第97話 失われた名前を探す前に、今の名前で呼び合う
雨は夕方になっても止まなかった。
中央棟の高い窓を細かな雫が途切れなく流れ、灰色の空は学院の尖塔を半ばまで霞ませている。風が強くなるたび、濡れた木々が中庭で大きく揺れ、重なり合った葉の音が硝子越しにも低く響いた。
眠光井から戻って、まだ半日も経っていない。
調査班二十一名は全員帰還した。地下へ入った九名にも命に関わる怪我はなく、完成しかけていた第二の器は止められた。光の神獣ルクスの羽根まで残ったのだから、本来なら学院中が安堵していてもおかしくない成果だった。
けれど、北門で調査班を迎えた生徒たちの間に歓声は起こらなかった。
第二の器は一つの終わりではなかった。
第三の器はすでに動いている。
しかも今度は、神器の力だけではなく、人の記憶そのものへ手を伸ばしていた。
中央治療棟の会議室で起きた異変について、詳しい内容は伏せられている。それでも、神器継承者の一人が治療棟に留め置かれ、水の神器が厳重な封印下へ移されたことまでは隠しきれなかった。
夕食時の食堂では、いつもより声が低かった。
「水の神器が暴れたって、本当なのかな」
「暴れたんじゃないらしい。何かが中にできたって」
「中って何だよ」
「知らないよ。教師も答えてくれないし」
「北東の森でも、箱みたいなものが見つかったんだろ」
「箱じゃなくて器だって聞いた」
「同じじゃないの?」
「違うらしいけど、何が違うかは誰も説明してくれない」
噂は断片のまま食堂を巡り、事実と不安を勝手につなげていった。
水の神器継承者が倒れた。
学院の地下水が黒くなった。
雨は第三の器が降らせている。
南方で昔沈んだ町が、学院の下へ現れる。
どれも確認されていない話だったが、否定する材料もないため、生徒たちの間から消えなかった。
だからこそ学院長は、夜の臨時会議へ六人の神器継承者全員を集めた。
中央棟三階の大会議室には、普段より多くの灯りがともされていた。長机の中央には学院周辺の地図と南方地方の古地図が並べられ、その脇へ封印布に包まれた記録箱が置かれている。
透明な保護筒へ収められたルクスの白い羽根も、結界の中心に安置されていた。
アリシアは窓際の席に座っていた。
以前なら、もっとも人から離れた端を選んでいたと思う。誰かと視線が合わず、話を求められず、必要になったときだけ黒月を抜ける場所を探していた。
今日は違った。
気づけば、六人の神器継承者が同じ長机を囲んでいる。
誰かが座る場所を決めたわけではない。
それでも、火、水、風、土、光、闇の継承者たちは、自然と互いの顔が見える位置へ座っていた。
セレナは治療教師の許可を受け、会議へ参加している。
顔色はまだ白かった。水の神器は手首には戻されず、中央治療棟の封印室にある水晶瓶の中へ隔離されたままだ。
神器を身につけていないセレナを見たのは、アリシアにとって初めてだった。
普段なら銀色の雫を重ねた腕輪があるはずの手首へ、今は細い白布だけが巻かれている。その何もない場所を、セレナは時折無意識に反対の手で押さえていた。
「寒い?」
アリシアが小さく尋ねる。
会議が始まる前だったため、周囲の話し声に紛れる程度の声だった。
「いいえ」
セレナは答えたあと、自分の手首へ視線を落とした。
「ただ、落ち着きません」
「神器がないから?」
「七歳から、ほとんど外したことがありませんでした」
セレナは白布の上を指でなぞる。
「重さはほとんどないのに、なくなると腕が軽すぎるように感じるんです」
「黒月も、置いてくると変な感じがする」
「アリシアもですか」
「うん。鞘が腰に当たらないだけで、何か忘れてるみたいになる」
セレナはほんの少しだけ表情を緩めた。
「似ていますね」
「たぶん」
二人の会話を、向かい側のカイルが黙って聞いていた。
口を挟まなかったのは、珍しかった。いつもなら「神器がないくらいで落ち着かないのか」と言うか、「俺なら平気だ」と張り合いそうな場面だったが、今夜は何も言わず、セレナの白い手首を一度見ただけだった。
『あの火も、少しは人の顔色を待てるようになったのね』
ノアがアリシアの膝の上で呟く。
『聞こえたら怒るよ』
『聞こえないから言っているのよ』
アリシアはノアの背中を一度撫でた。
そのとき、副学院長が会議室の扉を閉じた。
「全員揃いました」
机を囲む者たちが姿勢を正す。
神器継承者六名。
学院長、副学院長、治療教師、結界術師。
記録担当のミレイ、ケイン、サーラ。
さらに南方記録庫を調査した教師二名が壁際へ控えている。
学院長は全員の顔を見渡したあと、机の上へ両手を置いた。
「報告を始める」
室内から私語が消えた。
「最初に確認しておく。今夜の目的は、セレナの失われた記憶を無理に取り戻すことではない」
セレナの視線が学院長へ向く。
