↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
107/178

第107話 名前を聞く前に、手を離したいかを尋ねる



 独立観測室へ向かう地下通路は、西側貯水槽から離れるほど乾いていた。


 壁へ浮かんでいた霜は次第に薄くなり、床を濡らしていた水も、結界布へ包まれた二つの影から落ちる雫だけになる。一定の間隔で埋め込まれた魔導灯は淡い黄色にともり、薄暗い通路へ細長い光を落としていた。


 先頭を歩く警備隊員は、角を曲がるたび立ち止まった。


 前方の安全を確認し。


 通路の壁へ黒い文字が浮かんでいないか。


 足元の石床へ水の筋が現れていないか。


 第四の声が、呼ばれ方を道にして追ってきていないかを、一つずつ確かめている。


 その後ろを。


 水の外へ出た七歳ほどの子供が歩いていた。


 右手では、結界布に包まれた人影の指を握っている。


 左手は、アリシアへ預けられていた。


 歩き方は不安定だった。


 足裏が石床へ触れるたび、身体が小さく揺れる。水の中なら、体重も上下も曖昧だったのだろう。床へ足を置く。膝を伸ばす。次の一歩へ重心を移す。誰にとっても当たり前の動作が、子供には一つずつ確かめなければならないことだった。


「痛い?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は少し考えてから、首を横へ振る。


「怖い?」


 今度は、うなずいた。


「止まる?」


 子供は前を見る。


 独立観測室までは、まだ廊下を二つ曲がる必要がある。


「少し」


 小さな声だった。


 アリシアはすぐに足を止めた。


 隊列全体へ、警備隊員の手信号が送られる。


「停止。人数確認」


 最後尾にいた警備隊員が、一人ずつ見る。


「移送班十一名。西側貯水槽から出た二名。変化なし」


 人影を一名と数えてよいのか。


 まだ分からない。


 けれど人数確認から外せば、戻る者として見られなくなる。


 そのため学院長は、記録上は「二名」と数えるよう命じていた。


 名前ではない。


 役割でもない。


 ただ、今ここにいて、移送の終わりに欠けていてはいけない二つの存在として。


 子供は壁際へしゃがみ込んだ。


 それでも人影の手を離さない。


 結界布の内側。


 顔のない人影は、力なく横たわったままだった。


 呼ばれてはいない。


 第四の声から命令も届いていない。


 そのためか、貯水槽で見たように激しく振り向くことはない。


 ただ。


 子供に握られた指だけが、時折わずかに動いていた。


「苦しい?」


 アリシアは人影へも尋ねた。


 返事はない。


 身体も動かない。


 呼吸している様子もない。


 けれど胸の亀裂の内側には、小さな光が二つ浮かんでいた。


 一つは。


 水中の子供が、最初にその手を握った記憶。


 もう一つは。


 第四の声に命じられず、自分から握り返した動き。


 名前もない。


 声もない。


 それでも何も入っていないわけではない。


『それを生きていると呼ぶかは、まだ分からないわ』


 ノアがアリシアの足元へ座る。


『うん』


『でも、器と呼んで壊せる段階でもなくなった』


 第四の声は、返事をする器と呼んだ。


 すべての音へ応える者。


 人間側も、その言葉をそのまま受け入れていたなら。


 今頃、この人影を危険な器として貯水槽へ残していたかもしれない。


 あるいは。


 黒月で壊そうとしていたかもしれない。


「水、飲む?」


 アリシアが子供へ聞く。


 自分で言ったあと、少し迷った。


 水の中にいた子へ。


