第91話 私が動けない朝に、みんなは私を待たなかった
合同訓練の朝、学院の空は低い雲に覆われていた。
雨はまだ降っていない。それでも湿り気を含んだ風が校舎の間を抜けるたび、窓枠が小さく鳴り、石造りの廊下には普段より冷たい空気が溜まっていた。
東棟へ続く渡り廊下の向こうでは、教師たちが朝早くから動いている。
訓練用の立入禁止札を運ぶ者。連絡用の鐘を確認する者。各教室へ配る役割表を抱え、階段を急いで上がっていく者。
まだ授業開始前だというのに、学院全体がすでに目を覚ましているようだった。
アリシアは中央棟二階の窓辺に立ち、中庭を横切る生徒たちを見下ろしていた。
制服の上から担当を示す布を巻いている者がいる。
火の担当は赤。
水は青。
風は緑。
土は茶。
光は白。
闇に関する異変の記録と周囲の退避を担う副担当には、黒ではなく灰色の布が配られていた。
黒い布では、遠くから見たときに制服や影と重なって分かりにくい。昨日の話し合いで一年生がそう指摘し、教師たちが夜のうちに灰色の布を用意してくれたらしい。
昨日までなかったものが、今日は学院の中で使われている。
誰かが口にした小さな意見が、実際の形になっている。
それだけのことが、アリシアには少し不思議に思えた。
『昨日の夜も、役割表を読み直していたでしょう』
足元に座るノアが、呆れたように尾を揺らした。
『……少しだけ』
『三度は、少しとは言わないわ』
『寝る前と、夜中に目が覚めたときと、朝』
『よく数えられました』
褒められていないことは分かっている。
アリシアは窓から離れ、胸元へ手を当てた。
制服の下には、黒月を携えるための細い帯が巻かれている。訓練中に実際の力を使う予定はないが、神器継承者は全員、神器を身につけた状態で参加することになっていた。
異変は、訓練だからといって待ってはくれない。
そのための備えだと説明されている。
黒月は静かだった。
鞘に収まったまま、昨日までと変わらない冷たさを帯びている。
けれどアリシアの指先には、わずかな緊張があった。
今日、六人の神器継承者のうち一人が、開始直後から動けない役に選ばれる。
誰になるかは知らされていない。
火の神器継承者かもしれない。
水かもしれない。
風、土、光。
あるいは、自分かもしれない。
『あなたが選ばれると思っているの?』
ノアが尋ねる。
『分からない』
『分からない顔には見えないわね』
『私が選ばれたときのことは、考えておいた方がいいと思って』
『考えるのは結構。でも、あなたは考えるうちに、動けない役なのにどう動くかを考え始めるでしょう』
アリシアは黙った。
昨夜、実際に考えたことだった。
訓練開始と同時に行動不能を告げられた場合、どこまで声を出してよいのか。
その場に座ったまま、周囲へ指示を出すことは許されるのか。
自分が観察した情報を伝えることは、行動に含まれるのか。
黒月に異変を感じた場合だけは、訓練条件を無視してもよいのか。
考えれば考えるほど、動かないための抜け道を探しているような気分になった。
『動けない役なら、動かない』
ノアが言う。
『それだけよ』
『でも、誰かが困ったら』
『困るための訓練でしょう』
『……誰かが間違えたら』
『間違えるための訓練よ』
ノアは立ち上がり、アリシアの靴へ前脚を乗せた。
『本番で初めて間違えるより、今日間違えた方がいい。あなたは昨日、それを理解したはずでしょう』
『うん』
『なら、今日は見なさい』
金色の瞳が、まっすぐアリシアを見上げる。
『あなたがいない場所で、誰が何を選ぶのかを』
アリシアはゆっくりうなずいた。
ちょうどそのとき、廊下の向こうから鐘が鳴った。
一度。
