第103話 二つ目の音が生まれても、名前にするかは本人が決める
翌日の学院は、静かすぎるほど静かだった。
授業は一部だけ再開されていたが、普段のようなざわめきは戻っていない。教室の扉は開いていても、生徒たちは廊下へ溢れず、水を使う実習や長時間の移動はすべて延期されていた。
中庭の噴水は止められている。
食堂の水桶には蓋がされ、必ず二人以上で扱う。
治療棟では薬湯を用いる前に、水面へ人影や文字が浮かばないかを確認し、寮の洗面所にも交代制の見張りが置かれていた。
それでも、恐怖だけで水を避けることはしなかった。
水を使わずに生活することはできない。
飲む。
洗う。
治療する。
料理する。
神器や器が水を利用するからといって、水そのものを敵にすれば、学院の生活はすぐに崩れてしまう。
だから教師たちは、生徒たちへ何度も説明した。
水に近づくな、ではない。
一人で近づかない。
名前を呼ばれても、すぐには返事をしない。
違和感があれば、隠さず伝える。
自分が何と呼ばれたいか分からなくても、無理に決めなくてよい。
同じ内容は、校内放送では流されなかった。
第四の声が名前や声を利用する可能性があるため、各教室や寮で、担当教師と生徒たちが少人数ごとに確認している。
そのせいか。
学院では昨日から、互いの名前を呼ぶ声が増えていた。
「エリス、窓を閉めてもいい?」
「うん。でも全部じゃなくて、上だけにして」
「分かった」
「先生、今は家名じゃなくて、マルクと呼んでもらえますか」
「承知した、マルク」
「その呼び方、今日だけ変えてもいい?」
「もちろん」
以前なら、わざわざ確認しなかったこと。
少し面倒だと感じた者もいた。
毎回聞いていたら話が進まない。
いつも通りでいいだろう。
そんな声もあった。
けれど、誰かが何と呼ばれたいかを尋ねたことで、初めて分かることも多かった。
幼い頃の愛称が嫌いな者。
家名で呼ばれると家族を思い出して安心する者。
反対に、家族との関係が苦しく、学院では名だけを使いたい者。
親しい相手以外から名で呼ばれることを好まない者。
そして、今は何と呼ばれたいか決めたくない者。
一つの正しい呼び方へは、まとまらなかった。
だからこそ、第四の声が作ろうとする「一つの正しい名」へ抗えているのかもしれない。
アリシアは中央棟二階の小会議室で、窓の外から聞こえる名前を呼び合う声へ耳を傾けていた。
机の上には、五つの封印袋が並んでいる。
水中の子供が最初に発した音について、それぞれが別々に残した記録だった。
き。
ひ。
し。
息だけ。
そして、文字に置き換えないと判断したセレナの記録。
袋はまだ開かれていない。
昨日の照合では内容だけ確認したが、互いの筆跡や細かな表現が、今後の聞こえ方へ影響する可能性を考え、再び別々に封じられていた。
「見ているだけでは、中身は変わりませんよ」
向かい側からミレイが言った。
「見てない」
「封印袋をずっと見ています」
「考えてるだけ」
「何をですか」
アリシアはすぐに答えなかった。
小会議室には、アリシアとミレイ、ノアしかいない。
正確には、廊下の外へ警備教師が一人いるが、扉は閉じられている。
セレナは治療棟で体調確認。
レオンハルトはルクスの羽根の観測。
カイルは地下水路外周の警備訓練。
午後から、水中の子供との二度目の接触会議が予定されている。
「二つ目の音」
アリシアは言った。
「水の中で、あの子に浮かんだものですね」
「うん」
「何か気になることがありますか」
「最初の音と、つながるのかなって」
き。
ひ。
し。
まだ聞こえ方も決まっていない一音。
その隣へ、子供自身の内側から二つ目が浮かんだ。
第四の声が与えたものではない。
本人が、次に会ったとき聞いてもらうために見つけた音。
「つながるかもしれません」
ミレイは答える。
「つながらないかもしれません」
「分かってる」
「アリシアさんは、つながってほしいのですか」
思いがけない問いだった。
「どうして?」
「二つ目の音が生まれたと知ってから、アリシアさんは名前の形を考えています」
「考えるくらいは」
「悪くありません」
ミレイは否定しない。
