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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第100話 名前を残す者が狙われても、記録まで一人に背負わせない



 中央治療棟の封印室に、警報鐘が鳴り響いた。


 夕方の鐘ではない。


 火災でもない。


 水の神器を収めた水晶瓶に異常が起きたときだけ鳴らされる、短く鋭い三連音だった。


 廊下を歩いていた治療教師たちが一斉に足を止め、次の瞬間には決められた持ち場へ走り出す。病室の扉が閉じられ、待機していた警備隊員が封印室へ通じる通路を塞ぎ、魔力測定を担当する教師たちは壁際の保管棚から器具を引き出した。


 西側貯水槽から戻ったばかりのアリシアたちは、まだ中央棟へ報告に向かう途中だった。


 地下の湿った空気が衣服へ残り、靴の裏には泥と水が付着している。十分に休む時間もなく、調査記録の整理を始めようとしていたところで警報を聞いた。


「封印室です!」


 廊下の向こうから教師が叫ぶ。


「水晶瓶に文字が出ました!」


 セレナの顔色が変わる。


 カイルが先に走り出しかけた。


 しかし二歩進んだところで止まり、後ろを振り返る。


「セレナ、走れるか」


「はい」


「無理なら言え」


「今は大丈夫です」


「アリシア」


「行ける」


「ミレイは?」


 呼ばれたミレイは、裂けた記録帳と三十一人分の名前を書き留めた濡れた紙を胸元へ抱えていた。


「行きます」


 その返事はいつもより硬かった。


 アリシアは一瞬だけ、ミレイの手を見る。


 濡れた紙を持つ指先が白くなるほど力が入っている。


 西側貯水槽で、器はミレイの名を呼んだ。


 記録帳へ糸を伸ばし、その中身を読み取ろうとした。


 水の中へ浮かんだ五百人近い名前のうち、三十一人を人の手へ戻した直後。


 今度は、水晶瓶へミレイの名前が現れた。


 偶然とは思えなかった。


 封印室へ続く廊下は、すでに二重の結界で閉じられていた。


 学院長と副学院長も別の通路から到着し、警備責任者へ短く指示を出している。風の神器継承者は通信盤の前へ座り、土の神器継承者は建物全体の魔力振動を確認していた。


「内部の変化は」


 学院長が尋ねる。


「水位、魔力量ともに上昇なし」


 測定担当の教師が答える。


「ただし、文字が消えません」


「内容を」


 教師は一度ミレイを見た。


 その視線だけで、何が書かれているのか分かる。


 それでも学院長は急かさず、本人が聞く準備をするのを待った。


「読み上げてください」


 ミレイが自分から言う。


 教師は小さくうなずいた。


「現在の名は、記録された」


 廊下の空気が重くなる。


「過去の名は、記録する者が持つ」


 ミレイの腕に力が入った。


 濡れた紙が胸元でわずかに鳴る。


「第四の声は、名を残す者から奪う」


 そこで教師は言葉を止めた。


 読み上げなくても、最後の文字は結界越しに見えていた。


 水晶瓶の表面。


 水色の光で浮かび上がった、一人の少女の名。


 ミレイ・ファルン。


 神器継承者ではない。


 神獣と契約した者でもない。


 学院長でも、教師でもない。


 記録する役割を担ってきた、ただ一人の生徒の名が、器の次の標的として示されていた。


「ミレイを下がらせろ」


 警備責任者が即座に言う。


「封印室から最も遠い部屋へ移動。記録物はすべて別の者が持て」


 ミレイの表情が強張る。


「待ってください」


「待てない」


「私だけを移動させても意味がありません」


「標的に名指しされた者を、ここへ置いておく方が危険だ」


「それでもです」


 ミレイは記録紙を抱えたまま、一歩も下がらない。


「器は私だけを狙ったのではありません」


「名前が出ている」


「名を残す者、と書かれています」


 警備責任者が口を閉じる。


「私を狙っていることは否定しません。でも、私を遠ざければ終わるという意味ではありません」


 ミレイは周囲を見る。


 ケイン。


 サーラ。


 学院教師。


 各班の記録係。


 授業の出席簿をつける教師。


 治療記録を書く者。


 警備の交代表を残す者。


 学院には、名前を記録する人間が大勢いる。


「器が欲しいのは、私の身体ではないかもしれません」


 ミレイは言う。


「私が持っている記録です」


「だからこそ、記録物を離せと言っている」


「離した先で、別の人が持ちます」


「封印庫へ入れる」


「封印庫の管理者が名前を持ちます」


 言葉を重ねるほど、問題の大きさが見えてくる。


 記録は、誰かが持たなければ残らない。


 紙を隠しても、管理する者がいる。


 写しを作れば、書き写す者がいる。


 すべてを捨てれば、器が望む通り、名前は人の世界から消える。


『厄介ね』


 ノアがアリシアの足元で尾を低くする。


