↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
95/172

第95話 同じ場所へ向かうと決めても、同じ役割を持つわけではない


 眠光井へ向かう調査班の編成は、すぐには決まらなかった。


 場所が特定されたことで、講堂や観測室に漂っていた焦りは一度、はっきりとした形を持った。学院北東の森。旧礼拝所跡から、およそ三百歩。地表ではなく、その地下。


 行くべき場所が分からない不安は消えた。


 代わりに、誰を行かせるのかという問題が生まれた。


「光の神器継承者は外せない」


 中央棟一階の作戦室に移った学院長が、大きな地図を机へ広げながら言った。


「光の神獣が眠る場所であり、第二の器がそこで作られている可能性が高い。現地の状態を確認するには、光の神器の反応が必要になる」


 光の神器継承者は、長机の向こうで静かにうなずいた。


 先ほどまで別室で神器の観測を受けていたため、白い神器は厚い封印布に包まれている。布越しでも淡い光が漏れ、机の上へ柔らかな輪郭を落としていた。


「同時に、闇の神器継承者も同行させる」


 学院長の言葉に、部屋の何人かがわずかに身じろぎした。


 アリシアは予想していた。


 黒月も眠光井へ反応している。


 第一の器を止めた力であり、第二の器が同じ仕組みで作られているなら、必要になる可能性は高い。


 それでも実際に同行を告げられると、胸の奥が強く鳴った。


 行きたいと思っていた。


 光の神器継承者の隣に立ちたいとも言った。


 けれど「行ける」と決まった瞬間に浮かんだのは、喜びではなかった。


 旧資料室の黒い箱。


 床へ広がった六つの円。


 自分を名前ではなく、六つ目とだけ呼んだ声。


 あれと同じものが、森の地下で形を作り始めている。


 その中へ、自分から近づく。


『今さら怖くなった?』


 足元のノアが尋ねる。


『最初から怖いよ』


『それなら結構。怖くないふりをされるより、ずっと扱いやすいわ』


 アリシアは机の下で、ノアの尾が自分の靴へ触れるのを感じた。


「ただし、二人を同じ役割には置かない」


 学院長は続ける。


「光は眠光井の位置と内部構造を探る。闇は、器の反応と六つの神器を結ぶ術式の有無を確認する。互いの神器へ異常が出た場合は、もう一方が近づくのではなく、まず報告せよ」