 飲み水が必要なのか。


 水へ触れさせてもよいのか。


 第四の声が、飲み水を通して追ってくる可能性はないのか。


 治療教師が携帯していた封印瓶を見る。


「飲ませる場合は、一滴からです」


「飲みたい?」


 改めて子供へ尋ねる。


 子供は瓶を見る。


 表情が硬くなった。


「水」


「うん」


「中に、入る?」


「瓶の中?」


 子供は自分の胸へ手を置く。


「声」


 第四の声。


 水へ触れれば。


 また中へ入ってくるのではないか。


「飲まなくてもいい」


 アリシアが答える。


「でも、喉は?」


 子供は唾を飲み込もうとする。


 小さく咳き込んだ。


 水の外へ出た身体。


 初めて空気を吸い続けている。


 喉は乾いているのかもしれない。


「一滴だけ、手へ落とす?」


 治療教師が提案する。


「飲まないで。触るだけ」


 子供は迷った。


 右手は人影を握っている。


 左手はアリシアとつながっている。


 水へ触れるためには。


 どちらかを離さなければならない。


 アリシアはそこで初めて気づいた。


 子供は、西側貯水槽を出てから一度も、どちらの手も離していない。


 怖いから。


 人影を失いたくないから。


 自分が消えないように。


 理由は分からない。


「手」


 アリシアが言う。


「どっちか、離したい?」


 子供がアリシアを見る。


「水に触るためじゃなくて」


 急いで続ける。


「ずっと握ってると、疲れるかもしれないから」


 子供は右と左を見た。


 人影の手。


 アリシアの手。


「離したら」


「うん」


「いなくなる?」


 胸が痛んだ。


「私は、ここにいる」


「動かない?」


「必要なら動く。でも、どこへ行くか伝える」


「この人は?」


 人影を見る。


 答えられない。


 自分から移動できるか。


 手を離したら消えるか。


 誰にも分からない。


「結界布が支えてる」


 レオンハルトが近くへ膝をつく。


「でも、それだけで大丈夫かは分かりません」


 守れない約束をしない。


「離したくない?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は長く考えたあと、うなずいた。


「じゃあ、今は離さなくていい」


「水は?」


「あとで考える」


「喉」


「乾いてる?」


「分からない」


「それも、あとで調べる」


 治療教師は無理に瓶を近づけなかった。


 代わりに、子供の呼吸数と唇の状態を目で確認する。


「今すぐ飲まなければ危険という状態ではありません」


「分かった」


 子供は少しだけ肩の力を抜いた。


「歩ける?」


「少し」


 立ち上がる。


 アリシアの手へ力がかかる。


 人影の指も。


 再び子供の手を握り返した。


 誰かに呼ばれたわけではない。


 第四の声に命じられたわけでもない。


「動いた」


 子供が言う。


「うん」


「離したくない?」


 今度は、子供が人影へ尋ねた。


 返事はない。


 けれど指は離れなかった。


「そう見える」


 子供は自分で言い直す。


「うん」


 アリシアもうなずいた。


「そう見えるね」


 断定しない。


 でも、見えたものまで消さない。


 移送班は再び歩き出した。


 通路の角を一つ曲がる。


 その先に、独立観測室の厚い扉が見えた。


 かつて高危険度の魔導具を一時保管するために作られた部屋で、壁、床、天井がすべて三重構造になっている。水路は通っていない。窓もない。記録棚も、文字の刻まれた家具も置かれていなかった。


