第95話 同じ場所へ向かうと決めても、同じ役割を持つわけではない
眠光井へ向かう調査班の編成は、すぐには決まらなかった。
場所が特定されたことで、講堂や観測室に漂っていた焦りは一度、はっきりとした形を持った。学院北東の森。旧礼拝所跡から、およそ三百歩。地表ではなく、その地下。
行くべき場所が分からない不安は消えた。
代わりに、誰を行かせるのかという問題が生まれた。
「光の神器継承者は外せない」
中央棟一階の作戦室に移った学院長が、大きな地図を机へ広げながら言った。
「光の神獣が眠る場所であり、第二の器がそこで作られている可能性が高い。現地の状態を確認するには、光の神器の反応が必要になる」
光の神器継承者は、長机の向こうで静かにうなずいた。
先ほどまで別室で神器の観測を受けていたため、白い神器は厚い封印布に包まれている。布越しでも淡い光が漏れ、机の上へ柔らかな輪郭を落としていた。
「同時に、闇の神器継承者も同行させる」
学院長の言葉に、部屋の何人かがわずかに身じろぎした。
アリシアは予想していた。
黒月も眠光井へ反応している。
第一の器を止めた力であり、第二の器が同じ仕組みで作られているなら、必要になる可能性は高い。
それでも実際に同行を告げられると、胸の奥が強く鳴った。
行きたいと思っていた。
光の神器継承者の隣に立ちたいとも言った。
けれど「行ける」と決まった瞬間に浮かんだのは、喜びではなかった。
旧資料室の黒い箱。
床へ広がった六つの円。
自分を名前ではなく、六つ目とだけ呼んだ声。
あれと同じものが、森の地下で形を作り始めている。
その中へ、自分から近づく。
『今さら怖くなった?』
足元のノアが尋ねる。
『最初から怖いよ』
『それなら結構。怖くないふりをされるより、ずっと扱いやすいわ』
アリシアは机の下で、ノアの尾が自分の靴へ触れるのを感じた。
「ただし、二人を同じ役割には置かない」
学院長は続ける。
「光は眠光井の位置と内部構造を探る。闇は、器の反応と六つの神器を結ぶ術式の有無を確認する。互いの神器へ異常が出た場合は、もう一方が近づくのではなく、まず報告せよ」
アリシアは地図から顔を上げた。
同じ場所へ行く。
けれど、同じものを見るわけではない。
光の神器継承者が何かに捕らわれたとしても、自分がすぐ駆け寄るとは限らない。
黒月が呼ばれたとしても、彼が直接助けに来るとは限らない。
それぞれの役割を守りながら、必要な距離を取る。
隣に立つと言った自分の言葉が、試される形だった。
「ほかの神器継承者は?」
火の神器継承者が尋ねる。
彼は当然、自分も同行するつもりでいるらしい。椅子へ座ってはいるものの、いつでも立ち上がれるよう身体を前へ傾けていた。
「現地へ同行するのは、火と土の二名とする」
学院長が答える。
火の神器継承者の顔が少し明るくなる。
対して水と風の神器継承者は、同時に眉を寄せた。
「我々は残るのですか」
水の神器継承者が尋ねる。
「学院と旧資料室の第一の器を守る者が必要だ」
「ですが、現地で負傷者が出た場合は」
「治療教師を二名同行させる。水の神器は学院へ残し、第一の器と第二の器が同時に動いた場合に備えよ」
理にかなっている。
それでも水の神器継承者は、すぐには納得した顔を見せなかった。
「風は連絡の中心だ」
学院長は風の神器継承者を見る。
「森の内部では伝声具が使えない可能性がある。現地入口と学院の間に中継点を設け、情報を往復させよ」
「現地へ入らないのですか」
「入口までは同行する。地下へは入らない」
風の神器継承者は地図を見つめたまま、短く息を吐いた。
「承知しました」
声には悔しさが混じっていた。
自分だけ安全な場所へ置かれるのが嫌なのではない。
仲間と同じ場所へ行けないことが、落ち着かないのだろう。
アリシアには、その気持ちがよく分かった。
「同じ場所へ全員が行けば、第一の器が再び目覚めたときに止める者がいなくなる」
光の神器継承者が静かに言った。
風と水の二人へ向けた言葉だった。
「残る役割は、同行より軽くありません」
「分かっています」
水の神器継承者は答える。
けれど、そのあと小さく付け加えた。
「分かっていることと、心配しないことは別です」
「そうですね」
光の神器継承者は否定しなかった。
「私も、皆さんを残すことに不安があります」
彼が自分から不安を言葉にしたことで、部屋がわずかに静かになった。
先ほどの講堂では、怖いなら怖いと言えばいいと求められ、すぐには答えられなかった。
今も「怖い」とは言っていない。
けれど、不安があることを隠さなかった。
水の神器継承者は少し驚いたあと、表情を和らげる。
「では、互いに報告を省略しないことにしましょう」
「はい」
「異常がなくても、決めた間隔で」
「承知しました」
短いやり取りだった。
それでも二人の間にあった硬さが、少しだけ解けたように見えた。
学院長は同行者の名前を、地図横の紙へ書き込んでいく。
神器継承者は、アリシア、光、火、土。
教師は、学院長、副学院長、結界術師二名、治療教師二名、歴史教師一名。
学院警備隊から六名。
記録担当者は三名。
その欄で、教師たちの手が止まった。
「記録担当者は、生徒から希望を募る予定でしたが」
副学院長が言う。
「時間がない」
「旧資料室で記録を担当した者から選ぶべきでしょうか」
「本人の意思を確認する」
学院長は後方へ視線を向けた。
作戦室の壁際には、灰色の布を巻いた生徒たちが並んでいる。講堂で調査補助について説明を受けたあと、自分の意思を決める時間を与えられていた者たちだった。
昨日の一年生の少女もいる。
旧資料室で最初に靄を発見したケインもいた。
二人とも、作戦室へ呼ばれた時点で、何が求められるか分かっていたはずだ。
「現地記録へ参加する者は、危険区域の内部へ入る可能性がある」
学院長が告げる。
「戦闘は求めない。異変へ触れることも禁ずる。記録、人数確認、退路の維持を担当する。ただし、第二の器がどのような影響を及ぼすかは分かっていない」
生徒たちの表情が強張る。
「参加しないことを選んでも、評価には一切影響しない。今日の訓練や旧資料室での働きが否定されることもない」
誰も動かなかった。
学院長は急かさず、待つ。
アリシアも振り返らなかった。
誰が手を挙げるか見つめれば、選ばなければならないように感じさせてしまうかもしれない。
机の上の地図を見る。
森。
旧礼拝所。
眠光井。
その下へ描かれた、何もない空白。
数秒後。
「参加します」
少女の声がした。
アリシアは思わず振り返る。
彼女は灰色の布を巻いた腕を上げていた。
顔は緊張している。
けれど昨日のように声が震えてはいなかった。
「理由を聞く」
学院長が言う。
「旧資料室の記録と、森の中の記録をつなげたいからです」
「怖くはないか」
「怖いです」
少女ははっきり答えた。
「途中で無理だと思ったら、戻ります」
「それでも参加するか」
「はい」
学院長はうなずき、名前を確認する。
「ミレイ・ファルン。現地記録第一担当」
