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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第102話 最初の一音が戻っても、誰かの名前だとは決めつけない



 翌朝、学院の空には久しぶりに雲の切れ間が見えていた。


 夜の間に冷えた石造りの校舎は、朝日を受けてもすぐには温まらない。廊下の窓を開けると、雨上がりの土と濡れた木々の匂いが流れ込み、その中に遠くの食堂から届く焼きたてのパンの香りが薄く混じった。


 授業は再開されていなかった。


 第四の声が学院内の水場へ姿を現し、一年生の男子生徒から名前の感覚を奪った以上、生徒たちを普段通り教室へ戻すことはできない。各寮と校舎では小人数の待機班が組まれ、水へ一人で近づかないこと、知らない声から呼ばれても返事をしないこと、呼ばれ方に違和感を覚えた場合はすぐ周囲へ伝えることが繰り返し確認されていた。


 それでも学院は、完全に止まってはいなかった。


 食堂では朝食が用意されている。


 治療棟では患者の診察が続く。


 警備隊は交代しながら水場を監視し、記録補助者たちは前日の報告を一つの文書へまとめず、複数の紙へ分けて残していた。


 誰か一人が動けなくなっても。


 一つの記録が奪われても。


 学院全体が止まらないように。


 アリシアは朝食を終えると、ノアとともに中央治療棟へ向かった。


 向かう先は、セレナの病室ではない。


 昨日、第四の声に入り込まれた一年生の男子生徒――現在は本人の希望で、仮に「リィ」と呼ばれている少年の部屋だった。


『緊張しているの?』


 廊下を歩きながらノアが尋ねる。


「少し」


『昨日も会ったでしょう』


「昨日は、助ける方に集中してたから」


『今日は話すだけ?』


「たぶん」


『それが一番苦手なのね』


 否定できなかった。


 剣を抜くべきか。


 線を切るべきか。


 その判断には怖さがある。


 けれど何を話せばよいか分からない相手の部屋へ、自分から入ることにも別の怖さがあった。


 しかもリィは、昨日まで自分の名前を普通に使っていた。


 学院の登録名もある。


 同級生たちはそれを知っている。


 けれど本人だけが、その名を自分のものとして受け取れなくなっている。


 何と呼べばよいかは決まった。


 それでも。


 その呼び方が本当に本人を安心させているのか。


 器の声が最初に使った愛称を、そのまま使い続けてよいのか。


 アリシアには自信がなかった。


「入る前から考えすぎてる?」


『ええ』


「でも、大事なことだから」


『大事なことほど、一人で正解を作らないことね』


 ノアは扉の前で足を止めた。


『本人に聞けばいいでしょう』


 昨日と同じ答えだった。


 何と呼ばれたいか。


 今どう感じているか。


 周囲が正しさを決めるのではなく、本人へ聞く。


 アリシアは一度息を整え、扉を叩いた。


「どうぞ」


 返事は少年の声だった。


 昨日、第四の声が混じったときの重なりはない。


 ただし少し掠れている。


 部屋へ入ると、リィは寝台の上へ座っていた。


 白い治療衣の上から薄茶色の上着を羽織り、膝には食堂から届いた朝食の盆が置かれている。パンは半分ほど食べられていたが、豆の煮込み料理にはほとんど手がつけられていない。


