第92話 箱の中の声は、私だけを呼んでいた
地の底から響いた鐘の音は、耳で聞くというより、骨の内側へ染み込んでくるようだった。
旧資料室の床に浮かび上がった六つの円が、その低い振動に合わせて一度ずつ明滅する。火、水、風、土、光、闇。古びた床板の上へ描かれた光はどれも輪郭が不安定で、消えかけては戻り、まるで長い眠りから無理やり目覚めさせられたもののように揺れていた。
アリシアは黒月を握ったまま、足元へ伸びた影を見下ろした。
影は黒月の刀身へ触れたまま動かない。
触れているというより、絡みついている。
細い糸のように見えたそれは、黒月の表面へ染み込もうとしていた。
『離れなさい!』
ノアの声が鋭く響く。
アリシアは反射的に黒月を振り上げた。
刀身から影が引き剥がされ、床へ叩きつけられる。
黒い糸は一瞬だけ蛇のように身をくねらせたあと、素早く箱の中へ戻っていった。
同時に、六つの円の光が強くなる。
旧資料室の棚に積まれていた古い書類が震え、乾いた紙の擦れる音が一斉に広がった。壁際の硝子棚も細かく鳴り、部屋の奥に立てかけられていた壊れた額縁が床へ倒れる。
「アリシアさん!」
扉の外から声が飛んだ。
昨日から人数確認を担当している一年生の少女だった。
彼女は扉の向こうへ入ってこない。
決めた役割を守り、境界の外から声をかけている。
「今の音は何ですか?」
アリシアは箱から目を離さず、答えた。
「床に六つの印が出ました。箱から伸びた影が黒月に触れました」
扉の外で、紙へペンを走らせる音が聞こえる。
「黒月への影響は?」
「まだ、分かりません」
答えながら、アリシアは手元の神器へ意識を向ける。
黒月は震えている。
恐れているようにも、怒っているようにも感じられた。
けれど、これまで黒月が見せてきた反応とは違った。
魔族の気配へ反応したとき。
隠れ里の神殿で、古い意志へ触れたとき。
アリシア自身の魔力が乱れたとき。
どれとも違う。
黒月の奥にある何かが、呼び起こされようとしている。
そんな感覚だった。
『黒月を鞘へ戻しなさい』
ノアが言う。
『でも』
『今すぐよ』
アリシアは一瞬迷った。
目の前には、正体の分からない黒い箱がある。
黒月を納めれば、何かが起きたときに反応が遅れるかもしれない。
それでも、ノアの声には迷いがなかった。
アリシアはゆっくりと黒月を鞘へ戻した。
刀身が見えなくなった瞬間、床の闇の円が激しく揺れた。
光が伸び、アリシアの足元まで迫る。
けれど鞘に収まった黒月へは触れられないらしく、影はその周囲で何度も形を変えた。
『やはり、黒月そのものへ接続しようとしているわ』
『接続……?』
『取り込むのか、呼び戻すのかは分からない。でも、あれはあなたではなく、黒月を見ている』
アリシアは黒い箱を見つめる。
箱の表面には、六つの円が刻まれている。
そのうち光っているのは、闇だけ。
ほかの五つは沈黙したままだ。
けれど床に浮かんだ円は、六つすべてが淡く光っている。
闇から始まり、ほかの五つを呼び起こそうとしている。
アリシアには、そう見えた。
「――戻れ」
箱の中から、再び声が聞こえた。
先ほどより、少しはっきりしている。
「六つ目よ。戻れ」
アリシアの背中へ、冷たい汗が流れた。
六つ目。
長い間、忘れられていた闇の神器。
その名を、箱は知っている。
「アリシアさん」
扉の外から、担当教師の声がした。
「状況を説明できるか」
「箱の中から、声が聞こえます」
「内容は?」
「六つ目に戻れ、と」
外の空気が固まった。
誰もすぐには言葉を返さなかった。
訓練の演出ではない。
学院側が用意した道具でもない。
教師たちも、その声を知らない。
少し離れた廊下から、複数の足音が近づいてくる。
応援として呼ばれたほかの神器継承者たちだろう。