「第三の器とのつながりを調べ、何を確認してよいか、何をまだ確認すべきではないかを決める。記録が存在するからといって、今すぐ開けばよいわけではない」
学院長の声は落ち着いていた。
だが、その言葉が誰へ向けられているのかは明らかだった。
セレナ自身だけではない。
すぐに答えを得ようとする教師たち。
器を早く止めたい神器継承者たち。
そして、失われた名前が書かれているかもしれない封書を前に、胸の奥で開けたいと思っているアリシアにも向けられている。
「まず、養家への連絡について報告する」
学院長が封印布に包まれた箱へ手を向けた。
「セレナの養父母とは連絡が取れた。二人とも無事だ」
セレナの肩から、わずかに力が抜ける。
それを見たカイルも、机の下で握っていた拳を緩めた。
「養家には、セレナが学院で保護されていることを伝えた。ただし第三の器や失われた記憶については、必要な範囲に説明を留めている」
「二人は、何と?」
セレナが尋ねる。
「君を心配していた。今夜にでも学院へ来ると言ったが、移動中に記憶への干渉が起きる可能性を考え、まず自宅で待機してもらっている」
「そうですか」
返事は静かだった。
けれどセレナは視線を伏せたまま、何度か浅く息をした。
養父母の声を聞きたいのだろうと、アリシアは思った。
同時に。
その声の中から、知らないはずの名前を聞いてしまうことを恐れているのかもしれない。
「記録は存在した」
学院長は続ける。
「セレナが引き取られた際の治療記録。役所が発行した身元確認書。実父母に関する書類。被災した町の住所も残っている」
カイルが封印箱を見る。
「全部、そこに入ってるのか?」
「写しだけだ。原本は養家に残してある」
「なら、確認できるじゃないか」
カイルはそう言ってから、隣のセレナを見た。
自分が急いだことに気づいたのか、続く言葉を一度飲み込む。
「……確認していい状態なら、だけど」
学院長はうなずいた。
「その判断が必要だ。なぜなら、養父母から異常な報告があった」
会議室に緊張が戻る。
「異常とは?」
レオンハルトが尋ねた。
学院長は封印箱から手を離した。
「二人とも、セレナの故郷の町名を思い出せなかった」
すぐには意味が伝わらなかった。
数秒の沈黙のあと、風の神器継承者が眉を寄せる。
「記録が見つかったのに?」
「書類の表紙を見れば、文字として認識できるそうだ」
「なら、分かってるんじゃないのか」
「書類を閉じると、自分の記憶からは出てこない」
雨が強くなり、窓を細かく叩いた。
セレナの顔から血の気が引く。
「養父母も?」
「そうだ」
「でも、二人は私を引き取るときに、町のことを調べています。父と母のことも、何度も話してくれました」
「そのこと自体は覚えている」
「なら、名前も」
「名前だけが出てこない」
学院長の言葉が、静かに落ちる。
セレナは何も言えなくなった。
机の上へ置かれた手が小さく震え始める。
カイルが横から手を伸ばしかけた。
けれど途中で止めた。
触れてよいか分からなかったのだろう。
代わりに、少し低い声で呼ぶ。
「セレナ」
彼女の指の震えが止まるわけではなかった。
それでも視線は、ゆっくりカイルへ向いた。
「俺はここにいる」
昨日と同じ言葉だった。
水の糸に意識を引かれかけたセレナへ、自分の名を呼ばせたときと同じ。
「今は、養父母の名前じゃなくてもいい。俺の名前は分かるか」
「……カイル」
「そうだ」
カイルは一度うなずく。
「アリシアは?」
「ここにいます」
アリシアは自分から答えた。
「レオンハルトもいる」
「はい」
レオンハルトも静かに続ける。
風と土の神器継承者も、自分の名前を口にした。
これまで六人は、属性で互いを呼ぶことが多かった。
火。
水。
光。
闇。
短く、分かりやすく、戦いでは便利だった。
だが今夜は、誰も属性で名乗らなかった。
セレナは一人ずつの顔を見た。
最後にミレイ、ケイン、サーラも自分の名前を告げる。
「ここにいる人の名前は、分かります」
セレナが言う。
声はまだ震えていたが、先ほどよりも焦点が戻っている。
「それなら、今はそれでいい」
カイルが答えた。
「よくありません」
セレナは反射的に返す。
「養父母まで忘れているなら、干渉は広がっています」
「そうかもしれない」
「早く記録を確認しなければ」
「記録を開いて、器に名前を渡したらどうする」
カイルの問いに、セレナは言葉を止めた。
彼の声は強かったが、責めるような響きではなかった。
「俺も早く見たい」
カイルは続ける。
「何て書いてあるか確かめたいし、町がどこにあるのかも知りたい。でも、今すぐ開けるのが正しいかは分からない」
普段の彼なら、迷いを見せなかったかもしれない。
正しいと思った方向へ先に走り、あとから周囲へ説明することも多かった。
