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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第94話 次に呼ばれたのが私ではなくても、隣に立つことはできる


 講堂の空気は、黒い紙片に刻まれた一行によって、再び張りつめていた。


 ――第二の器を、光の眠る場所へ。


 古代文字を読み上げた副学院長の声は、もう止んでいる。それでも言葉だけが講堂の天井近くへ残り、誰もが自分の中で同じ意味を繰り返しているようだった。


 第一の器。


 旧資料室に現れた黒い箱。


 六つの神器を一つへ戻そうとし、最初に闇を呼んだもの。


 それが拒まれたから、次は光を選ぶ。


 単純に読めば、そういうことになる。


 六人の神器継承者たちは、長机を囲んだまま動かなかった。


 火の神器継承者は拳を握り、黒い紙片から目を離さない。水の神器継承者は隣に座る光の神器継承者へ視線を向けたまま、何か言うべきか迷っている。風と土も、いつものようにすぐ意見を出すことができずにいた。


 そして、光の神器継承者だけが立っていた。


 椅子を引いた音も、立ち上がった瞬間の呼吸も、アリシアは覚えていない。


 気づいたときには、白い制服布を腕へ巻いた彼が、長机の向こうで黒い紙片を見つめていた。


 顔色は大きく変わっていない。


 背筋も真っすぐだった。


 けれど机に置かれた右手の指先だけが、ほんのわずかに強張っている。


「光の眠る場所とは、どこですか」


 彼は学院長へ尋ねた。


 いつもと同じ、静かで整った声だった。


 だからこそ、そこに含まれた緊張がよく分かった。


「現時点では断定できない」


 学院長は黒い紙片を手袋越しに持ったまま答える。


「隠れ里の神殿に、光の神器に関係する区画がある可能性は高い。しかし学院内、王都、あるいは千年前の戦場跡を示している可能性もある」


「光の神器が、現在ここにあることは相手も知っているのでしょうか」


「旧資料室の箱が五つの神器へ反応した以上、その可能性は高い」


 光の神器継承者の指が、机の上で少しだけ動いた。


 自分が次に狙われる。


 黒い箱が、光の神器を呼ぶ。


 その事実を、彼は誰より早く受け止めようとしていた。


 アリシアには、その姿が少し苦しかった。


 旧資料室で自分だけが六つ目と呼ばれたとき。


 黒月だけを求められたとき。


 周囲の者たちは、自分を心配してくれた。


 けれど心配される側に立つと、どうすればよいか分からなくなる。


 大丈夫だと言いたくなる。


 自分で何とかすると言いたくなる。


 誰かを巻き込む前に、一人で答えを見つけなければならない気がする。


 今、光の神器継承者も同じ場所へ立たされているのかもしれない。


『立ち上がって抱きしめるのはやめなさい』


 ノアの声が足元から届く。


『しないよ』


『では、今すぐ自分が代わると言い出すのもやめなさい』


 アリシアは返事ができなかった。


 実際、少し考えていた。


 第一の器が闇を呼び、第二の器が光を呼ぶなら。


 黒月を持つ自分がもう一度箱へ近づけば、光へ向かう異変を引き戻せるのではないか。


 自分が最初の呼びかけを拒んだから、次が生まれた。


 なら、自分が責任を取るべきではないか。


 その考えは、胸の中でごく自然に形になっていた。


『ほら』


 ノアが呆れたように尾を揺らす。


『あなたは誰かが呼ばれた瞬間に、自分が呼ばれ直せばいいと考える』


『でも、私が拒んだから』


『拒まなければ、五つの神器ごと引かれていたのでしょう』


『うん』


『なら、あなたがしたことは間違いではない。次に相手が光を選んだ責任まで、あなたが背負う理由はないわ』


 分かっている。


 頭では。


 けれど、胸の中に生まれた重さは消えなかった。


「学院長」


 光の神器継承者が再び口を開く。


「光の眠る場所が判明した場合、私が向かいます」


 予想していた言葉だった。


 講堂の空気が、小さく揺れる。


「一人で、とは言っていないでしょうね」


 水の神器継承者がすぐに尋ねる。


 光の神器継承者は隣へ視線を向けた。


「必要な同行者は、学院長が決めるでしょう」


「答えになっていません」


「単独で行くつもりはありません」


「本当に?」


 水の神器継承者の声は穏やかだったが、引く気はなかった。


「あなたは、自分が狙われていると分かったときほど、周囲を遠ざけるところがあります」


「そのようなつもりは」


「あります」


 短く言い切られ、光の神器継承者が黙る。


 火の神器継承者が椅子へ座り直し、腕を組んだ。


「あるな」


「あなたまで」


「普段から、困ったことがあると全部整理してから話すだろ。整理できない間は何も言わない」


「感情のまま話しても、混乱を増やすだけです」


「それで一人で抱えて、あとから倒れられたらもっと困る」


「倒れたことはありません」


「倒れる前に俺たちが気づいてるからだ」


 火の神器継承者の言葉に、風の神器継承者が小さくうなずく。


「光は、人の状態を見るのは得意だけど、自分の状態を見せるのは苦手だからね」


 土の神器継承者も、低い声で続けた。


「今も、怖いなら怖いと言えばいい」


 光の神器継承者の表情が、わずかに硬くなる。


 長机の周囲に沈黙が落ちた。


 誰も責めているわけではない。


 心配している。


 けれど多くの視線を向けられ、感情を言葉にするよう求められることは、優しいだけの行為ではない。


 逃げ場がなくなることもある。


 アリシアは、自分が人前で声を出せなかった頃を思い出した。


 何を考えているのか聞かれる。


 大丈夫なのか尋ねられる。


 心配されていると分かっていても、答えが喉に詰まる。