 付き添いの治療助手と、昨日地下倉庫へ駆けつけた同級生もいる。


「あ」


 リィがアリシアを見る。


「闇の……」


 途中で止まる。


「アリシア」


 昨日、自分から伝えた名前を思い出したらしい。


「うん」


「覚えてた」


 少年は少し得意そうに言った。


「私も覚えてる」


「顔と声?」


「豆を残してたことも」


 リィが盆を見下ろす。


「今日も残してる」


「本当に嫌いなんだね」


「食感が嫌なんだよ」


 同級生が横から笑う。


「昨日は味が嫌って言ってただろ」


「両方嫌なんだ」


「じゃあ完全に豆嫌いだな」


「豆残しって呼ぶなよ」


「呼んでないだろ」


 昨日までなら、たわいのない会話に聞こえただろう。


 今は、その一つ一つが少年自身へ戻るための確認になっている。


 豆が嫌い。


 同級生の言葉へすぐ言い返す。


 アリシアの名前を覚えていた。


 リィと呼ばれることを、今のところ拒んでいない。


「体調は?」


 アリシアが尋ねる。


「喉が少し痛い」


「声は、混ざってない?」


「今は大丈夫」


 少年は自分の首元へ触れる。


 黒い円は消えていた。


 ただし皮膚には、薄い灰色の痕が残っている。


「夜は眠れた?」


「途中で起きた」


「水の夢?」


 少年は少し迷い、うなずく。


「暗いところにいた」


 治療助手が記録へ手を伸ばしかけ、途中で止める。


「話してもいい?」


 先に確認した。


 リィはその問いに少し驚いた顔をする。


「夢のこと?」


「はい。残したくなければ、書きません」


「……今は書いていい」


 治療助手はそこで初めて筆を持った。


「どんな場所でしたか」


「水の中」


「息はできました?」


「分からない。でも苦しくなかった」


「誰かいましたか」


 少年の視線が揺れる。


「子供」


 アリシアはノアを見る。


 ノアの金色の瞳が細くなっている。


「昨日、水桶に映った子?」


「たぶん」


「何をしてた?」


「名前を数えてた」


 リィは両手を膝へ置く。


「一つずつ」


「聞こえた名前は覚えていますか」


「少し」


「言いたい?」


 少年はすぐには答えなかった。


 昨日、講堂から水へ戻された三十一人の名前かもしれない。


 あるいは、そのほかの五百人の名。


 口にすれば、第四の声に利用される可能性もある。


「今は言わない」


 少年は自分で選んだ。


「分かりました」


 治療助手も追及しなかった。


「子供は、リィへ何か言った?」


「名前を聞かれた」


「何て答えたの?」


「分からないって」


 昨日までなら、名前がないと言っていた。


 だが少年は今、自分の名が分からないと答えた。


 水の中の子供と同じ変化だった。


「そしたら、あの子も分からないって言った」


 アリシアは息を止める。


「自分の名前が?」


「たぶん」


「それから?」


「音を一つだけ言った」


 部屋が静まる。


 朝の光が窓から入り、寝台の白い布を照らしていた。


「どんな音?」


「聞き取れなかった」


 リィは悔しそうに眉を寄せる。


「短くて。最初は『セ』かと思った。でも『シ』かもしれないし、『ス』にも聞こえた」


「セレナの最初の音?」


 同級生が言う。


 リィの顔が固まった。


 アリシアも、胸の奥に小さな引っかかりを感じる。


 水の中の子供。


 七歳ほどの姿。


 セレナが失った過去の名前。


 最初の一音が「セ」なら。


 セレナとつながる可能性を考えたくなる。


 けれど。


「決めない方がいい」


 アリシアは言った。


 同級生がこちらを見る。


「でも、セって」


「セかどうかも分からない」


「リィが聞いたんだろ」


「聞き取れなかったって言ってる」


 少年は黙って二人のやり取りを見ていた。


 アリシアはリィへ視線を戻す。


「今の話を聞いて、セだった気が強くなった?」


 少年は少し考える。


「……少し」


「最初からそう思ってた?」


「最初は、よく分からなかった」


「なら、今は分からないままにしよう」


「でも、何か分かった方がいいんじゃないのか」


「間違った音を、本当だと思ったら戻せなくなるかもしれない」


 記録を見て、昔から覚えていたように感じることがある。


 セレナの記憶を守るために、何度も確認したことだった。


 音も同じだ。


 誰かが「セではないか」と言った瞬間。


 曖昧だった記憶が、その音へ寄ってしまう。


「ごめん」


 同級生がリィへ言った。


「俺、勝手に決めた」


「別に」


「でも、次は言う前に聞く」


 謝罪は短かった。


 言い訳もしない。