 扉の前には。


 学院長。


 副学院長。


 ミレイ。


 ケイン。


 サーラ。


 そしてセレナとカイルが待っていた。


 セレナは手首へ白布と冷却帯を巻いている。


 水の神器との反応を抑えるため、入口から一定の距離を保っていた。それでも子供の姿が見えると、思わず一歩進む。


 治療教師が腕を伸ばした。


 セレナはそこで止まる。


 悔しそうに。


 けれど、自分から距離を守った。


「聞こえますか」


 セレナが子供へ尋ねる。


「うん」


「体調は?」


 子供は答えられない。


 どこが正常で。


 どこが異常か。


 水の中で長く過ごしてきた身体には、比較するものがない。


「分からない?」


「うん」


「では、痛い場所は」


「足」


 セレナの表情が変わる。


「どの辺りですか」


 子供は床へ視線を落とす。


「下」


「足の裏?」


「たぶん」


「歩いたから?」


「分からない」


「見せていただけますか」


 子供は少し身を引いた。


 セレナは動かない。


「今すぐでなくても構いません」


「触る?」


「必要なら。でも、先に触れてよいか尋ねます」


「嫌なら?」


「触りません」


「痛いまま?」


「別の方法を探します」


 子供はセレナを見つめた。


 セレナは水の神器を持っていない。


 けれど、相手の痛みを見つけ。


 どうしてほしいかを確認し。


 許可を待つ。


 それは神器がなくても変わらない。


「あとで」


 子供が答えた。


「分かりました」


 セレナはすぐに受け入れた。


「部屋へ入る前に」


 学院長が全員へ告げる。


「記録方法を確認する」


 ミレイたちは紙を持っていなかった。


 代わりに、それぞれ色の違う小さな石を一つずつ持っている。


 文字を書かない。


 名前を記さない。


 見たものを、まず自分の記憶へ残す。


 どうしても忘れたくない変化があった場合だけ。


 決められた意味を持たない石の位置を動かし、変化が起きたことだけを残す。


「赤い石は危険、白い石は安全、などの共通した意味は持たせません」


 ミレイが説明する。


「各自が、どの変化に対応させたかも共有しません」


「あとで、どうやって照合するの?」


 アリシアが尋ねる。


「部屋を出たあと、それぞれが自分の言葉で説明します」


「違ったら?」


「違ったまま残します」


「忘れたら?」


「忘れたことを伝えます」


 水中の子供が、ミレイの手にある石を見る。


「名前、ない?」


「ありません」


「つけない?」


「今は」


「どうして」


「役割を固定しないためです」


 ミレイは石を掌へ置く。


「この石を、私は一つ目の変化へ使うかもしれません。使わないかもしれません。別の人は別の意味で使います」


「同じ石なのに?」


「はい」


「間違う」


「間違います」


「嫌じゃない?」


「少し嫌です」


 ミレイは正直に答えた。


「でも、今は一つの正しい記録を作る方が危険です」


 子供は少し考える。


「この人」


 顔のない人影を見る。


「書かない?」


「今は書きません」


「忘れる?」


「顔がないこと。声がないこと。あなたの手を握っていることは覚えます」


「名前は?」


「分かるまで、書きません」


 子供は小さくうなずいた。


「私も?」


「あなたも」


「三つの音」


「文字にはしません」


「忘れたら?」


「次に聞きます」


「三つ目、聞いてない」


「はい」


「聞きたい?」


 ミレイは少し驚いた。


 すぐに答えない。


「聞きたいです」


「でも?」


「あなたが聞かせたいときまで待ちます」


「苦しくない?」


 昨日まで。


 待つ苦しさを尋ねられていたのは子供だった。


 今は、子供がミレイへ聞く。


「少し苦しいです」


「どうして」


「知りたいから」


「知らなくても、記録する人?」


「記録しないことを選ぶ人でもあります」


 ミレイは微かに笑った。


「分からないものを、分からないまま持つ練習をしています」


「私と同じ?」


「少し」


 子供の口元が、ほんのわずかに緩んだ。


 独立観測室の扉が開かれる。


 内部は広かった。


 中央には低い寝台が二つ。


 互いに離して置かれている。


 壁際には椅子が五脚。


 水差しも。


 鏡も。


 文字もない。


 床へ位置を示す線さえ引かれていなかった。


 何もない部屋。


 だが。


 何もないこと自体が、別の不安を生む。


