第104話 待っていると伝えた場所へ、呼ばれていない声まで集まってくる
新しい水盤が作られた翌朝、地下観測室の前には、予定されていない人の列ができていた。
長い列ではない。
それでも、授業再開前の静かな中央棟地下に、生徒や教師が十数人も集まっている光景は目立った。壁際へ寄って立つ者、階段の途中で順番を待つ者、落ち着かない様子で何度も扉を見る者。それぞれ制服や役割は違ったが、全員が何かを言いたそうな顔をしていた。
先頭には、二年生の女子生徒がいた。
その後ろには寮の管理補助をしている上級生。
治療棟の助手。
食堂職員。
さらに、昨日名前について話し合った小班の生徒たちもいる。
アリシアがセレナ、ミレイとともに地下へ降りてきたとき、列の者たちは一斉にこちらを見た。
その視線を受け、アリシアの足が少しだけ止まる。
以前なら、そのまま階段を戻りたくなったかもしれない。
今も、人に見られることへ完全に慣れたわけではない。何か期待されていると感じると、胸の奥が硬くなり、言葉を間違えないよう考えすぎてしまう。
『逃げるほどではないでしょう』
ノアが足元で言う。
『逃げない』
『なら、歩きなさい』
アリシアはもう一歩進んだ。
「どうしましたか」
セレナが列へ声をかける。
すぐに全員が話し始めることはなかった。
互いの顔を見て、誰が先に言うかを譲り合う。やがて一番前の女子生徒が、両手で握っていた小さな布袋を胸元へ寄せた。
「水盤へ、お願いを伝えられると聞きました」
セレナの表情が少し変わる。
「誰から聞いたのですか」
「同じ寮の子です。地下に新しい水を置いて、水の中の子が来たいときだけ来られる場所を作ったと」
話の内容は大きく間違っていない。
だが、正式に公表された情報でもなかった。
昨夜の観測に関わった者。
作業へ参加した者。
水盤のために湿気を集めた風の班や、冷却石を用意した土の班。
完全に隠せる人数ではなかった。
「何をお願いしたいのですか」
セレナは否定する前に尋ねた。
女子生徒は少し俯く。
「妹の名前を、覚えていてほしいんです」
廊下にいた者たちの空気が静まった。
「妹は学院の生徒ではありません。二年前に病気で亡くなりました」
女子生徒は布袋を開く。
中には小さな木札が入っていた。
表面へ、一人の名前が彫られている。
「家には記録があります。私も両親も覚えています。でも、最近、名前が消えるとか、記録から人がいなくなるとか、そういう話を聞いて」
声が震える。
「もし私たちまで忘れたらと思ったら、怖くなりました」
水中の子供は、多くの名前を持っている。
記録から消えた五百人近い名前を。
それを守っているのか。
集めているのか。
利用されているのか。
まだ分からない。
それでも、名前を失うことを恐れた人々から見れば。
水中の子供は、忘れられた名を預かる存在のように見え始めている。
「妹さんの名前を、水盤へ預けたいのですか」
ミレイが尋ねた。
「はい」
「なぜ、その子へ?」
女子生徒はすぐには答えられなかった。
「名前をたくさん覚えているから」
「ほかに理由は?」
「……ありません」
ミレイは責めなかった。
けれど記録帳へも手を伸ばさない。
「今のお願いを、記録してもよいですか」
「はい」
「妹さんの名前は書きません。名前を預けたいと考える人が現れたことだけです」
「どうして名前は」
「あなたが、まだ誰へ預けるか決めていないからです」
女子生徒が木札を見る。
「水の中の子へ渡したいです」
「その子は、名前を預かる役割を選んでいません」
ミレイの声は穏やかだった。
「今のところ、本人は自分の名前を探しています」
「でも、ほかの人の名前を持っているのでしょう?」
「持たされている可能性もあります」
女子生徒の顔に迷いが生まれる。
「なら、渡したら迷惑ですか」
「分かりません」
セレナが答えた。
「だから、本人へ確認せず預けることはできません」
「でも、会えるのですよね」
「会うための場所ではありません」
セレナは地下観測室の扉を見る。
「来たいときに、本人が合図を送れる場所です」
「こちらから呼んではいけない?」
「絶対に呼んではいけないとは決めていません。ただ、今は名前を探している途中です。そこへ新しい名前を渡せば、本人の音と混ざるかもしれない」
「妹の名前が?」
