第93話 同じ出来事を見たはずなのに、記録は一つではなかった
講堂へ向かう廊下には、訓練開始前とはまるで違う静けさが落ちていた。
少し前まで、生徒たちは自分の役割を確認し、誰が動けない役に選ばれるのかを予想していた。訓練用の布を腕へ巻き、失敗しても次に直せばいいと、どこかで本番ではない安心を抱いていた。
けれど今、学院の古い東棟には、本当に六つの神器へ反応する箱が眠っている。
訓練は終わった。
その事実を誰もが理解しているはずなのに、赤や青、緑、茶、白、灰色の布を外す者はいなかった。
役割がまだ続いていると感じているのかもしれない。
あるいは、布を外してしまえば、先ほどまでの出来事が現実だったと認めることになる気がしたのかもしれなかった。
アリシアも腕に巻かれた灰色の布を見つめながら歩いていた。
本来、彼女自身は闇の神器継承者であり、副担当を示す灰色の布を巻く必要はない。けれど旧資料室を出たあと、昨日の一年生の少女が予備の布を差し出した。
「記録する人が足りないかもしれないので」
そう言われて受け取った。
アリシアは最初、なぜ自分に渡すのか分からなかった。
少女は少し迷ったあと、こう続けた。
「アリシアさんも、見たことを記録する一人ですから」
神器継承者だから、特別な色を巻くのではない。
今は同じ出来事を記録する者として、同じ灰色の布を巻く。
その意味が、アリシアには少し嬉しかった。
『何度も見るほど珍しい布ではないでしょう』
前を歩くノアが、振り返らずに言う。
『見てた?』
『あなたが歩きながら三度も腕を持ち上げれば、嫌でも目に入るわ』
『……嬉しくて』
『でしょうね』
ノアの声には、呆れと柔らかさが半分ずつ混じっていた。
講堂の扉はすでに開けられていた。
中へ入ると、朝には整然と並べられていた長椅子が、中央を空けるように移動されている。正面の演台には学院長と副学院長、その左右には訓練監督を担当していた教師たちが並んでいた。
神器継承者六人には、前方の長机が用意されている。
記録担当の生徒たちは、その後ろへ座るよう指示された。
けれどアリシアは、長机の中央に置かれた椅子を見て足を止めた。
他の椅子より、わずかに前へ出ている。
おそらく学院側は、旧資料室の中へ入ったアリシアを中心に報告を聞くつもりなのだろう。
悪意があるわけではない。
最も多くを知っている者を、話しやすい位置へ置いただけだ。
それでもアリシアは、すぐには座れなかった。
「どうしましたか?」
隣にいた水の神器継承者が尋ねる。
アリシアは中央の椅子と、その後ろに並ぶ記録担当者たちを見比べた。
「この椅子……少し前に出ています」
「そうですね」
「戻してもいいですか?」
水の神器継承者は一瞬だけ目を丸くした。
すぐに意図を理解したらしく、椅子の背へ手を添える。
「一人では重いでしょう。手伝います」
「ありがとう」
二人で椅子を引き、ほかの五脚と同じ位置へそろえる。
木の脚が床を擦り、低い音が講堂へ響いた。
教師たちの何人かが、こちらを見た。
学院長も気づいていたが、何も言わなかった。
ただ椅子の位置を一度確認したあと、手元の資料へ視線を戻す。
六人が並んで座る。
その後ろへ、灰色の布を巻いた生徒たちが記録板を抱えて腰を下ろした。
火の神器継承者が、椅子へ深く座りながら小さく息を吐く。
「こうして座ると、叱られるみたいだな」
「訓練中止の原因を作ったのは、私たちではありません」
光の神器継承者が淡々と答える。
「分かってるけど、学院長があの顔で待ってると落ち着かないだろ」
「学院長は、普段から同じ顔です」
「それはそれで怖いんだよ」
風の神器継承者が、緊張を隠すように口元を緩める。
「少なくとも、火の神器が箱を燃やしたわけじゃない」
「燃やしてない。触ってもない」
「入ろうとはしていましたけどね」
水の神器継承者が釘を刺す。
「アリシアが一人だったんだぞ。入ろうとするだろ」
「入ることが助けになるとは限らないと、止められていました」
「結果的には止まっただろ」
「結果で正当化しないでください」
二人の声は小さかったが、近くにいた記録担当の生徒たちには聞こえていたらしい。
緊張していた一年生の何人かが、わずかに笑う。
アリシアも肩に入っていた力が少し抜けた。
学院長が立ち上がる。
