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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第96話 水の名を呼んでも、沈めた記憶までは浮かばなかった



 学院へ戻る道は、来たときよりも長く感じられた。


 森の中に残る湿気は変わらず、葉の上には細かな水滴が連なっている。足元の土は柔らかく、二十一人分の足跡が往路の跡へ重なり、ところどころ深い窪みを作っていた。


 第二の器は止めた。


 光の神獣ルクスの羽根も手に入れた。


 怪我人はいない。


 調査として見れば、大きな成果だった。


 それでも誰の表情にも、無事に終わったという安堵は長く残らなかった。


 第三の器が、すでに動いている。


 次に呼ばれるのは水。


 しかも器が現れる場所は、水の記憶が沈む場所だという。


 場所の名なのか。


 古い施設なのか。


 水の神器継承者が忘れようとしている過去なのか。


 何も分からない。


 ただ一つ、ルクスははっきり告げた。


 器を追うな。


 水の名を呼べ。


 アリシアは歩きながら、その言葉を何度も胸の中で繰り返していた。


 水の神器継承者の名前を、もちろん知っている。


 六人で集まるとき、教師たちが何度も呼んでいた。


 怪我を診てもらったこともある。


 自分が無理をしたとき、静かな声で注意されたことも、一度ではない。


 けれど今、その名前を思い出そうとすると、奇妙な引っかかりがあった。


 知っているはずなのに、役割の方が先に浮かぶ。


 水の神器継承者。


 治療が得意な人。


 落ち着いていて、火の神器継承者の勢いを止める人。


 誰かの顔色を見逃さない人。


 名前は、そのあとに続いて出てくる。


『ずいぶん難しい顔をしているわね』


 ノアが足元の濡れた落ち葉を避けながら言う。


『名前は知ってる』


『でしょうね。知らなかったら、さすがに呆れるところよ』


『でも、名前を知ってるだけじゃ足りないって、ルクスが言った』


『ええ』


『何を知ればいいのかな』


 ノアはすぐには答えなかった。


 少し前を歩くレオンハルトの背中を見る。


 その手には、封印布で包まれた光の神器と、さらに別の透明な保護筒へ収められた白い羽根がある。


『名前を知るというのは、相手の情報を増やすことではないわ』


『情報じゃない?』


『年齢。出身。好きな食べ物。嫌いなもの。そういうことを百個知っても、相手を役割としてしか見ていない者はいる』


『じゃあ、何?』


『その者が、自分で選んだ言葉を聞くことよ』


 アリシアはノアを見る。


『水の継承者は、自分のことをあまり話さない』


『そうね』


『人のことはよく聞くのに』


『そういう者ほど、自分の内側を深く沈めるものよ』


『聞けば、話してくれるかな』


『聞き方によるでしょうね』


『どう聞けばいい?』


『それを私に尋ねている時点で、あなたはまだ相手より正解を見ているわ』


 少し厳しい言葉だった。


 アリシアは足元へ視線を落とす。


 正しい質問。


 正しい言葉。


 器を止めるために必要な答え。


 自分はそれを探していた。


 水の神器継承者が何を沈めているのか知れば、第三の器を止められる。


 だから聞く。


 それでは結局、相手を器への対策として見ているだけなのかもしれない。


『難しい』


『人の心を、神器の術式より簡単だと思っていたの?』


『思ってない』


『なら、急いで答えを出そうとしないことね』


 しかし、時間がない。


 第三の器は、もう動いている。


 その焦りを消すことはできなかった。


 調査班が学院北門へ到着すると、待機していた教師と警備隊がすぐに駆け寄ってきた。


 門の内側には、簡易の治療所と記録台が設けられている。サーラが地上班の人数記録を持ち、地下へ入った九名が全員戻ったことを、到着した一人ずつの顔を見ながら確認した。


「地下班九名、全員帰還。調査班二十一名、欠員なし」


 その声を聞いたとき、アリシアの胸にようやく小さな安堵が生まれた。


 第二の器を壊したことよりも。


 全員が戻ったという言葉の方が、はっきり終わりを感じさせた。


「学院側に異変は?」


 学院長が尋ねる。


 待機していた教師は、すぐに首を横へ振らなかった。


「旧資料室の第一の器は沈黙を維持しています。封印にも変化はありません」


「水の神器継承者は」


「中央治療棟の会議室で待機中です。水の神器に二度、小さな反応がありました」


 アリシアの胸が緊張する。


「時刻は?」


 学院長の問いに、教師が記録用紙を差し出す。


「一度目は、現地から第三の器について連絡が届く四分前。二度目は、その連絡を本人へ伝えた直後です」


「本人の体調は」


「異常なし。ただし、二度目の反応時に短い幻聴があったと報告しています」


「内容は?」


 教師は一瞬、答えることを迷った。


「名前を呼ばれたそうです」


 アリシアは思わず顔を上げる。


「誰に?」


「声の主は分からないとのことです」


「何と呼ばれましたか」


 今度はレオンハルトが尋ねた。


「神器継承者としてではなく、本人の名前を」


 その言葉に、周囲の空気が変わる。


 ルクスは、水の名を呼べと言った。


 第三の器もまた、役割ではなく名前を使い始めたのか。


 それとも、器とは別の誰かが呼んでいるのか。


「すぐに本人へ確認する」


 学院長が命じる。


 調査班の全員が中央棟へ向かおうとしたが、門を通過したところで副学院長が立ち止まった。


「全員で会議室へ入るべきではありません」


「なぜだ」


 火の神器継承者が尋ねる。


「本人は今、次の標的として見られています。戻った二十一人が一斉に囲めば、報告ではなく尋問になる」


 正しい。


 アリシアも、旧資料室から出た直後に全員から質問されたら、答えられなかったかもしれない。


「では、誰が行く」


 学院長が尋ねる。


 副学院長は少し考えた。


「まず治療教師と学院長。神器継承者からは二名まで」


「私が行きます」


 アリシアより先に、火の神器継承者が言った。


 全員の視線が集まる。


「何だよ」


「声が大きいです」


 レオンハルトが言う。


「今回は抑える」


「抑えると言って抑えられたことが?」


「ある」


「いつですか」


「今から」


 火の神器継承者は真剣だった。


 普段なら冗談に近いやり取りになるところだが、誰も笑わなかった。


「水とは、俺が一番長く一緒に訓練してる」


 彼は続ける。


「言わないことがあるのも知ってる。だから、俺が行く」


 副学院長はすぐには決めなかった。


 次に、アリシアを見る。


「アリシアも希望するか」


 胸の中では、すでに行きたいと答えていた。


 けれど言葉にする前に、一度考える。


 自分は水の神器継承者の記憶を聞きたい。


 器を止めるために。


 その思いが強すぎるなら、今はそばへ行かない方がいいかもしれない。


「私は」


 言葉が止まる。


 火の神器継承者がこちらを見た。


 レオンハルトも、ノアも。


 急かさず待っている。


「話を聞きたいです」


 アリシアは正直に言った。


「でも、第三の器を止めるための答えを急いで聞こうとしてしまうかもしれません」


 自分で口にすると、少し恥ずかしかった。


 相手を助けたいと言いながら、必要な情報を得ようとしている。


 そのことを隠したくなかった。


「だから、私が行っていいかは……本人に決めてもらいたいです」


 副学院長がわずかに目を細める。


 学院長は教師へ向く。


「水の神器継承者へ確認を。火とアリシアの二名が面会を希望している。どちらか一名、二名とも、あるいはどちらも断ってよいと伝えよ」


 教師が中央棟へ走る。


 待つ間、調査班は門前の記録台で装備と体調を確認された。


 アリシアの腕には、器の影が絡んだ場所に淡い青黒い跡が残っていた。


 痛みはない。


 冷たさもほとんど消えている。


 それでも治療教師は、放置を許さなかった。


「異常なしと判断するまで、黒月の使用は禁止します」


「でも、第三の器が」


「だからこそです」


 教師は薬液を染み込ませた布を、腕へ巻く。


「今すぐ動く必要がある場合も、状態を知らずに神器を使えば危険が増えます」


「はい」


「返事が早いですね」


「最近、同じことを何度も言われるので」


『少しは学習したのね』


 ノアが近くの台へ飛び乗る。


「ノアにも言われます」


「では、今度こそ守ってください」


 火の神器継承者も、地下で光の反動を受けていないか確認されている。土の神器継承者は両腕の筋肉に強い負担がかかっており、しばらく神器の使用を控えるよう言い渡されていた。


