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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第104話 待っていると伝えた場所へ、呼ばれていない声まで集まってくる


 新しい水盤が作られた翌朝、地下観測室の前には、予定されていない人の列ができていた。


 長い列ではない。


 それでも、授業再開前の静かな中央棟地下に、生徒や教師が十数人も集まっている光景は目立った。壁際へ寄って立つ者、階段の途中で順番を待つ者、落ち着かない様子で何度も扉を見る者。それぞれ制服や役割は違ったが、全員が何かを言いたそうな顔をしていた。


 先頭には、二年生の女子生徒がいた。


 その後ろには寮の管理補助をしている上級生。


 治療棟の助手。


 食堂職員。


 さらに、昨日名前について話し合った小班の生徒たちもいる。


 アリシアがセレナ、ミレイとともに地下へ降りてきたとき、列の者たちは一斉にこちらを見た。


 その視線を受け、アリシアの足が少しだけ止まる。


 以前なら、そのまま階段を戻りたくなったかもしれない。


 今も、人に見られることへ完全に慣れたわけではない。何か期待されていると感じると、胸の奥が硬くなり、言葉を間違えないよう考えすぎてしまう。


『逃げるほどではないでしょう』


 ノアが足元で言う。


『逃げない』


『なら、歩きなさい』


 アリシアはもう一歩進んだ。


「どうしましたか」


 セレナが列へ声をかける。


 すぐに全員が話し始めることはなかった。


 互いの顔を見て、誰が先に言うかを譲り合う。やがて一番前の女子生徒が、両手で握っていた小さな布袋を胸元へ寄せた。


「水盤へ、お願いを伝えられると聞きました」


 セレナの表情が少し変わる。


「誰から聞いたのですか」


「同じ寮の子です。地下に新しい水を置いて、水の中の子が来たいときだけ来られる場所を作ったと」


 話の内容は大きく間違っていない。


 だが、正式に公表された情報でもなかった。


 昨夜の観測に関わった者。


 作業へ参加した者。


 水盤のために湿気を集めた風の班や、冷却石を用意した土の班。


 完全に隠せる人数ではなかった。


「何をお願いしたいのですか」


 セレナは否定する前に尋ねた。


 女子生徒は少し俯く。


「妹の名前を、覚えていてほしいんです」


 廊下にいた者たちの空気が静まった。


「妹は学院の生徒ではありません。二年前に病気で亡くなりました」


 女子生徒は布袋を開く。


 中には小さな木札が入っていた。


 表面へ、一人の名前が彫られている。


「家には記録があります。私も両親も覚えています。でも、最近、名前が消えるとか、記録から人がいなくなるとか、そういう話を聞いて」


 声が震える。


「もし私たちまで忘れたらと思ったら、怖くなりました」


 水中の子供は、多くの名前を持っている。


 記録から消えた五百人近い名前を。


 それを守っているのか。


 集めているのか。


 利用されているのか。


 まだ分からない。


 それでも、名前を失うことを恐れた人々から見れば。


 水中の子供は、忘れられた名を預かる存在のように見え始めている。


「妹さんの名前を、水盤へ預けたいのですか」


 ミレイが尋ねた。


「はい」


「なぜ、その子へ?」


 女子生徒はすぐには答えられなかった。


「名前をたくさん覚えているから」


「ほかに理由は?」


「……ありません」


 ミレイは責めなかった。


 けれど記録帳へも手を伸ばさない。


「今のお願いを、記録してもよいですか」


「はい」


「妹さんの名前は書きません。名前を預けたいと考える人が現れたことだけです」


「どうして名前は」


「あなたが、まだ誰へ預けるか決めていないからです」


 女子生徒が木札を見る。


「水の中の子へ渡したいです」


「その子は、名前を預かる役割を選んでいません」


 ミレイの声は穏やかだった。


「今のところ、本人は自分の名前を探しています」


「でも、ほかの人の名前を持っているのでしょう?」


「持たされている可能性もあります」


 女子生徒の顔に迷いが生まれる。


「なら、渡したら迷惑ですか」


「分かりません」


 セレナが答えた。


「だから、本人へ確認せず預けることはできません」


「でも、会えるのですよね」


「会うための場所ではありません」


 セレナは地下観測室の扉を見る。


「来たいときに、本人が合図を送れる場所です」


「こちらから呼んではいけない?」


「絶対に呼んではいけないとは決めていません。ただ、今は名前を探している途中です。そこへ新しい名前を渡せば、本人の音と混ざるかもしれない」


「妹の名前が?」


「可能性があります」


 女子生徒は木札を強く握った。


 悲しそうだった。


 名前を残したい。