講堂の空気が、すぐに引き締まった。
「これより、東棟旧資料室で発生した異変について確認する」
声は低く、落ち着いている。
怒鳴っているわけではない。
それでも、全員の背筋を自然に伸ばす力があった。
「先に明確にしておく。本日の合同訓練において、東棟旧資料室へ黒い箱を設置した者は、学院側にはいない。闇の魔力を用いた演出も予定されていなかった」
分かっていたことだった。
それでも学院長の口からはっきり告げられると、生徒たちの間に小さな動揺が広がる。
アリシアの後ろで、誰かが息を呑んだ。
「また、旧資料室は昨月の設備確認では異常なしと報告されている。室内に箱があったという記録もない」
火の神器継承者が眉を寄せた。
「昨月にはなかったということですか?」
「記録上はそうなる」
「記録上は?」
学院長はすぐに答えなかった。
副学院長が机の上へ一冊の帳簿を置く。
厚い表紙の、古い管理記録だった。
「旧資料室は現在使われていないが、月に一度、担当教師と管理係の生徒が中を確認している。扉の鍵、窓、書棚、保管物の状態を記録する決まりだ」
副学院長が帳簿を開く。
「先月の確認日は、二十七日前。担当教師の署名と、生徒二名の署名がある。異常なしと記載されている」
「では、そのあとに誰かが持ち込んだ可能性が高いということでしょうか」
光の神器継承者が尋ねる。
「その可能性はある」
副学院長は答えたが、表情は晴れなかった。
「ただし、旧資料室の鍵は管理室に保管されている。使用記録には、先月の確認以降、今朝まで貸し出された形跡がない」
講堂の中が静まり返る。
扉は施錠されていた。
鍵も使われていない。
窓から入れたのかもしれない。
魔法で侵入した可能性もある。
けれど学院内、それも神器継承者たちが学ぶ場所へ、誰にも気づかれずに箱を置いた者がいる。
その事実は、箱そのものと同じくらい不気味だった。
「まず、発生時刻から確認する」
学院長が言う。
「各自、記録を机の上へ出せ」
紙の擦れる音が重なる。
アリシアも自分の記録を前へ置いた。
旧資料室の中で見たことは、部屋を出た直後に書き留めている。
箱の形。
六つの円。
床へ浮かんだ印。
聞こえた声。
黒月の反応。
線を切った順番。
けれど時刻の欄は、ほとんど空白だった。
部屋の中には時計がない。
異変が始まってからは、時間を確かめる余裕もなかった。
「記録担当者から報告せよ」
学院長の指示を受け、昨日の一年生の少女が立ち上がる。
記録板を胸の前で持ち、正面を見る。
緊張していることは、アリシアにも分かった。
指先に力が入り、紙の端が少し曲がっている。
それでも少女は、俯かなかった。
「訓練開始の三度目の鐘から、六分四十秒後。旧資料室の扉の下から、黒い靄が流れ出すのを確認しました」
学院長の隣にいた教師が書き留める。
「最初に発見した者は?」
「記録副担当のケイン・ロンドです」
名を呼ばれた男子生徒が立ち上がる。
「間違いないか」
「はい。私はそのとき、第二実習室から資料室の列へ合流した生徒の名前を確認していました。旧資料室の前を通ったとき、床の色が暗く見えたので足を止めました」
「靄が出る前に、異音や魔力の違和感は?」
男子生徒は少し考えた。
「私は、感じませんでした」
「感じなかった、ではなく、覚えていない可能性は?」
「あります。人数確認の声や、廊下の鐘が鳴っていたので、小さな音なら聞き逃していたかもしれません」
できなかったことを隠さない答えだった。
学院長は責めずにうなずく。
「続けろ」
少女が報告を引き継ぐ。
「黒い靄を確認したあと、周辺の生徒を下がらせました。発生場所、時間、音、光、近くにいた者を記録しました。アリシアさんが訓練用ではないと判断したのは、そのおよそ一分後です」
アリシアは自分の記録を見る。
体感では、もっと短かった。
黒月が震え、ノアが訓練ではないと言い、自分が赤い札を掲げるまで、ほんの数秒だったように思える。
けれど外にいた者の記録では、一分近く経っている。
その違いが少し怖かった。
「アリシア」
学院長に呼ばれ、顔を上げる。
「君が異変を訓練用ではないと判断したのは、黒月の反応が理由か」
「はい」
「靄が現れた瞬間から反応していたのか」
アリシアは記憶をたどる。
黒い靄に生徒が気づいた。
記録担当が動いた。