 アリシアは地図から顔を上げた。


 同じ場所へ行く。


 けれど、同じものを見るわけではない。


 光の神器継承者が何かに捕らわれたとしても、自分がすぐ駆け寄るとは限らない。


 黒月が呼ばれたとしても、彼が直接助けに来るとは限らない。


 それぞれの役割を守りながら、必要な距離を取る。


 隣に立つと言った自分の言葉が、試される形だった。


「ほかの神器継承者は?」


 火の神器継承者が尋ねる。


 彼は当然、自分も同行するつもりでいるらしい。椅子へ座ってはいるものの、いつでも立ち上がれるよう身体を前へ傾けていた。


「現地へ同行するのは、火と土の二名とする」


 学院長が答える。


 火の神器継承者の顔が少し明るくなる。


 対して水と風の神器継承者は、同時に眉を寄せた。


「我々は残るのですか」


 水の神器継承者が尋ねる。


「学院と旧資料室の第一の器を守る者が必要だ」


「ですが、現地で負傷者が出た場合は」


「治療教師を二名同行させる。水の神器は学院へ残し、第一の器と第二の器が同時に動いた場合に備えよ」


 理にかなっている。


 それでも水の神器継承者は、すぐには納得した顔を見せなかった。


「風は連絡の中心だ」


 学院長は風の神器継承者を見る。


「森の内部では伝声具が使えない可能性がある。現地入口と学院の間に中継点を設け、情報を往復させよ」


「現地へ入らないのですか」


「入口までは同行する。地下へは入らない」


 風の神器継承者は地図を見つめたまま、短く息を吐いた。


「承知しました」


 声には悔しさが混じっていた。


 自分だけ安全な場所へ置かれるのが嫌なのではない。


 仲間と同じ場所へ行けないことが、落ち着かないのだろう。


 アリシアには、その気持ちがよく分かった。


「同じ場所へ全員が行けば、第一の器が再び目覚めたときに止める者がいなくなる」


 光の神器継承者が静かに言った。


 風と水の二人へ向けた言葉だった。


「残る役割は、同行より軽くありません」


「分かっています」


 水の神器継承者は答える。


 けれど、そのあと小さく付け加えた。


「分かっていることと、心配しないことは別です」


「そうですね」


 光の神器継承者は否定しなかった。


「私も、皆さんを残すことに不安があります」


 彼が自分から不安を言葉にしたことで、部屋がわずかに静かになった。


 先ほどの講堂では、怖いなら怖いと言えばいいと求められ、すぐには答えられなかった。


 今も「怖い」とは言っていない。


 けれど、不安があることを隠さなかった。


 水の神器継承者は少し驚いたあと、表情を和らげる。


「では、互いに報告を省略しないことにしましょう」


「はい」


「異常がなくても、決めた間隔で」


「承知しました」


 短いやり取りだった。


 それでも二人の間にあった硬さが、少しだけ解けたように見えた。


 学院長は同行者の名前を、地図横の紙へ書き込んでいく。


 神器継承者は、アリシア、光、火、土。


 教師は、学院長、副学院長、結界術師二名、治療教師二名、歴史教師一名。


 学院警備隊から六名。


 記録担当者は三名。


 その欄で、教師たちの手が止まった。


「記録担当者は、生徒から希望を募る予定でしたが」


 副学院長が言う。


「時間がない」


「旧資料室で記録を担当した者から選ぶべきでしょうか」


「本人の意思を確認する」


 学院長は後方へ視線を向けた。


 作戦室の壁際には、灰色の布を巻いた生徒たちが並んでいる。講堂で調査補助について説明を受けたあと、自分の意思を決める時間を与えられていた者たちだった。


 昨日の一年生の少女もいる。


 旧資料室で最初に靄を発見したケインもいた。


 二人とも、作戦室へ呼ばれた時点で、何が求められるか分かっていたはずだ。


「現地記録へ参加する者は、危険区域の内部へ入る可能性がある」


 学院長が告げる。


「戦闘は求めない。異変へ触れることも禁ずる。記録、人数確認、退路の維持を担当する。ただし、第二の器がどのような影響を及ぼすかは分かっていない」


 生徒たちの表情が強張る。


「参加しないことを選んでも、評価には一切影響しない。今日の訓練や旧資料室での働きが否定されることもない」


 誰も動かなかった。


 学院長は急かさず、待つ。


 アリシアも振り返らなかった。


 誰が手を挙げるか見つめれば、選ばなければならないように感じさせてしまうかもしれない。


 机の上の地図を見る。


 森。


 旧礼拝所。


 眠光井。


 その下へ描かれた、何もない空白。


 数秒後。


「参加します」


 少女の声がした。


 アリシアは思わず振り返る。


 彼女は灰色の布を巻いた腕を上げていた。


 顔は緊張している。


 けれど昨日のように声が震えてはいなかった。


「理由を聞く」


 学院長が言う。


「旧資料室の記録と、森の中の記録をつなげたいからです」


「怖くはないか」


「怖いです」


 少女ははっきり答えた。


「途中で無理だと思ったら、戻ります」


「それでも参加するか」


「はい」


 学院長はうなずき、名前を確認する。


「ミレイ・ファルン。現地記録第一担当」


 アリシアはそこで初めて、彼女の名前を知った。


 昨日から何度も話していた。


 役割表を持ち込み、人数を数え、旧資料室の外から声をかけてくれた。


 けれど自分は、彼女の名前を尋ねていなかった。


 胸の中に、小さな申し訳なさが生まれる。


 少女――ミレイは自分の名前が紙へ書かれるのを見ていた。


 その横で、ケインも手を上げる。


「私も参加します」


「理由は」


「最初の器の靄を見たので、第二の器で同じものが出るか確認したいです」


「途中辞退は」


「必要ならします」


「よい」


 学院長が二人目の名前を書く。


 残る一人は、上級生の女子生徒だった。土の副担当として階段の避難を支えた者で、名はサーラといった。


「退路の確認なら、私が一番向いています」


 彼女はそう言った。


「地下へ入る人数と、戻った人数をずらしません」


 同行者が決まる。


 アリシアは三人の記録担当者を見た。


 誰も神器を持っていない。


 魔力も、継承者ほど強くない。


 それでも今回の調査に必要な者として、名前が並んでいる。


 黒い箱は六つの神器だけを見ている。


 けれど、こちらは六人だけで動かない。


「出発は二十分後」


 学院長が宣言する。


「各自、装備を整えよ。現地到着後、地上班と地下班に分かれる。入口が確認できるまでは、全員で行動する」


 椅子が動き、作戦室の空気が一斉に慌ただしくなる。


 警備隊は武器と結界杭を確認し、教師たちは古地図の写しを分ける。治療担当は携帯用の薬品箱と担架を用意し、記録担当者たちは紙、墨、予備の時計を鞄へ収め始めた。


 アリシアも立ち上がる。


 黒月の帯を確認し、鞘が走るときに揺れないよう締め直す。


 その途中で、ミレイが近くを通った。


「ミレイさん」


 呼ぶと、少女が足を止める。


 自分の名前を呼ばれたことが意外だったらしく、目を少し見開いた。


「はい」


「今まで、名前を聞いていなくて、ごめんなさい」


 アリシアは頭を下げた。


 ミレイはさらに驚き、慌てて首を横に振る。


「謝らなくても」


「でも、何度も話していたのに」


「私は、アリシアさんの名前を知っていましたから」


「それは、私が神器継承者だからです」


 自分は多くの人に知られている。


 黒月の継承者。


 忘れられていた六つ目。


 人見知りな闇の少女。


 自分が何も話さなくても、相手は名前を知っていることが多い。


 そのことに慣れすぎて、相手の名前を知らないまま話してしまう。


「これからは、名前で呼びたいです」


 アリシアが言うと、ミレイは少し照れたように笑った。


「では、私もアリシアさんと呼びます」


「今までも、そう呼んでいました」


「あ……そうでした」


 二人の間に、少しだけ間ができる。


 ミレイの頬が赤くなり、アリシアも何と続ければよいか分からなくなった。


『二人とも会話が不器用すぎるわね』


 ノアが足元で呟く。


 聞こえているのはアリシアだけだが、表情に出たらしい。


 ミレイが首を傾げる。


「どうしましたか?」


「ノアが、何でもないことを言いました」


『何でもなくはないわ』


「分かりました」


 ミレイはノアを見下ろす。


「ノアさんも、よろしくお願いします」


『礼儀正しい子ね。あなたよりずっと』


 アリシアは返事をしなかった。


 ミレイが準備へ戻ったあと、光の神器継承者が隣へ来る。


「名前を聞いていなかったのですか」


「うん」


「随分話していたように見えましたが」


「聞く機会を逃しました」


「昨日から?」


「……うん」


「あなたらしいですね」


 責める声ではなかった。


