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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第101話 名前を持たない子供へ、こちらから役割を押しつけない



 夜明け前の学院は、昼間よりも広く感じられた。


 廊下を歩く者が少ないため、石床を踏む靴音が遠くまで響く。窓の外にはまだ夜の色が残り、東の空だけが薄い青へ変わり始めていた。昨日まで降っていた雨は止んでいるものの、屋根や木々に残った雫が時折落ち、静かな中庭へ小さな音を残している。


 アリシアは自室の机に向かったまま、ほとんど眠っていなかった。


 机の上には、昨夜水差しへ現れた言葉を書き留めた紙がある。


 第四の声は、まだ器を持たない。


 声は、名前を持たぬ者へ入る。


 名を残す者を得られぬなら、名を持たぬ者を記録する者にする。


 その内容は、すでに十七人へ分けて伝えた。


 誰か一人が忘れても。


 紙が失われても。


 器が記録を奪おうとしても。


 完全には消えないように。


 学院長へも夜のうちに報告が届いている。


 それでもアリシアは、自分が書いた紙を何度も見直していた。


 間違いがないか。


 言葉の順番を変えていないか。


 意味を勝手に補っていないか。


『もう四度目よ』


 寝台の上で丸くなっていたノアが、目を閉じたまま言った。


「何が?」


『その紙を最初から読むのが』


「確認してる」


『確認という名前の不安ね』


「違う」


『では、五度目を始めないことね』


 アリシアは紙へ伸ばしていた手を止めた。


 ノアは目を開けない。


 それでも、アリシアが何をしているか全部分かっているようだった。


「ミレイなら、もっと確認すると思う」


『だから何?』


「記録する人は、間違えたらだめだから」


『昨日、何を学んだの?』


 アリシアは答えられなかった。


 ミレイ一人に記録を背負わせない。


 間違えたら、誰かが直す。


 忘れたら、もう一度聞く。


 そう決めたばかりだった。


 それなのに今、自分が一人で正しく残そうとしている。


『紙を十七人へ分けたのに、あなたの不安だけは分けなかったのね』


 ノアがようやく目を開ける。


「起こしたら悪いと思って」


『夜中に十七人を起こしておいて、今さら何を言っているの』


「それは必要だったから」


『今も必要なら、呼びなさい』


 アリシアは少し考えた。


 呼ぶ相手はすぐに浮かんだ。


 けれど、朝になる前に部屋を訪ねるのは迷惑かもしれない。


 相手も昨日は長い一日だった。


 眠れていないかもしれない。


 自分一人で考えられることなら。


『また始まったわね』


「まだ何も言ってない」


『顔に出ているわ』


 ノアは寝台から飛び降り、机の上へ乗った。


 紙を前足で軽く押さえる。


『行くわよ』


「どこへ?」


『水の子のところ』


「セレナ?」


『ほかに誰がいるの』


「まだ早いよ」


『起きているわ』


「どうして分かるの?」


『昨日のあの状態で、朝まで熟睡できると思う?』


 否定できなかった。


 アリシアは紙を折り、上着の内側へしまう。


 黒月を腰へ下げ、音を立てないよう扉を開けた。


 寮の廊下は暗かった。


 夜間灯が一定の間隔でともり、窓から入る青白い光と重なっている。いくつかの部屋からは寝息が聞こえたが、階段の方から誰かが上がってくる足音がした。


 アリシアは反射的に壁際へ寄る。


 現れたのはカイルだった。


 片手に二つの紙袋を持ち、もう片方には湯気の立つ金属杯を持っている。


 二人とも足を止めた。


「何してるんだ」


 同時に言った。


 少し間が空く。


「そっちから答えて」


 アリシアが言う。


「何で俺からだ」


「私が先に聞いたから」


「同時だっただろ」


『朝から面倒ね』


 ノアが呟く。


 カイルには聞こえていないが、顔を見ただけで何か言われたと察したらしい。


「猫は何て言った」


「朝から面倒だって」


「お前ら二人に言われたくない」


「私たちとは言ってない」


「どうせ俺のことだろ」


 やり取りをしている間に、カイルが持つ杯から湯気が細く上がり続けている。


 アリシアは紙袋を見る。


「それ、セレナの?」


「一つはな」


「もう一つは?」


「俺のだ」


「飲み物は?」


「セレナの」


「朝食を持っていくの?」


「昨日、あまり食べてないって治療教師が言ってた」


 カイルは少し気まずそうに視線を逸らす。


「起きてたら渡す。寝てたら置いてくる」


「優しいね」


「普通だ」


「市場の果物も持っていった」


「あれは調査班に頼んだだけだ」


「今日は自分で持ってきた」


「食堂から運んだだけだろ」


 カイルの声が少し大きくなる。


 近くの部屋で寝返りを打つ音がしたため、二人は同時に口を閉じた。


「お前は何しに行くんだ」


 今度はカイルが声を落として尋ねる。


 アリシアは胸元の紙へ触れた。


「昨夜の言葉を、セレナにも伝えようと思って」


「第四の声の?」


「うん」


「一人で?」


「ノアもいる」


『数に入れて当然よ』


 ノアが尾を上げる。


「俺も行く」


「朝食を持っていくから?」


「それもある」


「ほかは?」


 カイルは少し黙った。


「水の中の子供が、名前を持ってないかもしれないって話」


「うん」


「セレナが気にすると思った」


 それ以上は言わなかった。


 助けたいのだろう。


 水の中にいる、七歳ほどの子供を。


 器かもしれない。


 敵かもしれない。


 それでも、セレナと同じように名前を失った存在なら、無関係だと思えない。


 二人と一匹で治療棟へ向かった。


 夜明け前の渡り廊下には冷たい空気が流れていた。中庭の石畳へ薄い霧が広がり、その向こうに見える治療棟の窓には、すでにいくつか明かりがともっている。