自分はそれを見ていた。
そして、胸元の黒月が震えた。
「靄が出た瞬間ではないと思います」
「どの程度遅れていた」
「分かりません。少し……見てからです」
「黒月が反応する前に、ノアは何か感じたか」
足元に座っていたノアが顔を上げる。
アリシアが答えを求めるより先に、声が頭の中へ届いた。
『私は靄が現れた時点では、訓練用のものだと思っていたわ。黒月が反応してから、その奥に別の気配があると分かった』
「ノアも、黒月が反応するまでは気づかなかったそうです」
教師たちの表情が険しくなる。
闇の神獣であるノアすら、最初は異変を見抜けなかった。
箱はただ魔力を隠していたのではない。
訓練用の演出に紛れるように、気配を変えていた可能性がある。
「箱は、訓練が始まることを知っていたのでしょうか」
風の神器継承者が呟く。
「訓練の魔力障害に合わせて動いたなら、偶然とは考えにくい」
「誰かが外から起動した可能性もあります」
光の神器継承者が言う。
「旧資料室へ入らずとも、特定の合図や魔力へ反応するよう仕掛けられていたのかもしれません」
「特定の合図って何だ?」
火の神器継承者が尋ねる。
「鐘、照明の停止、伝声具の制限。それから、六人の神器継承者が学院内の別々の場所へ配置されたこと」
「だが、箱が反応したとき、六人は近くにいなかった」
「距離は条件ではない可能性があります」
意見が交わされる。
学院長は止めなかった。
一つずつ聞きながら、教師たちに記録させている。
やがて水の神器継承者が、机に並べられた紙を見比べて眉を寄せた。
「発生時刻が合いません」
全員の視線が集まる。
「どういう意味ですか」
副学院長が尋ねる。
水の神器継承者は、三枚の記録を前へ出した。
「東棟二階の記録では、訓練開始から六分四十秒後に黒い靄を確認しています。しかし一階の風担当が、経路変更の鐘を鳴らした記録は、開始から六分三十八秒後です」
「二秒差なら、記録上の誤差では?」
教師の一人が言う。
「問題は、そのあとです」
水の神器継承者は別の紙を指さす。
「二階の生徒たちは、経路変更の鐘を聞いたあとに黒い靄を確認したと証言しています。けれど記録時刻では、靄の発見が鐘の二秒後です」
「合っているではないか」
「一階で鐘を鳴らし、その音が二階へ届き、生徒たちが聞いてから靄を発見した。その一連が二秒以内に起きたことになります」
講堂が静かになる。
不可能とまでは言えない。
鐘の音はすぐに届く。
靄も同時に現れていたなら、二秒で気づくことはできる。
けれど水の神器継承者は、さらに紙を並べた。
「二階の記録担当者が異変時刻を書き込んだのは、発見から十秒ほどあとです。その時点で時計を確認した者は三人います。三人の記録は、すべて同じです」
「一階側の時計がずれていたのでは?」
「訓練開始前に、学院の基準時計と合わせています。ほかの鐘の記録は一致しています」
風の神器継承者が、自分の担当記録を引き寄せる。
「経路変更の鐘を鳴らしたのは私の副担当です。私が合図を受けた時刻と、鐘を鳴らした時刻も残っています」
「では、何が合わないんだ」
火の神器継承者が机を見つめる。
アリシアも、並べられた紙へ目を落とした。
異変を見つけた時刻。
鐘を鳴らした時刻。
黒月が反応した時刻。
赤い札を掲げた時刻。
それぞれは、誰かの記憶ではなく、時計を見て記録されている。
それなのに、出来事の順番と紙の時刻が、わずかにずれていた。
「旧資料室の中で、時間が違っていた?」
アリシアが呟く。
全員がこちらを見る。
急に注目が集まり、喉が少し固くなった。
けれどアリシアは、紙から目を逸らさなかった。
「私は、黒月が反応してから赤い札を上げるまで、すぐだったと思っていました。でも、外の記録では一分くらい経っています」
「緊張していたから、短く感じたのではないか?」
教師が尋ねる。
「それもあると思います。でも……箱の中へ入ったあとも、外の声が少し遅れて聞こえたときがありました」
『それは私も感じたわ』
ノアが言う。
『扉の外から呼ばれた声が、距離の割に遅れて届くことがあった。逆に、箱の声は耳元より近く聞こえた』
「ノアも、外の声が遅れて聞こえたと言っています」
学院長がすぐに教師へ指示する。
「旧資料室周辺の時計をすべて回収しろ。設置型、携帯型を問わず、異常がないか調べる」