「床を支えるのは無理をしすぎです」


 治療教師が厳しく言う。


「支えなければ全員落ちていた」


「必要だったことと、身体が無事であることは別です」


「分かっている」


「分かっている人は、隠して歩きません」


 土の神器継承者は黙った。


 彼もまた、痛みを申告していなかったらしい。


 アリシアはその横顔を見る。


 自分だけではない。


 役割を果たした者ほど、終わったあとに自分の傷を後回しへ置く。


 水の神器継承者は、いつもそれを見つけていた。


 では彼女自身が傷ついたとき、誰が見つけてきたのだろう。


 中央棟から教師が戻った。


「面会の返答です」


 全員が視線を向ける。


「火の神器継承者とアリシア、二名とも入ってよいとのことです。ただし」


「ただし?」


 火の神器継承者が尋ねる。


「第三の器について質問する前に、現地で起きたことを最初から説明してほしいと」


 アリシアは少し驚いた。


 自分のことを話す前に。


 まず、相手の見たものを聞きたい。


 水の神器継承者らしい頼みだった。


「分かりました」


 アリシアは答える。


「全部話します」


「記録担当者は?」


「本人から、ミレイにも同席してほしいと希望がありました」


 ミレイが目を見開く。


「私ですか?」


「現地記録を見ながら確認したいそうです」


 学院長がうなずく。


「三名で入れ。火、アリシア、ミレイ。ノアも同行を許可する」


『私は数に入っているのかいないのか、毎回曖昧ね』


「ノアも一緒です」


 アリシアが言う。


『わざわざ訂正しなくてもいいわ』


 中央治療棟は、訓練中止後も普段通りの静けさを保とうとしていた。


 廊下を歩く治療師たちは早足だったが、声を荒らげる者はいない。薬草と清潔な布の匂いが混じり、窓辺には曇り空から淡い光が差している。


 会議室の前には警備隊員が二名立っていた。


 扉の表面には水色の結界が張られ、床には神器の魔力を測る小さな器具が置かれている。


「中へ入る前に、武器を確認します」


 警備隊員が言う。


 火の神器は封印布へ。


 黒月も鞘から抜かないことを確認される。


 ミレイの鞄も、記録道具以外がないか簡単に調べられた。


「入室者四名」


 ミレイが小さく記録する。


「ノアさんを含めると五名です」


『この子は分かっているわ』


 ノアが満足そうに尾を上げる。


 扉が開く。


 会議室の中央には円卓があり、その奥に水の神器継承者が座っていた。


 淡い青色の髪は普段通りきれいにまとめられている。制服にも乱れはなく、姿勢も崩れていない。


 机の上には、透明な水晶瓶に封じられた水の神器が置かれていた。


 形は銀色の雫を組み合わせた腕輪。


 普段は彼女の手首にある。


 今は器具の中へ隔離され、淡い青い光を時折脈打たせていた。


 彼女は入ってきた三人と一匹を見る。


「戻ったのですね」


 最初に口にしたのは、それだった。


「はい」


 アリシアが答える。


「怪我は?」


 やはり次も、自分のことではない。


「アリシアは影に触れた」


 火の神器継承者が言う。


「でも治療済みだ。土は腕を痛めた。地下へ入った全員は帰ってる」


「レオンハルトは」


「無事です」


 アリシアが答える。


「ルクスの声を聞きました」


 水の神器継承者の表情が、わずかに変わる。


「本当に?」


「はい。羽根も残りました」


「第二の器は」


「完成する前に止めました」


 彼女の肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。


 表情をよく見なければ分からない程度だった。


「最初から、話してください」


 頼まれた通り、アリシアたちは森で起きたことを説明した。


 眠光井へ向かうまで。


 地上の石床。


 地下室。


 半透明の第二の器。


 ルクスの姿を使った偽りの声。


 六つの円を結ぶ線。


 光と闇が別の役割を持ちながら器を止めたこと。


 ミレイは記録用紙を広げ、時刻と順番を補った。


「第二の器が最初に確認された時刻は、学院側で水の神器が一度目に反応した時刻と、ほぼ一致します」


 水の神器継承者はその記録を見つめる。


「器が完成し始めたとき、私の神器にも影響が出ていた」


「たぶん」


 アリシアが答える。


「第二の器は光を中心にしていましたが、ほかの五つへも線を伸ばしていました」


「水の線が切られた時刻は?」


 ミレイが紙を確認する。


「学院側の二度目の反応より、少し前です」


「では、二度目は第三の器によるもの」


「可能性があります」


 断定はできない。


 けれど時刻は近い。


 説明は、ルクスの言葉へ進む。


「第三の器は、水の記憶が沈む場所にあるそうです」


 アリシアが言う。


「それから、器を追うな、水の名を呼べと」


 水の神器継承者は、長い間何も言わなかった。


 目を伏せ、水晶瓶の中にある神器を見る。


 淡い青い光が、一度だけ揺れる。


「私の名前を、知っていますか」


 突然、彼女が尋ねた。


 レオンハルトと同じ問いだった。


 火の神器継承者が眉を寄せる。


「知ってるに決まってるだろ」


「では、呼んでください」


 彼は一瞬だけ戸惑った。


 普段、六人で呼び合うとき、火や水と属性で呼ぶことが多い。


 危険な場面ほど、その方が短くて伝わりやすい。


 だから名前を口にすることが、思っていたより不自然になっていた。


「……セレナ」


 火の神器継承者が呼ぶ。


 水の神器継承者――セレナは、その声を静かに受け止める。


 次にアリシアを見る。


「アリシアも」


「セレナ」


 名前を呼ぶ。


 胸の中に、少し違う輪郭が生まれた。


 水の神器継承者ではない。


 目の前に座っている、セレナという一人の少女。


「はい」


 セレナは返事をした。


 けれど、水の神器には何も起きない。


 淡い光は変わらない。


 黒い紙片も現れない。


 器の声も聞こえない。


「名前を呼ぶだけでは、やはり足りないようですね」


 セレナは自分で言った。


 声は落ち着いている。


 しかし、その落ち着きが作られたものだと、今のアリシアには少し分かる。


「セレナは、声を聞いたんですよね」


 アリシアが尋ねる。


「はい」


「どんな声でしたか」


「分かりません」


「男の人? 女の人?」


「どちらとも言えません」


「知っている人の声?」


 セレナの視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。


 火の神器継承者も気づいたらしく、身体を少し前へ動かす。


「知ってる声なのか」


「分かりません」


「今、何か思い出しただろ」


「思い出していません」


「セレナ」


 名前で呼ばれ、彼女の肩が硬くなる。


