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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第90話 声を分けた先で、私は誰かの一歩を待つ



 会議が終わったあとも、教室の中には人の気配が残り続けていた。


 窓の外では、傾き始めた陽が校舎の白い壁を薄い橙色に染めている。授業を終えた生徒たちが中庭を横切り、部活動へ向かう声や、寮へ戻る者たちの足音が、開けた窓から途切れながら流れ込んでいた。


 けれど、この部屋だけは、その賑やかさから少し取り残されているように感じられた。


 長机の上には、話し合いで使った紙が何枚も広がっている。学院内の避難経路、教師への連絡手順、神器の継承者たちが受け持つ区画、それから一般の生徒たちに協力を頼むための役割表。


 少し前まで、その紙の中心には、ほとんどすべてアリシアの名前が書かれていた。


 全体への説明。


 異変発生時の判断。


 神器継承者への指示。


 教師との確認。


 不安を抱えた生徒への対応。


 誰かが意図的に押しつけたわけではない。アリシア自身が、必要だと思ったものを一つずつ拾っていった結果だった。


 自分がやらなければならない。


 自分が最初に動かなければ、みんなが困ってしまう。


 そう思うたび、空白になっていた欄へ自分の名前を書き足した。


 けれど先ほどの話し合いで、その名前の多くは消された。


 正確には、消したのではない。


 別の誰かの名前へと、置き換えたのだ。


 火の神器を継ぐ者には、混乱した生徒たちを集め、迷わず歩かせる役目を。


 水の神器を継ぐ者には、怪我人と体調を崩した者の確認を。


 風の神器を継ぐ者には、校舎間の連絡と情報収集を。


 土の神器を継ぐ者には、避難路の確保と危険な場所の封鎖を。


 光の神器を継ぐ者には、教師や学院側との調整を。


 そしてアリシアは、六つの神器すべてに関わる異変が起きたときだけ、全体を見渡す位置に立つ。


 それが新しく決めた形だった。


 紙の上に並んだ役割を見つめていると、胸の奥がわずかに落ち着かなくなる。


 自分の名前が減ったことへの寂しさではない。


 楽になったという安心だけでもなかった。


 これで、本当に大丈夫なのだろうか。


 誰かに任せた場所で間違いが起きたら、どうするのか。


 その間違いに、自分が気づけなかったら。


 アリシアは手元の紙の端を指先で押さえた。強く握りそうになり、紙に皺をつける直前で力を抜く。


『その顔では、仕事を減らした人間ではなく、仕事を隠された人間に見えるわね』


 机の隅に座っていたノアが、尾をゆっくり揺らした。


 黒い毛並みは夕日を受けても明るくならず、その輪郭だけが柔らかな金色に縁取られている。周囲にほかの生徒が残っているため、ノアの声はアリシアの頭の中にだけ届いていた。


『任せたのが、まだ不安?』


『……少しだけ』


『少し、ね』


 ノアの金色の瞳が細くなる。


『あなたの少しは、普通の人間のかなりよ』


 否定できず、アリシアは目を伏せた。


 会議が終わったのに、まだ数人の生徒たちが部屋の中に残っている。役割表を見直している者。隣同士で担当する場所について相談している者。自分に本当にできるだろうかと、不安そうに何度も紙を読み返している者。