 子供は入口で足を止めた。


「水、ない」


「うん」


 アリシアが答える。


「怖い?」


 子供はうなずく。


「戻れない」


「西側貯水槽へ?」


「水へ」


 水の中は。


 第四の声がいる場所。


 名前を押しつけられる場所。


 同時に。


 子供が九年間いたかもしれない場所。


 怖くても。


 慣れた場所。


「少しだけ水を置く?」


 セレナが距離を保ったまま尋ねる。


「第四の声が来るかもしれません」


「うん」


「それでも、ない方が怖い?」


 子供は答えられない。


「今すぐ部屋へ入らなくてもいい」


 アリシアが言う。


「廊下で考える?」


「ほかの人」


 子供が周囲を見る。


「通る?」


「この通路は、今は閉鎖しています」


 警備責任者が答える。


「許可された者しか来ません」


「ずっと?」


「ずっとではありません」


「いつまで?」


「あなたたちが安全に過ごせる場所が決まるまで」


 守れない永遠を言わない。


「部屋に入ったら」


 子供が尋ねる。


「扉、閉める?」


「完全には閉めない方法もあります」


 学院長が答えた。


「でも、第四の声を防ぐには閉めた方が安全です」


「外の声」


「聞こえにくくなります」


「一人?」


「観測者がいます」


「中?」


「あなたが望むなら」


「何人?」


「まだ決めていません」


「私が決める?」


「相談して決めます」


 子供は、人影の手を握り直す。


「この人も」


「一緒の部屋へ入ります」


「寝台、離れてる」


 中央の二台を見る。


「近づける?」


 学院長が警備隊員へ合図する。


「どのくらい近くがいいですか」


 子供は答える前に。


 人影を見る。


「近い方がいい?」


 返事はない。


 人影の指は。


 子供の手を離さない。


「近いように見える」


 子供が言う。


「では、近づけます」


 寝台を動かす。


 石床を擦らないよう、土の神器継承者が床へ薄い土の膜を作る。二台は並び、間隔が腕一本分まで狭められた。


「もっと?」


 子供は少し考え。


 首を横へ振る。


「これで」


「分かりました」


「触っていい?」


 人影へではない。


 寝台を指している。


「座るだけなら」


 治療教師が答える。


「冷たいかもしれません」


 子供は人影を握ったまま、片方の寝台へ腰掛ける。


 柔らかな布が沈む。


 驚いたように身体を跳ねさせる。


「沈んだ」


「寝台だから」


 アリシアが近くへ座ろうとして。


 止める。


「隣へ座っていい?」


「うん」


 許可を得てから。


 寝台の端へ、少し距離を空けて座る。


「柔らかい?」


「水と違う」


「嫌?」


「分からない」


「少し座ってから決める?」


「うん」


 人影は、結界布ごと隣の寝台へ移された。


 子供の手は、二台の間へ伸びたまま。


 人影の指とつながっている。


 水の中では。


 二人の身体を支えるものはなかった。


 今はそれぞれ別の寝台へ横たわり。


 それでも手だけがつながっている。


「この人」


 子供が言う。


「何も言わない」


「うん」


「私が聞いても」


「うん」


「嫌かな」


「何が?」


「聞くこと」


 何と呼ばれたくないか。


 水の中で尋ねていた。


 返事はなかった。


「分からない」


 アリシアは答える。


「でも、今は聞かない方がいい?」


 子供は人影を見る。


「分からない」


「一緒だね」


「うん」


「なら、名前じゃないことから聞く?」


「何を?」


「手を握ったままでいいか」


 子供が少し驚く。


「名前より先に?」


「今、一番してることだから」


 子供は人影へ向き直る。


「手」


 人影の顔のない頭は動かない。


「握ってて、いい?」


 返事はない。


 子供の指へ力が入る。


「嫌なら」


 言葉が止まる。


「どうしてほしい?」


 人影の指が。


 わずかに動く。


 握り返す。


 先ほどよりも弱い。


 けれど確かに。


「いい?」


 子供が尋ねる。


 アリシアは答えない。


 代わりに。


「どう見えた?」


 子供へ返す。


「握った」


「うん」


「離してない」


「うん」


「握っていたいように見える」


「私にも、そう見える」


 観測していた者たちも。


 一人ずつ。


 見えたことを言う。


「指が動きました」


 ミレイ。


「子供の手の方向へ力が入りました」