 リィはしばらく同級生を見たあと、小さくうなずいた。


「じゃあ、最初の音は分からない」


 治療助手が確認する。


「夢の中で、水の子供が短い音を一つ口にした。ただし、正確な音は判別できない。これでよいですか」


「うん」


 記録には「セ」と書かなかった。


 可能性としてさえ、今は残さない。


 聞き取れなかったという事実だけを残す。


「リィ」


 アリシアが呼ぶ。


「何?」


「その呼び方は、今も大丈夫?」


 少年はすぐに答えなかった。


 昨日、自分で選んだ仮の呼称。


 だが器が最初に使った呼び名でもある。


「少し変な感じはする」


「嫌?」


「嫌じゃない」


「怖い?」


「昨日よりは怖くない」


「じゃあ、どうしたい?」


 少年は窓の外を見る。


 濡れた木々の間を、小さな鳥が飛んでいく。


「今はリィでいい」


「分かった」


「でも、本当の名前が戻ったら変えるかもしれない」


「そのときに教えて」


「毎回確認しないの?」


「変えたいときに言うって、セレナも言ってた」


「水の神器の人?」


「セレナ」


 少年が少し考える。


「会ったら、そう呼んでいいのかな」


「本人に聞こう」


「全部本人に聞くんだな」


 同級生が少し呆れたように言う。


「勝手に決めるよりいい」


「毎回聞かれたら疲れそうだけど」


「それも本人に聞く」


「終わらないな」


『人間同士の関係なんて、終わらないものよ』


 ノアが寝台の足元へ飛び乗った。


 リィには声が聞こえない。


 それでも黒猫が自分を見たことに気づき、少し姿勢を正す。


「ノアも俺のこと覚えてる?」


『豆を残す子でしょう』


「豆を残す子だって」


「それだけ?」


『第四の声へ、自分は記録係ではないと言い返した子』


 アリシアが伝えると、リィは目を瞬いた。


「それも覚えてる?」


「うん」


「なら、いい」


 少年は少し笑った。


 名前以外のものが、自分を誰かの中へ残している。


 そのことを確かめられた笑みだった。


 部屋を出ると、廊下の向こうからミレイが歩いてきた。


 一人ではない。


 ケインとサーラ。


 さらに新しく選ばれた記録補助者二人が同行している。


 ミレイは以前より少し大きな鞄を持っていたが、その中に一冊だけの原本はない。五人がそれぞれ別の紙と筆を持ち、同じ報告を違う形で残す準備をしていた。


「リィさんの状態は?」


 ミレイが尋ねる。


「本人に聞いた方がいい」


 アリシアが答える。


「もちろんです」


「夢の話もした」


「記録の許可は?」


「もらってる」


「内容は、本人から聞きます」


 ミレイはアリシアの説明だけで記録を作ろうとしなかった。


 昨日までなら、時間を急ぐために要点を聞き取ったかもしれない。


 今は、本人の声へ戻っていく。


「セレナは?」


 アリシアが尋ねる。


「西側貯水槽へ向かう準備をしています」


「もう?」


「突入ではありません」


 サーラが答える。


「外周からの観測だけです」


「水の中の子供へ、名前を聞く?」


「それを含め、接触条件を決めています」


 ミレイはリィの部屋の扉を見る。


「本人の夢に現れたなら、貯水槽だけにいるとは限りません」


「名前を持たない人の夢に入れる?」


「可能性があります」


「学院全体を調べるの?」


「一斉調査はしません」


 ミレイは首を横へ振る。


「名前の話し合いに参加した班ごとに、昨夜見た夢や聞いた声を確認します。ただし、夢を話したくない人へ強制はしません」


「第四の声が混ざっていても?」


「話さない自由を失わせれば、器と同じになります」


 ミレイの声に迷いはなかった。


 それでも目の下には淡い影がある。


「眠れた?」


 アリシアが聞く。


「二時間ほど」


「少ない」


「分かっています」


「休まないの?」


「午前の確認が終わったら休みます」


「本当?」


「治療教師と約束しました」


「なら、守って」


「アリシアさんもです」


「私は」


「昨夜、ほとんど眠っていませんね」


 どうして分かったのか。


 アリシアが黙ると、ミレイは少しだけ笑った。


「同じ顔をしています」


「記録してる人は、顔も見るんだね」


「記録しなくても見ます」


 昨日、アリシアがミレイへ伝えた言葉が返ってくる。


 紙がなくても聞く人。


 記録する前に相手を見る人。


「一緒に休む?」


 アリシアが言う。


 ミレイが目を見開く。


「同じ部屋で、という意味ですか」


「別の部屋でもいいけど。同じ時間に」


「なぜ?」


「どっちかが仕事してたら、もう一人も気になるから」


 ミレイは少し考える。