 以前なら、アリシアはその全員に声をかけていただろう。


 分からないところはありませんか。


 不安なことがあったら、私に言ってください。


 必要なら、一緒に確認します。


 その言葉を口にする準備は、もうできていた。


 喉の奥まで上がってきた声を、アリシアは飲み込む。


 今、声をかけることが悪いわけではない。


 けれど、自分が何もかも先に聞いてしまえば、彼らはまたアリシアに答えを求めるようになる。


 それでは、役割を分けた意味がない。


 分けたのは仕事だけではなかった。


 考える時間も。


 迷う時間も。


 誰かに相談する権利も。


 そして、自分で一歩を選ぶ機会も、渡したはずだった。


 アリシアは椅子に座ったまま、じっと待った。


 誰かのために待つという行為が、こんなにも難しいとは思わなかった。


 困っている姿が見える。


 不安そうな表情も分かる。


 それでも、すぐには手を伸ばさない。


 見放したいのではない。


 むしろ助けたいからこそ、最初の一歩を奪ってはいけない。


 頭では理解しているのに、身体は何度も立ち上がろうとした。


『座っていなさい』


 ノアの声が響く。


『……まだ、何もしてない』


『立とうとしたでしょう』


『少し、姿勢を直しただけ』


『では、その姿勢のまま五十数えてみなさい』


『五十……?』


『人間は、五十も数えている間に、本当に困っているなら自分から口を開くものよ』


 ずいぶん乱暴な方法に聞こえたが、今のアリシアには必要かもしれなかった。


 アリシアは膝の上で指を重ね、心の中で一から数え始める。


 一。


 二。


 三。


 部屋の奥では、二人の男子生徒が避難路の紙を挟んで相談していた。


「西階段を使えなくする場合、北棟の生徒までこっちへ流したら詰まるよな」


「でも、中庭を通すと雨の日は危なくないか?」


「雨だけならまだいいけど、魔力障害が起きているときに外へ出していいか分からない」


 二人は互いの顔を見たあと、同じように困った表情を浮かべた。


 アリシアの視線に気づけば、きっと助けを求める。


 そう思い、慌てて紙へ目を落とした。


 四。


 五。


 六。


 隣の机では、一年生らしい女子生徒が、役割表と自分の名札を見比べていた。彼女に割り当てられた役割は、避難する生徒の人数確認だった。


 責任の重さを感じているのか、唇を結び、何度も小さく息を吐いている。


 七。


 八。


 九。


 その女子生徒が立ち上がった。


 アリシアの心臓が跳ねる。


 こちらへ来ると思った。


 けれど、彼女が向かったのはアリシアの席ではなかった。


 少し離れたところで、ほかの生徒と役割を確認していた上級生のもとへ歩いていく。


「あの、すみません」


 声は小さかった。


 教室全体へ届くような声ではなく、気を抜けば周囲の物音に紛れてしまう程度だった。


 それでも、確かに自分から出した声だった。


「人数を数える係について、聞いてもいいですか?」


 上級生が顔を上げる。


「もちろん。どこが分かりにくかった?」


「避難を始めたあとで、別の教室から途中で合流した人がいた場合です。最初の人数と合わなくなると思うんですけど……」


「ああ、それは確かに決めてなかったな」


 上級生は役割表を引き寄せ、空いている欄へ何かを書き込んだ。


「最初の人数だけじゃなく、途中で加わった人数を別に記録しよう。最後に合わせればいい」


「でも、それだと同じ人を二回数えるかもしれません」


「なら、各教室で色の違う紐を配るのはどうだ? 腕か鞄に結んでもらえば、どの教室から来たか分かる」


「紐は……急なときに用意できないかもしれません」


「そうだな」


 二人は黙った。


 けれど、その沈黙は行き止まりではなかった。


 どうすればいいかを考えるための沈黙だった。


 アリシアは、数えるのを忘れてその様子を見つめていた。