 火の神器継承者は、それ以上詰めようとした。


 アリシアは机の下で手を握る。


 止めるべきか。


 けれどセレナが、先に言った。


「名前で呼べば、何でも話せると思わないでください」


 声は大きくない。


 それでも火の神器継承者の言葉を止めるには十分だった。


 会議室へ沈黙が落ちる。


「名前を知っていることと、私が話したいことは別です」


「……悪い」


 火の神器継承者はすぐに謝った。


 言い訳をしなかった。


「でも、声が誰か分かってるなら」


「分かっていません」


「本当に?」


 再び尋ねかけ、彼は途中で口を閉じた。


 セレナは水晶瓶を見つめている。


 ミレイは記録板を開いていたが、今の会話をどこまで書くべきか迷っている様子だった。


「記録しなくていいです」


 セレナが言う。


 ミレイは顔を上げる。


「今のことは?」


「私個人の感情です。調査記録には必要ありません」


 ミレイはすぐには筆を置かなかった。


「声を知っているかもしれない、という反応は、必要ではないでしょうか」


 セレナが彼女を見る。


 視線は厳しくない。


 けれど、簡単に答えられる問いでもない。


「全部を書く必要はありません」


 ミレイは慎重に続ける。


「でも、何かを思い出しかけた可能性があることだけでも」


「私が否定しているのに?」


「はい」


 会議室の空気が張る。


 ミレイの指は少し震えていた。


 それでも筆を置かなかった。


「私は、セレナさんが嘘をついていると言いたいわけではありません」


「では、何を」


「分からないと答えたことと、表情が変わったことを、両方残したいです」


 記録の不一致。


 言葉と反応の違い。


 どちらかを間違いとして消さずに残す。


 旧資料室の時刻のずれを見つけたときと同じだった。


「あとで、セレナさん自身が必要ないと判断したら、非公開の記録にできます」


 ミレイは言う。


「でも今、全部消してしまったら、あとから確かめられません」


 セレナは黙った。


 しばらくして、ゆっくり息を吐く。


「……個人記録として封印してください」


「はい」


「調査班全員へは共有しないでください」


「学院長と、セレナさんが許可した人だけにします」


 ミレイは紙を分け、新しい記録用紙の上へ小さく印をつけた。


 セレナの意思を無視せず。


 それでも違いを消さない。


 アリシアはそのやり取りを見ながら、自分が質問を急がなくてよかったと思った。


「水の記憶が沈む場所に、心当たりはありますか」


 今度は火の神器継承者ではなく、アリシアが尋ねた。


「場所として?」


「場所でも、記憶でも」


 セレナは少し考える。


「水に関係する場所なら、学院内だけでも多くあります。中央貯水槽、治療棟の水室、訓練用水場、地下水路」


「昔の場所は?」


「学院創設前の施設については知りません」


「セレナ自身の記憶は」


 問いを口にしたあと、アリシアは続けた。


「話したくなければ、話さなくていいです」


 セレナはアリシアを見る。


「器を止めるために必要でも?」


 胸を突かれたようだった。


 先ほど、自分が恐れていたことを見抜かれている。


「必要でも」


 アリシアは答えた。


「無理に聞いたら、器と同じになると思うから」


「器と?」


「器は、役割だけを見ます。必要なものを、本人の意思を聞かずに取ろうとします」


 黒月。


 光。


 神獣。


 記憶。


 必要だから差し出せと命じる。


「私たちが、止めるために必要だから話してと言ったら、同じです」


 セレナは少し目を伏せた。


「でも、話さなければ間に合わないかもしれません」


「うん」


「誰かが危険になるかもしれません」


「うん」


「それでも聞かない?」


 アリシアはすぐに答えられなかった。


 きれいな言葉だけでは足りない。


 第三の器が完成すれば、セレナだけではなく、ほかの神器も危険になる。


 話さない自由を守ることで、別の誰かが傷つく可能性もある。


「聞きます」


 アリシアは言った。


「でも、答えるようには命じません」


「違いがありますか」


「あると思います」


「どんな?」


「聞きたいと伝えます。必要な理由も伝えます。でも、話さないと決めたら、そのあと別の方法を探します」


 時間がかかる。


 間に合わないかもしれない。


 それでも、相手の内側を力ずくで開けることはできない。


 セレナは長い間、アリシアを見ていた。


 やがて水晶瓶へ視線を戻す。


「私は、七歳まで海辺の町にいました」


 火の神器継承者が顔を上げる。


 アリシアも、息を止めた。


 セレナが自分から話し始めた。


「知っていましたか」


「出身が南の町だとは」


 火の神器継承者が答える。


「海辺だとは知らなかった」


「学院の登録には、現在の養家の住所しか書かれていません」


「養家?」


 アリシアが尋ねる。


「実の両親とは、暮らしていません」


 セレナは淡々と続ける。


 声だけを聞けば、誰かの記録を読んでいるようだった。


「七歳の夏、町に大きな嵐が来ました。川が溢れ、海の水が町へ入りました」


 会議室の窓の外で、風が木々を揺らす。


 曇り空。


 湿った空気。


 森から戻ったばかりの服に残る冷たさ。


 水の話を聞くには、あまりに近い感覚だった。


「避難所へ向かう途中で、橋が崩れました」


 セレナの手が、机の下で組まれる。


「私は水へ落ちました」


 火の神器継承者が何か言おうとしたが、止めた。


「目を開けると、全部が青く見えました。上も下も分からなくて、音は遠くて。誰かが私の名前を呼んでいました」


「その声が、今日聞こえた声と同じ?」


 アリシアは静かに尋ねる。


「分かりません」


 今度の返事は、先ほどより苦しそうだった。


「水の中では、声ははっきり聞こえませんでした。父だったかもしれない。母だったかもしれない。近所の人かもしれない」


「助かったのは」


「水の神器が、私を選びました」


 水晶瓶の中の神器が淡く光る。


「当時の継承者は、亡くなった直後だったそうです。次の器を探していた神器が、流された私へ力を与えた」


「七歳で?」


「はい」


「両親は」


 火の神器継承者が尋ねた。


 声は、普段よりずっと小さかった。


 セレナは少しだけ目を閉じる。


「見つかりませんでした」


 死んだと、はっきり言わない。


 見つからなかった。


 その言葉の中に、長い時間が沈んでいる。


「遺体も?」


「はい」


「ずっと?」


「はい」


 火の神器継承者は拳を握ったが、机を叩かなかった。


「それで、養家に」


「町の治療師だった夫婦が引き取りました」


「水の記憶が沈む場所って」


 アリシアは慎重に言う。


「その町かもしれない?」