アリシアはそこで初めて、彼女の名前を知った。
昨日から何度も話していた。
役割表を持ち込み、人数を数え、旧資料室の外から声をかけてくれた。
けれど自分は、彼女の名前を尋ねていなかった。
胸の中に、小さな申し訳なさが生まれる。
少女――ミレイは自分の名前が紙へ書かれるのを見ていた。
その横で、ケインも手を上げる。
「私も参加します」
「理由は」
「最初の器の靄を見たので、第二の器で同じものが出るか確認したいです」
「途中辞退は」
「必要ならします」
「よい」
学院長が二人目の名前を書く。
残る一人は、上級生の女子生徒だった。土の副担当として階段の避難を支えた者で、名はサーラといった。
「退路の確認なら、私が一番向いています」
彼女はそう言った。
「地下へ入る人数と、戻った人数をずらしません」
同行者が決まる。
アリシアは三人の記録担当者を見た。
誰も神器を持っていない。
魔力も、継承者ほど強くない。
それでも今回の調査に必要な者として、名前が並んでいる。
黒い箱は六つの神器だけを見ている。
けれど、こちらは六人だけで動かない。
「出発は二十分後」
学院長が宣言する。
「各自、装備を整えよ。現地到着後、地上班と地下班に分かれる。入口が確認できるまでは、全員で行動する」
椅子が動き、作戦室の空気が一斉に慌ただしくなる。
警備隊は武器と結界杭を確認し、教師たちは古地図の写しを分ける。治療担当は携帯用の薬品箱と担架を用意し、記録担当者たちは紙、墨、予備の時計を鞄へ収め始めた。
アリシアも立ち上がる。
黒月の帯を確認し、鞘が走るときに揺れないよう締め直す。
その途中で、ミレイが近くを通った。
「ミレイさん」
呼ぶと、少女が足を止める。
自分の名前を呼ばれたことが意外だったらしく、目を少し見開いた。
「はい」
「今まで、名前を聞いていなくて、ごめんなさい」
アリシアは頭を下げた。
ミレイはさらに驚き、慌てて首を横に振る。
「謝らなくても」
「でも、何度も話していたのに」
「私は、アリシアさんの名前を知っていましたから」
「それは、私が神器継承者だからです」
自分は多くの人に知られている。
黒月の継承者。
忘れられていた六つ目。
人見知りな闇の少女。
自分が何も話さなくても、相手は名前を知っていることが多い。
そのことに慣れすぎて、相手の名前を知らないまま話してしまう。
「これからは、名前で呼びたいです」
アリシアが言うと、ミレイは少し照れたように笑った。
「では、私もアリシアさんと呼びます」
「今までも、そう呼んでいました」
「あ……そうでした」
二人の間に、少しだけ間ができる。
ミレイの頬が赤くなり、アリシアも何と続ければよいか分からなくなった。
『二人とも会話が不器用すぎるわね』
ノアが足元で呟く。
聞こえているのはアリシアだけだが、表情に出たらしい。
ミレイが首を傾げる。
「どうしましたか?」
「ノアが、何でもないことを言いました」
『何でもなくはないわ』
「分かりました」
ミレイはノアを見下ろす。
「ノアさんも、よろしくお願いします」
『礼儀正しい子ね。あなたよりずっと』
アリシアは返事をしなかった。
ミレイが準備へ戻ったあと、光の神器継承者が隣へ来る。
「名前を聞いていなかったのですか」
「うん」
「随分話していたように見えましたが」
「聞く機会を逃しました」
「昨日から?」
「……うん」
「あなたらしいですね」
責める声ではなかった。
少し笑っている。
「光の神獣の名前は?」
アリシアは尋ね返す。
光の神器継承者の表情から、笑みが薄れる。
嫌なことを聞いたかもしれない。
アリシアはすぐに謝ろうとした。
けれど彼は、少し考えたあと答える。
「ルクスです」
「ルクス」
「継承の儀式で、一度だけ名乗りました」
「ノアは知ってる?」
『名前だけはね』
ノアが答える。
『古い神獣よ。私より愛想は悪くないけれど、話が長い』
「ノアは知っているそうです」
「何と?」
「古い神獣で、話が長いと」
光の神器継承者は一瞬黙り、そのあと小さく笑った。
「一度しか話していませんが、確かに長かったです」
『本人の継承の儀式で長話をしたのね』
「眠ると告げるまでに、光の役割と責任についてかなり説明されました」
『相変わらずね』
ノアは懐かしそうに目を細める。
アリシアはその表情を見た。
ノアは千年前のことを、すべて話しているわけではない。
六つの神器が分かれた経緯。
神獣たちの関係。
器が封じられた理由。
知らないのか。
知っていて、まだ話していないのか。
気になったが、今は尋ねなかった。
出発前に問い詰めても、答えが得られるとは限らない。
ノアが話すべきだと判断したときに聞けばいい。
「ルクスは、また声を出しましたか」
アリシアは光の神器継承者へ尋ねる。
「いいえ。眠光井が開かれると告げたあと、応答はありません」
「怖い?」
問いが口から出たあと、アリシアは少し後悔した。
講堂で今すぐ言わなくていいと、自分で伝えたばかりだった。
けれど光の神器継承者は、すぐに拒まなかった。
封印布に包まれた神器へ目を落とす。
「怖い、という言葉だけでは足りません」
静かに答えた。
「ルクスが生きていると分かり、安堵しました。同時に、長い間応じなかった理由が、第二の器と関係しているのではないかと不安です」
「うん」
「会いたいとも思います」
「うん」
「ですが、会ったときに何を言われるのかは怖い」
彼はそこで言葉を切る。
「私の光が足りなかったから、起きなかったのかもしれません」
アリシアは、すぐに否定しそうになった。
そんなことはない。
あなたは十分に光の神器継承者だ。
神獣が起きなかったのは、あなたのせいではない。
けれど、今それを言っても根拠がない。
ルクスの言葉の意味は、まだ分からない。
「会ったら、聞きましょう」
アリシアは言う。
「一人で?」
光の神器継承者が尋ねる。
「私も聞きます」
「私への言葉でも?」
「聞いてほしくないところは、離れます」
「それでは一人になるでしょう」
「扉の外にいます」
旧資料室で、自分がそうしてもらったように。
同じ部屋に入ることだけが、隣に立つことではない。
彼が自分だけでルクスの言葉を受け止めたいなら、その権利もある。
けれど必要になったとき、声が届く距離にはいる。
「分かりました」
光の神器継承者はうなずく。
「では、私も黒月の声を聞くときは、扉の外にいます」
「黒月は、ほとんど話しません」
「ノアが代わりに話しすぎるからでは?」
『何ですって?』
ノアが顔を上げた。
アリシアは少し笑った。
緊張が消えたわけではない。
けれど、これから森へ向かう前に、その小さな笑いを持てたことが嬉しかった。
準備を終えた調査班は、中央棟北口へ集まった。
学院内には訓練中止が正式に告げられ、生徒たちは各教室へ戻されている。窓からこちらを見る者はいたが、教師の指示を守り、外へ出ようとする者はいなかった。
北口前には、学院警備隊が用意した外套が並べられていた。
森の中は枝や湿気が多い。
制服のままでは動きにくいため、神器継承者たちも短い外套を羽織る。