「可能性があります」
女子生徒は木札を強く握った。
悲しそうだった。
名前を残したい。
忘れられたくない。
その気持ちは間違っていない。
けれど、残したいという願いが。
水中の子供へ、新しい役割を押しつけることになるかもしれない。
ほかの列の者たちも、それぞれ何かを持っていた。
古い手紙。
家族の名を書いた紙。
亡くなった友人の徽章。
遠い故郷の名が刻まれた石。
名前を預けたい者だけではない。
夢に出た声の意味を聞きたい者。
行方不明の家族を、水中の子供が知っていないか尋ねたい者。
自分の呼ばれ方を決めてもらいたいと考える者までいた。
水盤は。
子供が自分の音を持ってくるために作った。
しかし存在を知った人々は、そこへ自分の願いを持ち込み始めている。
『こうなると思っていた?』
アリシアがノアへ尋ねる。
『多少は』
『どうして言わなかったの』
『言えば作らなかった?』
アリシアは答えられない。
必要だった。
水中の子供が、第四の声を通さずにこちらへ来られる場所。
それを作ったから。
子供は二つ目の音を聞かせた。
誰に呼ばれるかを自分で決めたいと話した。
『入口は、来る者だけを選ばないわ』
ノアが言う。
『扉を作れば、入ってほしい相手だけでなく、入ろうとする者も現れる』
『閉じる?』
『それを決めるのは、あなた一人ではないでしょう』
地下観測室前の人数は、さらに増えていた。
噂を聞いた者が、後から降りてきている。
警備教師が階段を封鎖し、新たな者を止めた。
「ここへ集まらないでください!」
強い声が響く。
何人かが驚き、肩を跳ねさせる。
「水盤は願いをかなえる場所ではありません。名前を預かる場所でもありません。全員、地上へ戻ってください」
正しい対応だった。
未知の器とつながる場所へ、人が集まり続けるのは危険だ。
それでも、女子生徒が木札を握ったまま動かなかった。
「では、妹の名前はどうすればいいんですか」
「家族で覚えていればよい」
警備教師が答える。
「もし家族が忘れたら?」
「記録へ残す」
「記録が消えたら?」
「複数へ分ける」
「それでも全部消えたら?」
質問が重なる。
教師の声が止まる。
絶対に消えない方法はない。
紙は燃える。
人は忘れる。
家族もいつか亡くなる。
どれほど大切に残しても、永遠を保証することはできない。
「水の子なら、ずっと持ってくれるかもしれない」
列の中から誰かが言った。
「五百人の名前を九年間も持っていたんでしょう」
「器だから忘れないんじゃないか」
「なら、預けた方が安全だ」
「俺の村の名も」
「行方不明の兄の名前を知ってるかもしれない」
声が重なり始めた。
不安。
期待。
悲しみ。
誰かを忘れたくないという願い。
そのすべてが、地下観測室の扉へ向けられる。
アリシアの腰にある黒月が、微かに震えた。
『ノア』
『分かっているわ』
水盤。
扉の向こう。
誰も入っていないはずの観測室から。
水が揺れるような小さな音がした。
「全員、扉から離れて!」
アリシアが声を上げる。
群衆が動く。
だが狭い地下通路。
後ろへ下がろうとした者同士がぶつかり、階段の手前で混乱が起きる。
「走らないでください!」
セレナが叫ぶ。
「前の人から、ゆっくり階段へ!」
「名前を持っている物は、床へ置かないで!」
ミレイも声を重ねる。
「そのまま持っていてください!」
警備教師たちが人の流れを分ける。
一人ずつ。
押さず。
転ばないように。
アリシアは観測室の扉へ向き直った。
黒月の震えが強くなる。
昨夜。
子供が来たときとは違う。
あのとき黒月はほとんど反応しなかった。
今は、扉の隙間から細い黒い線が何本も伸びている。
人々が持つ木札。
手紙。
徽章。
名前が刻まれた物へ向かって。
「第四の声です」
アリシアが言う。
セレナが扉を見る。
「水盤を使って?」
「たぶん」
「中に子供は?」
「分からない」
人々の退避が終わるまで、扉は開けられない。
第四の声が物へ線を伸ばしていても。
持ち主ごと切れば、記憶や名前へ傷が及ぶかもしれない。
「ミレイ」
アリシアが呼ぶ。
「はい」
「集まった人の名前、記録してる?」
「していません」
すぐに答えた。
「人数と持参物の種類だけです」
「よかった」
「でも、第四の声は」
