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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第98話 過去の名前を守るために、現在の家族へ会いに行く


 翌朝、雨は止んでいた。


 夜の間に濡れた学院の石畳は、雲の切れ間から差し込む淡い朝日を鈍く反射している。中庭の花壇では、重くなった花弁がいくつも俯き、低木の葉先から雫が一定の間隔で落ちていた。


 空気は冷たかった。


 けれど昨日までの雨に閉じ込められていた湿気が残り、呼吸をするたび、喉の奥へ水の匂いが入り込んでくる。


 アリシアは治療棟の前で立ち止まり、胸元へ手を当てた。


 黒月は腰にある。


 ノアも足元にいる。


 それでも扉を開けるまでに、少し時間が必要だった。


『昨日はあれだけ堂々と名前を呼んでいたのに、朝になったら元通りね』


 ノアが尻尾を揺らしながら言う。


『元通りじゃないよ』


『そう?』


『入るまでに時間がかかるだけ』


『それを元通りと言うのよ』


 アリシアは返事をせず、治療棟の扉を押した。


 中は朝から静かだった。


 廊下を歩く治療教師たちの靴音は控えめで、病室の前を通るたび、声を落として短く言葉を交わしている。奥の調薬室からは煎じた薬草の匂いが漂い、その中へ昨夜の結界術に使われた金属粉の冷たい臭いが混じっていた。