アリシアのものは濃い灰色だった。
黒ではない。
森の中で姿が見えにくくなりすぎないよう選ばれたらしい。
「黒がよかったか?」
火の神器継承者が尋ねる。
「灰色でいい」
「闇の継承者だから黒、って単純すぎるもんな」
「あなたは赤ですね」
光の神器継承者が、火の神器継承者の外套を見る。
「目立ちます」
「警備隊から渡されたんだよ。俺が選んだんじゃない」
「森へ入る者が赤い外套でよいのでしょうか」
「見失わなくていいだろ」
「敵にも見失われません」
「お前、今日いつもより口が悪くないか?」
「緊張していますので」
光の神器継承者が真顔で答える。
火の神器継承者は少し目を丸くし、そのあと笑った。
「それなら仕方ないな」
緊張していると、自分で言えた。
アリシアはそれを聞きながら、外套の留め具を締めた。
土の神器継承者は、大きな盾を背負っている。
普段使う戦闘用のものではなく、狭い地下でも取り回しやすい短盾だ。土の神器は腕輪の形で装着され、必要に応じて地面や壁を補強する役割を担う。
「眠光井が古い地下施設なら、崩落の可能性がある」
彼は地図を見ながら言う。
「戦うより、まず道を保つ」
「火も、地下では大きく使うな」
学院長が火の神器継承者へ釘を刺す。
「分かっています」
「照明としても、必要以上に燃やすな。古い空間では空気が足りなくなる場合がある」
「光がいるのに、俺が照明をやる必要あるか?」
「光の神器を無駄に使わせないためだ」
「分かりました」
同じ神器でも、役割は一つではない。
火は戦闘だけではなく、小さな灯りや温度の確認に使える。
土は防御だけではなく、崩れかけた道を支えられる。
光は眠光井を探る。
闇は器の術式を見つける。
四人が同じ場所へ向かっても、見るものも、することも違う。
北口の門が開いた。
湿った森の匂いが流れ込んでくる。
朝から低く垂れ込めていた雲はさらに厚くなり、木々の上へ淡い灰色の空が広がっていた。雨はまだ落ちていないものの、葉の表面には細かな水滴が付き、風が吹くたび肩や髪へ冷たい粒が降ってくる。
「出発する」
学院長の声とともに、調査班が動き始めた。
先頭は警備隊二名。
その後ろに土の神器継承者と結界術師。
中央に光の神器継承者。
少し距離を空けて、アリシアとノア。
火の神器継承者は後方警戒。
記録担当者たちは教師の間へ入り、最後尾を警備隊が守る。
学院の庭を抜け、北東の森へ入る。
最初のうちは、普段の実習でも使われる道だった。
踏み固められた土。
枝へ結ばれた道標。
低級魔物を遠ざける結界杭。
生徒たちにとっても見慣れた森だ。
けれど旧礼拝所跡へ近づくにつれ、道は細くなった。
木々の間隔が狭まり、頭上の枝が空を覆う。陽の光がほとんど届かず、昼前だというのに夕方のような暗さがあった。
足元には落ち葉が厚く積もっている。
踏むたび湿った音がし、時折、その下で小枝が折れる。
誰も大きな声を出さなかった。
警備隊の合図と、装備の擦れる音だけが続く。
アリシアは黒月の反応へ意識を向けていた。
学院を出たときから、鞘の中で細かな震えが続いている。
強くはない。
けれど、進む方向が正しいことを確かめるように、一定の間隔で震えていた。
「黒月の反応は?」
前方を歩く教師が振り返る。
「続いています。少し強くなっています」
「時刻を」
ケインがすぐに記録する。
「方向は変わりませんか」
「北東。少し下です」
ミレイが古地図へ小さな印をつける。
彼女の歩き方は慎重だった。
怖いと言っていた。
それでも足を止めてはいない。
サーラは最後尾近くで、人数を何度も確認している。
「二十一名。変わりなし」
決められた間隔で、前方へ声を送る。
人数は出発時と同じ。
誰も欠けていない。
誰かが名前を呼ばなくても、彼女が見ている。
森へ入って十五分ほど経った頃、先頭の警備隊が手を上げた。
全員が止まる。
前方に、苔に覆われた石柱があった。
半分は地面へ沈み、表面の文字はほとんど読めない。
けれど頂部には、かすかに太陽を模した彫刻が残っている。
「旧礼拝所の境界です」
歴史教師が石柱へ近づく。
直接触れず、杖先の光で表面を照らした。
「学院創設以前の様式で間違いありません」
「ここから三百歩か」
土の神器継承者が森の奥を見る。
「古地図では、東北東へ」
方位器を確認し、隊列を組み直す。
道はもう存在しない。
木々と茂みの間を進む必要がある。
警備隊が枝を払い、結界術師が魔力の乱れを調べながら先へ進む。
一歩。
二歩。
三歩。
サーラが数を記録する。
百歩を越えたところで、光の神器が強く瞬いた。
封印布の隙間から白い光が漏れ、周囲の木々を一瞬だけ照らす。
「止まってください」
光の神器継承者が声を上げた。
全員が足を止める。
彼は胸元の神器へ手を添えた。
「ルクスの声は?」
学院長が尋ねる。
「ありません。ただ、光が下へ引かれています」
アリシアも黒月を見る。
震えが先ほどより速くなっている。
「黒月も同じです」
「下か」
土の神器継承者が地面へ膝をつく。
腕輪へ魔力を流し、手のひらを湿った土へ当てた。
薄い茶色の光が地面へ広がる。
数秒後、彼の表情が変わった。
「空洞がある」
「深さは?」
「場所によって違う。ここは地下十歩ほど。だが前方へ行くほど浅くなっている」
「入口が近い?」
「あるいは、天井が崩れている」
学院長は隊列へ慎重な前進を命じた。
百五十歩。
二百歩。
森の空気が変わり始める。
湿った土と葉の匂いに、かすかな金属臭が混じっていた。
光の魔力を使ったあとに残る、乾いた匂い。
それと同時に、アリシアは旧資料室で感じた冷たさを覚える。
「何かいます」
声を上げる。
警備隊が一斉に武器へ手をかけた。
「どこだ」
「前ではなく……下」
黒月の震えが、規則的ではなくなっている。
細かく揺れたあと、長く止まる。
また揺れる。
呼んでいるというより、何かが内側から叩いているようだった。
こつ。
こつ。
旧資料室の箱の中から聞こえた音。
アリシアは無意識に足を止めた。
『同じ音を思い出した?』
ノアが尋ねる。
『うん』
『でも、ここにはまだ箱がない』
『中で作られてる』
『ええ。なら、今聞こえているのは箱の音ではないかもしれない』
何が叩いているのか。
完成していない器の内側。
あるいは、器へ閉じ込められようとしている何か。
アリシアは光の神器継承者を見る。
彼も苦しそうに胸元を押さえていた。
「どうしましたか」
「ルクスが……」
声が止まる。
全員が彼を見る。
「声が聞こえたのですか」
水の神器継承者はいない。
代わりに治療教師がすぐ近くへ寄り、脈と顔色を確認する。
光の神器継承者は首を横に振った。
「言葉ではありません。何かが、目を覚まそうとしています」
白い神器の光が、布の下で不規則に揺れる。
「苦しい?」
アリシアが尋ねる。
「私ではなく」
光の神器継承者は森の奥を見る。
「ルクスが、苦しんでいるように感じます」
彼は一歩進もうとした。
学院長が腕を伸ばし、止める。
「隊列を崩すな」
「ですが」