短く、低い音だった。
訓練開始の鐘ではない。
神器継承者と各担当の代表者を、中央棟一階の講堂前へ集める合図だ。
「行こう」
『ええ』
アリシアは黒月の位置を確かめ、教室を出た。
廊下にはすでに多くの生徒がいた。
担当を示す布を腕へ巻きながら歩く者。緊張を隠すためか、普段より大きな声で友人と話している者。何度も役割表を開き、自分が最初にすることを確認している者。
「教室を出る前に人数を数える」
「それから列を作る」
「途中合流は所属章と名前を確認」
「分かってるって」
「昨日、三回も間違えてたでしょう」
「昨日はまだ決まってなかったんだよ」
階段の前では、灰色の布を巻いた一年生たちが、互いの記録板を見せ合っていた。
「音、光、場所、時間」
「近くにいた人も」
「異変があったら近づかない」
「でも、本当に困っている人がいたら?」
「そのときは土か水の担当を呼ぶ。自分たちだけで行かない」
昨日、アリシアへ案を持ってきた少女も、その輪の中にいた。
彼女はアリシアに気づくと、一瞬だけ表情を固くした。しかしすぐに小さく頭を下げ、そのまま仲間との確認を続けた。
アリシアも足を止めず、軽く頭を下げ返す。
以前なら、声をかけてもらえなかったことを少し寂しく感じたかもしれない。
けれど今日は違った。
彼女には、今話すべき相手がいる。
自分の役割を一緒に担う仲間がいる。
アリシアはその輪を通り過ぎ、講堂前へ向かった。
中央棟一階の広い廊下には、すでに百人近い生徒が集まっていた。
神器継承者たちは正面近くに並び、その後ろに各担当の代表者が立つ。さらに離れた場所には教師たちが配置され、壁際には訓練中の事故へ備える治療担当者も待機していた。
生徒たちの話し声が天井へ反響し、普段の朝よりも空気が落ち着かない。
「東棟までだって」
「本当に全部回るのか?」
「誰が動けなくなると思う?」
「やっぱりアリシアさんじゃないか」
「でも闇が動けないと、異変の確認ができないだろ」
「だから試すんじゃない?」
自分の名前が聞こえ、アリシアは無意識に肩へ力を入れた。
隣に立っていた火の神器継承者が、それに気づいたらしい。
「気にするな」
正面を向いたまま、小さな声で言う。
「誰が選ばれても、昨日決めた通りにやればいい」
「うん」
「まあ、俺が選ばれたら、訓練終了まで黙っていられる自信はないけどな」
彼の向こう側で、水の神器継承者が眉を寄せた。
「それは訓練条件を守る気がないという意味ですか?」
「違う。黙った方が周りに心配されるって意味だ」
「普段から少し黙る練習をした方がよいのでは?」
「朝から厳しいな」
短いやり取りに、近くの生徒たちから小さな笑いが起きた。
張りつめていた空気が、わずかに緩む。
アリシアも口元を緩めたところで、講堂の扉が開いた。
学院長が姿を現す。
その後ろには副学院長と、訓練を監督する数人の教師が続いていた。
学院長は廊下へ並ぶ生徒たちを見渡し、話し声が静まるのを待った。
「本日の合同訓練について説明する」
低く、よく通る声だった。
「想定は、学院内で原因不明の魔力障害が発生し、北棟、中央棟、東棟の一部が使用不能となった状況だ。伝声具を含む、一部の魔道具は使用できないものとする」
生徒たちの間に、小さなざわめきが広がる。
昨日の変更では、東棟が追加されることと、神器継承者の一人が動けなくなることしか伝えられていなかった。
伝声具の使用制限は、新しい条件だ。
風の担当者たちが一斉に顔を見合わせる。
学院長は反応を確かめながら、さらに続けた。
「異変発生後、各教室は担当者の指示に従い避難を開始する。教師は、必要最低限の安全確保のみ行う。手順上の判断には、原則として介入しない」