 少し笑っている。


「光の神獣の名前は?」


 アリシアは尋ね返す。


 光の神器継承者の表情から、笑みが薄れる。


 嫌なことを聞いたかもしれない。


 アリシアはすぐに謝ろうとした。


 けれど彼は、少し考えたあと答える。


「ルクスです」


「ルクス」


「継承の儀式で、一度だけ名乗りました」


「ノアは知ってる?」


『名前だけはね』


 ノアが答える。


『古い神獣よ。私より愛想は悪くないけれど、話が長い』


「ノアは知っているそうです」


「何と?」


「古い神獣で、話が長いと」


 光の神器継承者は一瞬黙り、そのあと小さく笑った。


「一度しか話していませんが、確かに長かったです」


『本人の継承の儀式で長話をしたのね』


「眠ると告げるまでに、光の役割と責任についてかなり説明されました」


『相変わらずね』


 ノアは懐かしそうに目を細める。


 アリシアはその表情を見た。


 ノアは千年前のことを、すべて話しているわけではない。


 六つの神器が分かれた経緯。


 神獣たちの関係。


 器が封じられた理由。


 知らないのか。


 知っていて、まだ話していないのか。


 気になったが、今は尋ねなかった。


 出発前に問い詰めても、答えが得られるとは限らない。


 ノアが話すべきだと判断したときに聞けばいい。


「ルクスは、また声を出しましたか」


 アリシアは光の神器継承者へ尋ねる。


「いいえ。眠光井が開かれると告げたあと、応答はありません」


「怖い?」


 問いが口から出たあと、アリシアは少し後悔した。


 講堂で今すぐ言わなくていいと、自分で伝えたばかりだった。


 けれど光の神器継承者は、すぐに拒まなかった。


 封印布に包まれた神器へ目を落とす。


「怖い、という言葉だけでは足りません」


 静かに答えた。


「ルクスが生きていると分かり、安堵しました。同時に、長い間応じなかった理由が、第二の器と関係しているのではないかと不安です」


「うん」


「会いたいとも思います」


「うん」


「ですが、会ったときに何を言われるのかは怖い」


 彼はそこで言葉を切る。


「私の光が足りなかったから、起きなかったのかもしれません」


 アリシアは、すぐに否定しそうになった。


 そんなことはない。


 あなたは十分に光の神器継承者だ。


 神獣が起きなかったのは、あなたのせいではない。


 けれど、今それを言っても根拠がない。


 ルクスの言葉の意味は、まだ分からない。


「会ったら、聞きましょう」


 アリシアは言う。


「一人で?」


 光の神器継承者が尋ねる。


「私も聞きます」


「私への言葉でも?」


「聞いてほしくないところは、離れます」


「それでは一人になるでしょう」


「扉の外にいます」


 旧資料室で、自分がそうしてもらったように。


 同じ部屋に入ることだけが、隣に立つことではない。


 彼が自分だけでルクスの言葉を受け止めたいなら、その権利もある。


 けれど必要になったとき、声が届く距離にはいる。


「分かりました」


 光の神器継承者はうなずく。


「では、私も黒月の声を聞くときは、扉の外にいます」


「黒月は、ほとんど話しません」


「ノアが代わりに話しすぎるからでは?」


『何ですって?』


 ノアが顔を上げた。


 アリシアは少し笑った。


 緊張が消えたわけではない。


 けれど、これから森へ向かう前に、その小さな笑いを持てたことが嬉しかった。


 準備を終えた調査班は、中央棟北口へ集まった。


 学院内には訓練中止が正式に告げられ、生徒たちは各教室へ戻されている。窓からこちらを見る者はいたが、教師の指示を守り、外へ出ようとする者はいなかった。


 北口前には、学院警備隊が用意した外套が並べられていた。


 森の中は枝や湿気が多い。


 制服のままでは動きにくいため、神器継承者たちも短い外套を羽織る。


 アリシアのものは濃い灰色だった。


 黒ではない。


 森の中で姿が見えにくくなりすぎないよう選ばれたらしい。


「黒がよかったか?」


 火の神器継承者が尋ねる。


「灰色でいい」


「闇の継承者だから黒、って単純すぎるもんな」


「あなたは赤ですね」


 光の神器継承者が、火の神器継承者の外套を見る。


「目立ちます」


「警備隊から渡されたんだよ。俺が選んだんじゃない」


「森へ入る者が赤い外套でよいのでしょうか」


「見失わなくていいだろ」


「敵にも見失われません」


「お前、今日いつもより口が悪くないか?」


「緊張していますので」


 光の神器継承者が真顔で答える。


 火の神器継承者は少し目を丸くし、そのあと笑った。


「それなら仕方ないな」


 緊張していると、自分で言えた。


 アリシアはそれを聞きながら、外套の留め具を締めた。


 土の神器継承者は、大きな盾を背負っている。


 普段使う戦闘用のものではなく、狭い地下でも取り回しやすい短盾だ。土の神器は腕輪の形で装着され、必要に応じて地面や壁を補強する役割を担う。


「眠光井が古い地下施設なら、崩落の可能性がある」


 彼は地図を見ながら言う。


「戦うより、まず道を保つ」


「火も、地下では大きく使うな」


 学院長が火の神器継承者へ釘を刺す。


「分かっています」


「照明としても、必要以上に燃やすな。古い空間では空気が足りなくなる場合がある」


「光がいるのに、俺が照明をやる必要あるか?」


「光の神器を無駄に使わせないためだ」


「分かりました」


 同じ神器でも、役割は一つではない。


 火は戦闘だけではなく、小さな灯りや温度の確認に使える。


 土は防御だけではなく、崩れかけた道を支えられる。


 光は眠光井を探る。


 闇は器の術式を見つける。


 四人が同じ場所へ向かっても、見るものも、することも違う。


 北口の門が開いた。


 湿った森の匂いが流れ込んでくる。


 朝から低く垂れ込めていた雲はさらに厚くなり、木々の上へ淡い灰色の空が広がっていた。雨はまだ落ちていないものの、葉の表面には細かな水滴が付き、風が吹くたび肩や髪へ冷たい粒が降ってくる。


「出発する」


 学院長の声とともに、調査班が動き始めた。


 先頭は警備隊二名。


 その後ろに土の神器継承者と結界術師。


 中央に光の神器継承者。


 少し距離を空けて、アリシアとノア。


 火の神器継承者は後方警戒。


 記録担当者たちは教師の間へ入り、最後尾を警備隊が守る。


 学院の庭を抜け、北東の森へ入る。


 最初のうちは、普段の実習でも使われる道だった。


 踏み固められた土。


 枝へ結ばれた道標。


 低級魔物を遠ざける結界杭。


 生徒たちにとっても見慣れた森だ。


 けれど旧礼拝所跡へ近づくにつれ、道は細くなった。


 木々の間隔が狭まり、頭上の枝が空を覆う。陽の光がほとんど届かず、昼前だというのに夕方のような暗さがあった。


 足元には落ち葉が厚く積もっている。


 踏むたび湿った音がし、時折、その下で小枝が折れる。


 誰も大きな声を出さなかった。


 警備隊の合図と、装備の擦れる音だけが続く。


 アリシアは黒月の反応へ意識を向けていた。


 学院を出たときから、鞘の中で細かな震えが続いている。


 強くはない。


 けれど、進む方向が正しいことを確かめるように、一定の間隔で震えていた。


「黒月の反応は?」


 前方を歩く教師が振り返る。


「続いています。少し強くなっています」


「時刻を」


 ケインがすぐに記録する。


「方向は変わりませんか」


「北東。少し下です」


 ミレイが古地図へ小さな印をつける。


 彼女の歩き方は慎重だった。


 怖いと言っていた。


 それでも足を止めてはいない。


 サーラは最後尾近くで、人数を何度も確認している。


「二十一名。変わりなし」


 決められた間隔で、前方へ声を送る。


 人数は出発時と同じ。


 誰も欠けていない。


 誰かが名前を呼ばなくても、彼女が見ている。


 森へ入って十五分ほど経った頃、先頭の警備隊が手を上げた。


 全員が止まる。


 前方に、苔に覆われた石柱があった。


 半分は地面へ沈み、表面の文字はほとんど読めない。


 けれど頂部には、かすかに太陽を模した彫刻が残っている。


「旧礼拝所の境界です」


 歴史教師が石柱へ近づく。


 直接触れず、杖先の光で表面を照らした。


「学院創設以前の様式で間違いありません」


「ここから三百歩か」


 土の神器継承者が森の奥を見る。


「古地図では、東北東へ」


 方位器を確認し、隊列を組み直す。


 道はもう存在しない。


 木々と茂みの間を進む必要がある。


 警備隊が枝を払い、結界術師が魔力の乱れを調べながら先へ進む。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 サーラが数を記録する。


