第106話 すべての呼び方へ返事をする者は、自分の名前を選べない
第四の器と思われる人影が確認されたのは、夜明けまであと二時間という頃だった。
西側貯水槽の監視室では、交代前の教師二名と警備隊員三名が、厚い観測硝子の向こうにある水面を見つめていた。
貯水槽内部へ直接明かりを向けることは禁止されている。光の刺激によって第三の器や水中の子供が反応する可能性があるため、壁面へ埋め込まれた低出力の観測石だけが、暗い空間を淡く照らしていた。
その弱い光の中。
文字で作られた輪は、前の観測時より大きくなっていた。
水面から少し沈んだ位置。
第三の器を示す六つの円より上。
いくつもの呼び方が、円周に沿ってゆっくり回っている。
家族から与えられた愛称。
過去の役職。
本人が嫌って捨てた呼び名。
からかい。
尊称。
番号。
属性。
役割。
どの文字にも、呼ばれたときの感情は残っていない。
愛して呼んだのか。
傷つけるために呼んだのか。
本人が嬉しかったのか、嫌だったのか。
すべて削ぎ落とされ、音だけとなって同じ輪の上を巡っている。
そして中央には、人の形をした影が立っていた。
輪郭は細い。
顔はない。
服も髪もない。
男女の違いすら分からない。
それでも、円周を回る呼び方が観測室の中で読み上げられるたび、影は必ずその声の方へ振り向いた。
「隊長」
監視記録を確認するため、教師が封印板に残された一つの呼び方を読んだ。
人影が動く。
ゆっくりと。
正確に。
観測室の方を向く。
「記録係」
別の教師が読む。
人影は一度正面へ戻ったあと、再び観測室へ顔のない頭を向ける。
「泣き虫」
振り向く。
「六つ目」
振り向く。
「お姉ちゃん」
振り向く。
どの音にも。
同じ速さで。
同じ反応を返す。
そこに迷いはない。
喜びも。
拒絶も。
自分へ向けられたのか確かめる間さえない。
呼ばれた。
だから返事をする。
それだけの存在だった。
「読み上げを中止してください」
監視責任者が命じる。
教師たちは口を閉じる。
人影は正面へ戻った。
その後、動かない。
誰かが呼ぶまで。
次の音を待っている。
「水中の子供は?」
警備隊員が尋ねる。
「確認できない」
監視責任者は測定板を見る。
「第三の器側の反応は弱い。ただし、水底にある五百人分の名前は移動している」
「どこへ」
「第四の文字環の周囲だ」
人々の名前と。
捨てられた呼び方。
その二つが、同じ場所へ集まり始めている。
監視責任者は迷わず緊急鐘の紐を引いた。
夜明け前の学院へ。
二度目の低い鐘が響いた。
◇
アリシアが作戦室へ到着したとき、机の上にはすでに十枚以上の観測記録が並べられていた。
学院長は中央の席に立ち、貯水槽の縮小図を見ている。副学院長は各寮と治療棟への連絡を確認し、警備責任者は地下へ向かう隊員たちの配置を決めていた。
神器継承者たちも揃っている。
セレナは治療教師の隣へ座り、白布を巻いた手首を机の下で押さえていた。
カイルはその手へ何度も視線を向けている。
何か言いたそうだったが。
作戦室に入ってきたアリシアとミレイを見ると、先に席を空けた。
「状況は」
アリシアが尋ねる。
「呼ばれ方を集めた輪の中央に、人型が現れた」
学院長が答える。
「観測上、すべての呼び方へ反応する」
「すべて?」
「少なくとも、確認した範囲では」
観測記録が回される。
アリシアは自分一人で持たず、隣のミレイと机へ置いたまま読む。
時刻。
魔力値。
読み上げた呼び方。
人影の反応。
どの呼び方にも、同じように振り向いた。
「返事は?」
レオンハルトが尋ねる。
「声は出していない」
「振り向くだけ?」
「今は」
学院長は最後の記録を示す。
「ただし、輪郭は徐々に濃くなっている。呼びかけへの反応を重ねるほど、身体が作られている可能性がある」
「なら、呼ばなければいい」
カイルが言う。
「人間側が呼ばなくても、第四の声が呼んでいる」
副学院長が答える。
「貯水槽内では、現在も複数の音が繰り返されている」
「止められないのか」
「外からの遮音結界は効かなかった」
声は水中から発生している。
第四の声自身が、輪の文字を一つずつ読み上げている。
呼ばれるたび。