「名前そのものじゃなくて、名前を残したい気持ちへ伸びてる」
アリシアは線を見る。
木札に刻まれた文字からではない。
持つ者の胸元と。
名前の品を結ぶように。
細い線が伸びている。
「執着?」
ミレイが尋ねる。
「違う」
セレナが言った。
「忘れたくない気持ちです」
執着という言葉だけでは足りない。
大切だったから。
失いたくないから。
水の中へ預ければ安全だと思ったから。
第四の声は、その願いを見つけた。
「器は、願いを使います」
レオンハルトが階段の上から到着した。
ルクスの羽根を収めた保護筒を抱えている。
「第二の器と同じです」
「でも、今度は神獣じゃない」
アリシアが言う。
「忘れたくない名前」
「それを集めれば」
ミレイが息を呑む。
「第四の声は、新しい記録者を作らなくても、名前が自分から集まってくる」
人々が。
大切な名を持って。
自分から水盤へ来る。
子供へ預けるつもりで。
実際には、第四の声へ渡してしまう。
「水盤を閉鎖します」
警備教師が言う。
「すぐに中の水を処分する」
「待ってください」
セレナが止めた。
「何を待つ」
「子供が中にいるかもしれません」
「それでも危険が大きすぎる」
「確認せず処分したら、子供ごと切り離す可能性があります」
「このまま人を集め続ける方が危険だ」
「人を集めたのは水盤ではありません」
「同じだ」
「違います」
セレナの声が強くなる。
「水盤は、本人が来たいときに来るための場所です。私たちが、周囲へ説明せず管理したことが問題です」
警備教師の顔が固くなる。
「責任の話をしている場合ではない」
「責任ではありません。閉じる前に、何を変えれば使えるか考えるべきです」
「時間がない」
扉の向こうで、水音が強くなる。
黒い線が増える。
退避した者たちが持つ品へ伸びていた線は、途中で止まっている。
距離が離れたことで、完全には届かない。
だが切れてもいない。
「私が中を見ます」
アリシアが言う。
「一人で入るな」
カイルの声が階段から響く。
外周警備から呼ばれたらしい。
息を切らしながら降りてくる。
「一人じゃない」
「誰と入る」
「セレナと」
「水の神器はない」
「だから入れる」
「理屈になってない」
「水の神器がないから、器へ直接引かれにくい」
セレナが補足する。
「アリシアが黒い線を見る。私は子供の声を確認する」
「俺は?」
「外です」
「またか」
「炎が水盤を壊す可能性があります」
「小さく使える」
「中が狭いです」
「俺も入れる」
「カイル」
セレナが名前を呼ぶ。
強い声ではない。
それでもカイルは言葉を止めた。
「外で、集まった人たちを守ってください」
「警備隊がいる」
「名前の品へ、線が伸びています」
セレナは階段の上を見る。
「炎で焼かないで。品を捨てさせないで。持ち主から離れないようにしてください」
「俺が品物を守る?」
「その人たちが、忘れたくないものです」
カイルは眉を寄せた。
戦う役割ではない。
扉の外。
直接器と向き合わず。
持ち込まれた木札や手紙を守る。
以前なら反発したかもしれない。
「分かった」
短く答える。
「ただし、三分だ」
「何が?」
「中へ入って、三分で報告しろ」
「三分で終わらなかったら?」
「扉越しに名前を呼ぶ」
「返事できなくても?」
「できるまで呼ぶ」
セレナの表情が少し緩む。
「分かりました」
接触班は急いで編成された。
アリシア。
セレナ。
レオンハルト。
結界術師一名。
ミレイは扉の外へ残る。
今回、第四の声が名前を集めようとしているなら、記録者を中へ入れる危険が大きい。
「私は外で記録します」
ミレイは自分から言った。
「中で起きたことは、戻ってから皆さんへ聞きます」
「見られなくても?」
アリシアが尋ねる。
「見られなかったことを残します」
扉の封印が外される。
開けた瞬間、冷たい空気が流れ出した。
地下観測室の中央。
白い浅皿。
新しい水。
昨夜は三分の一ほどだった水が、今は皿の縁まで満ちている。
どこから増えたのか。
室内に水路はない。
天井も壁も乾いている。
水面の上には、無数の小さな文字が浮かんでいた。
名前ではない。
途中までの音。
一文字。
二文字。
呼びかけ。
愛称。
家族だけが使っていた呼び名。
誰かの記憶に残り。
まだ品物へ刻まれていないもの。