 忘れられたくない。


 その気持ちは間違っていない。


 けれど、残したいという願いが。


 水中の子供へ、新しい役割を押しつけることになるかもしれない。


 ほかの列の者たちも、それぞれ何かを持っていた。


 古い手紙。


 家族の名を書いた紙。


 亡くなった友人の徽章。


 遠い故郷の名が刻まれた石。


 名前を預けたい者だけではない。


 夢に出た声の意味を聞きたい者。


 行方不明の家族を、水中の子供が知っていないか尋ねたい者。


 自分の呼ばれ方を決めてもらいたいと考える者までいた。


 水盤は。


 子供が自分の音を持ってくるために作った。


 しかし存在を知った人々は、そこへ自分の願いを持ち込み始めている。


『こうなると思っていた?』


 アリシアがノアへ尋ねる。


『多少は』


『どうして言わなかったの』


『言えば作らなかった?』


 アリシアは答えられない。


 必要だった。


 水中の子供が、第四の声を通さずにこちらへ来られる場所。


 それを作ったから。


 子供は二つ目の音を聞かせた。


 誰に呼ばれるかを自分で決めたいと話した。


『入口は、来る者だけを選ばないわ』


 ノアが言う。


『扉を作れば、入ってほしい相手だけでなく、入ろうとする者も現れる』


『閉じる?』


『それを決めるのは、あなた一人ではないでしょう』


 地下観測室前の人数は、さらに増えていた。


 噂を聞いた者が、後から降りてきている。


 警備教師が階段を封鎖し、新たな者を止めた。


「ここへ集まらないでください!」


 強い声が響く。


 何人かが驚き、肩を跳ねさせる。


「水盤は願いをかなえる場所ではありません。名前を預かる場所でもありません。全員、地上へ戻ってください」


 正しい対応だった。


 未知の器とつながる場所へ、人が集まり続けるのは危険だ。


 それでも、女子生徒が木札を握ったまま動かなかった。


「では、妹の名前はどうすればいいんですか」


「家族で覚えていればよい」


 警備教師が答える。


「もし家族が忘れたら?」


「記録へ残す」


「記録が消えたら?」


「複数へ分ける」


「それでも全部消えたら?」


 質問が重なる。


 教師の声が止まる。


 絶対に消えない方法はない。


 紙は燃える。


 人は忘れる。


 家族もいつか亡くなる。


 どれほど大切に残しても、永遠を保証することはできない。


「水の子なら、ずっと持ってくれるかもしれない」


 列の中から誰かが言った。


「五百人の名前を九年間も持っていたんでしょう」


「器だから忘れないんじゃないか」


「なら、預けた方が安全だ」


「俺の村の名も」


「行方不明の兄の名前を知ってるかもしれない」


 声が重なり始めた。


 不安。


 期待。


 悲しみ。


 誰かを忘れたくないという願い。


 そのすべてが、地下観測室の扉へ向けられる。


 アリシアの腰にある黒月が、微かに震えた。


『ノア』


『分かっているわ』


 水盤。


 扉の向こう。


 誰も入っていないはずの観測室から。


 水が揺れるような小さな音がした。


「全員、扉から離れて!」


 アリシアが声を上げる。


 群衆が動く。


 だが狭い地下通路。


 後ろへ下がろうとした者同士がぶつかり、階段の手前で混乱が起きる。


「走らないでください!」


 セレナが叫ぶ。


「前の人から、ゆっくり階段へ!」


「名前を持っている物は、床へ置かないで!」


 ミレイも声を重ねる。


「そのまま持っていてください!」


 警備教師たちが人の流れを分ける。


 一人ずつ。


 押さず。


 転ばないように。


 アリシアは観測室の扉へ向き直った。


 黒月の震えが強くなる。


 昨夜。


 子供が来たときとは違う。


 あのとき黒月はほとんど反応しなかった。


 今は、扉の隙間から細い黒い線が何本も伸びている。


 人々が持つ木札。


 手紙。


 徽章。


 名前が刻まれた物へ向かって。


「第四の声です」


 アリシアが言う。


 セレナが扉を見る。


「水盤を使って?」


「たぶん」


「中に子供は?」


「分からない」


 人々の退避が終わるまで、扉は開けられない。


 第四の声が物へ線を伸ばしていても。


 持ち主ごと切れば、記憶や名前へ傷が及ぶかもしれない。


「ミレイ」


 アリシアが呼ぶ。


「はい」


「集まった人の名前、記録してる?」


「していません」


 すぐに答えた。


「人数と持参物の種類だけです」


「よかった」


「でも、第四の声は」


「名前そのものじゃなくて、名前を残したい気持ちへ伸びてる」


 アリシアは線を見る。


 木札に刻まれた文字からではない。


 持つ者の胸元と。


 名前の品を結ぶように。


 細い線が伸びている。


「執着?」


 ミレイが尋ねる。