 レオンハルト。


「第四の声からの魔力反応はありません」


 結界術師。


「では」


 子供は人影の手を見る。


「握る」


 本人の代わりに選んだのではない。


 見えた反応を複数人で確かめ。


 今のところ、そうしたいように見えると判断した。


「痛かったら」


 子供が続ける。


「どうする?」


「人影には、今は言葉がありません」


 セレナが入口から答える。


「手の動きや、胸の光の変化を見ることになります」


「私が見る?」


「一人ではなく」


「みんな?」


「はい」


「ずっと?」


「交代しながら」


「いないときは?」


 観測者が完全にいない時間。


 必要かもしれない。


 誰かに見られ続けることが、二人の負担になる可能性もある。


「一人になりたいかも聞く必要があります」


 ミレイが言う。


「今、聞く?」


 子供が尋ねる。


 アリシアは少し考える。


「たくさん聞くと疲れる?」


「分からない」


「私たちは少し疲れてる」


「私も」


 子供が答えた。


「なら、今は休む?」


「休むって?」


「何も決めないで。眠れるなら眠る」


「眠ったら」


「うん」


「音、取られる?」


 第四の声。


 水の底。


 眠っている間も。


 子供へ囁いていたのだろう。


「結界を張ります」


 レオンハルトが答える。


「完全に防げるとは言えません」


「来る?」


「可能性はあります」


「怖い」


「外で見張ります」


 カイルの声が扉の外から届く。


 子供が入口を見る。


 火の神器継承者は、部屋の外。


 以前、水中で強い炎を使った者。


 子供にとって怖い相手かもしれない。


「火」


 子供が言う。


 カイルの表情が硬くなる。


「カイル」


 アリシアが言う。


「名前?」


「うん」


 子供はカイルを見る。


「カイル」


「いる」


 すぐに返事をする。


 大きな声ではない。


「火、使う?」


「ここでは使わない」


「外で?」


「必要になったら。でも、先に伝える」


「怖い」


「聞いた」


「来ないで?」


 カイルの顔がわずかに歪む。


 それでも。


 すぐにうなずいた。


「分かった」


「怒る?」


「少し寂しい」


 正直に答える。


「でも、入らない」


「ずっと?」


「お前が入っていいと言うまで」


「呼び方」


 子供が言う。


「何?」


「お前、嫌?」


 カイルは一瞬止まる。


 普段、近い相手へ使う言葉。


 子供には。


 誰かをぞんざいに扱う呼び方に聞こえたのかもしれない。


「嫌だったか?」


 カイルが尋ねる。


 子供は迷い。


「少し」


「悪い」


「名前、ある」


「お前の名前は、まだ分からないだろ」


「でも」


 子供は胸へ手を置く。


「音、三つ」


「そうだったな」


「だから」


 カイルは言葉を待つ。


「お前、やめて」


「分かった」


「今は」


「今は、やめる」


 カイルはすぐに言い直した。


「何と呼べばいい?」


「分からない」


「じゃあ、呼ばない」


「でも、話す?」


「話せる」


「どうやって」


「そっちを見る。聞いてるか確認する。返事がなくても待つ」


 子供は少し考える。


「それで」


「分かった」


 呼び方がなくても。


 会話はできる。


 今、カイルはそれを自分で受け入れた。


「外で見張る」


 彼は続ける。


「入ってほしくなったら、誰かに伝えてくれ」


「カイルに?」


「そうだ」


「分かった」


 カイルは扉の外へ一歩下がった。


 完全に姿が消えない位置。


 でも、子供が怖いと感じる距離より外。


 その場所を自分で選んだ。


「今、誰にいてほしい?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は部屋の中と外を見る。


 全員。


 名前を知っている者。


 知らない者。


 水の神器を持つセレナ。


 火を持つカイル。


 記録するミレイ。


 光のレオンハルト。


 黒月を持つアリシア。


 黒猫のノア。


「アリシア」


 最初に呼ぶ。


「うん」


「セレナ」


「ここにいます」


「ミレイ」


「はい」


 子供はレオンハルトを見る。


 名前を思い出そうとしている。


「レオン……」


「レオンハルトです」


 本人が伝える。


「レオンハルト」


「はい」


 ノア。


 少し迷う。