そのカイルが今、自分から分からないと言った。
セレナも驚いたように彼を見る。
「あなたが、待つのですか」
「悪いか」
「少し意外です」
「俺だって、何でも突っ込めばいいと思ってるわけじゃない」
『かなり思っていたでしょうに』
ノアの呟きへ、アリシアは返事をしなかった。
返事をすると顔へ出そうだった。
学院長は二人の会話が落ち着くのを待ち、次の資料へ手を伸ばした。
「養父母の記憶だけではない」
副学院長が南方地方の地図を広げる。
「南方水害の記録調査でも異常が見つかった」
地図には海沿いの町や村が細かく記されていた。青い線で河川、黒い点で港、赤い印で過去の災害地域が示されている。
ただし、海岸沿いの一部だけ、不自然に印が途切れていた。
「セレナが七歳だったのは九年前です」
ミレイが確認する。
「そうだ」
南方記録庫を調査した教師が答える。
「そこで八年前から十年前までの行政記録、治療記録、航路記録、災害報告を中心に調べた」
「水害は見つかりましたか」
「小規模なものは複数ある。しかし、町一つが大きな被害を受け、橋が崩落し、多数の行方不明者が出た災害は記録されていない」
セレナの眉が寄る。
「そんなはずはありません」
「私もそう考えた」
教師は苦い表情をした。
「君の記憶には、町を覆うほどの浸水がある。養家の治療記録にも、多数の被災者を受け入れた形跡がある。それなのに、行政側の災害報告だけがない」
「消された?」
ケインが尋ねる。
「一部だけなら紛失も考えられる」
副学院長は別の書類を示す。
「だが、同じ年の沿岸部では、税記録、戸籍の移動記録、港の出入り、商業組合の帳簿にも欠損がある」
「全部ですか」
ミレイの筆が止まる。
「完全に消えているわけではない」
「どういう意味です?」
「前後がつながらない」
副学院長は二枚の記録を並べた。
「十年前の人口記録では、ある沿岸地域に二千三百人が住んでいる。八年前の記録では、同じ区域の人口が千八百人になっている」
「五百人減っています」
サーラがすぐに計算する。
「だが九年前の転出記録も死亡記録もない」
「五百人が、記録上だけ消えている?」
アリシアが尋ねる。
「そう見える」
会議室の空気が重くなる。
誰か一人の名前ではない。
町一つ。
あるいは地域一帯。
そこにいた人々の一部が、記録から抜け落ちている。
「町の場所は絞れないのですか」
レオンハルトが地図を見る。
「人口差と河川の位置から、候補は四つまで絞った」
教師が沿岸部の四か所へ印をつける。
「ただし、どの場所も大規模水害の記録がない。地形も当時から改修されており、橋の崩落跡を確認できる保証はない」
「私が行けば」
セレナが言いかける。
「今は行かせない」
学院長が即座に止めた。
「拘束するためではない。候補が四つもある状態で、器に呼ばれている君を南方へ連れ出す危険が大きすぎる」
「でも、景色を見れば分かるかもしれません」
「逆に、器が用意した景色を記憶だと思い込むかもしれない」
セレナは反論できなかった。
治療棟で、器は両親の名を返すと語った。
海へ帰れと言った。
水の中へ戻れば思い出せると誘った。
南方へ向かえば、その声が強くなる可能性は高い。
「私のせいでしょうか」
セレナが小さく呟く。
昨日も同じ問いを口にしていた。
「私が水の神器に選ばれたから、町の記録が消えた。あるいは、私が助かった代わりに」
「違う」
アリシアはすぐに言った。
声が思ったより強くなり、数人の視線が集まった。
それでも今度は目を逸らさなかった。
「まだ何も分かってない」
「でも、私だけが助かりました」
「セレナだけが助かったって、決まってない」
「両親は見つかっていません」
「だから、生きている可能性もある」
「それは」
セレナの顔が歪む。
希望を言えばよいわけではない。
九年間見つからなかった両親へ、簡単に生きていると言うことは残酷かもしれない。
アリシアは一度息を整えた。
「ごめん」
「なぜ謝るのですか」
「今、セレナを安心させようとして、分からないことを勝手に決めそうになった」
アリシアは机の上で手を握る。
「生きているかもしれない。でも、違うかもしれない。今は分からない」
セレナは黙って聞いている。
「でも、町の記録が消えたことを、セレナが助かったせいだとは決められない」
「なぜです」
「逆かもしれないから」
学院長がわずかに目を細める。
「続けろ」
アリシアは南方地図へ視線を落とした。
四つの候補地。
欠損した人口。
思い出せない町の名。
記録を見れば読めるのに、閉じれば消えてしまう言葉。
「第三の器は、セレナの名前を知っていました」
「現在の名前を、ですね」
ミレイが補足する。
「うん。でも、両親の名前はすぐに言わなかった」
「返すと言っただけです」