「承知しました」
「結界担当には、空間歪曲と時間遅延の痕跡を確認させよ」
教師が講堂を出ていく。
生徒たちの間に、抑えきれないざわめきが広がった。
「時間を変える箱なのか?」
「そんな魔道具、聞いたことがない」
「六つの神器を一つにするだけじゃないの?」
「箱の中だけ違う時間だったら、いつ置かれたのかも分からないんじゃ……」
最後の言葉に、何人かが声を失った。
先月の確認では、箱はなかった。
けれど旧資料室の中だけ時間の流れが違っていたなら。
学院側が二十七日前に部屋を確認していても、箱にとっては別の時間だった可能性がある。
逆に、何百年も前に置かれた箱が、学院の時間へ現れたばかりということもあり得る。
アリシアは腕を抱いた。
寒くはない。
それでも肌の内側が冷えていた。
『飛躍しすぎないことね』
ノアが落ち着いた声で言う。
『時間のずれがあったとしても、箱が過去から来たと決まったわけではない』
『うん』
『記録の間違いかもしれない。時計の不調かもしれない。誰かが意図的に書き換えた可能性もある』
『書き換えた?』
『可能性の一つよ』
アリシアは机に並ぶ記録を見る。
記録担当者たちは、真剣に書いていた。
少なくとも、目の前にいる彼らが意図的に時刻を変えたとは思えない。
けれど紙へ書かれる前に、時計そのものが動かされていた可能性はある。
あるいは、記録を受け取った誰かが。
「記録用紙は、書いたあと誰かへ渡しましたか?」
アリシアが尋ねる。
昨日の一年生の少女が、自分の記録板を見下ろす。
「旧資料室を出るまでは、私が持っていました。そのあと、全員で書き加えるために回しました」
「時刻が書かれたところを、直した人は?」
「いません。線も消した跡もありません」
紙が前へ送られてくる。
アリシアは時刻の欄を見た。
数字は一度で書かれている。
書き直しの跡はない。
インクの色も同じだ。
「こちらもです」
別の生徒が、もう一枚を差し出す。
「私は鐘の時刻を記録しました。書いたあとは、風の担当代表に渡しています」
風の神器継承者がうなずく。
「受け取ってから、誰にも渡していない」
記録は一つではない。
だから、誰か一人の間違いなら見つけられる。
けれど今回は、複数の記録がそれぞれ正しいように見えながら、並べると合わない。
違う声を重ねれば、全体が見える。
アリシアはそう信じていた。
今、その重なりによって、誰も気づかなかった異常が現れている。
もし記録が一枚だけだったら。
誰か一人の記憶だけで報告していたら。
二秒のずれなど、誤差として消えていただろう。
「記録が違ったから、分かったんですね」
アリシアは小さく呟く。
少女が顔を上げる。
「同じことを見ていても、書いたものが違いました。でも、どちらかが間違いだと決めなかったから……変なところが見つかりました」
学院長が、ゆっくりとうなずいた。
「その通りだ」
講堂の全員へ聞かせるように言う。
「記録の不一致は、即座に誤りを意味しない。異なる場所で、異なる条件のもと見た結果かもしれない。今回のように、不一致そのものが異変の証拠となる場合もある」
昨日の一年生の少女は、自分の記録板を強く抱えた。
自分たちが何度も数字を間違えたことを、彼女は気にしていた。
人数が合わず、何度も確認し直した。
その失敗を、講堂で報告するつもりだった。
けれど今、同じような違いが、異変を見つける手がかりになった。
間違いをなくすことだけが、記録の役割ではない。
違いを残しておくことにも意味がある。
「学院長」
光の神器継承者が口を開く。
「旧資料室の箱について、隠れ里へ連絡するとおっしゃいました。すでに使者を?」
「先ほど、最速の伝令を出した」
「返答まで、どの程度かかりますか」
「通常なら半日。だが、神器に関する緊急連絡として送っている。隠れ里側に受信の準備があれば、それより早い」
火の神器継承者が腕を組む。
「待っている間、箱はそのままですか?」
「結界を三重にし、外側から監視する。動かさない」
「また起きたら?」
「神器継承者六人を、同時に近づけることはしない。闇の神器継承者も、単独では接触させない」
学院長の視線がアリシアへ向く。
「よいな」
「はい」
答えたあと、ノアが足元で尾を一度鳴らした。