 百歩を越えたところで、光の神器が強く瞬いた。


 封印布の隙間から白い光が漏れ、周囲の木々を一瞬だけ照らす。


「止まってください」


 光の神器継承者が声を上げた。


 全員が足を止める。


 彼は胸元の神器へ手を添えた。


「ルクスの声は?」


 学院長が尋ねる。


「ありません。ただ、光が下へ引かれています」


 アリシアも黒月を見る。


 震えが先ほどより速くなっている。


「黒月も同じです」


「下か」


 土の神器継承者が地面へ膝をつく。


 腕輪へ魔力を流し、手のひらを湿った土へ当てた。


 薄い茶色の光が地面へ広がる。


 数秒後、彼の表情が変わった。


「空洞がある」


「深さは?」


「場所によって違う。ここは地下十歩ほど。だが前方へ行くほど浅くなっている」


「入口が近い?」


「あるいは、天井が崩れている」


 学院長は隊列へ慎重な前進を命じた。


 百五十歩。


 二百歩。


 森の空気が変わり始める。


 湿った土と葉の匂いに、かすかな金属臭が混じっていた。


 光の魔力を使ったあとに残る、乾いた匂い。


 それと同時に、アリシアは旧資料室で感じた冷たさを覚える。


「何かいます」


 声を上げる。


 警備隊が一斉に武器へ手をかけた。


「どこだ」


「前ではなく……下」


 黒月の震えが、規則的ではなくなっている。


 細かく揺れたあと、長く止まる。


 また揺れる。


 呼んでいるというより、何かが内側から叩いているようだった。


 こつ。


 こつ。


 旧資料室の箱の中から聞こえた音。


 アリシアは無意識に足を止めた。


『同じ音を思い出した?』


 ノアが尋ねる。


『うん』


『でも、ここにはまだ箱がない』


『中で作られてる』


『ええ。なら、今聞こえているのは箱の音ではないかもしれない』


 何が叩いているのか。


 完成していない器の内側。


 あるいは、器へ閉じ込められようとしている何か。


 アリシアは光の神器継承者を見る。


 彼も苦しそうに胸元を押さえていた。


「どうしましたか」


「ルクスが……」


 声が止まる。


 全員が彼を見る。


「声が聞こえたのですか」


 水の神器継承者はいない。


 代わりに治療教師がすぐ近くへ寄り、脈と顔色を確認する。


 光の神器継承者は首を横に振った。


「言葉ではありません。何かが、目を覚まそうとしています」


 白い神器の光が、布の下で不規則に揺れる。


「苦しい?」


 アリシアが尋ねる。


「私ではなく」


 光の神器継承者は森の奥を見る。


「ルクスが、苦しんでいるように感じます」


 彼は一歩進もうとした。


 学院長が腕を伸ばし、止める。


「隊列を崩すな」


「ですが」


「分かっている。だからこそ、一人で先へ行くな」


 光の神器継承者の肩へ力が入る。


 アリシアも同じ衝動を感じていた。


 黒月の奥で、何かが叩かれている。


 早く行かなければ。


 器が完成する。


 ルクスが閉じ込められる。


 そう考えると、立ち止まっている数秒すら無駄に思える。


 けれど先頭では、警備隊が地面の安全を確認している。


 土の神器継承者が空洞の位置を探っている。


 結界術師は周囲の魔力を測定している。


 誰も時間を浪費しているわけではない。


「前方二十歩、地面が薄い」


 土の神器継承者が告げる。


「その先に大きな空洞。入口らしき斜面があるが、落ち葉で隠れている」


「迂回は」


「右から近づける。左は崩落の危険が高い」


 警備隊が右側へ道を作る。


 隊列がゆっくり動く。


 光の神器継承者も、呼吸を整えながら歩き出した。


「待つのは難しいですね」


 彼が小さく言う。


「うん」


「あなたが観測室で待っていた気持ちが、少し分かりました」


「私も、今同じです」


「同じではありません。今は歩いています」


「走りたいのを止めてる」


 光の神器継承者は少しだけ口元を緩めた。


「それなら、同じかもしれません」


 二人は並んでいない。


 間には教師と警備隊員がいる。


 それでも互いの声が届く距離にいた。


 二百七十歩。


 二百八十歩。


 古地図に記された三百歩へ近づく。


 森の地面は少しずつ窪み始めた。


 木々の根が、不自然に外側へ避けるように伸びている。


 中央には、長い年月をかけて落ち葉と土に覆われた円形の窪地があった。


「ここです」


 光の神器継承者が言う。


 同時に、アリシアの黒月が強く震えた。


 窪地の中央。


 蔦と苔に覆われた地面の一部に、石の縁が見える。


 警備隊が周囲を確認し、土の神器継承者が足場を固める。


 落ち葉を慎重に除くと、直径十歩ほどの円形石床が現れた。


 表面には、太陽を模した複雑な紋様が刻まれている。


 中央には、井戸の口のような穴があった。


 しかし水は見えない。


 穴の奥から、白い光が淡く脈打っている。


「眠光井」


 歴史教師が呟いた。


 長く忘れられていた名を、目の前の場所と結びつける声だった。


 ミレイたちがすぐに記録を始める。


「到着時刻」


「人数二十一名、変化なし」


「石床の直径、約十歩」


「中央に縦穴。内部から白い光」


 彼らの声が、静かな森へ小さく広がる。


 アリシアは石床へ近づきすぎない位置で止まった。


 黒月は縦穴へ強く反応している。


 闇の力へ引かれているのではない。


 光の奥に隠された、別のものを嫌がっているような震えだった。


「縦穴の周囲に術式があります」


 アリシアが言う。


「見えるのか」


 学院長が尋ねる。


「はっきりではありません。でも、光の紋様の下に、黒い線があります」


 普通に見れば、石床には太陽の彫刻しかない。


 けれど黒月を通して見ると、その下へ細い影が重なっている。


 太陽の光をなぞり。


 隙間へ入り込み。


 円の中央へ集まっている。


 旧資料室の床に現れた、六つの神器をつなぐ線と似ていた。


「光の紋様を使って、闇の術式を隠しています」


 アリシアはしゃがみ込み、石床へ触れない距離から線の流れを追う。


「第二の器は、この下です」


「入口は縦穴か」


 警備隊員が覗き込もうとする。


「待ってください」


 光の神器継承者が止めた。


 彼は封印布を少し開き、白い神器を石床へ向ける。


 柔らかな光が広がり、縦穴の内壁を照らした。


 石で組まれた円筒が、深く地下へ続いている。


 途中には古い梯子があるが、何本か折れていた。


 底は見えない。


「井戸ではありません」


 土の神器継承者が地面へ手を当てたまま言う。


「縦穴は地下室への通路だ。下に大きな空間がある」


「別の入口は?」


「探す」


 彼は石床の外周へ移動し、地中の形を探る。


 その間、光の神器継承者は縦穴から目を離さなかった。


 白い神器が、脈打つように明滅している。


「ルクス」


 彼が小さく呼ぶ。


 返事はない。


「聞こえていますか」


 光だけが揺れる。


「私の光が、あなたを起こすと言いましたね」


 声が少し震えていた。


「今、私の光は届いていますか」


 森は静かだった。


 葉が擦れる音。


 遠くで鳴く鳥。


 警備隊が周囲を歩く足音。


 神獣の返事はない。


 光の神器継承者の表情が、わずかに曇る。


 アリシアは声をかけようとした。


 けれどその前に、ミレイが小さく息を呑んだ。


「光が変わりました」


 全員が縦穴を見る。


 底から上がってくる白い光の中に、細い黒い筋が混じり始めていた。


 一つ。


 二つ。


 螺旋を描きながら、縦穴の内壁を上ってくる。


 旧資料室の影と同じ。


「下がれ!」


 学院長の声が飛ぶ。


 全員が石床から距離を取る。


 警備隊が前へ出て盾を構え、結界術師が障壁を展開する。


 アリシアは黒月を抜こうとした。


 しかし影は縦穴の外へ出なかった。


 石床の縁まで上がり、太陽の紋様へ染み込んでいく。


 白い彫刻が、黒い線によって一つずつ塗りつぶされる。


「器の形成が進んでいます」


 アリシアは黒月を抜いた。


 刀身が森の薄暗い光を飲み込む。


「今、止められるか」


 学院長が尋ねる。


「表面の線を切るだけなら。でも、下にあるものがどうなるか分かりません」


「第一の器と同じか」


「似ています。でも、これはまだ箱になっていません」