「本当に知ってるなら、その場で言えばいい」
アリシアは続ける。
「町の名前も、両親の名前も、器が持ってるなら、セレナへ聞かせればすぐに引っ張れたはずです」
カイルが腕を組む。
「でも、そうしなかった」
「セレナに思い出させようとした」
レオンハルトが静かに言う。
「水へ戻れば思い出せる、と」
「そう」
アリシアはうなずく。
「器も、名前を探してるのかもしれない」
室内へ沈黙が落ちる。
「セレナから奪ったんじゃなくて」
言葉を選ぶ。
「誰かが先に隠した名前を、器もセレナの中から見つけようとしてる」
誰もすぐには否定しなかった。
ノアがアリシアの膝の上で尾をゆっくり揺らす。
『悪くない考えね』
『本当に?』
『少なくとも、器がすべてを知っているという前提よりは筋が通る』
アリシアは少しだけ息を吐いた。
「誰が隠したんだ」
カイルが尋ねる。
「器とは別の敵?」
「神獣?」
「前の水の神器継承者?」
「セレナ自身が、生きるために閉じた可能性もある」
会議室の各所から意見が出る。
以前なら、一番立場の強い者が答えをまとめ、ほかは従っていたかもしれない。
今は違う。
教師。
神器継承者。
記録担当者。
誰も自分の見方だけを確定させず、別の可能性として並べていく。
ミレイは一つずつ書き留めながら、途中で顔を上げた。
「名前を隠した者と、記録を消した者が同じとは限りません」
「なぜそう思う」
学院長が尋ねる。
「記憶と記録では、消え方が違います」
ミレイは手元の紙を見直す。
「セレナさんと養父母は、名前を見れば読めます。でも、自分から思い出せない」
「記憶に蓋があるような状態だな」
「はい。一方で行政記録は、見るための紙そのものが欠けています」
ミレイは南方地図へ視線を移した。
「同じ力なら、記録も文字だけ残して思い出せない形にするのではないでしょうか」
「つまり」
ケインが言う。
「記憶を沈めた力と、紙を消した者は別?」
「可能性です」
ミレイはすぐに付け加えた。
「まだ決められません」
セレナがミレイを見る。
「残してください」
「はい」
「私が原因だという可能性も」
カイルが顔をしかめる。
「それは」
「消さないでください」
セレナの声は静かだった。
「アリシアが違うと言ってくれたことは嬉しいです。でも、本当に違うかはまだ分かりません」
アリシアは胸の奥が少し痛くなった。
セレナの言う通りだった。
励ますために可能性を消せば、それもまた一つの声へまとめることになる。
「うん」
アリシアはうなずく。
「残そう」
「はい」
「でも、セレナのせいだって決めるのも、まだしない」
「分かりました」
そのやり取りが終わったときだった。
長机の中央へ安置されていたルクスの羽根が、淡く光った。
最初は、白い羽毛の先に小さな粒が浮かんだだけだった。
けれど次の瞬間、保護筒の内側へ柔らかな光が満ち、羽根の周囲を白い粒子がゆっくり回り始めた。
「ルクス」
レオンハルトが椅子から立ち上がる。
彼の胸元にある光の神器も、封印布の下で微かに応えた。
「全員、動くな」
学院長が命じる。
結界術師がすぐに保護筒の周囲へ測定具を並べる。ケインとサーラは時刻を確認し、ミレイは光が始まった瞬間を記録した。
レオンハルトだけが、光の前へ一歩近づく。
白い粒子が彼へ向かって流れた。
目を閉じる。
会議室へ雨音だけが残る。
誰も急かさない。
数秒。
十秒。
レオンハルトの眉がわずかに寄る。
やがて光が弱まり、白い粒子が羽根へ戻っていった。
「聞こえたか」
学院長が尋ねる。
レオンハルトは目を開く。
「はい」
「何と」
「短い言葉です」
彼は保護筒の中の羽根を見た。
「探すな」
全員が息を止める。
「それだけですか」
アリシアが尋ねる。
「はい」
「声は、本当にルクスだった?」
カイルが確認する。
「眠光井で聞いた声と同じです」
「偽物じゃないと言い切れるか」
カイルの問いは疑っているのではなく、第二の器での失敗を繰り返さないためのものだった。
レオンハルトも不快そうな顔をせず、少し考える。
「絶対とは言えません」
正直に答えた。
「ただし、神器は拒絶していません。ノアは何か感じますか」
『あの白猫の匂いはするわ』
ノアが鼻先を少し上げる。
『少なくとも、眠光井で残った羽根の反応と同じよ』
「ノアは、ルクスのものだと言っています」
アリシアが伝える。
「探すな」
風の神器継承者が地図を見ながら呟く。
「第三の器を追うなとも言っていたよな」
「水の名を呼べ、とも」
レオンハルトが答える。
「今度は名前も探すなという意味でしょうか」
副学院長が封印箱を見る。
その場の全員が、同じものへ視線を向けた。
箱の中には、セレナが失った町と両親の名前が書かれている可能性が高い。
探すな。