 セレナの部屋は二階にある。


 扉の前には警備役の教師が一人立っていたが、アリシアの姿を確認すると黙って道を空けた。


「起きていますか」


「三十分ほど前に目を覚ました。夜中に器の反応はない」


「眠れました?」


「本人は眠れたと言っている」


 教師はそこで一度言葉を切った。


「ただし、何度か自分の名前を口にしていたそうだ」


 アリシアは扉を見る。


「寝言ですか」


「起きていた可能性もある。付き添いの治療助手が声をかけると、すぐ返事をしたらしい」


『確認していたのね』


 ノアが言う。


 自分の名前を。


 今ここにいることを。


 失っていないか確かめるように。


 アリシアが扉を叩くと、少し間を置いて返事があった。


「どうぞ」


 中へ入る。


 セレナは窓際の椅子に座っていた。


 寝台の上ではない。


 薄い青色の上着を羽織り、膝の上には閉じられた本が置かれている。昨日までのような強い疲労は顔に残っていなかったが、目の下には眠りの浅さを示す淡い影があった。


「おはようございます、アリシア」


「おはよう、セレナ」


 名前を呼ぶ。


 それだけで、セレナの表情がわずかに緩んだ。


「ノアも」


『朝から礼儀正しいのね』


「ノアも、おはようって」


「その言い方だと、ノアが素直に挨拶したように聞こえます」


『余計な訂正はいらないわ』


 アリシアは小さく笑い、セレナの向かいへ座った。


「眠れた?」


「少しは」


「本当?」


「昨日よりは、という意味です」


 セレナは窓の外を見る。


「目を閉じると、水球の中にいた子供の口元を思い出しました」


「何て呼んでいたのか、分かった?」


「いいえ」


 セレナは首を横へ振る。


「思い出そうとすると、胸の奥がざわつきます。でも、それ以上は何も出てきません」


「無理に探さない方がいい」


「分かっています」


 返事は早かった。


 けれど、その声には自分へ言い聞かせる硬さがある。


「分かっているのと、考えないでいられることは別ですね」


「うん」


「アリシアも、そういうことがありますか」


 急に問われ、アリシアは少し考える。


「黒月に選ばれたばかりの頃」


「はい」


「人に見られない方がいいって分かってた。でも、見られてるかもしれないって、ずっと考えてた」


「今も考えていますか」


「少し」


「少しですか?」


「前よりは」


 セレナはアリシアの顔を見て、それから小さく笑った。


「それなら、私も前より少しずつ減らせるでしょうか」


「たぶん」


『そこで断言しないところは成長したわね』


 ノアが椅子の下へ丸くなる。


『昨日、勝手に安心させようとして謝ったから』


『学習したなら結構よ』


 廊下から足音が近づいてきた。


 規則正しい教師の靴音ではない。


 一人は大股で、もう一人は少し遅れている。


 扉が叩かれ、セレナが返事をすると、カイルとミレイが入ってきた。


「起きてるな」


「見れば分かるでしょう」


「顔色を見に来たんだ」


「それなら、最初からそう言ってください」


「言っただろ」


「起きているか確認しただけに聞こえました」


 いつもの調子に近いやり取りだった。


 カイルは少し安心したように息を吐き、手に持っていた紙袋を机へ置く。


「朝食」


「もういただきました」


「追加だ」


「治療教師から食事量を制限されているのですが」


「果物だけだ」


 紙袋から赤い実が二つ取り出される。


 学院の食堂で出されるものより小さく、表面にまだ朝露のような水滴が残っていた。


「どこから持ってきたのですか」


「市場」


「学院の外へ出たのですか」


「朝の調査班に頼んだ」


「あなたが選んだわけではないのですね」


「細かいな」


「体調を気遣ったものとして受け取ってよいのか判断しているだけです」


「そう受け取れ」


 セレナは果実を見たあと、少しだけ笑った。


「ありがとうございます」


 カイルはそれ以上何も言わず、近くの椅子へ座った。


 ミレイは昨夜使っていた記録帳とは別の、表紙が淡い灰色の冊子を持っていた。


「新しい記録?」


 アリシアが尋ねる。


「はい」


 ミレイはセレナへ向き直る。


「昨夜お話しした、現在の記録用です」


 セレナの表情が少し硬くなる。


 昨日の会議で決めたこと。


 失われた過去を調べるだけではなく、今のセレナが何を覚え、誰を家族と呼び、どこへ帰りたいと考えているのかを残す。


 過去が戻ったとき。


 あるいは器が過去の名を使って、現在を奪おうとしたとき。


 今のセレナを守るための記録。


「すぐに始めますか」


 ミレイが尋ねる。


「その前に、一つ確認させてください」


「はい」


「この冊子は、誰が読むのですか」


「現時点では、私、学院長、治療責任者、セレナさん本人です」