 入口の警備教師へ確認すると、セレナは起きていた。


「一時間ほど前から、窓辺にいる」


「体調は?」


 カイルが尋ねる。


「大きな異常はない。ただし、昨夜から水音の幻聴が続いている」


「言葉は?」


「本人は、言葉にはなっていないと報告している」


 アリシアとカイルは顔を見合わせた。


 第四の声が、名前を持たぬ者へ入る。


 西側貯水槽の子供。


 声がまだ言葉になっていない。


 つながっている可能性はある。


 セレナの病室を訪ねると、すぐに返事があった。


 扉を開ける。


 セレナは窓辺の椅子に座っていた。


 薄い上着を羽織り、両手で温かな湯の入った杯を持っている。寝台は使われた形跡があるものの、掛け布はきれいに畳まれていた。


「おはようございます」


 セレナが二人を見る。


「早いですね」


「起きてた」


 カイルが言う。


「見れば分かります」


「だから来た」


「起きているか確かめずに来たのでしょう」


「結果的に起きてた」


「そういうことを言っているのではありません」


 いつもに近い会話だった。


 それでもセレナの顔には疲れが残っている。


「朝食」


 カイルが紙袋を差し出す。


「もう湯は飲んでいます」


「食べ物だ」


「見れば分かります」


「なら受け取れ」


 セレナは紙袋を受け取り、中を確認した。


 小さなパン。


 薄く切った肉。


 酸味のある果物。


 治療棟の食事制限に合わせた内容だった。


「ありがとうございます」


「食えるなら今食え」


「話が先ではないのですか」


「食べながら聞けばいい」


「行儀が悪いです」


「一口も食わない方が身体に悪い」


 セレナは反論しようとしたが、アリシアを見る。


 味方を求めているようだった。


「食べた方がいいと思う」


「アリシアまで」


『珍しく火が正しいわ』


「ノアも、カイルが正しいって」


「珍しくは余計だ」


「そこまで伝えてない」


「顔で分かる」


 セレナは諦めたように小さく息を吐き、パンを一つ手に取った。


「それで、何があったのですか」


 アリシアは昨夜の紙を出す。


 一人で持たないと決めたため、セレナへ直接渡さず、机の上へ広げる。


「水差しに、文字が出た」


 セレナの手が止まる。


「何と?」


 アリシアは一行ずつ読み上げた。


 第四の声は、まだ器を持たない。


 声は、名前を持たぬ者へ入る。


 名を残す者を得られぬなら、名を持たぬ者を記録する者にする。


 セレナは最後まで黙って聞いた。


 パンを持つ指へ少しずつ力が入る。


「名前を持たぬ者」


「水の中の子供だと思う?」


 アリシアが尋ねる。


「可能性は高いと思います」


 セレナは答えた。


「でも、あの子だけとは限りません」


「記録から消えた人たちも?」


「はい」


 九年前。


 南方沿岸部の記録から消えた約五百人。


 水面へ浮かび、また沈んだ無数の名前。


 名前を持っていた。


 けれど今、人の記録から失われている。


 器にとっては、名を持たぬ者と同じ扱いになるのかもしれない。


「第四の声が、あの子に入る」


 カイルが言う。


「入ったらどうなる」


「記録する者になる、と書いてあります」


「五百人の名前を全部持たされる?」


「それだけなら、すでに持っているように見えました」


 水の中の子供は、講堂で読み上げられた三十一人の名を繰り返していた。


 一つずつ。


 自分にはない名を抱えるように。


「持っているのと、記録するのは違うのかもしれない」


 アリシアが言う。


「どう違う」


「器が集めた名前を、あの子の声で呼ばせる」


 セレナの表情が固くなる。


「第四の声は身体を持たない」


「うん」


「だから、あの子の身体と声を使う?」


「たぶん」


 まだ断定はできない。


 けれど昨日、第四の声はミレイの声を使った。


 同じように、水の中の子供へ入り込めば。


 名前を持たない子供自身が、無数の名を呼ぶ者へ変えられる。


 記録者。


 器のための。


「止めなければ」


 セレナが立ち上がる。


 机の上の杯が揺れ、湯が少しこぼれた。


「待て」


 カイルも立つ。


「どこへ行く」


「西側貯水槽です」


「今から一人で?」


「一人では行きません」


「誰が許可した」


「許可を得ます」


「先に食べろ」


「今はそれどころでは」


「それどころだ」


 カイルの声が強くなる。


「昨日、何回倒れかけたと思ってる」


「倒れていません」


「倒れる前に止めてるんだ」


「でも、第四の声が」


「あの子を助けに行って、お前が声を渡したらどうする」


 セレナは言葉を止めた。


 水の神器継承者。


 失われた名を持つ者。


 第三の器と最も強くつながっている者。


 セレナが貯水槽へ近づけば、子供だけではなく、本人も第四の声の器にされる可能性がある。


「私を行かせたくないのですか」


「行くなとは言ってない」


「では」


「準備してから行け」


 カイルは机の上のパンを指す。


「食え。学院長に報告しろ。調査班を組め。役割を決めろ。それから行く」


 以前なら、自分が先に走っていた。


 誰よりも早く現場へ向かい、あとから周囲を呼んでいた。


 今はそのカイルが、準備を求めている。


 セレナもそれに気づいたらしい。


 少しだけ驚いた表情を見せたあと、ゆっくり椅子へ戻った。


「分かりました」


「全部食え」


「量は私が決めます」


「半分」


「三分の一」


「半分」


「アリシア」


 また味方を求められる。


「半分がいいと思う」


「二人とも、急に協力しますね」


『食事に関しては、あなたの信用がないだけでしょう』


 ノアの言葉をそのまま伝えると、セレナは不満そうな顔をしながらも、パンを口へ運んだ。