「集まった人たちの記憶から?」
セレナが息を呑む。
アリシアは黒月を抜いた。
黒い線は、水盤から扉の外へ伸びている。
だが中央は別の形をしていた。
細い黒い針が、水面へ浮かぶ音を一つずつ刺し。
文字へ変えようとしている。
「第四の声」
レオンハルトが光を弱く広げる。
水盤の底。
子供の影がいた。
膝を抱え。
浮かぶ音に囲まれ。
耳を塞いでいる。
「聞こえますか」
セレナが呼びかける。
子供は顔を上げない。
「来たいときに来てよいと伝えた者です」
反応がない。
水面の音が増える。
「リィ」
誰かの愛称。
「ミナ」
「ロウ」
「兄さん」
「母様」
「小鳥」
「泣き虫」
名前とは限らない。
呼ばれ方。
役割。
からかい。
愛情。
本人が大切にしているものも。
嫌っているものも。
区別なく集まっている。
「全部、名前にするつもり?」
アリシアが黒い針を見る。
『正確には、返事をした音へ固定するつもりでしょうね』
ノアが低く言う。
『どういうこと?』
『人は、自分へ向けられた音へ反応する。好きでも嫌いでも』
「嫌な呼び方でも?」
『ええ。呼ばれて腹を立てれば、それも返事よ』
人見知りな闇の少女。
六つ目。
豆残し。
記録係。
水。
呼ばれたくない名でも。
自分のことだと認識すれば、器はそれを名前として固定できる。
「だから、集まった人たちから音を取った」
セレナが言う。
「忘れたくない名前だけではなく、自分へ向けられた呼び方を全部」
子供が耳を塞いでいる理由。
無数の音が、水の中へ押し込まれている。
自分の二つの音を探していたところへ。
他人の呼ばれ方が流れ込む。
「あなたの音は、どこですか」
セレナが尋ねる。
子供の肩が震える。
「分からない」
小さな返事。
「聞こえなくなった?」
「みんな、入ってくる」
「外から来た音です」
「私のかも」
「違います」
セレナははっきり言った。
「少なくとも、全部があなたの音ではありません」
「どうして分かる」
「外にいる人たちが持ってきたものだから」
「でも」
子供は水面を見る。
「声が言う」
第四の声。
黒い針が、水面の音を刺し続ける。
「一つ選べば、名になる」
「選ばなくていい」
「二つが、消える」
「消えていません」
「聞こえない」
「私たちは覚えています」
セレナの声が少し震える。
「文字にはしていません。でも、聞きました」
「違う音で」
「違うまま」
「なら、どれが私」
「あなたが選ぶまで分かりません」
子供が顔を上げる。
青白い瞳。
不安。
怒り。
恐怖。
「また、分からない?」
「はい」
「何も決めない」
「今は」
「遅い」
水面の黒い針が強く光った。
第四の声が、子供の口から出る。
「待てば、名は奪われる」
子供自身の声と重なる。
「選ばぬ者は、他者の名へ沈む」
「今の声は、あなたの言葉?」
セレナが尋ねる。
「私の」
「本当に?」
「分からない」
「では、答えなくていい」
「答えなければ」
「今は答えなくていい!」
セレナの声が強く響く。
子供が驚き、目を見開いた。
セレナ自身も息を止める。
強く言いすぎた。
押しつけた。
そう感じたのかもしれない。
「ごめんなさい」
すぐに謝る。
「急がなくてよいと、私が決めることでもありませんでした」
「じゃあ」
「急ぎたいですか」
子供は答えられない。
「決めたい?」
「分からない」
「待ちたい?」
「分からない」
「分からないことが、苦しい?」
子供の目から、小さな水滴が浮かぶ。
水の中。
涙なのかも分からない。
「うん」
初めて。
子供は苦しさを認めた。
待てばよい。
決めなくてよい。
そう言われても。
分からないままでいることは楽ではない。
自分が消えるかもしれない恐怖。
第四の声が正しいかもしれない不安。
水の外の人が、いつまで覚えているか分からない。
「苦しいまま待たせていた」
アリシアが言った。
セレナがこちらを見る。
「私たちは、急がなくていいって言った」
「はい」
「でも、待ってる間のことを聞かなかった」
名前を決めなくてよい。
音を一つへしなくてよい。
それは守る言葉だった。
けれど。
子供は暗い水の中で。
第四の声と二人きり。
消えると脅され続けている。
待つことを選ぶには、待っている間を支えるものが必要だった。
「私たちの声を、置いていける?」