 言葉にできない自分が、さらに悪いことをしているように感じてしまう。


「今、言わなくてもいいと思います」


 アリシアは口を開いた。


 何人もの視線が集まる。


 一瞬、声が小さくなりそうになった。


 けれど光の神器継承者の顔を見て、続ける。


「怖いかどうかも、どうしたいかも、今すぐ決めなくていいと思います」


 水の神器継承者がアリシアを見る。


 反論ではなく、続きを待つ視線だった。


「でも、一人で決めないでください」


 光の神器継承者へ向けて言う。


「話せることからでいいです。何を調べたいかとか、何が分からないかとか。それを一緒に考えたいです」


 自分が呼ばれたとき、仲間たちは箱の中へ無理に入ってこなかった。


 代わりに外から記録し、避難し、必要な情報を渡してくれた。


 怖いと言うよう迫らなかった。


 大丈夫だと決めつけもしなかった。


 ただ、戻ってきたら教えてほしいと伝えてくれた。


 今度は、自分が同じ場所に立てばいい。


「次に呼ばれたのが私ではなくても」


 アリシアは言葉を選ぶ。


「隣に立つことはできます」


 光の神器継承者は、しばらく何も言わなかった。


 講堂にいる生徒も教師も、彼の返事を待っている。


 その待つ時間が、アリシアには長く感じられた。


 以前なら、不安になって言葉を足していたかもしれない。


 大丈夫です。


 絶対に助けます。


 一人にはしません。


 けれど、それらはどれも、今の彼が求めている言葉か分からない。


 だからアリシアは黙った。


 返事を急がせない。


 光の神器継承者は、やがて机に置いていた手を緩めた。


「……分かりました」


 声はまだ硬い。


 それでも拒絶ではなかった。


「少なくとも、場所が判明するまで単独では動きません」


「場所が分かったあともだ」


 火の神器継承者がすぐに付け加える。


「それは状況によります」


「今の返事で信用が下がったぞ」


「同行が危険を増やす場合もあります」


「だから一緒に考えるんでしょう」


 水の神器継承者が静かに言う。


「誰を連れていくか。誰を残すか。光の神器へどこまで近づくか。あなた一人ではなく、ここで決めます」


 光の神器継承者は一度目を伏せた。


 そのあと、今度は少し明確にうなずいた。


「承知しました」


 火の神器継承者が息を吐く。


「最初からそう言えばいいんだよ」


「あなたの言い方では、承知したくなくなるのです」


「なんでだよ」


「声が大きいからです」


「今は普通だろ」


 後方の記録担当者たちから、小さな笑いが起きる。


 重かった空気が、ほんの少し緩んだ。


 学院長はそのやり取りを止めずに見ていた。


 やがて黒い紙片を透明な封印板の上へ置き、教師へ指示する。


「紙片の材質、魔力、出現方法を調べる。古代文字の追加解読も進めよ。ただし直接触れるな」


「承知しました」


「伝書筒は封印ごと保管する。隠れ里へ、紙片が現れたことを至急知らせよ」


 教師たちが動き始める。


 その間に、副学院長が大きな白紙を演台横の板へ貼りつけた。


「光の眠る場所について、候補を洗い出します」


 黒い紙片の内容が、板の最上部へ書き写される。


 ――第二の器を、光の眠る場所へ。


 その下へ、三つの項目が作られた。


 学院内。


 隠れ里。


 その他。


「まず、光という言葉が何を指すかを分けて考える必要があります」


 副学院長が言う。


「光の神器そのもの。光の神獣。過去の光の継承者。光に関する祭具、施設、地名。あるいは、文字通り光が眠る場所」


「最後のものは、かなり広いですね」


 風の神器継承者が苦笑する。


「夜になれば、どこでも光は眠ります」


「詩的な解釈は後回しにしましょう」


 副学院長は淡々と返した。


「現時点で、学院内に光と関係する場所は?」


 光の神器継承者が、自分の記憶を確かめるように答える。


「光術の実習室が二つ。礼拝堂。治療棟の浄化室。古文書庫の光属性区画。あとは、学院創設時の記念塔です」


「記念塔?」


 火の神器継承者が尋ねる。


「塔の最上部に、初代光の神器継承者が灯したとされる聖火があります」


「今も燃えているのか?」


「常時ではありません。学院祭と、王家の式典があるときだけ灯されます」


 副学院長が板へ書き込む。


 光術実習室。


 礼拝堂。


 浄化室。


 古文書庫。


 記念塔。


「光の神器が眠るという表現に、心当たりは?」


 学院長の問いに、光の神器継承者はしばらく考えた。


「神器を納める場所としてなら、学院内にはありません。光の神器は、継承後、私から離れたことがないので」


「継承前は?」


「王都の大聖堂です」


 講堂に、新たな緊張が走る。


 王都の大聖堂。


 光の神器が代々保管されてきた場所。


 現在の継承者が選ばれるまで、長い年月を過ごした場所でもある。


「光が眠る場所と呼ぶなら、最も近いのは大聖堂かもしれません」


 光の神器継承者は自分で言いながら、表情を険しくした。


「ただし、王都からここまでは距離があります」


「箱が千年前から時間を越えて現れた可能性がある以上、距離は判断材料にならないかもしれない」


 土の神器継承者が言う。


「大聖堂へ連絡を」


 学院長が教師へ指示する。


「光の神器を保管していた区画、地下祭壇、封印庫に異常がないか確認させよ。返答が来るまで、現地へ誰も近づけるな」


「承知しました」


 教師が講堂を出ていく。


 次に、隠れ里の候補が挙げられる。


「神殿の光の祭壇」


 アリシアが言った。


「六つの祭壇がありました。闇の祭壇だけではなく、光も」


「祭壇の下や背後に、空洞は?」


 副学院長が尋ねる。


「見ていません」


「石板が崩れたのは、神殿最奥だと書かれていた」