「町は復興しています。川も橋も作り直されました」


「でも、記憶は」


「覚えていません」


 セレナの声が少し強くなる。


「落ちたところまでです。そのあと、神器に救われるまでのことは、ほとんど」


「名前を呼ぶ声だけ?」


「それも、本当に聞いたか分かりません」


 セレナは自分の記憶を否定するように言った。


「水の中で、助けを求めた私が作った声かもしれない」


 アリシアは、旧資料室の箱を思い出す。


 相手が求める声を見せる。


 光の神器継承者には、ルクスの助けを求める声を。


 セレナには、七歳のときに聞いたかもしれない声を。


「第三の器は、その記憶を使うつもりなのかもしれない」


 火の神器継承者が言う。


「セレナを呼んで、両親がいると思わせる」


「断定しないでください」


 セレナがすぐに返す。


「声が両親だと決まったわけではありません」


「でも可能性はある」


「可能性だけで、私の記憶を決めないで」


 火の神器継承者が黙る。


 言葉を間違えたと気づいた顔だった。


「ごめん」


 再び謝る。


「俺は、早く何か見つけようとしてる」


「分かっています」


「でも、勝手に決められるのは嫌だよな」


「はい」


「じゃあ、声が誰かは分からないままでいい」


 セレナが彼を見る。


「でも、七歳の水の記憶が関係してる可能性は、残す」


「……はい」


 ミレイが封印用の記録へ、二人の言葉を書き込む。


 分からないまま残す。


 声の主を、今決めない。


「その町の名前は?」


 アリシアが尋ねる。


 セレナの唇が、わずかに動いた。


 けれど音にならない。


「話したくない?」


「違います」


「では」


「思い出せません」


 アリシアは瞬きをする。


「住んでいた町の名前を?」


「はい」


 火の神器継承者も驚いた顔をする。


「七歳なら、覚えてるだろ」


「記録には残っています。養父母も知っています。私も、書かれた名前を読めば分かります」


「でも、自分では出てこない?」


「はい」


 セレナは苦しそうに眉を寄せる。


「町の景色は覚えています。白い石の道。海沿いの市場。青い屋根の家。父の靴。母の髪を結ぶ紐」


 断片はある。


 けれど町の名前だけが、記憶から抜けている。


「両親の名前は?」


 アリシアが尋ねた。


 セレナの顔が固まった。


 長い沈黙。


 水晶瓶の中で、神器が一度強く光る。


「……出てきません」


 声が掠れた。


「記録を見れば、分かるんです」


「今は?」


「分かりません」


 セレナは両手で自分の頭を押さえた。


「知っていたはずです。忘れるはずがない」


 呼吸が速くなる。


 治療教師を呼ぶべきか。


 アリシアが立ち上がりかける。


「来ないで」


 セレナが言った。


 アリシアは止まる。


「ごめんなさい」


「謝らなくていいです。ただ、今は」


 彼女は自分の呼吸を整えようとする。


 けれど水の神器が強く脈打ち、瓶の内側へ水滴が浮かび始めた。


「神器が反応しています」


 ミレイが記録する。


「時刻。光の強さ、先ほどの約三倍」


「セレナ」


 火の神器継承者が名前を呼ぶ。


「聞こえるか」


「聞こえています」


「ここは治療棟だ」


「分かっています」


「水の中じゃない」


「分かっています!」


 声が強くなる。


 机の上の水晶瓶が揺れる。


 内側の水滴が増え、透明な壁を覆っていく。


 セレナは自分の声に驚いたように息を止めた。


「ごめんなさい」


「謝るな」


 火の神器継承者は椅子から動かなかった。


 近づかない。


 それでも名前を呼ぶ。


「セレナ」


「……はい」


「俺の名前は?」


 予想外の問いだった。


 セレナが顔を上げる。


「何を」


「俺の名前」


「知っています」


「呼んでくれ」


 彼は真剣だった。


 セレナは戸惑いながら口を開く。


「カイル」


 火の神器継承者――カイルは、すぐに返事をした。


「いる」


 短い言葉だった。


「次、アリシア」


 セレナがアリシアを見る。


「アリシア」


「ここにいます」


「ミレイ」


 セレナは記録板を抱える少女を見る。


「ミレイ」


「はい。ここにいます」


 ノアが机の端へ飛び乗る。


『私もよ』


「ノア」


 アリシアが代わりに伝えようとすると、セレナは首を横へ振った。


「ノア」


 ノア自身へ向けて呼ぶ。


『いるわ』


 その声はセレナには聞こえない。


 けれどノアは尾を一度机へ打ち、確かに返事をした。


「両親の名前が出なくても」


 カイルが言う。


「今ここにいる人の名前は出る」


「だから何ですか」


「分からない」


 正直な答えだった。


「でも、全部なくなったわけじゃない」


 セレナは何も言わなかった。


 神器の光はまだ強い。


 けれど水晶瓶の揺れは少しずつ収まっている。


 アリシアは、セレナの顔を見る。


 役割を果たすためではなく。


 記憶を聞き出すためでもなく。


 ただ今、目の前にいる一人として。


「セレナ」


 もう一度、名前を呼ぶ。


「何ですか」


「両親の名前を、今思い出さなくていいです」


「でも」


「忘れたくて忘れたんじゃないと思います」


 セレナの目が揺れる。


「水の中へ沈めたのは、セレナじゃないかもしれない」


「では誰が」


「分かりません」


 器かもしれない。


 神器かもしれない。


 七歳の彼女自身を守るため、記憶が閉じたのかもしれない。


「分からないから、セレナが悪いって決めないで」


 自分自身へ言っているようでもあった。


 アリシアも、できなかったことを自分の責任にしやすい。


 すぐに助けられなかった。


 全部を見られなかった。


 次の器が動いた。


 だから自分が何とかしなければ。


 セレナも同じように、思い出せないことを自分の失敗として扱っている。


「思い出せないのに、名前を呼べと言われても」


 セレナの声が震える。


「私は、誰の名前を呼べばいいんですか」


 ルクスは、水の名を呼べと言った。


 自分たちはセレナを呼んだ。


 けれど第三の器が狙うのが、彼女の記憶の中にいる誰かなら。


 その名を呼ばなければならないのか。


 思い出せない名前を。


「私たちが、セレナを呼びます」


 アリシアは答えた。


「それだけで止まる保証はありません」


「うん」


「両親の名前が必要かもしれない」


「うん」


「町の名前も」


「必要かもしれません」


「では、調べないと」


 セレナは立ち上がろうとする。


 水晶瓶が再び揺れた。


「養家の記録を。学院の登録を。今すぐ確認します」


「待って」


「時間がありません」


「セレナ」