『返事が早すぎるわね』
『触らないって言った』
『あなたは触らなくても、近くまで見に行くでしょう』
『……行かない』
『今の間は何?』
アリシアは答えず、膝の上で指を重ねた。
箱の正体は気になる。
声が何を意味していたのかも知りたい。
自分だけを六つ目と呼び、黒月を戻そうとした理由。
隠れ里の神殿との関係。
千年前の大戦と、六つの神器が分かれた経緯。
確かめたいことは、いくつもある。
けれど、分からないものへ近づくことと、一人で確かめることは同じではない。
待つ必要がある。
記録を集める。
隠れ里からの返答を聞く。
学院の調査を確認する。
そのあとで、誰と箱へ向き合うのかを決めればいい。
「次に、訓練部分の報告へ移る」
学院長の言葉に、記録担当者たちが少し驚いた。
現実の異変が起きた以上、訓練の失敗は後回しになると思っていたのだろう。
「異変が発生するまでの動きは、本来の訓練として評価する。また現実の異変が発生したあとの行動も、危機対応として確認する」
少女の表情が緊張する。
最初の人数確認。
役割表を忘れた生徒。
階段で列が止まりかけたこと。
経路変更時に違う指示が飛んだこと。
うまくいかなかった場面は多い。
「東棟二階の人数確認担当」
呼ばれ、少女が立ち上がる。
「はい」
「報告せよ」
少女は一度、息を吸った。
「最初の人数確認で、二名の返事が重なり、記録を一度間違えました。そのため、名前をもう一度呼び直しました」
「所要時間は?」
「予定より一分十秒遅れました」
「原因は」
「返事をする順番を決めていなかったことと、記録係が一人だけだったことです」
「改善案は」
少女は手元の紙を見る。
けれど、読み上げる前に顔を上げた。
「窓側から一列ずつ呼ぶと決めます。それから記録係を二人にして、一人が名前、もう一人が人数だけを確認します」
「途中合流の記録は」
「方法自体は使えました。ただし、元の教室へ伝える人が足りませんでした。連絡役を別に一人決めます」
学院長は何も言わず、教師に記録させる。
少女は続けた。
「経路変更では、階段の途中で列が止まりかけました。二階と一階で指示が違ったからです」
「誰の判断が誤っていた」
問いに、少女は一瞬だけ言葉を詰まらせる。
アリシアの胸が小さく動いた。
間違えた誰か一人を、名指しすることになるかもしれない。
しかし少女は、少し考えたあと答えた。
「一人の判断ではありません」
学院長が目を細める。
「詳しく」
「一階は、出口が変わったので左へ進むよう伝えました。二階は、階段の途中で向きを変えると危険なので、まず下まで進むよう伝えました。言っていたことは、どちらも必要でした」
少女の声はまだ硬い。
それでも、自分の言葉で続ける。
「問題は、どの場所で指示を変えるか決めていなかったことです。一階まで下りてから新しい経路へ変えると、最初から決めておくべきでした」
火の神器継承者が、小さく感心したように息を漏らす。
誰かが間違えたのではない。
それぞれが自分の場所では正しいことを言い、全体としてぶつかった。
異なる声があるから争いが生まれる。
黒い箱は、そう言った。
けれど争いをなくすために声を一つへ戻すのではなく、異なる声がぶつからない道を作ることもできる。
「役割表を忘れた生徒への対応は?」
「同じ担当ではない生徒が、自分の紙を共有しました」
「事前に決めた方法か」
「いいえ。その場で考えました」
「その判断をどう評価する」
少女は少し迷った。
「列を止めずに済んだので、よかったと思います。ただ、全員の役割表に、ほかの担当の最初の行動まで書かれていたからできたことです」
「つまり」
「副担当だけではなく、全員が少しずつほかの役割を知っていたことが役に立ちました」
学院長は、今度ははっきりとうなずいた。
「記録せよ。役割表の共有範囲は、今後の訓練でも維持する」
少女の肩から、少し力が抜ける。
失敗だけを報告したのではない。
うまくいった理由も、言葉にできた。
「最後に、現実の異変が起きたあとの行動について」
学院長が講堂を見渡す。
「闇の副担当者たちは、箱を止めようとせず、記録と退避を選んだ。なぜだ」
ケインという男子生徒が立ち上がる。
「黒月の力は、私たちには代われないと決めていたからです」
「怖くなかったか」