「では、昼前に一時間」


「うん」


「ノアさんが見張りますか」


『なぜ私が子守を』


「見張らないって」


「言葉と表情が合っていません」


『この子、本当に勘がよくなったわね』


 短い会話のあと、ミレイたちはリィの部屋へ入った。


 アリシアはセレナたちが集まる作戦室へ向かう。


 中央棟一階の作戦室では、すでに大きな地図が机へ広げられていた。


 西側貯水槽。


 地下水路。


 中央治療棟。


 昨日、子供の影が現れた水場。


 それぞれの場所へ、小さな印がつけられている。


 セレナは机の中央に立っていた。


 水の神器はまだ戻されていない。


 白布を巻いた手首へ、反対の手を添えている。


 カイルは壁際。


 レオンハルトはルクスの羽根を収めた保護筒の近く。


 風と土の神器継承者も戻っている。


「アリシア」


 セレナが呼ぶ。


「うん」


「リィの様子は?」


「今は、自分の声だけ」


「名前は」


「まだ戻ってない。リィって呼び方は今も使っていいって」


「そうですか」


 セレナの表情が少し和らぐ。


「それから、水の子供の夢を見た」


 作戦室の空気が変わる。


 アリシアは聞いた内容を、自分の解釈を混ぜないよう一つずつ伝えた。


 暗い水。


 名前を数える子供。


 互いに名前が分からないと答えたこと。


 子供が短い音を一つ口にしたこと。


 ただし、その音は判別できなかったこと。


「最初の一音」


 セレナが呟く。


「昨日の最後に、あの子の中へ浮かんだものかもしれません」


「セかもしれないって言われたけど」


 アリシアが続ける。


 セレナの肩が動いた。


「誰が?」


「リィの同級生。でも、今は分からないことにした」


「なぜです」


「最初は聞き取れなかったから」


 セレナは黙る。


 心のどこかで、セという音に反応している。


 自分とのつながり。


 失われた名前。


 過去の自分。


 それを確かめたいのだろう。


「聞いてみたい?」


 アリシアが尋ねる。


「はい」


 セレナは正直に答えた。


「でも、聞いてはいけないとも思います」


「どうして?」


「私が聞けば、セに聞こえるかもしれない」


 自分が望んでいる音へ。


 曖昧な声を寄せてしまう。


「だから、今日の接触では、最初の音をこちらから言わない」


 セレナは地図を見る。


「何と呼ばれたいかだけを聞きます」


「答えが、一音だけだったら?」


 カイルが尋ねる。


「聞こえたままを、複数人で別々に残します」


 レオンハルトが答えた。


「その場で話し合わない」


「照合はあと?」


「はい。互いの記録を見る前に封印します」


「一致しなかったら」


「一致しなかったことを残します」


 器は一つの正解へ寄せようとする。


 だからこそ、聞き違いを無理に統一しない。


 セ。


 シ。


 ス。


 あるいは全く別の音。


 それぞれの耳へどう届いたかを、違うまま残す。


「接触班は?」


 学院長が尋ねる。


 机の上には、候補者の名が並んでいた。


 セレナ。


 アリシア。


 レオンハルト。


 ミレイ。


 結界術師二名。


 警備隊員三名。


「カイルは?」


 アリシアが一覧を見る。


「外周待機です」


 セレナが答える。


「何でだよ」


 カイルが壁から離れる。


「昨日の水路調査で、火の神器が水面の子供へ強い反応を起こしました」


「攻撃してない」


「炎を見た子供の姿が崩れました」


「偽物を消しただけだ」


「今回は、子供自身へ話を聞きます」


 カイルは不満そうに眉を寄せる。


「俺がいたら話さないって?」


「可能性があります」


「なら、外にいる」


 返事は思ったより早かった。


 セレナも少し驚いた顔をする。


「反対しないのですか」


「したい」


「では、なぜ」


「話す前に俺が怒らせたら困る」


 カイルは腕を組む。


「呼べばすぐ入れる場所にいる。それでいい」


 同じ場所へ行くことに固執しない。


 相手へ近づかないことも、一つの役割として受け入れる。


「ありがとう」


 セレナが言う。


「礼はいらない」


「では、戻ってきたら説明します」


「全部話せ」


「私が話したい範囲で」


「そこは譲らないんだな」


「譲りません」


 作戦会議はさらに続いた。


 西側貯水槽へ直接入らない。


 前回開いた鉄扉の外へ観測線を設置し、水面へ子供が現れた場合にだけ呼びかける。


 名前を要求しない。


 答えを急がせない。


 第四の声が混ざった場合は、子供自身の声との違いを確認する。


 そして何より。