人影は振り向く。
反応が増え。
身体が濃くなる。
「名前を持たない器」
ミレイが呟いた。
「名前はないのに、すべての名前へ返事をする」
「呼び方を一つも自分で選んでいない」
セレナが言う。
その声には、強い嫌悪が混じっていた。
「何と呼ばれたいかを聞く必要すらないように作られている」
「聞いても、全部へ返事するかもしれない」
アリシアは記録を見る。
本人の望みは不要。
第四の声が言った言葉。
嫌いでも。
好きでも。
自分へ向けられたと認識すれば、それだけで名前にする。
今度はさらに進んでいる。
誰へ向けられた音かも関係ない。
すべてを自分の名として受け取る存在。
「それは、人なの?」
アリシアが尋ねた。
誰もすぐには答えない。
ノアが机の端へ飛び乗り、観測図を見下ろす。
『まだ人ではないでしょうね』
「ノアは、まだ人じゃないって」
「なら、器か」
カイルが尋ねる。
『それも決めるには早い』
「器とも決められないそうです」
「面倒だな」
『あなたが単純すぎるのよ』
「何て?」
「カイルが単純だって」
「猫に言われたくない」
「ノアは猫だけじゃない」
「分かってる」
短いやり取りの間。
セレナは観測図から目を離さなかった。
「水中の子供は、どこにいますか」
最も知りたいこと。
作戦室が静まる。
「姿は確認できない」
学院長が答える。
「ただし」
「ただし?」
「子供が持っていたと思われる二つの音が、第四の文字環の近くで観測された」
アリシアの胸が強く鳴る。
「輪の中?」
「まだ外側だ」
「三つ目は?」
「確認できていない」
子供は言った。
三つ目が少しある。
でも、今日は聞かせたくない。
第四の声は。
子供自身が選ぶ前に。
その音まで輪へ取り込もうとしているのかもしれない。
「行きます」
セレナが立ち上がった。
手首を押さえたまま。
治療教師がすぐに腕を伸ばす。
「待ってください」
「待てません」
「立ち上がっただけで光が強くなっています」
「水の神器が反応しているなら、子供に何か起きています」
「だからこそ、状態を確認せず地下へ行けません」
「確認している間に」
「セレナ」
カイルが呼ぶ。
彼女が振り返る。
「座れ」
「カイルまで」
「行くなとは言ってない」
「では」
「手を見せろ」
セレナは動かない。
「白布の下」
「今は関係ありません」
「ある」
「子供が」
「お前も狙われてる」
カイルの声は強かった。
怒っているように聞こえる。
けれど、机の下で握られた拳は震えていた。
「第四の声は、呼ばれ方を集めてる。お前には過去の名と今の名がある。今行ったら、両方取られるかもしれない」
「だから、何もしないのですか」
「準備してから行けと言ってる」
「間に合わなかったら」
「俺も怖い」
カイルが言った。
セレナが止まる。
作戦室にいた者たちも、わずかに息を呑んだ。
「間に合わないのは怖い」
彼は続ける。
「お前がまた水へ引かれるのも怖い。あの子が輪へ入れられるのも。どっちもだ」
隠さなかった。
今すぐ走りたい理由を。
止めたい理由を。
「だから、一つだけ選ばせるな」
カイルはセレナの手首を見る。
「行くか、残るか。それだけにするな」
セレナの表情が揺れる。
「では、どうするのですか」
「治療しながら作戦を聞け」
「そのようなことが」
「できます」
治療教師が答えた。
「手首を冷却し、魔力遮断を行いながら会議へ参加してください。ただし、地下へ同行できるかは診察後に判断します」
セレナは不満そうだった。
それでも、ゆっくり椅子へ座る。
「分かりました」
カイルも息を吐いた。
「ありがとう」
セレナが言う。
「何が」
「怖いと言ってくれたこと」
「別に」
「別ではありません」
「今その話はいい」
顔を逸らす。
耳が少し赤い。
アリシアは見ないふりをした。
ノアは面白そうに尾を揺らしている。
「作戦を決める」
学院長が会議を戻した。
「目的は三つだ」
一。
第四の文字環と人影の確認。
二。
水中の子供の位置と意思の確認。
三。
学院内から奪われた呼び方と、その意味の流れを調べる。
「破壊は?」
警備責任者が尋ねる。
「最初の目的にはしない」
「人影が完成した場合は」