『今、いくつ?』


 ノアに問われ、アリシアは瞬きをする。


『……分からなくなった』


『でしょうね』


『でも……』


『ええ』


 ノアは尾の先を机に打ちつけた。


『あなたが口を挟まなくても、会話は始まった』


 その事実が、胸の中へ静かに染み込んでくる。


 自分がいなければ何も進まないわけではなかった。


 アリシアが答えを渡さなくても、彼らは自分で問題を見つけ、自分で言葉にし、自分たちなりの方法を探そうとしている。


 まだ完璧ではない。


 答えにもたどり着いていない。


 それでも、立ち止まってはいなかった。


 先ほどまで不安そうだった一年生の少女は、今では自分から紙を指さし、別の案を口にしている。


「教室ごとに番号を決めるのはどうでしょう。合流した人には、最初にどこの教室にいたかを言ってもらって……」


「混乱していると、言えない人もいるかもしれないな」


「では、制服の襟につける所属章を確認するとか」


「あ、それなら新しく何かを配る必要はない」


 会話を聞いていた別の生徒も近づいてきた。


「ただ、避難するときに一人ずつ襟を見るのは遅くない?」


「入口で全員を見るんじゃなくて、列の中で二人一組になって確認するのは?」


「それなら歩きながらできるか」


 いつの間にか、二人の相談は五人の相談になっていた。


 誰も大声を出していない。


 誰も中央に立って指示していない。


 それでも考えは少しずつ重なり、最初にはなかった形へ変わっていく。


 アリシアは膝の上で組んでいた手を、ゆっくりほどいた。


 自分の胸にあった不安が消えたわけではない。


 誰かに任せることが、急に簡単になったわけでもなかった。


 ただ、今まで見えていなかったものが、少し見えた気がした。


 アリシアがすべてを抱えていたとき、周囲の人たちは待っていた。


 彼女が何を決めるのか。


 どこへ向かうのか。


 何を言うのか。


 待つことが悪いのではない。大きな異変の前では、迷わないための中心が必要になる。


 けれど中心がいつも答えを出してしまえば、ほかの場所にある声は、出番を失ってしまう。


 アリシアが声を止めたからこそ、今、別の声が生まれている。


「アリシアさん」


 突然名前を呼ばれ、肩が跳ねた。


 相談を続けていた一年生の女子生徒が、数枚の紙を抱えて立っていた。先ほどより緊張は薄れていたものの、アリシアを前にすると再び背筋が固くなっている。


「は、はい」


 立ち上がろうとして、ノアの視線に気づく。


 相手が来たのだから、今度は立ってもいいはずだ。


 そう判断し、アリシアはゆっくり席を立った。


「どうしましたか?」


「人数確認の方法を、少し変えてみました」


 少女は紙を差し出した。


「教室ごとに避難を始めた人数を記録します。それから、途中で別の列に合流した人がいた場合は、その人の所属章を確認して、元の教室と合流先の両方へ記録を残します」


「両方に……」


「はい。最後に同じ名前を消していけば、数が合うと思います。ただ、時間がかかるかもしれなくて」


 少女の声が少しずつ小さくなる。


「それに、混乱していたら、名前をきちんと聞けない人もいると思います。だから、まだ完全ではありません」


 アリシアは受け取った紙へ視線を落とした。


 文字は丁寧だった。


 途中で書き直した跡がいくつもあり、余白には別の生徒が加えたと思われる意見も残っている。


 最初から整った案ではなかったことが分かる。


 迷いながら、話しながら、何度も直した紙だった。


「完全でなくても、大丈夫だと思います」


 アリシアが答えると、少女は驚いたように目を見開いた。


「でも、避難する人を数え間違えたら……」


「だから、二つの方法を重ねているんですよね」


 人数を数える。


 所属章を確認する。


 名前を記録する。


 一つがうまくいかなかったとき、別の方法で確かめられるように考えられている。