「違う」


 セレナが言った。


「忘れたくない気持ちです」


 執着という言葉だけでは足りない。


 大切だったから。


 失いたくないから。


 水の中へ預ければ安全だと思ったから。


 第四の声は、その願いを見つけた。


「器は、願いを使います」


 レオンハルトが階段の上から到着した。


 ルクスの羽根を収めた保護筒を抱えている。


「第二の器と同じです」


「でも、今度は神獣じゃない」


 アリシアが言う。


「忘れたくない名前」


「それを集めれば」


 ミレイが息を呑む。


「第四の声は、新しい記録者を作らなくても、名前が自分から集まってくる」


 人々が。


 大切な名を持って。


 自分から水盤へ来る。


 子供へ預けるつもりで。


 実際には、第四の声へ渡してしまう。


「水盤を閉鎖します」


 警備教師が言う。


「すぐに中の水を処分する」


「待ってください」


 セレナが止めた。


「何を待つ」


「子供が中にいるかもしれません」


「それでも危険が大きすぎる」


「確認せず処分したら、子供ごと切り離す可能性があります」


「このまま人を集め続ける方が危険だ」


「人を集めたのは水盤ではありません」


「同じだ」


「違います」


 セレナの声が強くなる。


「水盤は、本人が来たいときに来るための場所です。私たちが、周囲へ説明せず管理したことが問題です」


 警備教師の顔が固くなる。


「責任の話をしている場合ではない」


「責任ではありません。閉じる前に、何を変えれば使えるか考えるべきです」


「時間がない」


 扉の向こうで、水音が強くなる。


 黒い線が増える。


 退避した者たちが持つ品へ伸びていた線は、途中で止まっている。


 距離が離れたことで、完全には届かない。


 だが切れてもいない。


「私が中を見ます」


 アリシアが言う。


「一人で入るな」


 カイルの声が階段から響く。


 外周警備から呼ばれたらしい。


 息を切らしながら降りてくる。


「一人じゃない」


「誰と入る」


「セレナと」


「水の神器はない」


「だから入れる」


「理屈になってない」


「水の神器がないから、器へ直接引かれにくい」


 セレナが補足する。


「アリシアが黒い線を見る。私は子供の声を確認する」


「俺は?」


「外です」


「またか」


「炎が水盤を壊す可能性があります」


「小さく使える」


「中が狭いです」


「俺も入れる」


「カイル」


 セレナが名前を呼ぶ。


 強い声ではない。


 それでもカイルは言葉を止めた。


「外で、集まった人たちを守ってください」


「警備隊がいる」


「名前の品へ、線が伸びています」


 セレナは階段の上を見る。


「炎で焼かないで。品を捨てさせないで。持ち主から離れないようにしてください」


「俺が品物を守る?」


「その人たちが、忘れたくないものです」


 カイルは眉を寄せた。


 戦う役割ではない。


 扉の外。


 直接器と向き合わず。


 持ち込まれた木札や手紙を守る。


 以前なら反発したかもしれない。


「分かった」


 短く答える。


「ただし、三分だ」


「何が?」


「中へ入って、三分で報告しろ」


「三分で終わらなかったら?」


「扉越しに名前を呼ぶ」


「返事できなくても?」


「できるまで呼ぶ」


 セレナの表情が少し緩む。


「分かりました」


 接触班は急いで編成された。


 アリシア。


 セレナ。


 レオンハルト。


 結界術師一名。


 ミレイは扉の外へ残る。


 今回、第四の声が名前を集めようとしているなら、記録者を中へ入れる危険が大きい。


「私は外で記録します」


 ミレイは自分から言った。


「中で起きたことは、戻ってから皆さんへ聞きます」


「見られなくても?」


 アリシアが尋ねる。


「見られなかったことを残します」


 扉の封印が外される。


 開けた瞬間、冷たい空気が流れ出した。


 地下観測室の中央。


 白い浅皿。


 新しい水。


 昨夜は三分の一ほどだった水が、今は皿の縁まで満ちている。


 どこから増えたのか。


 室内に水路はない。


 天井も壁も乾いている。


 水面の上には、無数の小さな文字が浮かんでいた。


 名前ではない。


 途中までの音。


 一文字。


 二文字。


 呼びかけ。


 愛称。


 家族だけが使っていた呼び名。


 誰かの記憶に残り。


 まだ品物へ刻まれていないもの。


「集まった人たちの記憶から?」


 セレナが息を呑む。


 アリシアは黒月を抜いた。


 黒い線は、水盤から扉の外へ伸びている。


 だが中央は別の形をしていた。


 細い黒い針が、水面へ浮かぶ音を一つずつ刺し。


 文字へ変えようとしている。


「第四の声」


 レオンハルトが光を弱く広げる。


