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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第105話 呼ばれたくない名前まで、なかったことにする必要はない



 夜明け前、西側貯水槽の監視鐘が鳴った。


 一度。


 長く。


 低く。


 火災や侵入を知らせる鋭い鐘とは違う。地下の魔力構造に変化が起きたときだけ鳴らされる、腹の底へ響くような音だった。


 寮の寝台で目を閉じたばかりだったアリシアは、ほとんど反射的に身体を起こした。


 窓の外はまだ暗い。


 東の空にも朝の色は見えず、雲の薄い夜空へ学院の塔が黒い影を伸ばしている。廊下からは、起こされた生徒たちの小さな声と、走らないよう注意しながら急ぐ教師の足音が聞こえた。


『今夜は短かったわね』


 寝台の足元で丸くなっていたノアが、片目だけを開く。


「寝てた?」


『あなたよりは』


 アリシアは上着へ腕を通し、黒月を腰へ下げた。


 眠気はあった。


 頭の奥が重い。


 けれど、監視鐘が鳴った理由を考え始めると、身体の感覚はすぐに遠のいた。


 第四の声。


 人々が地下観測室へ持ち込んだ呼び方。


 大切にしている名前だけではない。


 嫌っている愛称。


 役割。


 からかい。


 本人が捨てた呼び方。


 それらを集め。


 音だけで、新しい器を作り始めている。


 昨夜の監視報告が正しければ。


 西側貯水槽の底には、第三の器とは違う、文字でできた空の輪が浮かび始めている。


「第四の器?」


 アリシアは小さく呟いた。


『まだ決めないことね』


 ノアが床へ降りる。


『第四の声が自分の身体を作っているのか。第三の器の一部なのか。別の何かを作ろうとしているのか。見ていないうちから名前をつければ、私たちも同じことをする』


「うん」


 呼ばれ方を勝手に名前へする。


 第四の声がしていることだ。


 だから、こちらまで目の前の現象を一つへ決めてはいけない。


 寮を出ると、廊下の角からミレイが現れた。


 髪をまとめきれておらず、片側だけが肩へ落ちている。外套の留め具も一つずれていたが、手にはすでに三つの小さな記録箱を持っていた。


「アリシアさん」


「起きてた?」


「監視鐘で」


「眠れた?」


「二時間ほどです」


「少ない」


「アリシアさんは?」


「同じくらい」


 二人で一瞬黙る。


 以前なら、どちらも相手だけへ休むよう言ったかもしれない。


「報告が終わったら」


 ミレイが先に言う。


「一時間は休みましょう」


「一緒に?」


「同じ時間に」


「うん」


『二人とも本当に守るのかしら』


 ノアが疑わしそうに見上げる。


「ノアに見張ってもらう?」


「それが確実です」


『なぜ私が』


「お願いします」


 ミレイが真面目に頭を下げる。


 ノアは少しだけ得意そうに尾を上げた。


『仕方ないわね』


「やってくれるって」


「ありがとうございます、ノアさん」


『礼儀がいいから引き受けるのではないわ』


 中央棟へ向かう渡り廊下には、夜の冷気が残っていた。


 庭の草木は露に濡れ、足元の石畳には霧が薄く広がっている。学院の窓には次々と明かりがともり始めていたが、誰も外へ集まってはいなかった。


 前日の混乱を受け。


 異変が起きても、水場や地下へ人が集まらないよう指示が徹底されている。


 心配だから見る。


 自分の名前が関係するかもしれないから確かめる。


 そうした行動が、第四の声へ新しい呼び方を渡す可能性がある。


 今は各寮や教室で待つ。


 呼ばれたとしても一人で返事をしない。


 誰かと一緒に、自分が何と呼ばれたかを確かめる。


 学院全体が、少しずつ待つための形を覚えていた。


 作戦室へ入ると、学院長、副学院長、結界術師、警備責任者がすでに集まっていた。


 神器継承者たちも順番に到着している。


 カイルは外套の上から火の神器を装着し、落ち着かない様子で机の周囲を歩いていた。レオンハルトはルクスの羽根を収めた保護筒を持ち、セレナは治療教師とともに椅子へ座っている。