「分かっている。だからこそ、一人で先へ行くな」
光の神器継承者の肩へ力が入る。
アリシアも同じ衝動を感じていた。
黒月の奥で、何かが叩かれている。
早く行かなければ。
器が完成する。
ルクスが閉じ込められる。
そう考えると、立ち止まっている数秒すら無駄に思える。
けれど先頭では、警備隊が地面の安全を確認している。
土の神器継承者が空洞の位置を探っている。
結界術師は周囲の魔力を測定している。
誰も時間を浪費しているわけではない。
「前方二十歩、地面が薄い」
土の神器継承者が告げる。
「その先に大きな空洞。入口らしき斜面があるが、落ち葉で隠れている」
「迂回は」
「右から近づける。左は崩落の危険が高い」
警備隊が右側へ道を作る。
隊列がゆっくり動く。
光の神器継承者も、呼吸を整えながら歩き出した。
「待つのは難しいですね」
彼が小さく言う。
「うん」
「あなたが観測室で待っていた気持ちが、少し分かりました」
「私も、今同じです」
「同じではありません。今は歩いています」
「走りたいのを止めてる」
光の神器継承者は少しだけ口元を緩めた。
「それなら、同じかもしれません」
二人は並んでいない。
間には教師と警備隊員がいる。
それでも互いの声が届く距離にいた。
二百七十歩。
二百八十歩。
古地図に記された三百歩へ近づく。
森の地面は少しずつ窪み始めた。
木々の根が、不自然に外側へ避けるように伸びている。
中央には、長い年月をかけて落ち葉と土に覆われた円形の窪地があった。
「ここです」
光の神器継承者が言う。
同時に、アリシアの黒月が強く震えた。
窪地の中央。
蔦と苔に覆われた地面の一部に、石の縁が見える。
警備隊が周囲を確認し、土の神器継承者が足場を固める。
落ち葉を慎重に除くと、直径十歩ほどの円形石床が現れた。
表面には、太陽を模した複雑な紋様が刻まれている。
中央には、井戸の口のような穴があった。
しかし水は見えない。
穴の奥から、白い光が淡く脈打っている。
「眠光井」
歴史教師が呟いた。
長く忘れられていた名を、目の前の場所と結びつける声だった。
ミレイたちがすぐに記録を始める。
「到着時刻」
「人数二十一名、変化なし」
「石床の直径、約十歩」
「中央に縦穴。内部から白い光」
彼らの声が、静かな森へ小さく広がる。
アリシアは石床へ近づきすぎない位置で止まった。
黒月は縦穴へ強く反応している。
闇の力へ引かれているのではない。
光の奥に隠された、別のものを嫌がっているような震えだった。
「縦穴の周囲に術式があります」
アリシアが言う。
「見えるのか」
学院長が尋ねる。
「はっきりではありません。でも、光の紋様の下に、黒い線があります」
普通に見れば、石床には太陽の彫刻しかない。
けれど黒月を通して見ると、その下へ細い影が重なっている。
太陽の光をなぞり。
隙間へ入り込み。
円の中央へ集まっている。
旧資料室の床に現れた、六つの神器をつなぐ線と似ていた。
「光の紋様を使って、闇の術式を隠しています」
アリシアはしゃがみ込み、石床へ触れない距離から線の流れを追う。
「第二の器は、この下です」
「入口は縦穴か」
警備隊員が覗き込もうとする。
「待ってください」
光の神器継承者が止めた。
彼は封印布を少し開き、白い神器を石床へ向ける。
柔らかな光が広がり、縦穴の内壁を照らした。
石で組まれた円筒が、深く地下へ続いている。
途中には古い梯子があるが、何本か折れていた。
底は見えない。
「井戸ではありません」
土の神器継承者が地面へ手を当てたまま言う。
「縦穴は地下室への通路だ。下に大きな空間がある」
「別の入口は?」
「探す」
彼は石床の外周へ移動し、地中の形を探る。
その間、光の神器継承者は縦穴から目を離さなかった。
白い神器が、脈打つように明滅している。
「ルクス」
彼が小さく呼ぶ。
返事はない。
「聞こえていますか」
光だけが揺れる。
「私の光が、あなたを起こすと言いましたね」
声が少し震えていた。
「今、私の光は届いていますか」
森は静かだった。
葉が擦れる音。
遠くで鳴く鳥。
警備隊が周囲を歩く足音。
神獣の返事はない。
光の神器継承者の表情が、わずかに曇る。
アリシアは声をかけようとした。
けれどその前に、ミレイが小さく息を呑んだ。
「光が変わりました」
全員が縦穴を見る。
底から上がってくる白い光の中に、細い黒い筋が混じり始めていた。
一つ。
二つ。
螺旋を描きながら、縦穴の内壁を上ってくる。
旧資料室の影と同じ。
「下がれ!」
学院長の声が飛ぶ。
全員が石床から距離を取る。
警備隊が前へ出て盾を構え、結界術師が障壁を展開する。
アリシアは黒月を抜こうとした。
しかし影は縦穴の外へ出なかった。
石床の縁まで上がり、太陽の紋様へ染み込んでいく。
白い彫刻が、黒い線によって一つずつ塗りつぶされる。
「器の形成が進んでいます」
アリシアは黒月を抜いた。
刀身が森の薄暗い光を飲み込む。
「今、止められるか」
学院長が尋ねる。
「表面の線を切るだけなら。でも、下にあるものがどうなるか分かりません」
「第一の器と同じか」
「似ています。でも、これはまだ箱になっていません」
『外側を壊せば、内側へ魔力が流れ込む可能性があるわ』
ノアが言う。
『逆に、流れを止めれば、作りかけの器が崩れるかもしれない』
「ノアも、すぐに斬るのは危険だと言っています」
土の神器継承者が石床の外から声を上げる。
「別の入口を見つけた!」
全員の視線が向く。
窪地の北側。
太い樹の根に隠れるように、地下へ下る石段があった。
入口は土砂で半分埋まっているが、人一人が通れる隙間が残っている。
「内部へ入れる」
土の神器継承者が言う。
「ただし、途中で崩れている可能性がある」
「地下班を決める」
学院長が即座に告げる。
「私、アリシア、光、土、結界術師一名、警備隊三名、記録担当二名。火は地上へ残れ」
「俺も行く」
火の神器継承者が反射的に言う。
「地下空間で、火の神器と第二の器を同時に近づける危険は避ける」
「戦闘が起きたら?」
「地上から退路を守れ。必要なら呼ぶ」
「呼ばれてからでは遅いかもしれない」
「だから地上を任せる」
学院長の声は揺れなかった。
「第二の器が完成した場合、地下班が戻る場所を失わせるな」
火の神器継承者は唇を噛む。
行きたい。
仲間を守りたい。
その気持ちが、表情に出ている。
けれど彼は、何度か呼吸したあと拳を開いた。
「……分かりました」
簡単ではない返事だった。
アリシアは彼を見る。
「戻ってきます」
火の神器継承者が眉を寄せる。
「それ、言われると余計に心配になるんだよ」
「ごめんなさい」
「謝るな。戻るなら、それでいい」
彼はアリシアではなく、光の神器継承者へも視線を向ける。
「お前もだ」
「承知しています」
「一人で残るなよ」
「あなたこそ、勝手に地下へ入らないでください」
「お前らが遅かったら行く」
「それを勝手に入ると言うのです」
「遅くなるな」
「努力します」
緊張の中でも、いつものやり取りが続く。