「怖かったです」
男子生徒は正直に答えた。
「アリシアさんだけが部屋へ入ったときは、自分も何かしないといけないと思いました。でも、近づくことが役割ではないと……昨日、決めていたので」
「結果として、何ができた」
「二階の避難を続けました。異変の内容を記録しました。神器継承者たちの反応も、外から確認しました」
「それらは、アリシア一人にはできなかった」
学院長の言葉に、アリシアはうなずいた。
「はい」
自分だけでは、箱の中しか見えなかった。
外で誰が何をしたのか。
五つの神器がどう反応したのか。
避難が終わったのか。
それを知ることはできなかった。
「今日の訓練では、一人の神器継承者を行動不能にする予定だった」
学院長が静かに続ける。
「選ばれたのはアリシアだった。理由は、現在の学院において、彼女が判断の中心となりやすいからだ」
講堂の視線が、アリシアへ集まる。
肩が固くなる。
けれど逃げずに、学院長を見る。
「彼女が動けなければ、ほかの者が止まるのか。それを確認するためだった」
学院長は記録の束へ目を落とす。
「結果として、東棟の生徒たちは止まらなかった。混乱し、判断を誤りかけながらも、役割を補い、進み続けた」
少女たちの顔に、驚きが浮かぶ。
評価されるとは思っていなかったのだろう。
「そして本物の異変が発生したあとも、アリシア一人へ判断を集中させなかった」
学院長の声は厳しいままだった。
けれど、その中に確かな肯定があった。
「本日の訓練は中止となった。しかし、目的の一部は達成されたと判断する」
講堂の空気が緩む。
誰かが大きく息を吐いた。
すぐに喜びの声が上がるわけではない。
旧資料室には危険な箱が残っている。
すべてが終わったわけではなかった。
それでも、自分たちの動きが無意味ではなかったと知り、生徒たちの表情が少しずつ変わっていく。
少女は座る前に、アリシアを見た。
目が合う。
アリシアは小さくうなずいた。
少女も同じようにうなずき、席へ戻る。
その直後、講堂の外から慌ただしい足音が聞こえた。
扉が開く。
出ていった教師とは別の、伝令担当の教師が入ってきた。
手には細長い筒を持っている。
隠れ里との緊急連絡に使う、魔力封印の施された伝書筒だった。
「学院長」
教師の顔は強張っている。
「隠れ里から、返答が届きました」
講堂が再び静かになる。
通常なら半日かかるはずの返事だった。
まだ一時間も経っていない。
「早すぎるな」
副学院長が呟く。
「こちらの伝令が到着したのではありません」
伝令担当の教師が答える。
「我々が連絡を送るより先に、隠れ里側から発信されたものです」
アリシアの胸が強く鳴った。
「先に……?」
「はい」
教師は伝書筒を学院長へ渡す。
「発信時刻は、訓練開始の約十分前です」
講堂の中で、誰も言葉を発しなかった。
箱が目覚める前。
黒い靄が現れる前。
誰も異変の存在を知らなかった時間。
隠れ里はすでに、学院へ何かを送っていた。
学院長が筒の封印を確かめる。
神樹の葉を模した紋章。
隠れ里の長老会が使う正式な封印だった。
慎重に蓋を外し、中から一枚の紙を取り出す。
古い紙ではない。
つい先ほど書かれたばかりの、白い紙だった。
学院長は文章へ目を走らせる。
途中で表情が変わった。
普段ほとんど感情を表へ出さない学院長の指が、紙の端を強く押さえる。
「何が書かれているのですか」
光の神器継承者が尋ねる。
学院長はすぐには答えなかった。
紙を副学院長へ渡す。
副学院長も読み、険しい顔でアリシアを見る。
その視線に、胸の奥が冷たくなる。
「学院長」
アリシアは自分から声を出した。
「教えてください」
学院長は、講堂にいる全員を見渡した。
「この内容は、神器継承者六名と教師のみで確認すべきものだ」
記録担当者たちの間に緊張が走る。
少女が腕の灰色の布を見下ろす。
ここから先は、自分たちの役割ではないと判断されたのだろう。
アリシアは伝書筒と、机に並べられた記録を見た。
隠れ里からの知らせには、知られてはいけない秘密が含まれているかもしれない。
すべてを全員へ話せばよいわけではない。
危険から守るため、情報を限る必要もある。
それでも、今ここまで記録をつないだ者たちへ、何も告げずに終わることには抵抗があった。
「内容を全部話せなくても」
