第107話 名前を聞く前に、手を離したいかを尋ねる
独立観測室へ向かう地下通路は、西側貯水槽から離れるほど乾いていた。
壁へ浮かんでいた霜は次第に薄くなり、床を濡らしていた水も、結界布へ包まれた二つの影から落ちる雫だけになる。一定の間隔で埋め込まれた魔導灯は淡い黄色にともり、薄暗い通路へ細長い光を落としていた。
先頭を歩く警備隊員は、角を曲がるたび立ち止まった。
前方の安全を確認し。
通路の壁へ黒い文字が浮かんでいないか。
足元の石床へ水の筋が現れていないか。
第四の声が、呼ばれ方を道にして追ってきていないかを、一つずつ確かめている。
その後ろを。
水の外へ出た七歳ほどの子供が歩いていた。
右手では、結界布に包まれた人影の指を握っている。
左手は、アリシアへ預けられていた。
歩き方は不安定だった。
足裏が石床へ触れるたび、身体が小さく揺れる。水の中なら、体重も上下も曖昧だったのだろう。床へ足を置く。膝を伸ばす。次の一歩へ重心を移す。誰にとっても当たり前の動作が、子供には一つずつ確かめなければならないことだった。
「痛い?」
アリシアが尋ねる。
子供は少し考えてから、首を横へ振る。
「怖い?」
今度は、うなずいた。
「止まる?」
子供は前を見る。
独立観測室までは、まだ廊下を二つ曲がる必要がある。
「少し」
小さな声だった。
アリシアはすぐに足を止めた。
隊列全体へ、警備隊員の手信号が送られる。
「停止。人数確認」
最後尾にいた警備隊員が、一人ずつ見る。
「移送班十一名。西側貯水槽から出た二名。変化なし」
人影を一名と数えてよいのか。
まだ分からない。
けれど人数確認から外せば、戻る者として見られなくなる。
そのため学院長は、記録上は「二名」と数えるよう命じていた。
名前ではない。
役割でもない。
ただ、今ここにいて、移送の終わりに欠けていてはいけない二つの存在として。
子供は壁際へしゃがみ込んだ。
それでも人影の手を離さない。
結界布の内側。
顔のない人影は、力なく横たわったままだった。
呼ばれてはいない。
第四の声から命令も届いていない。
そのためか、貯水槽で見たように激しく振り向くことはない。
ただ。
子供に握られた指だけが、時折わずかに動いていた。
「苦しい?」
アリシアは人影へも尋ねた。
返事はない。
身体も動かない。
呼吸している様子もない。
けれど胸の亀裂の内側には、小さな光が二つ浮かんでいた。
一つは。
水中の子供が、最初にその手を握った記憶。
もう一つは。
第四の声に命じられず、自分から握り返した動き。
名前もない。
声もない。
それでも何も入っていないわけではない。
『それを生きていると呼ぶかは、まだ分からないわ』
ノアがアリシアの足元へ座る。
『うん』
『でも、器と呼んで壊せる段階でもなくなった』
第四の声は、返事をする器と呼んだ。
すべての音へ応える者。
人間側も、その言葉をそのまま受け入れていたなら。
今頃、この人影を危険な器として貯水槽へ残していたかもしれない。
あるいは。
黒月で壊そうとしていたかもしれない。
「水、飲む?」
アリシアが子供へ聞く。
自分で言ったあと、少し迷った。
水の中にいた子へ。
飲み水が必要なのか。
水へ触れさせてもよいのか。
第四の声が、飲み水を通して追ってくる可能性はないのか。
治療教師が携帯していた封印瓶を見る。
「飲ませる場合は、一滴からです」
「飲みたい?」
改めて子供へ尋ねる。
子供は瓶を見る。
表情が硬くなった。
「水」
「うん」
「中に、入る?」
「瓶の中?」
子供は自分の胸へ手を置く。
「声」
第四の声。
水へ触れれば。
また中へ入ってくるのではないか。
「飲まなくてもいい」
アリシアが答える。
「でも、喉は?」