 水盤の底。


 子供の影がいた。


 膝を抱え。


 浮かぶ音に囲まれ。


 耳を塞いでいる。


「聞こえますか」


 セレナが呼びかける。


 子供は顔を上げない。


「来たいときに来てよいと伝えた者です」


 反応がない。


 水面の音が増える。


「リィ」


 誰かの愛称。


「ミナ」


「ロウ」


「兄さん」


「母様」


「小鳥」


「泣き虫」


 名前とは限らない。


 呼ばれ方。


 役割。


 からかい。


 愛情。


 本人が大切にしているものも。


 嫌っているものも。


 区別なく集まっている。


「全部、名前にするつもり?」


 アリシアが黒い針を見る。


『正確には、返事をした音へ固定するつもりでしょうね』


 ノアが低く言う。


『どういうこと?』


『人は、自分へ向けられた音へ反応する。好きでも嫌いでも』


「嫌な呼び方でも?」


『ええ。呼ばれて腹を立てれば、それも返事よ』


 人見知りな闇の少女。


 六つ目。


 豆残し。


 記録係。


 水。


 呼ばれたくない名でも。


 自分のことだと認識すれば、器はそれを名前として固定できる。


「だから、集まった人たちから音を取った」


 セレナが言う。


「忘れたくない名前だけではなく、自分へ向けられた呼び方を全部」


 子供が耳を塞いでいる理由。


 無数の音が、水の中へ押し込まれている。


 自分の二つの音を探していたところへ。


 他人の呼ばれ方が流れ込む。


「あなたの音は、どこですか」


 セレナが尋ねる。


 子供の肩が震える。


「分からない」


 小さな返事。


「聞こえなくなった?」


「みんな、入ってくる」


「外から来た音です」


「私のかも」


「違います」


 セレナははっきり言った。


「少なくとも、全部があなたの音ではありません」


「どうして分かる」


「外にいる人たちが持ってきたものだから」


「でも」


 子供は水面を見る。


「声が言う」


 第四の声。


 黒い針が、水面の音を刺し続ける。


「一つ選べば、名になる」


「選ばなくていい」


「二つが、消える」


「消えていません」


「聞こえない」


「私たちは覚えています」


 セレナの声が少し震える。


「文字にはしていません。でも、聞きました」


「違う音で」


「違うまま」


「なら、どれが私」


「あなたが選ぶまで分かりません」


 子供が顔を上げる。


 青白い瞳。


 不安。


 怒り。


 恐怖。


「また、分からない?」


「はい」


「何も決めない」


「今は」


「遅い」


 水面の黒い針が強く光った。


 第四の声が、子供の口から出る。


「待てば、名は奪われる」


 子供自身の声と重なる。


「選ばぬ者は、他者の名へ沈む」


「今の声は、あなたの言葉?」


 セレナが尋ねる。


「私の」


「本当に?」


「分からない」


「では、答えなくていい」


「答えなければ」


「今は答えなくていい!」


 セレナの声が強く響く。


 子供が驚き、目を見開いた。


 セレナ自身も息を止める。


 強く言いすぎた。


 押しつけた。


 そう感じたのかもしれない。


「ごめんなさい」


 すぐに謝る。


「急がなくてよいと、私が決めることでもありませんでした」


「じゃあ」


「急ぎたいですか」


 子供は答えられない。


「決めたい?」


「分からない」


「待ちたい?」


「分からない」


「分からないことが、苦しい?」


 子供の目から、小さな水滴が浮かぶ。


 水の中。


 涙なのかも分からない。


「うん」


 初めて。


 子供は苦しさを認めた。


 待てばよい。


 決めなくてよい。


 そう言われても。


 分からないままでいることは楽ではない。


 自分が消えるかもしれない恐怖。


 第四の声が正しいかもしれない不安。


 水の外の人が、いつまで覚えているか分からない。


「苦しいまま待たせていた」


 アリシアが言った。


 セレナがこちらを見る。


「私たちは、急がなくていいって言った」


「はい」


「でも、待ってる間のことを聞かなかった」


 名前を決めなくてよい。


 音を一つへしなくてよい。


 それは守る言葉だった。


 けれど。


 子供は暗い水の中で。


 第四の声と二人きり。


 消えると脅され続けている。


 待つことを選ぶには、待っている間を支えるものが必要だった。


「私たちの声を、置いていける?」


 アリシアがレオンハルトへ尋ねる。


「記録として?」


「違う」


 水盤の中へ。


 名前ではなく。


 何か短い言葉を残す。


 子供が一人になったとき。


 第四の声以外にも、聞ける声を。


「第四の声が真似します」


 レオンハルトが答える。