 水の神器は戻されていない。


 それでも西側貯水槽の変化と同時に、セレナの手首へ強い痛みが出たらしい。白布の下から淡い青い光が漏れ、反対の手で押さえていた。


「痛い?」


 アリシアが隣へ座る。


「今は弱まりました」


「本当?」


「嘘をつくと、カイルがうるさいので」


「聞こえてるぞ」


 部屋の反対側から声が飛ぶ。


「なら、歩くのをやめてください」


「座ってると落ち着かない」


「歩いている音で、こちらが落ち着きません」


「分かったよ」


 カイルは不満そうに椅子へ座った。


 椅子の脚が床を擦り、少し大きな音がした。


 セレナが眉を寄せる。


「もう少し静かに」


「座れって言ったのはお前だろ」


「静かに座ってください」


「要求が増えてるぞ」


 緊張の中。


 ごく小さく、何人かの表情が緩む。


 それでも机の中央へ新しい観測図が広げられた瞬間、室内は再び静まった。


「監視結果を報告する」


 学院長が言う。


 貯水槽の断面図。


 中央に第三の器の六つの円。


 その少し上。


 水面と底の間へ、新しい輪が描かれている。


「昨夜、第四の声によるものと思われる文字環を確認した」


「文字環」


 ミレイが繰り返す。


「器とは呼ばないのですか」


「現時点では呼ばない」


 学院長はノアと同じ判断をしていた。


「箱や水球の形を持っていない。外殻もない。確認できるのは、文字と音が輪になっていることだけだ」


「中には何がありますか」


 レオンハルトが尋ねる。


「空だ」


「何もない?」


「少なくとも、魔力測定上は」


 学院長は次の記録を出す。


「ただし、呼びかけを受けるたび、輪の内側へ薄い影が増えている」


「何の影?」


 アリシアが聞く。


「人の輪郭に似ている」


 室内の空気が変わる。


「一人?」


「複数だ」


 結界術師が答えた。


「重なっているため数は不明。子供。成人。男女。異なる姿が一瞬ずつ現れている」


「呼ばれ方の持ち主?」


 セレナの声が低くなる。


「可能性が高い」


 名前だけではない。


 妹。


 母様。


 隊長。


 泣き虫。


 六つ目。


 記録係。


 豆残し。


 誰かへ向けられた音。


 その音が人の形を作ろうとしている。


「昨夜の水盤へ集まった者たちに、記憶異常は?」


 副学院長が尋ねる。


「大きな欠損はない。ただし七名が、特定の呼び方へ強く反応している」


「どんな反応ですか」


 ミレイが筆を持つ。


 今度も一人ではない。


 ケインとサーラが別の机へ座り、それぞれ異なる形式で記録している。


「一人は、亡くなった妹の声で『お姉ちゃん』と呼ばれた」


 昨日の女子生徒。


「返事は?」


「していない。隣にいた寮生が本人の名を呼び、現在位置を確認した」


「ほかは」


「元騎士の職員が『隊長』と呼ばれた。役職を退いて八年経つが、反射的に立ち上がりかけた」


「返事は?」


「口にはしていない」


 警備責任者が続ける。


「一年生二名は、過去に嫌っていた愛称で呼ばれた。一人は怒鳴り返した」


「怒鳴り返した?」


 アリシアの胸が冷える。


 ノアが低く唸る。


「何と?」


 セレナが尋ねる。


「その名で呼ぶな、と」


 返事をした。


 名前を受け入れたわけではない。


 拒絶した。


 それでも第四の声にとっては。


 自分へ向けられた音だと認めたことになる可能性がある。


「その生徒は?」


「現在、治療棟で観察中。自分の現在の名は言える。呼ばれたい名も変わっていない」


「なら、何を取られたのですか」


 ミレイが尋ねる。


「本人は、嫌っていた理由を思い出せないと言っている」


 室内へ沈黙が落ちた。


「呼び方だけ残って」


 アリシアが言う。


「その名前が嫌だった記憶が消えた?」


「そう見える」


 第四の声は。


 音だけを集める。


 誰が。


 なぜ。


 どんな気持ちで呼んだか。


 本人がなぜ嫌ったか。


 それらを削り落とす。


 残るのは、返事を引き出せる音だけ。


「望みは不要」


 レオンハルトが昨夜の監視記録を思い出すように呟く。


「第四の声は、本人が望むかどうかを名前の条件にしていない」


「呼ばれて反応すれば、それを名前として使う」


 セレナが言う。


「嫌だと言うための反応まで」


 アリシアは胸元へ手を当てた。


 人見知りな闇の少女。


 六つ目。


 そう呼ばれたくない。


 聞けば、身体が硬くなる。


 視線が集まる。


 嫌だと思う。


 第四の声は、その反応だけを拾う。


「呼ばれたくない呼び方へ、反応しない訓練をする?」


 カイルが尋ねる。


「感情を消せということか」


 警備責任者が眉を寄せる。


「違う。返事しない方法だ」


「怒るなという意味になる」


「なら、どうするんだ」


「一人で反応しない」


 セレナが言った。


「嫌だと伝える場合も、周囲と一緒に」


「どういうこと?」


 アリシアが尋ねる。


「第四の声へ向かって『その名で呼ぶな』と返せば、音とのつながりを認めることになるかもしれません」


「うん」


「だから、隣にいる人へ伝える」


 セレナは机へ置かれた紙を見る。


「今の呼び方は嫌です、と」


 第四の声へ答えるのではない。


 今ここにいる人へ伝える。


 相手が受け取る。


 その呼び方ではなく、本人が望む名を呼ぶ。


「でも一人のときは?」


 カイルが尋ねる。


 誰もすぐには答えられなかった。


 水場へ一人で近づかない。


 できる限り、誰かと一緒にいる。


 それでも完全には防げない。


 眠っているとき。


 個室。


 夜の廊下。


 急に呼ばれることはある。


「自分で、自分の名前を呼ぶ?」


 アリシアが呟く。


 全員が見る。


 胸が少し縮む。


 それでも続けた。


「第四の声へ返事するんじゃなくて」


 アリシアは自分の胸へ手を置く。


「私はアリシア。今の呼び方は嫌だって、自分に言う」


「自分の名を、自分へ返す」


 レオンハルトが考える。


「他者からの呼びかけに応じるのではなく、自分の意思を確認する」


「でも」


 ミレイが慎重に言う。


「第四の声が、その言葉まで覚える可能性があります」


「覚えても」


 アリシアは少し考える。


「次は、違う言い方にする」


「毎回?」


「うん」