『記録を守ろうとするほど、持つ人間が狙われる』


『じゃあ、どうするの』


『一人に集めないことよ』


 ノアの答えは短かった。


 けれどアリシアの中で、昨日から続いていた考えとつながる。


 一人が動けなくても、周囲が考える。


 一人が覚えきれなくても、全員で名前を読む。


 一人が記録を失っても、もう一度本人へ聞く。


 なら。


 名前を残す役割も、一人へ集めてはいけない。


「ミレイ」


 アリシアが呼ぶ。


「はい」


「その三十一人の名前、全部覚えてる?」


 ミレイは胸元の紙を見る。


「完全には」


「何人くらい?」


「順番どおりなら、十二人です」


 ケインが横から答える。


「俺は八人」


 サーラも続く。


「私は九人です。ただ、二人はケインと重なっています」


 学院長が三人を見る。


「合計は」


 ミレイが頭の中で整理する。


「重複を除けば、二十五人ほどです」


「紙が失われれば、六人は消える?」


「今のままなら」


 ミレイの声が小さくなる。


 自分が書き取った。


 自分が守らなければ。


 そんな責任が顔に現れていた。


「違う」


 アリシアは言う。


 全員がこちらを見る。


 大勢の視線へ喉が狭くなる。


 けれど、今は止まらなかった。


「今から、全員で覚えればいい」


「全員?」


「ここにいる人だけじゃなくて」


 アリシアは周囲を見た。


「学院全体で」


 警備責任者が眉を寄せる。


「名前を公開するのか」


「全部じゃない」


 アリシアは言葉を探す。


「器に見つからないように、隠す必要はある。でも、一人だけが持つから、その人を狙えば全部取れる」


「分けるということですか」


 レオンハルトが尋ねる。


「うん。一人一つでもいい」


 五百人すべてなら難しい。


 だが今、人の手へ戻ったのは三十一人。


 学院には数百人の生徒と教師がいる。


 一人が一つの名を覚えれば。


 紙が破れても。


 一人が忘れても。


 別の誰かが呼べる。


「名前を、保管物ではなく人の記憶へ分散する」


 副学院長が低く呟く。


「ただし、誰がどの名を持つかを記録すれば、その記録が再び狙われる」


「記録しなければいい」


 カイルが言う。


「誰が誰を覚えたかは、本人だけが知ってればいいだろ」


「重複が増えます」


 ミレイが反射的に返す。


「重複して困るか?」


「全員へ行き渡らない可能性があります」


「なら二人ずつ覚えろ」


「人数配分が」


「だから、全部きれいに管理しようとするな」


 カイルの声が少し強くなる。


 ミレイが言葉を止めた。


「管理表を作ったら、その表が狙われる。誰がどの名を持ってるか分からない方が、器も奪いにくい」


「ですが、確認できません」


「確認できなくても呼べる」


「誤記が起きます」


「間違えたら、他の奴が直せばいい」


 ミレイの眉が寄る。


「名前ですよ」


「分かってる」


「間違えてよいものではありません」


「間違えたまま放置するなと言ってる」


 カイルは濡れた紙を見る。


「一人で正しく残そうとして、お前ごと取られる方が困る」


 言い方は乱暴だった。


 けれど、その声には苛立ちだけでなく、はっきりした心配が混ざっていた。


「お前が全部背負う必要はない」


 ミレイは返事をしなかった。


 視線を落とす。


 手の中の紙。


 三十一人。


 西側貯水槽で、一瞬だけ水面へ戻った名前。


 自分が書かなければ消えていた。


 だからこそ、手放すのが怖い。


「ミレイ」


 セレナが呼ぶ。


「はい」


「私の現在の記録を、一人で持つつもりでしたか」


「保管者は複数です」


「そういう意味ではありません」


 セレナは静かに続ける。


「私が何を覚えているか。誰を家族と思っているか。どこへ帰りたいか。昨日、あなたはそれを記録しました」


「はい」


「もし、その冊子が消えたら」


 ミレイの胸が小さく上下する。


「私は、もう一度話します」


「でも」


「話せない状態なら、アリシアが呼びます。カイルも。父と母も」


 セレナは白布の巻かれた手首へ触れた。


「私の現在は、あなたの冊子の中だけにあるのではありません」


 ミレイの目が揺れる。


「あなたの記録は必要です」


「はい」


「でも、あなた一人が私を残しているわけではありません」


 優しい声だった。


 責めるのではない。


 背負わせないための言葉だった。


「記録する人がいなくなってもよいとは思いません」


 セレナは続ける。


「むしろ逆です。あなたが残るために、記録を分けてください」


 廊下へ沈黙が落ちた。


 水晶瓶に浮かぶミレイの名前は消えない。


 まるで返事を待っているようだった。


「第三の器は」


 レオンハルトが瓶を見ながら言う。