『外側を壊せば、内側へ魔力が流れ込む可能性があるわ』


 ノアが言う。


『逆に、流れを止めれば、作りかけの器が崩れるかもしれない』


「ノアも、すぐに斬るのは危険だと言っています」


 土の神器継承者が石床の外から声を上げる。


「別の入口を見つけた!」


 全員の視線が向く。


 窪地の北側。


 太い樹の根に隠れるように、地下へ下る石段があった。


 入口は土砂で半分埋まっているが、人一人が通れる隙間が残っている。


「内部へ入れる」


 土の神器継承者が言う。


「ただし、途中で崩れている可能性がある」


「地下班を決める」


 学院長が即座に告げる。


「私、アリシア、光、土、結界術師一名、警備隊三名、記録担当二名。火は地上へ残れ」


「俺も行く」


 火の神器継承者が反射的に言う。


「地下空間で、火の神器と第二の器を同時に近づける危険は避ける」


「戦闘が起きたら?」


「地上から退路を守れ。必要なら呼ぶ」


「呼ばれてからでは遅いかもしれない」


「だから地上を任せる」


 学院長の声は揺れなかった。


「第二の器が完成した場合、地下班が戻る場所を失わせるな」


 火の神器継承者は唇を噛む。


 行きたい。


 仲間を守りたい。


 その気持ちが、表情に出ている。


 けれど彼は、何度か呼吸したあと拳を開いた。


「……分かりました」


 簡単ではない返事だった。


 アリシアは彼を見る。


「戻ってきます」


 火の神器継承者が眉を寄せる。


「それ、言われると余計に心配になるんだよ」


「ごめんなさい」


「謝るな。戻るなら、それでいい」


 彼はアリシアではなく、光の神器継承者へも視線を向ける。


「お前もだ」


「承知しています」


「一人で残るなよ」


「あなたこそ、勝手に地下へ入らないでください」


「お前らが遅かったら行く」


「それを勝手に入ると言うのです」


「遅くなるな」


「努力します」


 緊張の中でも、いつものやり取りが続く。


 ミレイが記録板を抱えながら、学院長へ尋ねた。


「記録担当は、誰が地下へ?」


「ミレイとケイン」


 学院長が答える。


「サーラは地上で人数と退路を管理せよ」


 サーラは一瞬、地下入口を見た。


 自分も行きたい気持ちがあったのかもしれない。


 それでもすぐにうなずく。


「地下へ入る人数は?」


「九名」


「戻るまで、入口から離れません」


 役割が分かれる。


 同じ場所へ来た二十一人が、全員で地下へ入るわけではない。


 残る者。


 入る者。


 入口を守る者。


 学院へ連絡する者。


 誰か一人のそばに集まるのではなく、必要な場所へ声を分ける。


 アリシアは黒月を一度鞘へ戻した。


 地下へ入る前に、両手を空ける。


 石段の入口へ近づくと、冷たい空気が隙間から流れ出していた。


 土と石の匂い。


 長く閉じられていた場所の湿気。


 そして、その奥に混じる淡い光の魔力。


「アリシア」


 光の神器継承者が隣ではなく、一歩後ろから声をかける。


「先ほど、同じ場所へ行けそうだと言いました」


「うん」


「ですが、地下では役割が違います」


「分かっています」


「私がルクスの声を聞いても、すぐ近づかないでください」


 アリシアは少しだけ胸が痛むのを感じた。


 けれど、うなずく。


「あなたも、黒月が呼ばれても近づかないでください」


「承知しました」


「先に、何が起きたか伝える」


「はい」


「それから、誰が動くか決める」


「はい」


 二人で確認する。


 約束というより、手順だった。


 けれどその手順の中には、互いを一人にしないための意思があった。


 地下入口の土砂を土の神器継承者が固め、警備隊が先行する。


 結界術師が安全を確認し、一人ずつ石段へ入る。


 学院長。


 土。


 光。


 アリシア。


 ノア。


 ミレイとケイン。


 最後に警備隊員が二名続く。


 外の光が少しずつ遠ざかる。


 石段は狭く、壁には古い光石が埋め込まれていた。


 多くは消えている。


 けれど光の神器継承者が通ると、いくつかが淡く灯った。


「反応しています」


 ミレイが記録する。


「光石は、継承者通過時のみ点灯。黒月通過時は変化なし」


 アリシアが同じ場所を通っても、光石は消えなかった。


 光の神器の余韻が残っている。


 階段を下るほど、外の音が聞こえなくなる。


 代わりに、低い振動が足元から伝わってきた。


 こつ。


 こつ。


 一定の間隔。


 旧資料室で箱を叩いていた音と同じだった。


「聞こえますか」


 アリシアが尋ねる。


「はい」


 光の神器継承者が答える。


「内側から、何かが叩いている」


「記録します」


 ケインが歩きながら時刻を書く。


「音の間隔、約四秒。一度ずつ」


 誰も急がなかった。


 急ぎたい。


 けれど狭い石段で走れば、誰かが転ぶ。


 音が続いていることを確認しながら、一段ずつ下りる。


 やがて階段の先に、広い空間が見えた。


 円形の地下室。


 天井は高く、中央から白い光が立ち上っている。


 壁には六つの円が刻まれていた。


 火。


 水。


 風。


 土。


 光。


 闇。


 旧資料室の箱と同じ印。


 ただし、ここでは光の円が最も大きく、部屋の正面を占めている。


 その前に。


 白い光で形作られた、半透明の箱が浮かんでいた。


 まだ完成していない。


 輪郭は揺れ、角の一部は途切れている。


 けれど第一の器と同じ大きさ。


 同じ六つの円。


 第二の器が、目の前で作られていた。


「全員、入口から離れすぎるな」


 学院長が低く命じる。


 土の神器継承者が壁と天井を確認する。


「空間は安定している。今のところ崩落の兆候なし」


 結界術師が魔力の流れを測る。


「部屋の中央へ、壁の光術式から力が集まっています」


「止められるか」


「術式の起点が分かりません」


 アリシアは黒月を抜く。


 刀身を通して見ると、光の下に黒い線が走っていた。


 壁の六つの円から、床を通り、中央の箱へ集まっている。


 第一の器と同じ。


 しかし、今度は闇が中心ではない。


 光の円が起点となり、ほかの五つを呼び込もうとしている。


「光の円が、器を作っています」


 アリシアが言う。


「でも、その下に闇の線があります」


「光を利用している?」


 学院長が尋ねる。


「たぶん」


 光の神器継承者が一歩前へ出る。


 白い箱が強く明滅する。


「ルクス」


 呼びかける。


 返事はない。


 けれど部屋の正面にある大きな光の円が揺れた。


「そこにいるのですか」


 神器の光が強くなる。


 同時に、半透明の箱の内側で何かが動いた。


 白い獣の影。


 翼のようなもの。


 大きな頭。


 輪郭ははっきりしない。


 けれど生き物だった。


「ルクス……?」


 光の神器継承者の声が震える。


 彼はもう一歩進もうとした。


「待って」


 アリシアが声を上げる。


 約束通り、近づいて止めるのではなく、まず言葉で伝える。


「箱の中の影に、黒い線が絡んでいます」


 光の神器継承者は足を止めた。


「どこに」


「首と、翼。それから胸」


「ルクスが、器の材料にされているということですか」


 結界術師が息を呑む。


 アリシアは答えられなかった。


 分からない。


 けれど、白い獣の影は箱の中から出ようとしている。


 内側から壁を叩く。


 こつ。


 こつ。


 聞こえていた音は、器が目覚める音ではなかった。


 中へ閉じ込められた神獣が、外へ出ようとする音だった。


「開けなければ」


 光の神器継承者が言う。


「待ってください」


 学院長が止める。


「第一の器は、蓋を開けようとした。あれが同じ器なら、開けること自体が完成条件かもしれない」


「ですが、ルクスが中にいます」


「見えている影が本物とは限らない」


「声が聞こえます」


 光の神器継承者が胸元を押さえる。


 全員が静まる。


「何と?」


 アリシアが尋ねる。


「助けて、と」


 彼の顔から、いつもの落ち着きが消えていた。


「ルクスが、私を呼んでいます」


 白い箱の内側で、獣の影が大きく動く。


 翼が広がる。


 黒い線が締まり、影が苦しむように身を縮めた。