 同じ合言葉なら、真似される。


 けれど自分へ向ける言葉は、一つでなくてよい。


 私はアリシア。


 今はその呼び方へ返事しない。


 私はここにいる。


 その名は受け取らない。


 嫌だったことを忘れない。


 毎回違っても。


 自分が選ぶという意味は同じ。


「新しい記憶を増やすのと同じですね」


 ミレイが言う。


「器が一つの言葉を覚えても、その次を作る」


「ただし」


 学院長が言葉を挟む。


「自分の名を声に出すこと自体が危険な場合もある」


 第四の声は現在の名前も知っている。


 呼び方を集める。


 声へ反応する。


「必ず声に出さなくてもいい」


 セレナが答える。


「胸へ手を置く。床へ触れる。今いる場所を見る。自分の意思で決めた動作を使う」


「動作も真似される」


「それでも、自分で選び直す」


 完全な防御はない。


 だから、固定しない。


 一つへ決めない。


「まず、呼ばれ方を奪われた生徒へ話を聞く」


 学院長が決める。


「本人が何を覚え、何を失ったか。嫌だった理由を周囲が勝手に補わないよう注意せよ」


「私も行きます」


 ミレイが言う。


「記録者として?」


 学院長が確認する。


 ミレイは少し考えた。


「話を聞く者として」


「記録は」


「本人が望んだ範囲だけ。ケインとサーラにも分けます」


「アリシア」


 学院長が見る。


「同行せよ。黒月の反応を確認する」


「はい」


「セレナは治療棟へ戻る」


「私も聞きたいです」


「手首の反応が残っている」


「話を聞くことはできます」


「治療教師の許可が出たらだ」


 セレナは反論しようとした。


 カイルが先に言う。


「戻れ」


「カイル」


「今、手首を隠しただろ」


 セレナが止まる。


 白布の下。


 先ほどより光が強くなっている。


「痛いんだろ」


「少しです」


「それを先に言え」


「会議が」


「お前が倒れたら、会議の内容も聞けなくなる」


 セレナは唇を閉じる。


 悔しそうだった。


 役割から外されることが。


 また自分だけ待つ側になることが。


「報告します」


 アリシアが言う。


 セレナが見る。


「全部?」


「私が覚えてる範囲」


「足りないところは、ミレイが」


「本人が話していい範囲だけ」


 セレナは長く息を吐いた。


「分かりました」


「名前を呼ばれたら?」


 カイルが尋ねる。


「一人で返事をしません」


「嫌な呼び方なら?」


「治療教師へ、嫌だと伝えます」


「よし」


「あなたは私の保護者ではありません」


「今はそういう話じゃない」


「いつもそう言いますね」


 それでもセレナは立ち上がらず、治療教師が近づくのを待った。


 呼ばれ方を奪われた一年生の女子生徒は、治療棟二階の小部屋にいた。


 窓辺の椅子。


 膝には毛布。


 机の上には、空の紙と筆。


 名前や呼び方が書かれた物は置かれていない。


 本人が見たいと望むまでは、登録記録も持ち込まない方針だった。


 付き添いは女性教師と、同じ寮の友人二人。


 アリシアとミレイが入ると、女子生徒は少し警戒した表情を見せた。


「闇の神器継承者」


 そう呼ばれる。


 アリシアは少しだけ胸が硬くなる。


 だが、今は必要な役割として伝えられたのだと分かる。


「アリシアです」


 自分から言う。


「そう呼んでもいい?」


 女子生徒は少し驚いた。


「はい」


「あなたは、何て呼べばいい?」


 女子生徒の視線が揺れる。


 教師が口を挟まず待つ。


「今は」


 少し考える。


「家名でお願いします」


「分かった」


 アリシアは家名を聞く。


 名ではない。


 本人が選んだ呼ばれ方。


 女子生徒はそれへ小さく返事をした。


「昨日の声について」


 ミレイが尋ねる。


「話してよいですか」


「はい」


「記録しても?」


「嫌だった理由以外なら」


 ミレイは筆へ手を伸ばす前に、確認する。


「嫌だった理由を覚えていないことは、記録してよいですか」


「はい」


「周囲が知っている理由は?」


「聞きたくないです」


「分かりました」


 友人二人は表情を曇らせる。


 何か知っているのだろう。


 それでも、本人が聞きたくないと言った。


 勝手に補わない。


「声は、どこから聞こえましたか」


 ミレイが尋ねる。


「洗面所の桶から」


「呼ばれ方は」


 女子生徒の肩が硬くなる。


「言いたくありません」


「分かりました」


「でも、聞いたら分かる?」


 アリシアが尋ねられる。


「何が?」


「それが私の呼び方だって」


 女子生徒は自分の胸へ手を当てる。


「今も、頭に残っています」


「自分へ向けられたって感じる?」


「はい」


「嫌?」


 長い沈黙。


「分かりません」


 昨日までは、嫌だった。


 だから怒鳴り返した。


 その名で呼ぶな。


 でも今は。


 なぜ嫌だったか思い出せない。


 呼び方だけが残り。


 感情の根が抜けている。


「嫌だったはずなのに」


 女子生徒の声が震える。


「今は、ただの音みたいです」


「呼ばれても平気?」


「平気というより」


 言葉を探す。


「私のことだとは分かります。でも、怒れない」


「怒りたい?」


 アリシアが尋ねる。


 女子生徒は目を見開いた。


「怒るべきだと思います」


「どうして?」


「昨日まで嫌っていたから」


「今は?」


「分かりません」


「じゃあ、怒らなくてもいい」


「でも、器に取られたのに」


 声が強くなる。


「嫌だった気持ちを取られたのに、平気でいたら」


 自分が自分ではなくなる。


 そう言いたいのだろう。


 嫌いだったもの。


 拒絶した呼び方。


 それも自分の一部。


 失えば、楽になるとは限らない。


「取り戻したい?」


 アリシアが尋ねる。


 女子生徒は答えられなかった。


「嫌だった理由も?」


「怖いです」


「うん」


「思い出したら、また苦しくなるかもしれない」


「うん」


「でも、思い出さなかったら」


「自分じゃない?」


「……はい」


 アリシアはすぐに助けるとは言えなかった。


 嫌な記憶を取り戻すことが。


 本人にとってよいかどうか。


 まだ分からない。


「今は、決めなくていい」