「ノア」


『いるわ』


 アリシアが返事を伝える前に。


 子供はノアを見る。


「聞こえない」


「ノアは、いるって」


「本当?」


『もちろんよ』


「うん」


「カイル」


 扉の外。


「いる」


「でも、外」


「そうだ」


「学院長」


 学院長が少し驚く。


「ここにいる」


「治療する人」


 治療教師は、すぐに自分の名を伝えようとしなかった。


「私の名前を聞きたいですか。それとも、今は役割で示しただけですか」


 子供は考える。


「名前、あとで」


「分かりました」


 本人が知りたいときに。


 教える。


 名前を持っている側も。


 相手へ無理に渡さない。


「今」


 子供が言う。


「この人と」


 人影。


「アリシア」


「うん」


「ミレイ」


「はい」


「いて」


 セレナの表情がわずかに曇る。


 子供はそれに気づいた。


「セレナ」


「はい」


「外?」


「手首に、器の反応が残っています」


「中、危険?」


「私が入ることで、第四の声が近づく可能性があります」


「入りたい?」


 セレナは少しだけ目を伏せた。


「入りたいです」


「でも?」


「今は、入らない方がよいと判断しています」


「寂しい?」


 子供は。


 先ほどカイルが使った言葉を覚えていた。


 セレナは目を見開く。


「少し」


「私も」


「何が?」


「セレナ、外」


 その一言で。


 セレナの表情が崩れそうになる。


 自分だけが寂しいのではない。


 子供も。


 近くに来てほしいと思っている。


「でも」


 子供は続ける。


「今は、外」


「はい」


 セレナはうなずく。


「ここにいます」


「声、置く?」


 以前。


 水盤へ置いた五つの声。


 今も子供の中に残っているかもしれない。


「必要ですか」


「少し」


「何を言ってほしいですか」


「分からない」


「では、今の私が伝えたいことを言ってもよいですか」


「うん」


 セレナは扉の外から。


 子供へ向かって言った。


「足が痛いと教えてくれたことを、私は忘れません」


 治療の約束ではない。


 治すとも。


 大丈夫とも言わない。


 子供が痛いと伝えた。


 その事実を受け取ったと伝える。


 子供は足元を見る。


「あとで、見る?」


「触れてよいと、あなたが決めたら」


「分かった」


 セレナはその場を離れなかった。


 扉の外。


 声が届く距離へ椅子を置く。


 子供の希望と。


 自分の危険。


 二つの間にある場所。


「休める?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は寝台へ横になろうとした。


 だが、人影の手を握ったままでは姿勢を変えにくい。


 腕がねじれる。


「痛い?」


「少し」


「手を離したい?」


 子供は人影を見る。


 離したくない。


 でも、腕は痛い。


 二つが同時にある。


「寝台、もっと近くできる?」


 アリシアが土の神器継承者へ尋ねる。


 扉の外から室内の床を確認していた彼が、慎重にうなずく。


「できる。ただし、完全につけると結界布の境界が重なる」


「危険?」


「互いの魔力が混ざる可能性がある」


「少しだけ?」


「指が自然につながる距離までなら」


 子供へ確認する。


「近づけていい?」


「うん」


「人影は?」


 返事はない。


 指は離れない。


 複数人で動きを確認する。


「近づけることを拒む反応は見えません」


 ミレイ。


「胸の光にも変化なし」


 レオンハルト。


「第四の声の反応もありません」


 結界術師。


 土の力で。


 音を立てず寝台が近づく。


 子供は横になる。


 人影の手と。


 無理なくつながる。


「楽?」


「さっきより」


「痛みは?」


「足。腕は、少しよくなった」


「覚えておく」


 アリシアは言った。


「書かない?」


「今は」


「忘れたら?」


「ミレイも聞いてる」


「はい」


 ミレイが答える。


「私は、腕の痛みが少し軽くなったと聞きました」


「違ったら?」


「あとで直してください」


 子供は目を閉じかける。


 すぐに開く。


「眠るの、怖い?」


「うん」


「目を閉じなくてもいい」


「ずっと?」


「眠くなったら閉じるかもしれない」


「閉じたら、声」


「聞こえたら、起こす?」


「分からない」


「起こしてほしい?」