「アリシア!」
最初に聞こえたのは、火の神器継承者の声だった。
「無事か!」
「大丈夫」
「入っていいか?」
アリシアは答えかけ、足元の円を見る。
六つの神器を示す印。
今は闇だけが強く光っている。
ほかの継承者が入れば、何が起きるか分からない。
「待って」
アリシアは扉の外へ向かって声を上げた。
「今は、入らないでください」
「でも、一人だろ」
「ノアがいる」
『人数に入れてくれて光栄ね』
ノアの返事には、こんな状況でもわずかな皮肉が混じっていた。
「床に六つの神器の印があります。ほかの神器が近づいたら、反応するかもしれません」
扉の外で、誰かが息を呑む。
光の神器継承者が、落ち着いた声で尋ねた。
「今、闇以外の印にも反応はあるのですか?」
「少しだけ光っています。でも、闇の印が一番強いです」
「では、我々は扉の外で待機します」
火の神器継承者が何か言いかけた。
しかし光の神器継承者が低い声で制する。
「彼女の判断を優先しましょう」
「分かってる。でも」
「入ることが助けになるとは限りません」
短い沈黙が落ちた。
「……分かった」
火の神器継承者の返事は、不満を残しながらも、はっきりしていた。
扉の外で、役割が動き始める。
土の神器継承者は周辺の封鎖を。
風は学院長と教師たちへの連絡を。
水は万が一に備え、治療の準備を。
光は外から異変全体の整理を。
誰も、アリシアの指示を待って止まってはいなかった。
それぞれが、自分の役割を選んでいる。
昨日決めた通りに。
そして、訓練で試した通りに。
アリシアはその声を聞きながら、箱へ視線を戻した。
自分が動けない役に選ばれた訓練は、もう終わっている。
今は現実の異変だ。
必要なら動く。
必要なら戦う。
けれど一人で全部を抱える必要はない。
外には仲間がいる。
扉の向こうで、自分とは違う役割を担っている。
『少しは落ち着いた?』
ノアが尋ねる。
『うん』
『なら、あの箱を観察しなさい。触ってはいけないわ』
『分かってる』
『今のあなたなら、触れれば何か分かると思って手を伸ばしかねないもの』
否定できなかった。
アリシアは箱との距離を保ったまま、しゃがみ込む。
黒い木箱は、両手で抱えられるほどの大きさだった。
古びてはいるが、腐食している様子はない。
表面には六つの円のほかに、細い文字が刻まれている。
古代文字だった。
学院の授業で習うものより、さらに古い形をしている。
アリシアは目を凝らした。
「……ひとつに、戻す」
刻まれた文字の一部が読めた。
『何?』
「ひとつに戻す、って書いてある」
『その先は?』
「分からない。傷がついてる」
箱の側面には、何かで削られたような跡があった。
文字の一部が意図的に消されている。
誰かが、この文章を読ませたくなかったのかもしれない。
アリシアがさらに顔を近づけようとしたとき、黒い箱の内側から、小さく何かがぶつかる音がした。
こつ。
こつ。
一定の間隔で、内側から蓋を叩いている。
アリシアの指先が冷える。
箱の中には、何かが入っている。
声だけではない。
「中で、何かが動いています」
扉の外へ伝える。
「箱の大きさは?」
今度は、昨日の一年生の少女が尋ねた。
「両手で抱えられるくらい」
「音の間隔は?」
アリシアは耳を澄ませる。
こつ。
少し間があき。
こつ。
「同じ間隔です」
「生き物のような音ですか?」
「分かりません」
質問は落ち着いていた。
少女自身は怖がっているはずだ。
それでも記録役として、必要な情報を集めている。
アリシアは答えながら、自分の呼吸も少しずつ整っていくのを感じた。
誰かに説明することで、見えているものが整理される。
自分一人なら、「怖い」という感覚だけに飲み込まれていたかもしれない。
「――開けろ」