「ただ、私たちが先に名前の候補を作ると、その形に聞こえやすくなります」
昨日と同じ。
セかもしれない。
誰かがそう口にした瞬間、曖昧だった音がセへ寄り始めた。
一音だけでもそうだった。
二音になれば、さらに言葉として認識しやすくなる。
き、の次に何かが続けば。
既に知っている名前へ当てはめたくなる。
「考えない方がいい?」
「考えないことは難しいです」
ミレイは少し笑った。
「私も考えました」
「どんな名前?」
「言いません」
「ずるい」
「言えば、アリシアさんの耳にも残ります」
正しい。
それでも少し気になる。
アリシアが封印袋から視線を外すと、ノアが窓辺で大きく伸びをした。
『人間は、形のないものを見ると、すぐ知っている形へ入れたがるのよ』
「ノアは考えてないの?」
『考えているわ』
「何だと思う?」
『言わない』
「ノアまで」
『私は千年前の名前も多く知っている。私の予想は、あなたたちより余計な影響を与えるでしょうね』
アリシアはノアを見る。
千年前。
六つの神器。
神獣。
器。
水中の子供が、当時の誰かと関係している可能性もある。
「ノアは、あの子を知ってる?」
以前にも似た問いをした。
ノアはすぐには答えなかった。
窓の外へ金色の目を向けたまま、尾を一度揺らす。
『姿に覚えはない』
「声は?」
『今のところは』
「今のところ?」
『第四の声が混ざっている。あの子自身の声がどこまで残っているか、まだ判断できないのよ』
「神獣じゃない?」
『少なくとも、私が知る神獣の姿ではない』
「千年前の人?」
『可能性はある』
「セレナと関係ある?」
『可能性はある』
「全部可能性だね」
『分からないものを、分からないまま答えているだけよ』
アリシアは少しだけ唇を尖らせた。
けれど、今はその答えを受け入れられる。
以前なら、ノアが知っていることを隠しているのではないかと不安になったかもしれない。
今も少しは思う。
だが、話さないことと、知らないことは違う。
知っていても、今言えばこちらの見方を固定してしまうから黙る場合もある。
「千年前の名前と似てても、今は言わない?」
『ええ』
「もし本人が選んだ名前と同じだったら?」
『そのときに話すわ』
「違ったら?」
『違った名を、本人の名へ戻そうとはしない』
ノアの答えは迷いがなかった。
過去に誰だったか。
何と呼ばれていたか。
それが判明しても。
今、その子が何と呼ばれたいかとは別だ。
セレナと同じ。
失われた名と、現在の名。
過去が戻っても、今を消さない。
扉が叩かれた。
ミレイが返事をすると、警備教師が顔を出す。
「治療棟から連絡です。リィの記憶に変化がありました」
アリシアとミレイは同時に立ち上がった。
「名前が戻った?」
「完全には」
「何があったんですか」
「本人が、登録名の最初の文字を見て反応したそうです」
アリシアの胸へ緊張が走る。
「文字を見せたんですか」
「本人の希望です」
警備教師は先に説明した。
「治療記録へ署名が必要になり、本人が自分で確認したいと申し出ました。登録名全体ではなく、最初の一文字だけを、本人と治療責任者の合意の上で提示しています」
「どんな反応?」
「見覚えはある。ただし、自分の名前の一部かは分からないと」
「具合は?」
「頭痛が少し。第四の声の反応は確認されていません」
アリシアはミレイを見る。
「行く?」
「本人が面会を希望しています」
「誰に?」
「アリシアさんと、ミレイさんです」
ノアが窓辺から飛び降りる。
『なら、話は早いわね』
三人で治療棟へ向かう。
廊下は普段より人が少ない。
それでも各教室の中から、静かな話し声が聞こえていた。
「私は、今は姓でお願いします」
「分かった。変えたくなったら言って」
「俺は今まで通りでいいけど、呼ばれてもすぐ返事できないときがある」
「待つよ」
名前の話し合いは続いている。
大きな事件の中にある、小さな確認。
それが学院中へ広がっていた。
治療棟二階。
リィの病室前には、昨日より警備が増えていた。
扉の外へ水は置かれていない。
室内の花瓶も撤去され、窓辺にあった水差しは空になっている。