 食べ終えるまでの間に、アリシアは昨夜どのように言葉を十七人へ分けたか説明した。


 誰に何を伝えたかの一覧は作っていない。


 同じ内容を複数人へ渡した。


 受け取った者は、さらに一人へ伝えている可能性もある。


「完全には追えませんね」


 セレナが言う。


「うん」


「以前の私なら、危険だと思ったでしょう」


「今も?」


「少し思います」


 正直に答える。


「でも、一覧を作れば、その一覧が奪われます」


「ミレイと同じ」


「はい」


 セレナは残った果物を一つ手に取る。


「今までの私は、全部を把握できなければ不安でした」


「今も不安?」


「不安です」


「でも、任せられる?」


 セレナはすぐに答えなかった。


 果物を見つめ。


 それからアリシアとカイルを見る。


「少しずつ」


 その返事で十分だった。


 朝の鐘が鳴る頃、学院長から緊急会議の招集が届いた。


 場所は中央棟一階の作戦室。


 今回は六人の神器継承者だけではない。


 記録担当者。


 治療教師。


 結界術師。


 西側貯水槽へ入った警備隊員。


 さらに、昨夜アリシアから水差しの言葉を伝えられた十七人のうち、連絡可能な者も集められた。


 作戦室には、朝から多くの人がいた。


 制服姿の生徒。


 寝間着の上へ外套だけ羽織った寮生。


 夜勤明けの警備隊員。


 食堂の準備を途中で止めてきた職員。


 全員が同じ言葉を受け取った者たちだ。


「内容を確認する」


 学院長が言う。


「ただし、紙は見ない。覚えている者が、自分の言葉で報告せよ」


 最初に、寮の上級生が立ち上がった。


「第四の声には、まだ身体がないと聞きました」


「器を持たない、です」


 隣の教師が修正する。


「身体がないとは限りません」


「すみません」


「謝る必要はない。違いとして残す」


 学院長が言う。


 ミレイが記録しようとしたが、一人では書かない。


 ケインとサーラ。


 さらに昨夜選ばれた新しい記録補助者二名が、別々の紙へそれぞれ書いている。


 二人目。


「名前を失った人へ、第四の声が入る」


 三人目。


「名を残す者を得られなかった場合、名のない者を記録役にする」


 四人目は少し違った。


「名前を持たない者へ、記録する声を入れる、と聞きました」


「声を入れる?」


 副学院長が尋ねる。


「はい。そういう意味だと思って覚えました」


「元の言葉と、解釈を分けてください」


 ミレイが言う。


「元の言葉は?」


「正確には覚えていません」


 以前なら、記録として役に立たないと判断されたかもしれない。


 だが今は違う。


「解釈として残します」


 ミレイはうなずいた。


「第四の声が、名を持たぬ者を媒介にするという理解」


 十七人から報告を集める。


 細かな違いがあった。


 器を持たない。


 身体を持たない。


 まだ形がない。


 名前を持たぬ者へ入る。


 名前を失った者を使う。


 記録者にする。


 名を呼ばせる。


 一つの文章から、異なる理解が生まれている。


 その違いを消さず、並べていく。


「共通している部分は三つです」


 ミレイが複数の記録を見比べる。


「第四の声は、まだ器を持たないこと」


「名前を持たない、あるいは失った者へ関わること」


「そして、対象を記録する者として利用しようとしていること」


 学院長がうなずく。


「では、対象は誰だ」


 作戦室の中央へ、西側貯水槽の図が広げられる。


「第一候補は、水中の子供」


 副学院長が言う。


「第二は、記録から消えた五百人」


「第三は?」


 カイルが尋ねる。


 誰もすぐには答えなかった。


 ミレイがゆっくり口を開く。


「学院内で、名前を持たない人」


「そんな者はいないだろ」


 警備隊員の一人が言う。


「全員、登録名があります」


「記録上は」


 ミレイは答える。


「でも、器が考える名前が何かは分かりません」


 属性。


 役割。


 呼び名。


 本名。


 失われた名。


 現在の名。


 器は、それらを同じようには扱っていない。


「自分の名前を、自分のものだと思っていない人」


 アリシアが呟く。


 全員が見る。


 胸が詰まる。


 けれど続けた。


「名前で呼ばれても、自分のことだと思えない人」


「どういう意味ですか」


 ミレイが尋ねる。


「ずっと役割だけで呼ばれてきた人」


 六つ目。


 闇。


 継承者。


 アリシアもそうだった。


 名前を知っている人はいた。


 でも自分が、その名前を誰かへ渡している感覚は薄かった。


「登録名があっても」


 アリシアは言う。


「誰にも自分として呼ばれてないと思っていたら、器から見れば名前を持ってないのかもしれない」


 作戦室が静まる。


 生徒たちの中に、視線を伏せる者がいた。


 警備隊員にも。


 職員にも。


 自分の名前より役割で呼ばれる時間の方が長い者は多い。


 生徒。


 先生。


 隊員。


 治療師。


 係。


 下級生。


 誰かの兄。


 誰かの娘。


 名前はある。


 けれど、自分自身として呼ばれていると感じられないことがある。


「対象を水中の子供だけに限定するのは危険です」


 レオンハルトが言う。


「第四の声が条件に合う者を探すなら、学院内にも入り口がある」


「全員へ、名前を確認させるか」


 副学院長が言う。


「名簿を使って?」


「それでは器へ一覧を渡すことになる」


 カイルがすぐに反対する。


「では、どうする」


 誰も答えを持っていない。


「一斉に確認しない」


 セレナが言った。


 全員の視線が向く。


「昨日、三十一人の名前を分けたように」


「現在の学院生の名前も分ける?」


 ミレイが尋ねる。