箱の声が変わった。
先ほどまでは、戻れと言っていた。
今度は、開けろと命じている。
「六つ目よ。器を開けろ」
アリシアは立ち上がった。
黒月を握る手へ力が入る。
『命令に従っては駄目よ』
『分かってる』
『あれはあなたを六つ目としか呼んでいない』
ノアの声が低くなる。
『名前を知らない。あなた自身を見ていない。必要なのは黒月だけよ』
アリシアはその言葉を胸の中で繰り返した。
六つ目。
器。
戻れ。
箱は、アリシアとは呼ばない。
黒月を選んだ一人の少女ではなく、闇の神器を運ぶための存在としか見ていない。
隠れ里の神殿で感じた中央の声も、似ていた。
六つの神器を一つへ戻す。
役割を分けるのではなく、一つの意思へ従わせる。
そこに、それぞれの考えや迷いは必要ない。
ただ役目を果たす器だけがあればいい。
アリシアの胸の奥に、冷たい怒りが生まれた。
激しく燃え上がるものではない。
静かで、重い怒りだった。
「私は、六つ目じゃない」
箱へ向かって言う。
扉の外の者たちにも聞こえたらしく、廊下が静かになった。
「私は、アリシアです」
黒い箱の内側で、叩く音が止まる。
「黒月は、私のものじゃありません。でも、誰かの命令で戻すものでもない」
『少し違うわね』
ノアが囁く。
『黒月は、あなたを選んだ。だから少なくとも、今はあなたの隣にいるものよ』
アリシアはわずかに息を吐いた。
「黒月は、私と一緒にいます」
言い直す。
「あなたのところへは、戻りません」
床の六つの円が、一斉に強く輝いた。
旧資料室全体が揺れる。
棚から書類が落ち、埃が舞い上がる。
箱の蓋が内側から大きく持ち上がった。
錠も留め具もないはずなのに、何か見えない力が蓋を押さえている。
その隙間から、黒い指のような影が何本も伸びた。
「アリシア!」
扉の外で、火の神器継承者が叫ぶ。
「大丈夫!」
答えながら、アリシアは黒月を抜いた。
今度は箱の影が刀身へ触れる前に、横へ薙ぐ。
闇の刃が空気を切り、伸びてきた影を断ち切った。
切られた影は床へ落ち、黒い煙となって消える。
けれど次の影が伸びる。
一つ。
二つ。
三つ。
箱の中から、際限なく溢れてくる。
『壊しては駄目よ』
ノアが言う。
『どうして?』
『中に何が封じられているか分からない。箱が檻なら、壊した瞬間に全部出るわ』
アリシアは刃を止めず、影だけを斬り続ける。
箱そのものには触れない。
けれど影の数は増えていく。
床の闇の円からも細い線が伸び、アリシアの足元を囲み始めた。
後ろへ下がる。
扉までは、あと数歩。
そのとき、足元の火の円が突然強く光った。
扉の外で、火の神器継承者が呻く。
「何だ、これ……!」
「近づかないで!」
アリシアが叫ぶ。
「神器が、印に引かれています!」
火だけではなかった。
水。
風。
土。
光。
外にいる五人の神器が、床の印へ反応している。
壁越しでも分かるほど、異なる魔力が一斉に震えた。
扉の外で、生徒たちがざわめく。
「下がってください!」
光の神器継承者が声を張り上げる。
「神器継承者以外は、廊下の奥へ!」
「でも、記録が」
「距離を取ったまま続けてください。近づく必要はありません」
すぐに役割が組み替えられる。
灰色の担当者たちは、旧資料室前から離れながらも記録をやめない。
土の担当者が机や棚を動かし、廊下へ簡易の境界を作る。
風の担当者は一階へ追加の連絡を送る。
水の担当者は神器継承者たちの体調を確認し始める。
誰か一人がすべてを命じているわけではない。
それぞれが、自分の見えている危険に応じて動いている。
しかし神器の反応は止まらなかった。
六つの円を結ぶ細い線が、床に現れる。
火から水へ。
水から風へ。
風から土へ。
土から光へ。
光から闇へ。
そして闇から、再び火へ。