つまり、教師が正解を教えることはない。
生徒たち自身が、昨日までに決めた方法で動かなければならない。
「また、訓練中には予告していない変更が加わる場合がある」
今度は、はっきりとした動揺が起きた。
「まだあるのか?」
「聞いてないぞ」
「予告していないんだから、聞いているはずがないでしょう」
「そういう意味じゃない」
学院長は静かに片手を上げた。
ざわめきが少しずつ収まっていく。
「異変は、事前に決めた通りには進まない。変更へ対応することも訓練の一部だ。ただし、危険を感じた場合、訓練の続行が不可能と判断した場合は、赤い札を掲げよ。その時点で担当教師が介入する」
各代表者へ、赤い札が配られた。
アリシアの手元にも一枚渡される。
硬い紙で作られた、手のひらほどの札だった。
本当に困ったときには、これを上げる。
それは失敗の印ではない。
危険を止めるための判断だと、昨日の話し合いでも確認されている。
それでもアリシアは、できれば使わずに終えたいと思ってしまった。
『その顔』
ノアの声が響く。
『赤い札を使わないことを目標にしたでしょう』
『……少しだけ』
『目的を間違えないように』
学院長が側にいた教師から、六枚の封筒を受け取った。
封筒はすべて同じ大きさで、表には神器継承者の名前が書かれている。
廊下の空気が、一瞬で変わった。
誰が動けない役になるのか。
六人の視線が、学院長の手元へ集まる。
「各自、自分の名前が書かれた封筒を受け取れ。中には訓練開始後の指示が記されている。開封は、二度目の鐘が鳴ってからだ」
神器継承者たちが一人ずつ前へ出る。
アリシアも自分の封筒を受け取った。
紙一枚しか入っていないらしく、とても軽い。
外から触れても、内容は分からない。
「各担当者は配置につけ」
学院長の指示とともに、生徒たちが動き始めた。
神器継承者は、それぞれ担当区域へ分かれる。
火は中央棟一階。
水は治療担当とともに中庭側。
風は棟をつなぐ渡り廊下。
土は北棟と中央棟の避難路。
光は講堂前に残り、教師との調整を担う。
アリシアは東棟二階へ向かうことになっていた。
東棟は学院の中でも古い建物で、魔術実習室や資料保管室が多い。廊下が狭く、階段も一か所しかないため、避難時には混乱が起きやすい場所だった。
闇に関わる異変の想定地点も、東棟のどこかに設定されているらしい。
アリシアが東棟へ到着すると、各教室ではすでに担当者たちが準備を始めていた。
灰色の布を巻いた生徒が、廊下の柱ごとに立っている。
土の副担当者は階段前の障害物を確認し、人数確認係は教室ごとの名簿を持って移動していた。
「アリシアさん」
昨日の一年生の少女が、小走りで近づいてくる。
「東棟二階の人数確認を担当します。最初の人数は、訓練開始前に各教室で確認する予定です」
「はい」
「途中で列が分かれた場合は、合流先と元の教室の両方に記録を残します」
「お願いします」
アリシアはそれ以上、細かな手順を尋ねなかった。
自分が聞けば、少女は一つずつ答えてくれるだろう。
けれど、その確認はすでに仲間たちと済ませているはずだ。
少女は少し驚いたようだったが、やがて自分から付け加えた。
「昨日より東棟の人数が多かったので、記録係を一人増やしました」
「自分たちで決めたんですか?」
「はい。教室の先生にも伝えてあります」
「分かりました」
アリシアは小さくうなずいた。
「困ったときは、最初に同じ担当の人へ相談してください。それでも難しいときは、ほかの担当へ」
「はい」
少女はしっかりと返事をし、教室へ戻っていく。
アリシアは廊下の中央に立った。
窓の外では、雲がさらに厚くなっている。