代わりに、飲み水は小さな封印瓶へ一回分ずつ分けられ、使用前に教師が確認する。
アリシアが扉を叩くと、リィの声が返った。
「入っていい」
中には治療責任者と、昨日の同級生がいた。
リィは机の前へ座っている。
机の中央には、小さな白い紙が一枚。
その上へ、黒い文字が一つだけ書かれていた。
アリシアは反射的に見ないよう視線を逸らす。
「見てもいいよ」
リィが言った。
「本当に?」
「見てほしいから呼んだ」
アリシアは紙へ目を向ける。
書かれていたのは、古い文字ではない。
学院で日常的に使われる文字。
リィの登録名、その最初の一文字。
丸みのある形だった。
「この文字を見たら」
リィは紙の端へ指を置く。
「知ってるって思った」
「読める?」
ミレイが尋ねる。
「読める。でも、俺の名前かは分からない」
「何を思い出しましたか」
「教室で呼ばれた声」
リィは目を閉じる。
「先生が出席を取るとき。最初にこの音があった」
「自分は返事をしていましたか」
「してたと思う」
「思う?」
「誰かが返事してる感じもする」
自分の記憶なのに。
少し離れた場所から見ているような感覚。
「書いてみたい?」
アリシアが尋ねる。
リィは迷った。
机の端には筆と紙が用意されている。
強制ではない。
本人が希望した場合だけ使う。
「書いたら、戻るかな」
「分からない」
「戻らなかったら?」
「戻らなかったって分かる」
「それだけ?」
「それも大事だと思う」
リィは紙を見る。
「名前、早く戻した方がいいんだろ」
「どうして?」
「みんなが困る」
「私は困ってない」
アリシアは答えた。
「リィって呼べるから」
「でも、それは仮だろ」
「仮でも、今は返事できる」
「登録名が本物かもしれない」
「うん」
「リィは、器が呼んだ名前かもしれない」
「うん」
「どっちが本当なんだよ」
少年の声が少し強くなる。
同級生が口を開きかけたが、止めた。
以前なら、登録名が本当だと言ったかもしれない。
今は本人の続きを待っている。
「どっちも嫌じゃない」
リィは言う。
「でも、どっちも俺って感じがしないときがある」
「今は?」
「リィは、少し俺に近い」
「登録名は?」
「教室の誰か」
リィは自分の胸へ手を当てる。
「俺が返事してたはずなのに、ほかの奴みたいに感じる」
アリシアは自分が「六つ目」と呼ばれていた頃を思い出した。
自分へ向けられている。
けれど、自分の名前ではない。
役割としては反応できる。
人としては遠い。
リィの場合は逆だった。
登録名は本人のものだったはずなのに。
第四の声へ触れられたことで、役所や学院が使う名前へ変わってしまった。
本人の内側から離れた。
「書かなくてもいいよ」
アリシアは言った。
「でも、見つけたのに」
「見つけた文字を、今すぐ自分に戻さなくてもいい」
「消えない?」
「紙にある」
「紙が消えたら」
「治療責任者が覚えてる」
治療責任者がうなずく。
「私も」
ミレイが言う。
「ただし、あなたが許可した範囲だけです」
「同級生も知ってる」
隣の少年が続ける。
「先生が呼んでた名前、俺は全部覚えてる」
「全部?」
「多分」
「多分かよ」
「お前が授業中に返事しなかった日も覚えてる」
「寝てた日?」
「起きてたけど聞いてなかった日」
「それは覚えてる」
リィの口から、自然に言葉が出た。
同級生が笑う。
「じゃあ、その日は登録名を呼ばれても返事しなかった」
「でも俺だった」
「そうだな」
「返事しないと、俺じゃない?」
「違うだろ」
同級生はすぐに答えた。
「寝てても、聞いてなくても、お前だった」
リィが少し目を見開く。
「じゃあ、名前に返事できなくても」
「お前はいる」
単純な言葉だった。
けれど、第四の声が繰り返してきた考えを否定する。
名を持たなければ消える。
呼ばれなければ存在できない。
返事をしなければ戻れない。
そんなことはない。
返事がなくても。
名前が分からなくても。
誰かがその人を覚えている。
「書くのは、また今度にする」
リィは自分で決めた。
治療責任者が確認する。
「最初の一文字は、今後も見える場所へ置きますか」
「今日はしまって」
「次に見たいときは?」