「すぐに開けなければ」


 光の神器継承者が進む。


 アリシアは黒月を握り、箱を見る。


 声は聞こえない。


 ノアも黙っている。


『ノア』


『聞いているわ』


『本当にルクス?』


 ノアはすぐに答えなかった。


 金色の瞳が箱の中の影を見つめている。


『姿は似ている』


『声は?』


『私には聞こえない』


 アリシアの背中へ冷たいものが走る。


「待ってください」


 今度は強く言う。


 光の神器継承者が振り返る。


「ノアには、ルクスの声が聞こえていません」


「私には聞こえています」


「あなたにだけ聞こえる声かもしれません」


 旧資料室の箱も、アリシアだけを呼んだ。


 名前を使わず。


 神器を通して。


 求めている言葉を聞かせるように。


「ルクスなら、私に何か合図を送るはずです」


 光の神器継承者は言う。


「実際、眠る場所が開かれると教えました」


「その声と、今の声は同じですか」


 問いに、彼は答えを止めた。


 アリシアは続ける。


「話し方。呼び方。聞こえる場所」


 光の神器継承者は目を閉じる。


 胸元の神器へ意識を向ける。


 箱の中の獣が、再び壁を叩く。


 助けて。


 アリシアには聞こえない。


 けれど彼の表情から、声が繰り返されていることは分かった。


「違います」


 やがて、光の神器継承者が言う。


 声は苦しそうだった。


「先ほどのルクスの声は、遠くから響いていました。今は、神器の内側から聞こえる」


「箱が、神器を使って声を見せている?」


「可能性があります」


 彼は進めていた足を戻した。


 一歩。


 白い箱から離れる。


 その瞬間、箱の内側の獣が激しく暴れた。


「助けているのに、なぜ離れる」


 声が聞こえた。


 今度はアリシアにも。


 白い箱からではない。


 部屋全体。


 壁。


 床。


 六つの円から重なって響く。


「光よ。お前の神獣は、ここにいる」


 光の神器継承者の顔が強張る。


「器を開ければ、戻る」


 第一の器と同じ声だった。


 冷たく。


 個人を見ず。


 役割だけを呼ぶ声。


「光よ。選べ」


 白い箱の中で、獣の影が手を伸ばす。


「神獣か。分かれた意思か」


 アリシアの胸に怒りが生まれる。


 また同じだ。


 一つを選べと迫る。


 誰かを助けるために、別の誰かの意思を差し出せと。


「選びません」


 光の神器継承者が答えた。


 声は震えていた。


 それでも、箱へ近づかなかった。


「ルクスを助けます。ですが、あなたの方法では助けません」


「拒めば、神獣は眠り続ける」


「それでも、器へ戻しません」


「光は、救うものではないのか」


 問いかけが、部屋の中へ広がる。


 光の神器継承者の肩が揺れる。


 彼がずっと背負ってきた役割。


 傷ついた者を癒やす。


 迷う者を照らす。


 救いを求める声へ応える。


 その光へ、助けを拒むのかと迫っている。


 アリシアは隣へ行きたかった。


 腕を掴み。


 あなたは間違っていないと言いたかった。


 けれど役割が違う。


 今、自分が見るべきものは、彼の表情だけではない。


 箱を作る術式。


 黒い線。


 六つの円。


「線が変わっています」


 アリシアは黒月を構える。


 光の神器継承者が拒んだことで、床の黒い線が揺れ始めていた。


 光の円から箱へ流れていた魔力が、一部逆流している。


「光が拒んだことで、器が不安定になっています」


「止められるか」


 学院長が尋ねる。


「第一の器と同じなら、円をつなぐ線を切ります。でも」


 アリシアは床を見る。


 六つの円は、部屋全体へ広がっている。


 線の一部は壁の下へ入り、箱の下へ重なっている。


「黒月だけでは、全部に届きません」


「私の光で、線を見せます」


 光の神器継承者が言う。


 アリシアは彼を見る。


「箱に近づかなくていい?」


「近づきません」


「光を使うと、器が完成するかもしれない」


「弱く照らします。器へ流れないよう、壁だけを」


 彼一人の判断ではない。


 アリシアへ伝え。


 学院長を見る。


 結界術師が魔力の流れを確認する。


「可能です」


 術師が答える。


「光を壁面へ沿わせれば、中央への流入を抑えられます。ただし長くは保ちません」


「土で床を支える」


 土の神器継承者が進み出る。


「線を斬った反動で崩れても、退路は残す」


「記録担当は入口へ下がれ」


 学院長が命じる。


 ミレイとケインはすぐには動かなかった。


「ここからでも記録できます」


 ミレイが言う。


「入口まで下がって続けます」


 二人が入口側へ移動する。


 警備隊が盾を構え、結界術師が防壁を張る。


 誰もアリシア一人の攻撃を待っていない。


 それぞれが、斬るための場所を作っている。


「準備します」


 光の神器継承者が封印布を外す。


 白い神器が姿を現す。


 室内の光が一度強くなり、中央の箱が激しく震えた。


「光よ」


 声が響く。


「神獣を救え」


 光の神器継承者は目を閉じなかった。


「救うからこそ、あなたへ渡しません」


 神器を掲げる。


 白い光が箱ではなく、壁へ向かって広がった。


 六つの円が照らされる。


 その下に隠されていた黒い線が、はっきりと浮かび上がった。


「見えます!」


 アリシアは黒月へ魔力を流す。


 刀身が深い闇へ染まる。


 第一の器では、六つを輪へ戻す最後の線から斬った。


 今回は違う。


 光の円が起点。


 そこから五つへ、命令を流そうとしている。


「光と闇の間を、最初に切ります」


 アリシアが伝える。


「なぜだ」


 学院長が問う。


「第一の器とつながらないようにします。闇が残ると、旧資料室の箱へ道が開くかもしれません」


「分かった」


 誰かの準備を待つ。


 土の神器継承者が床へ手を当てる。


 結界が張られる。


 警備隊が退路を確保する。


 ミレイが入口から声を上げる。


「全員、位置確認済み。退路確保!」


 ケインが時刻を告げる。


「器の形成、約七割!」


 時間はない。


 それでも、アリシアだけで始めない。


「準備完了」


 土の神器継承者。


「光、維持します」


 光の神器継承者。


「結界展開」


 術師。


「斬ってください!」


 ミレイの声。


 アリシアは踏み込んだ。


 光と闇をつなぐ黒い線へ、黒月を振り下ろす。


 箱から白い獣の影が飛び出した。


 ルクスの姿をしたもの。


 苦しそうに翼を広げ、アリシアの前へ立つ。


「斬れば、神獣が消える」


 声が告げる。


 黒月の刃が止まりかけた。


 本物ではない。


 そう思っても。


 神獣の姿を斬ることは怖い。


『アリシア』


 ノアが叫ぶ。


『姿を見ないで。線を見なさい!』


 アリシアは獣の影ではなく、その下を見る。


 白い姿を支える黒い線。


 神獣ではない。


 神獣の形を作っている術式。


「あなたは、ルクスじゃない」


 黒月を振り抜く。


 光と闇の線が切れた。


 部屋全体が大きく揺れる。


 白い獣の影が崩れ、光の粒となって消えた。


 光の神器継承者が息を呑む。


 けれど彼は光を止めなかった。


「次は?」


「光と火!」


 アリシアが走る。


 床の線を斬る。


 火の円が暗くなる。


 地上にいる火の神器継承者へ、何か反応が起きたかもしれない。


 確認したい。


 けれど今は、目の前の線を止める。


「器の輪郭が崩れています!」


 ケインの声が入口から飛ぶ。


「六割! 五割!」


 光と水。


 光と風。


 一本ずつ斬る。


 そのたび、白い箱が形を失う。


 蓋の角が崩れ。


 六つの円が消え。


 内側の影が薄くなる。


 残る線は、光と土。


 そして中央の光の円から、箱へ直接伸びる一本。


「床が沈む!」


 土の神器継承者が叫ぶ。


 線を切った反動で、石床へ亀裂が走る。


 彼が両腕を広げ、土の神器へ魔力を流す。


 茶色の光が床を支える。


「長くは持たない!」


「光と土を切ったら、支えも消える?」


 アリシアが尋ねる。


「俺の神器との接続なら消える。だが自分の魔力で支える!」


「無理をしないで」