その言葉を文字通り受け取れば、開けるなということになる。
「でも、何も調べないわけにはいかない」
カイルが言う。
「器はもう動いてる」
「そうだ」
学院長も否定しなかった。
「ルクスの言葉が、完全な停止を求めているとは限らない」
「では、何を探すなと?」
土の神器継承者が問う。
誰も答えを持っていなかった。
セレナは南方地図ではなく、自分の手元を見ていた。
「私かもしれません」
小さな声だった。
「何が?」
カイルが尋ねる。
「探してはいけないのは、私かもしれません」
セレナは顔を上げる。
「私は、両親の名前を思い出そうとしました。町の名前も、水の中の声も」
白布を巻かれた手首へ触れる。
「器が反応するたび、必死に探しました。忘れていることが間違いだと思っていたから」
「間違いじゃない」
アリシアが言う。
「今は、そう思えるようになりました」
セレナは少しだけ笑う。
「でも、まだ怖いです。思い出さなければ、私は本当に両親の子供ではなかったことになるような気がする」
誰も軽く否定しなかった。
名前を思い出せなくても家族だった。
そう言うことはできる。
けれど、セレナが感じている喪失を、その一言で消すことはできない。
「探さないって」
アリシアは慎重に尋ねた。
「忘れたままでいいってこと?」
「分かりません」
セレナは首を横へ振る。
「でも、思い出すことだけを目標にすると、器の望む方向へ進む気がします」
治療棟で、第三の器は両親の名前を餌にした。
水へ戻れば思い出せる。
海へ帰れば返す。
その誘いに対し、名前を取り戻すことだけを望めば、器の作った道へ自分から入ってしまう。
「では、何をする」
学院長が尋ねる。
セレナはすぐに答えなかった。
雨の筋が窓を流れる。
外はすでに暗くなり、中庭の灯りが濡れた石畳へぼんやり映っていた。
「待つ」
やがてセレナが言った。
「待つ?」
「自分から浮かんでくるものを」
カイルが眉を寄せる。
「それで間に合うのか」
「分かりません」
「第三の器が完成したら」
「それも分かりません」
セレナはカイルを見る。
「でも、分からないまま急いだから、私は水へ戻りかけました」
カイルは口を閉じた。
反論できなかった。
「記録を捨てる必要はありません」
セレナは封印箱へ視線を向ける。
「南方の調査も必要です。ただ、失った名前を今すぐ私へ返すことだけを目的にしないでください」
「では、目的を何にする」
「器が何をしようとしているかを知ること」
会議室の空気が少し変わる。
「名前を見つけることと、器を知ることは違う?」
アリシアが尋ねる。
「違うと思います」
セレナは答えた。
「私が両親の名前を思い出しても、器が止まるとは限りません。むしろ、それで完成する可能性もあります」
「名を持たぬ記憶は、器へ戻る」
ミレイが昨日の文字を読み上げる。
「名前がないから器へ戻るのではなく、名前を取り戻す瞬間に器へ取り込まれることも考えられます」
「なら、軽々しく思い出させるわけにはいかない」
学院長が言う。
「はい」
セレナはうなずいた。
その声は悔しさを含んでいた。
本当なら、今すぐ封印箱を開けたいはずだった。
自分の両親の名を知りたい。
故郷の町を確かめたい。
九年間、自分の中にあった空白へ言葉を戻したい。
それでも彼女は、自分から待つことを選んだ。
アリシアには、その選択が黒月を振るうことより難しいように思えた。
『ようやく少し近づいたわね』
ノアが呟く。
『何に?』
『第三の器の本質よ』
ノアは机の上の水害記録を見る。
『あれは水を操っているのではない』
『でも、水の神器を使ってる』
『水は器にすぎないわ』
ノアの金色の瞳が細くなる。
『今回、あれが触れているのは記憶よ』
アリシアは息を止めた。
第一の器は役割を呼んだ。
第二の器は願いを利用した。
第三の器は、失われた記憶へ手を伸ばしている。
水は記憶を沈め、映し、形を変えながら残す。
器が水を選んだのは、ただ属性の順番ではないのかもしれない。
『記憶は、剣で切れば戻るものじゃない』
ノアは続ける。
『力ずくで引き上げれば、形が壊れることもある。偽物と本物が混ざることもある』
『じゃあ、どうすればいい?』
『本人が、自分の足で戻れる場所を残しておく』
治療棟でセレナは言った。
少し戻れた。
水の中ではなく、今の自分がいる場所へ。
アリシアはその言葉を思い出した。
「今の名前」
思わず口に出る。
全員がこちらを見た。
急に注目が集まり、喉が詰まりそうになる。
以前なら、そのまま黙っていたかもしれない。
けれど今は、セレナが待っている。
「何だ?」
カイルが尋ねる。
アリシアは一度息を吸った。
「失った名前を探す前に、今の名前を確認した方がいいと思う」
「今の名前?」
「セレナ・アクレイン」
アリシアは彼女を見る。