 学院長が伝書の内容を確かめる。


「六つの祭壇とは別の場所かもしれない」


『光の神獣については?』


 ノアが言う。


 アリシアは周囲へ伝える。


「ノアが、光の神獣に関係する場所も調べた方がいいと言っています」


 光の神器継承者の肩が、ごくわずかに揺れた。


 アリシアはその反応に気づく。


 光の神獣は、今この場にいない。


 火、水、風、土の神獣も、常に継承者と一緒にいるわけではないが、必要なときには呼びかけへ応じることがある。


 けれど光の神獣について、光の神器継承者が詳しく語ることはほとんどなかった。


「光の神獣は、現在どこにいるのですか」


 副学院長が尋ねる。


 講堂の視線が、再び彼へ集まる。


 光の神器継承者はすぐには答えなかった。


 その沈黙が、アリシアには気になった。


「呼び出せないのですか」


 水の神器継承者が、声を和らげて尋ねる。


「呼び出す、という表現は正確ではありません」


「では、どういう関係なのですか」


「光の神獣は、私と常に行動する存在ではありません」


 光の神器継承者は一度言葉を切る。


「継承の儀式以来、姿を現していません」


 火の神器継承者が目を見開いた。


「一度も?」


「はい」


「声も?」


「聞こえていません」


 ノアがアリシアの足元で顔を上げる。


 金色の瞳が細くなる。


『おかしいわね』


『やっぱり?』


『神獣と継承者の結びつきには差がある。でも、継承してから一度も応答がないのは珍しい』


 光の神器継承者は、周囲の反応を予想していたらしい。


 表情を変えずに続ける。


「光の神獣は、継承の儀式で私の前に現れました。神器との契約を認めたあと、眠りにつくとだけ告げました」


「どこで眠ると?」


 学院長の声が鋭くなる。


「その場所は、明かされませんでした」


「言葉を正確に覚えているか」


「はい」


 光の神器継承者は目を閉じた。


 遠い記憶を、そのまま取り出すように。


「光が必要とされるときまで、私は眠る。あなたが私を呼ぶのではない。あなたの光が、私を起こす」


 講堂に、沈黙が落ちた。


 アリシアは板に書かれた言葉を見る。


 光の眠る場所。


 光の神獣は、眠ると告げて姿を消した。


「第二の器が向かうのは、光の神器ではなく」


 風の神器継承者が慎重に言う。


「光の神獣が眠っている場所かもしれない」


「可能性は高い」


 学院長が答える。


「しかし、その場所を誰も知らない」


「光の神器なら、分かるのでは?」


 記録担当の生徒の一人が、控えめに声を上げた。


 発言してよいか迷っている様子だったが、副学院長が先を促す。


「続けなさい」


「光の神獣が、継承者の光によって起きると言ったなら……神器が近づけば、何か反応するかもしれません」


 もっともな考えだった。


 けれど同時に、危険でもある。


 第二の器も、その反応を利用して場所を探すのかもしれない。


「光の神器を使って探すことは、相手へ場所を知らせることにもなり得ます」


 光の神器継承者が言う。


「私がむやみに力を使うべきではありません」


「逆に、もう知られている可能性もあります」


 水の神器継承者が答える。


「旧資料室の箱は、あなたの神器にも反応しました」


「だからこそ、追加の反応を与えるべきではないでしょう」


「使わずに待って、相手が先に見つけたら?」


「それは」


 言葉が止まる。


 どちらが正しいかは、今の時点では分からない。


 力を使えば危険。


 使わなくても危険。


 誰か一人の答えで決めるには、情報が足りない。


「先に、使わずにできることを調べませんか」


 アリシアは板を見ながら言った。


「隠れ里の記録と、学院の古文書と、大聖堂の返事。神獣が眠る場所について書かれているかもしれません」


「見つからなければ?」


 火の神器継承者が尋ねる。


「そのとき、光の神器をどう使うか考えます」


「時間があるか分からないぞ」


「うん」


 アリシアはうなずく。


「だから、調べる組と、守る組を分けた方がいいと思います」


 昨日まで何度も考えたことだった。


 一つの場所へ全員が集まれば、情報は集まりやすい。


 けれど次の異変が起きたとき、誰も動けなくなる。


「調査する人。光の神器継承者の近くにいる人。学院と大聖堂を守る人。隠れ里からの連絡を受ける人」


 口にしながら、必要な役割が少しずつ見えてくる。


「全部を一つの組でしない方がいいです」


 副学院長が板へ新しい区分を書き加える。


 調査。


 護衛。


 連絡。


 現地警戒。


「妥当です」


 学院長が言う。


「神器継承者六名も分ける」


 火の神器継承者がすぐに口を開く。


「俺は光の護衛に回る」


「声が大きい護衛は目立ちます」


 光の神器継承者が反射的に返す。


「今それを言うか?」


「敵に位置を知らせる可能性があります」


「俺は歩くだけで叫ばない」


「普段から声量を抑えてください」


「守られる側が細かいな」


 水の神器継承者が二人を止めるように手を上げる。


「光の護衛は、戦闘力だけで決めるべきではありません。神器同士が近づくこと自体、器の反応を強める可能性があります」


「では、神器継承者を近くへ置かない方がいい?」


 風の神器継承者が尋ねる。


「少なくとも、五人全員で囲むのは避けるべきです」


「一人なら?」


「現時点では分かりません」


 また、答えの出ない沈黙が生まれる。


 アリシアは黒月へ手を置きそうになり、途中で止めた。


 すぐに自分が護衛へ入ると言うべきではない。


 黒月は第一の器に呼ばれた。


 第二の器が光を求めるとしても、闇へ反応しない保証はない。


『よく止まったわね』


 ノアが褒めるような、からかうような声で言う。