六つの円が一つの輪となる。
黒い箱が、その中央にあった。
「ひとつに戻す……」
アリシアは呟いた。
刻まれていた文字。
これは六つの神器を、再び一つへ結びつけるための道具なのかもしれない。
けれど神器は、もともと一つだったのだろうか。
それとも誰かが、六つに分かれたものを無理にまとめようとしたのか。
「――六つは、過ち」
箱の中の声が響く。
「分かれた意思は、争いを生む」
床の線が強く光る。
「一つの声へ戻せ」
アリシアの胸が強く締めつけられた。
中央の声。
一つの声。
隠れ里で何度も考えたことと、同じだった。
六つの神器がそれぞれの役割を持ち、別々の者を選ぶ。
そこには迷いが生まれる。
意見の違いもある。
誰かが間違えることもある。
一つの命令へ従うより、ずっと遅い。
面倒で、不完全で、危うい。
けれど、その不完全さを消してしまえば、そこにいる人の意思も消える。
「違う」
アリシアは黒月を構え直した。
「分かれているから、間違えたときに止められる」
箱から伸びる影を斬る。
「一人が間違えても、ほかの誰かが気づけます」
また一つ。
足元へ迫った影を断つ。
「一人が動けなくても、残った人が考えられます」
扉の外で、誰かが息を呑んだ。
今朝の訓練で、実際に見たことだった。
アリシアが動けなくても、生徒たちは待たなかった。
間違えた。
迷った。
それでも誰かが声を出し、別の誰かが直した。
最初から正しい一つの声がなくても、進むことはできた。
「六つは、過ちではありません」
アリシアは箱を見据える。
「違う声があることは、壊れていることじゃない」
「――否定」
箱の声が低く響く。
「――不一致」
「違っていいんです」
「――争い」
「争うこともあります」
「――失敗」
「失敗もします」
アリシアは一つずつ答えた。
声は震えていた。
怖くないわけではない。
箱の中に何がいるのか分からない。
六つの神器が引かれ続けている。
自分の答えが正しい保証もない。
それでも、言葉を止めなかった。
「それでも、一つにされるよりいい」
箱の蓋が大きく軋む。
見えない力が緩み始めている。
黒い指が蓋の隙間を押し広げる。
このままでは開く。
アリシアは黒月を握り締めた。
壊さずに止める方法。
影を斬るだけでは足りない。
箱と六つの円のつながりを断つ必要がある。
『床の線よ』
ノアが言う。
『円そのものではなく、六つを結んでいる線を斬りなさい』
『でも、全部を斬ったら』
『一つずつよ。最初に闇と火の間を断つ』
アリシアは床を見る。
闇から火へ伸びる線。
六つの輪を閉じている最後のつながり。
そこを断てば、円は輪ではなくなる。
アリシアは黒月を両手で構えた。
「外にいる人たちへ伝えてください!」
扉の外へ向かって叫ぶ。
「今から、神器をつないでいる線を切ります。反動があるかもしれません!」
すぐに一年生の少女が声を上げる。
「全員、さらに下がってください! 神器継承者も壁から離れて!」
「水の担当は継承者たちの状態を確認!」
「土は廊下の安全確保!」
「風は下の階へ伝えて!」
声が次々に広がっていく。
アリシアは待った。
自分の攻撃だけを優先しなかった。
外の人たちが距離を取るまで。
必要な準備が整うまで。
数秒。
以前のアリシアなら、その時間さえ惜しんで斬っていたかもしれない。
けれど今は、誰かの準備を待てる。
「準備できました!」
扉の外から声が届く。
アリシアは息を吸った。
黒月へ闇の魔力を流す。
刀身が深い黒へ染まり、周囲の光を飲み込んでいく。
箱の中の声が、初めて揺れた。
「――やめろ」
「やめません」
アリシアは一歩踏み込んだ。
闇と火をつなぐ線へ、黒月を振り下ろす。
刀身が床へ触れる直前。
箱の中から、これまでで最も太い影が飛び出した。