アリシアがレオンハルトへ尋ねる。
「記録として?」
「違う」
水盤の中へ。
名前ではなく。
何か短い言葉を残す。
子供が一人になったとき。
第四の声以外にも、聞ける声を。
「第四の声が真似します」
レオンハルトが答える。
「うん」
「言葉を固定すれば、器に利用される可能性もあります」
「うん」
「それでも置く?」
アリシアは子供を見る。
耳を塞ぎ。
他人の音に囲まれ。
自分のものが分からなくなっている。
「置きたいか、聞く」
セレナが子供へ向く。
「私たちの声を、ここへ残してほしいですか」
「声?」
「あなたが一人のとき、聞けるように」
「名前を呼ぶ?」
「いいえ」
「何を言う」
セレナはすぐには答えなかった。
自分たちで内容を決めれば。
また子供へ必要な言葉を押しつける。
「何を言ってほしいですか」
子供は水面を見る。
無数の音。
黒い針。
第四の声。
「分からない」
「では、言ってほしくないことは?」
子供が少し考える。
「選べ」
「ほかは?」
「消える」
「ほかに?」
「正しい名は一つ」
第四の声が繰り返す言葉。
「それ以外なら?」
「分からない」
「では」
セレナは慎重に言う。
「私たちが今、あなたへ伝えたい言葉を置いてもよいですか」
長い沈黙。
「一つずつ?」
「はい」
「同じじゃない?」
「違う言葉です」
「一つにしない?」
「しません」
子供は小さくうなずいた。
最初に、レオンハルトが前へ出る。
光の神器を使わない。
保護筒のルクスの羽根も開かない。
自分の声だけで言う。
「返事を急がなくても、聞こえていることは伝わっています」
水面へ、白い光の粒が一つ落ちる。
文字にはならない。
音の形だけが、水盤の端へ残る。
次にセレナ。
「分からないと答えたことを、私は忘れません」
淡い青い粒。
アリシア。
何を言えばよいか迷う。
大丈夫。
消えない。
待っている。
どれも約束しきれない。
「次に会ったとき、前と違っても聞きます」
黒い粒が落ちる。
変わっていても。
音が増えていても。
失っていても。
同じ答えを求めない。
結界術師は少し考え。
「来られないときは、来られないまま記録します」
透明な粒。
四つの声が。
違う位置へ残る。
混ざらない。
同じ言葉へまとめない。
子供が水面を見る。
「ミレイは?」
扉の外にいる。
「外です」
「記録する人」
「呼びますか」
子供は少し迷う。
「声を、置いてほしい」
アリシアは扉へ向かう。
外へ伝える前に。
黒い針が強く震えた。
「記録する者」
第四の声が響く。
「中央へ」
水面の音が一斉にミレイの声へ変わる。
「き」
「ひ」
「し」
「セレナ」
「アリシア」
「リィ」
ミレイの声で。
すべてが呼ばれる。
扉の外から、ミレイ自身の声が聞こえた。
「中で、私の声が使われていますか!」
「使われてる!」
アリシアが答える。
「私は、今その言葉を話していません!」
本人の声。
水盤の偽物。
同じ響き。
違う場所。
「ミレイ」
子供が水面を見る。
「どっち」
「外です!」
ミレイが扉越しに叫ぶ。
「今は外にいます!」
「同じ声」
「はい!」
「分からない」
「分からなくていいです!」
ミレイの声が震える。
「今、選ばなくていい!」
「また、それ」
第四の声がミレイの声で笑う。
「待たせる者」
「違います!」
ミレイが答える。
「待つことだけを押しつけました!」
扉の外。
姿は見えない。
それでも声ははっきり届く。
「私たちは、待てば安全だと思っていました!」
ミレイ自身も気づいたのだろう。
子供へ。
急がなくてよい。
決めなくてよい。
そう言った。
けれど、待つ間の苦しさを記録していなかった。
「あなたが、分からないままで苦しかったことを残します!」
「残すだけ?」
「それだけでは足りません!」
「なら」
「私の声を置いてよいですか!」
ミレイは、子供へ直接尋ねた。
扉を挟んで。
見えない相手へ。
「何を言う」
「私が、全部を正しく覚えているとは約束できません!」
第四の声が笑う。
「不完全」
「はい!」
ミレイは否定しない。
「でも、忘れたときは、忘れたと言います! 勝手な名前へ直しません!」
子供の目が揺れる。
「それを置いていい?」
ミレイが尋ねる。
「……うん」