「最初から、絶対に間違えない方法を作るのは難しいです。私も……たくさん間違えます」


 口にしてから、少し恥ずかしくなる。


 神器に選ばれた者が、堂々と間違えると言ってよいのだろうか。


 けれど少女は笑わなかった。


 むしろ、緊張していた肩がわずかに下がった。


「アリシアさんも、間違えるんですか?」


「……はい」


『しょっちゅうね』


 ノアの声が頭に響いたが、聞こえないふりをする。


「誰にも相談せず、一人で考えすぎたり……困っている人を助けようとして、その人が自分で考える時間まで奪いそうになったりします」


 少女の視線が、一瞬だけ教室の奥へ向いた。


 そこには先ほど一緒に案を考えていた生徒たちがいる。彼らもこちらを気にしながら、遠巻きに話を聞いていた。


「私、最初は……」


 少女が紙を胸元へ引き寄せる。


「アリシアさんに聞けば、正しいやり方を教えてもらえると思っていました」


「はい」


「でも、先輩に聞いたら、一緒に考えてくれました。途中からほかの人も来てくれて……一人では思いつかなかったことが、いくつも出ました」


 少女の頬に、少しだけ誇らしそうな色が浮かぶ。


「だから、この案を、私たちの担当の方法として試してみてもいいですか?」


 許可を求める言葉だった。


 けれど以前とは違う。


 正解を教えてほしいのではない。


 自分たちで考えた一歩を、踏み出してよいかと尋ねている。


 アリシアはすぐに答えそうになり、ほんの少しだけ間を置いた。


 相手の顔を見る。


 不安はある。


 けれど、その奥には確かな意志があった。


「はい。お願いします」


 少女の表情が明るくなる。


「ただし、一度試したあとで、困ったところを教えてください。うまくいったことも、うまくいかなかったことも、どちらも知りたいです」


「はい!」


 先ほどまでの小さな声より、ずっとはっきりしていた。


 少女は頭を下げ、仲間たちのところへ戻っていく。


 待っていた生徒たちがすぐに彼女を囲んだ。


「どうだった?」


「試していいって」


「本当に?」


「一度やってみて、困ったところをあとで教えてほしいって」


「じゃあ、明日の訓練で使えるように書式を作ろう」


「先生にも見てもらった方がいいよな」


「それは光の担当へ相談すればいいんじゃない?」


 新しい会話が始まる。


 その中に、アリシアの名前はほとんど出てこなかった。


 なのに不思議と、取り残された気持ちにはならなかった。


『少しは理解した?』


 ノアが尋ねる。


『……何を?』


『自分が中心から退くことと、必要とされなくなることは、同じではないということよ』


 アリシアは答えず、教室の中を見渡した。


 避難経路について悩んでいた男子生徒たちは、土の担当者を呼び止めている。


 窓際では、連絡手順を確認していた生徒が風の担当者へ質問をしていた。


 これまでなら、質問の多くはアリシアへ集まっていた。


 そのたびに人が集まり、彼女の周囲には小さな輪ができた。


 けれど今は、教室のあちこちに輪がある。


 一つの大きな中心ではなく、いくつもの小さな中心。


 そこで生まれた言葉が、別の場所へ運ばれ、また新しい考えへ変わっていく。


 それは六つの神器にも、少し似ている気がした。


 強い一つの力が、すべてを守るのではない。


 火には火の役目があり、水には水の役目がある。風も、土も、光も、闇も、それぞれが違う場所で力を発揮する。


 どれか一つが欠ければ、守れないものが生まれる。


 闇の神器である黒月が、長い間忘れられていたように。


 誰かの声が中央から遠いというだけで、その声に価値がないわけではない。


 聞かれなかっただけかもしれない。


 出す機会を与えられなかっただけかもしれない。


 そして自分もまた、以前は声を出せなかった側にいた。


 人前へ立てなかった。


 名前を呼ばれるだけで身体が固まり、周囲の視線が集まると何を話せばよいか分からなくなった。


