎖は切れていない。


 錠も外れていない。


 それでも金属そのものが水のように歪み、左右へ沈んでいく。


 扉の向こう。


 広大な貯水槽の水面へ、六つの円が浮かんでいた。


 昨日、水晶瓶の中で見たものとは比べものにならない。


 一つの円だけで、人が数十人立てるほど大きい。


 六つの円が互いに重なり、その中央に子供の影が立っている。


 背丈は七歳ほど。


 濡れた長い髪。


 細い肩。


 顔は暗く、目だけが青白く光っていた。


「セレナ・アクレイン」


 今度は水全体ではない。


 子供自身の口から声が出た。


 セレナが身体を震わせる。


「あなたは誰ですか」


 返事はない。


「私の昔の名前を知っていますか」


「セレナ」


「それは今の名前です」


「今の名は、得た名」


 子供が一歩進む。


 水面へ足を置いているのに、波紋は広がらない。


「沈んだ名は、生まれた名」


「どちらも私の名前です」


「二つは、同じ水に残れない」


「それを決めるのは、あなたではありません」


「一つを選べ」


「選びません」


 子供の青い目が細くなる。


 初めて、感情らしい変化が見えた。


 怒りではない。


 悲しみ。


 あるいは。


 選ばれなかった者の痛みに似ていた。


「選ばなければ」


 子供が両手を広げる。


「どちらも失う」


 六つの円が回転を始めた。


 貯水槽の壁に沿って、無数の文字が浮かび上がる。


 名前。


 何百。


 何千。


 古い文字も。


 新しい文字も。


 町の住民。


 水害の記録から消えた者たち。


 おそらく、九年前に失われた五百人の名。


 そのすべてが水面へ並び、中央の子供を囲んでいる。


「記録を!」


 ミレイが叫ぶ。


 だが記録帳は裂けている。


 ケインとサーラも、一度にすべてを書き取ることはできない。


「覚えられる範囲だけ!」


 ミレイは濡れていない紙を拾い、見えた名前を声に出す。


「ルエナ・フィル!」


「ガルド・メイス!」


「ティナ・ロア!」


 ケインとサーラも続く。


 一人でも多く。


 水へ沈められた名前を、人の声へ戻すように。


 だが名前は次々と消えていく。


 アリシアは黒月を構えた。


「切るな」


 子供が言う。


「切れば、名は戻らない」


 アリシアの手が止まる。


 脅しなのか。


 真実なのか。


 分からない。


 黒月で六つの円を断てば、器は止められるかもしれない。


 同時に、水へ残された五百人の名前まで消える可能性がある。


「アリシア」


 カイルが呼ぶ。


「どうする」


 決めろとは言わない。


 切れとも、待てとも言わない。


 アリシアは水面を見る。


 無数の名前。


 中央の子供。


 セレナ。


 第三の器。


 切るべき線は見えている。


 けれど、その先につながるものが多すぎる。


『今は斬らない方がいいわ』


 ノアが低く言う。


『ノアも?』


『脅しに従うのではない』


 金色の目が、水面へ浮かぶ名前を追う。


『相手が初めて、失いたくないものを見せたからよ』


 これまで器は、相手の欲しいものを餌にした。


 今度は違う。


 器自身が守っているものが見えた。


 水へ沈んだ名前。


 中央の子供。


「この名前は」


 セレナが一歩前へ出る。


 カイルが腕を掴もうとしたが、途中で止める。


 本人が進むと決めた。


 ただし、いつでも引き戻せる距離を保つ。


「あなたが集めたのですか」


 子供は答えない。


「九年前に消えた人たち?」


 青い瞳がわずかに揺れる。


「あなたも、その中の一人ですか」


 水面の円が一瞬止まった。


 アリシアは息を呑む。


 今の問いに、器が反応した。


「あなたの名前も、沈んでいる?」


 セレナが尋ねる。


「……名は」


 子供の声が掠れる。


「水へ戻る」


「戻したいのですか」


「一つへ」


「どうして」


「失わないため」


 初めて、器の目的とは違う言葉が出た。


 六つを一つへ戻す。


 すべてをまとめる。


 それは支配のためだと思っていた。


 けれどこの子供は。


 名前を一つへ集めることで、失われないようにしているのかもしれない。