「その名前は、器がつけたものじゃない」
「養父母からもらった名前です」
「うん」
セレナという名が、七歳以前のものなのか。
養家へ入ったあとに与えられたものなのか。
今はまだ分からない。
けれどアクレインという姓は、少なくとも彼女を九年間育てた家族とつながる名前だ。
「失った名前が本当で、今の名前が偽物って決めない方がいい」
アリシアは言う。
「どっちもセレナの名前かもしれない」
セレナの瞳が揺れる。
「二つの名前」
「器も言いました」
ミレイが記録を見る。
「水の名は、すでに二つある」
「器の言葉を信じるの?」
カイルが問いかける。
「信じるのではなく、可能性として残します」
ミレイは答えた。
「一つ目が七歳以前の名。二つ目が現在の名。ただし、どちらかが本物でどちらかが偽物とは限りません」
「二つとも本人の名前」
レオンハルトが静かに言う。
「過去と現在を分けるために、器は二つあると言った可能性もあります」
「一つへ戻そうとする器が、二つの名前をどう扱うか」
学院長が考え込む。
「矛盾として消すか。一つへ統合するか。片方を材料にするか」
「だから、今の名前を失わないようにする」
アリシアは続けた。
「昔の名前を見つけたとき、今のセレナが消えないように」
セレナは長い間、アリシアを見ていた。
「昔の名前が、本当の私だったとしても?」
「今ここにいるセレナも本当だよ」
「どうして言い切れるのですか」
「私が知ってるから」
言ったあとで、胸が熱くなった。
大勢の前で誰かを知っていると言うことは、アリシアにとって簡単ではなかった。
「私は、七歳より前のセレナを知らない」
治療が得意な人。
誰かの無理を見つける人。
カイルの勢いを止める人。
落ち着いて見えて、本当は自分の不安を奥へ沈める人。
怖いと口にするまでに、長い時間が必要な人。
「でも、今のセレナは知ってる」
アリシアは続ける。
「だから、昔の名前が見つかっても、今のセレナが偽物になるとは思わない」
会議室は静かだった。
誰も言葉を挟まない。
セレナは何度か瞬きをした。
目の縁が少し赤くなったが、涙は落ちなかった。
「アリシア」
「うん」
「私の名前を呼んでください」
「セレナ」
すぐに呼ぶ。
「もう一度」
「セレナ・アクレイン」
セレナは目を閉じた。
昨日、水の糸へ引かれたときとは違う。
苦しそうではない。
今の名前を、自分の内側へ確かめるように聞いている。
「カイルも」
セレナが言う。
「俺も?」
「お願いします」
カイルは少し気恥ずかしそうに視線を逸らした。
それでも拒まなかった。
「セレナ・アクレイン」
「はい」
「レオンハルト」
「セレナ・アクレイン」
「はい」
一人ずつ。
風の神器継承者。
土の神器継承者。
学院長。
ミレイ。
ケイン。
サーラ。
誰も水とは呼ばない。
治療担当とも呼ばない。
今ここにいる少女の名を、同じ部屋にいる者が順番に呼んだ。
セレナはそのすべてへ返事をした。
最後にノアが机へ飛び乗る。
『セレナ・アクレイン』
声は届かない。
けれどアリシアが伝える前に、セレナは黒猫を見る。
「ノアも、呼んでくれましたか」
『少しは勘がよくなったわね』
「呼びました」
アリシアが答える。
セレナは小さく笑った。
「ありがとうございます」
その瞬間。
会議室の隣室に置かれた測定器が、甲高い音を鳴らした。
全員が立ち上がる。
「水の神器です!」
廊下から警備隊員の声が響く。
扉が開き、治療棟とつながる遠隔測定盤を持った教師が駆け込んできた。
「封印瓶の内部に変化!」
「器の形成率は」
「上昇ではありません」
教師は息を整えながら盤面を見る。
「六つの円が、一つずつ停止しています」
会議室にいた全員が息を呑む。
「停止?」
「回転が遅くなっています。水の糸は出ていません」
「時刻を記録」
ミレイたちが一斉に筆を動かす。
「原因は」
「不明です」
学院長がセレナを見る。
「何か聞こえるか」
セレナは目を閉じる。
雨音。
風。
遠くの鐘。
それ以外に、声は聞こえていないようだった。
「いいえ」
「頭痛や違和感は」
「ありません」
「今、何を考えていた」
学院長の問いに、セレナは少し迷った。
「私の名前を」
「どちらの」
「今の名前です」
水の器は、今の名前を呼ばれることで弱まった。
まだ断定はできない。
だが記録すべき変化だった。
「失われた名前を思い出したわけではない」
ミレイが言う。
「それでも形成が鈍った」
「なら、器が求めているのは名前そのものではない?」
ケインが尋ねる。
「少なくとも、過去の名前だけではない」
学院長は地図ではなく、セレナを見ていた。
「今の自分を失わせることも、目的の一つかもしれない」
セレナの表情が引き締まる。
過去を取り戻させるふりをして。