 子供を「記録する者」「器」「名を持たぬ者」と呼ばない。


 何と呼べばよいか分からない間は。


 役割を代わりの名前へしない。


 昼前。


 接触班は学院地下へ入った。


 前回の調査から一日しか経っていない。


 それでも地下通路の様子は変わっていた。


 左右の水路は完全に遮断され、石の溝には一滴の水もない。壁へ乾燥結界が張られ、床には一定の間隔で白い粉が撒かれている。


 水が流れれば。


 影が通れば。


 すぐ跡が残るように。


「人数確認」


 サーラの代わりに同行した警備隊員が告げる。


「九名。変化なし」


 ミレイは一人では記録していない。


 同行した補助者と、別々の紙へ同じ状況を書き留めている。


 西側貯水槽へ近づくほど、空気が冷たくなる。


 水路は乾いている。


 それでも湿気だけが増している。


「声は?」


 アリシアがセレナへ尋ねる。


「まだです」


「息苦しさは」


「昨日より少ないです」


「水の神器がないから?」


「分かりません」


 分からないまま残す。


 無理に原因を決めない。


 セレナの返事も、少しずつ変わっていた。


 鉄扉の手前。


 前回の結界位置で全員が止まる。


 扉は閉じられている。


 金属は元の形へ戻っていたが、表面に水滴のような青黒い斑点が残っている。


「外周班、配置完了」


 風の神器を通じ、カイルの声が届く。


「何かあったら呼べ」


「はい」


 セレナが答える。


「名前で呼べ」


 カイルが言い直す。


「セレナ、何かあったら呼べ」


 セレナの表情が少し和らぐ。


「分かりました、カイル」


 通信を切る。


 結界術師が扉へ測定具を近づける。


「内部魔力、前回の三分の一」


「六つの円は?」


「確認できません」


「開けますか」


 警備隊員が尋ねる。


 セレナは扉を見る。


「先に呼びかけます」


 誰も止めなかった。


 本人が決める。


 ただし、一人で決めたわけではない。


 周囲へ伝え。


 危険を確認し。


 役割を分けたうえでの選択だった。


 セレナは扉から三歩離れた場所へ立つ。


 白布の巻かれた手首を胸元へ添える。


「聞こえますか」


 返事はない。


 石壁が冷たい沈黙を返す。


「昨日、西側貯水槽で会った方へ話しています」


 名前がないからといって、呼びかけられないわけではない。


 役割を使わず。


 見た場所と、会った事実で相手を示す。


「あなたが何と呼ばれたいか、聞きに来ました」


 しばらく何も起きなかった。


 アリシアの腰にある黒月も静かだ。


 ルクスの羽根にも反応はない。


 時間だけが過ぎる。


 十秒。


 二十秒。


 三十秒。


「返事がない場合は」


 ミレイが小さく言う。


「聞こえなかったことと、答えなかったことを分けて残します」


 さらに待つ。


 一分。


 セレナは呼びかけを繰り返さなかった。


 一度で届かなかったからといって、何度も同じ問いを押しつけない。


「今日は戻りますか」


 警備隊員が尋ねる。


 セレナは一度目を閉じる。


「もう少しだけ」


 その瞬間。


 鉄扉の斑点が一つ、雫へ変わった。


 金属の表面を上へ流れる。


 重力へ逆らい、扉の中央へ集まった。


 水滴が小さな円を作る。


 子供の目のように。


「反応」


 ミレイたちが別々に記録する。


 水滴の円が揺れる。


 その奥から、微かな声がした。


「……き」


 短い。


 息のような音。


 全員が動きを止める。


 アリシアには「き」と聞こえた。


 けれど横を見ることはしない。


 ほかの者がどう聞いたか、今は確かめない。


「聞こえました」


 セレナが言う。


「もう一度言えますか」


 水滴が揺れる。


「……き」


 同じに聞こえる。


 それでも確定しない。


「それは、呼ばれたい名前の最初の音ですか」


 長い沈黙。


「分からない」


 今度は、はっきりした子供の声だった。


「分からないのですね」


「でも」


 声が途切れる。


 水滴の円が震える。


「中にある」


「何が?」


「音」


 子供は答える。


「まだ、名前じゃない」


 アリシアの胸がわずかに熱くなる。


 ない、ではなく。


 名前には足りない音が、自分の中にある。


「その音を、今呼ばれたいですか」


 セレナが尋ねる。


「分からない」


「では、呼びません」


 すぐに答えた。


 子供の声が止まる。


「呼ばない?」


「あなたが決めるまで」


「音が、消える」


「私たちは覚えています」


「違う音に聞こえた」


 子供の声に、初めて明確な不安が混じった。