『言おうと思った』


『分かっているわ』


『でも、私が近くにいると危ないかもしれない』


『逆に、黒月だけが器の接近を早く察知できる可能性もある』


『どっち?』


『だから一人で決めるなと言っているのでしょう』


 アリシアは小さく息を吐いた。


「黒月は、旧資料室の異変を最初に見つけました」


 皆へ向けて言う。


「でも、箱にも強く反応しました。私が光の近くにいる方がいいか、離れた方がいいかは、まだ分かりません」


 自分の希望ではなく、分かっていることだけを出す。


 学院長は少し考えたあと、うなずいた。


「アリシアと光の神器継承者を、現時点では同じ場所へ固定しない」


 胸の奥が少し沈む。


 離されることが嫌なのではない。


 隣に立つと言った直後に、近くへいられない可能性が出たことが寂しかった。


 けれど隣に立つことは、身体の距離だけではない。


 旧資料室の外にいた生徒たちがそうだった。


 扉の向こうへ入らなくても、同じ異変へ向き合っていた。


「ただし、互いの状況は常に共有する」


 学院長が続ける。


「連絡役を間に置く。黒月と光の神器、どちらかに反応が出た場合、即時報告せよ」


 アリシアはうなずいた。


 光の神器継承者も、少し遅れて同じようにうなずく。


「護衛は神器継承者以外を中心に組む」


 副学院長が言う。


「学院警備隊と教師、訓練で副担当を務めた生徒から選びます」


 後方の生徒たちがざわめく。


 昨日の一年生の少女も、驚いたように目を見開いていた。


「生徒を危険へ近づけるのですか」


 光の神器継承者がすぐに異議を唱える。


「護衛といっても、戦闘を担わせるわけではありません」


 副学院長は落ち着いて答える。


「記録、避難経路の確保、連絡。神器を持たない者にしか任せられない役割です」


「それでも、第二の器が現れれば危険です」


「だから希望者だけとします」


「希望するかどうかを、生徒へ決めさせるのですか」


「役割を選ぶ権利を奪うべきですか?」


 副学院長の問いに、光の神器継承者は黙った。


 危険から遠ざけたい。


 それは優しさだ。


 けれど、危険だからという理由で全員の意思を無視すれば、箱が求める一つの声と似てしまう。


「参加しないことも選べるようにしてください」


 アリシアが言う。


「残る人だけではなく、離れる人も責められないように」


 昨日の訓練では、役割を持つことが前へ進む力になった。


 けれど全員が危険へ立ち向かわなければならないわけではない。


 怖いと感じて離れることも必要な判断だ。


 残る者だけを勇敢だと呼べば、離れた者は自分を責める。


 それでは、選ぶ権利があるとは言えない。


「当然です」


 副学院長が答える。


「希望しない者を参加させることはありません。また、一度希望しても、途中で辞退できます」


 後方の生徒たちが互いの顔を見る。


 誰もすぐに手を挙げなかった。


 それでよかった。


 今すぐ決める必要はない。


 自分が何を見たのか。


 どこまでならできるのか。


 家族や友人のことも含め、考える時間が必要だ。


 学院長は役割分担を仮決定し、講堂内の教師へ細かな指示を出した。


 古文書庫の調査は、副学院長と歴史教師、風と土の神器継承者が担当する。


 大聖堂との連絡は、学院長直属の伝令と水の神器継承者。


 旧資料室の監視は、火の神器継承者と警備隊。


 光の神器継承者は、講堂に近い特別室へ移り、学院の結界内で待機する。


 アリシアは黒月の反応を確認するため、別室へ。


 二人の間には、記録担当者と教師による連絡線を置く。


「また動けない役みたいだな」


 火の神器継承者がアリシアへ小声で言う。


「今度は、本当に動けないわけじゃない」


「でも離されるんだろ」


「うん」


「嫌か?」


 アリシアは少し考えた。


「少し」


 以前なら、何でもないと答えていたかもしれない。


 けれど、嫌ではないふりをしても意味がない。


「でも、必要だと思う」


「そっか」


 火の神器継承者はそれ以上励まそうとせず、短くうなずいた。


 その距離がありがたかった。


 講堂の後方では、記録担当者たちへ説明が行われている。


 参加希望の確認は、すぐには行わない。


 一度教室へ戻り、今日の記録を整理し、自分の意思を紙に書いて提出することになった。


 昨日の一年生の少女は説明を聞きながら、何度も記録板へ何かを書き込んでいる。


 アリシアが見ていることに気づくと、少女は少し迷ったあと近づいてきた。


「アリシアさん」


「はい」


「さっき、参加しないことも選べるようにと言ってくれて、ありがとうございました」


 アリシアは意外に思い、少女を見る。


「参加したくないですか?」


「分かりません」


 少女は正直に答えた。


「旧資料室の前にいたとき、すごく怖かったです。でも、記録しなければと思いました。終わったあとは、役に立てたことが嬉しかったです」


 指先が記録板の端をなぞる。


「だから、次も参加したいと思う気持ちがあります。でも、またあの黒いものが出たら、今度も声を出せるか分かりません」


「分からなくていいと思います」


 アリシアは言う。


「今、決めなくていいです」


「でも、早く決めた方が」


「早く決めた答えが、本当の答えとは限りません」


 自分にも言い聞かせるような言葉だった。


 光の神器継承者を助けたい。


 その気持ちは本当だ。


 けれど、だから自分がそばに行くべきだとすぐ決めるのは違う。


 危険を増やすかもしれない。


 別の場所で黒月の反応を見る方が、役に立てるかもしれない。


「参加しないと決めても、記録したことがなくなるわけではありません」


 アリシアは少女の腕の灰色の布を見る。


「今日したことは、もう残っています」