「うん」


「言葉を固定すれば、器に利用される可能性もあります」


「うん」


「それでも置く?」


 アリシアは子供を見る。


 耳を塞ぎ。


 他人の音に囲まれ。


 自分のものが分からなくなっている。


「置きたいか、聞く」


 セレナが子供へ向く。


「私たちの声を、ここへ残してほしいですか」


「声?」


「あなたが一人のとき、聞けるように」


「名前を呼ぶ?」


「いいえ」


「何を言う」


 セレナはすぐには答えなかった。


 自分たちで内容を決めれば。


 また子供へ必要な言葉を押しつける。


「何を言ってほしいですか」


 子供は水面を見る。


 無数の音。


 黒い針。


 第四の声。


「分からない」


「では、言ってほしくないことは?」


 子供が少し考える。


「選べ」


「ほかは?」


「消える」


「ほかに?」


「正しい名は一つ」


 第四の声が繰り返す言葉。


「それ以外なら?」


「分からない」


「では」


 セレナは慎重に言う。


「私たちが今、あなたへ伝えたい言葉を置いてもよいですか」


 長い沈黙。


「一つずつ?」


「はい」


「同じじゃない?」


「違う言葉です」


「一つにしない?」


「しません」


 子供は小さくうなずいた。


 最初に、レオンハルトが前へ出る。


 光の神器を使わない。


 保護筒のルクスの羽根も開かない。


 自分の声だけで言う。


「返事を急がなくても、聞こえていることは伝わっています」


 水面へ、白い光の粒が一つ落ちる。


 文字にはならない。


 音の形だけが、水盤の端へ残る。


 次にセレナ。


「分からないと答えたことを、私は忘れません」


 淡い青い粒。


 アリシア。


 何を言えばよいか迷う。


 大丈夫。


 消えない。


 待っている。


 どれも約束しきれない。


「次に会ったとき、前と違っても聞きます」


 黒い粒が落ちる。


 変わっていても。


 音が増えていても。


 失っていても。


 同じ答えを求めない。


 結界術師は少し考え。


「来られないときは、来られないまま記録します」


 透明な粒。


 四つの声が。


 違う位置へ残る。


 混ざらない。


 同じ言葉へまとめない。


 子供が水面を見る。


「ミレイは?」


 扉の外にいる。


「外です」


「記録する人」


「呼びますか」


 子供は少し迷う。


「声を、置いてほしい」


 アリシアは扉へ向かう。


 外へ伝える前に。


 黒い針が強く震えた。


「記録する者」


 第四の声が響く。


「中央へ」


 水面の音が一斉にミレイの声へ変わる。


「き」


「ひ」


「し」


「セレナ」


「アリシア」


「リィ」


 ミレイの声で。


 すべてが呼ばれる。


 扉の外から、ミレイ自身の声が聞こえた。


「中で、私の声が使われていますか!」


「使われてる!」


 アリシアが答える。


「私は、今その言葉を話していません!」


 本人の声。


 水盤の偽物。


 同じ響き。


 違う場所。


「ミレイ」


 子供が水面を見る。


「どっち」


「外です!」


 ミレイが扉越しに叫ぶ。


「今は外にいます!」


「同じ声」


「はい!」


「分からない」


「分からなくていいです!」


 ミレイの声が震える。


「今、選ばなくていい!」


「また、それ」


 第四の声がミレイの声で笑う。


「待たせる者」


「違います!」


 ミレイが答える。


「待つことだけを押しつけました!」


 扉の外。


 姿は見えない。


 それでも声ははっきり届く。


「私たちは、待てば安全だと思っていました!」


 ミレイ自身も気づいたのだろう。


 子供へ。


 急がなくてよい。


 決めなくてよい。


 そう言った。


 けれど、待つ間の苦しさを記録していなかった。


「あなたが、分からないままで苦しかったことを残します!」


「残すだけ?」


「それだけでは足りません!」


「なら」


「私の声を置いてよいですか!」


 ミレイは、子供へ直接尋ねた。


 扉を挟んで。


 見えない相手へ。


「何を言う」


「私が、全部を正しく覚えているとは約束できません!」


 第四の声が笑う。


「不完全」


「はい!」


 ミレイは否定しない。


「でも、忘れたときは、忘れたと言います! 勝手な名前へ直しません!」


 子供の目が揺れる。


「それを置いていい?」


 ミレイが尋ねる。


「……うん」


 扉の隙間から、淡い灰色の粒が入る。


 水面へ落ちる。


 五つ目の声。


 違う言葉。


 違う色。


 水中の子供の周囲へ残る。


 第四の声が、黒い針を五つの粒へ向けた。


「統一せよ」


「しない」