「怖い声なら」


「どれが怖い声か、私たちに分かる?」


 子供は答えられない。


 第四の声は。


 ミレイ。


 セレナ。


 アリシア。


 ほかの人の声を真似る。


「合図を決める?」


 ミレイが尋ねる。


「合言葉は作らないって」


 子供が覚えていた。


「はい。第四の声が覚えるからです」


「じゃあ」


 ミレイは考える。


「目を覚ましたとき、毎回違う質問をします」


「どんな?」


「寝る前に何を話したか。今、誰の声を聞きたいか。手を握っていたいか」


「答え、変わる」


「変わって構いません」


「第四の声、答えるかも」


「それでも、答えだけであなたと決めません」


「何を見る?」


「顔。手。声。迷い方」


 器は。


 正しい答えだけを返そうとする。


 本人は。


 迷う。


 間違える。


 途中で気持ちが変わる。


「全部を合わせて、今のあなたか考えます」


「間違ったら?」


「謝ります」


「遅かったら?」


 ミレイの顔が少し曇る。


「その可能性があります」


 子供は目を伏せる。


「でも」


 ミレイは続ける。


「一つの合言葉だけで決めるより、あなたを見ます」


「分かった」


 子供はゆっくり目を閉じた。


 人影の手を握ったまま。


 アリシアは寝台の横へ椅子を置いた。


 ミレイは反対側。


 ノアは二つの寝台の間へ丸くなる。


『私が一番近いのね』


「嫌?」


『いいえ』


 ノアは人影の胸へ視線を向ける。


『この光が変わったら起こすわ』


「私たちには聞こえない」


『あなたの袖を引く』


「分かった」


 観測室の扉は。


 完全には閉じなかった。


 子供が、閉め切られることを怖がったから。


 ただし第四の声を防ぐ結界は。


 扉の隙間を含め、三重に張られた。


 セレナは扉の外。


 レオンハルトは結界の中央。


 カイルはさらに外側。


 学院長と治療教師は隣室。


 それぞれ違う場所で。


 二つの存在を守る。


 子供の呼吸が、少しずつ静かになる。


 眠ったのか。


 目を閉じているだけか。


 アリシアには分からない。


「名前」


 子供が目を閉じたまま呟いた。


 アリシアが身を乗り出す。


「聞こえてる」


「聞かない?」


「何を?」


「三つ目」


 喉が詰まりそうになる。


 聞きたい。


 でも。


「今、聞かせたい?」


「分からない」


「なら、聞かない」


「眠ったら、言うかも」


「寝言で?」


「それを」


 子供の眉が寄る。


「名前にしないで」


「分かった」


 眠っている間に出た音。


 本人が選んで聞かせたものではない。


 それを名前へしない。


「覚える?」


「どうしてほしい?」


 子供は答えられないまま。


 呼吸が深くなる。


 眠った。


 アリシアはミレイを見る。


「寝言で三つ目が出たら」


「本人へ聞くまで、名前として扱いません」


「記録は?」


「書きません」


「覚える?」


 ミレイは少し考えた。


「聞こえてしまったことは消せません」


「うん」


「でも、ほかの人へ伝えません」


「本人が、忘れてほしいって言ったら?」


「完全に忘れることはできないかもしれません」


「どうする?」


「思い出さないよう努めます」


 忘れると約束しない。


 でも。


 使わない。


 広げない。


 名前へしない。


 それなら選べる。


 独立観測室に。


 静かな時間が流れた。


 水音はない。


 第四の声もない。


 子供の呼吸。


 人影の胸に浮かぶ二つの光。


 ノアの尾が床へ触れる小さな音。


 扉の外では、セレナが椅子へ座っている。


 カイルは遠く。


 警備隊員とともに通路を見張っていた。


 誰も話さない。


 それでも、一人ではない。


 半刻ほど経った頃。


 人影の指が動いた。


 子供は眠っている。


 握る力が弱まっている。


 人影の手が。


 ゆっくり。


 子供の指から離れかける。


 ノアが身体を起こす。


 アリシアの袖を前足で引いた。


「動いた?」


 小声で尋ねる。


『ええ』


 人影の手は。


 完全には離れない。


 けれど。


 先ほどまでのように、握り続けてもいない。


 子供が眠ったから。


 自分から離したいのか。


 力が抜けただけか。


 分からない。


「起こす?」


 アリシアがミレイへ尋ねる。


「子供を?」


「うん」


「手が離れそうだと伝えるために?」