 そう言いかけ。


 昨日、水中の子供が待つことを苦しんでいたのを思い出す。


 待つだけでは足りない。


「決めない間」


 アリシアは続ける。


「どうしてほしい?」


「どうして?」


「一人で考えたくないとか」


「呼ばれたくないとか」


 ミレイが補う。


「その音を避けたい。逆に、少しずつ聞いて確かめたい。どちらでも構いません」


 女子生徒は膝の毛布を握る。


「今は、聞きたくないです」


「分かりました」


「でも、なかったことにもしてほしくない」


「では」


 ミレイが慎重に言う。


「呼ばれ方そのものは、封印して残す。ただし本人へ見せず、誰にも口にさせない」


「嫌だった理由は?」


「今は空欄にします」


「空欄?」


「不明ではなく」


 ミレイは考える。


「本人が、現時点では取り戻すか決めていないため、記録しない」


「友達が知っていても?」


「話さないでいただきます」


 友人二人がうなずく。


「もし、私が思い出したくなったら」


「そのときに、誰から聞きたいかも選べます」


「記録から?」


「友人から。家族から。自分の記憶を待つ。選択肢を分けます」


 女子生徒は少しだけ息を吐いた。


「では、今は封印してください」


「呼ばれ方を?」


「はい」


「あなた自身は、忘れなくてよいですか」


「頭にはあります」


「無理に消そうとしない?」


「はい」


 嫌な呼び方まで。


 なかったことにしない。


 でも、今すぐ受け入れる必要もない。


 本人が扱い方を決めるまで。


 外へ出さずに置く。


「一つ聞いていい?」


 女子生徒がアリシアを見る。


「うん」


「六つ目って呼ばれるの、嫌なんですか」


 胸へ針が触れたようだった。


 第四の声ではない。


 目の前の本人が。


 理由を知りたくて聞いている。


「嫌」


 アリシアは答えた。


「どうして?」


 すぐには言葉が出ない。


 六つの神器から外されていた。


 忘れられていた。


 人ではなく数として扱われた。


 黒月の継承者。


 危険な闇。


 役割。


 それらが重なっている。


「私の名前がなくても呼べるから」


 アリシアは言った。


「六つ目だけで、私のことを知った気になる人がいる」


「でも、六つ目なのは本当ですよね」


「うん」


「嫌なら、違うんですか」


「違わない」


 事実。


 でも。


 事実だから、呼ばれてよいとは限らない。


「私は六つ目。でも、それだけで呼ばれたくない」


 女子生徒は考える。


「その呼び方を、なくしたいですか」


 アリシアは少し迷った。


「昔は、なくしたかった」


「今は?」


「必要な記録には残ってもいい」


「嫌なのに?」


「どうして嫌だったかも、一緒に残るなら」


 六つ目。


 忘れられた闇の神器。


 それが自分を傷つけた。


 同時に。


 そこから始まった出会いもある。


 ノア。


 黒月。


 六人。


「呼ばれたいわけじゃない」


 アリシアは続ける。


「でも、なかったことにしたら、嫌だった私も消える気がする」


 女子生徒の目が揺れる。


「同じかもしれません」


「うん」


「でも、私は理由を覚えていない」


「今は」


「戻ると思いますか」


「分からない」


 きれいな答えは出せない。


 それでも女子生徒は、少しだけ安心したようだった。


「分からないって言われるの、前は嫌でした」


「今は?」


「約束されるよりは、いいです」


 面会が終わる前。


 女子生徒は現在の家名をもう一度伝えた。


 アリシア。


 ミレイ。


 友人。


 教師。


 一人ずつ呼ぶ。


 彼女は返事をする。


 嫌っていた呼び方ではなく。


 今、自分が選んだ名へ。


 廊下へ出ると、ミレイはすぐには記録を書かなかった。


 壁際へ立ち。


 呼吸を整える。


「どうしたの?」


 アリシアが尋ねる。


「嫌だった理由を、知りたいと思いました」


「友達が知ってるから?」


「はい」


「聞きたい?」


「記録としては」


 ミレイは自分の言葉を止める。


「いいえ」


 言い直した。


「私が知れば、空欄を埋められると思ったからです」


「埋めたい?」


「空欄を見ると、埋めたくなります」


 記録する者として。


 抜けがある。


 答えが近くにある。


 それでも本人が望んでいない。


「埋めないでいられる?」


「苦しいです」


「うん」


「でも、空欄の理由は残せます」


 ミレイは紙へ書く。


 呼ばれ方を嫌っていた理由について、周囲に情報はある。


 本人は現時点で開示を望んでいない。


 したがって記録しない。


 欠落ではなく。


 本人の意思で空けた場所。


「これなら」


 ミレイが言う。


「忘れたのではなく、残さなかったと分かります」


「うん」


「あとで本人が望んだら、書けます」


「望まなかったら?」


「空欄のままです」


 それを受け入れる。


 完全な記録を作らない。


 作れないのではなく。


 作らないと選ぶ。


 治療棟の一階へ降りると、セレナが待っていた。


 手首の痛みは落ち着いたらしい。


 白布から光は漏れていない。


 隣にはカイルがいる。


「休んでた?」


 アリシアが尋ねる。


「一時間は」


「本当です」


 カイルが答える。


「寝てた?」


「目は閉じました」


「寝てないな」


「休息はしました」


「言い方を変えるな」


「会話を聞く限り、元気そうですね」


 ミレイが少し笑う。


「面会の内容は?」


 セレナが尋ねる。


「本人が話していいって言った範囲を」


 アリシアとミレイで分けて説明した。


 嫌っていた理由を失った。


 呼び方は覚えている。


 今は聞きたくない。


 でも、なかったことにもしたくない。


 封印して残す。


 理由は、本人の意思で空欄にする。


 最後まで聞いたセレナは、自分の手首へ触れた。


「私も」


 静かに言う。


「何が?」


「両親の名前を取り戻すことばかり考えていました」


「うん」


「でも、忘れている中には、思い出したくないこともあるかもしれません」


 七歳の水害。


 橋の崩落。


 両親の行方。


 水中の声。


 記憶が戻れば。


 名前だけではなく。


 そのときの恐怖や苦しみも戻る可能性がある。