ミレイが記録板を抱えながら、学院長へ尋ねた。
「記録担当は、誰が地下へ?」
「ミレイとケイン」
学院長が答える。
「サーラは地上で人数と退路を管理せよ」
サーラは一瞬、地下入口を見た。
自分も行きたい気持ちがあったのかもしれない。
それでもすぐにうなずく。
「地下へ入る人数は?」
「九名」
「戻るまで、入口から離れません」
役割が分かれる。
同じ場所へ来た二十一人が、全員で地下へ入るわけではない。
残る者。
入る者。
入口を守る者。
学院へ連絡する者。
誰か一人のそばに集まるのではなく、必要な場所へ声を分ける。
アリシアは黒月を一度鞘へ戻した。
地下へ入る前に、両手を空ける。
石段の入口へ近づくと、冷たい空気が隙間から流れ出していた。
土と石の匂い。
長く閉じられていた場所の湿気。
そして、その奥に混じる淡い光の魔力。
「アリシア」
光の神器継承者が隣ではなく、一歩後ろから声をかける。
「先ほど、同じ場所へ行けそうだと言いました」
「うん」
「ですが、地下では役割が違います」
「分かっています」
「私がルクスの声を聞いても、すぐ近づかないでください」
アリシアは少しだけ胸が痛むのを感じた。
けれど、うなずく。
「あなたも、黒月が呼ばれても近づかないでください」
「承知しました」
「先に、何が起きたか伝える」
「はい」
「それから、誰が動くか決める」
「はい」
二人で確認する。
約束というより、手順だった。
けれどその手順の中には、互いを一人にしないための意思があった。
地下入口の土砂を土の神器継承者が固め、警備隊が先行する。
結界術師が安全を確認し、一人ずつ石段へ入る。
学院長。
土。
光。
アリシア。
ノア。
ミレイとケイン。
最後に警備隊員が二名続く。
外の光が少しずつ遠ざかる。
石段は狭く、壁には古い光石が埋め込まれていた。
多くは消えている。
けれど光の神器継承者が通ると、いくつかが淡く灯った。
「反応しています」
ミレイが記録する。
「光石は、継承者通過時のみ点灯。黒月通過時は変化なし」
アリシアが同じ場所を通っても、光石は消えなかった。
光の神器の余韻が残っている。
階段を下るほど、外の音が聞こえなくなる。
代わりに、低い振動が足元から伝わってきた。
こつ。
こつ。
一定の間隔。
旧資料室で箱を叩いていた音と同じだった。
「聞こえますか」
アリシアが尋ねる。
「はい」
光の神器継承者が答える。
「内側から、何かが叩いている」
「記録します」
ケインが歩きながら時刻を書く。
「音の間隔、約四秒。一度ずつ」
誰も急がなかった。
急ぎたい。
けれど狭い石段で走れば、誰かが転ぶ。
音が続いていることを確認しながら、一段ずつ下りる。
やがて階段の先に、広い空間が見えた。
円形の地下室。
天井は高く、中央から白い光が立ち上っている。
壁には六つの円が刻まれていた。
火。
水。
風。
土。
光。
闇。
旧資料室の箱と同じ印。
ただし、ここでは光の円が最も大きく、部屋の正面を占めている。
その前に。
白い光で形作られた、半透明の箱が浮かんでいた。
まだ完成していない。
輪郭は揺れ、角の一部は途切れている。
けれど第一の器と同じ大きさ。
同じ六つの円。
第二の器が、目の前で作られていた。
「全員、入口から離れすぎるな」
学院長が低く命じる。
土の神器継承者が壁と天井を確認する。
「空間は安定している。今のところ崩落の兆候なし」
結界術師が魔力の流れを測る。
「部屋の中央へ、壁の光術式から力が集まっています」
「止められるか」
「術式の起点が分かりません」
アリシアは黒月を抜く。
刀身を通して見ると、光の下に黒い線が走っていた。
壁の六つの円から、床を通り、中央の箱へ集まっている。
第一の器と同じ。
しかし、今度は闇が中心ではない。
光の円が起点となり、ほかの五つを呼び込もうとしている。
「光の円が、器を作っています」
アリシアが言う。
「でも、その下に闇の線があります」
「光を利用している?」
学院長が尋ねる。
「たぶん」
光の神器継承者が一歩前へ出る。
白い箱が強く明滅する。
「ルクス」
呼びかける。
返事はない。
けれど部屋の正面にある大きな光の円が揺れた。
「そこにいるのですか」
神器の光が強くなる。
同時に、半透明の箱の内側で何かが動いた。
白い獣の影。
翼のようなもの。
大きな頭。
輪郭ははっきりしない。
けれど生き物だった。
「ルクス……?」
光の神器継承者の声が震える。
彼はもう一歩進もうとした。
「待って」
アリシアが声を上げる。
約束通り、近づいて止めるのではなく、まず言葉で伝える。
「箱の中の影に、黒い線が絡んでいます」
光の神器継承者は足を止めた。
「どこに」
「首と、翼。それから胸」
「ルクスが、器の材料にされているということですか」
結界術師が息を呑む。
アリシアは答えられなかった。
分からない。
けれど、白い獣の影は箱の中から出ようとしている。
内側から壁を叩く。
こつ。
こつ。
聞こえていた音は、器が目覚める音ではなかった。
中へ閉じ込められた神獣が、外へ出ようとする音だった。
「開けなければ」
光の神器継承者が言う。
「待ってください」
学院長が止める。
「第一の器は、蓋を開けようとした。あれが同じ器なら、開けること自体が完成条件かもしれない」
「ですが、ルクスが中にいます」
「見えている影が本物とは限らない」
「声が聞こえます」
光の神器継承者が胸元を押さえる。
全員が静まる。
「何と?」
アリシアが尋ねる。
「助けて、と」
彼の顔から、いつもの落ち着きが消えていた。
「ルクスが、私を呼んでいます」
白い箱の内側で、獣の影が大きく動く。
翼が広がる。
黒い線が締まり、影が苦しむように身を縮めた。
「すぐに開けなければ」
光の神器継承者が進む。
アリシアは黒月を握り、箱を見る。
声は聞こえない。
ノアも黙っている。
『ノア』
『聞いているわ』
『本当にルクス?』
ノアはすぐに答えなかった。
金色の瞳が箱の中の影を見つめている。
『姿は似ている』
『声は?』
『私には聞こえない』
アリシアの背中へ冷たいものが走る。
「待ってください」
今度は強く言う。
光の神器継承者が振り返る。
「ノアには、ルクスの声が聞こえていません」
「私には聞こえています」
「あなたにだけ聞こえる声かもしれません」
旧資料室の箱も、アリシアだけを呼んだ。
名前を使わず。
神器を通して。
求めている言葉を聞かせるように。
「ルクスなら、私に何か合図を送るはずです」
光の神器継承者は言う。
「実際、眠る場所が開かれると教えました」
「その声と、今の声は同じですか」
問いに、彼は答えを止めた。
アリシアは続ける。
「話し方。呼び方。聞こえる場所」
光の神器継承者は目を閉じる。
胸元の神器へ意識を向ける。
箱の中の獣が、再び壁を叩く。
助けて。
アリシアには聞こえない。
けれど彼の表情から、声が繰り返されていることは分かった。
「違います」
やがて、光の神器継承者が言う。
声は苦しそうだった。