アリシアは学院長を見る。
「この人たちの記録が必要かどうかは、教えてください」
学院長の眉がわずかに動く。
「必要なら、ここにいてもらった方がいいと思います。箱のことを知らなくても、見たことを確認することはできます」
記録担当者たちは黙っている。
自分たちから残りたいとは言わない。
学院長の判断を待っていた。
長い沈黙のあと、学院長が伝書筒の紙を折り直す。
「記録担当者は残れ」
少女たちが顔を上げる。
「ただし、これから読み上げる内容を、学院長の許可なく外部へ話すことを禁ずる。家族、友人、ほかの生徒にもだ」
「はい」
返事は一つではなかった。
何人もの声が重なった。
学院長は再び紙を開く。
「隠れ里の神殿で、本日未明、異変が発生した」
アリシアの脳裏に、隠れ里の神殿が浮かぶ。
静かな石の廊下。
神樹から流れ込む淡い光。
六つの神器を示す古い祭壇。
そして中央から響いた、一つへ戻せと迫る声。
「神殿最奥に封じられていた石板の一部が、突然崩れた」
学院長は、書かれた言葉を一つずつ確かめるように読む。
「崩れた場所から、六つの円を描いた空洞が発見された。空洞は箱状の何かを収めていた痕跡を持つが、中身は失われている」
講堂の空気が凍りつく。
旧資料室にあった黒い箱。
六つの円。
神殿の空洞。
偶然ではない。
「石板の裏面には、これまで確認されていなかった文字が刻まれていた」
学院長の声が少し低くなる。
「古代文字による記述は、次の通りだ」
アリシアの指先が冷える。
ノアが椅子の下から近づき、足へ身体を触れさせた。
「――六つを分けし者、声を散らし、器を封ず」
講堂の誰も動かない。
「――器が目覚めし時、六つ目は最初に呼ばれる」
アリシアは息を止めた。
箱が自分だけを呼んだ理由。
闇の円だけが最初に光った理由。
千年前から決められていた。
「――六つ目が応じれば、残る五つは抗えず」
火の神器継承者が、机の下で拳を握る。
水の神器継承者の顔から血の気が引く。
風も、土も、光も、言葉を失っていた。
アリシアが箱の呼びかけへ応じていたら。
黒月を戻していたら。
ほかの五つは、拒むことができなかった。
床の円が神器を引いたのは、そのためだった。
「最後に」
学院長は紙の最下部へ視線を落とす。
「崩れた石板の内側には、箱が失われた時期を示す文字が残っていた」
「いつですか」
アリシアの声は、自分でも分かるほど小さかった。
学院長が顔を上げる。
「千年前だ」
一瞬、意味を理解できなかった。
千年前。
人類と魔族の大戦があった時代。
六つの神器が使われた時代。
闇の神器が歴史から消えた時代。
「箱は、千年前に神殿から失われていた」
学院長の言葉が、静かな講堂へ落ちる。
「そして今日、学院の旧資料室で発見された」
誰も声を出さない。
先月、箱はなかった。
鍵は使われていない。
訓練の記録には、わずかな時間のずれがある。
箱は誰かが最近運び込んだのではないのかもしれない。
千年前に失われ。
時間のどこかへ消え。
今日、学院へ現れた。
アリシアは机に置かれた、自分の記録を見下ろした。
箱の中の声は、ずっと自分だけを六つ目と呼んでいた。
名前を知らなかったのではない。
最初から、名前など必要としていなかった。
千年前から、闇の神器を持つ者が現れるのを待っていた。
誰が選ばれるかは関係ない。
黒月を持つ器なら、それでよかった。
『アリシア』
ノアの声が届く。
アリシアは無意識に黒月の柄へ手を置いていた。
『呼吸しなさい』
ゆっくり息を吸う。
胸の奥が痛い。
箱が今日現れたのは、自分が黒月を持っているからなのかもしれない。
自分が学園に来たから。
黒月を目覚めさせたから。
六つの神器が同じ場所に集まったから。
そう考えかけたとき、後ろから紙の擦れる音が聞こえた。
昨日の一年生の少女が、記録板を開いていた。
何かを書き込んでいる。
その姿を見て、アリシアは少しだけ我に返った。
「何を書いているんですか」
少女は顔を上げる。
「一人では確認できなかったことです」
記録用紙の最後に加えられた欄。
アリシア一人では見られなかったものを、別の者の記録で埋めるための場所。
「箱が千年前に失われたことは、私たちには分かりませんでした」
「うん」
「でも、今日現れた時刻は、私たちが記録しています」