風が強まり、校舎の古い窓ガラスが細かく震えた。
まだ二度目の鐘は鳴らない。
生徒たちはそれぞれの場所で待っている。
教室の中には、訓練へ参加する一般生徒たちが座っていた。説明を受けているとはいえ、顔には緊張が浮かんでいる。
「本当に魔力障害の音を鳴らすらしいよ」
「急に床が光ったりするのかな」
「訓練なんだから、そこまでしないだろ」
「去年、火災訓練で煙を出したじゃない」
「あれで三人泣いてたよな」
「言うなよ。今から怖くなるだろ」
笑い声が起きる。
しかし、その笑いは少し硬かった。
アリシアは封筒を両手で持った。
紙の角が手のひらへ当たる。
もし自分が動けない役でなければ、予定通り東棟の異変を確認し、必要に応じて各担当へ情報を渡す。
動けない役なら。
何もしない。
見ている。
それだけだ。
分かっているのに、心臓が速くなる。
『呼吸』
ノアに言われ、アリシアは息を吸った。
湿った空気が喉を通る。
ゆっくり吐く。
廊下の奥で、教師が時計を確認した。
そして。
二度目の鐘が鳴った。
一度目より長く、鋭い音だった。
東棟全体へ響き渡り、窓ガラスが音に合わせて震える。
「開封してください!」
担当教師の声が飛ぶ。
アリシアは封筒の端へ指をかけた。
紙を破る音が、廊下のあちこちで重なる。
中から一枚の白い紙を取り出す。
短い文章が中央に書かれていた。
――訓練開始後、あなたは魔力過剰使用による意識混濁状態となる。
――その場から移動してはならない。
――ほかの参加者への指示、助言、質問への回答を禁ずる。
――ただし、現実の危険を認めた場合は訓練を中断せよ。
アリシアは、しばらく紙を見つめた。
自分だった。
動けない役に選ばれたのは、闇の神器継承者であるアリシアだった。
予想していた。
それでも実際に文字を見ると、胸の中へ重いものが落ちた。
移動してはならない。
指示も、助言もできない。
質問へ答えることすら許されていない。
『読み終えた?』
ノアが尋ねる。
アリシアは声を出さず、うなずいた。
訓練条件が始まっている。
紙には、意識混濁状態と書かれていた。
完全に意識を失う必要はないらしいが、積極的に周囲と関わってはいけない。
担当教師が近づいてくる。
アリシアは紙を差し出した。
教師は内容を確認すると、険しい表情になった。
「アリシアが行動不能役か」
周囲の生徒たちにも聞こえた。
教室の中から、驚きの声が上がる。
「アリシアさんが?」
「闇の異変はどうするんだ?」
「本当に動けないの?」
教師はアリシアへ椅子を用意した。
「ここへ座ってくれ。訓練中は、現実の危険がない限り、この場所から動かないように」
アリシアは椅子へ座った。
場所は東棟二階、階段から少し離れた廊下の壁際だった。
周囲の様子はよく見える。
だからこそ、動けないことが苦しくなる場所でもある。
ノアが椅子の下へ潜り込んだ。
『私は話してもよいのかしら』
紙には神獣への指示は書かれていない。
けれどノアが答えを教えてしまえば、アリシアが助言するのと変わらない。
アリシアは足先で、ノアの前脚へそっと触れた。
『分かったわよ』
不満そうな声だった。
『私も見ていればいいのでしょう』
その直後。
三度目の鐘が鳴った。
訓練開始の合図だった。
同時に、東棟の照明が一斉に消える。
「きゃっ!」
教室の中から悲鳴が上がった。
完全な暗闇ではない。
窓から曇天の光が入っているため、廊下や人の輪郭は見える。
しかし急な変化に、何人もの生徒が椅子を動かし、机へぶつかった。
その音が重なり、最初の混乱が生まれる。
「全員、その場で待ってください!」
教室の入口にいた担当者が声を上げた。