「第三の器が動いています」


 彼女の声に焦りが戻る。


 自分の記憶を取り戻すためではない。


 器を止めるために、必要な情報を集めようとしている。


 また役割へ戻ろうとしている。


「調べる人は、ほかにいます」


 アリシアが言う。


「私が調べます」


「セレナは、今ここにいて」


「なぜ」


「神器が反応してるから」


「だからこそ、私が」


「だから、休んでください」


 セレナの表情が固くなる。


「私を動けない役にするのですか」


 昨日の訓練。


 アリシアが動けない役を与えられた。


 今度は、自分が止められる側になる。


「違います」


 アリシアは首を横へ振る。


「動けないんじゃなくて、今の役割を変えてほしいです」


「休むことが役割ですか」


「自分の記憶と、今聞こえる声を分けること」


 セレナは黙る。


「今すぐ記録を見たら、書いてある名前が本当の記憶みたいになるかもしれない」


 アリシアは慎重に言葉を選ぶ。


「セレナが覚えていることと、紙に書いてあることを、分けて残したいです」


 ミレイがうなずく。


「記録を見る前の状態を、先に書きましょう」


「私の記憶を記録するのですか」


「話したい範囲だけです」


「何のために」


「あとで記録を見たあと、変わったところを比べるためです」


 書かれた情報で、記憶が塗り替えられることがある。


 町の名。


 両親の名。


 知れば、昔から覚えていたように感じてしまうかもしれない。


 第三の器が狙うのが記憶なら、その違いは重要だった。


「今、覚えている景色。音。匂い。名前が出ないこと。声が誰か分からないこと」


 ミレイが言う。


「それを先に残してから、ほかの人が資料を探します」


 セレナは水晶瓶を見つめる。


 すぐに調べに行きたい。


 何かしていたい。


 待つのは怖い。


 その気持ちが、アリシアには分かった。


「私が資料を探す」


 カイルが言う。


「字を読むの、苦手でしょう」


 セレナが反射的に返す。


「必要なら読む」


「登録書類は古い書式です」


「教師に聞く」


「誤読したら」


「ミレイたちに確認してもらう」


 カイルは一つずつ答える。


「俺一人でやらない。だからセレナも一人でやるな」


 彼女はしばらく何も言わなかった。


「……私がいない方が、早く進むかもしれませんね」


「そういう言い方はやめろ」


「事実です」


「違う。今のお前にしかできないことがある」


「何ですか」


「思い出せないって言うこと」


 カイルの声は、少し不器用だった。


「分からないって言うこと。怖いって言うこと」


「怖いとは言っていません」


「じゃあ、怖くないのか」


 セレナは答えない。


 カイルも急かさない。


 会議室には、神器の測定器が小さく音を立てている。


 窓の外で、細かな雨が降り始めた。


 雲が耐えきれなくなったように。


 最初は一滴ずつ。


 すぐに数が増え、硝子へ淡い線を作っていく。


 セレナは雨音を聞いた瞬間、顔色を変えた。


 水晶瓶の中の神器が、強く光る。


「セレナ」


 アリシアが名前を呼ぶ。


 返事がない。


 彼女の視線は窓へ向いている。


「雨が」


 小さく呟く。


「強くなる」


 まだ大雨ではない。


 けれどセレナには、別の音として聞こえているのかもしれない。


 七歳の夏。


 町を襲った嵐。


「窓を閉めますか」


 ミレイが尋ねる。


「閉まっています」


「雨音を弱くする結界を」


「待って」


 セレナが止める。


 両手を机の上へ置き、震えを押さえる。


「今、声が聞こえます」


 全員が静まる。


「誰の?」


 アリシアが尋ねる。


「分かりません」


「何て言ってる?」


 セレナは耳を澄ませるように目を閉じる。


 神器の青い光が、水晶瓶の内側を満たしていく。


「帰っておいで、と」


 雨が、窓を強く叩いた。


 こつ。


 こつ。


 旧資料室と眠光井で聞いた音に似ている。


 けれど今は、雨粒の音だ。


「どこへ?」


 カイルが尋ねる。


「海へ」


 セレナの声が遠くなる。


「水の中へ戻れば、名前を思い出せる」


 アリシアの背中へ冷たいものが走る。


 器の声だ。


 思い出せない名前を餌にして、セレナを呼んでいる。


「聞かないで」


 アリシアが言う。


「でも、両親の名前が」


「器が教える名前は、本物か分からない」


「本物かもしれません」


「でも、セレナを水へ戻そうとしてる」


「私が戻れば、ほかの神器は」


「だめです」


 強い声が出た。


 セレナが目を開く。


 アリシア自身も驚くほど、はっきりした声だった。


「セレナが戻る必要はありません」


「でも」


「忘れている名前より、今ここにいるセレナの方が大事です」


 セレナの目が揺れる。


「両親を忘れても?」


「忘れたくないなら、一緒に探します」


「器が先に完成したら」


「別の方法で止めます」


「見つからなかったら」


「それでも、セレナを渡しません」


 理屈ではない。


 保証もない。


 けれど、これだけは言えた。


「名前を思い出すために、セレナが消えたらだめです」


 水晶瓶の中の光が激しく揺れる。


 セレナは何かを言おうとした。


 その瞬間。


 瓶の内部に溜まっていた水滴が、一斉に中央へ集まった。


 小さな水の球になる。


 球の表面へ、黒い文字が浮かぶ。


 古代文字。


 ミレイが息を呑む。


「第三の器からの文字です」


 水球はゆっくりと形を変える。


 箱ではない。


 まだ輪郭もない。


 ただ透明な水の中に、六つの円が浮かんでいる。


 第三の器は、ここで作られ始めている。


「全員、離れて!」


 カイルが立ち上がる。


 だがセレナは水晶瓶の目の前にいる。


 瓶の中の水球から、細い水の糸が伸びた。


 硝子をすり抜け。


 セレナの指先へ触れる。


「セレナ!」


 アリシアは立ち上がる。


 黒月へ手を伸ばすが、使用を禁じられている。


 それ以前に、ここで闇の神器を抜けば、水の器へ新たな線を与えるかもしれない。


「触れないで!」


 セレナ自身が叫ぶ。


 水の糸が手首へ巻きつく。


 痛みはないように見える。


 しかし彼女の瞳から、少しずつ焦点が失われていく。


「声が」


「何て言ってる!」


 カイルが尋ねる。


「名前を返す」


「聞くな!」


「父と、母の名前を」


 セレナの唇が動く。


 知らない名前を口にしようとしている。


 それが器から与えられたものなら、記憶そのものを書き換えられるかもしれない。


「セレナ!」


 アリシアは名前を呼ぶ。


 返事がない。


「セレナ・アクレイン!」


 今度は、フルネームで。


 学院の記録にある、現在の彼女の名。