「先ほどのルクスの声は、遠くから響いていました。今は、神器の内側から聞こえる」
「箱が、神器を使って声を見せている?」
「可能性があります」
彼は進めていた足を戻した。
一歩。
白い箱から離れる。
その瞬間、箱の内側の獣が激しく暴れた。
「助けているのに、なぜ離れる」
声が聞こえた。
今度はアリシアにも。
白い箱からではない。
部屋全体。
壁。
床。
六つの円から重なって響く。
「光よ。お前の神獣は、ここにいる」
光の神器継承者の顔が強張る。
「器を開ければ、戻る」
第一の器と同じ声だった。
冷たく。
個人を見ず。
役割だけを呼ぶ声。
「光よ。選べ」
白い箱の中で、獣の影が手を伸ばす。
「神獣か。分かれた意思か」
アリシアの胸に怒りが生まれる。
また同じだ。
一つを選べと迫る。
誰かを助けるために、別の誰かの意思を差し出せと。
「選びません」
光の神器継承者が答えた。
声は震えていた。
それでも、箱へ近づかなかった。
「ルクスを助けます。ですが、あなたの方法では助けません」
「拒めば、神獣は眠り続ける」
「それでも、器へ戻しません」
「光は、救うものではないのか」
問いかけが、部屋の中へ広がる。
光の神器継承者の肩が揺れる。
彼がずっと背負ってきた役割。
傷ついた者を癒やす。
迷う者を照らす。
救いを求める声へ応える。
その光へ、助けを拒むのかと迫っている。
アリシアは隣へ行きたかった。
腕を掴み。
あなたは間違っていないと言いたかった。
けれど役割が違う。
今、自分が見るべきものは、彼の表情だけではない。
箱を作る術式。
黒い線。
六つの円。
「線が変わっています」
アリシアは黒月を構える。
光の神器継承者が拒んだことで、床の黒い線が揺れ始めていた。
光の円から箱へ流れていた魔力が、一部逆流している。
「光が拒んだことで、器が不安定になっています」
「止められるか」
学院長が尋ねる。
「第一の器と同じなら、円をつなぐ線を切ります。でも」
アリシアは床を見る。
六つの円は、部屋全体へ広がっている。
線の一部は壁の下へ入り、箱の下へ重なっている。
「黒月だけでは、全部に届きません」
「私の光で、線を見せます」
光の神器継承者が言う。
アリシアは彼を見る。
「箱に近づかなくていい?」
「近づきません」
「光を使うと、器が完成するかもしれない」
「弱く照らします。器へ流れないよう、壁だけを」
彼一人の判断ではない。
アリシアへ伝え。
学院長を見る。
結界術師が魔力の流れを確認する。
「可能です」
術師が答える。
「光を壁面へ沿わせれば、中央への流入を抑えられます。ただし長くは保ちません」
「土で床を支える」
土の神器継承者が進み出る。
「線を斬った反動で崩れても、退路は残す」
「記録担当は入口へ下がれ」
学院長が命じる。
ミレイとケインはすぐには動かなかった。
「ここからでも記録できます」
ミレイが言う。
「入口まで下がって続けます」
二人が入口側へ移動する。
警備隊が盾を構え、結界術師が防壁を張る。
誰もアリシア一人の攻撃を待っていない。
それぞれが、斬るための場所を作っている。
「準備します」
光の神器継承者が封印布を外す。
白い神器が姿を現す。
室内の光が一度強くなり、中央の箱が激しく震えた。
「光よ」
声が響く。
「神獣を救え」
光の神器継承者は目を閉じなかった。
「救うからこそ、あなたへ渡しません」
神器を掲げる。
白い光が箱ではなく、壁へ向かって広がった。
六つの円が照らされる。
その下に隠されていた黒い線が、はっきりと浮かび上がった。
「見えます!」
アリシアは黒月へ魔力を流す。
刀身が深い闇へ染まる。
第一の器では、六つを輪へ戻す最後の線から斬った。
今回は違う。
光の円が起点。
そこから五つへ、命令を流そうとしている。
「光と闇の間を、最初に切ります」
アリシアが伝える。
「なぜだ」
学院長が問う。
「第一の器とつながらないようにします。闇が残ると、旧資料室の箱へ道が開くかもしれません」
「分かった」
誰かの準備を待つ。
土の神器継承者が床へ手を当てる。
結界が張られる。
警備隊が退路を確保する。
ミレイが入口から声を上げる。
「全員、位置確認済み。退路確保!」
ケインが時刻を告げる。
「器の形成、約七割!」
時間はない。
それでも、アリシアだけで始めない。
「準備完了」
土の神器継承者。
「光、維持します」
光の神器継承者。
「結界展開」
術師。
「斬ってください!」
ミレイの声。
アリシアは踏み込んだ。
光と闇をつなぐ黒い線へ、黒月を振り下ろす。
箱から白い獣の影が飛び出した。
ルクスの姿をしたもの。
苦しそうに翼を広げ、アリシアの前へ立つ。
「斬れば、神獣が消える」
声が告げる。
黒月の刃が止まりかけた。
本物ではない。
そう思っても。
神獣の姿を斬ることは怖い。
『アリシア』
ノアが叫ぶ。
『姿を見ないで。線を見なさい!』
アリシアは獣の影ではなく、その下を見る。
白い姿を支える黒い線。
神獣ではない。
神獣の形を作っている術式。
「あなたは、ルクスじゃない」
黒月を振り抜く。
光と闇の線が切れた。
部屋全体が大きく揺れる。
白い獣の影が崩れ、光の粒となって消えた。
光の神器継承者が息を呑む。
けれど彼は光を止めなかった。
「次は?」
「光と火!」
アリシアが走る。
床の線を斬る。
火の円が暗くなる。
地上にいる火の神器継承者へ、何か反応が起きたかもしれない。
確認したい。
けれど今は、目の前の線を止める。
「器の輪郭が崩れています!」
ケインの声が入口から飛ぶ。
「六割! 五割!」
光と水。
光と風。
一本ずつ斬る。
そのたび、白い箱が形を失う。
蓋の角が崩れ。
六つの円が消え。
内側の影が薄くなる。
残る線は、光と土。
そして中央の光の円から、箱へ直接伸びる一本。
「床が沈む!」
土の神器継承者が叫ぶ。
線を切った反動で、石床へ亀裂が走る。
彼が両腕を広げ、土の神器へ魔力を流す。
茶色の光が床を支える。
「長くは持たない!」
「光と土を切ったら、支えも消える?」
アリシアが尋ねる。
「俺の神器との接続なら消える。だが自分の魔力で支える!」
「無理をしないで」
「無理をしないと道が落ちる!」
土の神器継承者は歯を食いしばる。
「役割を奪うな。斬れ!」
アリシアの胸が動く。
助けたい。
代わりたい。
けれど土を支えられるのは彼だ。
自分がすべきことは、その負担を早く終わらせること。
「斬ります!」
光と土の線へ黒月を振るう。
線が切れる。
土の円が消え、床がさらに沈む。
土の神器継承者が膝をつく。
それでも床は崩れない。
「残り一本!」
光の神器継承者の声が聞こえる。
中央の光の円から、器へ伸びる線。
これを切れば、第二の器は完成しない。
アリシアは黒月を構える。
しかし最後の線は、白い箱の真下にある。
斬るには、箱へ近づかなければならない。
「近づくと、呼ばれます」
アリシアが言う。
「私が光を弱めれば、箱も薄くなる」
光の神器継承者が答える。
「でも線が見えなくなります」
「一瞬だけ強く照らし、位置を覚えてください。そのあと光を落とします」