「神器継承者は?」


「必要な部分だけ共有します。全部は見せません」


「アリシアにも?」


 問われ、アリシアは少し驚いた。


 自分が答えるべきか迷っていると、ミレイが先に言う。


「アリシアさんであっても、セレナさんの許可なく個人的な内容は共有しません」


 セレナはミレイを見つめた。


「昨日、私を守るための記録だと言いましたね」


「はい」


「それなら、私が見せる相手を選んでよいということですか」


「もちろんです」


「途中で話したくなくなったら」


「止めます」


「話した内容を消したくなったら」


「原記録へ削除理由だけ残し、内容は封印します」


「完全には消せないのですか」


 ミレイはすぐに答えなかった。


 考えたうえで、慎重に言う。


「記録担当としては、何もなかったことにするのは危険だと思っています。ですが、閲覧できない形にはできます」


「なぜ危険だと?」


「第三の器が記憶と記録の欠損を利用している可能性があるからです」


 ミレイは冊子の表紙へ手を置く。


「消したという事実まで消すと、誰かがあとから都合のよい内容を入れたとき、見分けられなくなります」


 セレナは長く黙った。


 記録されることは、守られることにもなる。


 けれど同時に、自分の言葉が自分の手を離れて残ることでもある。


 アリシアには、その怖さが少し分かる気がした。


 人前で話した言葉は戻せない。


 誰かの記憶へ残る。


 記録なら、なおさらだ。


「ミレイ」


 アリシアが呼ぶ。


「はい」


「最初から全部聞かなくてもいいんじゃない?」


「私もそう考えています」


 ミレイはうなずいた。


「今日は、昨日セレナさん自身が残したいと言った内容だけ確認するつもりです」


「帰る場所」


「はい」


 セレナは少し息を吐いた。


「それなら始めましょう」


 ミレイは椅子へ座り、冊子を開く。


 白紙の一番上へ日付と時刻を書く。


「お名前をお願いします」


 最初の問いは、とても簡単だった。


 けれど部屋の空気が少し変わった。


 セレナは一度、自分の白布を巻かれた手首を見る。


「セレナ・アクレインです」


「年齢は」


「十六歳」


「今、帰る場所だと思っている場所はどこですか」


「南部のエルナ村にある、アクレイン家です」


 ミレイの筆が止まった。


「エルナ村」


「はい」


「すぐに名前が出ましたね」


 セレナも気づいたように目を見開く。


 故郷だった海辺の町の名は思い出せない。


 だが養父母と暮らした村の名は、迷わず言えた。


「私が九年間暮らした村です」


「忘れていません」


「はい」


 セレナは自分の言葉を確かめるように繰り返す。


「エルナ村です」


 カイルが腕を組んだまま尋ねる。


「養父母の名前も言えるか」


 ミレイが彼を見る。


「質問は私が」


「重要だろ」


「重要だからこそ、急に聞かないでください」


「すまない」


 カイルが素直に謝ったため、ミレイだけでなくセレナも一瞬驚いた。


「聞いてもよろしいですか」


 ミレイが改めて尋ねる。


「はい」


「養父母のお名前は?」


「養父は、エドガー・アクレイン。養母は、リーナ・アクレインです」


 声は止まらなかった。


 迷いもない。


 セレナは二人の名を覚えている。


 現在の家族の名前は失われていない。


「私を引き取った治療師夫婦です」


 セレナは続けた。


「父は薬草の扱いに厳しくて、葉を摘む位置を間違えると、半日ずっと説明をします。母は患者へ無理をさせないのに、自分は夜まで働いてしまう人です」


 話しながら、セレナの声が少しずつ柔らかくなる。


「父は朝が弱いです。母は雨の日に膝が痛みます。家の裏には小さな薬草畑があって、私が学院へ入ってからは、近所の子供たちが水やりを手伝ってくれています」


 ミレイは急いで書かなかった。


 一つの言葉ごとにセレナの表情を確かめ、必要な部分だけを記録する。


「それを思い出すと、どんな気持ちになりますか」


「帰りたいと思います」


「今すぐですか」


「会いたいです」


 セレナの手が膝の上で重なる。


「昨日までは、会うのが怖いとも思っていました」


「なぜ?」


「私が過去を思い出したら、二人を本当の家族ではないと思ってしまうのではないかと」


 部屋が静かになる。


 窓の外で、葉に残っていた雫が落ちる。


「そんなことはないと、言い切れません」


 セレナは自分の言葉を選びながら続ける。


「今の私は、二人を父と母だと思っています。でも、七歳以前の記憶が戻ったとき、実の両親へ帰りたいと思うかもしれません」


「それは悪いことか?」


 カイルが尋ねる。


 今度はミレイも止めなかった。


「分かりません」


「両方を家族だと思えばいいだろ」


「簡単に言いますね」