「名前を集めるだけでなく、名前がどこへ残されているかも学び始めています」


「人の記憶」


 アリシアが言う。


「紙」


「家族の会話」


「そして記録者」


 ミレイが続ける。


「なら第四の声は」


 学院長が目を細める。


「記録する者を通して、名を奪う」


 第三の器の次に現れるもの。


 まだ第四の器とは書かれていない。


 第四の声。


 器ではなく、声。


 それが何を意味するのかは分からない。


「第四の声って」


 アリシアが尋ねる。


「次の器ですか」


「断定はできない」


 学院長は答える。


「これまでは第一、第二、第三の器と示されていた。今回は声と書かれている」


「器がまだない?」


 カイルが言う。


「あるいは、器を作る前段階」


 副学院長が資料をめくる。


「名前を集める声が、記録者を媒介にして広がる可能性もある」


 ミレイが自分の喉へ手を当てた。


「私の声を使う?」


 誰も否定できなかった。


 西側貯水槽で、器は調査班全員の声を真似した。


 子供。


 女性。


 男性。


 アリシア自身の幼い声まで。


 声を奪い。


 名前を呼ばせ。


 返事をさせる。


 もし第四の声が、ミレイの声を使うなら。


 記録担当として信頼される彼女が名前を確認するだけで、多くの者が応じてしまう。


「ミレイは今から発声を禁止」


 警備責任者が言う。


「筆談へ切り替える」


「それでは」


「安全が確認されるまでだ」


「でも、私が話さなくても」


 ミレイは言いかけて止まる。


 自分の声が本当に自分のものか。


 口に出した瞬間、器に使われるのではないか。


 その恐怖が、初めて明確に表情へ現れた。


「ミレイ」


 アリシアが呼ぶ。


 ミレイは反射的に返事をしようとした。


 だが唇が開く直前、自分で止める。


 声を出していいのか分からない。


 その迷いに、アリシアの胸が痛んだ。


「返事しなくていい」


 アリシアは続ける。


「私を見て」


 ミレイが顔を上げる。


「今の声は、ミレイの声?」


 突然の問いに、周囲が静まる。


 ミレイはゆっくりうなずいた。


「自分で話したいと思ってる?」


 もう一度うなずく。


「なら、話していいと思う」


「危険だ」


 警備責任者が止める。


「器が混ざっている可能性を排除できない」


「だから、確認する」


 アリシアはミレイから目を離さない。


「名前だけじゃなくて、何を言うか」


「それで見分けられる保証はない」


「保証はないです」


 アリシアは正直に答えた。


「でも、声を全部奪ったら、器が何もしなくてもミレイは話せなくなる」


 警備責任者が言葉を止める。


 器の目的が、名を残す者から奪うことなら。


 恐怖を使って本人へ沈黙を選ばせるだけでも、目的の一部は達成される。


 ミレイが記録を読まない。


 名前を呼ばない。


 聞いたことを伝えない。


 そうなれば、記録者としての役割は失われる。


 器は直接声を奪わなくてもよい。


 自分たちが守ろうとして封じればいい。


『ようやく、敵が何を狙うかだけでなく、こちらが何を失うかまで考えるようになったわね』


 ノアが言う。


 アリシアはミレイへ一歩近づいた。


「ミレイ」


 もう一度呼ぶ。


「話したいことがある?」


 ミレイは数秒黙っていた。


 やがて小さく息を吸う。


「あります」


 声が出た。


 いつものミレイの声。


 少し震えている。


 けれど、誰かの真似ではない。


 彼女自身が選んで出した声だった。


 水晶瓶に変化はない。


 黒月も反応しない。


 結界術師たちが測定具を見る。


「異常なし」


「声紋、魔力波形ともに本人のものです」


 警備責任者はすぐには納得しなかったが、発声禁止の命令を繰り返しはしなかった。


「何を話したい」


 学院長が尋ねる。


 ミレイは胸元の紙を見た。


「私が持っている名前を、分けたいです」


 カイルが小さく息を吐く。


「ただし、無作為にはしません」


「やっぱり管理するのか」


「最低限です」


「その最低限をどこへ残す」


「どこにも残しません」


 ミレイの答えに、カイルが少し驚いた顔をした。


「一人ずつ、直接渡します」


「誰へ渡したかは」


「私もすべては覚えません」


 その言葉を口にするのは、ミレイにとって簡単ではなかったはずだ。


 彼女は記録する者だ。


 抜けを嫌い。


 順序を整え。


 同じ出来事でも複数の視点を残し。


 後から誰が読んでも確認できる形にする。


 そのミレイが、自分から完全には把握しないと決めた。


「三十一人の名前を、一つずつ二人以上へ渡します」


「重複と抜けは?」


 副学院長が尋ねる。


「その場でケインとサーラが確認します。ただし、配布後の一覧は作りません」


「三人は全体を知ることになる」


「途中で担当を交代します」