 そんな自分が、いつからか中央に立つようになった。


 周囲に求められ、必要とされ、役割を任された。


 嬉しかった。


 怖さよりも、その期待に応えたい気持ちが勝つことも増えた。


 けれど、自分がようやく声を出せるようになったからといって、ほかの人の声まで代わりに出してよいわけではない。


 アリシアはそこに気づくまで、ずいぶん時間がかかってしまった。


『難しい顔をしているわね』


『考えてた』


『あなたが考え込むときは、たいてい自分の失敗を必要以上に大きく育てているときよ』


『今回は、違う』


『では、何を考えていたの?』


 アリシアは少し迷ってから答えた。


『前の私は、誰かが話してくれるのを待っていた』


『そうね』


『でも今は、私が待たないといけないんだと思う』


 誰かの言葉を急かさずに。


 迷っている沈黙を失敗だと決めつけずに。


 助けを求められるより前に、すべてを奪わないように。


 必要なときには支える。


 けれど、最初から抱え上げてしまわない。


『成長したものね』


 ノアの声は、いつものように少し意地悪そうだった。


 けれど響きは柔らかかった。


『ついこの間まで、挨拶一つするのに黒月の柄を握り締めていた子が』


『今も、少し握りたいときはある』


『握ればいいでしょう。黒月は逃げないわ』


『ノアも?』


 問いかけたあとで、アリシアは自分が何を聞いたのか分からなくなった。


 ノアの尾が止まる。


『私も、逃げないかと聞いているの?』


『……うん』


『あなたが勝手に全員の役目を背負い、倒れるまで眠らず、私の忠告を三度続けて無視するようなら、少し離れた場所から眺めることはあるでしょうね』


『逃げるんじゃない?』


『監視位置を変えるだけよ』


 それは逃げないという意味なのだろう。


 アリシアの口元が、わずかに緩んだ。


 そのとき、教室の扉が開いた。


 廊下から入ってきたのは、学院の教員だった。年齢はまだ若く、腕には何枚もの資料を抱えている。室内に残る生徒たちの数を見て、一瞬だけ驚いた表情を浮かべた。


「まだこんなに残っていたのか」


 教師の声に、生徒たちが一斉に振り返る。


 その反応を受け、教師は少し申し訳なさそうに声を落とした。


「すまない。急かすつもりではない。ただ、明日の合同訓練について変更が出た」


 教室の空気が変わる。


 話し声が止まり、椅子を引く音も途切れた。


 明日行われる予定の合同訓練は、神器継承者と一般生徒が初めて同じ手順で動く試みだった。


 これまでも避難訓練は行われていた。


 けれど神器の暴走や、魔力による校舎封鎖を想定した大規模なものは、まだ一度も実施されていない。


 今日まで話し合ってきた役割を、実際に試す最初の機会でもある。


「変更とは、どのようなものですか?」


 光の担当者が尋ねた。


 以前なら、アリシアが最初に聞いていたかもしれない。


 しかし今は、任された者が自分から立っている。


 教師は資料の一枚を机へ置いた。


「訓練開始時刻を早める。それから、対象となる区画が増えた。北棟と中央棟だけの予定だったが、学院長の判断で東棟も含めることになった」


 室内のあちこちから、小さなどよめきが上がる。


「東棟まで?」


「聞いてないぞ」


「人数が倍近くならないか?」


「それだけじゃない」


 教師の表情がわずかに強張った。


「明日の訓練では、神器継承者のうち一人が、開始直後から動けないという想定が追加された」


 今度のざわめきは、先ほどより大きかった。


「一人が動けない?」


「誰がですか?」


「当日まで知らせない」


 教師の答えに、生徒たちが顔を見合わせる。


「実際の異変では、全員が揃っているとは限らない。誰かが負傷している可能性もあれば、別の場所へ向かっている可能性もある。学院長は、中心となる者が欠けても動ける仕組みになっているか確認したいそうだ」