「名前を配るのではありません」


 セレナは作戦室にいる者たちを見る。


「近くにいる人を、役割ではなく名前で呼ぶ時間を作ります」


「時間?」


「授業や訓練とは別に」


 セレナは慎重に続ける。


「大勢を集めて、全員へ名前を言わせれば、第四の声に利用されるかもしれません。でも、小さな単位なら」


 寮の部屋。


 授業班。


 治療棟の担当。


 警備の組。


 普段から顔を合わせる者同士。


「名前を呼び、返事を聞く」


「それだけで、自分の名前を持てるのか」


 警備責任者が尋ねる。


「それだけでは足りません」


 セレナは答えた。


「何と呼ばれたいかも聞く必要があります」


 作戦室が少しざわめく。


「登録名で呼ばれたくない者もいます」


「姓より名で呼ばれたい人。逆に、親しくない相手から名で呼ばれたくない人」


 ミレイが補足する。


「愛称を使っている人もいます」


「名前を呼べばよいのではない」


 レオンハルトがルクスの言葉を思い出すように言う。


「本人が、自分のものとして受け取れる呼び方でなければならない」


「器に呼び方を教えることになりませんか」


 教師の一人が懸念を示す。


「なるかもしれません」


 アリシアが答えた。


「でも、隠すだけでは第四の声が勝手に決める」


 名前を持たぬ者。


 その条件を器へ定義させてはいけない。


 本人が何と呼ばれたいか。


 誰にどう呼ばれたいか。


 それを本人の声で決める。


「強制はしない」


 学院長が決める。


「名前について話したくない者もいる。参加しない選択を認める」


「参加しない人が、第四の声に狙われたら?」


 カイルが尋ねる。


「参加しなかったことを理由に責めない」


 学院長は即答した。


「安全策は別に用意する。名前について話すことと、守られる権利を交換条件にしない」


 作戦室にいた何人かが、静かに息を吐いた。


「各班三名から五名」


 副学院長が具体的な形をまとめる。


「普段から顔を合わせる者を中心とする。ただし、上下関係が強すぎる組み合わせは避ける」


「教師と生徒だけにならないように?」


「命令で名前を言わせる形になる危険がある」


「記録は?」


 ミレイが尋ねる。


 全員が彼女を見る。


 第四の声に名指しされた記録者。


 それでも彼女は、自分から記録方法を確認した。


「個人名は残さない」


 学院長が答える。


「実施人数。参加を断った人数。困った点。必要な支援だけを記録する」


「何と呼ばれたいかは?」


「本人が希望した場合のみ、その班の中で共有する。中央には集めない」


 ミレイはうなずいた。


「分かりました」


 会議後。


 学院では通常授業を午前中だけ休止し、小さな集まりが作られた。


 大きな行事にはしない。


 講堂へ全員を集めない。


 校内放送で名前を呼ばない。


 それぞれの教室。


 寮の談話室。


 訓練場の端。


 治療棟の小部屋。


 少人数で椅子を囲む。


 アリシアの班は、セレナ、カイル、ミレイ、レオンハルト。


 六人の神器継承者全員ではない。


 風と土の継承者は、普段活動する別の仲間たちと話すことを選んだ。


 ノアは当然のようにアリシアの椅子の背へ乗っている。


「何を話すんだ」


 カイルが腕を組む。


「名前についてです」


 ミレイが答える。


「それは分かってる」


「では、最初に何と呼ばれたいかを一人ずつ話しましょう」


「今まで通りでいい」


「それでは分かりません」


「カイルでいい」


「誰からでも?」


 カイルが言葉を止める。


「それは」


「知らない人から、急にカイルと呼ばれても平気ですか」


「少し馴れ馴れしいな」


「では、普段から話す人にはカイル。正式な場では家名を含める?」


「家名は嫌だ」


 予想外の返事だった。


 全員が彼を見る。


 カイルは自分が注目されたことに気づき、眉を寄せた。


「何だよ」


「家名で呼ばれたくないのですか」


 セレナが尋ねる。


「絶対じゃない。でも、学院ではカイルがいい」


「理由は?」


 ミレイが聞く。


「言わなきゃ駄目か」


「話したくなければ話さなくて構いません」


 カイルは少し黙る。


 それから、椅子の背へ身体を預けた。


「家名で呼ばれると、兄と比べられてる気がする」


 アリシアは初めて聞く話だった。


「兄がいるの?」


「二人」


「二人とも火の魔術師ですか」


 レオンハルトが尋ねる。


「違う。騎士と官僚」


「優秀?」


「かなりな」


 カイルは苦い顔をする。


「家名で呼ばれると、あの家の三男だって先に見られる。火の神器に選ばれてからは少し減ったけど、今度は神器の方が先になった」


「だから、カイル?」


 アリシアが聞く。


「俺の名前だから」


 短い答えだった。


 でも、それ以上の説明は必要なかった。


「私は」


 セレナが続く。


「セレナと呼ばれたいです」


「アクレインは?」


 カイルが尋ねる。


「大切な名前です」


「なら、呼ばれたくないのか」


「いいえ」


 セレナは自分の手首を見る。


「今までは、アクレイン家の娘だと確かめるために、フルネームで呼んでほしいと思っていました」


「今は違う?」


「セレナだけでも、今の私を呼んでくれていると感じられるようになりました」


 アリシアが何度も呼んだ。


 カイルも。


 養父母も。


 学院の生徒たちも。


「ただし」


 セレナは少し考える。


「過去の名前が見つかったときは、どちらで呼ばれたいか自分でも分からなくなると思います」


「そのときに聞く」


 アリシアが言う。


「はい」


「毎回でも?」


「できれば、毎回確認されるのは疲れるので、私から伝えます」


「分かった」


「レオンハルトは?」


 ミレイが尋ねる。


 レオンハルトはすぐには答えなかった。