「簡単じゃない」


 カイルの声が少し低くなる。


「でも、どっちかを選ばなきゃいけないって、器が勝手に決めてるだけだ」


 昨夜、水球へ浮かんだ文字。


 二つの名は、同じ水には沈まない。


 片方を選べ。


 器は名前だけではなく、家族まで二つへ分けようとしているのかもしれない。


 過去の両親。


 現在の両親。


 どちらが本物か。


 どちらへ帰るのか。


 どちらかを選ばせ、もう片方を捨てさせる。


「カイルの言い方は雑だけど」


 アリシアが言う。


「雑は余計だ」


「言ってることは、分かる」


 セレナを見る。


「今の家族に会いたいことと、昔の両親を思い出したいことは、一緒でもいいと思う」


「両方を望んだら、どちらにも失礼ではありませんか」


「どうして?」


「今の父と母に育ててもらったのに、実の両親を求めるからです」


「でも、忘れたくて忘れたわけじゃない」


「そうですが」


「会いたいって思うのも、セレナが決めたことじゃないかもしれない」


 器に誘われているからではない。


 七歳まで愛された記憶が残っているから。


 名前を失っても、靴や髪紐の形を覚えているから。


 それを知りたいと思うことまで、現在の家族への裏切りにする必要はない。


「今の父と母に聞いた方がいい」


 アリシアは言った。


 セレナがこちらを見る。


「何をですか」


「セレナが昔の両親を探したいって言ったら、どう思うか」


「会うのですか」


「まだ学院へ呼ばないって、昨日は決めたけど」


 アリシアはミレイを見る。


「安全に話す方法はない?」


「遠隔通話の魔道具ならあります」


 ミレイが答える。


「ただし、名前を音として伝える危険があるため、昨日は使用を見送りました」


「今の名前だけなら?」


「器が現在の名前にも反応することは分かっています」


「でも昨日は、今の名前を呼んだら動きが止まった」


「はい」


「なら、危険じゃない?」


「危険がないとは言えません」


 ミレイは記録帳を閉じずに考える。


「ただし、複数の結界を通し、通話内容を限定すれば、実施できる可能性はあります」


 セレナは黙っていた。


 会いたいと言ったばかりなのに。


 いざ声を聞ける可能性が出ると、表情に不安が広がっている。


「怖い?」


 アリシアが尋ねる。


「はい」


「何が?」


「父と母まで、私のことを忘れていたら」


 養父母は故郷の町名と実父母の名前を思い出せなかった。


 なら、干渉がさらに進めば。


 セレナという現在の娘の名まで失うかもしれない。


「昨日の連絡では、セレナさんのことを覚えていました」


 ミレイが言う。


「学院長から聞いた範囲では、話し方や反応にも不自然な点はなかったそうです」


「でも、今日も同じとは限りません」


「はい」


 否定しなかった。


 それがかえって、セレナを落ち着かせたようだった。


「確認しますか」


 ミレイが尋ねる。


「今すぐでなくても構いません」


 セレナは窓の外を見る。


 雨上がりの空。


 まだ雲は厚いが、その隙間から少しずつ青が見え始めている。


「話したいです」


 しばらくして答えた。


「ただし、一人では聞けません」


「一人にはしない」


 アリシアがすぐに言う。


「俺もいる」


 カイルが続ける。


「必要なら記録します」


 ミレイも答えた。


『もちろん私もいるわよ』


 ノアが椅子の上へ飛び乗る。


「ノアもいます」


 セレナは三人と一匹を順番に見た。


「では、お願いします」


 遠隔通話は、すぐには行われなかった。


 学院長への申請。


 結界術師による通話室の確認。


 水の神器を隔離している封印室との距離調整。


 音声に異常な魔力が混ざっていないかを監視する測定具。


 実施するまでに二時間以上が必要だった。


 その間、学院では別の調査も進んでいた。


 地下水路へ入った調査班から、最初の報告が届く。


 学院の西側貯水槽で、水面へ同心円状の揺れが繰り返し現れていた。


 風も振動もない。


 一定の間隔で六回揺れ、しばらく止まり、また六回。


 器の六つの円と関係がある可能性が高い。


 しかし、水に触れた者へ記憶の異常は起きていない。


 南方の調査班からも、候補地の一つへ向けて出発したという連絡が入った。


 過去の町名を探すのではない。


 九年前に記録から消えた人々が、その後どこへ移動したのか。


 現在も暮らしている者がいるのか。


 名前ではなく、人の足跡を追う調査だった。


 昼前。


 中央棟東側にある小さな通話室へ、アリシアたちは移動した。


 部屋の中央には、銀色の枠へ青い水晶をはめ込んだ遠隔通話器が置かれている。その周囲を三重の結界が囲み、一番外側には黒月の力を使って作られた薄い影の膜が張られていた。