アリシアの腕へ絡みつこうとする。
『右!』
ノアの声。
アリシアは身体を捻り、影をかわす。
刃の軌道は変えない。
黒月が光の線へ触れた。
鋭い音が響く。
硝子が割れるような。
金属が裂けるような。
それでいて、誰かの悲鳴にも似た音だった。
闇と火を結ぶ線が切れる。
床の火の円が消えた。
扉の外で、火の神器継承者が大きく息を吐く。
「引っ張られる感じが消えた!」
輪が崩れた。
けれど箱は止まらない。
残った五つの線が、別の形へつながろうと動き始める。
『次は光と闇!』
アリシアは黒月を返す。
箱の影が増え、視界を塞ぐ。
一本を斬り、二本目をかわし、床へ滑り込むように身体を低くする。
光と闇を結ぶ線へ刃を走らせた。
二本目が切れる。
光の円が消えた。
外から、光の神器継承者の声が聞こえる。
「反応が止まりました!」
残る四つ。
水。
風。
土。
闇。
箱は円をつなぎ直そうとする。
しかし輪を閉じられない。
線は互いにぶつかり、床の上で激しく揺れる。
「――六つ目」
箱の声が掠れる。
「――お前は、何故、拒む」
アリシアは黒月を構えたまま答えた。
「私一人で決めていないからです」
「――六つ目が選べ」
「選びません」
アリシアは扉の外を見た。
姿は見えない。
けれど、そこに人がいる。
記録する者。
避難を守る者。
連絡する者。
ほかの神器を持つ仲間たち。
「黒月だけで、六つ全部を決めません」
箱の影が一斉に止まった。
まるで言葉の意味を理解できないかのように。
「――中心を、捨てるのか」
「捨てません」
アリシアは静かに答える。
「中心は、必要なときにあります。でも、ずっと一人ではありません」
昨日、教室のあちこちにできた小さな輪を思い出す。
一つの大きな中心ではなく、必要な場所ごとに生まれる声。
誰かが迷えば、別の誰かが支える。
誰かが欠ければ、残った者が最初の一歩を選ぶ。
「だから、あなたのところには戻らない」
黒い箱が大きく震えた。
蓋の隙間から伸びていた影が、急に力を失う。
床の円も明滅を繰り返し、形を保てなくなる。
『今よ、残りを断って!』
アリシアは走った。
水と風。
風と土。
土と闇。
三本の線を、続けて斬る。
そのたびに円が一つずつ消えていく。
最後に残った闇の円が、箱の下で激しく揺れた。
アリシアは黒月を振り上げる。
けれど、刃を箱へは向けなかった。
闇の円だけを、真横から切り裂く。
床の光が消えた。
旧資料室を満たしていた黒い靄が、一斉に箱へ吸い込まれていく。
棚の間。
天井の隅。
扉の下。
散らばっていた影が、逆流するように箱へ戻る。
「――まだ」
箱の声が遠くなる。
「――六つは、戻る」
蓋が閉じる。
内側から叩いていた音も止まった。
そして旧資料室に、静寂が戻った。
アリシアは黒月を構えたまま、しばらく動けなかった。
息が荒い。
腕が重い。
けれど箱からは、もう魔力を感じない。
床に浮かんでいた円も、完全に消えている。
『終わったわけではないわ』
ノアが慎重に近づく。
『ただ眠っただけよ』
『うん』
『触らないで』
『触らない』
『本当に?』
『……触らない』
ノアは箱の周囲を一周し、匂いを確かめるように鼻を近づけた。
『封じ直されたようね。でも、誰がここへ置いたのかは分からない』
「アリシアさん」
扉の外から声がする。
「入っても大丈夫ですか?」
アリシアは部屋全体を見渡した。
靄はない。
床の反応もない。
黒月も静かになっている。
「先生だけ、お願いします」
担当教師が慎重に入ってくる。
赤い札を片手に持ち、箱へ近づきすぎない距離で立ち止まった。
「これが、原因か」
「はい」
「学院が用意したものではない」
「分かっています」
教師の顔は強張っていた。