扉の隙間から、淡い灰色の粒が入る。
水面へ落ちる。
五つ目の声。
違う言葉。
違う色。
水中の子供の周囲へ残る。
第四の声が、黒い針を五つの粒へ向けた。
「統一せよ」
「しない」
アリシアが黒月を構える。
黒い針は。
今回は水面の音だけではなく。
扉の外へ伸びた線。
名前の品を持つ者たちへつながる線。
そのすべての中心になっている。
「切ったら」
レオンハルトが言う。
「水盤との接続も切れる可能性があります」
「子供の声も?」
「分かりません」
アリシアは子供を見る。
「切っていい?」
以前なら。
切るしかないと判断したかもしれない。
今は尋ねる。
子供は黒い針を見る。
周囲の音。
自分の二つの音。
五つの声。
「怖い」
「うん」
「切ったら、音が消える?」
「分からない」
「切らなかったら」
「ほかの人の音がもっと入る」
「私が、選ぶ?」
「うん」
子供の顔が歪む。
選べと言われることを嫌がっていた。
それでも。
今度は。
器が押しつける二択ではない。
自分へ起きる危険を聞いた上で。
周囲と一緒に判断するための選択。
「全部は、切らない?」
「中心だけ」
アリシアが答える。
「あなたの音へ伸びてる線は、見ながら避ける」
「失敗したら?」
「違ったって言う」
子供は少しだけ。
水の中で笑ったように見えた。
「切って」
アリシアは黒月へ力を流す。
レオンハルトの光が黒い針の根元を照らす。
セレナが子供の声を聞く。
結界術師が水盤の縁を守る。
扉の外では、ミレイが時間を数える。
「一」
黒い針が水面へ深く刺さる。
「二」
外の人々へ伸びた線が震える。
「三」
アリシアは踏み込んだ。
黒月の刃を。
水面ではなく。
針の中央へ振るう。
硬い音。
水盤の水が大きく持ち上がる。
子供の姿が消えかける。
「いる!」
セレナが名前ではなく、存在を呼ぶ。
「聞こえますか!」
「いる!」
子供の返事。
アリシアは刃を止めない。
針が割れる。
無数の音が、水盤から外へ弾けた。
壁。
床。
天井。
それぞれへ当たり。
声となって響く。
「妹」
「母さん」
「泣き虫」
「隊長」
「六つ目」
「記録係」
「豆残し」
呼ばれ方が。
室内を飛び交う。
アリシアの耳へ「六つ目」が届く。
胸が一瞬冷える。
けれど。
「アリシア!」
扉の外からカイルが叫ぶ。
「いる!」
すぐに返す。
「セレナ!」
「ここにいます!」
「レオンハルト!」
「はい!」
「ミレイ!」
「外にいます!」
偽物の呼び方へ返事をしない。
自分が受け取りたい名前へ答える。
セレナも。
水、と呼ばれても答えない。
レオンハルトも。
光、とだけ呼ばれても、今は応じない。
名前が飛び交う中。
水中の子供の音も聞こえた。
「……き」
「……あ」
二つ。
ほかの音へ混ざりそうになる。
アリシアは口にしない。
ただ覚える。
子供が自分でつないでほしいと言うまで。
黒い針が完全に砕けた。
水盤の水が、皿の中へ戻る。
扉の外へ伸びていた線も切れた。
観測室へ静けさが戻る。
子供はまだいた。
姿は薄い。
けれど消えていない。
「音は?」
セレナが尋ねる。
子供は胸へ手を当てる。
「ある」
「二つとも?」
「うん」
「ほかの音は?」
「遠くなった」
アリシアは息を吐いた。
「声は?」
「ある」
子供は水面の端へ残った五つの粒を見る。
違う言葉。
違う色。
違う声。
「一人じゃない?」
子供が尋ねる。
「今は」
セレナが答える。
ずっととは言わない。
来られない時間もある。
置いた声が消える可能性もある。
「声が消えたら」
子供が続ける。
「また置いていいか聞きます」
レオンハルトが答えた。
「勝手に増やしません」
「外の人の名前」
子供が言う。
「持ってきた」
「預けたいと言った人が来ました」
セレナは隠さなかった。
「受け取りたいですか」
子供はすぐに首を横へ振る。
「いらない」
「分かりました」
「怒る?」
「外の人が?」
「うん」
「悲しむ人はいると思います」
セレナは正直に答える。
「でも、あなたが受け取らないと決めたことを伝えます」
「嫌われる?」
「分かりません」
「また、分からない」
「はい」
子供は少し不満そうに見えた。
けれど以前ほど怯えてはいない。
「でも」
セレナは続ける。
「受け取らないからといって、あなたが悪いとは言わせません」