「状況に応じて判断する」
「遅くなる危険があります」
「早く壊して、持ち主の記憶まで傷つける危険もある」
学院長の声は揺れない。
「呼ばれ方を奪われた者の中には、まだ残すか消すか決めていない者がいる。文字環を壊すことで、その選択まで失わせる可能性がある」
「では、線を分ける」
アリシアが言う。
「人影へ集まる線と、持ち主へ戻る線」
「見えるか」
「近くなら、たぶん」
黒月を通せば。
呼び方の音だけを集める線。
その呼び方を持っていた人の記憶へつながる線。
子供の音へ伸びる線。
違いが見えるかもしれない。
「接触班を決める」
学院長は紙へ名を書いていく。
アリシア。
レオンハルト。
結界術師二名。
警備隊員四名。
ミレイ。
水中の子供が、記録する者の声を求めたこと。
第四の声がミレイの声を使うこと。
どちらも危険。
「ミレイを入れるのですか」
副学院長が確認する。
「本人の意思を聞く」
全員がミレイを見る。
彼女はすぐに答えなかった。
膝の上に置いた手を見つめる。
「怖いです」
最初に言った。
「私の声が、また使われることも。記録する者として人影へ取り込まれることも」
「同行を断ってよい」
学院長が告げる。
「断った場合、別の記録者を入れますか」
「入れない。外部記録へ切り替える」
「では」
ミレイは少し考える。
「私が行かなければ、記録する者を一人も中へ入れない?」
「そうだ」
「私の代わりに、誰かが危険になるわけではない」
「ならない」
ミレイは一度目を閉じた。
「行きます」
「理由は」
「水中の子供が、私の声を置いてほしいと言いました」
「それだけか」
「違います」
ミレイは顔を上げる。
「第四の声が、記録する者を中央へ置こうとしています。私が外へ残ることで、それへ抵抗できる可能性もあります」
「では、なぜ中へ」
「私が決めたいからです」
誰かに必要とされたから。
記録係だから。
標的だから。
それだけではない。
「怖いですが、中で本人の声を聞きたい」
ミレイははっきり言った。
「記録するためではなく?」
「話を聞くためです」
「承知した」
学院長が名を残す。
「セレナは診察結果次第」
「カイルは?」
カイル自身が尋ねる。
「外周班」
「またか」
「火の神器が文字環へどのような影響を与えるか不明だ」
「必要なら呼ぶ?」
「呼ぶ」
「三分?」
前回の約束を思い出すように言う。
学院長が少し眉を上げる。
「内部班から一分ごとに報告する。三分途絶した場合、外周班が扉まで進む」
「中へ入るのは?」
「その時点で判断する」
「分かった」
以前より早く受け入れた。
「風と土は」
「風は通信。土は貯水槽の壁と床を支える。水圧変動へ備えよ」
役割が決まる。
セレナの診察が始まる間。
アリシアはミレイとともに、呼ばれ方を奪われた者たちの記録を確認した。
ただし。
実際の呼び方は読まない。
封印番号。
本人の現在の希望。
残したい。
消したい。
保留。
まだ話したくない。
その分類だけを見る。
「全部で十二件」
ミレイが言う。
「残したいが二件。消したいが三件。保留が五件。話したくないが二件」
「消したい人の呼び方は、器から切っていい?」
「本人は、消去を望んでいます」
「記憶も?」
「そこが分かれているんです」
ミレイは別の紙を示す。
「呼び方そのものは消したい。しかし、それを嫌った記憶は残したい者が二人」
「音だけ消す?」
「可能なら」
「一人は?」
「呼び方も、関係する記憶も、すべて消したい」
アリシアの手が止まる。
「全部?」
「はい」
「理由は」
「記録していません」
「本人が話したくない?」
「はい」
その選択を。
尊重できるか。
嫌だった記憶も、その人の一部。
そう考えた。
けれど本人が。
残したくないと望むなら。
「消していいのかな」
アリシアが呟く。
「分かりません」
ミレイは答えた。
「本人が望んでも?」
「消したあと、戻せません」
「うん」
「でも、危険だから残すと周囲が決めるのも違う」
「うん」
「だから」
ミレイは三枚の紙を並べる。
「一度で消さない方法を探します」
「分ける?」
「音だけを先に遠ざける。記憶は封印する。一定期間後、本人へもう一度確認する」