子供は唾を飲み込もうとする。
小さく咳き込んだ。
水の外へ出た身体。
初めて空気を吸い続けている。
喉は乾いているのかもしれない。
「一滴だけ、手へ落とす?」
治療教師が提案する。
「飲まないで。触るだけ」
子供は迷った。
右手は人影を握っている。
左手はアリシアとつながっている。
水へ触れるためには。
どちらかを離さなければならない。
アリシアはそこで初めて気づいた。
子供は、西側貯水槽を出てから一度も、どちらの手も離していない。
怖いから。
人影を失いたくないから。
自分が消えないように。
理由は分からない。
「手」
アリシアが言う。
「どっちか、離したい?」
子供がアリシアを見る。
「水に触るためじゃなくて」
急いで続ける。
「ずっと握ってると、疲れるかもしれないから」
子供は右と左を見た。
人影の手。
アリシアの手。
「離したら」
「うん」
「いなくなる?」
胸が痛んだ。
「私は、ここにいる」
「動かない?」
「必要なら動く。でも、どこへ行くか伝える」
「この人は?」
人影を見る。
答えられない。
自分から移動できるか。
手を離したら消えるか。
誰にも分からない。
「結界布が支えてる」
レオンハルトが近くへ膝をつく。
「でも、それだけで大丈夫かは分かりません」
守れない約束をしない。
「離したくない?」
アリシアが尋ねる。
子供は長く考えたあと、うなずいた。
「じゃあ、今は離さなくていい」
「水は?」
「あとで考える」
「喉」
「乾いてる?」
「分からない」
「それも、あとで調べる」
治療教師は無理に瓶を近づけなかった。
代わりに、子供の呼吸数と唇の状態を目で確認する。
「今すぐ飲まなければ危険という状態ではありません」
「分かった」
子供は少しだけ肩の力を抜いた。
「歩ける?」
「少し」
立ち上がる。
アリシアの手へ力がかかる。
人影の指も。
再び子供の手を握り返した。
誰かに呼ばれたわけではない。
第四の声に命じられたわけでもない。
「動いた」
子供が言う。
「うん」
「離したくない?」
今度は、子供が人影へ尋ねた。
返事はない。
けれど指は離れなかった。
「そう見える」
子供は自分で言い直す。
「うん」
アリシアもうなずいた。
「そう見えるね」
断定しない。
でも、見えたものまで消さない。
移送班は再び歩き出した。
通路の角を一つ曲がる。
その先に、独立観測室の厚い扉が見えた。
かつて高危険度の魔導具を一時保管するために作られた部屋で、壁、床、天井がすべて三重構造になっている。水路は通っていない。窓もない。記録棚も、文字の刻まれた家具も置かれていなかった。
扉の前には。
学院長。
副学院長。
ミレイ。
ケイン。
サーラ。
そしてセレナとカイルが待っていた。
セレナは手首へ白布と冷却帯を巻いている。
水の神器との反応を抑えるため、入口から一定の距離を保っていた。それでも子供の姿が見えると、思わず一歩進む。
治療教師が腕を伸ばした。
セレナはそこで止まる。
悔しそうに。
けれど、自分から距離を守った。
「聞こえますか」
セレナが子供へ尋ねる。
「うん」
「体調は?」
子供は答えられない。
どこが正常で。
どこが異常か。
水の中で長く過ごしてきた身体には、比較するものがない。
「分からない?」
「うん」
「では、痛い場所は」
「足」
セレナの表情が変わる。
「どの辺りですか」
子供は床へ視線を落とす。
「下」
「足の裏?」
「たぶん」
「歩いたから?」
「分からない」
「見せていただけますか」
子供は少し身を引いた。
セレナは動かない。
「今すぐでなくても構いません」
「触る?」
「必要なら。でも、先に触れてよいか尋ねます」
「嫌なら?」
「触りません」