 その言葉とともに、何人もの視線がアリシアへ向いた。


 アリシアの胸が小さく縮む。


 中心となる者。


 多くの生徒にとって、それは今もアリシアを意味している。


 教師も一度こちらを見たあと、言葉を続けた。


「誰が欠けるかは、私も知らされていない。六人のうち、誰にでも可能性があるそうだ」


 教室の空気に、緊張が広がっていく。


 せっかく役割を分けたばかりだった。


 それぞれの担当は決まった。


 けれど一人が欠ければ、その者の役割を誰かが補わなければならない。


 火がいなければ、誰が人々をまとめるのか。


 水がいなければ、怪我人をどうするのか。


 風がいなければ、連絡は。


 土がいなければ、避難路は。


 光がいなければ、教師との調整は。


 そして闇がいなければ、神器に関する異変を誰が見極めるのか。


 誰かが欠けるというだけで、今作った形が大きく揺らぐ。


 生徒たちの不安が、アリシアへ集まってくるのが分かった。


 どうすればよいのか。


 何を変えればよいのか。


 決めてほしい。


 以前と同じ期待が、無言のまま向けられている。


 アリシアの口が開きかけた。


 明日の訓練まで時間はない。


 全員を集め直して、役割を組み替えるべきかもしれない。


 欠けた場合の手順を、自分が考えて伝えた方が早い。


 頭の中では、すでにいくつもの案が浮かび始めていた。


 けれど、アリシアはすぐには話さなかった。


 自分へ向けられた視線を受け止めながら、教室の中をゆっくり見渡す。


 先ほど、自分たちで人数確認の方法を考えた一年生。


 避難経路について土の担当者と話していた生徒。


 連絡手順を風の担当者へ確認していた者。


 全員が不安そうだった。


 けれど、彼らはもう、何も考えられない人たちではない。


 アリシアが声を出さなければ、立ち尽くすだけの人たちでもない。


 少し長い沈黙が落ちた。


 誰かが咳払いをする。


 教師も何か言おうとしたが、その前に、一人の男子生徒が手を上げた。


「あの」


 視線が彼へ集まる。


 男子生徒はそれだけで少したじろいだが、手を下ろさなかった。


「今の役割を、二人ずつ覚えるのはどうでしょう」


 隣にいた生徒が首を傾げる。


「二人ずつ?」


「自分の役割だけじゃなくて、もう一つ別の役割も確認しておくんです。担当している神器継承者が動けない場合は、その役割を覚えた人たちが代わりに動く」


「でも、急に二つも覚えられるか?」


「全部を同じようにできなくても、最初に何をするかだけなら」


 男子生徒は机の上の役割表へ近づき、指で欄を示した。


「火の担当が動けない場合は、土の担当が生徒を集める。土の担当は避難路の確保がありますけど、最初の誘導だけ別の生徒に頼めばいい」


「それなら、神器継承者同士だけで補わなくてもいいんじゃない?」


 先ほどの一年生の少女が声を上げた。


「一般の生徒にも、副担当を決めておけば」


「副担当……」


「私たちが人数確認を担当するなら、怪我人の確認方法も少し覚えておくとか」


「水の担当がいないときに備えるのか」


「はい」


 また一つ、声が生まれた。


「風の担当がいなかったら、鐘や旗を使う方法も決めておくべきじゃないか?」


「魔力が乱れて、伝声具が使えない可能性もあるしな」


「東棟まで範囲が広がるなら、中継役も増やした方がいい」


「待って。全部を今から増やすと、かえって混乱する」


「じゃあ、優先する役割を決めよう」


「誰が欠けても絶対に必要なのは、避難路と人数確認だと思う」


「怪我人の対応も必要だよ」


「教師への連絡も」


 声が重なり始める。


 さきほどまでの静かな相談とは違い、焦りが混じっていた。


 誰かの発言に別の者がかぶせ、次々に案が出る。


 考えが生まれていること自体は悪くない。


 けれど、このままでは、それぞれが別の方向へ走り出してしまう。


 アリシアは息を吸った。


 今度は、声を出さないためではない。


 声を奪わずに、流れを整えるためだった。


「一度、分けましょう」


 大きな声ではなかった。


 それでも教室の中へ、まっすぐ届いた。


 生徒たちの会話が止まる。


 アリシアは前へ出たが、役割表の中央には立たなかった。


 机の横に立ち、紙の空いている部分を指さす。


「誰かが欠けた場合に、絶対に止めてはいけない役割を考える人。役割を代わる方法を考える人。それから、明日までに覚えられる量を確認する人。この三つに分かれてください」