「人によって?」


「き。し。ひ」


 三つの音。


 子供自身にも、どれが正しいか分からないのかもしれない。


 水の中で変わる音。


 記憶の奥から浮かんだ、まだ形のない一音。


「それでいいです」


 セレナが言う。


「違う」


「違うままで残します」


「一つにしない?」


「あなたが決めるまでは」


 子供はしばらく黙っていた。


「第四の声は」


 アリシアが初めて呼びかける。


 水滴の円がこちらへ向くように揺れた。


「その音を、どうすると言ってる?」


「名前にする」


「勝手に?」


「一つを選べば、くれる」


「選ばなかったら?」


「消える」


 第四の声は、また同じことを告げている。


 一つを選べ。


 過去か現在か。


 名前があるか、ないか。


 記録するか、消えるか。


 曖昧な音さえ、一つへ決めさせようとする。


「私たちは選ばせません」


 ミレイが言う。


「あなたが選ぶまで、記録も一つへしません」


「記録する者」


 子供の声が少し硬くなる。


 第四の声が混じったのか。


 ミレイはすぐに返事をしなかった。


「今の声は、あなたの言葉ですか」


 先に確認する。


 沈黙。


「分からない」


「では、続けなくていいです」


「続けないと、消える」


「消えないよう、私たちが覚えます」


「間違って」


「間違ったら、違ったと残します」


「一つに」


 声が重くなる。


 水滴の円の周囲へ黒い線が浮かぶ。


 第四の声。


 子供の迷いへ入り込もうとしている。


「一つへ戻せ」


「嫌です」


 セレナが答える。


「音は一つだ」


「聞こえ方は違います」


「正しい名は一つ」


「今は、まだ名前ではありません」


「記録せよ」


「できません」


 ミレイが言う。


「正確ではないからではありません」


 黒い線がミレイへ伸びる。


 アリシアは黒月へ手を置く。


 まだ抜かない。


 線は子供の声と重なっている。


「本人が、まだ名前ではないと言っています」


 ミレイは続ける。


「だから、名前としては記録しません」


「なら、音を記せ」


「それぞれが聞いた音を、別々に残します」


「誤り」


「違いです」


「統一せよ」


「しません」


 黒い線が大きく震えた。


「アリシア」


 ノアが呼ぶ。


『中心が子供から離れたわ』


 黒い線の根が、水滴の円の外へ浮かぶ。


 第四の声が、自分で形を作り始めている。


 今なら。


 子供の声を傷つけず、外側だけを切れる。


「切ります」


 アリシアは周囲へ伝えた。


「位置は?」


 レオンハルトが光を掲げる。


「水滴の右上。子供の声とは離れてる」


「照らします」


 白い光が鉄扉へ広がる。


 黒い線の中心が浮かび上がる。


 口の形ではない。


 細い針。


 曖昧な音を一つの文字へ留めようとする、筆先のような形。


「記録する者」


 第四の声が響く。


「書け」


「書きません」


 ミレイが答える。


「今は」


「残らない」


「残ります」


「どこへ」


 ミレイは自分の胸へ手を置く。


「私には『き』に聞こえました」


 アリシアは驚いた。


 自分と同じ。


 だが、まだ確認しない。


 隣の記録補助者が言う。


「私は『ひ』に聞こえました」


 レオンハルト。


「私には『し』です」


 結界術師の一人。


「音ではなく、息だけに聞こえました」


 違いが並ぶ。


 誰も相手へ合わせない。


「どれも残します」


 ミレイが言う。


「一つへ決めません」


 筆先の形が、強く震えた。


「アリシアさん!」


 ミレイが呼ぶ。


 アリシアは黒月を抜く。


 光の中へ浮かぶ黒い針。


 その根元だけを狙う。


「その音を、誰かの名前へ決めない」


 刃を振るう。


「本人が選ぶまで」


 黒月が針を断った。


 乾いた音。


 鉄扉の上へ浮かんでいた黒い線が弾け、細かな文字のような粒となって消える。


 水滴の円は残った。


 子供の声も。


「まだ、いる?」


 セレナが尋ねる。


「いる」


 返事がある。


 子供自身の声だった。


「音は?」


「ある」


「消えていませんか」


「うん」


 水滴が小さく揺れる。


「違うまま、覚える?」


「はい」


「嫌じゃない?」


「少し落ち着きません」


 セレナは正直に答えた。


「でも、私が落ち着くために、あなたの音を勝手に決めません」


 長い沈黙。


「次に」


 子供が言う。


「もう少し、出るかもしれない」


「名前が?」


「音」


「分かりました」


「また聞く?」