 ミレイは考えながら続ける。


「最初の十人は私。次の十人はケイン。残りはサーラ。自分が担当していない部分の配布先は知りません」


「名前そのものは三人とも知っている」


「今は、できる限り覚えます」


「紙は」


 ミレイは水に濡れた紙を見た。


 手放すことをためらう。


 けれど、やがてアリシアへ差し出した。


「写しを作ったあと、原紙を三分割します」


「破るの?」


「はい」


「本当に?」


 アリシアが確認すると、ミレイは少し苦しそうに笑った。


「嫌です」


 正直な言葉だった。


「書いたものを自分で破るのは、とても嫌です」


「じゃあ」


「でも、嫌だからしないでは、また私が全部持つことになります」


 ミレイは紙から手を離す。


「記録を守るために、記録する人が壊れるのは違います」


 アリシアは受け取った。


 紙はまだ湿っていた。


 三十一人の名。


 水害の日に消えたかもしれない者たち。


 九年間、記録から外れていた者たち。


 その名前を分ける。


 紙を裂くことは、失わせることではない。


 一人に奪われないようにするための選択だった。


「実施場所は講堂を使う」


 学院長が決める。


「ただし全校生徒は集めない。各学年、寮、教職員、警備、治療棟から少人数ずつ選ぶ」


「選ばれた理由を説明しますか」


 副学院長が尋ねる。


「必要な範囲だけ伝える。名前を覚えること。紙へ書かないこと。第三者へむやみに話さないこと。もしその名を水や知らない声から呼ばれた場合は、返事をせず報告すること」


「名前の持ち主については?」


 ミレイが聞く。


「分からないことは分からないまま伝える」


 学院長ははっきり答えた。


「死者かもしれない。生存者かもしれない。記録から消された者かもしれない。器が作った偽名の可能性も、現時点では排除しない」


「それでも覚えるのですか」


「分からないから残す」


 学院長の声は静かだった。


「正しいと分かってからでは遅い名もある」


 準備はすぐに始まった。


 講堂の使用停止。


 入場者の選定。


 結界の確認。


 水分を含む物品の持ち込み禁止。


 飲み水すら外へ置かれ、講堂内には乾燥結界が張られた。


 窓は閉じられたが、風の神器継承者が空気を循環させる。土の神器継承者は床下の水管を一時的に遮断し、講堂全体を地面から切り離すような薄い防壁を作った。


 夕刻。


 選ばれた六十八名が、講堂へ集まった。


 生徒たちは何が始まるのか分からず、不安そうに周囲を見ている。普段の式典と違い、座席は学年順でも身分順でもなかった。


 教師。


 警備隊員。


 治療助手。


 食堂の職員。


 寮の管理担当。


 神器継承者。


 記録役。


 学院の中で異なる役割を持つ者たちが、混ざるように座っていた。


 舞台の上には長机が一つ。


 その上へ、三十一人分の名前が書かれた原紙と、同じ内容を三分割した写しが置かれている。


 ミレイは舞台袖で、その紙を見つめていた。


「緊張してる?」


 アリシアが尋ねる。


「はい」


「声は大丈夫?」


「今のところは」


「怖い?」


「とても」


 ミレイは隠さなかった。


「私が名前を読み上げた瞬間、第四の声が混ざるかもしれません」


「うん」


「私の声で、違う名前を呼ぶかもしれない」


「うん」


「それでも、読みます」


「どうして?」


 分かっていた。


 それでも、本人の言葉を聞きたかった。


「私が怖がって黙れば」


 ミレイは講堂に集まった人々を見る。


「器は、私の声を奪わなくても目的を果たします」


 昨日までのミレイなら、記録者は前へ出るべきではないと考えたかもしれない。


 目立たず。


 事実だけを残し。


 中心には立たない。


 だが今夜、彼女は名前を持っている。


 自分だけで守らず、誰かへ渡すために声を使う。


「もし変な声が混ざったら」


 アリシアは黒月の柄へ手を置く。


「切るよ」


「私の声ごとですか」


「必要なら」


「怖くありませんか」


「怖い」


 アリシアは答える。


「ミレイの声まで傷つけるかもしれないから」


「それでも?」


「一人で切らない」


 後ろを見る。


 レオンハルト。


 カイル。


 セレナ。


 結界術師たち。


 記録を受け取る人々。


「みんなで見てる」


 ミレイはしばらくアリシアを見たあと、静かにうなずいた。


 学院長が舞台へ上がる。


 講堂のざわめきが収まった。


「今から、三十一人の名前を皆へ預ける」


 前置きは短かった。


「この名が誰のものか、我々もすべては確認できていない。九年前、南方沿岸部の記録から失われた者たちである可能性が高い」


 客席に動揺が広がる。


「ただし、紙へ書くことは禁止する。自分へ渡された名を覚え、求められた場合にのみ、学院長、副学院長、または指定された調査員へ伝えること」