「今まで、光の継承者と呼ばれることに抵抗はありませんでした」


「今は?」


「抵抗というより、足りないと感じます」


「足りない?」


「光の継承者であることは、私の一部です」


 レオンハルトは胸元の神器へ触れる。


「ですが、ルクスの偽物に呼ばれたとき、私は役割だけで判断されました」


「レオンハルトって呼ばれたい?」


 アリシアが尋ねる。


「あなたたちには」


「ほかの人は?」


「まだ分かりません」


 正直な答えだった。


「では、現時点では親しい人からはレオンハルト。公的な場では従来どおり?」


 ミレイが確認する。


「はい」


「ミレイは?」


 アリシアが聞く。


 ミレイは自分の膝に置いた手を見る。


「ミレイで構いません」


「記録係って呼ばれるのは?」


 カイルが尋ねる。


「以前は、気になりませんでした」


「今は?」


「少し怖いです」


 第四の声。


 名を残す者。


 記録する者。


 器が彼女へ与えようとした役割。


「でも、記録をやめたいわけではありません」


 ミレイは続ける。


「だから、記録係と呼ばれること自体が嫌なのではありません」


「では何が?」


 セレナが尋ねる。


「それだけになるのが怖いです」


 記録を失えば。


 書けなくなれば。


 声を奪われれば。


 自分に何が残るのか。


「ミレイは」


 アリシアは考える。


「名前を聞いたら、ちゃんと覚えようとする人」


「それも記録では?」


「違う」


「どう違いますか」


「紙がなくても聞くから」


 ミレイの目が揺れる。


「ミレイは、記録する前に相手へ聞く。話していいか。残していいか。誰に見せていいか」


「それは記録者として必要なので」


「でも、ミレイが選んでる」


 規則だからではない。


 器を止めるためだけでもない。


 相手の意思を残したいから。


「だから、記録がなくてもミレイだと思う」


 アリシアは言った。


 ミレイはすぐに返事をしなかった。


 少し俯き、やがて小さく笑う。


「ありがとうございます」


「私は」


 全員の視線がアリシアへ集まる。


 自分の番だと気づき、喉が固くなる。


 名前について話すだけ。


 それなのに、大勢の前で戦うより緊張する。


『逃げるの?』


 ノアが椅子の背から囁く。


「逃げない」


 声に出てしまった。


 カイルが首を傾げる。


「何からだ」


「ノアに言った」


「猫と会話するの、急に始めるなよ」


「いつもしてる」


「俺たちには聞こえない」


「今はアリシアさんの話です」


 ミレイが戻す。


 アリシアは膝の上で手を握った。


「アリシアって呼ばれたい」


「今も呼んでるだろ」


「うん」


「ほかには?」


「六つ目は嫌」


 すぐに出た。


「闇の継承者は?」


「必要な場面なら、いい」


「必要な場面?」


「戦うとき。役割を分けるとき」


 眠光井で。


 黒月が見るべき線を伝えるために。


 闇の継承者と呼ばれることは、嫌ではなかった。


 その役割を自分で選んでいたから。


「でも、ずっとは嫌」


「人見知りな闇の少女は?」


 カイルが少し笑いながら聞く。


「誰が言ってるの?」


「生徒の間でたまに」


「嫌」


「即答だな」


「人見知りは本当だけど、呼ばれたくない」


「黒猫の飼い主は?」


『誰が飼われているのよ』


「ノアが怒ってる」


「だろうな」


「アリシア」


 セレナが静かに呼ぶ。


「はい」


「その呼び方で、ここにいると感じますか」


 アリシアは少し考えた。


 以前は。


 自分の名前を呼ばれると、注目されたようで怖かった。


 何か答えなければならない。


 期待へ応えなければならない。


 間違えてはいけない。


 そう感じていた。


 今も少し怖い。


 でも。


 セレナに呼ばれた。


 カイルに呼ばれた。


 レオンハルトに。


 ミレイに。


 呼ばれたあと、すぐ答えられなくても待ってくれた。


「うん」


 アリシアは答えた。


「今は、ここにいるって思える」


 五人の間に、穏やかな沈黙が落ちた。


 名前を言っただけ。


 それでも、今まで知らなかったことがいくつもあった。


 カイルが家名を避ける理由。


 レオンハルトが誰から名で呼ばれたいか迷っていること。


 ミレイが記録だけになることを恐れていること。


 セレナが今の名前を、少しずつ自分で持てるようになっていること。


「こういうことを、学院全体でやるのですね」


 ミレイが言う。


「強制ではなく」


「うん」


「話したくない理由は、話さなくてもいい」


「うん」


「何と呼ばれたいか、今は決められないと答えてもいい」


「はい」


 レオンハルトがうなずく。


「決められないことも、本人の答えです」


 話し合いが終わった直後。


 学院内の複数箇所で、小さな異変が起きた。


 大規模なものではない。


 警報鐘も鳴らない。


 ただ。


 寮の洗面台。


 食堂の水桶。


 訓練場の雨水溝。


 治療棟の薬湯。


 水がある場所へ、一瞬だけ子供の影が映った。


 それぞれの場所にいた者たちは、事前に決められた通り、一人で近づかなかった。


 名前を呼ばれても返事をしなかった。


 隣にいる者を呼び。


 自分が何と呼ばれたいかを確かめ。


 影が消えるまで待った。


 しかし一か所だけ。


 返事をした者がいた。


 中央棟の地下倉庫。


 清掃用の水桶を運んでいた、一年生の男子生徒だった。


 彼は水面に映った子供から、登録されている本名ではなく、幼い頃に家族だけが使っていた愛称で呼ばれた。


「リィ」


 その名を学院で知る者はいない。


 少年は思わず振り返った。


「誰?」


 それだけだった。


 返事と呼べるほどのものではない。