「立たないで! 人数を確認します!」
昨日の一年生の少女だった。
声は震えている。
それでも、教室の奥まで届いた。
「窓側から名前を呼びます。返事をしてください!」
彼女は記録係へ合図を送り、名簿を開いた。
アリシアは椅子に座ったまま、その姿を見つめる。
一人目。
二人目。
三人目。
名前が呼ばれ、生徒たちが返事をする。
途中で二人の声が重なり、記録係が迷った。
「今、誰が返事をした?」
「私です」
「私も」
「待ってください。もう一度、一人ずつお願いします」
時間がかかっている。
その間にも、別の教室では避難を始めようとする声が聞こえた。
「廊下へ出ていいのか?」
「まだ待てって」
「でも鐘が鳴ったぞ」
「人数を数えてからだろ」
アリシアは口を開きそうになった。
東棟二階は、階段が一つしかない。
複数の教室が同時に廊下へ出れば、必ず詰まる。
最初の教室が人数確認を終えるまで、ほかの教室は待つべきだ。
昨日の役割表にも、その順番は書かれている。
教えなければ。
そう思った瞬間、アリシアは膝の上で手を強く握った。
指示は禁止されている。
自分が言ってはいけない。
教室の入口に立つ担当者も、混乱していた。
役割表を開き、暗い廊下で文字を読もうとしている。
「先に西側の教室からです!」
別の生徒が声を上げた。
灰色の布を巻いた記録担当者だった。
「昨日、階段に近い教室から順に出すと決めました!」
「西側じゃなくて、南側じゃなかった?」
「東棟では西側です!」
「あ、そうか!」
担当者が役割表を見直し、すぐに廊下へ向かって叫んだ。
「階段に近い第二実習室から避難を始めます! ほかの教室は待ってください!」
声が通る。
教室から出かけていた生徒たちが、動きを止めた。
アリシアは握っていた手を、少しだけ緩めた。
自分が言わなくても、誰かが思い出した。
誰かが間違いを直した。
訓練は止まらなかった。
最初の教室から、生徒たちが列を作って出てくる。
土の副担当が階段前に立ち、二列になりかけた生徒たちを一列へ戻していく。
「走らないでください」
「前の人との間を空けすぎないで」
「手すり側を歩いてください」
最初は順調に見えた。
しかし、列の中央で一人の男子生徒が立ち止まった。
「鞄を忘れた」
振り返ろうとする。
後ろの生徒がぶつかり、列が大きく揺れた。
「戻るな!」
土の副担当が強い声を出す。
男子生徒は驚き、顔を強張らせた。
「でも、役割表が入ってるんだよ」
「今は戻れません」
「担当なのに、持ってないと困る」
「それでも戻れません!」
副担当の声がさらに強くなる。
周囲の生徒たちが不安そうに二人を見る。
列が止まった。
後ろの教室では、次の避難準備が終わっている。
このままでは廊下が詰まる。
アリシアは椅子から立ち上がりそうになり、足へ力を込めた。
けれど、動かなかった。
男子生徒が唇を噛む。
「じゃあ、俺はどうすればいいんだよ」
その問いに、副担当は答えられなかった。
戻してはいけない。
しかし役割表がなければ、男子生徒は自分の担当を確認できない。
昨日は想定していなかった問題だった。
短い沈黙が落ちる。
すると、列の後ろから女子生徒が声を上げた。
「私の役割表を一緒に見ればいいよ」
男子生徒が振り返る。
「同じ担当なのか?」
「違うけど、最初に何をするかは全部書いてある。階段を下りてから確認しよう」
彼女は自分の胸元に挟んでいた紙を見せた。
「今は列を止めない方がいい」
男子生徒は迷ったあと、小さくうなずいた。
「……分かった」
列が再び動き始める。
土の副担当は安堵したように息を吐いた。