旧資料室は、長い間使われていない。
それでも学院の管理下にある場所だ。
そこへ正体不明の箱が置かれていた。
しかも六つの神器に反応する。
偶然とは考えにくい。
「誰かが、訓練に合わせて置いたんでしょうか」
アリシアが尋ねる。
「可能性はある」
教師は扉の外へ視線を向ける。
「だが、今は断定できない。まず学院長へ報告する。この部屋は封鎖する」
「箱は?」
「動かさない。結界を張り、外から監視する」
教師は少し迷ったあと、アリシアを見る。
「君が止めた方法を、詳しく記録してほしい」
アリシアは扉の外へ目を向けた。
そこには、すでに記録板を抱えた生徒たちがいる。
「私だけでは、全部を見ていません」
教師がわずかに目を見開く。
「外にいた人たちの記録も、一緒にしてください」
箱の中で起きたことは、アリシアにしか分からない。
けれど外で神器がどう反応したか。
誰が、どの順番で避難したか。
どんな声が上がったか。
それはアリシアには見えていない。
一つの視点だけでは、今回の異変を正しく残せない。
「そうだな」
教師はゆっくりうなずいた。
「全員の記録を合わせよう」
アリシアは黒月を鞘へ戻した。
旧資料室から出る。
扉の外には、多くの者が待っていた。
火、水、風、土、光の神器継承者たち。
担当教師。
灰色の布を巻いた記録係。
避難を終え、少し離れた場所からこちらを見ている生徒たち。
アリシアが姿を現した瞬間、張りつめていた空気が一気に緩んだ。
「アリシア!」
火の神器継承者が駆け寄りかける。
しかし床に引かれた封鎖線を見て、ぎりぎりで止まった。
「無事か?」
「うん」
「怪我は?」
水の神器継承者がすぐに尋ねる。
「ありません。少し腕が重いだけです」
「少し、という言葉は信用できません。あとで必ず診ます」
『よく分かっているわね』
ノアが感心したように言う。
アリシアは聞こえないふりをした。
昨日の一年生の少女が、記録板を胸へ抱えたまま近づいてくる。
顔にはまだ緊張が残っていた。
「戻ってきたら、教えてくださいと言いました」
「はい」
「何があったか、教えてもらえますか?」
アリシアはすぐに答えようとした。
けれど、周囲を見渡す。
ここには多くの者がいる。
それぞれが別のものを見ていた。
「一緒に確認しませんか」
少女が瞬きをする。
「私が中で見たことを話します。皆さんが外で見たことも、教えてください」
少女は少し驚いたあと、強くうなずいた。
「はい」
その返事をきっかけに、周囲の生徒たちが記録板を持ち寄る。
「最初に火の神器が反応しました」
「違う。外から見ると、五つ同時だったと思う」
「鐘の音がした時刻は?」
「訓練開始から九分後です」
「黒い靄が出たのは、その二分前」
「階段側への避難は終わっていました」
「人数は?」
「二階の参加者は全員確認済みです。途中合流も記録があります」
声が重なる。
けれど混乱はしていない。
一人ずつ、自分の見たことを出している。
違いがあれば、紙を並べて確かめる。
アリシアはその輪の中へ入った。
中央に立つのではなく、記録を持つ一人として。
「箱の中の声は、六つを一つに戻すと言いました」
周囲の手が止まる。
「私を、アリシアとは呼びませんでした。ずっと、六つ目と呼んでいました」
光の神器継承者が表情を険しくする。
「継承者個人ではなく、神器だけを見ていたということですか」
「ノアも、そう言っていました」
「箱には、六つの神器を示す印があったのですね」
「はい」
「そして床の印が、我々の神器へ反応した」
風の神器継承者が自分の記録へ書き加える。
「学院内にあったということは、誰かが持ち込んだ可能性が高い」
土の神器継承者が低い声で言う。
「いや、前から置かれていた可能性もある」
火の神器継承者が旧資料室の扉を見る。