「取り戻すか、選びたい?」


 アリシアが尋ねる。


「はい」


「名前ごとに?」


「記憶ごとに、できるなら」


「できるか分からない」


「分かっています」


 セレナは自分から言った。


「でも、全部を一度に返されることは望みません」


「器は、全部を一つにする」


 ミレイが言う。


「だからこそ、戻し方も分ける必要があります」


「名前だけ」


 セレナが考える。


「町の景色だけ。両親の声だけ。水へ落ちる前。落ちたあと」


「選べるかもしれない」


 アリシアが言う。


「選べないかもしれません」


「うん」


「でも、選びたいと伝えることはできます」


 セレナの表情に、少しだけ芯が戻る。


 記憶を取り戻す側として。


 器から返されるのを待つのではない。


 どう受け取るかを、自分で決める。


 そのとき。


 治療棟の廊下奥から、叫び声が聞こえた。


「誰か来て!」


 全員が振り返る。


 水場ではない。


 面会室。


 先ほどの女子生徒がいる部屋の方角。


 警備隊員が扉へ駆け寄る。


 アリシアたちも続く。


 扉を開くと。


 女子生徒は椅子へ座ったまま。


 両手で耳を塞いでいた。


 友人二人が左右から声をかけている。


「家名を呼んで!」


 教師が叫ぶ。


 友人が本人の希望した家名を呼ぶ。


 一度。


 二度。


 女子生徒の唇が動く。


 返事をしようとしている。


 しかし。


 別の声が先に出た。


「その名ではない」


 女子生徒自身の声ではない。


 第四の声。


 喉ではなく。


 机の上へ置かれた空白の紙から響いていた。


 紙へ。


 黒い文字が一つずつ浮かんでいく。


 本人が封印してほしいと望んだ。


 嫌っていた呼び方。


「見ないで!」


 女子生徒が叫ぶ。


 全員が紙から視線を外す。


 ミレイも。


 記録者として読む前に。


 本人の意思を守る。


「紙を伏せます!」


 教師が布をかける。


 しかし文字は布の表面へ浮かび上がった。


「望まぬ名も、名である」


 第四の声。


「拒む声は、返事」


 女子生徒の身体が震える。


「違う」


 本人が呟く。


「私へ言わないで」


 アリシアが呼びかける。


「隣の人へ」


 女子生徒は友人を見る。


「嫌」


「何が嫌?」


 友人が尋ねる。


「今の呼び方」


「分かった」


「理由は、分からない」


「分からなくていい」


「でも、嫌」


「うん」


 女子生徒は第四の声へではなく。


 友人へ伝える。


「私は、その呼び方を受け取らない」


 友人が強くうなずく。


「聞いた」


 もう一人も。


「私も聞いた」


 第四の声が紙から響く。


「拒絶は、つながり」


「違います」


 ミレイが言う。


 紙を見ない。


 本人を見る。


「拒絶したことを、あなたへ返事した記録にはしません」


「記録する者」


「本人が、隣にいる人へ伝えました」


「音は、届いた」


「届いても、受け取っていません」


「名は、残る」


「残してよいかを、本人が決めます」


 第四の声が強くなる。


 布の上へ浮かぶ文字が増える。


「捨てた名」


「嫌った名」


「忘れた名」


「すべて、器へ」


 黒月が震える。


 アリシアには、紙から細い線が伸びているのが見えた。


 女子生徒の胸。


 友人たち。


 ミレイ。


 そして。


 アリシア自身へ。


 六つ目。


 人見知りな闇の少女。


 呼ばれたくない音を探っている。


『切れる?』


 ノアが尋ねる。


「紙だけなら」


『でも、紙が中心ではない』


 線の根は。


 西側貯水槽。


 遠い。


 ここにある紙は、入口にすぎない。


「紙を切っても、また出る」


 アリシアが言う。


「ではどうする!」


 警備隊員が尋ねる。


「本人が決める」


 女子生徒を見る。


「紙を残したい?」


 問いに、全員が止まる。


 紙には。


 嫌な呼び方がある。


 見たくない。


 でも、なかったことにもしたくない。


「分からない」


 女子生徒は泣いていた。


「燃やしたい」


「うん」


「でも、消したら」


「うん」


「私が嫌だったことまで、器に取られたままになる」


 選べない。


 今すぐ。


 残すか。


 消すか。


「今は決めない方法を作る」


 セレナが言う。


「どうやって」


「紙を封印します」


「第四の声が入っている」


「だから、文字を読めない形で」


 レオンハルトが白い光を広げる。


 光で文字を消さない。


 輪郭だけを覆う。


 ミレイが別の紙へ記録する。


 本人は、現在この呼び方を見たくない。


 しかし消去も望んでいない。


 判断を保留する。


「アリシア」


 セレナが呼ぶ。


「線を切れますか」


「本人から紙への線だけなら」


「切ったら、記憶は?」


「分からない」


 女子生徒が怯える。


「嫌だったことまで消える?」


「もう一部は消えてる」


「全部消えるかも?」


「分からない」


「残るかも?」


「うん」


 また。


 選ばなければならない。


 怖い。


 第四の声は、その迷いを待っている。


「一人で決めなくていい」


 友人が言う。


「でも、私のこと」


「うん」


「私が決めないと」


「最後は」


 友人は答える。


「でも、考えるのは一緒にできる」


 女子生徒は二人の友人を見る。


 教師。


 ミレイ。


 アリシア。


 セレナ。


「切らないで」


 やがて言った。


「今は」


「分かった」


 アリシアは黒月を下げる。


「でも、紙から外へ伸びる線は?」


「それは切って」


「呼び方へつながる線じゃない?」


「分からない」


「うん」


「でも」


 女子生徒は胸へ手を置く。


「第四の声が、ほかの人へ持っていく線は嫌」


 自分の紙。


 自分の記憶。


 そこから他者へ広がる線。


 それは切ってよい。


「分かった」


 アリシアは黒月を構える。


 レオンハルトが光を弱く当てる。


 紙。


 本人。


 外へ伸びる線。


 分けて見えるように。


「本人と紙の線は残す」


 アリシアが確認する。


「はい」


「外だけ」