「本人が、すぐ全部消したいって言っても?」
「それも聞きます」
「止めるの?」
「止めるのではなく」
ミレイは言葉を選ぶ。
「戻せない選択だと伝えた上で、もう一度決めてもらう」
「それでも同じなら」
「実行できる方法を探す」
すべての選択を。
保留にすればよいわけではない。
待つことを押しつけてはいけない。
消したいという意思も。
本人のもの。
「黒月で、できるかな」
「分けて切ることが?」
「うん」
「今日、確認する必要があります」
アリシアは腰の黒月へ触れた。
線を切る力。
それが。
誰かの望みを叶えることも。
取り返しのつかない結果を作ることもある。
『怖い?』
ノアが尋ねる。
『うん』
『それでも使う?』
『本人が望んで。ほかの方法がなくて。何が起きるか伝えたあとなら』
『ずいぶん条件が増えたわね』
『悪い?』
『いいえ』
ノアは黒月の鞘へ尾を触れさせる。
『剣は、振れることより、振る前に止まれることの方が難しいものよ』
治療教師から許可が出たのは、会議開始から四十分後だった。
セレナは地下入口まで同行できる。
ただし貯水槽内部へ入るかは。
入口で再度、水の神器との反応を確認して決める。
「中へ入れない可能性があります」
治療教師が告げる。
「分かっています」
セレナは答えた。
完全に納得した声ではない。
それでも隠さない。
「悔しいです」
「聞きました」
「子供へ、自分で聞きたい」
「聞きました」
「でも、倒れるまで行くとは言いません」
「それも聞きました」
治療教師は白布の上から新しい冷却帯を巻く。
「痛みが増えたら」
「すぐ言います」
「本当に?」
「カイルが見ていますから」
「見てるぞ」
扉の外から声がする。
「入ってこないでください」
「聞こえるところにいるだけだ」
「だから落ち着きません」
「隠せないからいいだろ」
セレナは少しだけ笑った。
「確かに」
調査班は朝日が昇る前に地下へ入った。
通路は前回より冷えている。
乾燥結界があるにもかかわらず、石壁には薄い霜が浮かんでいた。足元の白い粉には乱れがなく、人や影が通った形跡はない。
「人数十二名」
サーラが入口側から告げる。
今回、彼女は地下へ入らず、外で人数と退路を管理する。
「接触班七名。入口待機五名。変化なし」
先頭は警備隊員二名。
その後ろに結界術師。
レオンハルト。
アリシア。
ミレイ。
最後尾を警備隊員二名が守る。
セレナは入口待機。
カイルも。
同じ場所へ来た。
それでも役割が違う。
鉄扉の前へ到着する。
内部から。
声が聞こえた。
「隊長」
間。
「六つ目」
間。
「お姉ちゃん」
間。
「記録係」
一つずつ。
第四の声が呼ぶ。
扉の向こうで。
そのたび。
水が揺れる音がする。
「人影が反応してる」
アリシアが言う。
「見えるのですか」
ミレイが尋ねる。
「扉越しに、黒い線だけ」
一本の太い線。
呼び方の輪から。
中央の人影へ。
音が届くたび、線が太くなる。
「子供の線は?」
セレナが入口側から尋ねる。
「まだ分からない」
「声は?」
「聞こえない」
セレナの手首が淡く光る。
治療教師が測定具を見る。
「反応上昇。軽度」
「入れます」
「まだ待ってください」
「でも」
「セレナ」
カイルが呼ぶ。
「報告を待て」
セレナは鉄扉を見つめる。
数秒。
やがてうなずく。
「分かりました」
扉が開かれる。
冷たい水の匂いが流れ出す。
前回より強い。
金属と。
古い紙。
濡れた木。
長く閉ざされた記録庫のような匂い。
観測室側の通路を進み。
貯水槽を見下ろす位置へ出る。
アリシアは息を止めた。
文字環は。
想像より大きかった。
直径は二十歩を超えている。
呼び方が、輪の上へびっしりと並び。
水中を回っている。
中央の人影は。
もう輪郭だけではない。
薄い身体。
腕。
脚。
頭。
それでも顔はない。
呼び方が読まれるたび。
全身がそちらへ向く。
「記録係」
第四の声。
人影が。
ミレイの方へ振り向いた。
彼女の肩が震える。
「返事をしないで」
アリシアが言う。
「はい」
「今、どう呼ばれたい?」
急いで確認する。
「ミレイ」
「ミレイ」
アリシアが呼ぶ。
「ここにいます」
ミレイが返事をする。