「俺から言う」
「分かりました」
紙は本人の前で封印袋へ入れられる。
鍵は治療責任者と、リィ本人が選んだ別の教師へ分けて預けられることになった。
一人で開けない。
本人が望んでも、体調を確認してから見る。
だが、本人が見たいと言ったことを、危険だからという理由だけで拒まない。
「アリシア」
リィが呼ぶ。
「うん」
「水の子供の音、増えたんだろ」
アリシアの身体がわずかに固くなる。
「どうして知ってるの?」
「夢で」
部屋の空気が変わる。
治療責任者が測定具へ手を伸ばす。
ノアは寝台の下から、リィの顔を見上げた。
「昨日の夜?」
「今朝、少し寝たとき」
「どんな夢?」
「昨日と同じ水の中」
「子供は?」
「いた」
「何をしてた?」
「最初の音の隣に、もう一つ置いてた」
リィは机の上へ指を二本並べる。
「石みたいに?」
「音だけど、形があった」
「どんな形?」
「説明できない」
「言葉にしなくていい」
ミレイが先に言う。
「記録する場合も、説明できないと残します」
「うん」
「音は聞こえましたか」
「二つ目は、少しだけ」
全員が待つ。
誰も候補を言わない。
リィは目を閉じる。
「最初より、柔らかかった」
「文字へできますか」
「したくない」
すぐに答えた。
「分かりました」
「セレナにも伝える?」
「本人へ確認してから」
アリシアが言う。
「リィは伝えてほしい?」
「伝えてほしい」
「音の感じも?」
リィは迷う。
「柔らかかった、だけ」
「ほかは?」
「言わない」
「分かった」
リィは小さく息を吐いた。
自分で、どこまで伝えるかを選べた。
「子供は、ほかに何か言いましたか」
治療責任者が尋ねる。
「第四の声と話してた」
「内容は?」
「第四の声が、その二つをつなげれば名前になるって」
「子供は?」
「まだ違うって言った」
アリシアの胸が熱くなる。
第四の声に与えられる前に。
本人が、自分の音を守っている。
「それから」
リィの表情が曇る。
「声が怒った」
「どんなふうに?」
「名前は、呼ばれて初めて名前になるって」
治療責任者が記録する。
「子供は何と?」
「誰に呼ばれるか、自分で決めるって」
部屋が静まった。
水中の子供は。
何と呼ばれたいかだけではなく。
誰に呼ばれたいかを考え始めている。
名前は音だけではない。
誰が呼ぶか。
なぜ呼ぶか。
返事を待つか。
それを、こちらから聞いた。
器の声と、人の声の違いを見せた。
子供はその違いを、自分の中へ持ち始めている。
「誰に呼んでほしいか、言ってた?」
アリシアが尋ねる。
「まだ」
「そっか」
「でも」
「何?」
「水の外の人に、って」
セレナたち。
アリシア。
ミレイ。
レオンハルト。
鉄扉の向こうから問いかけた者たち。
水の中だけで名を持つのではない。
外へ出た場所で呼ばれたい。
「次に会ったら」
リィは言う。
「音を聞いてほしいって」
「うん」
「でも、名前にしないでって」
「分かった」
「二つになったからって、勝手につなげないで」
「しない」
アリシアははっきり答えた。
「本人が決めるまで」
リィは安心したようにうなずく。
病室を出たあと。
アリシアとミレイは、すぐに作戦室へ向かわなかった。
廊下の窓際で立ち止まり、リィから聞いた内容を別々に口頭で確認する。
「水中の子供には、二つ目の音が生まれた」
ミレイ。
「二つ目は、最初より柔らかく感じられた」
アリシア。
「ただし、リィは文字への変換を望まなかった」
「子供は、二つの音をつなげれば名前になるという第四の声を拒否した」
「まだ違うと答えた」
「名前は、誰に呼ばれるかも自分で決めると話した」
「水の外の人へ呼ばれたい可能性がある」
少し違う。
ミレイは「可能性」と言った。
リィは「水の外の人に」と聞いたと話した。
「最後は、可能性じゃなくて言ってた」
アリシアが訂正する。
「そうでした」
ミレイはすぐに言い直す。
「子供は、水の外の人に呼ばれたいと話した」
「うん」
「誰か特定の相手かは不明」
「うん」
「名前として呼ばれることを望んでいるかも、まだ不明」
「音を聞いてほしいだけかもしれない」
二人で確認する。