 少女は少し目を伏せた。


 やがて、ほっとしたように息を吐く。


「教室で考えます」


「はい」


「アリシアさんも、考えますか?」


「うん」


「何を?」


 問われ、アリシアは少し困った。


 光の神器継承者のそばへ行きたい。


 黒月の反応を追いたい。


 隠れ里へ向かいたい。


 旧資料室の箱も調べたい。


 全部をしたい気持ちがある。


 けれど、それはできない。


「私が、どこにいるのが一番役に立つか」


 答える。


 少女はうなずきかけたあと、首を傾げた。


「アリシアさんが、どこにいたいかは考えないんですか?」


 胸の奥を、軽く指で押されたような感覚があった。


 役に立つ場所。


 必要とされる場所。


 危険を止められる場所。


 いつも、そこから考える。


 自分がどこにいたいか。


 その問いは、後ろへ置いてしまう。


「……考えてもいいですか?」


 思わず尋ねると、少女は驚いた顔をした。


 そのあと、少し笑う。


「私に聞かれても困ります」


「ごめんなさい」


「でも、考えていいと思います」


 少女は記録板を抱え直す。


「役に立つ場所と、いたい場所が違ったら、そのことも誰かに話せばいいんじゃないでしょうか」


 昨日まで、アリシアが伝えていたことだった。


 一人で決めない。


 できないことを隠さない。


 違う声を重ねる。


 今度は、それを一年生の少女から返されている。


「ありがとう」


 アリシアが言うと、少女は少し照れたように頭を下げ、仲間たちのもとへ戻っていった。


『教えたことが返ってくる気分は?』


 ノアが尋ねる。


『少し恥ずかしい』


『なぜ?』


『私、自分ではできてないから』


『教える者がすべて完璧にできていると思ったら大間違いよ』


『ノアも?』


『私は完璧だけれど』


『……うん』


『そこで疑いなさい』


 ノアの尾が、アリシアの足首へ軽く触れた。


 講堂での確認が一区切りすると、全員がそれぞれの持ち場へ移動することになった。


 光の神器継承者は、二人の教師と学院警備隊に囲まれ、特別室へ向かう。


 アリシアは別方向の階段へ案内される。


 途中まで同じ廊下を歩いた。


 二人の間には、数歩の距離がある。


 周囲には教師も生徒もいる。


 話すなら、今しかないように思えた。


 けれど、何を言えばいいか分からない。


 大丈夫。


 気をつけて。


 一人ではない。


 どれも嘘ではない。


 でも、ありきたりな言葉に聞こえる気がした。


 渡り廊下の分かれ道へ着く。


 光の神器継承者は右へ。


 アリシアは左へ。


 学院長の決めた通り、ここから別れる。


「アリシア」


 先に呼んだのは、光の神器継承者だった。


 アリシアは足を止める。


「はい」


「先ほど、隣に立つと言ってくれましたね」


「うん」


「今は、別の部屋へ行くことになります」


 言葉の意味を探すような、慎重な話し方だった。


「それでも、同じことを言えますか」


 アリシアはすぐに答えられなかった。


 遠くへ行くわけではない。


 同じ学院内。


 連絡も取れる。


 それでも、異変が起きた瞬間に駆けつけられるとは限らない。


 隣に立つという言葉を、簡単に使いすぎたのかもしれない。


 けれどアリシアは、旧資料室の扉の外にいた者たちを思い出した。


 彼らは隣の部屋にすらいなかった。


 廊下の奥。


 階段。


 一階。


 それぞれ違う場所で、自分の役割を続けていた。


 それでも、アリシアを一人にはしなかった。


「言えます」


 アリシアは答えた。


「同じ場所にいなくても、聞いたことを伝えます。黒月が反応したら、すぐ知らせます。そちらで何かあったら、教えてください」


「それが、隣に立つことですか」


「今は、そうだと思います」


 光の神器継承者は、少しだけ目を伏せた。


「私は、誰かを危険へ近づけることが苦手です」


「うん」


「自分が離れれば済むなら、その方がよいと考えます」


「私も、少し似ています」


「あなたは近づく方でしょう」


『その通りね』


 ノアの声が重なる。


 アリシアは少し困りながら答える。


「私は、自分が危険へ行けば、ほかの人を遠ざけられると思います」


「逆ですね」


「でも、同じだと思います」


 自分一人で終わらせようとする。


 方法が違うだけで、中心にあるものは同じかもしれない。


「だから、二人とも一人で決めない方がいいです」


 光の神器継承者は、ほんのわずかに笑った。


 いつもの整った微笑みではない。


 力が抜けたような、小さな笑みだった。


「あなたに言われると、説得力があるのかないのか分かりません」


「ないかもしれません」


「ですが、覚えておきます」


 教師が移動を促す。


 二人はそれ以上話さず、別々の方向へ歩き始めた。


 数歩進んだところで、アリシアは振り返る。


 光の神器継承者も、同じときに振り返っていた。


 目が合う。


 どちらも手を振らなかった。


 言葉もなかった。


 それでも、互いがそこにいることを確認してから、今度こそ別れた。


 アリシアが案内されたのは、中央棟西側にある小さな観測室だった。


 魔力測定用の器具が並び、窓には外部からの干渉を防ぐ薄い結界が張られている。


 室内には、アリシアとノアのほか、闇属性に詳しい教師が二人、記録担当者が一人入った。


 記録担当に選ばれたのは、旧資料室で最初に靄を見つけたケインだった。


 彼は緊張した様子で灰色の布を巻き直し、机の端へ記録板を置く。


「希望したんですか?」


 アリシアが尋ねる。


「はい」


「もう決めたんですか」


「私は、記録したいと思ったので」


 ケインは少し迷ったあと続ける。