「痛いまま?」
「別の方法を探します」
子供はセレナを見つめた。
セレナは水の神器を持っていない。
けれど、相手の痛みを見つけ。
どうしてほしいかを確認し。
許可を待つ。
それは神器がなくても変わらない。
「あとで」
子供が答えた。
「分かりました」
セレナはすぐに受け入れた。
「部屋へ入る前に」
学院長が全員へ告げる。
「記録方法を確認する」
ミレイたちは紙を持っていなかった。
代わりに、それぞれ色の違う小さな石を一つずつ持っている。
文字を書かない。
名前を記さない。
見たものを、まず自分の記憶へ残す。
どうしても忘れたくない変化があった場合だけ。
決められた意味を持たない石の位置を動かし、変化が起きたことだけを残す。
「赤い石は危険、白い石は安全、などの共通した意味は持たせません」
ミレイが説明する。
「各自が、どの変化に対応させたかも共有しません」
「あとで、どうやって照合するの?」
アリシアが尋ねる。
「部屋を出たあと、それぞれが自分の言葉で説明します」
「違ったら?」
「違ったまま残します」
「忘れたら?」
「忘れたことを伝えます」
水中の子供が、ミレイの手にある石を見る。
「名前、ない?」
「ありません」
「つけない?」
「今は」
「どうして」
「役割を固定しないためです」
ミレイは石を掌へ置く。
「この石を、私は一つ目の変化へ使うかもしれません。使わないかもしれません。別の人は別の意味で使います」
「同じ石なのに?」
「はい」
「間違う」
「間違います」
「嫌じゃない?」
「少し嫌です」
ミレイは正直に答えた。
「でも、今は一つの正しい記録を作る方が危険です」
子供は少し考える。
「この人」
顔のない人影を見る。
「書かない?」
「今は書きません」
「忘れる?」
「顔がないこと。声がないこと。あなたの手を握っていることは覚えます」
「名前は?」
「分かるまで、書きません」
子供は小さくうなずいた。
「私も?」
「あなたも」
「三つの音」
「文字にはしません」
「忘れたら?」
「次に聞きます」
「三つ目、聞いてない」
「はい」
「聞きたい?」
ミレイは少し驚いた。
すぐに答えない。
「聞きたいです」
「でも?」
「あなたが聞かせたいときまで待ちます」
「苦しくない?」
昨日まで。
待つ苦しさを尋ねられていたのは子供だった。
今は、子供がミレイへ聞く。
「少し苦しいです」
「どうして」
「知りたいから」
「知らなくても、記録する人?」
「記録しないことを選ぶ人でもあります」
ミレイは微かに笑った。
「分からないものを、分からないまま持つ練習をしています」
「私と同じ?」
「少し」
子供の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
独立観測室の扉が開かれる。
内部は広かった。
中央には低い寝台が二つ。
互いに離して置かれている。
壁際には椅子が五脚。
水差しも。
鏡も。
文字もない。
床へ位置を示す線さえ引かれていなかった。
何もない部屋。
だが。
何もないこと自体が、別の不安を生む。
子供は入口で足を止めた。
「水、ない」
「うん」
アリシアが答える。
「怖い?」
子供はうなずく。
「戻れない」
「西側貯水槽へ?」
「水へ」
水の中は。
第四の声がいる場所。
名前を押しつけられる場所。
同時に。
子供が九年間いたかもしれない場所。
怖くても。
慣れた場所。
「少しだけ水を置く?」
セレナが距離を保ったまま尋ねる。
「第四の声が来るかもしれません」
「うん」
「それでも、ない方が怖い?」
子供は答えられない。
「今すぐ部屋へ入らなくてもいい」
アリシアが言う。
「廊下で考える?」
「ほかの人」
子供が周囲を見る。