 誰もすぐには動かなかった。


 アリシアは続ける。


「私が全部を決めるより、実際に役割を担当する人が考えた方がいいと思います。私は……六つの神器に関わるところを確認します」


 以前なら、最後に「困ったことがあれば、すべて私に」と加えていただろう。


 けれど今回は違った。


「それぞれの組で決まらないことがあったら、ほかの組へ聞いてください。それでも決まらないときは、六人で確認します」


 私に聞いてください、ではない。


 六人で確認する。


 その言葉を口にすると、胸の奥に残っていた力が、少しだけ抜けた。


 教師がアリシアを見た。


 驚いているようでもあり、どこか納得したようでもあった。


「では、私は明日の訓練条件を詳しく説明する。条件の確認が必要な者は、こちらへ来てくれ」


 教師もまた、自然に一つの役割を引き受けた。


 教室の中で椅子が動く。


 生徒たちが、今伝えられた三つの組へ分かれ始める。


 誰が指名したわけでもない。


 自分が必要だと思う場所へ、自分で歩いていく。


 先ほどの男子生徒は、役割を代わる方法を考える組へ向かった。


 一年生の少女は、明日までに覚えられる量を確認する組へ入った。


 避難経路を考えていた二人は、止めてはいけない役割を考える机へ紙を持っていく。


 再び話し声が広がる。


 今度は先ほどより整理されていた。


「最優先は、人を危険な場所から離すことだ」


「でも出口が塞がっていたら動かせない」


「なら避難路の確認が最初」


「人数確認は移動後でもできる。ただし、各教室を出る前の人数は必要」


「怪我人は歩ける人と歩けない人で分けるべきじゃないか?」


「副担当は一人では足りない。最低でも二人」


「全部の手順を覚えるんじゃなくて、最初の三つだけ決めよう」


 アリシアはその様子を見ながら、黒月の柄へそっと手を置いた。


 不安が完全になくなったわけではない。


 明日の訓練が成功する保証もない。


 急な変更に対応できず、混乱するかもしれない。


 自分が欠ける役に選ばれたら、みんながどう動くのか分からない。


 逆に、ほかの神器継承者が欠ければ、アリシアはまたすべてを抱えようとするかもしれない。


 それでも、先ほどまでとは違う。


 失敗しない形を一人で作ろうとは思わなかった。


 失敗したとき、誰かと直せる形を作ろうと思えた。


『五十、数える必要はなさそうね』


 ノアが机から飛び降り、アリシアの足元へ歩いてくる。


『うん』


『ただし、黙っていればよいというわけでもないわよ』


『分かってる』


『本当に?』


『たぶん』


『そこは自信を持ちなさい』


 アリシアは小さく笑った。


 役割を奪わないために、何も言わない。


 それだけでは、きっと正しくない。


 必要なときに声を出し、進む方向を整えることも役割の一つだ。


 大切なのは、自分の声だけで部屋を満たさないこと。


 誰かが声を出すための隙間を残すこと。


 そして生まれた声を、聞こえなかったことにしないこと。


 アリシアは教室の奥へ目を向ける。


 先ほどまで不安で紙を握り締めていた少女が、今はほかの生徒たちへ説明している。


「全部覚えようとすると間に合いません。だから、最初にすることだけ、三つに絞りませんか?」


「三つなら、明日の朝にも確認できるな」


「紙にして、各教室の入口へ貼るのは?」


「訓練が始まる前に見られてしまうけど」


「今回は覚えるための訓練なんだから、見えていてもいいと思います」


 その声は、まだ少し震えていた。


 けれど途切れてはいなかった。


 誰かがうなずき、別の者が紙へ書き留める。


 アリシアはその光景を見守った。


 かつての自分なら、あの輪の中へ入るまでに、長い時間が必要だっただろう。


 最初の一言を口にするだけで、何度も息を整えなければならなかった。


 だからこそ分かる。


 小さな声は、弱い声ではない。


 出すまでに必要だった勇気を、周囲が知らないだけだ。


 その声が生まれる前に、代わりに答えてしまってはいけない。


 アリシアは待った。


 ただ見ているのではなく、いつでも支えられる距離で。


 すると教室の隅から、また別の声が上がった。


「あの、闇の神器が動けない場合は、どうするんですか?」


 話し声が静まる。


 質問した生徒は、遠慮がちにアリシアを見ていた。


 ほかの神器が担っている役割は、ある程度ほかの者にも想像できる。


 けれど闇の神器、黒月の力は、まだ分からない部分が多い。


 魔力の歪みを感じ取り、ほかの神器では触れられないものへ干渉する。


 それをアリシア以外の誰かが、すぐに代われるとは思えなかった。


 室内の視線が、再び一か所へ集まる。


 今度は、逃げたくならなかった。


 アリシアは黒月の柄から手を離し、質問した生徒へ身体を向ける。


「闇の神器の力そのものは、ほかの人には代われません」


 静かな声で告げる。


「だから、私が動けないときは、無理に同じことをしないでください」


 何人かが戸惑った表情を浮かべる。


「では、神器に関わる異変が起きたら……」


「近づかないで、記録してください」


「記録?」


「何が起きたか。どこで起きたか。どんな音や光があったか。誰が近くにいたか。分かることを残してください」


 アリシアは少し考え、言葉を続ける。