 一年生の生徒が隣の教師へ小さく尋ねた。


「忘れたら、どうするんですか」


 学院長はその声を聞き取った。


「忘れたら報告しろ」


 叱らなかった。


「覚えているふりをするな。似た名前を作るな。分からなくなったら、分からないと言え」


「でも、名前が消えます」


「一人が忘れても消えないよう、同じ名を複数人へ渡す」


 講堂の空気が少し変わる。


「君一人が、誰かの存在すべてを背負うのではない」


 その言葉は、客席の生徒だけではなく、舞台袖のミレイへ向けられているようだった。


「名前を持つ者が狙われる可能性がある」


 学院長は危険も隠さなかった。


「水面、夢、知らない声から預かった名を呼ばれても返事をするな。名の持ち主を知っていると語る声が現れても、一人で従うな」


 講堂の後方で、誰かが息を呑む。


「怖い者は、今退室して構わない」


 扉が開かれる。


 誰もすぐには動かなかった。


 数秒後、一人の下級生が立ち上がった。


 顔は青ざめ、手が震えている。


「すみません」


「謝る必要はない」


 学院長が答える。


 下級生は深く頭を下げ、教師に付き添われて外へ出た。


 続いて二人。


 三人。


 最終的に七人が講堂を離れた。


 残った者たちは、その背中を責めるようには見なかった。


 怖いと言えること。


 できない役割を無理に持たないこと。


 それも、ここ数日の間に学院が学んだことだった。


「始める」


 学院長が舞台袖を見る。


 ミレイは一度目を閉じた。


 息を吸う。


 吐く。


 アリシアが隣で呼ぶ。


「ミレイ」


「はい」


 返事をした。


 自分の声だった。


 ミレイは舞台へ出る。


 客席から無数の視線が向けられた。


 以前なら、その視線の中で話すことはなかった。


 記録係は机の端に座り、誰かが話す言葉を書き取る側だった。


 今夜は違う。


「最初の名前を読みます」


 講堂へ声が響く。


 結界は反応しない。


 黒月も静かだ。


「ルエナ・フィル」


 客席の一列目。


 治療助手の女性と、三年生の男子生徒が立ち上がる。


 二人は名前を繰り返した。


「ルエナ・フィル」


「ルエナ・フィル」


「もう一度」


 ミレイが言う。


 二人が同じ名を呼ぶ。


「ルエナ・フィル」


「ルエナ・フィル」


 違う声。


 違う高さ。


 違う間。


 同じ名前が、二人の記憶へ渡される。


 次。


「ガルド・メイス」


 警備隊員と食堂職員。


「ガルド・メイス」


「ガルド・メイス」


「ティナ・ロア」


 下級生と教師。


「ティナ・ロア」


「ティナ・ロア」


 一人ずつ。


 二人ずつ。


 名前が紙から人へ移っていく。


 客席の誰も、名の持ち主を知らない。


 顔も。


 年齢も。


 生死も。


 それでも、音として覚える。


 間違えればミレイが直す。


 一度で覚えられなければ、もう一度聞く。


 遠慮せず質問する。


「最後は、ロアですか。ロワですか」


「ロアです」


「もう一度お願いします」


「ティナ・ロア」


「ティナ・ロア」


 整然とはしていなかった。


 途中で言い間違える者もいた。


 緊張して声が出ない者もいた。


 それでも誰かが笑うことはない。


 正しく残すために、何度でもやり直した。


 九人目。


 十人目。


 ミレイの担当が終わる。


 彼女は紙をケインへ渡した。


 自分が残りの名と配布先を見ないよう、舞台から下がる。


 その瞬間だった。


 講堂の奥。


 誰も座っていない最上段から、声がした。


「ミレイ・ファルン」


 全員が振り返る。


 人はいない。


 乾燥結界も破られていない。


 水分反応もない。


 それでも声だけが、確かに聞こえた。


 ミレイと同じ声だった。


「ミレイ・ファルン」


 もう一度。


 舞台上のミレイが身体を固くする。


「返事をするな!」


 警備責任者が叫ぶ。


 講堂の扉が閉じられ、結界術師たちが防壁を強化する。


 アリシアは黒月を抜いた。


 だが線が見えない。


 水も。


 霧も。


 魔力の糸もない。


 ただ声だけがある。


「名を残す者」


 最上段から響く。


「記録を開け」


 ミレイの足元。


 先ほど舞台へ置かれた三分割の原紙が、ひとりでに震え始めた。


「紙を離せ!」


 ケインが自分の担当分を机へ置く。


 サーラも同じように手を離す。


 だが紙は水に濡れていない。


 黒くもならない。


 文字だけが、少しずつ薄くなっていく。


「名前が消えています!」


 サーラが叫ぶ。


「読んで!」


 ミレイが反射的に声を上げた。


「紙を見るのではなく、覚えた人が呼んでください!」


 最初に名を受け取った治療助手が立ち上がる。


「ルエナ・フィル!」