 アリシアが黒月を構える。


 黒い針は。


 今回は水面の音だけではなく。


 扉の外へ伸びた線。


 名前の品を持つ者たちへつながる線。


 そのすべての中心になっている。


「切ったら」


 レオンハルトが言う。


「水盤との接続も切れる可能性があります」


「子供の声も?」


「分かりません」


 アリシアは子供を見る。


「切っていい?」


 以前なら。


 切るしかないと判断したかもしれない。


 今は尋ねる。


 子供は黒い針を見る。


 周囲の音。


 自分の二つの音。


 五つの声。


「怖い」


「うん」


「切ったら、音が消える?」


「分からない」


「切らなかったら」


「ほかの人の音がもっと入る」


「私が、選ぶ?」


「うん」


 子供の顔が歪む。


 選べと言われることを嫌がっていた。


 それでも。


 今度は。


 器が押しつける二択ではない。


 自分へ起きる危険を聞いた上で。


 周囲と一緒に判断するための選択。


「全部は、切らない?」


「中心だけ」


 アリシアが答える。


「あなたの音へ伸びてる線は、見ながら避ける」


「失敗したら?」


「違ったって言う」


 子供は少しだけ。


 水の中で笑ったように見えた。


「切って」


 アリシアは黒月へ力を流す。


 レオンハルトの光が黒い針の根元を照らす。


 セレナが子供の声を聞く。


 結界術師が水盤の縁を守る。


 扉の外では、ミレイが時間を数える。


「一」


 黒い針が水面へ深く刺さる。


「二」


 外の人々へ伸びた線が震える。


「三」


 アリシアは踏み込んだ。


 黒月の刃を。


 水面ではなく。


 針の中央へ振るう。


 硬い音。


 水盤の水が大きく持ち上がる。


 子供の姿が消えかける。


「いる!」


 セレナが名前ではなく、存在を呼ぶ。


「聞こえますか!」


「いる!」


 子供の返事。


 アリシアは刃を止めない。


 針が割れる。


 無数の音が、水盤から外へ弾けた。


 壁。


 床。


 天井。


 それぞれへ当たり。


 声となって響く。


「妹」


「母さん」


「泣き虫」


「隊長」


「六つ目」


「記録係」


「豆残し」


 呼ばれ方が。


 室内を飛び交う。


 アリシアの耳へ「六つ目」が届く。


 胸が一瞬冷える。


 けれど。


「アリシア!」


 扉の外からカイルが叫ぶ。


「いる!」


 すぐに返す。


「セレナ!」


「ここにいます!」


「レオンハルト!」


「はい!」


「ミレイ!」


「外にいます!」


 偽物の呼び方へ返事をしない。


 自分が受け取りたい名前へ答える。


 セレナも。


 水、と呼ばれても答えない。


 レオンハルトも。


 光、とだけ呼ばれても、今は応じない。


 名前が飛び交う中。


 水中の子供の音も聞こえた。


「……き」


「……あ」


 二つ。


 ほかの音へ混ざりそうになる。


 アリシアは口にしない。


 ただ覚える。


 子供が自分でつないでほしいと言うまで。


 黒い針が完全に砕けた。


 水盤の水が、皿の中へ戻る。


 扉の外へ伸びていた線も切れた。


 観測室へ静けさが戻る。


 子供はまだいた。


 姿は薄い。


 けれど消えていない。


「音は?」


 セレナが尋ねる。


 子供は胸へ手を当てる。


「ある」


「二つとも?」


「うん」


「ほかの音は?」


「遠くなった」


 アリシアは息を吐いた。


「声は?」


「ある」


 子供は水面の端へ残った五つの粒を見る。


 違う言葉。


 違う色。


 違う声。


「一人じゃない?」


 子供が尋ねる。


「今は」


 セレナが答える。


 ずっととは言わない。


 来られない時間もある。


 置いた声が消える可能性もある。


「声が消えたら」


 子供が続ける。


「また置いていいか聞きます」


 レオンハルトが答えた。


「勝手に増やしません」


「外の人の名前」


 子供が言う。


「持ってきた」


「預けたいと言った人が来ました」


 セレナは隠さなかった。


「受け取りたいですか」


 子供はすぐに首を横へ振る。


「いらない」


「分かりました」


「怒る?」


「外の人が?」


「うん」


「悲しむ人はいると思います」


 セレナは正直に答える。


「でも、あなたが受け取らないと決めたことを伝えます」


「嫌われる?」


「分かりません」


「また、分からない」


「はい」


 子供は少し不満そうに見えた。


 けれど以前ほど怯えてはいない。


「でも」


 セレナは続ける。


「受け取らないからといって、あなたが悪いとは言わせません」


「名前を、守らないのに?」


「守る役割を選んでいません」