人影は、その声にも振り向いた。
今度は。
アリシアたちの方へ。
「私たちの呼び方にも反応する」
レオンハルトが言う。
「音なら全部」
ミレイの顔が強張る。
「名前だけでなく?」
「たぶん」
試すために、適当な音を呼ぶことはできない。
それも新しい呼び方として輪へ加わるかもしれない。
「子供は」
アリシアは黒月を抜く。
黒い刀身を通して。
水中の線を見る。
人影。
文字環。
第三の器。
五百人の名。
そして。
水底の奥。
小さな影。
「いる」
声が出る。
「輪の下」
「つながっていますか」
セレナの声が通信具から届く。
「二つの音から、輪へ線が伸びてる」
「三つ目は?」
「見えない」
水中の子供は。
胸を押さえている。
その周囲へ。
白い粒が五つ浮かんでいる。
アリシアたちが置いた声。
まだ残っている。
「声の粒もある」
アリシアが伝える。
水中の子供が顔を上げる。
遠い。
それでも。
こちらを見た。
「聞こえる?」
アリシアが尋ねる。
返事はない。
第四の声が続く。
「六つ目」
人影がアリシアへ振り向く。
胸が冷える。
それでも返さない。
「アリシア」
レオンハルトが呼ぶ。
「いる」
返事をする。
人影は。
また振り向く。
すべてへ応じる。
「どちらも同じ反応」
ミレイが言う。
「本人が受け取るかどうかを分けられない」
「自分がないから」
アリシアは人影を見る。
顔のない頭。
誰かへ呼ばれれば向く。
それだけ。
「こちらから何と呼ばれたいか聞きますか」
ミレイが尋ねる。
「答えられる?」
「分かりません」
「聞いてみる」
アリシアは一歩前へ出る。
結界術師が止めようとする。
「ここから」
距離は保つ。
人影へ向かって。
声を上げる。
「あなたは」
呼び方がない。
器とも。
人影とも。
名のない者とも呼ばない。
「今、何と呼ばれたいですか」
文字環の回転が。
一瞬だけ止まった。
第四の声も。
黙る。
人影は正面を向く。
顔がない。
口もない。
返事はない。
「聞こえていますか」
アリシアが続ける。
人影は動かない。
「返事をしなくてもいいです」
その瞬間。
人影の身体が大きく震えた。
これまで。
呼ばれれば振り向いた。
反応することだけを求められた。
返事をしなくてよい。
その言葉を。
どう受け取ればいいか分からないように。
「反応しなくても」
ミレイが続く。
「あなたが消えたとは決めません」
人影の胸元へ。
小さな亀裂が入る。
文字環から伸びていた太い線が揺れる。
「何をしている」
第四の声が響く。
「器へ呼び方を与えよ」
「与えません」
アリシアが答える。
「何と呼ぶかは、本人に聞く」
「本人はない」
「分からないだけかもしれない」
「空である」
「空なら」
ミレイが言う。
「勝手に埋めません」
「器は、返事をする」
「返事をしないことも選べます」
人影の胸の亀裂が広がる。
第四の声が強くなる。
「隊長」
人影が振り向く。
「六つ目」
振り向く。
「記録係」
振り向く。
「泣き虫」
振り向く。
速く。
次々に。
呼び方が重なる。
人影の身体が引き裂かれるように、異なる方向へねじれる。
「止めて!」
アリシアが叫ぶ。
「選べ」
第四の声が人影へ命じる。
「すべてへ応えよ」
人影は動き続ける。
右。
左。
上。
下。
呼び声の方向へ。
身体が耐えられない。
「何と呼ばれたいかじゃない」
アリシアは気づく。
「まず、返事したくないかを聞く」
ミレイが人影を見る。
「今、呼ばれるのを止めてほしいですか!」
人影が止まりかける。
第四の声がさらに叫ぶ。
「記録係!」
「ミレイ!」
アリシアが呼ぶ。
「ここにいます!」
ミレイは返す。
「あなたは!」
今度は人影へ。
「返事をしなくてもいい!」
人影の腕が。
ゆっくり動く。
耳の位置へ。
顔はない。
耳もない。
それでも。
両手で頭を覆うように。
「聞きたくない?」
アリシアが尋ねる。
人影の身体が。
わずかに前へ曲がる。
初めて。
呼び声の方ではなく。
自分の内側へ向く。
「嫌なの?」
人影の胸の亀裂から。
音が漏れた。
声ではない。
息。
苦しそうな。
短い音。
「嫌だと言ってる」
アリシアは黒月を構える。