「通る?」
「この通路は、今は閉鎖しています」
警備責任者が答える。
「許可された者しか来ません」
「ずっと?」
「ずっとではありません」
「いつまで?」
「あなたたちが安全に過ごせる場所が決まるまで」
守れない永遠を言わない。
「部屋に入ったら」
子供が尋ねる。
「扉、閉める?」
「完全には閉めない方法もあります」
学院長が答えた。
「でも、第四の声を防ぐには閉めた方が安全です」
「外の声」
「聞こえにくくなります」
「一人?」
「観測者がいます」
「中?」
「あなたが望むなら」
「何人?」
「まだ決めていません」
「私が決める?」
「相談して決めます」
子供は、人影の手を握り直す。
「この人も」
「一緒の部屋へ入ります」
「寝台、離れてる」
中央の二台を見る。
「近づける?」
学院長が警備隊員へ合図する。
「どのくらい近くがいいですか」
子供は答える前に。
人影を見る。
「近い方がいい?」
返事はない。
人影の指は。
子供の手を離さない。
「近いように見える」
子供が言う。
「では、近づけます」
寝台を動かす。
石床を擦らないよう、土の神器継承者が床へ薄い土の膜を作る。二台は並び、間隔が腕一本分まで狭められた。
「もっと?」
子供は少し考え。
首を横へ振る。
「これで」
「分かりました」
「触っていい?」
人影へではない。
寝台を指している。
「座るだけなら」
治療教師が答える。
「冷たいかもしれません」
子供は人影を握ったまま、片方の寝台へ腰掛ける。
柔らかな布が沈む。
驚いたように身体を跳ねさせる。
「沈んだ」
「寝台だから」
アリシアが近くへ座ろうとして。
止める。
「隣へ座っていい?」
「うん」
許可を得てから。
寝台の端へ、少し距離を空けて座る。
「柔らかい?」
「水と違う」
「嫌?」
「分からない」
「少し座ってから決める?」
「うん」
人影は、結界布ごと隣の寝台へ移された。
子供の手は、二台の間へ伸びたまま。
人影の指とつながっている。
水の中では。
二人の身体を支えるものはなかった。
今はそれぞれ別の寝台へ横たわり。
それでも手だけがつながっている。
「この人」
子供が言う。
「何も言わない」
「うん」
「私が聞いても」
「うん」
「嫌かな」
「何が?」
「聞くこと」
何と呼ばれたくないか。
水の中で尋ねていた。
返事はなかった。
「分からない」
アリシアは答える。
「でも、今は聞かない方がいい?」
子供は人影を見る。
「分からない」
「一緒だね」
「うん」
「なら、名前じゃないことから聞く?」
「何を?」
「手を握ったままでいいか」
子供が少し驚く。
「名前より先に?」
「今、一番してることだから」
子供は人影へ向き直る。
「手」
人影の顔のない頭は動かない。
「握ってて、いい?」
返事はない。
子供の指へ力が入る。
「嫌なら」
言葉が止まる。
「どうしてほしい?」
人影の指が。
わずかに動く。
握り返す。
先ほどよりも弱い。
けれど確かに。
「いい?」
子供が尋ねる。
アリシアは答えない。
代わりに。
「どう見えた?」
子供へ返す。
「握った」
「うん」
「離してない」
「うん」
「握っていたいように見える」
「私にも、そう見える」
観測していた者たちも。
一人ずつ。
見えたことを言う。
「指が動きました」
ミレイ。
「子供の手の方向へ力が入りました」
レオンハルト。
「第四の声からの魔力反応はありません」
結界術師。
「では」
子供は人影の手を見る。
「握る」
本人の代わりに選んだのではない。
見えた反応を複数人で確かめ。
今のところ、そうしたいように見えると判断した。
「痛かったら」
子供が続ける。
「どうする?」
「人影には、今は言葉がありません」