しかし、自分の強い言い方を気にしているのか、男子生徒の背中へ何度も視線を向けていた。
アリシアはその様子も、黙って見ていた。
正しいことを言っていても、言い方によって相手を追い詰めることがある。
けれど今は、そこへ助言を入れる場面ではない。
訓練が終わったあと、本人たちが何を感じたのかを聞けばよい。
今は進むことが優先だった。
東棟一階から鐘が二度鳴った。
風の担当者が決めた、連絡用の合図だ。
一度なら避難開始。
二度なら経路変更。
三度なら負傷者発生。
伝声具が使えない想定のため、鐘と色旗を組み合わせることになっている。
「経路変更です!」
廊下にいた風の副担当が叫ぶ。
「東棟正面玄関が使用不能。中庭側の通用口へ変更します!」
生徒たちの間に動揺が走る。
「階段を下りたら右じゃなかったの?」
「左へ変更だ!」
「どっちだよ!」
「中庭側は左です!」
列の先頭と後方で、違う指示が飛ぶ。
階段を下り始めた生徒たちが、途中で足を止めた。
アリシアの胸が締めつけられる。
今のままでは危険だ。
訓練とはいえ、階段の途中で列が詰まれば転倒する可能性がある。
赤い札を上げるべきか。
現実の危険があると判断すれば、訓練を中断してよい。
アリシアは札へ手を伸ばした。
そのとき。
「階段では止まらないでください!」
昨日の一年生の少女が、廊下から身を乗り出すようにして声を上げた。
「一階まで下りてから向きを変えます! 階段の中では前へ進んでください!」
すぐに土の副担当も続く。
「先頭は一階まで下りろ! 右には曲がらず、その場で待て!」
階段の列が再び動く。
危険な詰まりは解消された。
アリシアは赤い札から手を離した。
使うことをためらってはいけない。
けれど今は、彼らが自分で止めた。
訓練を中断する必要はない。
『今、上げようとしたわね』
ノアが足元で囁く。
アリシアはわずかにうなずいた。
『判断は間違っていないわ』
ノアの声は静かだった。
『でも、上げなくても済んだ』
その違いを、アリシアは胸の中で確かめた。
赤い札を使わなかったことが正しいのではない。
使う準備をしながら、周囲が動くのを一瞬だけ待てたこと。
危険が続けば、迷わず上げる。
けれど自分だけが危険へ気づいていると決めつけず、ほかの者の声を聞いた。
その一瞬が、昨日までのアリシアとは違っていた。
東棟二階の避難は、少しずつ進んでいく。
最初の教室が空になり、次の教室が動き始めた。
人数確認係は、名簿へ印をつけながら廊下を移動する。
途中合流した生徒の所属章を確かめ、元の教室へ記録を送るため、灰色の布を巻いた者が走らずに早足で往復していた。
完璧ではない。
何度も聞き返す。
名前を書き間違える。
同じ生徒を二回数え、数字が合わなくなる。
それでも、そのたびに誰かが立ち止まり、紙を並べて確認する。
「第二実習室が一人多い」
「資料室の列から合流した人がいる」
「名前は?」
「ルードです」
「資料室側にも記録がある?」
「まだない」
「じゃあ、向こうへ伝えて」
昨日考えた方法が、実際に使われている。
不完全なままでも、役に立っている。
アリシアはそれを見ていた。
助言できないことは、苦しかった。
誰かが迷うたび、答えを言いたくなる。
遠回りをしていると分かるたび、もっと早い方法を教えたくなる。
けれど、その遠回りの中でしか見つからないものもあった。
役割表を忘れた者へ、紙を見せる者。
強い言い方をしたあと、相手の背中を気にする者。
間違った人数を、一緒に確認し直す者。
それらは、アリシアが正解を与えるだけでは生まれなかったかもしれない。
やがて、東棟二階に残る生徒は半分ほどになった。
訓練は混乱しながらも、前へ進んでいる。