「怖くないわけではありません。でも、見つけたのが自分だったので、最後まで確認したいです」


「途中でやめてもいいそうです」


「分かっています」


「本当に、いつでも」


「アリシアさんもです」


 思いがけず返され、アリシアは黙った。


 ケインは真面目な顔で言う。


「学院長は、神器継承者にも途中で交代が必要なら申告するよう言っていました」


「聞いていました」


「なら、アリシアさんもやめていいです」


「……はい」


 また、自分の言葉が返ってくる。


 ノアが机へ飛び乗り、愉快そうに尾を揺らした。


『今日はよく返される日ね』


『うん』


『少しは身につきそう?』


『たぶん』


 観測器具が黒月の周囲へ配置される。


 教師は神器へ直接触れず、空間中の魔力の揺れだけを記録する。


「黒月を抜く必要はない」


 教師が言う。


「鞘に収めたまま、普段通りにしていてくれ」


「普段通り……」


「難しいか」


「少し」


 部屋の全員が黒月を見ている状況で、普段通りと言われても困る。


 教師も自分の指示の曖昧さに気づいたらしい。


「何か特別なことをする必要はない、という意味だ」


「分かりました」


 アリシアは椅子へ座る。


 黒月を膝の上へ置く。


 ケインが時刻を書き込む。


 最初の測定が始まった。


 部屋の中は静かだった。


 魔力測定器の細い針が、紙の上へ線を描く音だけが聞こえる。


 光の神器継承者は、別の部屋にいる。


 古文書庫では、調査が始まっている。


 大聖堂へは伝令が向かっている。


 旧資料室では、第一の器が封印されている。


 学院のさまざまな場所で、多くの者が同時に動いている。


 アリシアはその全体を見ることができない。


 今、自分に見えるのは小さな観測室だけだ。


 以前なら、それを不安に感じただろう。


 自分の見えない場所で、何かが起きる。


 間違った判断がされるかもしれない。


 誰かが困っているかもしれない。


 けれど今は、見えない場所にも役割を持つ者がいることを知っている。


 すべてを見られなくても、誰も見ていないわけではない。


『静かね』


 ノアが言う。


『うん』


『黒月も、今は落ち着いている』


 アリシアは膝の上の鞘へ指を添える。


 冷たい。


 けれど震えはない。


「反応なし」


 教師が測定器を確認する。


 ケインが記録する。


 五分。


 十分。


 時間が過ぎる。


 何も起こらない。


 緊張が少しずつ形を失い、代わりに待つことの疲れが現れ始める。


 アリシアは光の神器継承者のことを考えた。


 向こうも同じように座り、神器の反応を見ているのだろうか。


 誰かと話しているか。


 怖いと感じているか。


 それを言葉にできているか。


 知りたい。


 けれど伝声具は、箱が魔力へ反応する可能性を考え、使用を控えている。


 連絡は人が運ぶ。


 時間がかかる。


「連絡は、まだですか」


 アリシアが尋ねると、教師が時計を見る。


「先ほど確認したばかりだ。異常があれば、すぐ届く」


「はい」


 返事をしても、胸の落ち着かなさは消えない。


『待ちなさい』


 ノアが言う。


『分かってる』


『今のあなたの役割は、黒月の反応を見ることよ』


『うん』


『光の部屋へ行くことではない』


『分かってる』


『三度目ね』


『……うん』


 ケインが記録板から顔を上げた。


「何かありましたか?」


「ノアに、待つよう言われました」


「難しいですか」


「はい」


 正直に答える。


 ケインは少し考えた。


「昨日、アリシアさんが動けない役になったとき、私はもっと不安でした」


「どうして?」


「何か起きたら、アリシアさんが答えてくれると思っていたからです」


 旧資料室の異変を最初に見つけた男子生徒。


 彼も、アリシアへ頼る気持ちを持っていた。


「でも、アリシアさんは動きませんでした」


「訓練だったから」


「はい。だから、自分で声を出しました」


 ケインは記録板へ視線を落とす。


「今は、光の神器継承者が別の部屋にいます。アリシアさんが行かないから、向こうにいる人たちが自分で考えると思います」


 その言葉に、アリシアは息を止める。


 自分が行かないこと。


 それは何もしないことではない。


 向こうにいる者へ、考える場所を残すことでもある。


「でも、困っていたら」


「連絡が来ます」


「来なかったら?」


「こちらから決めた時間に確認します」


 ケインは机の上の予定表を指す。


 十五分ごとに、双方の状態を確認する。


 異常がなくても報告を交換する。


 誰か一人の判断で連絡を省かない。


 すでに決められていた。


「もうすぐ、最初の確認時間です」


 ケインが言う。


 アリシアは時計を見る。


 あと一分。


 その一分が、長く感じられた。


 やがて廊下から足音が聞こえる。


 一人ではない。


 教師と記録担当者の二人分。


 扉が三度、決められた間隔で叩かれた。


「光側からの定時連絡です」


 扉の外から声がする。


 教師が結界を一部解き、連絡係を入れる。


 記録担当者は白い紙を持っていた。


「光の神器に異常反応なし。継承者の体調にも変化なし。特別室周辺の結界は正常です」


 アリシアの胸から、わずかに力が抜ける。


「向こうから、確認事項があります」


「何ですか」


「黒月に反応はあるか。それから」


 連絡担当者が紙を見て、少しだけ口元を緩める。


「アリシアさんが、勝手に部屋を出ようとしていないか」


 観測室の空気が、一瞬止まった。


 教師の一人が咳払いをする。


 ケインは笑いを堪えるように俯いた。


 ノアは遠慮なく声を上げる。