「無理をしないと道が落ちる!」


 土の神器継承者は歯を食いしばる。


「役割を奪うな。斬れ!」


 アリシアの胸が動く。


 助けたい。


 代わりたい。


 けれど土を支えられるのは彼だ。


 自分がすべきことは、その負担を早く終わらせること。


「斬ります!」


 光と土の線へ黒月を振るう。


 線が切れる。


 土の円が消え、床がさらに沈む。


 土の神器継承者が膝をつく。


 それでも床は崩れない。


「残り一本!」


 光の神器継承者の声が聞こえる。


 中央の光の円から、器へ伸びる線。


 これを切れば、第二の器は完成しない。


 アリシアは黒月を構える。


 しかし最後の線は、白い箱の真下にある。


 斬るには、箱へ近づかなければならない。


「近づくと、呼ばれます」


 アリシアが言う。


「私が光を弱めれば、箱も薄くなる」


 光の神器継承者が答える。


「でも線が見えなくなります」


「一瞬だけ強く照らし、位置を覚えてください。そのあと光を落とします」


「あなたは?」


「器に引かれる前に、神器を布へ戻します」


 危険はある。


 光を強くすれば、器が完成へ近づくかもしれない。


 弱めれば、線が見えなくなる。


「別の方法は?」


 学院長が尋ねる。


 誰もすぐには答えられない。


 箱の輪郭が再び戻り始めている。


 残った一本から、光が流れ込んでいる。


「形成率、四割から上昇!」


 ケインが叫ぶ。


 時間がない。


 光の神器継承者がアリシアを見る。


「私が決めてよいですか」


「一人ではなく」


「では、あなたはどう思いますか」


 アリシアは箱を見る。


 最後の線。


 黒月なら斬れる。


 光が道を見せる。


 二人の力が必要だ。


 けれど同時に器へ近づけば、二つとも引かれる危険がある。


「光を一度強くしてください」


 アリシアは答えた。


「線の位置を覚えます。そのあと、すぐ離れて」


「あなたを残して?」


「黒月は鞘から抜いたままです。線を斬るまで必要です」


「一人で近づくことになります」


「でも、入口には皆がいます」


「でも、入口には皆がいます」


 同じ場所。


 違う役割。


 最後に斬るのはアリシア。


 光を見せるのは彼。


 床を支えるのは土。


 結界を張る者も、退路を守る者も、記録する者もいる。


「一人ではありません」


 アリシアは言う。


 光の神器継承者は迷っていた。


 離れれば、彼女を残す。


 残れば、二つの神器が同時に器へ引かれる。


 どちらも怖い。


 それでも彼は、やがてうなずいた。


「分かりました」


 神器を両手で掲げる。


「三つ数えます。一度だけ強く照らします」


「はい」


「一」


 白い光が集まり始める。


「二」


 箱の声が響く。


「光よ。闇を渡せ」


 光の神器継承者の顔が強張る。


「三」


 神器が眩く輝いた。


 地下室が昼のように明るくなる。


 最後の黒い線が、白い箱の真下へはっきり浮かんだ。


 アリシアは位置を目に焼きつける。


「見えました!」


 光が消える。


 光の神器継承者はすぐに封印布を巻き、入口側へ下がる。


 同時に、白い箱から影が伸びた。


 光を追う。


 けれど彼の前へ結界術師が障壁を張り、影を止める。


「アリシア!」


 誰かが呼ぶ。


 アリシアは箱へ走った。


 黒月が強く引かれる。


 腕ごと持っていかれそうになる。


「六つ目」


 声が耳元で響く。


「光は、お前を捨てた」


「違う」


「一人で残された」


「違う」


 光の神器継承者は役割を果たして離れた。


 見捨てたのではない。


 今も入口側で、結界の向こうからこちらを見ている。


 土は床を支えている。


 学院長は退路を守っている。


 ミレイたちは声を止めていない。


「距離、あと三歩!」


 ミレイが叫ぶ。


「線は、右前!」


 アリシアには暗くて見えない。


 けれど彼女は、光が消える前に記録していた。


「半歩左!」


 ケインの声。


 アリシアは従う。


 一人で位置を覚えたつもりだった。


 けれど記録担当者も見ていた。


 自分の見落としを、外から補ってくれる。


「今です!」


 黒月を振り下ろす。


 見えない線へ、刃が触れた。


 激しい抵抗。


 刀身が止まる。


 箱の中から、何本もの影がアリシアの腕へ絡みつく。


「六つ目。戻れ」


「戻りません」


「一つなら、迷わない」


「迷ってもいい」


「一つなら、捨てられない」


「離れることは、捨てることじゃない」


 アリシアは両手へ力を込める。


 黒月が少しずつ線へ食い込む。


「違う場所にいても、声は届きます」


 光の神器継承者が入口から叫ぶ。


「アリシア、斬ってください!」


 その声が背中を押す。


 アリシアは息を吐き、黒月を振り抜いた。


 最後の線が切れる。


 白い箱が、音もなく崩れた。


 光の粒が地下室へ散る。


 六つの円が一つずつ消え、壁の黒い線も霧のように薄くなる。


 床の振動が止まった。


 内側から叩く音も。


 器の声も。


 すべてが消える。


 静寂が訪れた。


 アリシアは黒月を構えたまま、しばらく動けなかった。


 息が荒い。


 腕に影が触れた場所は冷たいが、傷はない。


「アリシア!」


 光の神器継承者が近づこうとする。


「待て」


 学院長が止める。


「残留反応を確認する」


 結界術師が慎重に中央へ光を向ける。


 第二の器があった場所には、何も残っていない。


 箱も。


 影も。


 ただ石床の中央に、小さな白い羽根が一枚落ちていた。


 光の神器継承者が息を呑む。


「ルクスの……」


 羽根は淡く光っている。


 黒い線は絡んでいない。


 器の残骸ではなく、何かが自分の意思で残したもののように見えた。


『本物よ』


 ノアが言う。


『ルクスの気配がある』


「ノアが、本物のルクスの羽根だと言っています」


 アリシアが伝える。


 光の神器継承者は、その場から動かなかった。


 触れたいはずだ。


 拾いたい。


 長く声を聞けなかった神獣の痕跡。


 けれど今は、まだ安全確認が終わっていない。


 彼は待った。


 結界術師が羽根の周囲を調べる。


 闇の魔力なし。


 器の術式なし。


 攻撃性なし。


「接触してよい」


 学院長が許可する。


 光の神器継承者はゆっくり中央へ歩いた。


 アリシアも数歩遅れてついていく。


 同じ場所へ。


 けれど羽根を拾うのは彼の役割だ。


 光の神器継承者が膝をつき、白い羽根へ手を伸ばす。


 指先が触れた瞬間。


 羽根が淡く輝いた。


 部屋全体へ、穏やかな声が響く。


「――ようやく、聞くことを覚えたか」


 先ほどの器の声とは違う。


 温かく。


 少し呆れたようで。


 長く眠っていた者の疲れを含んでいる。


「ルクス」


 光の神器継承者が名前を呼ぶ。


 声が震えた。


「どこにいるのですか」


「――ここではない」


「では、どこに」


「――第二の器は、私の眠りへ手を伸ばしただけだ」


 羽根の光が揺れる。


「――本体はまだ眠りの底にある」


「起こすには、どうすれば」


「――急ぐな」


 光の神器継承者の表情が、少しだけ固まる。


 今すぐ助けたい。


 その気持ちを見透かされたようだった。


「――光は、すべてを早く照らせばよいわけではない」


 ルクスの声は続く。


「――目を開ける準備がない者へ光を当てれば、傷つける」


 光の神器継承者は黙って聞いている。


「――お前の光が足りなかったから、私は眠っていたのではない」


 彼の肩が揺れた。


 先ほどアリシアへ話した不安。


 自分の光が足りなかったのではないか。


 その答えが、本人の声で返される。


「――私が、起きるべき時を待っていた」


「今が、その時ではないのですか」


「――近い」


 羽根の光が少し強くなる。


「――だが、まだ六つは揃っていない」


 全員が息を呑む。


 六つの神器継承者は、すでに学院にいる。


 火、水、風、土、光、闇。


 それでも揃っていないと、ルクスは言う。


「何が足りないのですか」


 アリシアが尋ねる。


 羽根の光が、わずかにこちらへ向く。