 三年生の男子生徒も続く。


「ルエナ・フィル!」


 紙の一行目。


 消えかけた文字が戻る。


「ガルド・メイス!」


「ガルド・メイス!」


 二行目も。


「ティナ・ロア!」


「ティナ・ロア!」


 名前を受け取った者たちが次々に声を上げる。


 紙から消されるより先に、人の口から名を呼ぶ。


 文字が薄くなっても、音が残る。


 音を聞いた別の者が覚える。


「黙れ」


 ミレイの声をした何かが命じる。


「記録する者だけが、名を持て」


「違います!」


 ミレイが最上段へ向き直る。


 声を出す。


 恐怖で喉が震えていても、黙らない。


「記録は、私だけのものではありません!」


「お前が書いた」


「皆が話したことを、私が預かっただけです!」


「お前が残した」


「残したのは、私一人ではありません!」


 客席から名前が響き続ける。


 講堂にいる者たちは、自分へ渡された名だけでなく、隣から聞こえた名も繰り返し始めていた。


「ルエナ・フィル!」


「ガルド・メイス!」


「ティナ・ロア!」


 声が重なる。


 順番は崩れた。


 誰がどの名を持っているか、もう完全には分からない。


 だが名前は消えない。


 一人が詰まれば、隣が続ける。


 発音を間違えれば、別の者が直す。


 最上段の声が強くなる。


「名は一つへ集める」


「集めません!」


 ミレイが答える。


「名は、正しく残す」


「正しさも、一人では決めません!」


「記録者は、中央に立つ」


「立ちません!」


 ミレイの声が初めて強く響いた。


「私は、皆の言葉を一つにまとめるために記録しているのではありません!」


 同じ出来事を見ても、記録は一つではなかった。


 鐘の時刻。


 霧が出た順番。


 神器が反応した瞬間。


 視点が違えば、残る事実も違う。


「違う見方を、違うまま残すためです!」


 講堂の空気が震えた。


 最上段に、淡い影が浮かぶ。


 人の姿ではない。


 口だけ。


 水も身体も持たず、空間へ裂け目のように開いた黒い口。


 その周囲へ、無数の文字が流れている。


 名前。


 記録。


 日付。


 会話。


 学院で書かれてきたすべての文が、細い線となって口へ吸い込まれようとしていた。


「第四の声」


 レオンハルトが光の神器を掲げる。


 白い光が口の輪郭を照らす。


「器を持たず、記録を通して現れている」


「切れる?」


 カイルがアリシアへ尋ねる。


「線が多すぎる」


 学院中の記録へつながっている。


 出席簿。


 治療記録。


 警備日誌。


 授業ノート。


 手紙。


 名前が書かれたものすべて。


 一気に切れば、学院から膨大な情報が失われるかもしれない。


「また待つのか」


「違う」


 アリシアは黒月を構える。


「中央だけ切る」


 線の先ではない。


 文字でもない。


 すべてを一つへ吸い込もうとする、口の中心。


『見えているなら迷わない』


 ノアが言う。


『ただし、閉じるだけでは足りないわ』


『どうして?』


『声は、誰かが聞く限り戻ってくる』


 第四の声。


 身体がない。


 器がない。


 記録を読む者。


 名前を呼ぶ者。


 聞く者。


 それらの間へ入り込む。


「ミレイ!」


 アリシアが呼ぶ。


「はい!」


「この声が言ってること、記録する?」


 ミレイは一瞬だけ迷った。


 記録者として。


 敵の言葉も残すべきだと思ったはずだ。


 だが、すぐに答える。


「私一人では書きません!」


「どうする?」


「全員で覚えます!」


 ミレイは客席へ向き直る。


「第四の声は、記録を一つへ集めようとしています!」


 客席の者たちが聞く。


「名前を残す人を中央に置き、そこからすべてを奪おうとしています!」


 教師。


 生徒。


 警備隊員。


 食堂職員。


 それぞれが、自分の言葉で繰り返す。


「一人に集めさせない!」


「記録者だけに持たせない!」


「第四の声は、紙だけではなく、読む者を使う!」


「名前を呼ばれても、一人で返事をしない!」


 同じ内容。


 違う言葉。


 完全に統一されていない。


 だからこそ、第四の声が一つを奪っても、全部は消えない。


 黒い口が大きく開く。


「不完全」


 声が響く。


「異なる記録は、誤り」


「違います!」


 ミレイが叫ぶ。


「違うから、残す意味があります!」


「一つでなければ、真実ではない」


「一つにしたら、消える真実があります!」


 西側貯水槽で見た五百人の名前。


 行政記録にはなかった。


 養父母の記憶には残らなかった。


 セレナの中にも町名はない。


 それでも、失われた人々が存在しなかったことにはならない。


「誰か一人が書かなかったから、存在しなかったことにするのですか!」