『よく分かっているではないの』


「出ていません」


 アリシアは少し頬が熱くなるのを感じながら答えた。


「黒月も、反応なしです」


 連絡担当者が記録する。


「返答として伝えます」


「それから」


 アリシアは言葉を止めた。


 何か伝えたい。


 大丈夫ですか。


 怖くないですか。


 一人ではないです。


 けれど今の彼には、どの言葉が必要だろう。


 少し考えてから、アリシアは言う。


「こちらは、決めた場所にいます、と伝えてください」


 それだけだった。


 けれど連絡担当者は意図を理解したらしく、うなずいた。


「承知しました」


 決めた場所にいる。


 勝手に駆けつけない。


 黒月の反応を見ている。


 だから、そちらも一人で動かないでほしい。


 短い言葉の中に、それらを込めた。


 連絡担当者が部屋を出る。


 再び測定が続く。


 アリシアの心は、先ほどより少し落ち着いていた。


 同じ場所にはいない。


 けれど言葉は届いた。


 役割もつながっている。


 これが今の隣なのだと思えた。


 さらに十分ほど経った頃。


 古文書庫から、最初の報告が届いた。


 副学院長の署名が入った紙を、風の神器継承者が自ら運んできた。


「古い記録に、気になる記述があった」


 彼は観測室へ入ると、机の上へ写しを広げる。


「学院創設より前、この土地には小さな礼拝所があったらしい」


「光の礼拝所ですか」


「そう書かれている」


 紙には、古い地図が描かれていた。


 現在の学院よりずっと簡素な建物。


 中央に礼拝堂。


 北側に森。


 そして東端に、小さな円形の施設がある。


「この円は?」


 アリシアが尋ねる。


「記録には、眠光井とある」


「みんこう……?」


「光が眠る井戸、という意味らしい」


 室内の全員が紙を見る。


 黒い紙片の言葉と、あまりにも近い。


「今もありますか」


「地図上では、現在の学院敷地外。北東の森の中だ」


「森……」


 黒月が反応した方角。


 隠れ里の方だと思っていた。


 けれど学院の北東にも、深い森が続いている。


 その先が隠れ里へつながっているため、方向だけでは区別できなかった。


「眠光井は、光の神獣を祀る場所だった可能性がある」


 風の神器継承者が言う。


「ただし記録は途中で途切れている。学院創設時に埋められたのか、森へ残されたのかは不明だ」


 アリシアは黒月へ視線を落とした。


 先ほどの震え。


 隠れ里の方角。


 正確には、北東。


「光の神器継承者へ伝えましたか」


「同時に伝えている」


「向こうの反応は?」


「まだない。今、地図を確認しているはずだ」


 そのとき。


 膝の上の黒月が、震えた。


 一度。


 短く。


 アリシアはすぐに鞘を押さえる。


「反応しました」


 教師たちが測定器を見る。


 針が大きく跳ねていた。


「時刻を記録!」


 ケインが紙へ書き込む。


「方向は?」


 風の神器継承者が尋ねる。


 アリシアは目を閉じる。


 細い呼びかけ。


 旧資料室の箱ほど強くない。


 遠くで何かが目を開いたような感覚。


「北東です」


 答えた瞬間、廊下から激しい足音が近づいた。


 定時連絡の間隔ではない。


 緊急時の足音だった。


 扉が、決められた合図を無視して強く叩かれる。


「光側から緊急連絡!」


 教師が結界を解く。


 連絡担当者が息を切らして入ってきた。


「光の神器が反応しました!」


 アリシアの胸が強く鳴る。


「どこへ?」


「北東です!」


 黒月と光の神器。


 二つが同じ方向へ反応している。


「光の継承者は?」


「無事です。ただし、神獣の声を聞いたと」


 講堂で聞いた言葉が蘇る。


 継承の儀式以来、一度も応答しなかった光の神獣。


「何と?」


 アリシアが尋ねる。


 連絡担当者は、一度息を整えた。


「光の神獣は、こう告げたそうです」


 部屋の全員が、次の言葉を待つ。


「――眠る場所が、開かれる」


 風の神器継承者が地図を握り締める。


「眠光井……」


 黒月が再び震える。


 今度は一度では終わらなかった。


 細く、連続している。


 まるで北東の森から、何かが合図を送っている。


「さらに、もう一つ」


 連絡担当者の顔が強張る。


「光の神獣は、第二の器についても話しました」


「どこにあるんですか」


「まだ、到着していないそうです」


 アリシアは意味を理解できず、瞬きをする。


「到着していない?」


「はい」


「では、何が開かれるのですか」


 連絡担当者は紙へ目を落とした。


 そこには、光の神器継承者が自ら書いたらしい、整った文字が並んでいる。


「第二の器は、外から眠る場所へ運ばれるのではない」


 読み上げる声が低くなる。


「眠る場所の内側で、作られる」


 観測室が静まり返った。


 第一の器は、千年前に神殿から失われ、学院の旧資料室へ現れた。


 同じものが、別の場所から運ばれてくると考えていた。


 けれど違う。


 光の眠る場所。


 眠光井。


 そこで、第二の器そのものが生まれようとしている。


「完成まで、どのくらいですか」


 アリシアが尋ねる。


「光の神獣にも分からないそうです。ただし」


 連絡担当者は紙の最後を見る。


「器が完成する前に、眠光井を閉じなければならない、と」


 風の神器継承者が、すぐに扉へ向かう。


「学院長へ報告する」


「待ってください」


 アリシアも立ち上がりかけた。


 黒月が北東へ反応している。


 光の神器も。


 眠光井を閉じるなら、二つの力が必要かもしれない。


 自分が行かなければ。


 その考えが、身体を先に動かそうとする。


『アリシア』