「――神器ではない」


 声が答える。


「――六つの声が、まだ互いの名を知らない」


 アリシアは意味を考える。


 自分たちは互いの名前を知っている。


 話し合いもしている。


 役割も分けている。


 それでも、神獣が言う「名」は別のものなのかもしれない。


 神器としてではなく。


 継承者としてでもなく。


 一人の人間として、本当に何を恐れ、何を望み、何を選ぶのか。


 それを互いに知らない。


「――器は、役割だけを呼ぶ」


 ルクスの声が静かに続く。


「――火。水。風。土。光。闇」


 旧資料室の箱もそうだった。


 アリシアではなく、六つ目。


 光の神器継承者ではなく、光。


「――名を持たぬ役割は、一つの声へ戻される」


「名前を知れば、戻されないのですか」


 アリシアが尋ねる。


「――名を知るだけでは足りない」


 羽根の光が弱くなる。


「――呼ばれた時、互いを役割ではなく、名で呼べ」


 それは単純な合言葉ではない。


 相手を火の神器として見るのではなく。


 光の継承者として見るのでもなく。


 その人自身を呼ぶ。


 その人が何を選ぶかを待つ。


「――第三の器は、すでに動いている」


 声が告げる。


 緊張が戻る。


「どこですか」


 学院長が尋ねる。


「――水の記憶が沈む場所」


 水。


 学院に残った水の神器継承者。


 第一は闇。


 第二は光。


 次は水。


「学院ですか」


「――近い」


 羽根の光が薄れていく。


「――だが、器を追うな」


「では、何を」


「――水の名を呼べ」


 最後の言葉とともに、光が消えた。


 白い羽根は残っている。


 けれど声は途絶えた。


 地下室に再び静けさが戻る。


 光の神器継承者は羽根を両手で包み、しばらく俯いていた。


 誰も急かさなかった。


 ルクスの声を聞いたのは、彼だけではない。


 それでも、最も長く待っていたのは彼だ。


 アリシアは少し離れた場所に立つ。


 扉の外ではない。


 隣でもない。


 声をかけられる距離。


 やがて彼が顔を上げる。


「アリシア」


「はい」


「私の名前を、知っていますか」


 思いがけない問いだった。


 もちろん知っている。


 学院で何度も呼ばれている。


 六人で話すときにも。


 けれど、アリシアはすぐに答えられなかった。


 これまで彼を、光の神器継承者として見ることの方が多かった。


 役割の方が先に立ち、その人自身を呼ぶ機会は少なかった。


「知っています」


 それでも、名前を口にすることは少し怖かった。


 役割ではなく、その人を呼ぶ。


 今までの関係が変わるような気がした。


 光の神器継承者は、返事を待っている。


 アリシアは一度息を吸った。


「レオンハルト」


 彼の名前を呼ぶ。


 光の神器継承者――レオンハルトは、静かに目を閉じた。


 その名前を、アリシアの声で初めて確かめるように。


「はい」


 短く答える。


「私も、あなたを知っています」


 黒月の継承者ではなく。


 六つ目でもなく。


「アリシア」


 名前を呼ばれる。


 胸の奥が、少しだけ温かくなった。


 同じ場所へ向かっても。


 同じ役割を持たなくても。


 離れていても。


 互いの名前を呼べる。


 そのことが、器の声へ抗う最初の一歩になる。


「地上へ戻る」


 学院長が告げた。


「第二の器は未完成のまま消滅。ルクスの羽根は封印保管する。ただし、光の神器継承者との接続を断たない形で持ち帰る」


 土の神器継承者が、支えていた床からゆっくり手を離す。


 亀裂は残っているが、崩落の危険は下がっていた。


「第三の器について、学院へ即時連絡を」


 学院長が警備隊員へ指示する。


「水の神器継承者を単独にするな。旧資料室からも離せ。ただし、拘束と感じさせないよう本人へ説明せよ」


 アリシアは胸がざわつく。


 水の記憶が沈む場所。


 何を指すのか分からない。


 学院の貯水池。


 治療棟。


 大聖堂の洗礼槽。


 あるいは、水の神器継承者自身の過去。


 器を追うな。


 水の名を呼べ。


 ルクスはそう言った。


 場所を探すだけでは足りない。


 次に必要なのは、水の神器継承者が誰なのかを知ること。


 役割の外にあるものを聞くこと。


 地上へ戻る準備が始まる。


 ミレイとケインが記録をまとめる。


「第二の器、完成前に術式切断」


「光の神獣ルクスの羽根を確認」


「第三の器、水の記憶が沈む場所」


 ミレイが最後に、新しい欄を書き加えた。


 ――互いを、役割ではなく名前で呼んだか。


 アリシアはその文字を見つめる。


「それも記録するんですか」


「必要だと思います」


 ミレイは少し照れながら答える。


「器を止める方法の一つなら」


「まだ、方法かは分かりません」


「では、分からないこととして残します」


 断定しない。


 けれど消さない。


 違いも、不確かなことも、記録へ残す。


 アリシアはうなずいた。


「お願いします」


 地下から地上へ続く石段を上る。


 先ほど下りたときより、足が重い。


 戦った疲れだけではない。


 第三の器が動いている。


 学院に残った仲間が、次に呼ばれるかもしれない。


 今すぐ走りたい。


 けれど石段は狭い。


 前にはレオンハルト。


 後ろには記録担当者。


 自分だけが急げば、隊列が崩れる。


 だから一段ずつ上る。


 地上の光が少しずつ近づく。


 森の湿った空気が流れ込む。


 入口を出た瞬間、火の神器継承者が駆け寄ってきた。


「遅い!」


「勝手に入らなかったんですね」


 レオンハルトが言う。


「何度入ろうと思ったと思ってる!」


「入らなかったなら、役割を守りました」


「褒めるな。腹立つ」


 火の神器継承者は二人の姿を確かめ、そのあとアリシアの腕と顔を見る。


「怪我は?」


「ありません」


「本当に?」


「影に触れましたが、冷たいだけです」


「それを怪我がないと言っていいのか?」


 治療教師がすぐにアリシアの腕を確認する。


 火の神器継承者はレオンハルトへも視線を向ける。


「お前は」


「無事です」


「神獣は?」


 レオンハルトは両手の中にある白い羽根を見せる。


「声を聞きました」


 火の神器継承者が安堵する。


 けれど次の瞬間、レオンハルトが続けた。


「第三の器が動いています。次は水です」


 森の空気が再び重くなる。


 風の神器継承者が中継地点から走ってくる。


「学院へ連絡を送る!」


「水を一人にしないでください」


 アリシアが言う。


「それから、名前を」


「名前?」


「役割ではなく、名前で呼んで」


 風の神器継承者は意味を理解できない顔をした。


 けれど詳細を尋ねるより先に、伝令を送る必要があると判断したらしい。


「分かった。必ず伝える」


 彼は中継役へ走り、風の合図を飛ばす。


 学院へ。


 第三の器。


 水の神器継承者。


 一人にしない。


 名で呼べ。


 短い情報が、森の中継点を通って送られていく。


 アリシアは北東の森から、学院の方角を見た。


 木々に遮られ、建物は見えない。


 けれどそこには水の神器継承者がいる。


 名前も知っている。


 何度も話した。


 心配され。


 注意され。


 怪我を隠すなと怒られた。


 それでも自分は、彼女をどれほど知っているのだろう。


 水の神器を持つ者としてではなく。


 治療が得意な、冷静な仲間としてでもなく。


 一人の人間として。


 何を怖がり。


 何を忘れたくて。


 何を記憶の底へ沈めているのか。


 ルクスの言葉が、胸の中に残る。


 ――器を追うな。


 ――水の名を呼べ。


 第三の器が現れる場所を探すより先に。


 今度は、呼ばれる者の声を聞かなければならない。


 アリシアは黒月の柄へ手を添えた。


 鞘の中は静かだった。


 第二の器は止めた。


 けれど戦い方は、もう同じではない。


 刀で線を斬るだけでは足りない。


 次に必要なのは。


 水の神器継承者が、自分でも沈めている記憶へ。


 誰かが一緒に耳を澄ませることだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。