「あなたが聞いてほしいなら」


 水滴が一度だけ強く光った。


「聞いて」


 子供が言う。


「分かるまで」


「はい」


「でも」


「何ですか」


「違ったら、消して」


 ミレイが答える。


「消すのではなく、違ったと残します」


「残す?」


「最初にそう聞こえたことと、あとで違うと分かったことを、両方」


「間違いも?」


「はい」


「恥ずかしくない?」


 子供の問いに、ミレイの表情が少し揺れる。


 自分の誤記。


 聞き違い。


 記録する者にとって、恥ずかしいものだったかもしれない。


「少し恥ずかしいです」


 それでも正直に答える。


「でも、間違えたことを消す方が怖いです」


「どうして」


「誰かが同じように聞き間違えたとき、一人だけだと思ってしまうから」


 違いを残す。


 間違いも。


 修正も。


 そうすれば、あとから来る誰かが、自分だけがおかしいと思わずに済む。


「分かった」


 子供の声が遠くなる。


「まだ、名前じゃない」


「うん」


 アリシアが返事をする。


「でも、音はある」


「覚えてる」


「違う音で?」


「違うまま」


 水滴の円が消える。


 鉄扉の表面には、何も残らなかった。


 接触班はその場で記録を照合しなかった。


 全員が別々の紙へ、自分が聞いた音を書く。


 き。


 ひ。


 し。


 息だけ。


 判別不能。


 五つの記録が封印袋へ分けられる。


 どれが正しいとは決めない。


 多数決もしない。


 セレナは何と聞こえたか、最後まで誰にも言わなかった。


「書かなかったの?」


 帰りの通路でアリシアが尋ねる。


「書きました」


「何て?」


「今は言いません」


「どうして」


「皆さんの記録を見る前に、自分の音を守りたいからです」


「そっか」


「アリシアは?」


「言わない」


 二人は少しだけ笑った。


 同じ音かもしれない。


 違うかもしれない。


 確かめたい気持ちはある。


 けれど今は待つ。


 子供の音が、本人の中で少しずつ名前へ近づくまで。


 地上へ戻ると、カイルが真っ先に駆け寄ってきた。


「どうだった」


「話せました」


 セレナが答える。


「名前は?」


「まだです」


「音は?」


「まだ共有しません」


「俺にも?」


「全員にです」


「何のために待ってたと思ってるんだ」


「全部をすぐ聞けるとは約束していません」


「大事なところだろ」


「だからです」


 カイルは不満そうだったが、しばらくして息を吐いた。


「分かった」


「聞かないのですか」


「聞くなって言ってるんだろ」


「はい」


「なら、待つ」


 セレナは少し驚いたあと、穏やかにうなずいた。


「ありがとうございます」


「その代わり、危険だったかは話せ」


「第四の声が現れました」


「最初にそれを言え!」


 声が大きくなり、近くにいた警備隊員たちが一斉に振り返る。


 セレナは耳を押さえる。


「声が大きいです」


「危険だったなら先に言え!」


「戻ってから順番に説明するつもりでした」


「順番がおかしい!」


 いつものようなやり取り。


 それを見ながら、アリシアは少しだけ安心した。


 すべてが戻ったわけではない。


 水の子供には、まだ名前がない。


 第四の声も消えていない。


 リィの登録名も、自分のものとして戻っていない。


 それでも。


 最初の一音が浮かんだ。


 聞こえ方は違う。


 誰かの名前かも分からない。


 正しい音を急いで決めることもできない。


 だが、ないのではない。


 まだ形になっていないだけ。


 その日の午後。


 治療棟のリィへ、接触結果の一部が伝えられた。


 水の子供が短い音を持っていること。


 人によって違って聞こえたこと。


 本人が、まだ名前ではないと話したこと。


 リィはしばらく黙って聞いていた。


「俺と同じだな」


「何が?」


 同級生が尋ねる。


「名前がないんじゃなくて、まだ分からない」


「お前は登録名あるだろ」


「でも、今は俺のものって思えない」


「それでも?」


「なくなったんじゃなくて、戻る途中かもしれない」


 リィは自分の喉へ触れた。


「だから、急がなくていい」


 それは自分へ向けた言葉でも。


 水の中の子供へ向けた言葉でもあった。


「リィって呼ぶのは?」


「今はいい」


「今は、か」


「変えたくなったら言う」


「覚えとく」


「忘れたら?」


「もう一回聞く」


 少年は笑った。


 夕方。


 ミレイたちによる記録照合が行われた。


 五つの封印袋を、一つずつ別の者が開く。