「切ってください」


 黒月を振るう。


 紙からミレイへ。


 友人へ。


 アリシアへ。


 西側貯水槽へ伸びていた線。


 外側だけを断つ。


 紙が大きく震えた。


 第四の声が叫ぶ。


「捨てられた名は、我が持つ!」


「まだ捨てていません!」


 女子生徒が答えた。


 今度は第四の声へではない。


 隣の友人の手を握りながら。


 それでも声は届く。


「扱い方を決めていないだけです!」


 黒い線が切れる。


 布の上の文字が薄くなる。


 消えない。


 紙の中には残る。


 けれど外へ広がる力は止まった。


 第四の声の気配も消える。


 部屋には、女子生徒の荒い呼吸だけが残った。


「大丈夫?」


 友人が尋ねる。


「分からない」


「ここは?」


「治療棟」


「私の名前は?」


 友人が尋ねかけ。


 途中で止める。


「今、言ってほしい?」


 女子生徒は小さくうなずく。


 友人が自分の名を伝える。


 もう一人も。


 アリシアも。


 ミレイも。


 セレナも。


 カイルは廊下の入口から、自分の名前を言う。


 女子生徒は一人ずつ見る。


 返事をする必要はない。


 ただ、今いる人を確かめる。


「私の名前は」


 自分から現在の家名を言う。


 友人たちが呼び返す。


 女子生徒は返事をした。


「います」


 面会室の異変は止まった。


 しかし同じ時間。


 学院内の十二か所で。


 似た現象が起きていた。


 嫌っていた愛称。


 昔の役職。


 家族にだけ使われた呼び方。


 本人が忘れたいと願った名。


 紙。


 鏡。


 壁。


 水のない場所にさえ。


 黒い文字が浮かんだ。


 第四の声は。


 水から離れ始めている。


 呼ばれ方そのものを道にして。


 人の記憶と記録へ入り込んでいる。


 午後。


 学院の講堂で、緊急説明が行われた。


 全員を一度に集めることへの危険はあった。


 それでも各場所で同時に異変が起きた以上、共通の対応を伝える必要がある。


 ただし。


 校内放送は使わない。


 名前を読み上げない。


 講堂も、学年と寮ごとに時間を分ける。


 アリシアたちが参加したのは、最初の回。


 一年生と治療棟関係者。


 壇上に立った学院長は、明確に言った。


「呼ばれたくない名前を持つ者へ告げる」


 講堂が静まる。


「その呼び方を嫌う理由を、今すぐ説明する必要はない」


 肩の力を抜く者がいる。


「忘れたいと望んでもよい。残したいと望んでもよい。まだ決められないと答えてもよい」


 前列の女子生徒が、自分の膝を見る。


「ただし、第四の声へ直接返事をするな」


 学院長は続ける。


「嫌だと伝える場合は、近くにいる者へ向けて話せ。自分が現在受け取りたい呼び方が分かる場合は、それを伝えよ」


「一人のときは?」


 後方から声が上がった。


「声を出す必要はない」


 学院長が答える。


「胸へ手を置く。床へ触れる。現在地を見る。自分の意思で選んだ方法で、今の自分を確認せよ」


「合言葉は?」


「作らない」


「どうして?」


「第四の声が覚えるからだ」


 ざわめきが起きる。


「毎回違ってよい」


 学院長は言う。


「言葉が出なければ、動作だけでもよい。何もできなければ、その場で目を閉じず、近くの人が来るまで待て」


「待ってる間に取られたら」


 別の生徒が尋ねる。


 学院長はすぐに大丈夫とは言わなかった。


「その可能性はある」


 講堂の空気が重くなる。


「だから、完全に一人になる時間を減らす。寮、教室、職員区画で二人以上の確認班を作る」


「ずっとですか」


「永遠ではない」


「いつまで?」


「第四の声の仕組みが分かるまで」


 守れない安心を与えない。


「怖い者は」


 学院長が講堂を見渡す。


「怖いと言ってよい」


 誰もすぐには声を上げなかった。


 やがて。


 一人の少年が小さく手を挙げた。


「怖いです」


「聞いた」


 学院長が答える。


 次に。


 別の生徒。


「嫌な名前を思い出したくないです」


「聞いた」


「でも、忘れたままも嫌です」


「聞いた」


「何を選べばいいか分かりません」


「今は、選ばなくてよい」


 ただし、待つ間を支える。


「同じ班の者は」


 学院長が言う。


「答えを決めてやるのではなく。何が苦しいかを聞け」


 その後。


 小さな確認が各列で始まった。


「今、何と呼ばれたい?」


「いつも通り」


「家名と名、どっち?」


「名」


「嫌な呼び方を聞いたら、どうしてほしい?」


「今の名を一度だけ呼んで」


「何度も?」


「一度で返事しなかったら、もう一度」


「触れてもいい?」


「肩なら」


 人によって違う。


 呼び続けてほしい者。


 一度だけでよい者。


 名前より、近くへ来てほしい者。


 触れられたくない者。


 何も言わず隣にいてほしい者。


 完全な共通手順にはならない。


 それでも。


 違うからこそ。


 第四の声が一つの方法を真似しても、全員には通じない。


 講堂の隅。


 リィは同級生と並んで座っていた。


「嫌な呼び方」


 同級生が尋ねる。


「豆残し」


「本当に嫌か?」


「今は少し面白い」


「じゃあ使っていい?」


「毎日は嫌」


「何回まで?」


「決めるの面倒」


「気分で?」


「気分で」


「リィは?」


「今はいい」


「登録名は」


「聞きたいときに言う」


「分かった」


 アリシアが近くを通ると、リィが呼ぶ。


「アリシア」


「うん」


「水の子に伝えてくれた?」


「まだ会ってない」


「次に会ったら」


「両方持ってていいって?」


「うん」


「名前を教えないことも」


「伝える」


 リィは満足そうにうなずく。


「俺、嫌な呼び方も、全部捨てなくていいと思う」


「どうして?」


「豆残しって言われて、嫌だったけど」


 同級生を見る。


「昨日は少し笑った」


「俺の言い方がよかったんだな」


「違う」


「じゃあ何だよ」


「前と同じ音でも、今は違うから」


 誰が。


 なぜ。


 どんな顔で呼ぶか。


 同じ呼び方でも意味は変わる。


「じゃあ、器が言う音だけじゃ名前にならない」


 アリシアが言う。


「うん」


「嫌だった呼び方も」