「あなたは?」
「器に引かれる前に、神器を布へ戻します」
危険はある。
光を強くすれば、器が完成へ近づくかもしれない。
弱めれば、線が見えなくなる。
「別の方法は?」
学院長が尋ねる。
誰もすぐには答えられない。
箱の輪郭が再び戻り始めている。
残った一本から、光が流れ込んでいる。
「形成率、四割から上昇!」
ケインが叫ぶ。
時間がない。
光の神器継承者がアリシアを見る。
「私が決めてよいですか」
「一人ではなく」
「では、あなたはどう思いますか」
アリシアは箱を見る。
最後の線。
黒月なら斬れる。
光が道を見せる。
二人の力が必要だ。
けれど同時に器へ近づけば、二つとも引かれる危険がある。
「光を一度強くしてください」
アリシアは答えた。
「線の位置を覚えます。そのあと、すぐ離れて」
「あなたを残して?」
「黒月は鞘から抜いたままです。線を斬るまで必要です」
「一人で近づくことになります」
「でも、入口には皆がいます」
「でも、入口には皆がいます」
同じ場所。
違う役割。
最後に斬るのはアリシア。
光を見せるのは彼。
床を支えるのは土。
結界を張る者も、退路を守る者も、記録する者もいる。
「一人ではありません」
アリシアは言う。
光の神器継承者は迷っていた。
離れれば、彼女を残す。
残れば、二つの神器が同時に器へ引かれる。
どちらも怖い。
それでも彼は、やがてうなずいた。
「分かりました」
神器を両手で掲げる。
「三つ数えます。一度だけ強く照らします」
「はい」
「一」
白い光が集まり始める。
「二」
箱の声が響く。
「光よ。闇を渡せ」
光の神器継承者の顔が強張る。
「三」
神器が眩く輝いた。
地下室が昼のように明るくなる。
最後の黒い線が、白い箱の真下へはっきり浮かんだ。
アリシアは位置を目に焼きつける。
「見えました!」
光が消える。
光の神器継承者はすぐに封印布を巻き、入口側へ下がる。
同時に、白い箱から影が伸びた。
光を追う。
けれど彼の前へ結界術師が障壁を張り、影を止める。
「アリシア!」
誰かが呼ぶ。
アリシアは箱へ走った。
黒月が強く引かれる。
腕ごと持っていかれそうになる。
「六つ目」
声が耳元で響く。
「光は、お前を捨てた」
「違う」
「一人で残された」
「違う」
光の神器継承者は役割を果たして離れた。
見捨てたのではない。
今も入口側で、結界の向こうからこちらを見ている。
土は床を支えている。
学院長は退路を守っている。
ミレイたちは声を止めていない。
「距離、あと三歩!」
ミレイが叫ぶ。
「線は、右前!」
アリシアには暗くて見えない。
けれど彼女は、光が消える前に記録していた。
「半歩左!」
ケインの声。
アリシアは従う。
一人で位置を覚えたつもりだった。
けれど記録担当者も見ていた。
自分の見落としを、外から補ってくれる。
「今です!」
黒月を振り下ろす。
見えない線へ、刃が触れた。
激しい抵抗。
刀身が止まる。
箱の中から、何本もの影がアリシアの腕へ絡みつく。
「六つ目。戻れ」
「戻りません」
「一つなら、迷わない」
「迷ってもいい」
「一つなら、捨てられない」
「離れることは、捨てることじゃない」
アリシアは両手へ力を込める。
黒月が少しずつ線へ食い込む。
「違う場所にいても、声は届きます」
光の神器継承者が入口から叫ぶ。
「アリシア、斬ってください!」
その声が背中を押す。
アリシアは息を吐き、黒月を振り抜いた。
最後の線が切れる。
白い箱が、音もなく崩れた。
光の粒が地下室へ散る。
六つの円が一つずつ消え、壁の黒い線も霧のように薄くなる。
床の振動が止まった。
内側から叩く音も。
器の声も。
すべてが消える。
静寂が訪れた。
アリシアは黒月を構えたまま、しばらく動けなかった。
息が荒い。
腕に影が触れた場所は冷たいが、傷はない。
「アリシア!」
光の神器継承者が近づこうとする。
「待て」
学院長が止める。
「残留反応を確認する」
結界術師が慎重に中央へ光を向ける。
第二の器があった場所には、何も残っていない。
箱も。
影も。
ただ石床の中央に、小さな白い羽根が一枚落ちていた。
光の神器継承者が息を呑む。
「ルクスの……」
羽根は淡く光っている。
黒い線は絡んでいない。
器の残骸ではなく、何かが自分の意思で残したもののように見えた。
『本物よ』
ノアが言う。
『ルクスの気配がある』
「ノアが、本物のルクスの羽根だと言っています」
アリシアが伝える。
光の神器継承者は、その場から動かなかった。
触れたいはずだ。
拾いたい。
長く声を聞けなかった神獣の痕跡。
けれど今は、まだ安全確認が終わっていない。
彼は待った。
結界術師が羽根の周囲を調べる。
闇の魔力なし。
器の術式なし。
攻撃性なし。
「接触してよい」
学院長が許可する。
光の神器継承者はゆっくり中央へ歩いた。
アリシアも数歩遅れてついていく。
同じ場所へ。
けれど羽根を拾うのは彼の役割だ。
光の神器継承者が膝をつき、白い羽根へ手を伸ばす。
指先が触れた瞬間。
羽根が淡く輝いた。
部屋全体へ、穏やかな声が響く。
「――ようやく、聞くことを覚えたか」
先ほどの器の声とは違う。
温かく。
少し呆れたようで。
長く眠っていた者の疲れを含んでいる。
「ルクス」
光の神器継承者が名前を呼ぶ。
声が震えた。
「どこにいるのですか」
「――ここではない」
「では、どこに」
「――第二の器は、私の眠りへ手を伸ばしただけだ」
羽根の光が揺れる。
「――本体はまだ眠りの底にある」
「起こすには、どうすれば」
「――急ぐな」
光の神器継承者の表情が、少しだけ固まる。
今すぐ助けたい。
その気持ちを見透かされたようだった。
「――光は、すべてを早く照らせばよいわけではない」
ルクスの声は続く。
「――目を開ける準備がない者へ光を当てれば、傷つける」
光の神器継承者は黙って聞いている。
「――お前の光が足りなかったから、私は眠っていたのではない」
彼の肩が揺れた。
先ほどアリシアへ話した不安。
自分の光が足りなかったのではないか。
その答えが、本人の声で返される。
「――私が、起きるべき時を待っていた」
「今が、その時ではないのですか」
「――近い」
羽根の光が少し強くなる。
「――だが、まだ六つは揃っていない」
全員が息を呑む。
六つの神器継承者は、すでに学院にいる。
火、水、風、土、光、闇。
それでも揃っていないと、ルクスは言う。
「何が足りないのですか」
アリシアが尋ねる。
羽根の光が、わずかにこちらへ向く。
「――神器ではない」
声が答える。
「――六つの声が、まだ互いの名を知らない」
アリシアは意味を考える。
自分たちは互いの名前を知っている。
話し合いもしている。
役割も分けている。
それでも、神獣が言う「名」は別のものなのかもしれない。
神器としてではなく。
継承者としてでもなく。
一人の人間として、本当に何を恐れ、何を望み、何を選ぶのか。
それを互いに知らない。
「――器は、役割だけを呼ぶ」