 別々にあるから消える。


 人が忘れる。


 記録が失われる。


 なら一つの器へ入れれば、残せる。


「だから、私の名前も集めるのですか」


「名は、残る」


「今の名前を入れたら、昔の名前はどうなります」


「一つになる」


「私は、どうなりますか」


 子供は答えない。


 答えられないのか。


 知らないのか。


 六つの円が再びゆっくり回り始める。


「今日は戻る」


 子供が言った。


 警備隊員たちが身構える。


「次に水が満ちるとき」


 青い目がセレナを見る。


「二つの名を持つ者は、選ぶ」


「選びません」


「選ばされる」


 貯水槽の水面が大きく沈む。


 六つの円。


 無数の名前。


 子供の姿。


 すべてが一瞬で水の中へ落ちていく。


「待って!」


 セレナが叫ぶ。


 水面へ駆け出そうとする。


 カイルが今度こそ腕を掴んだ。


「離してください!」


「水へ入るな!」


「まだ聞かなければ!」


「今入ったら、戻れない!」


 セレナは抵抗した。


 けれど数秒後、力が抜ける。


 水面は静かだった。


 先ほどまで何百もの名前が浮かんでいたとは思えないほど、暗く、平らな水へ戻っている。


「名前を」


 ミレイが濡れた紙を抱える。


 声が震えていた。


「全部、記録できませんでした」


「何人?」


 副隊長が尋ねる。


「三十一人です」


 五百人近くいたはずの中で。


 わずか三十一人。


 ミレイは唇を噛む。


「もっと見えていたのに」


「ミレイ」


 アリシアが呼ぶ。


「はい」


「三十一人は残った」


「でも」


「残ったよ」


 ミレイは紙を見る。


 インクが滲み、一部の文字は読みにくくなっている。


 それでも三十一の名前は、今ここにある。


 水の中だけではない。


 人の手へ戻った。


「次に見えたら、また書きます」


 ケインが言う。


「俺も覚える」


 サーラも紙を抱え直す。


「役割を増やしましょう。次は全員で名前を読みます」


「警備隊も参加する」


 副隊長が答えた。


「戦うだけが仕事ではない」


 結界術師も。


 教師も。


 一人ずつうなずく。


 次に器が名前を見せたとき。


 記録役三人だけへ任せない。


 全員で読み、覚え、残す。


 セレナはカイルに腕を掴まれたまま、静かな水面を見ていた。


「現在の名前を呼ばれたとき」


 アリシアが隣へ立つ。


「戻りたくなった?」


 セレナはすぐに答えなかった。


「少し」


 やがて正直に言う。


「父と母に呼ばれた直後だったから。今の名前なら安全だと思っていました」


「私も」


「アリシアも?」


「名前を呼ぶ声は、役割を呼ぶ声と違うって思ってた」


「違わなかったのでしょうか」


「違うと思う」


 アリシアは静かな水を見る。


「でも、名前を知ってるだけじゃ足りない」


 誰が呼ぶか。


 なぜ呼ぶか。


 返事をしなかったとき、どうするか。


 名前の先にいる人を見ているか。


「器は私たちから学んでいます」


 レオンハルトが近くで言う。


「名前が抵抗になると知り、今度は名前を使った」


「次は、家族の記憶まで真似するかもしれない」


 カイルの声が低くなる。


「その前に、本物との違いを増やす必要があります」


 ミレイが濡れた記録を見ながら言う。


「違いを?」


 セレナが尋ねる。


「合言葉のような単純なものではありません」


 ミレイは首を横へ振る。


「器が覚えれば終わりですから」


「では、何を増やすのですか」


「新しい記憶です」


 通路にいた者たちがミレイを見る。


「器は過去と現在の記録を集めています。でも、今この瞬間まで完全に先回りすることはできません」


 ミレイは裂けた冊子を拾い上げる。


「私たちが今日ここで交わした言葉。互いを呼んだ声。記録を失ったあとに、もう一度残すと決めたこと」


 水の中の器は、名前を集める。


 記憶を集める。


 だが人間は、その間にも新しい記憶を作り続ける。


「器が知ったら、また次を作ります」


 アリシアが言う。


「はい」


 ミレイはうなずく。


「追いつかれないためではありません。新しい記憶を増やし続ければ、器が集めた情報だけで私たちを再現できないと証明できます」