「訓練で魔力を使ったから、起きたのかもしれない」
「どちらにしても、調べる必要があります」
水の神器継承者が答える。
アリシアは皆の会話を聞いていた。
誰も、彼女だけへ答えを求めていない。
自分の意見を出し、ほかの者の言葉を聞いている。
それぞれの声が、少しずつ全体の形を作っていく。
旧資料室の扉の向こうには、まだ黒い箱がある。
異変は終わっていない。
箱が言った通り、再び六つの神器を一つへ戻そうとするかもしれない。
誰が置いたのか。
何のために作られたのか。
隠れ里の神殿で感じた中央の声と、どのようにつながっているのか。
分からないことばかりだった。
それでも、アリシアは一人ではなかった。
「アリシアさん」
少女が新しい紙を差し出す。
上には、今回の異変について記録する項目が並んでいる。
場所。
時間。
音。
光。
神器の反応。
声の内容。
対応。
そして最後に。
――一人では確認できなかったこと。
という欄が加えられていた。
アリシアはその文字を見つめた。
失敗を書くだけではない。
足りなかったことを隠すためでもない。
一人では見られなかった場所を、別の誰かの記録で埋めるための欄だ。
「これ、必要だと思って」
少女が少し不安そうに言う。
「勝手に増やしてしまいました」
「必要です」
アリシアはすぐに答えた。
「とても」
少女の肩から、力が抜ける。
アリシアは紙を受け取り、一番下の欄へ書き込んだ。
――箱の外で、五つの神器がどのように反応したか。
――避難中の生徒たちが、どの順番で動いたか。
――扉の外で、誰がどんな判断をしたか。
どれも、アリシア一人では分からなかったことだった。
書き終えたあと、隣へ紙を渡す。
火の神器継承者が受け取り、自分の見たことを書き加える。
次に水へ。
風へ。
土へ。
光へ。
そして記録係の生徒たちへ。
一枚の紙が、輪の中を回っていく。
誰か一人の記録ではない。
全員の声を重ねた記録になる。
アリシアは旧資料室の扉を見た。
箱の声は、一つに戻れと言った。
違う意思は争いを生むと。
けれど今、ここにはいくつもの声がある。
意見は少しずつ違う。
見えていたものも、感じていたものも違う。
だからこそ、一人では残せなかったものが、紙の上へ集まっている。
六つの神器も、きっと同じだった。
一つでは見えないものを、六つで見る。
一つでは届かない場所へ、別の力が届く。
違うからこそ、足りないところを埋められる。
『箱の声に、これを見せてやりたいわね』
ノアが足元で呟く。
『見せても、分からないかもしれない』
『でしょうね。ああいうものは、自分の答え以外を聞かないものよ』
『でも、また言う』
『何を?』
『私の名前』
六つ目ではない。
器でもない。
黒月を運ぶためだけの存在でもない。
アリシアという一人の人間だと。
そして黒月の隣には、彼女だけではなく、ノアがいる。
扉の外には、五人の神器継承者がいる。
その周囲には、自分たちの役割を考えた生徒たちがいる。
箱がどれだけ一つの声を求めても、ここにはもう、別々の声がある。
学院長が到着したのは、それから間もなくのことだった。
複数の教師を連れ、封鎖された廊下へ足を踏み入れる。旧資料室の前に集まる生徒たちと、回されている記録用紙を見て、厳しい表情のまま立ち止まった。
「状況を報告せよ」
以前なら、全員がアリシアを見たかもしれない。
けれど今回は違った。
最初に口を開いたのは、灰色の布を巻いた一年生の少女だった。
「訓練開始からおよそ七分後、旧資料室から黒い靄を確認しました」
次に土の副担当が続く。
「二階の一般生徒を退避させ、人数確認を行いました。途中合流を含め、全員確認済みです」
風の担当者が、連絡の経過を。
水の担当者が、負傷者がいないことを。