「うん」


 ミレイは考える。


「眠る前、離れたくないとは言っていません」


「離したいとも」


「はい」


「人影の意思は?」


「指が緩んでいます」


「でも、力がないだけかも」


「はい」


 二人だけでは決めない。


 レオンハルトへ。


 結界術師へ。


 見えたことを伝える。


「人影の胸の光に変化はありません」


 レオンハルトが答える。


「第四の声の反応もなし」


 結界術師。


「では」


 アリシアは子供を起こさなかった。


「今は見る」


 人影の指が。


 さらに少し動く。


 子供の掌から。


 一本。


 二本。


 ゆっくり外れる。


 最後に。


 指先だけが触れた状態になる。


 そこで止まった。


「離したい?」


 アリシアは人影へ小さく尋ねる。


 反応はない。


「全部は離してない」


 ミレイが言う。


「うん」


「触れていたいけれど、握られ続けるのは嫌?」


「そう見える?」


「私は、そう見えました」


「私は」


 アリシアは人影の手を見る。


「離れる練習をしてるように見える」


 二人の見え方が違う。


 どちらも残す。


 人影の指先が。


 子供の手へ触れたまま。


 胸の光が三度目に揺れた。


 一つ。


 握られた記憶。


 二つ。


 握り返した意思。


 三つ。


 自分から力を緩め。


 それでも触れることを選んだ動き。


「増えた」


 アリシアが呟く。


 人影の胸に。


 三つ目の光。


 名前ではない。


 呼ばれ方でもない。


 自分で選んだ。


 小さな動き。


 それが一つずつ。


 空だった身体へ残っていく。


 その瞬間。


 眠っていた子供の唇が動いた。


 短い音。


 最初の一音でも。


 二つ目でもない。


 柔らかく。


 かすかな。


 三つ目と思われる音。


 アリシアは聞いてしまった。


 ミレイも。


 ノアも顔を上げる。


 扉の外にいたセレナには、届かなかったようだった。


「今」


 ミレイが小さく言う。


「うん」


「三つ目?」


「決めない」


「はい」


 子供は眠ったまま。


 自分で聞かせたいと決めていない。


 アリシアは。


 その音を口にしなかった。


 ミレイも筆を持たない。


 互いに何と聞こえたかも確認しない。


 ただ。


 聞いてしまったことだけを。


 自分の中へ置く。


 名前としてではなく。


 寝言として。


 本人が起きたあと。


 扱い方を尋ねる必要がある音として。


 人影の指先は。


 子供の手へ触れ続けている。


 三つ目の光も消えない。


 第四の声は来ない。


 それでも。


 独立観測室の壁の外。


 三重結界のさらに外側。


 誰にも見えない細い亀裂へ。


 黒い文字が一つだけ浮かんだ。


 ――三音あれば、名となる。


 その文字を。


 見張っていたカイルが見つけた。


 読まない。


 声にも出さない。


 すぐに近くの警備隊員の肩を叩く。


 指で壁を示し。


 自分の目を閉じず。


 口を開かないまま。


 危険があることを伝えた。


 警備隊員も文字を読まない。


 結界術師を呼ぶ。


 誰も声に出さない。


 それでも連携は進む。


 黒い文字は。


 読まれなかったことで。


 少しずつ薄くなる。


 第四の声は。


 子供が三つ目の音を口にしたことを知っている。


 だが。


 誰もその音を名前へしなかった。


 誰もつなげなかった。


 誰も正しい読み方を決めなかった。


 そして。


 水の外へ出た子供は。


 眠ったまま。


 人影の手が少し離れたことにも。


 自分が三つ目の音を漏らしたことにも気づいていない。


 目を覚ましたとき。


 それをどう伝えるか。


 聞いてしまった音を、覚えていてよいか。


 忘れてほしいか。


 名前として扱わないまま残すか。


 また新しい選択が必要になる。


 それでも今は。


 誰も答えを急がなかった。


 アリシアは寝台の横で。


 子供と人影の間に残る、指先一つ分の接触を見つめていた。


 握り続けることだけが。


 一緒にいることではない。


 離れたいかを聞くこと。


 離しても消えないと確かめること。


 少しだけ触れる距離を、自分で選ぶこと。


 名前より先に。


 二つの存在は。


 互いとの距離を。


 ほんの少しだけ選び始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。