 それでも水面から黒い糸が伸びた。


 少年の喉へ触れる。


 声は上げられなかった。


 桶を落とす音を聞き、近くの職員が駆けつけたとき。


 少年は床へ座り込んでいた。


 怪我はない。


 意識もある。


 だが、自分の名前を尋ねられても答えられなかった。


「分からない」


 震える声で繰り返す。


「俺、何て名前だった?」


 職員が登録名を呼ぶ。


 少年は首を横へ振る。


「それは、学校で使う名前」


「君の名前だ」


「違う」


「では、何と呼ばれたい」


「分からない」


 男子生徒の喉元には、細い黒い円が浮かんでいた。


 六つの円ではない。


 一つだけ。


 声を入れるための、空の器のような印。


 報告を受けたアリシアたちが地下倉庫へ到着したとき、少年は毛布に包まれ、教師たちに囲まれていた。


 誰も無理に名前を思い出させようとはしていない。


 本人が否定する名を、何度も押しつけることもしていない。


 ただ、ここが学院であること。


 今は安全であること。


 答えられなくてもよいことを伝え続けている。


「この子を知っていますか」


 学院長が尋ねる。


 ミレイがすぐに名簿を開こうとする。


 だが途中で止めた。


 紙を見る前に、本人を見る。


「同じ一年生です」


「名前は?」


 ミレイは答えようとして、迷う。


 本人が登録名を自分のものではないと言っている。


 ここで記録の名前を強く呼べば、さらに混乱させるかもしれない。


「登録上の名前は知っています」


 ミレイは言った。


「でも、今それを本人の名前として呼んでよいか分かりません」


 少年が顔を上げる。


 怯えた目。


「知ってるの?」


「はい」


「俺の名前?」


「学院へ登録されている名前です」


「俺が、それで返事してた?」


 ミレイは記憶をたどる。


「授業では」


「ほかは?」


 答えられない。


 同じ学年。


 同じ記録担当の訓練にもいた。


 けれど彼を個人としてどれほど知っているか。


「ごめんなさい」


 ミレイが言う。


「私は、登録名しか知りません」


 少年の顔が歪む。


 責められたと思ったのか。


 あるいは、自分が誰にも知られていなかったと感じたのか。


「じゃあ、俺には名前がないんだ」


「違います」


 セレナが静かに言う。


 少年の前へ座る。


「今、思い出せないだけです」


「でも、みんな知らない」


「知らないから、ないことにはしません」


「何て呼べばいいか分からないだろ」


「はい」


 セレナは否定しなかった。


「だから、教えてもらえるまで待ちます」


「俺も分からない」


「では、今は呼ばなくてもいいです」


 少年は驚いた顔をする。


「呼ばない?」


「名前を決めることを急がなくてもいい」


「でも」


「呼ばれたい名前が分からなくても、あなたがここにいることは分かります」


 セレナは少年の顔を見る。


「喉が苦しいですか」


「少し」


「水の声は聞こえますか」


「聞こえない」


「先ほど呼ばれた愛称は?」


 少年の肩が震える。


「リィ」


「その呼び方は、嫌ですか」


「分からない」


「誰がそう呼んでいましたか」


 少年は口を開く。


 けれど声が出ない。


 喉元の黒い円が淡く光る。


『来るわよ』


 ノアが低く言った。


 倉庫の隅に置かれた水桶。


 こぼれた水の表面へ、子供の影が映る。


 七歳ほど。


 濡れた髪。


 青白い目。


 西側貯水槽にいた子供。


「記録する者」


 少年の口から、別の声が出た。


 幼い子供の声だった。


 本人は驚き、両手で喉を押さえる。


「違う」


 自分の声に戻る。


「今の、俺じゃない」


「分かってる」


 アリシアが答えた。


 黒月を抜く。


 だが少年へ伸びる線は喉の内側にある。


 外から斬れば、声そのものを傷つける。


「名を持たぬ者」


 再び子供の声。


「すべての名を記せ」


「嫌だ!」


 少年自身が叫ぶ。


 声が重なる。


 一つの喉から。


 二人分。


「俺は、記録係じゃない!」


「役割を押しつけないで」


 ミレイが言う。


 少年の目の前へ座る。


「記録したくないなら、しなくていいです」


 第四の声が、ミレイへ向く。


 少年の顔のまま。


 少年の喉を使い。


「名を残す者」


「私は、記録します」


 ミレイは答える。


「でも、この人へ押しつけることは許しません」


「お前が拒んだ」


「一人で持つことを拒みました」


「ならば、名なき者が持つ」


「持たせません」


「名がない」


「名前を思い出せないことと、何者でもないことは違います」


 ミレイの声は震えていた。


 昨日、自分も同じように標的となった。


 声を使われた。


 記録する役割だけへ押し込まれかけた。


 だからこそ。


 目の前の少年が、名を持たぬ者という新しい役割へ閉じ込められることを見過ごせなかった。


「あなたは、この人が何と呼ばれたいか聞いていません」


「名は、ない」


「分からないと言っています」


「同じ」


「違います」


 セレナも続く。


「分からないことは、ないことではありません」


 第四の声が、少年の喉で笑った。


「ならば、呼べ」


 全員が止まる。


「名を呼べ」


「今は呼ばない」


 アリシアが答えた。


 第四の声が、こちらを見る。


「なぜ」


「本人が分からないって言ってるから」


「名がなければ、戻れない」


「名前を決めるまで、ここにいていい」


「呼ばれぬ者は、消える」


「消さない」


「どう残す」


 アリシアは少年を見る。


 名前ではなく。


 役割でもなく。


 今目の前にいる一人。


「顔を覚える」


 少年が瞬きをする。


「声を覚える」


「名前がなくても?」