ルクスの声が静かに続く。
「――火。水。風。土。光。闇」
旧資料室の箱もそうだった。
アリシアではなく、六つ目。
光の神器継承者ではなく、光。
「――名を持たぬ役割は、一つの声へ戻される」
「名前を知れば、戻されないのですか」
アリシアが尋ねる。
「――名を知るだけでは足りない」
羽根の光が弱くなる。
「――呼ばれた時、互いを役割ではなく、名で呼べ」
それは単純な合言葉ではない。
相手を火の神器として見るのではなく。
光の継承者として見るのでもなく。
その人自身を呼ぶ。
その人が何を選ぶかを待つ。
「――第三の器は、すでに動いている」
声が告げる。
緊張が戻る。
「どこですか」
学院長が尋ねる。
「――水の記憶が沈む場所」
水。
学院に残った水の神器継承者。
第一は闇。
第二は光。
次は水。
「学院ですか」
「――近い」
羽根の光が薄れていく。
「――だが、器を追うな」
「では、何を」
「――水の名を呼べ」
最後の言葉とともに、光が消えた。
白い羽根は残っている。
けれど声は途絶えた。
地下室に再び静けさが戻る。
光の神器継承者は羽根を両手で包み、しばらく俯いていた。
誰も急かさなかった。
ルクスの声を聞いたのは、彼だけではない。
それでも、最も長く待っていたのは彼だ。
アリシアは少し離れた場所に立つ。
扉の外ではない。
隣でもない。
声をかけられる距離。
やがて彼が顔を上げる。
「アリシア」
「はい」
「私の名前を、知っていますか」
思いがけない問いだった。
もちろん知っている。
学院で何度も呼ばれている。
六人で話すときにも。
けれど、アリシアはすぐに答えられなかった。
これまで彼を、光の神器継承者として見ることの方が多かった。
役割の方が先に立ち、その人自身を呼ぶ機会は少なかった。
「知っています」
それでも、名前を口にすることは少し怖かった。
役割ではなく、その人を呼ぶ。
今までの関係が変わるような気がした。
光の神器継承者は、返事を待っている。
アリシアは一度息を吸った。
「レオンハルト」
彼の名前を呼ぶ。
光の神器継承者――レオンハルトは、静かに目を閉じた。
その名前を、アリシアの声で初めて確かめるように。
「はい」
短く答える。
「私も、あなたを知っています」
黒月の継承者ではなく。
六つ目でもなく。
「アリシア」
名前を呼ばれる。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
同じ場所へ向かっても。
同じ役割を持たなくても。
離れていても。
互いの名前を呼べる。
そのことが、器の声へ抗う最初の一歩になる。
「地上へ戻る」
学院長が告げた。
「第二の器は未完成のまま消滅。ルクスの羽根は封印保管する。ただし、光の神器継承者との接続を断たない形で持ち帰る」
土の神器継承者が、支えていた床からゆっくり手を離す。
亀裂は残っているが、崩落の危険は下がっていた。
「第三の器について、学院へ即時連絡を」
学院長が警備隊員へ指示する。
「水の神器継承者を単独にするな。旧資料室からも離せ。ただし、拘束と感じさせないよう本人へ説明せよ」
アリシアは胸がざわつく。
水の記憶が沈む場所。
何を指すのか分からない。
学院の貯水池。
治療棟。
大聖堂の洗礼槽。
あるいは、水の神器継承者自身の過去。
器を追うな。
水の名を呼べ。
ルクスはそう言った。
場所を探すだけでは足りない。
次に必要なのは、水の神器継承者が誰なのかを知ること。
役割の外にあるものを聞くこと。
地上へ戻る準備が始まる。
ミレイとケインが記録をまとめる。
「第二の器、完成前に術式切断」
「光の神獣ルクスの羽根を確認」
「第三の器、水の記憶が沈む場所」
ミレイが最後に、新しい欄を書き加えた。
――互いを、役割ではなく名前で呼んだか。
アリシアはその文字を見つめる。
「それも記録するんですか」
「必要だと思います」
ミレイは少し照れながら答える。
「器を止める方法の一つなら」
「まだ、方法かは分かりません」
「では、分からないこととして残します」
断定しない。
けれど消さない。
違いも、不確かなことも、記録へ残す。
アリシアはうなずいた。
「お願いします」
地下から地上へ続く石段を上る。
先ほど下りたときより、足が重い。
戦った疲れだけではない。
第三の器が動いている。
学院に残った仲間が、次に呼ばれるかもしれない。
今すぐ走りたい。
けれど石段は狭い。
前にはレオンハルト。
後ろには記録担当者。
自分だけが急げば、隊列が崩れる。
だから一段ずつ上る。
地上の光が少しずつ近づく。
森の湿った空気が流れ込む。
入口を出た瞬間、火の神器継承者が駆け寄ってきた。
「遅い!」
「勝手に入らなかったんですね」
レオンハルトが言う。
「何度入ろうと思ったと思ってる!」
「入らなかったなら、役割を守りました」
「褒めるな。腹立つ」
火の神器継承者は二人の姿を確かめ、そのあとアリシアの腕と顔を見る。
「怪我は?」
「ありません」
「本当に?」
「影に触れましたが、冷たいだけです」
「それを怪我がないと言っていいのか?」
治療教師がすぐにアリシアの腕を確認する。
火の神器継承者はレオンハルトへも視線を向ける。
「お前は」
「無事です」
「神獣は?」
レオンハルトは両手の中にある白い羽根を見せる。
「声を聞きました」
火の神器継承者が安堵する。
けれど次の瞬間、レオンハルトが続けた。
「第三の器が動いています。次は水です」
森の空気が再び重くなる。
風の神器継承者が中継地点から走ってくる。
「学院へ連絡を送る!」
「水を一人にしないでください」
アリシアが言う。
「それから、名前を」
「名前?」
「役割ではなく、名前で呼んで」
風の神器継承者は意味を理解できない顔をした。
けれど詳細を尋ねるより先に、伝令を送る必要があると判断したらしい。
「分かった。必ず伝える」
彼は中継役へ走り、風の合図を飛ばす。
学院へ。
第三の器。
水の神器継承者。
一人にしない。
名で呼べ。
短い情報が、森の中継点を通って送られていく。
アリシアは北東の森から、学院の方角を見た。
木々に遮られ、建物は見えない。
けれどそこには水の神器継承者がいる。
名前も知っている。
何度も話した。
心配され。
注意され。
怪我を隠すなと怒られた。
それでも自分は、彼女をどれほど知っているのだろう。
水の神器を持つ者としてではなく。
治療が得意な、冷静な仲間としてでもなく。
一人の人間として。
何を怖がり。
何を忘れたくて。
何を記憶の底へ沈めているのか。
ルクスの言葉が、胸の中に残る。
――器を追うな。
――水の名を呼べ。
第三の器が現れる場所を探すより先に。
今度は、呼ばれる者の声を聞かなければならない。
アリシアは黒月の柄へ手を添えた。
鞘の中は静かだった。
第二の器は止めた。
けれど戦い方は、もう同じではない。
刀で線を斬るだけでは足りない。
次に必要なのは。
水の神器継承者が、自分でも沈めている記憶へ。
誰かが一緒に耳を澄ませることだった。