「五百人は?」


「持っているのですか」


「うん」


「持ちたい?」


 長い沈黙。


「分からない」


「では、そのことも次に聞きます」


「今、決めなくていい?」


「苦しいなら、苦しいと言ってください」


 子供はうなずく。


「苦しい」


「聞きました」


「残す?」


 扉の外からミレイの声が届く。


「残します!」


「一つに?」


「違う言葉で!」


 子供の姿が少しずつ水へ沈む。


「次は」


「うん」


 アリシアが答える。


「三つ目が、あるかも」


「聞かせたい?」


「まだ、分からない」


「分かった」


「でも」


「何?」


「水を、置いて」


 セレナがうなずく。


「明日も置きます」


「来なかったら」


「反応を確認できなかったと残します」


「怒らない?」


「怒りません」


 子供は水の中へ消えた。


 今度も。


 第四の声に引きずられたのではなく。


 自分から戻った。


 観測室を出る。


 扉の外。


 名前の品を持ってきた者たちは、地上の広い教室へ移されていた。


 カイルが一人ずつの品を確認し、持ち主から離れないよう預け直している。


 火の神器は使っていない。


 手紙が濡れていないか。


 木札が欠けていないか。


 徽章が誰のものか。


 本人へ聞きながら返していた。


「何と?」


 最初の女子生徒がセレナへ尋ねる。


「妹の名前を、受け取ってくれるって?」


 セレナは少しだけ間を置いた。


「受け取らないと答えました」


 女子生徒の顔が歪む。


「どうして」


「その子は、名前を預かる役割を望んでいません」


「でも、もうたくさん持っている」


「それも、本人が望んだものか分かりません」


「妹の名前を覚えてほしいだけなのに」


「はい」


「誰か一人でも」


 女子生徒の目に涙が浮かぶ。


「私たちがいなくなったあとも、残ってほしいんです」


 周囲にいた者たちも俯く。


 同じ気持ちで来た者が多い。


 永遠に残したい。


 忘れられたくない。


 けれど。


「その願いを」


 ミレイが言った。


「一人の子供へ背負わせない方法を、一緒に考えませんか」


 女子生徒がミレイを見る。


「水の子じゃなくても?」


「はい」


「でも、普通の人は忘れる」


「忘れます」


 ミレイは否定しない。


「紙も消えます」


「はい」


「なら」


「一つへ残さない」


 ミレイは続ける。


「家族だけでなく。友人。近所の人。妹さんを知らない人でも、あなたが話したことを聞くことはできます」


「名前を広めるのですか」


「あなたが望む範囲で」


「知らない人に覚えられても」


「意味がない?」


 女子生徒は答えられない。


 妹を知らない人へ。


 名前だけを渡して。


 何が残るのか。


「名前だけではなく」


 アリシアが言う。


 全員がこちらを見る。


 また胸が固くなる。


 それでも続ける。


「妹さんが、どんな人だったか」


 名前だけを水中の子供へ預けても。


 その子との時間は伝わらない。


 器が現在の名前を真似しても、家族の呼び方までは真似できなかったように。


「何が好きだった?」


 アリシアが尋ねる。


 女子生徒は泣きながら笑った。


「小さい鳥が好きでした」


「ほかは?」


「甘いパン。晴れた日の洗濯。青い紐」


「嫌いだったものは?」


「雷。苦い薬。知らない人に髪を触られること」


 少しずつ。


 名前の向こう側が出てくる。


 木札だけではない。


 その子が確かに生きていた時間。


 周囲の者たちが聞く。


「妹さんの名前を」


 ミレイが尋ねる。


「ここで話したいですか」


 女子生徒は迷った。


 全員へ公開するか。


 家族だけへ残すか。


「今は」


 木札を胸へ抱く。


「この人たちだけに」


「分かりました」


 近くにいる五人だけが、少し距離を縮める。


 女子生徒は小さな声で妹の名を伝えた。


 五人は一度ずつ聞く。


 紙には書かない。


 誰が覚えたかの一覧も作らない。


 名前とともに。


 鳥が好きだったこと。


 青い紐を大切にしたこと。


 雷を怖がったことを覚える。


「忘れたら」


 女子生徒が尋ねる。


「また聞きます」


 ミレイが答える。


「私がいなかったら」


「今日聞いた人同士で、思い出せる範囲を話します」


「それでも違ったら?」


「違いを残します」


 女子生徒は完全には安心していない。


 永遠の保証はない。


 それでも、水中の子供へ押しつける以外の方法を一つ選んだ。


 ほかの者たちも。


 その場ですぐ同じ方法を選んだわけではない。


 持ち帰る者。


 家族と相談すると言う者。


 名前ではなく、記憶だけを誰かへ話す者。


 まだ何も決めない者。