「ここにいるセレナ!」


 カイルも叫ぶ。


「俺を見ろ!」


 ミレイが記録板を机へ置き、声を上げる。


「セレナさん、窓の外は学院の中庭です! 海ではありません!」


 言葉が重なる。


 誰も、水の糸へ直接触れない。


 役割だけではなく、今の彼女を呼ぶ。


「セレナ!」


「ここにいます!」


「水の中じゃない!」


「帰る場所は、ここにもある!」


 セレナの唇が震える。


 器が教えようとする名と。


 周囲から呼ばれる自分の名。


 二つの間で揺れている。


 アリシアは机を回り込もうとした。


 ノアが低く叫ぶ。


『近づきすぎないで! 水の線は黒月へも伸びる!』


 見ると、水晶瓶の底から新しい線が伸び始めていた。


 床を這い。


 アリシアの腰にある黒月へ向かっている。


 第三の器も、すでにほかの神器を求めている。


「アリシア、下がれ!」


 カイルが言う。


「でも」


「お前は黒月を守れ!」


 カイルはセレナの前へ立つ。


 神器は封印されたまま。


 火を使わない。


 ただ一人の人間として、名前を呼ぶ。


「セレナ」


 彼女の目が、わずかに動く。


「俺の名前、さっき呼んだだろ」


「……カイル」


「そうだ」


「アリシア」


 今度はアリシアを見る。


「ここにいます」


「ミレイ」


「はい」


「ノア」


『いるわ』


 アリシアが頷き、ノアの返事を伝える。


「みんな、いる」


 セレナの声が戻り始める。


 水の糸が手首から少し緩む。


「父と母の名前は、まだ出てこない」


「今はいい」


 カイルが言う。


「でも、忘れたままかもしれない」


「一緒に探す」


「見つからないかもしれない」


「それでも探す」


 セレナの目から、一滴の涙が落ちた。


 水の神器を持つ彼女が流した涙は、器の水へ吸われなかった。


 頬を伝い。


 机の上へ落ちる。


 小さな音。


 その瞬間、水晶瓶の中の水球が激しく揺れた。


 六つの円が崩れ始める。


「器の形成が止まっています!」


 ミレイが叫ぶ。


 水の糸が切れた。


 セレナの手首から離れ、水晶瓶の中へ戻る。


 水球は完全には消えない。


 半透明の輪郭を保ち、瓶の中央へ浮かんでいる。


 第三の器は止まっていない。


 けれど完成もしていない。


 黒い文字が、水球の表面へ浮かぶ。


 アリシアは古代文字を読む。


「――水は、名を失った」


 次の一行。


「――名を持たぬ記憶は、器へ戻る」


 セレナがその言葉を見る。


 顔色はまだ白い。


 それでも、先ほどのように引かれてはいない。


「私が両親の名前を思い出さなければ、器が完成するということですか」


「そう見せようとしているだけかもしれません」


 アリシアが言う。


「器の言葉を、そのまま信じないで」


「でも、何かを奪われているのは本当です」


 セレナは自分の胸元へ手を当てる。


「町の名前。両親の名前。声」


 忘れたのではなく、器へ沈められている可能性。


 第三の器は、セレナの記憶を材料にして作られている。


「場所を探さないと」


 カイルが言う。


「今の器はここにあります」


 ミレイが水晶瓶を見る。


「でも、本体ではないと思います」


 アリシアも同じように感じていた。


 これは眠光井の地下にあった第二の器ほど強くない。


 遠くにある本体が、水の神器を通して小さな形を作っただけ。


「水の記憶が沈む場所」


 セレナが呟く。


「私が落ちた町」


「可能性は高い」


 アリシアは答える。


「でも、すぐに行くとは決めないで」


「なぜ」


「今、町の名前が出てこないから」


「記録を見れば」


「見る前に、学院長へ報告します」


 セレナは反論しようとしたが、途中で止めた。


 自分一人で決めない。


 今はそれを守ろうとしている。


「分かりました」


 声は悔しそうだった。


 それでも、うなずいた。


「ただし、私も報告へ行きます」


「体調を確認してからです」


 治療教師の声が扉の外からした。


 異変を察知し、警備隊とともに入室の準備をしていたらしい。


「私は大丈夫です」


「その言葉は、最も信用できない報告の一つです」


 扉が開き、治療教師と学院長が入ってくる。


 水晶瓶の中に浮かぶ未完成の水球を見た瞬間、学院長の表情が変わった。


「全員、状況を報告せよ」


 一人が全部を話さなかった。


 アリシアが、セレナの過去について話した。


 カイルが、声と名前のやり取りを。


 ミレイが、神器の反応時刻と器の形成率を。


 セレナ自身が、聞こえた言葉を説明した。


 帰っておいで。


 海へ。


 水の中へ戻れば、名前を思い出せる。


 学院長は最後まで聞き、すぐに命じた。


「水の神器は現状のまま封印を維持。瓶を移動させるな。第三の器との接続を調べる」


「私は」


「セレナは治療棟から出るな」


「ですが」


「拘束ではない」


 学院長は先に言った。


「君の意思を無視して閉じ込めるつもりはない。しかし今、器は君の記憶へ直接触れている。移動すれば、どこで反応が強まるか分からない」


「町の記録を確認したいです」


「確認は別の者が行う」


「私の記憶です」


「だからこそ、君が最初に見る必要はない」


 学院長はミレイの封印記録を見る。


「現在の記憶を先に残す。そのあと、資料と照合する。記録によって記憶が変わる可能性を避ける」


 セレナは納得できない表情をしていた。


 それでも反論を続けなかった。


「町の記録は、養家へ問い合わせる」


 学院長が続ける。


「ただし名前だけを先に伝えさせない。封印した文書として送らせる」


「なぜですか」


 アリシアが尋ねる。


「第三の器が、人の声や記録を通して名前を知る可能性がある」


 会議室が静まる。


 器は、セレナが思い出せない名前を求めている。


 こちらが声に出せば。


 記録を開けば。


 その情報を器へ渡してしまうかもしれない。


「では、どうやって確かめるのですか」


 カイルが尋ねる。


「器から切り離した場所で確認する」


「そんな場所があるのか」


「作る」


 学院長は即答した。


「光の神獣ルクスの羽根、黒月の遮断、風の伝達封じ、土の隔離、水の神器から距離を取る。複数の結界を重ねる」


 六つの力を一つへ戻すためではない。


 一つの情報を、器から守るために役割を分ける。


「確認者も一人にしない」


 学院長は言う。


「記録を見た者が、自分の記憶と混同しないよう、複数で照合する」


 セレナは水晶瓶の中の未完成の器を見る。


「私は、その場に入れないのですね」


「最初の確認には入れない」


「私の両親の名前なのに」


「君から奪うためではない」


 学院長の声が少し和らぐ。