「私がすぐに戻れなくても、あとでその記録を見れば、何が起きたのか考えられます。先生や、ほかの神器継承者が分かることもあると思います」


「止めなくてもいいんですか?」


「止めようとして、傷つく方が危険です」


 これは、以前のアリシアなら言えなかった言葉だった。


 誰かが傷つく可能性があるなら、自分が何とかしなければならない。


 そう考え続けてきたからこそ、目の前の危険を止めないという判断には、強い抵抗があった。


 けれど、できないことを無理に代わろうとすれば、被害は増える。


 役割を分けるとは、誰でも何でもできるようにすることではない。


 できないことを知り、そこで別の役割を選べるようにすることでもある。


「分かりました」


 質問した生徒がうなずく。


「では、闇の神器の副担当は、異変の記録と周囲を近づけないことにします」


「はい。お願いします」


 誰かが役割表へ書き加える。


 闇の神器。


 副担当。


 異変の記録。


 周囲の退避。


 アリシアはその文字を見つめた。


 黒月の代わりになる者はいない。


 けれど、アリシアがいない場所でも、できることはある。


 自分が欠けた瞬間、すべてが止まるわけではない。


 それは少し寂しく、同時に、とても心強いことだった。


 窓の外では、日がさらに傾いていた。


 中庭を歩く生徒の姿も少なくなり、遠くから聞こえる部活動の声が、夕暮れの空気へ溶けている。


 教室の中では、まだ誰も帰ろうとしなかった。


 明日の訓練へ向け、紙を並べ、言葉を交わし、何度も役割を書き直している。


 その中央に、一人だけ立つ者はいない。


 教室のあちこちに人がいて、それぞれの場所から声が上がっている。


 アリシアも、その中の一人だった。


 すべての声をまとめるために立つのではなく、必要な場所で、自分の声を差し出す一人。


『ねえ、アリシア』


 ノアが足元から見上げる。


『明日、あなたが動けない役に選ばれたらどうする?』


 アリシアはすぐには答えなかった。


 明日の訓練で、自分が最初から外される。


 そう考えると、不安はある。


 自分の見えないところで黒月に関わる異変が起きるかもしれない。


 誰かが迷うかもしれない。


 助けを求める声に、応えられないかもしれない。


 それでも教室を見渡すと、胸の中に先ほどとは違う答えが生まれた。


『待つ』


『何を?』


『みんなが、どう動くのか』


『手を出せなくても?』


『うん』


『口を出せなくても?』


 アリシアは少し迷った。


『……それは、たぶん苦しい』


『正直でよろしい』


『でも、待つ』


 そして訓練が終わったあと、うまくいかなかったことを一緒に考える。


 できたことを見つける。


 自分がいないときに生まれた声を、きちんと聞く。


 それもまた、アリシアにしかできない役割かもしれなかった。


 ノアはしばらく何も言わなかった。


 やがて、黒い尾をアリシアの足首へ軽く触れさせる。


『では明日は、あなたが我慢できるかを見る訓練にもなりそうね』


『学院の訓練より、難しいかもしれない』


『間違いなく難しいでしょう』


『そこは、大丈夫って言ってほしかった』


『大丈夫よ』


 思いがけず、ノアがすぐに答えた。


 アリシアが目を見開くと、黒猫は何でもないように顔を背ける。


『あなた一人で待つわけではないもの』


 足首に触れていた尾が、もう一度だけ動いた。


 アリシアは小さく息を吐き、教室の中へ戻っていく。


 誰かが困っている。


 けれど、すぐには答えを渡さない。


 まず、何に困っているのかを聞く。


 そして自分だけで考えず、その場にいる者たちへ問いかける。


 その繰り返しの中で、役割表には新しい文字が増え続けた。


 副担当。


 代替手順。


 連絡方法。


 記録係。


 そして最後に、紙の一番下へ小さな一文が書き加えられた。


 ――誰か一人が欠けても、残った者たちで最初の一歩を選ぶこと。


 その言葉を書いたのは、アリシアではなかった。


 誰が最初に口にしたのかも分からない。


 いくつもの会話が重なるうち、自然に生まれた言葉だった。


 アリシアはそれを消さなかった。


 直すことも、別の表現へ変えることもしなかった。


 ただ、そこにある言葉を何度も読み返した。


 明日。


 六人のうち、誰か一人が最初から動けなくなる。


 それが誰なのかは分からない。


 そして学院長が用意している変更が、本当にそれだけなのかも分からなかった。


 けれど、今は少しだけ思える。


 誰かが欠けた場所は、ただの空白ではない。


 残された者が考え、声を出し、新しい役割を生み出す場所になる。


 ならば自分が欠けることを、恐れるだけではなくてもよい。


 教室の窓から、最後の夕日が差し込む。


 何枚もの紙の上を光が渡り、異なる筆跡で書かれた名前や言葉を照らしていた。


 その中で、アリシアの名前だけが特別に大きく書かれているわけではない。


 ほかの誰かの名前と同じ大きさで、同じ一つの欄に収まっている。


 アリシアはそれを見つめ、静かに笑った。


 中央の声を止めても、役割が消えるわけではない。


 声を分けた先には、今まで聞こえなかった誰かの一歩がある。


 そして、その一歩が生まれるまで待つこともまた。


 きっと、守るということなのだ。

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