「今は別になるかもしれない」


 ただし。


 本人が選んだときだけ。


「でも、昔嫌だったことは消したくない」


 リィが言う。


「覚えてる?」


「豆残しは昨日からだから」


「ほかは?」


「まだ分からない」


 登録名の記憶。


 愛称。


 教室での返事。


 少しずつ戻り始めている。


「戻ったら」


 リィは続ける。


「嫌だったことも教えてほしい。でも、一気じゃなくて」


「誰に?」


「同級生に」


「俺?」


「お前が覚えてるなら」


 同級生の顔が真剣になる。


「分かった」


「勝手に全部言うなよ」


「一つずつ?」


「俺が聞いたとき」


「分かった」


 名前だけではなく。


 嫌だった記憶の戻し方も。


 本人が選ぶ。


 夕方。


 学院長は新たな調査方針を決めた。


 第四の声が集めた呼び方を、奪い返すために。


 西側貯水槽へすぐ突入することはしない。


 まず。


 呼び方を失った者。


 嫌った理由を失った者。


 捨てた呼び方が再び現れた者。


 それぞれへ話を聞く。


 音だけでなく。


 その呼び方が持っていた意味を。


 誰が呼んだか。


 どう感じたか。


 今はどう扱いたいか。


「第四の声が意味を削るなら」


 ミレイが言う。


「人間側は、意味を一つずつ戻す」


「でも、嫌な記憶を聞き出すことになる」


 セレナが警戒する。


「本人が望んだ場合だけです」


「望まないものは?」


「空欄へ残します」


「第四の声に取られたままになるかもしれない」


「それでも」


 ミレイは答える。


「取り戻すために本人を傷つければ、器と同じです」


 アリシアはうなずく。


「空欄のまま守る」


「はい」


「でも、空欄があることは忘れない」


「はい」


 完全ではない。


 すべてを取り戻せないかもしれない。


 それでも本人の意思を置き去りにしない。


 夜。


 地下観測室へ、新しい水盤が置かれた。


 昨日の異変を受け。


 水の量はさらに少なく。


 皿の底がほとんど見える程度。


 周囲には、誰かの名前や呼び方を持ち込まない。


 観測者は。


 アリシア。


 セレナ。


 ミレイ。


 レオンハルト。


 そしてノア。


 カイルは扉の外。


 今日も、誰も呼びかけない。


 水中の子供が来るか。


 来ないか。


 本人へ任せる。


 一度目の鐘。


 何も起きない。


 二度目。


 水面へ小さな泡が浮かぶ。


 子供の姿は見えない。


 声だけ。


「嫌な名前」


 セレナが水盤へ向く。


「聞こえています」


「持ってる?」


 子供が尋ねる。


 アリシアは考える。


「ある」


「捨てたい?」


「前は」


「今は?」


「呼ばれたくない。でも、なかったことにしたくない」


「どうして」


「嫌だった私も、私だから」


 水面が揺れる。


「嫌なのに?」


「うん」


「分からない」


「私も、まだ全部は分からない」


「名前は」


 子供が言う。


「好きな音?」


「違うこともある」


 ミレイが答える。


「嫌いな呼び方も、その人へ向けられた音です」


「なら、名」


「呼ばれたからといって、本人が受け取る必要はありません」


「受け取らない名」


 子供は考える。


「捨てる?」


「捨ててもよいです」


 セレナが答える。


「残してもよい」


「両方?」


「扱い方を決めるまで、外へ出さずに持つこともできます」


「中に?」


「はい」


「苦しい」


 子供の声が小さくなる。


 無数の名前。


 五百人。


 第四の声。


 ほかの人の呼び方。


 自分の二つの音。


 子供の中には、すでに多すぎるものがある。


「全部持たなくていい」


 アリシアが言う。


「五百人は?」


「持ちたいか、まだ分からないんでしょう」


「でも、離したら消える」


「私たちが少しずつ受け取る」


「三十一人みたいに?」


「うん」


「残りは?」


 四百人以上。


 人間側は名前すら読めていない。


「次に見せてくれたら」


 ミレイが答える。


「見えた範囲を、複数人で覚えます」


「遅い」


「はい」


 否定しない。


「全部は一度に無理です」


「消える」


「その可能性があります」


「なら、私が」


「苦しいなら」


 セレナが言う。


「少しずつ渡してください」


「選べない」


「順番は決めなくてもよいです」


「一つが落ちたら?」


「拾える人が拾います」


「拾えなかったら?」


 誰もすぐには答えられない。


「拾えなかったと残す」


 ミレイが言った。


 子供の声が止まる。


「名前が分からなくても」


 ミレイは続ける。


「一つ落ちたこと。私たちが受け取れなかったこと。それを、いなかったことにはしません」


「戻せない」


「はい」


「それでいい?」


「よくありません」


 ミレイの声が少し震える。


「悔しいです」


「怒る?」


「自分へは」


「私へ?」


「怒りません」


「どうして」


「全部を持っていたことが、あなたの責任か分からないからです」


 子供は長く黙る。


「第四の声は」


 アリシアが尋ねる。


「今、何をしてる?」


「輪を作ってる」


「何の?」


「呼ばれ方」


「中に誰かいる?」


「まだ」


「入れるつもり?」


「私を」


 室内の空気が張る。


 セレナの手が震える。


「あなたを?」


「音を選んだら」


「第四の声が言った?」


「うん」


「輪へ入れば、名前を持てる?」


「みんなの呼ばれ方で」


 水中の子供。


 第四の声は。


 本人の二つの音ではなく。


 人々が捨てた呼び方を集めた輪へ、子供を入れようとしている。


 誰のものでもない。


 持ち主が拒んだ音。


 役割。


 愛称。


 からかい。


 それらを一つへまとめ。


 子供の器にする。


「入りたい?」


 セレナが尋ねる。


「分からない」


「入らなければ?」


「音が消えるって」


「本当に?」


「分からない」


「怖い?」


「うん」


 また。


 待つ間の苦しさ。


「今すぐ助けに行く?」


 アリシアは周囲へではなく。


 子供へ尋ねた。


「来てほしい?」


 水面が揺れる。


「来たら」