今の名前。
今の家族。
今いる場所。
今まで積み上げた九年間を、古い記憶へ沈める。
もしそれが第三の器の狙いなら。
セレナが現在の名前を確かめることは、確かに抵抗になる。
「調査方針を変更する」
学院長が告げた。
「封印記録は今夜は開かない」
セレナは一瞬だけ箱を見る。
けれど反対しなかった。
「南方の候補地調査は続ける。ただし、町名と実父母名の特定を最優先にはしない。九年前に何が起きたか、誰が記録を消したか、記憶と記録で消え方が異なる理由を調べる」
「現在の記録も必要です」
ミレイが言う。
「現在?」
「セレナさんが今、何を覚えていて、誰を家族と呼び、どこを帰る場所だと思っているか」
ミレイはセレナの反応を見ながら慎重に続けた。
「過去の記録と比べるためではありません。今のセレナさんを、過去の名前から守るためです」
セレナはしばらく考えた。
「私が話した範囲だけですか」
「はい」
「あとで削除したいときは」
「セレナさんの許可なしに公開しません」
「分かりました」
セレナはうなずく。
「では、今夜は一つだけ残してください」
ミレイが新しい紙を用意する。
「何を?」
「私の帰る場所です」
カイルがセレナを見る。
アリシアも、返事を待つ。
「アクレイン家です」
セレナははっきり言った。
「養父と養母がいる家が、今の私の帰る場所です」
声は途中で揺れなかった。
「実の両親を忘れたという意味ではありません」
「そのまま書きます」
ミレイが筆を走らせる。
「昔の町を捨てるわけでもありません。でも、器が海へ帰れと言っても、私が帰る場所を勝手に決めさせません」
カイルが小さく息を吐いた。
「それでいい」
「あなたに決めてもらったわけではありません」
「分かってる。だからいいって言っただけだ」
「言い方が偉そうです」
「今そこを直す必要あるか?」
「今だから直します」
会議室へ、かすかな笑いが広がった。
緊張が消えたわけではない。
封印箱の中には、まだ誰も開けていない過去がある。
南方では五百人近い人々の記録が欠けている。
水晶瓶の中には未完成の第三の器が浮かび、今も完全には止まっていない。
それでも、先ほどまでとは空気が違った。
失われた名前を見つけることだけが、進むことではない。
今の名前を確かめることも。
現在の家族を選び直すことも。
自分が帰る場所を、自分の言葉で決めることも。
器へ抗う一歩になる。
会議が終わる頃には、夜はさらに深くなっていた。
廊下へ出ると、待機していた生徒会員や治療棟の補助生徒たちが一斉にこちらを見る。詳しい話は知らされていないはずなのに、誰も軽い調子で声をかけなかった。
セレナが会議へ参加していることを知り、無事な顔を確認しに来た者もいたのだろう。
一年生らしい少女が、廊下の端で両手を握りしめていた。
「水の……」
呼びかけかけて、途中で止まる。
昨日までなら、そのまま水の神器継承者と呼んでいたはずだった。
少女は勇気を出すように息を吸う。
「セレナ先輩」
セレナが足を止める。
「はい」
「無事で、よかったです」
それだけ言い、少女は深く頭を下げた。
セレナは少し驚いた顔をしたあと、柔らかく笑う。
「ありがとうございます」
一人が名前を呼ぶと、周囲にいた者たちも続いた。
「セレナ先輩、お大事にしてください」
「治療実習でまた教えてください」
「今は休んでください。実習は待てますから」
声は大きくなかった。
群衆の歓声でもない。
それぞれが、自分の知っているセレナへ言葉を渡している。
治療を教えてくれた先輩。
怪我を診てくれた人。
訓練で厳しく注意してくれた継承者。
そのどれもが、役割だけではなく、今までセレナが積み上げてきた時間だった。
「皆さん」
セレナは廊下に立つ生徒たちを見る。
「心配をかけました」
いつもの彼女なら、大丈夫ですと続けただろう。
だが今夜は違った。
「まだ、大丈夫とは言えません」
周囲が静まる。
「でも、ここにいます」
誰かが息を呑んだ。
「明日も治療実習は休みます。皆さんへ指示を出すこともできません」
「はい」
最初に返事をしたのは、先ほど名前を呼んだ一年生だった。
「待っています」
その言葉に、セレナは目を伏せる。
「ありがとうございます」
廊下を離れ、治療棟へ戻る途中。
アリシアはセレナの隣を歩いていた。
カイルは少し前。
ノアは窓枠の上を器用に進んでいる。
「アリシア」
セレナが呼ぶ。
「うん」
「失った名前が見つかったら」
アリシアは急かさず続きを待つ。
「今の名前を、忘れてしまうでしょうか」
すぐには答えられなかった。
大丈夫だと言いたかった。
絶対に忘れないと約束したかった。
けれど、約束できないことを簡単に言わないと決めた。
「分からない」
アリシアは正直に答える。
「そうですよね」