 完全な遮断ではない。


 音声を通しながら、不自然な魔力だけを黒月が切り離す。


 眠光井で術式線を切ったときの力を、結界術師が調整したものだった。


「アリシア」


 学院長が入口で確認する。


「異常を感じたら、すぐ遮断できるか」


「できます」


「相手の声ごと切れる可能性は」


「あります」


「構わない。安全を優先しろ」


 セレナが通話器の前へ座る。


 隣にはアリシア。


 反対側にカイル。


 ミレイは少し離れた場所で筆を持ち、ノアは通話器の下へ座っていた。


「使用する名前を限定します」


 結界術師が告げる。


「セレナ、エドガー、リーナ。過去の町名、実父母名、水害当時の固有名詞は口にしないでください」


「相手にも伝わっていますか」


「学院長から説明済みです」


 セレナはうなずいた。


 それでも手が震えている。


 カイルが何か言おうとして、アリシアを見る。


 譲られたのだと気づくまでに少し時間がかかった。


「セレナ」


 アリシアが呼ぶ。


「はい」


「今、ここにいる」


「はい」


「私もいる」


「はい」


「カイルも」


「いる」


 カイルが自分で答える。


 セレナの口元が少しだけ緩んだ。


「始めます」


 結界術師が通話器へ魔力を流す。


 青い水晶の奥へ光が灯る。


 最初は雑音だけだった。


 風が吹く音。


 何かが机へ触れる音。


 遠くで鳥が鳴いている。


 学院とは違う場所の生活音が、細い糸を通って部屋へ届く。


 やがて。


『……聞こえるか』


 男性の声がした。


 セレナの息が止まる。


 目が大きく見開かれる。


「聞こえます」


『セレナ?』


 その一言を聞いた瞬間。


 セレナは両手で口元を押さえた。


 涙がすぐに目へ浮かぶ。


「はい」


 返事が小さくなる。


「私です」


『よかった』


 向こう側から、深く息を吐く音が聞こえた。


『本当に、よかった』


「父さん」


『ああ』


「私の名前、分かりますか」


 エドガーはすぐに答えた。


『分かる。セレナだ』


 セレナの肩が震える。


『セレナ・アクレイン。十六歳。朝は弱くないふりをするが、冬は布団から出るまで長い。苦い薬を平気な顔で飲むくせに、甘すぎる菓子は苦手だ』


「父さん」


『学院へ入る前の日、薬草畑の札を全部書き直した。自分がいなくなっても、母さんが間違えないようにと言ってな』


「もういいです」


『まだある』


「分かりましたから」


 セレナは泣きながら笑った。


 通話器の向こうで別の声が近づく。


『私にも代わって』


『今話している』


『あなたは長いのよ』


『記憶を確認しているんだ』


『セレナが困っているでしょう』


 小さな言い争い。


 セレナが何度も聞いてきたのだろう、生活の中の声。


 やがて女性が通話器の前へ出る。


『セレナ』


「母さん」


『怪我はないの?』


「ありません」


『ちゃんと食べてる?』


「食べています」


『昨日は眠れた?』


「少しだけ」


『少ししか眠れていないのね』


 母親の声が柔らかくなる。


『怖かったでしょう』


 セレナは答えようとして、声を詰まらせた。


 学院では何度も怖いと言えた。


 アリシアにも。


 カイルにも。


 学院長にも。


 けれど、母親の声で尋ねられると、同じ言葉が別の重さを持つ。


「怖かったです」


『そう』


「今も、怖いです」


『そうでしょうね』


 否定も励ましも急がない。


 ただ受け止める声だった。


「母さん」


『なあに』


「私が、昔の両親の名前を思い出したいと言ったら」


 通話室の空気が張り詰めた。


 誰も動かない。


「嫌ですか」


 返事まで、少し間があった。


 その沈黙がセレナを不安にさせたのか、膝の上の手が強く握られる。


『嫌ではないわ』


 リーナが答える。


『寂しくはなるかもしれないけれど』


「寂しい?」


『あなたが私たちから離れていくように感じるかもしれないもの』


 セレナは顔を伏せる。


「ごめんなさい」


『謝らないで』


 声が少し強くなる。


『寂しいことと、嫌なことは違うわ』


 セレナが顔を上げる。


『あなたが昔のお父さんとお母さんを知りたいと思うのは、当たり前でしょう』


「でも、私は二人に育ててもらいました」


『だから何?』


「だから」


『育てたから、昔の家族を忘れなさいなんて言うと思う?』


 セレナは何も言えない。


『私たちは、あなたの過去を消して娘にしたわけではないわ』


 その言葉へ、アリシアは胸を突かれた。


 過去を消して。


 一つの名前へ戻す。


 それは器がしようとしていることと同じだ。


 だがアクレイン家の二人は違う。


 失われた過去があっても。


 別の両親がいたとしても。


 それを含めてセレナを家族へ迎えた。


『あなたが七歳までに誰を愛していたとしても、今の私たちの娘であることは変わらない』


「もし、昔の家族へ帰りたいと思ったら?」