「うん」


「輪が開く」


「危険?」


「うん」


「来ない方がいい?」


「分からない」


 どちらも。


 子供一人では決められない。


「一緒に決める?」


 アリシアが尋ねる。


「どうやって」


「輪が何をするか、もう少し聞く」


「第四の声に?」


「あなたが聞ける範囲で」


「怖い」


「無理なら聞かなくていい」


「でも」


「聞きたい?」


「少し」


 セレナが言う。


「次に、第四の声が何か言ったら、全部覚えなくてよいです」


「忘れたら」


「残った部分だけ伝えてください」


「間違ったら」


「違ったと、あとで言ってください」


「役に立たない」


「あなたは、道具ではありません」


 子供の声が止まる。


「聞く役割を与えるのではありません」


 セレナは続ける。


「聞きたいと思った範囲で。聞こえたものを。話したいところだけ」


「話さなくても?」


「はい」


「輪に入らなくても?」


「はい」


「音が消えたら?」


「また聞きます」


「何を」


「何と呼ばれたいか」


 水面の泡が少し明るくなる。


「二つ目」


 子供が言う。


「うん」


 アリシアが答える。


「まだ、ある」


「覚えてる」


「三つ目」


 全員が息を止める。


「ある?」


 セレナが尋ねる。


「少し」


「聞かせたい?」


 長い沈黙。


「今日は、嫌」


「分かりました」


 誰も残念そうな声を出さない。


 聞きたい。


 知りたい。


 でも、子供が嫌だと言った。


 それを受け取る。


「次は?」


 子供が尋ねる。


「水を置く」


 アリシアが答える。


「同じ時間?」


「明日は少し遅くなる」


「どうして」


「調査があるから」


 約束できないことを隠さない。


「でも、置く前に」


 ミレイが言う。


「観測室の札へ、時刻を書きます」


「文字?」


「数字だけ」


「第四の声が使う?」


「可能性があります」


「なら」


「別の方法を考えます」


 風の回数。


 鐘。


 光の点滅。


 名前を使わず。


 固定された言葉を使わず。


 子供へ、次の時間を伝える。


「明日は」


 セレナが考える。


「鐘が四回鳴ったあと」


「分かった」


「来なくても」


「怒らない?」


「怒りません」


「忘れない?」


「今日、三つ目を聞かせたくないと言ったことも覚えます」


 泡が割れる。


 子供の声が消える。


 今夜の接触は、それで終わった。


 西側貯水槽へ突入するとは決めなかった。


 待つだけとも決めなかった。


 輪について。


 第四の声について。


 子供が聞きたい範囲で情報を持ち帰る。


 そのうえで、一緒に決める。


 観測室を出ると。


 カイルが壁へ背を預けて待っていた。


「長かったな」


「三つ目があるって」


 アリシアが言う。


「聞いたのか」


「今日は嫌だって」


「そうか」


 カイルはそれ以上聞かなかった。


「輪へ入れられるかもしれない」


 セレナが続ける。


 カイルの表情が険しくなる。


「なら行くぞ」


「まだ決めていません」


「入れられてからじゃ遅い」


「本人も、来てほしいか分からないと言っています」


「分からないなら、助けに行くだろ」


「助けられるとは限りません」


「だからって」


「カイル」


 アリシアが呼ぶ。


 彼が見る。


「行きたい?」


「当たり前だ」


「怖い?」


「何が」


「間に合わないのが」


 カイルは口を閉じた。


「怖いから、今すぐ行きたい?」


「悪いか」


「悪くない」


 アリシアは答える。


「でも、それも一緒に伝えよう」


「誰に」


「子供に」


 助けたい。


 間に合わないのが怖い。


 だから行きたい。


 その理由を隠さない。


 正しさとして押しつけない。


「次に会ったら」


 アリシアは言う。


「カイルがそう思ってるって伝える」


「俺が言う」


「外から?」


「水盤に入れないなら、扉越しでも」


 セレナが少し考える。


「本人が聞いてよいと言ったら」


「分かった」


 カイルは歯を食いしばる。


 それでも、すぐに地下へ走らなかった。


 夜更け。


 学院内で浮かんだ十二枚の黒い呼び方は。


 一枚ずつ別の封印箱へ収められた。


 燃やさない。


 捨てない。


 本人が扱い方を決めるまで。


 封印した場所の一覧は、一冊へまとめない。


 管理者も分ける。


 何が書かれているかを知る者と。


 どこへ置かれたかを知る者を分ける。


 完全な安全ではない。


 それでも。


 一つを奪われても、全部が器へ戻らないように。


 そして。


 西側貯水槽の底。


 第四の声は、文字でできた輪の前に立っていた。


 身体はない。


 口だけ。


 輪の中には。


 捨てられた呼び方が回っている。


 泣き虫。


 役立たず。


 隊長。


 お姉ちゃん。


 六つ目。


 記録係。


 豆残し。


 愛されていた呼び名も。


 憎まれていた音も。


 意味を失い。


 同じ速さで回る。


「望みは不要」


 第四の声


「拒絶も不要」


 輪の中央へ。


 薄い人影が作られ始める。


 水中の子供ではない。


 まだ誰でもない。


 誰からも受け取られなかった呼び方だけで作られる、人の形。


「返事をする器」


 第四の声が言う。


「すべての音へ応える者」


 人影には顔がない。


 名前もない。


 それでも。


 呼び方が一つ輪を巡るたび。


 身体が少しずつ濃くなる。


「お前は、捨てられた名」


 第四の声が、新しい影へ役割を与える。


「誰も受け取らぬ音を持て」


 水中の子供を得られなかった。


 ミレイを中央へ置けなかった。


 なら。


 拒まれた呼び方そのものを集め。


 自分へ返事をする存在を作ればよい。


 輪の中央で。


 人影の口が、初めて開いた。


 声はない。


 代わりに。


 周囲を回る呼び方のすべてへ。


 同時に振り向いた。


 それは。


 どの名にも返事をするために作られた。


 誰の名前でもない、第四の器の最初の姿だった。

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