「輪から人影へ伸びる線を切る」
「持ち主の記憶は?」
レオンハルトが尋ねる。
「人影への線だけなら、たぶん残る」
「水中の子供は?」
「別」
「準備します」
レオンハルトが光を広げる。
白い光が文字環を照らす。
線が浮かぶ。
一つ。
輪から人影へ。
一つ。
輪から水中の子供の二つの音へ。
無数。
輪から学院中の持ち主へ。
「人影だけ切る」
アリシアが伝える。
結界術師が防壁を張る。
ミレイが入口側へ下がり。
それでも人影から目を離さない。
「切ってよいですか!」
本人へ聞く。
人影に口はない。
返事はできない。
両手で頭を覆う。
身体を丸める。
その動作が。
今の意思かもしれない。
「返事がない」
警備隊員が言う。
「待つか」
第四の声が叫ぶ。
「すべてへ応えよ!」
人影の身体が、再び動かされる。
頭を覆っていた手が引き離される。
「待てない」
アリシアが言う。
本人の明確な言葉はない。
けれど。
嫌がっているように見える。
切る危険。
切らない危険。
「ミレイ」
「はい」
「見えたことを言って」
「人影は」
ミレイが答える。
「呼び方が止まった瞬間、頭を覆いました」
「うん」
「第四の声が再開すると、本人の動作に逆らって腕が開きました」
「うん」
「私は、呼ばれることを止めてほしい意思があるように見えます」
「レオンハルト」
「同じです」
「結界術師」
「同意します」
一人の判断にしない。
見えたものを。
違う立場から確認する。
「切ります」
アリシアは踏み込んだ。
黒月を振るう。
文字環から人影へ伸びる太い線。
中心だけを。
刃が触れる。
第四の声が叫ぶ。
「器は、返事をする!」
「返事をしたいと決めてない!」
黒い線を断つ。
貯水槽全体が大きく揺れた。
水が壁へ打ちつけられる。
土の神器継承者の声が通信具から届く。
「壁面を支える! 内部班、退路を確認しろ!」
「退路維持!」
警備隊員が答える。
文字環の回転が乱れる。
人影が水中へ落ちる。
「消えた?」
ミレイが叫ぶ。
「まだいる!」
アリシアには見える。
線は切れた。
人影は。
輪の中央から外れ。
水へ沈んでいる。
顔のないまま。
力なく。
「助ける?」
アリシアが尋ねる。
誰へ。
人影へ。
返事はない。
水中の子供が。
初めて動いた。
輪の下から。
人影へ向かって。
小さな腕を伸ばす。
「子供が近づいてる!」
セレナの声が入口側から響く。
「止める?」
「待ってください!」
水中の子供は。
沈む人影の手を掴んだ。
無数の名前を持つ子供と。
すべての呼び方へ返事をさせられていた人影。
二つの存在が。
水中で触れる。
第四の声が笑った。
「一つへ」
子供の身体から。
二つの音が浮かび。
人影へ流れようとする。
「罠です!」
レオンハルトが叫ぶ。
「子供の音を、人影へ入れるつもりです!」
「切れる?」
ミレイが尋ねる。
「音と人影の間だけなら!」
アリシアは黒月を構える。
しかし。
水中の子供が。
こちらを見た。
首を横へ振る。
「切らないで?」
アリシアが尋ねる。
子供は。
人影の手を握ったまま。
うなずく。
「でも、音を取られる!」
セレナの声。
子供が口を開く。
水越し。
遠い声。
「渡さない」
「じゃあ、何をしてるの?」
「聞く」
人影へ。
子供は顔を向ける。
「何と」
声が途切れる。
それでも続ける。
「呼ばれたくない?」
人影には口がない。
返事もない。
だが。
子供と触れた手が。
わずかに動く。
子供の手を。
握り返す。
「呼ばれたくない」
子供が人影の代わりに言いかける。
途中で止まる。
「違う」
誰も代わりに決めない。
子供は。
言い直した。
「そう見える」
アリシアの胸が熱くなる。
自分たちの言葉を。
子供が使っている。
本人の意思を。
勝手に断定しないために。
「どうする?」
アリシアが尋ねる。
子供は人影を見る。
「水の外へ」
「連れてくる?」
子供はうなずく。
「輪から離したい?」
「うん」
「あなたも来る?」
子供は迷う。
第四の声が叫ぶ。
「輪へ戻れ!」
文字環から。
新しい黒い線が。
子供と人影へ伸びる。
「アリシア!」
ミレイが叫ぶ。
「今度は切って!」
子供も。