少女は震える指で、時刻の欄を指す。
「隠れ里が知っていることと、学院が知っていることを合わせれば、箱がどこから来たのか分かるかもしれません」
千年前という言葉に、少女も怖がっている。
それでも、考えることをやめていない。
アリシアが箱に呼ばれたと知っても、彼女一人へ答えを求めていない。
自分たちにできることを探している。
「そうですね」
アリシアは黒月から手を離した。
「記録を、合わせましょう」
隠れ里の記録。
学院の記録。
旧資料室の管理帳簿。
訓練中の時刻。
箱の中と外で生じたずれ。
同じ出来事ではない。
同じ場所で見たものでもない。
けれど、違う記録を重ねることで、千年の空白を埋められるかもしれない。
学院長は、机に並んだ紙を見渡した。
「本日以降、六つの神器に関する記録を統合する調査班を設置する」
教師たちが姿勢を正す。
「隠れ里へ追加の資料を求める。学院の古文書庫、旧資料室の管理記録、千年前の大戦記録をすべて確認する」
学院長の視線が、神器継承者六人へ移る。
「六名は調査へ参加せよ。ただし単独行動は禁止する」
次に、灰色の布を巻いた生徒たちを見る。
「本日の記録担当者から、希望する者を調査補助として選ぶ」
少女たちの間に驚きが広がる。
「私たちも、ですか」
ケインが思わず尋ねる。
「君たちの記録が、異常時刻の発見につながった」
学院長は淡々と答える。
「神器の力を持つ者だけでは、見えないものがある」
アリシアはその言葉を静かに受け止めた。
箱は六つの神器だけを見ていた。
六つ目が応じれば、残る五つも従う。
そこに、神器を持たない者の存在は含まれていない。
けれど今日、箱の異変を最初に見つけたのは、神器継承者ではなかった。
時刻のずれを残したのも。
避難を続けたのも。
箱の外から声をかけたのも。
神器を持たない生徒たちだった。
六つの神器を一つに戻そうとする箱は、六人だけを見ている。
だからこそ、その外にいる者たちの声が、箱の知らない答えになるのかもしれない。
「調査班の最初の目的は三つだ」
学院長が告げる。
「黒い箱の正体。千年前に神殿から失われ、今日学院へ現れた経路。そして」
一度言葉を切る。
「箱が、なぜ今この時期を選んで目覚めたのか」
アリシアの胸元で、鞘に収まった黒月がわずかに震えた。
先ほどまでの激しい反応ではない。
遠くから呼ぶ声を、再び聞いたような小さな震えだった。
アリシアは黒月を押さえなかった。
まず、その震えを感じる。
次にノアを見る。
そして周囲の五人と、後ろにいる記録担当者たちを見渡した。
「今、黒月が反応しました」
隠さずに伝える。
講堂の空気が緊張する。
「箱と同じ反応か」
学院長が尋ねる。
「分かりません。とても小さいです」
「方角は感じるか」
アリシアは目を閉じた。
黒月の震え。
細く、遠い。
旧資料室の方向ではない。
東棟よりさらに北。
学院の敷地の外。
森の向こう。
その先にあるのは。
「隠れ里の方です」
答えた瞬間。
学院長が持つ伝書筒の中で、何かが小さく鳴った。
紙が擦れるような音だった。
全員の視線が集まる。
学院長が筒を開く。
先ほど取り出した紙しか入っていなかったはずの中に、細く折りたたまれた黒い紙片が現れていた。
伝書筒の封印は破られていない。
誰も触れていない。
学院長は手袋をつけ、紙片を慎重に取り出す。
表面には、一行だけ古代文字が浮かんでいた。
副学院長が読み上げる。
「――第一の器は、拒まれた」
アリシアの喉が乾く。
第一の器。
旧資料室に現れた黒い箱のことだろう。
それが第一だということは。
ほかにもある。
講堂の誰も、すぐには口にしなかった。
けれど全員が、同じ答えへたどり着いていた。
学院長が紙片を裏返す。
裏面にも文字があった。
「――第二の器を、光の眠る場所へ」
光の神器継承者が、ゆっくり立ち上がる。
「光の眠る場所……」
その声に、いつもの落ち着きはなかった。
アリシアの胸元で、黒月がもう一度震える。
一度目より、はっきりと。
旧資料室の箱は封じ直した。
けれど箱の声は、止まっていなかった。
千年前に失われた器は、一つではない。
六つの神器を一つへ戻そうとする何かが、次の場所へ動き始めている。
そして今度は。
闇ではなく、光が呼ばれようとしていた。