「うん」


「何を話したか覚える」


 ミレイが続ける。


「水桶を運んでいたこと」


 近くの職員が言う。


「落とした音を聞いたこと」


 教師が加える。


「朝の授業で、窓側の三番目へ座っていたこと」


 同級生の一人が、息を切らせて倉庫へ入ってきた。


「昨日、食堂で豆を残してた」


 少年がそちらを見る。


「お前」


「名前、今は思い出せないんだろ」


 同級生は近づきすぎず、少し離れた場所へ座る。


「でも、俺はお前を知ってる」


「何て名前?」


「登録名は知ってる。でも、今言わない」


「どうして」


「違うって言ったから」


 少年の目に涙が浮かぶ。


「じゃあ、どう呼ぶんだよ」


「呼んでほしいのが決まるまで、お前でいいか?」


「雑だな」


「カイルさんみたいですね」


 ミレイが小さく言う。


「何で俺が出るんだ」


 緊張の中に、短い笑いが生まれた。


 少年も、泣きながら少し笑った。


 その瞬間。


 喉元の黒い円に亀裂が入る。


「役割を」


 第四の声が掠れる。


「与えよ」


「与えない」


 アリシアが黒月を構える。


「本人が選ぶ」


「選べぬ者は」


「待つ」


 セレナが言う。


「選べるまで」


「記録されぬ」


「私たちが覚えます」


 ミレイが答える。


「名前がなくても」


「名なき記録は、誤り」


「誤りでも、消しません」


 少年の喉元から、黒い線が外へ浮かび始めた。


 第四の声が、身体へ留まれなくなっている。


 本人へ役割を受け入れさせられなかったから。


 名前がないなら、記録者になれ。


 その命令を、周囲が拒んだから。


『今よ』


 ノアが叫ぶ。


 アリシアは黒月を振るった。


 少年の喉ではなく。


 外へ出た黒い線だけを斬る。


 甲高い音。


 喉元の円が砕ける。


 水桶の中に映っていた子供の影が、大きく揺れた。


 その顔に、初めて苦しそうな表情が浮かぶ。


「名前を」


 子供が言う。


 第四の声ではない。


 水の中の子供自身の声だった。


「名前を持たないと」


 セレナが水桶へ近づく。


 結界の外で止まる。


「何が起きるのですか」


「消える」


「誰が?」


「みんな」


「だから、あなたが記録している?」


 子供は答えない。


 けれど青白い目が揺れた。


「第四の声に命じられて?」


「声は」


 子供が胸元へ手を当てる。


「名をくれる」


「あなたの名前を?」


「みんなの名を」


「あなた自身の名前は?」


 子供の口が止まる。


 分からない。


 ない。


 思い出せない。


 どれなのか。


「私たちは、あなたへ役割を与えません」


 セレナが言う。


「記録する子とも。器とも。敵とも、まだ決めません」


「なら」


 水面の子供が尋ねる。


「何と呼ぶ」


 誰もすぐには答えなかった。


 勝手な名前をつければ、それも役割の押しつけになる。


 名を持たぬ子。


 水の子。


 器の子供。


 どれも、その存在の一部だけを切り取る。


「呼ばない」


 アリシアが言った。


 子供の目が見開かれる。


「今は」


「消える」


「消えないように、顔を覚える」


「声も」


 ミレイが続く。


「あなたが三十一人の名前を呼んだことも」


「五百人の名を守ろうとしているかもしれないことも」


 セレナが言う。


「名前が分かるまで、あなたをいなかったことにはしません」


 水面の子供は、長く黙っていた。


 やがて。


「呼ばれないのに?」


「うん」


 アリシアは答える。


「返事ができる名前が見つかるまで待つ」


 子供の姿が少しずつ薄くなる。


 逃げるのではない。


 水の奥へ戻っていく。


「次に」


 声も遠くなる。


「会ったとき」


「うん」


「聞いて」


「何を?」


「呼ばれたい名」


 それだけ言い残し、子供の影は消えた。


 水桶の表面が静かになる。


 地下倉庫には、少年の荒い呼吸だけが残った。


「声は?」


 治療教師が尋ねる。


「俺の声だけ」


「名前は思い出せますか」


 少年は少し考えた。


 首を横へ振る。


「まだ」


「登録名を聞きたいですか」


 ミレイが尋ねる。


 少年は同級生を見る。


「今は、いい」


「分かりました」


「でも」


 少年は自分の胸へ手を当てる。


「リィって呼ばれたとき、嫌じゃなかった」


「では、そう呼びますか」


「分からない」


「今は決めなくていい」


 セレナが言う。


 少年はうなずいた。


「決まるまで」


 同級生が笑う。


「お前でいいな」


「もう少しましなの考えろよ」


「じゃあ、豆残し」


「それは嫌だ」


「嫌って分かったな」


 少年が少し驚く。


 呼ばれたくないものは分かる。


 それも一つの答えだった。


「豆残しは嫌」


 ミレイが確認する。


「記録するのか?」


「個人記録には残しません」


「よかった」


 周囲へ小さな笑いが広がる。


 学院長はその様子を見ながら、警備責任者へ命じた。


「今後、名前を思い出せない者へ、登録名を無理に呼び続けることを禁ずる」


「本人の希望を確認?」


「そうだ」


「希望そのものが分からない場合は」


「急がない」


 学院長ははっきり答えた。


「呼ばないことで危険が増す場合は、本人と相談して仮の呼び方を決める。ただし役割や症状をそのまま名前にするな」


「名を持たぬ者」


 ミレイが第四の声の表現を思い出す。


「それも使わない」


「はい」


 少年は治療棟へ運ばれることになった。


 歩けると主張したが、喉の印が完全に消えたか確認する必要がある。


 担架へ乗せられる前。


 彼はアリシアを呼び止めた。


「闇の神器の人」


 アリシアは振り返る。


 役割で呼ばれた。