 エドガーの声が戻ってくる。


『帰る場所を増やせばいい』


「増やす?」


『昔の家が残っているなら、そこへ行けばいい。今の家にも戻ればいい』


「そんな簡単に」


『簡単ではない』


 父の声は落ち着いていた。


『だが、どちらか一つを捨てる必要はない』


 カイルが小さく息を吐く。


 昨夜から彼が言い続けていたことと同じだった。


『セレナ』


「はい」


『私たちは、昔の名前を知っていた』


 室内にいた全員の表情が変わる。


 結界術師がすぐ測定具を見る。


 黒月は反応していない。


『だが今は、どうしても思い出せない』


「はい」


『申し訳ない』


「謝らないでください」


『記録を見れば読める。だが閉じると消える。何度やっても同じだ』


「怖くありませんか」


『怖い』


 エドガーは即答した。


『自分の頭の中から、大事なことだけ抜かれているようでな』


 セレナは目を閉じる。


「私もです」


『そうか』


「はい」


『なら、一緒だな』


「一緒?」


『怖いまま、考える』


 アリシアはセレナを見る。


 昨日、自分が伝えた言葉。


 必ず助けるとは言わない。


 正しい答えが分からなくても、怖いまま一緒に考える。


 セレナの養父も、同じことを言った。


 セレナは涙を拭わなかった。


「父さん、母さん」


『なに』


「私は、セレナ・アクレインです」


 名前を確かめるように言う。


『そうだ』


『私たちの娘よ』


「昔の名前が見つかっても?」


『見つかったら、教えて』


 リーナが答える。


『呼び方が一つ増えるかもしれないわね』


「今の名前を呼ばなくなりますか」


『どうして?』


「器が、片方を選べと言いました」


 通話器の向こうで沈黙があった。


 エドガーの声が低くなる。


『なら、その器は家族を知らないんだろう』


「家族を?」


『名前が二つあれば、二つ呼べばいい』


 あまりにも簡単に言い切ったため、セレナはしばらく返事ができなかった。


 やがて、泣いたまま笑う。


「父さんは、名前を間違えそうです」


『間違えたら母さんが直す』


『私に任せないで』


『二人で覚えればいい』


 通話室に、小さな笑いが生まれた。


 結界の外にいた教師たちも、わずかに表情を緩める。


 そのとき。


 アリシアの腰にある黒月が、微かに震えた。


 笑いは消えた。


「待って」


 アリシアが声を上げる。


 黒月を抜かず、柄へ触れる。


 通話器の青い水晶。


 その中心へ、細い黒い筋が浮かんでいる。


 向こう側からではない。


 学院のどこかから、通話へ入り込もうとしている。


『来たわね』


 ノアが立ち上がる。


「何が起きていますか」


 セレナが尋ねる。


「器が、声を聞いてる」


 黒い筋は水晶の中でゆっくり広がる。


 六つに枝分かれしようとしている。


 アリシアは黒月を抜いた。


 結界術師が通話を止めようとする。


「待ってください」


 ミレイが声を上げた。


「完全に切る前に、位置を記録します」


「危険だ」


「三秒だけ」


 学院長がいない場で、誰もすぐに許可できない。


 だがカイルが立ち上がり、セレナの前へ出た。


「三秒だ」


「一」


 ミレイが測定盤を見る。


 黒い筋のうち一本が、通話器ではなく床の下へ伸びている。


「二」


「西側です」


 ミレイが言う。


「地下水路の方向」


「三」


「切って!」


 アリシアは黒月を振るった。


 通話の音声ではない。


 水晶へ入り込んだ黒い筋だけを狙う。


 刃が触れた瞬間、硬い金属を断ったような音が響き、黒い筋が弾けた。


 通話器の青い光が一度消える。


「父さん!」


 セレナが声を上げる。


 数秒後。


 再び水晶へ光が戻った。


『セレナ!』


 エドガーの声が届く。


「聞こえます」


『何があった』


「大丈夫です」


 セレナは胸へ手を当て、呼吸を整える。


「こちらで、少し異常がありました」


『本当に大丈夫なのか』


「はい。アリシアが止めてくれました」


『アリシアさんがいるのか』


 急に名前を呼ばれ、アリシアの肩が跳ねた。


「は、はい」


『セレナを支えてくれて、ありがとう』


「いえ」


 声が小さくなる。


 大人から真っ直ぐ礼を言われ、どこを見ればよいか分からない。


『これからも頼む』


「はい」


『返事が小さいぞ』


「父さん」


『聞こえているから大丈夫よ』


 リーナが呆れた声で言う。


 通話は予定より早く終了した。


 器が再び入り込む可能性がある以上、これ以上長く続けられない。


 最後にセレナがもう一度自分の名を伝え、養父母もその名を呼び返す。


 青い光が消えたあとも、セレナはしばらく通話器の前から動かなかった。


「忘れていませんでした」


 小さく呟く。


「うん」


「私の名前も。私のことも」


「うん」


「昔の名前を探してもいいと、言ってくれました」