うなずく。
「二人への線を切る!」
レオンハルトの光。
結界。
退路。
土の支え。
風の通信。
外ではカイルが火の神器を構え。
セレナが水の反応を聞く。
全員が違う場所で。
同じ二人を外へ出すために動く。
「火はまだ使うな!」
学院長の声。
「分かってる!」
カイルが答える。
「でも、呼ばれたらすぐ入る!」
アリシアは黒月を振るう。
一本目。
人影へ伸びる線。
切断。
二本目。
子供の二つの音へ伸びる線。
黒月が触れた瞬間。
第四の声が。
無数の呼び方を叫ぶ。
「六つ目!」
「水!」
「記録係!」
「光!」
「火!」
役割。
属性。
番号。
全員を。
自分たちが受け取りたくない音で呼ぶ。
「アリシア!」
レオンハルト。
「いる!」
「レオンハルト!」
ミレイ。
「ここにいます!」
「ミレイ!」
アリシア。
「はい!」
入口から。
「セレナ!」
カイルが叫ぶ。
「ここにいます!」
「カイル!」
「いる!」
受け取りたい名前へ。
互いに返事をする。
第四の声へではない。
仲間へ。
黒月が線を切った。
文字環が大きく割れる。
完全には壊れない。
だが。
子供と人影へ伸びていた二本が離れる。
「今!」
結界術師が、貯水槽の縁へ退路結界を伸ばす。
水中の子供が。
人影の手を引く。
泳ぐ。
水面へ。
人影は自分で動けない。
それでも、子供の手を離さない。
水面が盛り上がる。
白い光。
黒い影。
二つの小さな輪郭が。
観測通路の手前へ浮かび上がる。
「受け止める!」
警備隊員たちが結界布を広げる。
水中の存在へ直接触れないよう。
薄い光の膜で包む。
最初に子供。
次に人影。
水が床へ流れる。
子供の身体は。
今までよりはっきりしていた。
濡れた髪。
細い手足。
七歳ほど。
人影は。
床へ横たわっている。
まだ顔がない。
呼吸もない。
でも。
胸の亀裂の奥で。
小さな光が揺れている。
「生きてる?」
アリシアが尋ねる。
『分からない』
ノアが近づく。
『でも、空ではなくなった』
「何か入った?」
『あの子が手を握ったときの記憶かもしれない』
人影の手。
今も。
子供の手を掴んでいる。
「離したくない?」
アリシアが子供へ尋ねる。
子供はうなずく。
「この人を知ってる?」
首を横へ振る。
「助けたい?」
少し考え。
うなずく。
「どうして」
子供は人影を見る。
「同じ」
「何が?」
「名前」
「ない?」
子供は首を横へ振る。
「分からない」
ないと決めない。
子供はそう言った。
アリシアはうなずく。
「分かった」
入口側から。
セレナがこちらへ来ようとする。
治療教師が止める。
「まだ反応が」
「でも」
「セレナ!」
アリシアが呼ぶ。
「ここから話せる」
セレナは止まる。
悔しそうに。
それでも距離を守る。
「聞こえますか」
子供へ尋ねる。
子供が入口を見る。
「うん」
「外へ出たいですか」
子供は。
観測通路。
人々。
開いた鉄扉。
その向こうの暗い通路を見る。
「怖い」
「うん」
「でも」
「何ですか」
「ここ、輪が来る」
文字環はまだ水中にある。
割れても。
回転を続けている。
第四の声も消えていない。
「なら、別の場所へ移る?」
子供は人影を見る。
「一緒」
「一緒に」
「うん」
学院長が通信具越しに命じる。
「二名を独立観測室へ移送。水、文字、既存記録から隔離せよ」
「人影には名前がありません」
ミレイが言う。
「記録上、どう示しますか」
一瞬。
皆が止まる。
番号。
第一対象。
人影。
第四の器。
どれも。
役割を押しつける可能性がある。
「記号も付けない」
学院長が答える。
「では、報告では」
「水中の子供が手を握って連れ出した存在」
長い。
不便。
それでも。
今は。
本人の名の代わりにしない。
「水中の子供も」
アリシアが言う。
「名前はない」
「同じように記述する」
ミレイが答える。
「西側貯水槽から現れた七歳ほどの子供」
「役割じゃない?」
「観測した事実です」
「うん」
移送が始まる。
人影は結界布へ包まれる。
子供は。
手を離さない。
「歩ける?」
アリシアが尋ねる。
子供は立ち上がろうとする。
足が震える。
水の中以外を歩いたことがないのかもしれない。