 最初の記録。


 き。


 二つ目。


 ひ。


 三つ目。


 し。


 四つ目。


 息のみ。


 五つ目。


 セレナの記録。


 書かれていたのは。


 ――音は聞こえた。しかし、文字へ置き換えると形が変わる気がしたため、記さない。


 ミレイはその紙を長く見つめた。


「書かなかったのですか」


「はい」


「聞こえなかった?」


「聞こえました」


「では、なぜ」


「文字にした瞬間、それが正しい音になってしまいそうだったからです」


 ミレイは少し考えたあと、うなずく。


「その判断も残します」


「音を書かなかったことを?」


「はい」


「記録として不十分ではありませんか」


「不十分です」


 ミレイは正直に答えた。


「でも、その不十分さを消しません」


 完全な記録はない。


 聞いた音を文字にできない者もいる。


 記録しない方が正しいと感じる者もいる。


 その違いもまた、子供の一音がまだ名前ではないことを示していた。


 学院長は五つの記録を一つへ統合しなかった。


 別々の封印庫へ収める。


 閲覧者も分ける。


 一人が全部を見れば、無意識に一つの音へ寄せてしまう可能性があるからだ。


「次回接触まで、音の共有は禁止する」


 学院長が決める。


「ただし、危険反応や第四の声の言葉は共有する」


 第四の声は。


 曖昧な音を一つへ決めようとした。


 記録者へ書かせようとした。


 子供へ、正しい名は一つだと迫った。


 それを拒んだことで。


 筆先のような黒い形は壊れた。


「第四の声は、器を作るために名前を固定しようとしているのかもしれません」


 ミレイが言う。


「固定?」


 アリシアが尋ねる。


「曖昧な記憶や音を、一つの記録へ決める」


「それが器になる?」


「可能性です」


 ミレイは複数の紙を見る。


「器は、一つの声へ戻そうとします。なら第四の声は、その前に違いを消し、一つの名前を作る役割なのかもしれません」


 水の子供へ。


 失われた五百人へ。


 リィへ。


 曖昧なものを一つへ決める。


 違う呼ばれ方を消す。


 本人が選ぶ前に。


「だから、私たちが違うまま残すことが抵抗になる」


 レオンハルトが言う。


「はい」


「でも、ずっと曖昧なままにはできない」


 カイルが腕を組む。


「本人が決めたら、一つになるだろ」


「本人が選んだ一つと、器に決められた一つは違います」


 セレナが答える。


「二つを持つことを選ぶかもしれません」


「名前を二つ?」


「私のように」


 現在の名。


 失われた過去の名。


 どちらか一つにする必要はない。


 子供の音も。


 一つの名前になるかもしれない。


 複数の呼ばれ方を持つかもしれない。


 あるいは、今とは全く違う名を自分で選ぶかもしれない。


「次に会うまで」


 アリシアは言う。


「私たちは音を決めない」


「はい」


「でも、忘れない」


「はい」


 夜。


 西側貯水槽の底。


 子供は暗い水の中で、自分の胸へ手を当てていた。


 周囲には無数の名前が浮かんでいる。


 どれも誰かのもの。


 どれも自分ではない。


 第四の声は、少し離れた場所から囁いていた。


「き」


 黒い口が言う。


「それがお前の名だ」


 子供は首を横へ振る。


「ひ」


「違う」


「し」


「違う」


「ならば、選べ」


「まだ」


「名がなければ、消える」


「まだ、分からない」


 昨日より、はっきり言えた。


 黒い口が歪む。


「人は忘れる」


「違うまま、覚えると言った」


「誤りだ」


「違いだと言った」


 子供は、今日聞いた声を一つずつ思い出す。


 き。


 ひ。


 し。


 息だけ。


 書かなかった音。


 どれも、自分を決めなかった。


 どれも、自分が選ぶまで待つと言った。


「次に」


 子供が小さく呟く。


「もう少し、聞こえる」


「我が与える」


「いらない」


 初めて。


 第四の声へ、はっきり拒絶を返した。


 水の底が揺れる。


 無数の名前が波のように広がる。


 黒い口の周囲へ、再び亀裂が入った。


 子供の胸の奥。


 最初の一音の隣へ。


 もう一つ。


 小さな音が浮かぶ。


 まだ名前ではない。


 つなげ方も分からない。


 けれど今度は。


 第四の声が与えたものではなかった。


 子供自身が。


 消えたくないからではなく。


 次に会ったとき、聞いてもらうために。


 自分の中から見つけた、二つ目の音だった。

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