「君へ返す前に、本当に君のものか確かめるためだ」


 器が作った偽の名ではないか。


 記録が改ざんされていないか。


 安全に確かめる必要がある。


 セレナは長く目を閉じた。


 やがて、静かにうなずく。


「分かりました」


 それは完全な納得ではない。


 けれど一人で資料へ走らず、周囲へ任せる選択だった。


「ただし」


 セレナは顔を上げる。


「確認したあと、私へ返すかどうかを、私以外の人だけで決めないでください」


 学院長はすぐにうなずいた。


「約束する」


「危険だから忘れたままにする、とは決めないで」


「それも約束する」


 セレナの肩から、わずかに力が抜ける。


 名前を思い出すことが危険でも。


 本人の意思を無視して、記憶を封じたままにはしない。


 守ることと、奪うことを同じにしない。


 アリシアはそのやり取りを聞きながら、水晶瓶へ目を向けた。


 未完成の第三の器は、静かに浮かんでいる。


 先ほどまでの激しい反応はない。


 しかし消えてもいない。


 六つの円は薄く残り、水の中でゆっくり回っていた。


「アリシア」


 セレナに呼ばれる。


「はい」


「さっき、私が消える方がよくないと言いましたね」


「うん」


「私は、器を止めるためなら、自分の記憶を使うべきだと思っていました」


「今も?」


「分かりません」


 セレナは正直に答える。


「両親の名前を思い出せるなら、水へ戻ってもいいと、一瞬思いました」


 カイルが何か言いかける。


 しかし今度は、口を挟まなかった。


「怖いです」


 セレナは言った。


 講堂では、怖いとは言わなかった。


 今、自分から口にする。


「忘れたままなのも怖い。思い出して、何があったか分かるのも怖い。器が見せるものを信じてしまうのも」


 アリシアはうなずく。


「私も、一緒に怖がっていいですか」


 セレナが少し目を見開く。


「助けるとは言わないのですか」


「助けたいです」


「守るとも?」


「守りたい」


「では、なぜ」


「私も何が正しいか分からないから」


 名前を取り戻すこと。


 記憶を守ること。


 器を止めること。


 どれを先にすべきか、まだ答えはない。


「だから、怖いまま一緒に考えたいです」


 セレナはしばらく黙っていた。


 そのあと、ほんの少しだけ笑った。


「アリシアらしいですね」


「そうですか?」


「以前なら、必ず助けると言っていたと思います」


「言いたいです」


「今も?」


「うん」


「では、なぜ言わないのですか」


「約束できないこともあるから」


 セレナの記憶を、必ず取り戻せるとは言えない。


 器を完全に止められる保証もない。


 両親の名前を見つけても、それが彼女を幸せにするとは限らない。


「でも、一人にはしません」


 それだけは言える。


 セレナは水晶瓶へ目を向けた。


 未完成の器が、淡い青い光を放っている。


「名前を呼ばれるだけでは、記憶は戻りませんでした」


「うん」


「私も、両親の名前を呼べませんでした」


「うん」


「それでも、少し戻れた気がします」


「どこに?」


「ここへ」


 セレナは会議室を見渡した。


 アリシア。


 カイル。


 ミレイ。


 ノア。


 学院長と治療教師。


 今いる場所。


「水の中ではなく」


 声が少し震える。


「今の私がいる場所へ」


 窓の外では、雨が降り続いている。


 先ほどより少し弱くなり、硝子を叩く音も穏やかになっていた。


 第三の器はまだ消えていない。


 水の記憶が沈む場所も、確定していない。


 両親の名前も、町の名前も分からない。


 何一つ、解決していなかった。


 それでも、セレナは器の呼ぶ海へ戻らなかった。


 名前を取り戻すために、自分を差し出さなかった。


 今ここにいる者たちの名を呼び。


 自分の名を呼ばれて。


 水の底から、ほんの少しだけ戻ってきた。


「調査を始める」


 学院長が告げる。


「第一班は、セレナの養家から封印記録を受け取る。第二班は、南方の水害記録を確認。第三班は、学院内の地下水路と貯水設備を調べる」


「私は?」


 アリシアが尋ねる。


「黒月の遮断能力を確認する。記録を安全に読む結界へ必要になる」


「セレナのそばには」


「今はカイルと治療教師を残す」


 アリシアは少し迷った。


 離れてよいのか。


 名前を呼ぶと言ったのに。


 その気持ちを見抜いたように、セレナが言う。


「行ってください」


 セレナは静かに言った。


 先ほどまでの不安定さは残っている。


 顔色も完全には戻っていない。


 それでも、その言葉は誰かに押し出されたものではなかった。


「でも」


 アリシアは思わず返す。


「第三の器が」


「だからです」


 セレナは水晶瓶の中の青い光を見る。


 未完成の器はまだ残っている。


 消えていない。


 終わっていない。


「私のそばにいるだけでは、止まりません」


 その言葉に、アリシアは口を閉じた。


「名前を呼んでくれたことは嬉しかったです」


 セレナは続ける。


「でも今は、私を見ているだけでは足りません」


 自分も動かなければならない。


 周囲も動かなければならない。


 第三の器を止めるために。


「だから行ってください」


 少し間を置いて。


「戻ってきてください」


 アリシアはうなずいた。


「うん」


「それと」


「何?」


「次に来るときは」


 セレナがほんの少しだけ困ったように笑う。


「水の神器継承者ではなく、セレナと呼んでください」


 アリシアも小さく笑った。


「分かった」


 そのやり取りを聞いていたカイルが、腕を組みながら鼻を鳴らす。


「今さらだな」


「カイル」


「何だ」


「あなたもです」


「俺?」


「水とか治療担当とか呼ばないでください」


「呼んだことないだろ」


「最近は呼んでいました」


「……そうか?」


「呼んでいました」


 セレナは断言した。


 カイルは少し考え込み、そして視線を逸らす。


「悪かった」


「はい」


「素直に認めるんだな」


 アリシアが言うと、カイルは眉をひそめた。


「認めるだろ。実際そうだったなら」


「珍しいですね」


「お前ら、俺を何だと思ってるんだ」


『騒がしい火』


 ノアが即答した。


「猫にだけは言われたくない」


『私は正しいことしか言わないわ』


「それが一番厄介なんだよ」


 会議室に、ほんの少しだけ笑いが生まれた。


 大きなものではない。


 問題は何も解決していない。


 第三の器は存在している。


 名前は見つかっていない。


 場所も分からない。


 それでも先ほどまでの重苦しい空気とは違った。


 セレナが、自分から笑ったからかもしれない。