「でも」
セレナを見る。
「忘れそうになったら、呼ぶよ」
「何度も?」
「返事をするまで」
「返事ができなかったら?」
「それでも呼ぶ」
「疲れませんか」
「たぶん疲れる」
セレナが少し笑う。
「正直ですね」
「でも、やめない」
アリシアは続けた。
「カイルも呼ぶと思う」
前を歩くカイルの肩がわずかに動く。
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言いました」
「俺を勝手に使うな」
「呼ばないの?」
アリシアが尋ねる。
カイルは振り返らなかった。
「返事するまで呼ぶに決まってるだろ」
セレナの笑みが少し深くなる。
「では、お願いします」
「何か偉そうだな」
「あなたにだけは言われたくありません」
雨はまだ降っていた。
けれど窓を叩く音は、夕方より穏やかになっている。
治療棟へ戻ったセレナは、水晶瓶の前へ一人では立たなかった。
治療教師。
カイル。
ミレイ。
アリシア。
ノア。
五人が同じ部屋へ入り、結界越しに未完成の第三の器を見た。
水球の中で、六つの円はほとんど停止している。
完全に消えたわけではない。
中央には、まだ淡い影が残っていた。
「人影」
アリシアが呟く。
昨日見たものと同じだった。
子供ほどの背丈。
輪郭は水に揺れ、顔は見えない。
「私にも見えます」
セレナが言った。
「昨日は見えなかった?」
「はい」
水球の中の影が、ゆっくり顔を上げる。
その瞬間。
セレナが息を止めた。
「知っている?」
アリシアが尋ねる。
「分かりません」
セレナは胸元を押さえる。
「でも」
水球の奥から、小さな手が伸びる。
硝子へ触れる。
音はない。
声も聞こえない。
それでも、その唇が何かを形作った。
ミレイが目を凝らす。
「何と言いましたか」
「読めない」
カイルが水球を睨む。
アリシアにも、最初は分からなかった。
もう一度。
子供の唇が動く。
短い言葉。
二つの音。
名前のように見えた。
「セレナ?」
アリシアが呟く。
「違います」
セレナが答える。
顔色が変わっていた。
「今の名前ではありません」
水球の中の子供が、もう一度同じ言葉を形作る。
けれど音は届かない。
文字も浮かばない。
失われた名前だけが、水の向こう側に残されている。
セレナは硝子へ近づかなかった。
手も伸ばさなかった。
代わりに、自分の胸元へ触れたまま言う。
「私は、セレナ・アクレインです」
水球の中の影が揺れる。
「あなたが誰なのかは、まだ分かりません」
子供の手が、ゆっくり硝子から離れた。
「でも、私を呼ぶなら」
セレナの声が少し震える。
それでも止めなかった。
「今の名前も、知ってください」
六つの円が一度だけ淡く光った。
水球の中心へ、黒い文字が浮かび上がる。
ミレイが読み上げる。
「――二つの名は、同じ水には沈まない」
誰も意味を理解できなかった。
その下へ、もう一行が現れる。
「――片方を選べ」
セレナの表情が固くなる。
第三の器が求めているもの。
過去の名前か。
現在の名前か。
どちらか一つを選ばせ、もう片方を沈めようとしている。
「選ばない」
セレナが言った。
小さな声だった。
しかし水球の前から退かなかった。
「どちらも私の名前なら、器に一つを捨てさせません」
水球が大きく揺れた。
子供の影が、深い水の奥へ沈んでいく。
完全に消える直前。
その手だけが、もう一度こちらへ伸びた。
助けを求めているようにも。
引き込もうとしているようにも見えた。
まだ、どちらかは分からない。
水球の光が弱まり、封印室へ静けさが戻る。
アリシアは黒月の柄へ触れなかった。
今は切るべき線が見えていない。
無理に斬れば、セレナの過去と現在をつなぐ何かまで断つかもしれない。
だから待つ。
何もしないのではない。
今の名前を呼び続けながら、本人が自分で選べる場所を守る。
失われた名前を探す前に。
見つけた過去へ、今の少女が飲み込まれないように。
「セレナ」
アリシアが呼ぶ。
「はい」
すぐに返事があった。
カイルも続く。
「セレナ」
「はい」
ミレイも。
「セレナさん」
「はい」
ノアが尾を揺らす。
『セレナ・アクレイン』
声は届かない。
けれどセレナは黒猫を見て、小さくうなずいた。
「ここにいます」
第三の器はまだ消えていない。
過去の名も明らかになっていない。
南方で消えた五百人の記録も、水の中の子供の正体も分からない。
それでも今夜、セレナは一つだけ器へ渡さなかった。
今の自分の名前を。
自分が帰ると決めた場所を。
そして、二つの名のどちらかを捨てろという声へ従う権利を。
雨音の続く封印室で、未完成の第三の器は再び沈黙した。
その水の底で。
名前を失った子供だけが、誰にも届かない声で、もう一つの名を呼び続けていた。