そのときだった。
廊下の一番奥。
旧資料室の扉の下から、黒い靄のようなものが流れ出した。
最初に気づいたのは、灰色の布を巻いた男子生徒だった。
「待ってください」
彼が足を止める。
「何か、出ています」
周囲の視線が旧資料室へ向く。
訓練で使用する異変の演出だろう。
闇の異変を想定し、教師が用意した魔力煙かもしれない。
黒い靄は床を這い、廊下へゆっくり広がっていく。
「異変記録!」
灰色の担当者たちが動く。
一人が記録板を開き、もう一人が周囲の生徒を後ろへ下がらせる。
「近づかないでください!」
「旧資料室前、黒い煙状の魔力反応!」
「発生時刻は?」
「鐘が鳴ってから、およそ七分!」
「音は?」
「ありません!」
昨日決めた通りだった。
異変の内容。
場所。
時間。
音や光。
近くにいた者。
彼らは黒月の代わりに異変を止めようとはしない。
ただ記録し、周囲を遠ざける。
アリシアは椅子に座ったまま、その黒い靄を見つめた。
胸元の黒月が、わずかに震えた。
ほんの小さな振動だった。
けれど、アリシアには分かる。
訓練用に作られた魔力煙へ、黒月が反応することはない。
これは違う。
演出ではない。
アリシアの背中に、冷たいものが走った。
旧資料室の奥から流れてくる黒い靄には、闇の魔力が混じっている。
しかも、黒月と近い。
同じではない。
けれど、遠く離れた何かが、黒月の影を真似ているような不自然さがあった。
『アリシア』
ノアの声が低くなる。
『これは訓練ではないわ』
アリシアはすぐに立ち上がった。
訓練条件では、移動も指示も禁止されている。
しかし紙には、現実の危険を認めた場合は中断せよと書かれていた。
迷う必要はない。
アリシアは赤い札を高く掲げた。
「訓練を中断してください!」
声が廊下へ響く。
周囲の生徒たちが一斉に振り返った。
アリシアは黒月を鞘ごと押さえ、旧資料室を見据える。
「これは、訓練の異変ではありません」
担当教師の表情が変わる。
「全員、旧資料室から離れろ!」
教師の声が飛ぶ。
灰色の担当者たちは驚きながらも、すぐに生徒たちを後退させた。
「階段側へ!」
「走らないで!」
「人数確認を続けます!」
混乱の中でも、昨日決めた声が上がる。
アリシアが立ち上がったことで、周囲は彼女の指示を待つかもしれない。
けれど生徒たちは止まらなかった。
土の副担当が避難路を作り、人数確認係が残った生徒を数え、灰色の担当者が異変の記録を続けている。
教師も鐘を三度鳴らし、現実の危険を知らせた。
誰も、アリシアが最初の言葉を出すまで待ってはいなかった。
すでに自分の役割で動いていた。
それを確かめたあと、アリシアは黒月を抜いた。
鞘から現れた黒い刀身が、曇天の光を飲み込む。
旧資料室の扉の下から流れ出る靄が、黒月へ引かれるようにわずかに揺れた。
『近いわ』
ノアがアリシアの隣へ立つ。
『あの神殿で感じたものに』
隠れ里の神殿。
長い間忘れられていた闇の神器。
そして、六つの神器を一つの意志へまとめようとしていた中央の声。
あの場所で感じた、冷たく押しつけるような気配。
黒い靄の奥に、それと似たものがある。
アリシアは扉へ近づこうとした。
すると後ろから、強い声が飛んだ。
「アリシアさん、一人で行かないでください!」
昨日の一年生の少女だった。
彼女は記録板を抱え、少し離れた場所に立っている。
怖いはずだった。
顔は青ざめ、足も震えている。
それでも、声を引っ込めなかった。
「闇の神器の力は代われません。でも、記録と退避は私たちの役割です」
隣にいた男子生徒も続く。
「周囲の安全は確保します。だから、状況を教えてください」