 学院長はその様子を見届けると、机の上へ新しい紙を広げた。


「記録を整理する」


 全員の意識が自然とそちらへ向く。


「現時点で確定していることを確認するぞ」


 ミレイがすぐに筆を構える。


「第一」


 学院長が指を一本立てる。


「第三の器は、水の神器継承者セレナの記憶へ干渉している」


 ミレイが書き留める。


「第二」


「第三の器は、失われた名前を材料としている可能性が高い」


 セレナが静かに聞いている。


「第三」


「器は、役割ではなく個人名を使う」


 アリシアはその言葉に小さく反応した。


 第一の器は違った。


 六つ目。


 闇。


 役割だけを呼んだ。


 だが第三の器は違う。


 セレナ。


 本人の名を呼んでいる。


「第四」


 学院長の声が少し低くなる。


「器は、失われた記憶を返すことを餌としている可能性がある」


 会議室が静かになる。


 餌。


 その表現は冷たい。


 だが間違ってはいなかった。


 両親の名前。


 町の名前。


 七歳の夏の記憶。


 それらを返すと言って、セレナを呼んでいる。


「第五」


 学院長は最後の項目を口にした。


「しかし、記憶を返すことだけが器の目的とは限らない」


 アリシアが顔を上げる。


「どういう意味ですか」


「もし本当に記憶を返したいだけなら、今すぐ返せばいい」


 誰も反論できなかった。


「器は記憶を持っているように振る舞う。だが返さない」


「確かに」


 ミレイが呟く。


「名前を知っているなら、教えれば終わります」


「そうだ」


 学院長はうなずく。


「つまり器は、名前そのものではなく、その過程を求めている」


「探させること?」


 アリシアが尋ねる。


「あるいは、思い出させること」


 レオンハルトがいれば、どう考えるだろう。


 アリシアはふと思った。


 第二の器では、光の神獣を助けたいという思いを利用された。


 第三の器は。


 失ったものを取り戻したいという願いを利用している。


「器は」


 セレナが静かに口を開く。


「私が思い出すことを待っている?」


「可能性はある」


 学院長は答える。


「そして、その理由はまだ分からない」


 窓の外では雨が続いていた。


 だが先ほどのような激しさはない。


 細く。


 静かに。


 一定のリズムで降っている。


 セレナはその音を聞きながら、ゆっくり目を閉じた。


「父の顔は覚えています」


 突然の言葉だった。


 全員が彼女を見る。


「母の顔も」


 セレナは続ける。


「でも名前だけが出てこない」


 拳が小さく握られる。


「おかしいですよね」


「おかしくありません」


 アリシアはすぐに答えた。


「そうでしょうか」


「うん」


「なぜ」


「私も似たことがあるから」


 セレナが目を開く。


「アリシアにも?」


「全部じゃないけど」


 アリシアは少し考える。


「怖かった出来事を思い出そうとすると、そのときの空気とか匂いとかは覚えてるのに、肝心なところだけ曖昧になることがある」


 黒月を継承した日。


 講堂で声を上げた日。


 たくさんあった。


「人は全部を同じようには覚えない」


 ノアが珍しく真面目な声で言った。


『むしろ当然よ』


 セレナは黒猫を見る。


『名前だけ消えることもある』


「本当に?」


『ある』


 ノアは断言した。


『心が生き延びるためにね』


 その言葉に、会議室が静まる。


 誰も軽々しく続きを尋ねなかった。


 ノアがそう言うなら。


 千年前から多くを見てきた神獣がそう言うなら。


 そこには重みがあった。


 セレナは少しだけ肩の力を抜く。


「そうですか」


『ええ』


「なら」


 彼女は水晶瓶を見る。


「全部を思い出さなくてもいいのかもしれませんね」


 アリシアはその言葉を聞きながら、水球の動きを見ていた。


 未完成の第三の器。


 六つの円。


 ゆっくり回る水。


 その中心で。


 一瞬だけ。


 何かが揺れた気がした。


「……?」


 目を凝らす。


 水球の奥。


 淡い青の中。


 小さな影。


 人影のようにも見える。


「アリシア?」


 ミレイが気づく。


「どうしましたか」


「今」


 水球を見る。


 だがもう何もない。


 ただ静かな水だけが浮いている。


「何か見えましたか」


 学院長が尋ねる。


 アリシアはすぐには答えなかった。


 見間違いかもしれない。


 けれど。


 あれは。


 子供くらいの背丈だった。


「分かりません」


 正直に答える。


「でも、水の中に誰かいた気がします」


 セレナの表情が変わる。


「誰か?」


「顔は見えなかった」


「男の子? 女の子?」


「それも分からない」


 水球は静かなままだ。


 反応もない。


 しかし会議室の空気は変わった。


 第三の器は、ただ記憶を集めているだけではないのかもしれない。


 名前。


 声。


 失われた記憶。


 そして水の中に見えた人影。


 それらはまだ一つにつながっていない。


 だが何かが隠れている。


 器の中心に。


 まだ見えていない何かが。


 学院長は記録用紙を閉じた。


「本日の調査はここまでとする」


 反論する者はいなかった。


 疲労も限界に近い。


 精神的にも同じだった。


「各班は準備を始めろ。封印記録の回収は本日中。夜までに第一報をまとめる」


 教師たちが動き出す。


 ミレイも記録を抱え直した。


 カイルは最後にセレナを見る。


「無理するな」


「努力します」


「その返事は信用できない」


「お互い様です」


「……否定できないな」


 短い会話だった。


 それでも少しだけ、二人の距離が近く見えた。


 アリシアは立ち上がる。


 ノアも机から飛び降りる。


 会議室を出る直前。


 セレナがもう一度呼んだ。


「アリシア」


「うん?」


「ありがとう」


 何に対しての礼なのか。


 名前を呼んだことか。


 止めたことか。


 一緒に怖がると言ったことか。


 分からない。


 だからアリシアは、少し考えてから答えた。


「まだ終わってないよ」


 セレナは小さく笑う。


「そうですね」


 第三の器は残っている。


 水の記憶が沈む場所も見つかっていない。


 失われた名前も戻っていない。


 けれど。


 役割だけで呼ばれていた少女は。


 少しずつ、自分の名前で呼ばれ始めていた。


 そして器もまた。


 その名前を求め始めている。


 雨音の続く治療棟で。


 第三の器の調査は、ようやく本当の意味で始まろうとしていた。

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