 以前なら、それだけで少し胸が冷えたかもしれない。


 けれど今は、相手が自分の名前を知らないだけだと分かる。


「アリシア」


 自分から言った。


「私はアリシア」


「アリシア」


 少年が呼ぶ。


「はい」


 返事をする。


「俺も、自分で言えるようになったら言う」


「うん」


「それまで覚えてる?」


「顔と声を覚える」


「豆を残したことも?」


「それは、覚えない方がいい?」


 少年は少し考え、笑った。


「やっぱり覚えてて」


 名前は戻っていない。


 呼ばれたい名も決まっていない。


 それでも彼は、自分について残したいことを一つ選んだ。


 豆を残したこと。


 ほんの小さな記憶。


 けれど、自分が確かにここにいたという記憶だった。


 担架が運ばれていく。


 地下倉庫に残った水はすべて封印され、桶は結界箱へ収められた。


「子供は、次に聞いてと言いました」


 ミレイが言う。


「呼ばれたい名前を」


「答えを考えてくるかな」


 カイルが尋ねる。


「分かりません」


 セレナは空になった床を見る。


「でも、聞かれることを待っていたのかもしれません」


「今まで、誰も聞かなかった?」


 アリシアが言う。


「第四の声は、名を与えると言った」


「与えられた名前を受け取るしかなかった」


「それが、五百人の名前?」


 ミレイが胸元へ手を当てる。


「自分の名がないから、ほかの人の名を持つ」


「そうすれば、消えないと思ったのかもしれない」


 セレナの声は痛みを含んでいた。


 自分も。


 過去の名を失い。


 現在の名を確かめ続けた。


 名前がなければ、自分が消えると思っていた。


 水の中の子供も、同じ恐怖を抱えているのかもしれない。


「でも、次に会っても」


 アリシアが言う。


「名前を決めてあげない」


「はい」


「敵じゃないとも決めない」


「はい」


「助けてほしい子だとも」


 セレナは少し迷った。


「それも、まだ決めません」


 助けを求めているように見える。


 けれど引き込もうとしている可能性もある。


 五百人の名前を守っているように見える。


 同時に、その名を器へ集めている。


 分からない。


 だから、役割を押しつけない。


「次に聞くことを決めましょう」


 ミレイが新しい記録用紙を出す。


 今度は一人で書かない。


 ケインとサーラも隣へ並ぶ。


「何と呼ばれたいか」


 アリシアが言う。


「第四の声をどう思っているか」


 セレナ。


「三十一人の名前をなぜ呼んでいたか」


 カイル。


「九年前の水害を覚えているか」


 レオンハルト。


 質問が増える。


「全部一度に聞かない方がいいです」


 ミレイが言う。


「答えられない場合もあります」


「なら、最初は一つ」


 アリシアは水が消えた場所を見る。


「何と呼ばれたいか」


 それだけ。


 本人が答えられるまで待つ。


 答えられないことも、答えとして受け取る。


 その日の午後。


 学院では、名前に関する小さな話し合いが続けられた。


 参加した者の中には、自分の呼ばれ方について初めて考えた者もいた。


 家名ではなく名で呼ばれたい者。


 幼い愛称を嫌う者。


 反対に、家族だけの愛称を大切にしている者。


 公の場では家名がよいが、寮では名がよい者。


 まだ何と呼ばれたいか分からない者。


 名前について話したくない者。


 誰も一つの答えへまとめなかった。


 夕方。


 治療棟から、一年生の男子生徒について報告が届いた。


 登録名はまだ自分のものとして思い出せていない。


 だが、同級生から「豆残し」と呼ばれたくないこと。


 アリシアには自分の顔と声を覚えていてほしいこと。


 そして。


 仮に呼ばれるなら、幼い頃の愛称である「リィ」を使ってもよいと、自分で選んだ。


 ただし、それが本当の名前かはまだ分からない。


 記録には、こう残された。


 ――本人は現時点で「リィ」と呼ばれることを許可した。これは仮の呼称であり、登録名または本来の名を否定するものではない。本人が変更を望んだ場合、直ちに呼び方を変える。


 夜。


 西側貯水槽の底で。


 七歳ほどの子供は、一人で暗い水の中へ座っていた。


 周囲には、無数の名前が浮かんでいる。


 自分のものではない名前。


 消えてしまった誰かの名。


 第四の声が、背後から囁く。


「選べ」


 子供は返事をしない。


「名を持て」


 何百もの名前が、目の前へ並ぶ。


「一つを選べば、お前は残る」


 子供は一つずつ見た。


 ルエナ・フィル。


 ガルド・メイス。


 ティナ・ロア。


 どれも、自分ではない気がした。


「選ばなければ、消える」


 第四の声が近づく。


 黒い口が、子供の背後へ開く。


 けれど子供は、今日聞いた言葉を思い出していた。


 呼ばれたい名前が見つかるまで待つ。


 名前が分からなくても、いなかったことにはしない。


 顔を覚える。


 声を覚える。


 返事をする名が見つかるまで。


「次に」


 子供が小さく呟く。


 第四の声が止まる。


「聞かれる」


「何を」


「呼ばれたい名」


「お前にはない」


「まだ、分からない」


 子供は初めて。


 ない、ではなく。


 分からない、と言った。


 水の底に浮かんでいた無数の名前が、わずかに揺れる。


 第四の声の黒い口へ、細い亀裂が入った。


 そして。


 子供の胸の奥で。


 誰にも聞こえないほど小さく。


 一つの音が浮かんだ。


 名前には、まだ足りない。


 最初の一音だけ。


 それでも確かに。


 誰かから与えられたのではない、自分自身の中から浮かんだ音だった。

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