それでも、紙へはまだ書かない。
リィの話した内容は、本人が許可した範囲で複数の記録者へ伝える。
その前に、セレナへ直接話す必要がある。
治療棟の別室。
セレナは、朝の診察を終えたところだった。
昨日より顔色はよい。
ただし、水の神器から離れている時間が長くなっているため、時折手首へ違和感があるらしい。
アリシアとミレイから報告を聞く間、セレナは一度も口を挟まなかった。
二つ目の音。
柔らかい。
文字へしたくない。
まだ名前ではない。
誰に呼ばれるかを自分で決めたい。
水の外の人に呼ばれたい。
最後まで聞いたあと。
セレナは白布を巻いた手首を見つめた。
「私に呼んでほしいのでしょうか」
最初に出たのは、その言葉だった。
アリシアはすぐに答えなかった。
「そう思う?」
「分かりません」
「呼びたい?」
セレナは長く黙る。
「はい」
正直な答え。
「でも、怖いです」
「何が?」
「私が呼んだ瞬間、その音が私とつながってしまうこと」
セレナ。
セかもしれないと言われた最初の音。
水の子供。
七歳の姿。
失われた過去。
周囲は結びつけないよう気をつけている。
それでもセレナ自身が、最も強くつながりを感じている。
「もし、あの子が過去の私だったら」
部屋の空気がわずかに張る。
初めて、セレナが可能性を口にした。
「過去のセレナ?」
アリシアが尋ねる。
「七歳より前の私の記憶」
「子供が?」
「分かりません」
セレナはすぐに言う。
「でも、年齢が近い。名前を失っている。水の中にいる。私が失った記憶を持っているように見える」
「五百人の名前も持ってる」
「はい」
「セレナ一人の記憶だけじゃない」
「だから違うとも思います」
一つの可能性。
けれど、決められない。
「もし過去のセレナだったら」
アリシアは慎重に尋ねる。
「今のセレナが名前をつけることになる?」
「自分で自分を呼ぶことになるかもしれません」
「嫌?」
「分かりません」
「怖い?」
「はい」
「でも、会いたい?」
「はい」
答えが重なる。
怖い。
会いたい。
呼びたい。
決めたくない。
矛盾していても、どれも本当だった。
「私以外に呼んでほしいと言うかもしれません」
セレナは続ける。
「そのとき、寂しいと思うかもしれない」
「うん」
「でも、私が呼ぶべきだとは言いたくありません」
「うん」
「選んでほしいです」
水中の子供へ。
誰に呼ばれたいか。
本人が決める。
「その選択が、私でなくても」
声が少し震えた。
「待ちます」
アリシアは、セレナの言葉を聞いていた。
簡単に言えることではない。
自分と関係があるかもしれない相手。
失われた過去へつながるかもしれない存在。
その子が、自分ではない誰かを選ぶ可能性を受け入れる。
それでも本人の意思を守る。
「寂しかったら、言って」
アリシアが言う。
「誰に?」
「私に」
「何をしてくれますか」
「一緒に寂しくなる」
セレナが目を瞬く。
そのあと、小さく笑った。
「やはり、解決はしてくれないのですね」
「できるか分からないから」
「でも、一人ではない?」
「うん」
「では、お願いします」
午後の接触会議では。
水中の子供へ、すぐに会いに行く案は採用されなかった。
二つ目の音が浮かんだ直後。
第四の声が、つなげれば名前になると迫っている。
今こちらから接触すれば、子供へ答えを急がせる可能性がある。
「本人が聞いてほしいと言っている」
カイルは反対した。
「なら、行った方がいいんじゃないのか」
「いつとは言っていません」
ミレイが答える。
「でも、待たせすぎたら消えるって思うかもしれない」
「その可能性もあります」
「じゃあどうする」
会議室へ沈黙が落ちる。
すぐ行く。
待つ。
どちらにも危険がある。
「こちらから時刻を決めない」
レオンハルトが言った。
「どういう意味だ」
「向こうから接触の合図を送れる方法を作ります」
「水を開けておくのか」
「管理された場所に限ります」
水中の子供が。
音を聞いてほしいと思ったとき。
こちらへ伝えられる小さな入口。
「呼び鈴みたいなもの?」
アリシアが尋ねる。
「近いです」
「第四の声も使うかもしれない」