 ノアの声が響く。


 アリシアは椅子の前で止まった。


 誰が行くか。


 どう近づくか。


 光と闇を同時に連れていくのか。


 別々に動くのか。


 まだ何も決まっていない。


 ここで自分だけが走り出せば、また一つの声ですべてを決めることになる。


 アリシアは拳を握る。


 焦りを消すことはできない。


 けれど、足を止めることはできる。


「学院長へ報告してください」


 風の神器継承者へ言う。


「私は、ここで待ちます」


 言葉にすると、胸が痛んだ。


 行きたい。


 光の神器継承者のところへ。


 北東の森へ。


 眠光井へ。


 それでも、今は待つ。


 決めた場所で。


 黒月の反応を記録しながら。


 風の神器継承者はアリシアを見て、一度うなずいた。


「必ず、すぐ戻る」


 彼が部屋を出る。


 連絡担当者も光側へ戻る。


 扉が閉まる。


 アリシアは再び椅子へ座った。


 黒月は震え続けている。


 ケインが時刻と強さを書き込む。


 教師たちは測定器を確認する。


 誰も止まってはいない。


 アリシアだけが置いていかれたわけでもない。


 ここでしか見られない反応がある。


「震えの間隔を記録してください」


 アリシアはケインへ言う。


「最初より短くなっています」


「はい」


「方向は変わっていません」


「北東ですね」


「うん」


 自分にできることを、一つずつ言葉にする。


 光の神器継承者は別の部屋で、神獣の声を記録しているはずだ。


 古文書庫では、眠光井の情報を探している。


 学院長は、誰を向かわせるか決める。


 それぞれが、別の場所で同じ異変へ向き合っている。


『待てているわね』


 ノアが言う。


『苦しい』


『でしょうね』


『今すぐ行きたい』


『それも分かっている』


『でも、待つ』


『ええ』


 ノアはアリシアの膝へ前脚を乗せる。


『隣に立つと言ったのでしょう』


『うん』


『なら、相手があなたのところへ来る時間も残しておきなさい』


 意味を考えるより先に、廊下から再び足音が聞こえた。


 今度は走っていない。


 けれど速い。


 複数の人が近づいてくる。


 扉の外で、正式な合図が三度鳴る。


 教師が開ける。


 そこに立っていたのは、学院長と風の神器継承者。


 そして。


 光の神器継承者だった。


 周囲には警備隊と教師がいる。


 彼は光の神器を胸元へ抱え、少し息を乱していた。


「どうして、ここへ」


 アリシアが尋ねる。


「学院長の判断です」


 光の神器継承者が答える。


 学院長が続ける。


「黒月と光の神器を同時に観測する。ただし直接近づけない。部屋の両端へ分ける」


「北東へ行くのでは?」


「向かう前に、二つの神器の反応を重ねる必要がある」


 学院長は地図を机へ置く。


「眠光井の位置は、ほぼ特定できた。しかし入口が現在も存在するか分からない。二つの神器が示す方向を比較し、正確な場所を割り出す」


 光の神器継承者は、部屋の反対側へ案内される。


 二人の間には、測定器と教師たちがいる。


 近くはない。


 手も届かない。


 それでも、同じ部屋にいる。


 アリシアは彼を見る。


 光の神器継承者も、こちらを見た。


「決めた場所にいる、と聞きました」


 彼が言う。


「はい」


「私も、決められた場所から勝手に出ませんでした」


「うん」


「その結果、ここへ来る許可が出ました」


 わずかな皮肉を含む言い方だった。


 けれど表情は、少しだけ柔らかい。


「待つことも、無駄ではありませんね」


 アリシアは黒月を抱え直した。


「はい」


 二人は部屋の両端にいる。


 隣には立っていない。


 それでも、同じ方向を見ている。


 教師の合図で、光の神器が布の中から取り出される。


 白い光が部屋へ広がった。


 同時に、黒月が鞘の中で強く震える。


 測定器の針が一斉に動く。


「方向を確認!」


 学院長の声が飛ぶ。


 アリシアは目を閉じる。


 黒月から伸びる細い感覚。


 北東。


 少し下。


 地面の奥。


「森の地下です」


 光の神器継承者も、ほぼ同時に声を上げる。


「北東の森。地表ではありません」


 二つの神器の反応が重なる。


 地図上で、教師が線を引く。


 アリシアの示す方向。


 光の神器継承者が示す方向。


 二本の線は、学院の北東にある古い森の一角で交わった。


 そこには、現在の地図には何も書かれていない。


 けれど古い地図では。


 眠光井を示す円が描かれていた。


「場所を特定」


 教師が言う。


「学院北東、森の地下。旧礼拝所跡から、およそ三百歩」


 学院長はすぐに命じる。


「現地調査班を編成する。出発は準備が整い次第」


 火の神器継承者たちへも、伝令が走る。


 光の神器継承者が、アリシアを見る。


「今度は、同じ場所へ行けそうですね」


「まだ決まっていません」


「慎重になりましたね」


「少しだけ」


「では、学院長の判断を待ちましょう」


 アリシアはうなずく。


 行きたいという気持ちは変わらない。


 けれど今度は、自分一人の気持ちだけで進まない。


 光の神器継承者も、勝手に向かわない。


 二人とも、待っている。


 周囲の声を。


 役割が決まるのを。


 必要な準備が整うのを。


 その待つ時間の中で、黒月と光の神器は同じ方向へ震え続けていた。


 学院北東の森。


 古い地図にだけ残る、光が眠る井戸。


 その地下で。


 第二の器が、まだ形を持たないまま。


 ゆっくりと作られ始めていた。

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