「名前を、守らないのに?」
「守る役割を選んでいません」
「五百人は?」
「持っているのですか」
「うん」
「持ちたい?」
長い沈黙。
「分からない」
「では、そのことも次に聞きます」
「今、決めなくていい?」
「苦しいなら、苦しいと言ってください」
子供はうなずく。
「苦しい」
「聞きました」
「残す?」
扉の外からミレイの声が届く。
「残します!」
「一つに?」
「違う言葉で!」
子供の姿が少しずつ水へ沈む。
「次は」
「うん」
アリシアが答える。
「三つ目が、あるかも」
「聞かせたい?」
「まだ、分からない」
「分かった」
「でも」
「何?」
「水を、置いて」
セレナがうなずく。
「明日も置きます」
「来なかったら」
「反応を確認できなかったと残します」
「怒らない?」
「怒りません」
子供は水の中へ消えた。
今度も。
第四の声に引きずられたのではなく。
自分から戻った。
観測室を出る。
扉の外。
名前の品を持ってきた者たちは、地上の広い教室へ移されていた。
カイルが一人ずつの品を確認し、持ち主から離れないよう預け直している。
火の神器は使っていない。
手紙が濡れていないか。
木札が欠けていないか。
徽章が誰のものか。
本人へ聞きながら返していた。
「何と?」
最初の女子生徒がセレナへ尋ねる。
「妹の名前を、受け取ってくれるって?」
セレナは少しだけ間を置いた。
「受け取らないと答えました」
女子生徒の顔が歪む。
「どうして」
「その子は、名前を預かる役割を望んでいません」
「でも、もうたくさん持っている」
「それも、本人が望んだものか分かりません」
「妹の名前を覚えてほしいだけなのに」
「はい」
「誰か一人でも」
女子生徒の目に涙が浮かぶ。
「私たちがいなくなったあとも、残ってほしいんです」
周囲にいた者たちも俯く。
同じ気持ちで来た者が多い。
永遠に残したい。
忘れられたくない。
けれど。
「その願いを」
ミレイが言った。
「一人の子供へ背負わせない方法を、一緒に考えませんか」
女子生徒がミレイを見る。
「水の子じゃなくても?」
「はい」
「でも、普通の人は忘れる」
「忘れます」
ミレイは否定しない。
「紙も消えます」
「はい」
「なら」
「一つへ残さない」
ミレイは続ける。
「家族だけでなく。友人。近所の人。妹さんを知らない人でも、あなたが話したことを聞くことはできます」
「名前を広めるのですか」
「あなたが望む範囲で」
「知らない人に覚えられても」
「意味がない?」
女子生徒は答えられない。
妹を知らない人へ。
名前だけを渡して。
何が残るのか。
「名前だけではなく」
アリシアが言う。
全員がこちらを見る。
また胸が固くなる。
それでも続ける。
「妹さんが、どんな人だったか」
名前だけを水中の子供へ預けても。
その子との時間は伝わらない。
器が現在の名前を真似しても、家族の呼び方までは真似できなかったように。
「何が好きだった?」
アリシアが尋ねる。
女子生徒は泣きながら笑った。
「小さい鳥が好きでした」
「ほかは?」
「甘いパン。晴れた日の洗濯。青い紐」
「嫌いだったものは?」
「雷。苦い薬。知らない人に髪を触られること」
少しずつ。
名前の向こう側が出てくる。
木札だけではない。
その子が確かに生きていた時間。
周囲の者たちが聞く。
「妹さんの名前を」
ミレイが尋ねる。
「ここで話したいですか」
女子生徒は迷った。
全員へ公開するか。
家族だけへ残すか。
「今は」
木札を胸へ抱く。
「この人たちだけに」
「分かりました」
近くにいる五人だけが、少し距離を縮める。
女子生徒は小さな声で妹の名を伝えた。
五人は一度ずつ聞く。
紙には書かない。
誰が覚えたかの一覧も作らない。
名前とともに。
鳥が好きだったこと。
青い紐を大切にしたこと。
雷を怖がったことを覚える。
「忘れたら」
女子生徒が尋ねる。
「また聞きます」
ミレイが答える。
「私がいなかったら」
「今日聞いた人同士で、思い出せる範囲を話します」
「それでも違ったら?」
「違いを残します」
女子生徒は完全には安心していない。
永遠の保証はない。
それでも、水中の子供へ押しつける以外の方法を一つ選んだ。
ほかの者たちも。
その場ですぐ同じ方法を選んだわけではない。