セレナが言う。
「はい」
「どう見分けるのですか」
「見分けられないことを前提にします」
レオンハルトは続ける。
「合図があっても、すぐには応じない。複数人で確認し、子供自身の言葉かを尋ねる」
「どこに作る」
「西側貯水槽と水の神器の間に、独立した小さな水盤を置く」
結界術師が地図へ印をつける。
「学院中央部の地下観測室。周囲から切り離しやすく、貯水槽と封印室のどちらからも距離がある」
「水はどこから?」
「新しく作る」
「水の神器を使うの?」
「使いません」
水の神器を使えば、第三の器へ直接つながる。
代わりに、蒸気を冷やして作った水を一滴ずつ集める。
過去の記憶や既存の水路へ触れていない水。
「新しい水」
セレナが呟く。
「そこへ、子供が来られるかは分かりません」
「来られなかったことも記録する」
ミレイが言う。
「はい」
「第四の声だけが来たら」
アリシアが尋ねる。
「切る?」
「すぐには切りません」
学院長が答える。
「子供の声と重なっている場合がある。まず分離を試みる」
「分離できなかったら?」
「そのときに判断する」
一つの正解を先に決めない。
状況を見て。
本人の声を聞き。
周囲へ伝え。
役割を分けて判断する。
観測用の水盤作りは、夕方まで続いた。
地下観測室は、以前使われていた古い天体観測設備の保管庫だった。
窓はない。
壁は厚い。
床下に水路もない。
中央へ低い石台を置き、その上に白い浅皿を載せる。
皿には、名前も属性も示す紋様を刻まなかった。
六つの円も。
水の印も。
記録者の印も。
ただの円。
入口としての役割さえ、子供へ押しつけないため。
水は、風の神器継承者が空気中の湿気を集め。
火の神器継承者が弱い熱で蒸気へ変え。
土の神器継承者が作った冷たい石板で冷やした。
一滴。
また一滴。
新しい水が皿へ落ちる。
「俺が水を作る側になるとはな」
カイルが小さな炎を維持しながら言う。
「燃やしすぎないでください」
セレナが近くから注意する。
「分かってる」
「先ほど一度、温度が上がりました」
「一度だけだろ」
「一度で蒸発量が変わります」
「細かいな」
「役割ですから」
「水の神器はないだろ」
「知識は残っています」
セレナの返事に、カイルが少しだけ笑う。
「そうだったな」
神器がなくても。
セレナが水について学んだ時間は消えない。
水の神器継承者という役割だけではない。
一人の治療師として。
学んできた者として。
その知識を使っている。
レオンハルトはルクスの羽根を、水盤から離れた位置へ置いた。
光が干渉しすぎないよう、封印布は完全には外さない。
アリシアは黒月を抜かず、石台の周囲を歩いた。
闇の線はない。
器の反応もない。
ミレイたちは、作業工程を一つの記録へまとめず、それぞれ違う位置から残している。
「水、三分の一」
風の神器継承者が言う。
「これ以上必要ですか」
セレナが皿を見る。
浅い水面。
鏡になるほどではない。
底が見える。
「十分です」
学院長が答えた。
「子供が現れやすい深さへ調整しないのですか」
ミレイが尋ねる。
「こちらが現れ方を決めるべきではない」
「分かりました」
夜。
観測室には五名だけが残った。
アリシア。
セレナ。
ミレイ。
レオンハルト。
結界術師。
ノアもいる。
カイルは扉の外。
風と土は地上通信。
学院長は隣室で全体指揮。
水盤へ向かって、誰も呼びかけなかった。
来てほしい。
音を聞かせて。
名前を知りたい。
どれも言わない。
ただ、子供が自分から合図を送れる場所として、水を残す。
「待つだけなのですね」
ミレイが小さく言う。
「うん」
「いつまで?」
「今日は鐘が三回鳴るまで」
セレナが答えた。
「来なかったら?」
「明日も同じ時間に水を置きます」
「毎日?」
「必要なら」
「子供が来たくない場合は」
「水を揺らさなくていい」
時間を決める。
けれど来ることは強制しない。
一度目の鐘。
何も起きない。
地下観測室には、呼吸と筆の音だけが残る。
二度目の鐘。
水面は静か。
アリシアの足が少し痺れてきた。
座り直したい。
でも動いた音で合図を見逃すかもしれない。