一歩。
床へ足を置く。
冷たい石。
身体が揺れる。
アリシアは腕を伸ばしかけ。
止める。
「触っていい?」
子供はアリシアの手を見る。
黒月。
闇。
怖いかもしれない。
少し迷い。
空いている方の手を差し出した。
アリシアは握る。
冷たい。
けれど。
水ではない。
確かな指の形がある。
「歩く?」
「うん」
「ゆっくり」
子供は。
片方の手で人影を。
もう片方でアリシアを掴む。
一歩ずつ。
水の外へ進む。
鉄扉を越える。
その瞬間。
西側貯水槽の底で。
第四の声が叫んだ。
「返事をする器を返せ!」
人影の身体が大きく震える。
子供が手を強く握る。
「返さない」
初めて。
はっきりした拒絶。
「それは、器だ」
「分からない」
「名を持たぬ」
「分からない」
「空である」
「違う」
「何が入っている」
子供は。
人影とつないだ手を見る。
「私が、握った」
記憶。
最初の一つ。
呼ばれ方ではない。
名前でもない。
誰かが自分の意思で触れたこと。
「だから、空じゃない」
第四の声が。
一瞬。
完全に黙った。
子供は鉄扉の外へ出る。
人影も。
文字環から切り離された存在が。
初めて水の外へ運ばれる。
外周班の位置へ到着すると。
カイルが人影を見て眉を寄せた。
「これが」
「何て呼ぶか、まだ決めないで」
アリシアが先に言う。
「分かってる」
カイルはすぐに答えた。
「子供は?」
セレナが一歩だけ前へ出る。
治療教師が許した距離まで。
「聞こえますか」
「うん」
「外へ出ましたね」
子供は周囲を見る。
石壁。
魔導灯。
警備隊員。
神器継承者。
水のない通路。
「ここ」
「地下です」
「水の外?」
「はい」
子供の目が少し見開かれる。
「名前」
胸へ手を当てる。
「音は?」
セレナが尋ねる。
「二つ」
「三つ目は?」
子供は迷い。
「ある」
全員が静まる。
「聞かせたいですか」
セレナは急がない。
子供は周囲を見る。
人影。
アリシア。
セレナ。
ミレイ。
レオンハルト。
カイル。
ノア。
水の外にいる人々。
やがて。
首を横へ振った。
「今は、嫌」
「分かりました」
誰も落胆を見せない。
「でも」
子供が続ける。
「この人」
人影を見る。
「呼ばれないと」
「消える?」
「分からない」
「どうしたい?」
「一緒に聞く」
「何を?」
子供は。
人影の顔のない頭へ向く。
「呼ばれたくない音」
「一つずつ?」
「うん」
「嫌なものを、確かめる?」
「うん」
自分の名前を探す子供が。
すべての呼び方へ返事をさせられた存在とともに。
今度は。
呼ばれたくない音を一つずつ外していこうとしている。
ミレイは記録箱へ手を伸ばし。
途中で止めた。
「本人たちへ、記録してよいか聞く必要があります」
人影は答えられない。
子供が代わりに決めようとはしなかった。
「今は、書かない」
子供が言う。
「分かりました」
ミレイは箱を閉じる。
「覚えられる範囲を覚えます」
「忘れたら?」
「忘れたと言います」
「うん」
独立観測室への移送が再開される。
その後ろ。
鉄扉が閉じる。
西側貯水槽には。
第三の器。
割れた文字環。
五百人分の名前。
第四の声。
まだ多くが残っている。
何も終わっていない。
それでも。
水中の子供は初めて外へ出た。
第三の音を自分の中へ残したまま。
誰にも聞かせないと選び。
その選択を守られた。
そして。
すべての呼び方へ返事をしていた存在は。
文字環から切り離された。
名前はない。
声もない。
顔もない。
けれど。
水中の子供が手を握ったという、一つの記憶を持っている。
独立観測室へ入る直前。
人影の指が。
もう一度だけ動いた。
子供の手を握る。
呼ばれていないのに。
第四の声に命じられていないのに。
自分から。
その動きを見た子供が。
小さく笑った。
「返事じゃない」
誰へともなく言う。
「自分で、握った」
その言葉とともに。
人影の胸の亀裂へ。
ごく小さな光が一つ増えた。
名前ではない。
呼び方でもない。
誰かに命じられず。
自分で選んだ最初の動き。
それは。
すべての音へ返事をするために作られた存在が。
初めて。
返事ではない意思を持った瞬間だった。