持ち帰る者。
家族と相談すると言う者。
名前ではなく、記憶だけを誰かへ話す者。
まだ何も決めない者。
違う選択をした。
誰も一つへまとめなかった。
その日の午後。
学院は水盤について正式な説明を出した。
願いをかなえる場所ではない。
名前を保管する場所ではない。
行方不明者を探す場所でもない。
水中の子供が、自分の意思でこちらへ来るための場所。
本人が受け取りを望まない名前や願いを、持ち込まないこと。
ただし。
名前を忘れたくない不安。
誰かを残したい願い。
それ自体を否定しない。
相談を受ける小さな部屋が、中央棟一階へ設けられた。
記録担当だけではない。
治療教師。
寮の補助員。
一般生徒。
警備隊員。
異なる立場の者が交代で話を聞く。
一人へ名前や記憶を集めない。
聞いた内容を、本人が望む範囲で分ける。
夕方。
リィがその部屋を訪れた。
自分の登録名についてではない。
水中の子供が、他人の音へ囲まれて苦しんだことを聞いたからだった。
「俺の愛称も、入った?」
アリシアが尋ねられる。
「聞こえた」
「子供は、嫌がってた?」
「全部が入ってきて、分からなくなってた」
リィは自分の喉へ触れる。
「俺も、登録名とリィが一緒に押し込まれたら、分からなくなるかもしれない」
「うん」
「でも、リィをやめたいわけじゃない」
「うん」
「登録名も、捨てたいわけじゃない」
「うん」
「両方、置いておける?」
「どこに?」
「俺の中に」
アリシアは少し考える。
「置いておいていいと思う」
「今すぐ決めなくても?」
「うん」
「水の子供にも、そう言って」
「次に会ったら?」
「俺が言ったって」
「分かった」
「でも、俺の名前は教えないで」
「どっちも?」
「どっちも」
「どうして」
「また、あの子の中に入ったら困る」
自分の名前を守る。
隠すためではない。
相手へ背負わせないために。
リィは自分で決めた。
「分かった」
アリシアは約束した。
「リィが両方持ってていいと思ってるって、それだけ伝える」
「うん」
「仮の名前でも、本当の名前でも?」
「まだ分からない名前でも」
リィは少し笑う。
「持ってていい」
夜。
新しい水盤は、予定通り地下観測室へ置かれた。
昼間の異変で壊れなかった皿。
水はすべて新しく入れ替えられている。
今度は扉の外へ、小さな札が置かれた。
名前は書かれていない。
ただ、一文だけ。
――ここは、名前を預ける場所ではありません。
その下に。
別の筆跡で、もう一文。
――何と呼ばれたいか分からない者が、分からないと伝えてよい場所です。
水盤の前には、誰もいなかった。
今日は子供へ来る時間を決めていない。
来たいときに。
来られるときに。
学院側は、観測だけを続ける。
深夜。
水面に小さな泡が浮かんだ。
子供の姿は出ない。
声だけ。
「ほかの名前」
観測していた教師が耳を澄ます。
「いらない」
少し間。
「私の音」
さらに間。
「二つ、ある」
教師は紙へ書かなかった。
隣にいたもう一人へ、自分が聞いた内容を伝える。
二人は言葉の違いを確認する。
一人には。
私の音は二つある。
もう一人には。
私の中に二つある。
少し違う。
統一しない。
そのまま朝まで覚えることにした。
水面へ、三つ目の音は現れなかった。
代わりに。
遠く。
西側貯水槽の底で。
第四の声が、昼間集め損ねた呼び名を一つずつ拾っていた。
妹。
母様。
泣き虫。
隊長。
六つ目。
記録係。
豆残し。
本人が嫌った呼び方。
愛した呼び方。
捨てた呼び方。
返事をした音。
すべてを集め。
黒い口の中へ並べる。
「名前は、呼ばれた音」
第四の声が囁く。
「望みは不要」
誰が。
なぜ。
どのように呼んだか。
その違いを削り。
音だけを残す。
「返事があれば、名となる」
暗い水の中へ。
一つの新しい円が浮かび始める。
第三の器の六つの円とは違う。
文字だけで作られた、空の輪。
名前を持たない者へ入るためではない。
呼ばれ方を奪われた者たちから。
望んでいない名前を集めて作る、新しい器。
第四の声は。
水中の子供を得られなかった。
ミレイを中央へ置くこともできなかった。
だから今度は。
人々が捨てた呼び方を集め。
誰も持ち主だと思わない音だけで。
自分自身の器を作り始めていた。