『普通に動きなさい』
ノアが言う。
『でも』
『待つことと、固まることは違うわ』
アリシアはゆっくり足を組み直した。
ミレイも肩を回す。
セレナは一度水盤から目を離し、目を閉じる。
来てほしいという気持ちを、ずっと水へ向けていれば、それも圧力になる。
三度目の鐘が鳴る。
最後の音が消える。
水面は変わらなかった。
「今日は終わりです」
セレナが言う。
少しだけ残念そうだった。
それでも、もう一度呼びかけようとはしなかった。
「記録」
ミレイが言う。
「子供の反応なし」
「来なかった、ではなく」
アリシアが言う。
「反応を確認できなかった」
「はい」
聞こえなかっただけかもしれない。
来たが、姿を見せなかったかもしれない。
来ないと選んだかもしれない。
分からない。
水を処分する前に、結界術師が異常を確認する。
問題なし。
セレナが立ち上がった、そのとき。
浅い水面に、一つだけ泡が浮かんだ。
全員が止まる。
泡はすぐには割れない。
水の中央へ留まり、内側から小さく震えている。
「合図?」
アリシアが尋ねる。
「分かりません」
セレナが水盤へ向き直る。
誰も近づかない。
泡が少しずつ膨らむ。
その中から。
最初の音が聞こえた。
「……き」
アリシアには、そう聞こえた。
続いて。
二つ目。
「……あ」
柔らかい音。
最初の音より明るく。
水から空気へ出ようとするような響きだった。
アリシアは息を止める。
き、あ。
二つをつなげそうになる。
知っている名前へ変えそうになる。
けれど口にしない。
隣も見ない。
「聞こえました」
セレナが言う。
「あなたの音ですか」
泡の中から返事がある。
「うん」
子供自身の声。
「二つになったのですね」
「うん」
「つなげて呼んでほしいですか」
沈黙。
「まだ」
「分かりました」
セレナはすぐに答えた。
「誰に聞いてほしいですか」
泡が揺れる。
この問いは、子供が考え始めていたもの。
誰に呼ばれたいか。
「みんな」
小さな返事。
セレナの目が揺れる。
「ここにいる全員?」
「外の」
「水の外にいる人たち?」
「うん」
「今、ここにいない人も?」
「まだ、分からない」
子供は自分の言葉で答える。
第四の声は混ざっていない。
黒月も反応しない。
「では」
ミレイが尋ねる。
「今の二つの音を、私たちが別々に覚えてよいですか」
「うん」
「文字へしても?」
泡が震える。
「まだ、嫌」
「書きません」
「忘れない?」
「覚えます」
「違って聞こえたら?」
「違うまま覚えます」
子供の声が少しだけ明るくなる。
「次は」
「何ですか」
「三つ目」
「もう浮かんでいますか」
「まだ」
「では、待ちます」
「来なかったのに?」
子供が尋ねる。
アリシアは少し迷う。
「来なかったと思ってた」
「いた」
「最初から?」
「見てた」
水盤の底。
姿を見せず。
声も出さず。
こちらが待つか。
呼び続けるか。
怒るか。
諦めるか。
子供は見ていた。
「どうして、すぐ話さなかったの?」
アリシアが尋ねる。
「決めてた?」
「何を?」
「来るって」
「分からなかった」
「じゃあ」
「帰ろうとしたから」
鐘が三回鳴り。
セレナたちが終わりを受け入れた。
来ないことを責めず。
明日も水を置くと決め。
水を処分しようとした。
そのとき、子供は初めて合図を出した。
「来なくても」
子供が言う。
「怒らない?」
「怒りません」
セレナが答える。
「忘れない?」
「明日も水を置きます」
「ずっと?」
セレナはすぐには約束しなかった。
ずっと。
永遠に。
守れない約束になるかもしれない。
「置けない日が来るかもしれません」
正直に言う。
泡が小さくなる。
「でも、置けないときは伝える方法を探します」
「消えたら?」
「探します」
「見つからなかったら?」
「見つからなかったことを、なかったことにはしません」
泡はしばらく揺れていた。
「名前ができたら」
子供が言う。
「呼んで」
「はい」
「みんなで」
「あなたが望む範囲で」
「一つに?」
第四の声の言葉を思い出している。
一つへ。
同じ音で。
同じ名前を。
「違う声で」
アリシアが答えた。