 セレナは自分の白い手首を見る。


「過去を取り戻すだけではなく、今を増やす」


「そうです」


 ミレイは濡れた紙の一番下へ、新しい一文を書いた。


 インクが少し滲む。


 それでも読める。


『西側貯水槽にて、第三の器は現在の名前を用いて呼びかけた。しかし、名を知ることと、その者を知ることは同じではない』


 ミレイは筆を止める。


「この記録は、残します」


「また狙われるかもしれない」


 ケインが言う。


「そのときは、また切ってもらいます」


 ミレイはアリシアを見る。


「そして、また書きます」


 アリシアはうなずいた。


「うん」


 帰還の準備が始まる。


 貯水槽は完全封鎖。


 周辺の水路は一時停止。


 土の神器継承者が地上から壁を補強し、風の神器継承者が学院内の水利用を別の貯水区画へ切り替える連絡を回す。


 誰か一人が止まっても。


 一つの場所が使えなくても。


 学院全体が動けるように。


 調査班が地下通路を戻り始めたとき、セレナは何度も後ろを振り返った。


 子供の姿はもう見えない。


 声も聞こえない。


 それでも水の奥に残っている。


 名を失った人々と。


 自分の名前を失った子供が。


「助けたい?」


 アリシアが尋ねる。


「はい」


「器でも?」


「分かりません」


 セレナは正直に答えた。


「あの子が器なのか。器に閉じ込められているのか。五百人の名前を守っているのか、利用しているのか」


「何も分からない」


「はい」


 少し前なら、分からないことが怖かった。


 今も怖い。


 けれど、分からないまま考えると決めた。


「それでも」


 セレナは前を向く。


「私の名前を呼んだ声が偽物だったからといって、あの子のすべてが嘘だとは決めたくありません」


「うん」


「次は、あの子の名前を聞きます」


「教えてくれなかったら?」


「返事をするまで呼びます」


 アリシアは少し笑った。


「名前を知らないのに?」


「では、まず何と呼ばれたいかを聞きます」


 前を歩いていたカイルが振り返る。


「相手が器でもか」


「器だから役割だけで呼ぶのですか」


「いや」


「なら、同じです」


 カイルは少し考え、肩をすくめた。


「分かった。次は聞け」


「あなたも聞くのですよ」


「俺も?」


「一人に任せないのでしょう」


「そうだったな」


 地下通路の出口から、地上の光が見え始める。


 外では昼を過ぎていた。


 雨上がりの空はまだ雲が多かったが、その向こうから差し込む光は朝より強くなっている。


 第三の器は、今の名前を覚えた。


 家族の名も。


 仲間の名も。


 記録する者の名も。


 これからは名前を呼ばれたからといって、安心することはできない。


 それでも。


 名前を呼ぶことの意味が失われたわけではなかった。


 器が真似できるのは、音と文字。


 その名が呼ばれてきた時間までは、まだ奪えていない。


 返事がなくても呼ぶ声。


 間違えたら言い直す声。


 怖いまま一緒に考える声。


 役割を果たせなくても、その人を待つ声。


 それらを一つずつ増やしていけばいい。


 器が学ぶなら。


 自分たちも学び続ける。


 第三の器が次に何を使ってくるのかは分からない。


 けれど今度は、名前だけを信じない。


 名前の向こうにいる人を確かめる。


 そしてその日の夕方。


 中央治療棟の封印室で。


 水の神器を収めた水晶瓶の中に、新しい文字が浮かび上がった。


 監視していた教師が読み上げる。


「現在の名は、記録された」


 その下へ、ゆっくり二行目が現れる。


「過去の名は、記録する者が持つ」


 教師が息を呑む。


 裂けたはずのミレイの記録帳。


 そこに残された三十一人の名前。


 器は、すでに次の標的を決めていた。


 最後の一行。


「第四の声は、名を残す者から奪う」


 水晶瓶の表面へ。


 濡れた紙へ書いたものと同じ筆跡で。


 一人の少女の名が浮かび上がる。


 ミレイ・ファルン。


 神器継承者ではない者の名前が、初めて器の次の標的として示されていた。

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