アリシアは黒月を握ったまま、二人を見つめた。
自分一人で扉を開け、異変を止めるつもりだった。
ほかの者は近づけられない。
闇の力へ触れさせるわけにはいかない。
そう思った。
けれど、彼らは同じことをしようとしているのではない。
黒月の代わりになろうとしているのでもない。
自分たちにできる役割を持ったまま、アリシアと同じ場所に立とうとしている。
「旧資料室の中に、闇の魔力があります」
アリシアは答えた。
「訓練用のものではありません。黒月に似ていますが、同じ力ではありません」
少女がすぐに記録する。
「危険の範囲は分かりますか?」
「まだ分かりません」
「音や光は?」
「今はありません。でも、黒月が反応しています」
男子生徒が廊下の奥を確認した。
「窓側の教室は避難済みです。二階に残っているのは担当者と教師だけです」
土の副担当が階段から戻ってくる。
「二階の一般生徒は全員、一階へ下りました。人数確認中です」
風の副担当も鐘のそばから叫ぶ。
「中央棟へ現実の異変発生を伝えました! 応援が来ます!」
一つずつ、情報が集まる。
アリシアはその声を聞きながら、旧資料室の扉を見つめた。
自分がすべてを確認しなくても、必要な情報が届いている。
誰かが避難を進め、誰かが人数を数え、誰かが連絡し、誰かが記録する。
アリシアが担うのは、黒月で異変を見極めることだけだった。
「扉を開けます」
アリシアが言う。
担当教師が前へ出ようとしたが、アリシアは首を横に振った。
「先生は、ここにいてください。何かあったら、扉を閉めてください」
「しかし」
「中の力は、黒月に反応しています」
教師は唇を結んだ。
やがて一歩下がり、赤い札を手にした。
「分かった。ただし危険だと判断したら、すぐに戻れ」
「はい」
アリシアは扉の前へ立つ。
黒い靄が靴の先へ触れた。
冷たい。
ただの煙ではない。
触れた場所から、足の感覚を奪おうとするような冷たさだった。
黒月の刀身が、低く震える。
『向こうに何かいるわ』
ノアの声が響く。
『生き物?』
『分からない。でも、待っている』
誰かを。
何かを。
あるいは、黒月を。
アリシアは扉の取っ手へ手を伸ばした。
その直前、背後から少女の声が聞こえる。
「アリシアさん」
アリシアは振り返らなかった。
「戻ってきたら、何があったか教えてください」
命令でも、懇願でもなかった。
自分たちが記録を続けるための、役割としての言葉だった。
アリシアは小さくうなずく。
「必ず」
そして、旧資料室の扉を開いた。
中は暗かった。
窓には厚い幕が下ろされ、棚と棚の間へ黒い靄が溜まっている。
部屋の中央。
本来なら何も置かれていないはずの床に、小さな黒い箱があった。
古びた木箱だった。
表面には、六つの円が刻まれている。
火。
水。
風。
土。
光。
そして、闇。
六つの円のうち、闇を示す円だけが淡く光っていた。
アリシアが一歩入る。
背後で扉が軋む。
黒い箱の内側から、かすかな音が聞こえた。
声ではない。
けれど、何かが言葉になろうとしている。
途切れた音が、何度も同じ形を繰り返していた。
アリシアは息を止め、耳を澄ませる。
やがて、その音が一つの言葉へ変わった。
「――戻れ」
低く、掠れた声だった。
黒月が大きく震える。
部屋の外で、ノアが鋭く叫んだ。
『アリシア、箱から離れなさい!』
しかし黒い箱の闇の円から、細い影が伸びていた。
それは床を這い、アリシアの足元へ届く。
黒月の刀身へ触れた瞬間。
旧資料室の床一面に、六つの円が浮かび上がった。
訓練の鐘が止まった学院の中で。
今度は誰にも鳴らされていない鐘の音が、地の底から響いた。