光の神器継承者が、五つの神器に起きた反応を説明する。
最後にアリシアが、箱の中で起きたことを話した。
誰か一人が、すべてを報告したのではない。
それぞれが、自分の見た範囲を伝えた。
学院長は最後まで黙って聞いていた。
報告が終わると、全員を見渡す。
「訓練は中止する」
低い声が廊下へ響く。
「旧資料室は学院長権限で封鎖。箱への接触を禁ずる。神器継承者六名と記録担当者は、このあと講堂へ集まれ」
生徒たちの表情が強張る。
学院長はさらに続けた。
「今回の異変について、隠れ里にも連絡する」
アリシアの胸が小さく動いた。
やはり、この箱は隠れ里と関係している。
「それから」
学院長の視線が、皆の手にある一枚の記録用紙へ向く。
「その記録は、全員分を回収する。誰か一人の記憶だけで判断してはならない」
アリシアは紙を見下ろした。
学院長も、同じことを考えている。
一つの声だけでは足りない。
異なる場所から見たものを合わせなければ、今回の異変の全体は分からない。
「承知しました」
光の神器継承者が答える。
周囲の者たちも続いてうなずいた。
旧資料室の扉へ、教師たちが新しい結界を張り始める。
淡い光の線が重なり、扉全体を覆っていく。
その向こうで、黒い箱は沈黙している。
けれど完全に眠ったわけではない。
アリシアには分かっていた。
箱の最後の言葉。
六つは戻る。
それは予告だった。
今後も、六つの神器を一つへ戻そうとする何かが現れる。
それが誰なのか。
何なのか。
まだ分からない。
ただ一つだけ、アリシアは決めていた。
次に呼ばれても、六つ目としては答えない。
自分の名前で答える。
そして自分一人の声ではなく、ここにいる者たちの声とともに立つ。
講堂へ向かうため、生徒たちが動き始める。
昨日の一年生の少女が、アリシアの隣へ並んだ。
「訓練は、途中で終わってしまいましたね」
「うん」
「失敗でしょうか」
少女の顔には、不安があった。
自分たちが作った手順は混乱した。
人数も何度か合わなかった。
経路変更では階段が詰まりかけた。
訓練そのものも、現実の異変によって中断された。
完璧にはほど遠い。
アリシアは少し考えた。
「失敗したところは、たくさんあったと思います」
少女の表情が曇る。
けれどアリシアは続けた。
「でも、失敗したまま止まりませんでした」
少女が顔を上げる。
「役割表を忘れた人に、紙を見せた人がいました。階段で列が止まったとき、進むように声を出した人がいました。異変が本物だと分かったあとも、皆さんは記録と避難を続けました」
それらは、最初から決められていた正解ではない。
その場で生まれた判断だった。
「だから、直せる失敗です」
アリシアは静かに言う。
「次は、もっとよくできます」
少女はしばらく黙っていた。
やがて、記録板を抱く腕へ少し力を込める。
「では、講堂で全部話します」
「はい」
「うまくいかなかったところも」
「お願いします」
二人は並んで歩き出した。
ノアがその少し前を歩く。
背後では、旧資料室の扉に最後の結界が張られた。
黒い箱は見えなくなる。
それでも箱の声は、アリシアの耳の奥に残っていた。
六つは、過ち。
分かれた意思は、争いを生む。
一つの声へ戻せ。
アリシアは廊下を歩きながら、小さく息を吐いた。
違う声があるから、迷う。
迷うから、時間がかかる。
ときには、間違える。
けれど誰か一人の間違いを、全員の運命にしなくて済む。
誰か一人が動けなくても、残った者が考えられる。
それは今朝、もう証明された。
アリシアが動けない朝に。
皆は、彼女を待たなかった。
そして本当の異変が起きたときには。
彼女を一人で行かせなかった。
その二つを胸に抱きながら、アリシアは講堂へ向かった。