 アリシアはうなずく。


「家族だから」


 セレナが言う。


「過去を消さなくても、今の家族でいられるのですね」


「たぶん、家族だから消さなくていいんだと思う」


 セレナは自分の胸元へ手を当てる。


「セレナ・アクレイン」


 今度は確認するためではない。


 誰かから与えられただけの名ではなく、自分で持つと決めるような声だった。


 ミレイが測定盤を見つめている。


「先ほど入り込んだ線ですが」


「場所が分かった?」


「地下水路の西側貯水槽です」


 今朝、同心円状の揺れが報告された場所。


 六回揺れ、止まり、また六回。


「第三の器の本体?」


 カイルが尋ねる。


「分かりません。ただ、通話へ干渉した線は、封印室の水晶瓶からではありませんでした」


 部屋の空気が変わる。


 これまで第三の器は、水の神器を隔離した瓶の中へ現れていると思われていた。


 だが、あれが本体ではない可能性は以前からあった。


 遠隔で作られた小さな形。


 なら、本体は別にある。


「西側貯水槽へ行く」


 カイルが即座に言う。


「待ってください」


 ミレイが止める。


「また待つのか?」


「今度は待つのではなく、役割を分けます」


「同じだろ」


「違います」


 ミレイはきっぱり答えた。


「カイルさんが一人で先に行けば、全員が追いかけることになります」


 カイルが不満そうに口を閉じる。


「調査班を編成します。水に接触する者、記録する者、封鎖する者、地上で退路を守る者」


 眠光井で学んだこと。


 同じ場所へ向かっても、同じ役割を持つ必要はない。


「セレナさんは」


 ミレイが彼女を見る。


「どうしますか」


 命令ではなかった。


 行くなとも、来いとも言わない。


 本人へ尋ねる。


 セレナは少し考えた。


「行きたいです」


 カイルが何か言おうとする。


 だがセレナが続けた。


「ただし、水へ直接触れる役割はしません」


「神器も持っていない」


「はい。だから、器の声が聞こえたときの確認役になります」


「自分を囮にするつもりか」


「違います」


 セレナはカイルを見る。


「私は、声を聞いたときに自分が何を感じるかを記録します。一人ではありません」


 アリシアへ視線を向ける。


「名前を呼んでくれる人がいますから」


 アリシアはすぐにうなずいた。


「呼ぶ」


「私も記録します」


 ミレイが続く。


「俺は前に出る」


 カイルが言う。


「水に触れないでください」


「火だから触れない」


「そういう意味ではありません」


 少しだけ、いつもの空気が戻る。


 だがその下には、明確な緊張があった。


 第三の器の本体につながるかもしれない場所。


 西側貯水槽。


 水の記憶が沈む場所。


 それが南方の海ではなく、学院の地下にある可能性が出てきた。


 通話室を出る前。


 セレナは一度だけ、光を失った通話器を振り返った。


「アリシア」


「うん」


「昔の名前が見つかっても、今の名前を呼んでください」


「呼ぶよ」


「父と母が呼んでくれたように」


「うん」


「それから」


 セレナは少し迷う。


「昔の名前も、私が呼んでほしいと言ったら」


「呼ぶ」


 アリシアは答えた。


「両方?」


「両方」


「間違えませんか」


「間違えるかも」


「そこは自信を持ってください」


「でも、間違えたら言い直す」


 セレナは少し笑う。


「父と同じですね」


「私は、名前を二つ覚えるくらいできるわよ」


 アリシアではなく、ノアが言った。


 セレナには聞こえない。


 けれど黒猫が胸を張ったのを見て、意味を察したらしい。


「ノアも覚えてくれるのですね」


『当然でしょう。人間より記憶力はいいもの』


「覚えるって言ってる」


 アリシアが伝える。


 セレナは静かにうなずいた。


「では、二つとも私の名前にします」


 まだ過去の名は分からない。


 水の中の子供が何者なのかも分からない。


 けれどセレナは、見つかる前から一つを捨てないと決めた。


 現在の家族を守るために、過去を消さない。


 過去の家族を探すために、現在を捨てない。


 その選択が、第三の器にとって何を意味するのか。


 答えはすぐに現れた。


 通話室の床下。


 石造りの壁を幾重にも隔てた学院地下で。


 西側貯水槽の水面が、音もなく割れる。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 六つの円が、水の上へ浮かび上がる。


 その中央で、子供の形をした影が立ち上がった。


 今度は水球の中ではない。


 貯水槽いっぱいに広がった黒い水の上で、影は学院の天井を見上げる。


 唇が動く。


 音は誰にも届かない。


 けれど、沈んでいた記憶を呼び起こすように。


 影は初めて、現在の名を口にした。


 セレナ・アクレイン、と。

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