 違う選択をした。


 誰も一つへまとめなかった。


 その日の午後。


 学院は水盤について正式な説明を出した。


 願いをかなえる場所ではない。


 名前を保管する場所ではない。


 行方不明者を探す場所でもない。


 水中の子供が、自分の意思でこちらへ来るための場所。


 本人が受け取りを望まない名前や願いを、持ち込まないこと。


 ただし。


 名前を忘れたくない不安。


 誰かを残したい願い。


 それ自体を否定しない。


 相談を受ける小さな部屋が、中央棟一階へ設けられた。


 記録担当だけではない。


 治療教師。


 寮の補助員。


 一般生徒。


 警備隊員。


 異なる立場の者が交代で話を聞く。


 一人へ名前や記憶を集めない。


 聞いた内容を、本人が望む範囲で分ける。


 夕方。


 リィがその部屋を訪れた。


 自分の登録名についてではない。


 水中の子供が、他人の音へ囲まれて苦しんだことを聞いたからだった。


「俺の愛称も、入った?」


 アリシアが尋ねられる。


「聞こえた」


「子供は、嫌がってた?」


「全部が入ってきて、分からなくなってた」


 リィは自分の喉へ触れる。


「俺も、登録名とリィが一緒に押し込まれたら、分からなくなるかもしれない」


「うん」


「でも、リィをやめたいわけじゃない」


「うん」


「登録名も、捨てたいわけじゃない」


「うん」


「両方、置いておける?」


「どこに?」


「俺の中に」


 アリシアは少し考える。


「置いておいていいと思う」


「今すぐ決めなくても?」


「うん」


「水の子供にも、そう言って」


「次に会ったら?」


「俺が言ったって」


「分かった」


「でも、俺の名前は教えないで」


「どっちも?」


「どっちも」


「どうして」


「また、あの子の中に入ったら困る」


 自分の名前を守る。


 隠すためではない。


 相手へ背負わせないために。


 リィは自分で決めた。


「分かった」


 アリシアは約束した。


「リィが両方持ってていいと思ってるって、それだけ伝える」


「うん」


「仮の名前でも、本当の名前でも?」


「まだ分からない名前でも」


 リィは少し笑う。


「持ってていい」


 夜。


 新しい水盤は、予定通り地下観測室へ置かれた。


 昼間の異変で壊れなかった皿。


 水はすべて新しく入れ替えられている。


 今度は扉の外へ、小さな札が置かれた。


 名前は書かれていない。


 ただ、一文だけ。


 ――ここは、名前を預ける場所ではありません。


 その下に。


 別の筆跡で、もう一文。


 ――何と呼ばれたいか分からない者が、分からないと伝えてよい場所です。


 水盤の前には、誰もいなかった。


 今日は子供へ来る時間を決めていない。


 来たいときに。


 来られるときに。


 学院側は、観測だけを続ける。


 深夜。


 水面に小さな泡が浮かんだ。


 子供の姿は出ない。


 声だけ。


「ほかの名前」


 観測していた教師が耳を澄ます。


「いらない」


 少し間。


「私の音」


 さらに間。


「二つ、ある」


 教師は紙へ書かなかった。


 隣にいたもう一人へ、自分が聞いた内容を伝える。


 二人は言葉の違いを確認する。


 一人には。


 私の音は二つある。


 もう一人には。


 私の中に二つある。


 少し違う。


 統一しない。


 そのまま朝まで覚えることにした。


 水面へ、三つ目の音は現れなかった。


 代わりに。


 遠く。


 西側貯水槽の底で。


 第四の声が、昼間集め損ねた呼び名を一つずつ拾っていた。


 妹。


 母様。


 泣き虫。


 隊長。


 六つ目。


 記録係。


 豆残し。


 本人が嫌った呼び方。


 愛した呼び方。


 捨てた呼び方。


 返事をした音。


 すべてを集め。


 黒い口の中へ並べる。


「名前は、呼ばれた音」


 第四の声が囁く。


「望みは不要」


 誰が。


 なぜ。


 どのように呼んだか。


 その違いを削り。


 音だけを残す。


「返事があれば、名となる」


 暗い水の中へ。


 一つの新しい円が浮かび始める。


 第三の器の六つの円とは違う。


 文字だけで作られた、空の輪。


 名前を持たない者へ入るためではない。


 呼ばれ方を奪われた者たちから。


 望んでいない名前を集めて作る、新しい器。


 第四の声は。


 水中の子供を得られなかった。


 ミレイを中央へ置くこともできなかった。


 だから今度は。


 人々が捨てた呼び方を集め。


 誰も持ち主だと思わない音だけで。


 自分自身の器を作り始めていた。

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