 ミレイは胸へ手を当てる。


「私が書けなかった名前も、そこにいました!」


 三十一人しか残せなかった。


 それを悔やんだ。


 自分がもっと速ければ。


 もっと多く覚えられれば。


 そう思っていた。


「私が残せなかったからといって、残りの人たちがいなかったことにはなりません!」


 黒い口の周囲を流れる文字が乱れる。


「記録されぬ名は、ない」


「います!」


「証明できない」


「証明できなくても、探します!」


「名がない」


「呼び方が分からないだけです!」


 セレナがミレイの隣へ立つ。


「水の中の子供も同じです」


 名を知らない。


 正体も分からない。


 器かもしれない。


 被害者かもしれない。


「名前を知らないから、いないことにはしません」


 レオンハルトも前へ出る。


「ルクスが姿を見せなくても、存在しないとは決めませんでした」


 カイルが火の神器を抜く。


「記録にないなら、見つけてから書けばいい」


「あなたは少し簡単に言いすぎです」


 セレナが横から言う。


「今それを言うか?」


「今だからです」


 緊張の中に、ごく小さな笑いが生まれる。


 その笑いすら、新しい記憶になる。


 第四の声が知らなかったもの。


 今この瞬間に生まれた、違い。


「アリシア!」


 ミレイが呼ぶ。


 アリシアは黒月を握る。


「今です!」


 レオンハルトの光が、黒い口の中心を照らす。


 カイルの炎が、周囲の文字線だけを外側へ押し広げる。


 セレナは神器を持っていない。


 それでも講堂の中央で、自分の名前を呼ぶ。


「セレナ・アクレイン」


 客席の者たちが続く。


「ルエナ・フィル」


「ガルド・メイス」


「ティナ・ロア」


 それぞれの名が、人の声へ戻る。


 中央へ集まらない。


 別々の場所から。


 違う声で。


 アリシアは黒月を振るった。


 狙うのは記録ではない。


 声でもない。


 すべてを一つへ吸い込もうとする中心。


 黒い刃が空間を走る。


 音はなかった。


 ただ、講堂の最上段に開いていた口へ、細い線が入る。


「分かれるな」


 第四の声が響く。


「名は一つへ」


「嫌です」


 アリシアは答えた。


「私たちは、別々のままで呼び合う」


 黒い口が裂けた。


 周囲へ漂っていた文字が一斉に講堂内へ散る。


 紙へ戻るもの。


 人の記憶へ入るもの。


 光の粒となって消えるもの。


 アリシアには、どれが何の記録だったのか分からない。


 それでも、中央へ吸い込まれる流れは止まった。


 口の裂け目が閉じていく。


「記録する者は」


 声が掠れる。


「また、中央へ立つ」


「立ちません」


 ミレイが答える。


「必要なときは前へ出ます。でも、皆の上には立ちません」


「名は、お前へ集まる」


「集めません」


「お前が忘れれば、消える」


「忘れても、誰かに聞きます」


「間違う」


「直してもらいます」


「失う」


「もう一度探します」


 ミレイの声は震えていなかった。


「私は、全部を一人で残せません」


 以前なら、口にできなかったかもしれない。


 記録係としての敗北に聞こえたから。


 だが今は違う。


「だから、一人で残しません」


 第四の声が消えた。


 講堂へ静寂が戻る。


 乾燥結界は維持されている。


 水もない。


 黒い口があった最上段には、傷一つ残っていなかった。


 それでも、全員がそこに何かがいたことを覚えている。


「点呼」


 警備責任者が命じる。


 一人ずつ名前を呼ぶ。


 返事が戻る。


 神器継承者。


 教師。


 生徒。


 職員。


 途中で返事が遅れた者が一人いたが、隣の者が肩へ触れ、もう一度呼ぶと答えた。


「全員無事です」


 結界術師が報告する。


「記憶異常の確認を開始します」


 講堂の長机を見る。


 三分割された紙。


 文字は一部薄くなっていた。


 それでも、三十一人の名前は残っている。


「確認します」


 ミレイが言う。


 自分一人では紙を持たなかった。


 ケインとサーラ。


 さらに客席から四人を呼ぶ。


 七人で囲み、一つずつ読み上げる。


「ルエナ・フィル」


 客席から二人が返す。


「覚えています」


「私も」


「ガルド・メイス」


「覚えています」


「覚えています」


 三十一人。


 すべての名前へ、最低二人以上から返事があった。


 一部は予定していなかった者まで覚えている。


 配布表はない。


 誰がどの名を持っているか、完全には分からない。


 けれど、名前は残った。


 確認が終わったあと。


 ミレイは舞台の上で、しばらく動かなかった。


 アリシアが近づく。


「大丈夫?」


「分かりません」


 ミレイは正直に答えた。