「同じ名前でも、みんな違う声で呼ぶ」
「違っても?」
「うん」
「間違ったら?」
「言い直す」
「返事できなかったら?」
「待つ」
子供は長く黙った。
それから。
「分かった」
泡が割れる。
小さな水滴が水盤へ戻る。
子供の声は消えた。
けれど、今度は突然切られた感じがしなかった。
自分から戻った。
次に来るために。
「第四の声は現れませんでした」
ミレイが言う。
「黒い線も」
アリシアが答える。
「子供自身で来られた?」
セレナが水面を見る。
「新しい水だからかもしれません」
レオンハルトが言う。
「記憶へつながっていない水」
「器の本体から離れられた?」
「一時的に、ですが」
水中の子供は。
第四の声を通さず。
第三の器の大きな水面も使わず。
自分の声で、こちらへ来た。
これは大きな変化だった。
ただし。
「二つ目の音」
アリシアが言う。
全員が視線を合わせないようにする。
「ここで共有しません」
ミレイが確認する。
「各自、自分の記憶へ残します」
「文字にも?」
「本人が嫌だと言いました」
「書かない」
アリシアはうなずいた。
「忘れたら?」
「次に聞きます」
音を記録しない。
それは、記録を捨てることではない。
本人が文字へされることを望んでいない。
その意思を残す。
夜。
観測室を出たあと。
アリシアは扉の前で待っていたカイルに呼び止められた。
「どうだった」
「来た」
「音は?」
「言わない」
「またか」
「本人が文字にしたくないって」
「俺は文字にしない」
「口にしたら、カイルの音が私に混ざる」
「じゃあ、危険は?」
「なかった」
「第四の声は」
「来なかった」
カイルの表情が少し緩む。
「セレナは?」
「中にいる」
ちょうど扉が開き、セレナたちが出てくる。
カイルはセレナの顔色を見る。
言葉より先に。
怪我がないか。
意識がはっきりしているか。
それを確かめてから口を開く。
「無事か」
「はい」
「苦しくない?」
「少し疲れました」
「治療棟へ戻れ」
「報告が先です」
「報告はほかの奴もできる」
「私が聞いたことは、私が」
「全部一人で話すな」
セレナが言葉を止める。
カイルは、アリシア、ミレイ、レオンハルトを見る。
「四人で分けろ」
「あなたは聞かないのですか」
「聞きたい」
「では」
「でも、今すぐ全部は聞かない」
セレナが少し笑う。
「待てるようになりましたね」
「待ってる間、外でずっと歩いてたけどな」
「それは待てたと言うのでしょうか」
「入らなかった」
「そこは認めます」
小さなやり取り。
その間にも。
水中の子供が伝えた二つ目の音は、それぞれの胸の中に残っている。
まだ共有しない。
名前へつなげない。
本人が決めるまで。
同じ夜。
治療棟で眠りについたリィは。
再び暗い水の夢を見た。
水中の子供が、二つの音を両手へ持っている。
一つは冷たく。
一つは少し温かい。
第四の声は遠くで囁く。
「つなげろ」
子供は首を横へ振る。
「名になる」
「まだ」
「二つあれば、十分」
「足りない」
「何が」
子供は胸へ手を当てる。
「私が」
「音がお前だ」
「違う」
「名がお前を作る」
「違う」
「ならば、何がお前を作る」
子供はすぐに答えられない。
顔。
声。
三十一人の名前。
水の外で待つ人たち。
違う音のまま覚えると言った声。
来なくても怒らないと言った人。
名前がなくても消さないと言った人。
それらが胸の中へ浮かぶ。
「まだ、分からない」
子供は言った。
第四の声の黒い口が歪む。
「また、それか」
「分からないまま」
子供は二つの音を胸へ戻す。
「次を探す」
「我が与える」
「いらない」
「消える」
「待ってる」
「誰が」
子供は水の上を見た。
そこには何もない。
それでも。
新しい水盤の向こうで。
違う声の人々が、次に来ることを待っている。
「水の外の人」
子供は答える。
第四の声は、何も言わなかった。
黒い口の奥で。
初めて。
怒りではない感情が揺れる。
恐れ。
自分が与えなくても。
自分が一つへまとめなくても。
子供が名前を持つかもしれない。
その可能性を。
第四の声は、恐れ始めていた。