「声を出すたびに、また混ざるのではないかと思います」


「うん」


「記録を見るたび、器へ渡しているのではないかとも」


「うん」


「それでも、書きたいです」


「書こう」


「怖くても?」


「一緒に確認する」


「間違えたら?」


「誰かが直す」


「忘れたら?」


「もう一度聞く」


 ミレイは少しだけ笑った。


「先ほどの私の言葉を、そのまま返していますね」


「覚えてたから」


「記録していないのに?」


「うん」


 ミレイの目がわずかに潤む。


 自分の言葉が、紙だけではなく誰かへ残っている。


 それを確かめるように、アリシアを見る。


「アリシアさん」


「なに?」


「これからも、私の名前を呼んでください」


「呼ぶよ」


「記録役ではなく?」


「ミレイって」


 すぐに答える。


「ミレイ・ファルン」


「はい」


 返事が戻る。


 自分の声で。


 その日の夜。


 学院では、全記録方法の見直しが始まった。


 一冊だけの原本を作らない。


 重要な記録は、異なる形式で複数の場所へ残す。


 文字だけでなく、口頭。


 図。


 記号。


 色。


 本人の許可がある場合は、複数人の記憶へ分ける。


 ただし、すべてを同じ内容へ統一しない。


 誰が何を見たか。


 どこが一致しないか。


 違いそのものを残す。


 ミレイ、ケイン、サーラだけではない。


 各学年から新しい記録補助者が選ばれた。


 記録する役割を広げる。


 一人が狙われても、学院の記憶が止まらないように。


 深夜。


 アリシアは寮の窓辺で、今日の出来事を自分なりに書いていた。


 文章は上手くなかった。


 時刻を一つ間違え、ノアに指摘されて書き直す。


『字も少し曲がっているわ』


『読めればいい』


『ミレイが見たら直されるわよ』


『それでいい』


 ノアが顔を上げる。


『珍しいことを言うのね』


『間違えたら、直してもらう』


 アリシアは紙へ続きを書く。


 第四の声は、記録する者を狙った。


 ミレイの声を使った。


 記録を一つへ集めようとした。


 でも、皆で名前を覚えた。


 一人では残さなかった。


 書き終えたところで、黒月が微かに震えた。


 机の上の水差し。


 中の水面へ、小さな波紋が広がる。


 アリシアはすぐに立ち上がった。


 ノアも背を低くする。


 水面へ文字が浮かぶ。


 今までの黒い文字ではない。


 白い。


 震えるような細い線。


「記録する者は、分けた」


 アリシアが読み上げる。


 次の一行。


「第四の声は、まだ器を持たない」


 ノアの金色の瞳が細くなる。


『やはり、前段階ね』


 さらに文字が現れる。


「声は、名前を持たぬ者へ入る」


 アリシアの背中へ冷たいものが走る。


 名前を持たぬ者。


 記録から消えた五百人。


 水の中の子供。


 あるいは。


 誰にも名を呼ばれず、役割だけで扱われてきた者たち。


 最後の一文が水面へ浮かぶ。


「名を残す者を得られぬなら、名を持たぬ者を、記録する者にする」


 水面が静かになる。


 文字は消えた。


 アリシアは紙へ急いで書き留める。


 途中で手が止まった。


 自分一人が持ってはいけない。


 すぐに隣室の扉を叩く。


 寮の仲間を起こす。


 迷惑かもしれない。


 夜中だ。


 それでも、一人へ集めない。


「どうしたの?」


 眠そうな声で扉が開く。


 アリシアは息を整えた。


「覚えてほしい言葉がある」


 相手は驚いた顔をした。


 けれど、すぐに姿勢を正す。


「分かった」


 アリシアは水面へ現れた言葉を伝える。


 一度。


 もう一度。


 相手が自分の言葉で言い直すまで。


 第四の声は、まだ器を持たない。


 名を持たぬ者へ入る。


 名を残す者を得られないなら、名を持たぬ者を記録する者にする。


 その夜。


 同じ言葉は、学院の中で十七人へ分けて残された。


 そして誰にも知られていない西側貯水槽の底。


 無数の名前が沈む暗い水の中で。


 七歳ほどの子供の影が、初めて自分の手を胸へ当てた。


 唇が動く。


 けれど、自分の名前は出てこない。


 代わりに。


 講堂でミレイが読み上げた三十一人の名を、一つずつ繰り返す。


 ルエナ・フィル。


 ガルド・メイス。


 ティナ・ロア。


 誰かの名前を記録するように。


 何度も。


 何度も。


 やがて子供の背後へ、身体を持たない黒い口が開いた。


「記録する者」


 第四の声が囁く。


「お前が、すべての名を持て」


 子供は振り返らなかった。


 ただ、自分にはない名前を一つずつ抱えるように。


 暗い水の底で、三十一人の名を呼び続けていた。

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