セレナが入口から答える。
「手の動きや、胸の光の変化を見ることになります」
「私が見る?」
「一人ではなく」
「みんな?」
「はい」
「ずっと?」
「交代しながら」
「いないときは?」
観測者が完全にいない時間。
必要かもしれない。
誰かに見られ続けることが、二人の負担になる可能性もある。
「一人になりたいかも聞く必要があります」
ミレイが言う。
「今、聞く?」
子供が尋ねる。
アリシアは少し考える。
「たくさん聞くと疲れる?」
「分からない」
「私たちは少し疲れてる」
「私も」
子供が答えた。
「なら、今は休む?」
「休むって?」
「何も決めないで。眠れるなら眠る」
「眠ったら」
「うん」
「音、取られる?」
第四の声。
水の底。
眠っている間も。
子供へ囁いていたのだろう。
「結界を張ります」
レオンハルトが答える。
「完全に防げるとは言えません」
「来る?」
「可能性はあります」
「怖い」
「外で見張ります」
カイルの声が扉の外から届く。
子供が入口を見る。
火の神器継承者は、部屋の外。
以前、水中で強い炎を使った者。
子供にとって怖い相手かもしれない。
「火」
子供が言う。
カイルの表情が硬くなる。
「カイル」
アリシアが言う。
「名前?」
「うん」
子供はカイルを見る。
「カイル」
「いる」
すぐに返事をする。
大きな声ではない。
「火、使う?」
「ここでは使わない」
「外で?」
「必要になったら。でも、先に伝える」
「怖い」
「聞いた」
「来ないで?」
カイルの顔がわずかに歪む。
それでも。
すぐにうなずいた。
「分かった」
「怒る?」
「少し寂しい」
正直に答える。
「でも、入らない」
「ずっと?」
「お前が入っていいと言うまで」
「呼び方」
子供が言う。
「何?」
「お前、嫌?」
カイルは一瞬止まる。
普段、近い相手へ使う言葉。
子供には。
誰かをぞんざいに扱う呼び方に聞こえたのかもしれない。
「嫌だったか?」
カイルが尋ねる。
子供は迷い。
「少し」
「悪い」
「名前、ある」
「お前の名前は、まだ分からないだろ」
「でも」
子供は胸へ手を置く。
「音、三つ」
「そうだったな」
「だから」
カイルは言葉を待つ。
「お前、やめて」
「分かった」
「今は」
「今は、やめる」
カイルはすぐに言い直した。
「何と呼べばいい?」
「分からない」
「じゃあ、呼ばない」
「でも、話す?」
「話せる」
「どうやって」
「そっちを見る。聞いてるか確認する。返事がなくても待つ」
子供は少し考える。
「それで」
「分かった」
呼び方がなくても。
会話はできる。
今、カイルはそれを自分で受け入れた。
「外で見張る」
彼は続ける。
「入ってほしくなったら、誰かに伝えてくれ」
「カイルに?」
「そうだ」
「分かった」
カイルは扉の外へ一歩下がった。
完全に姿が消えない位置。
でも、子供が怖いと感じる距離より外。
その場所を自分で選んだ。
「今、誰にいてほしい?」
アリシアが尋ねる。
子供は部屋の中と外を見る。
全員。
名前を知っている者。
知らない者。
水の神器を持つセレナ。
火を持つカイル。
記録するミレイ。
光のレオンハルト。
黒月を持つアリシア。
黒猫のノア。
「アリシア」
最初に呼ぶ。
「うん」
「セレナ」
「ここにいます」
「ミレイ」
「はい」
子供はレオンハルトを見る。
名前を思い出そうとしている。
「レオン……」
「レオンハルトです」
本人が伝える。
「レオンハルト」
「はい」
ノア。
少し迷う。
「ノア」
『いるわ』
アリシアが返事を伝える前に。
子供はノアを見る。
「聞こえない」
「ノアは、いるって」
「本当?」
『もちろんよ』
「うん」
「カイル」
扉の外。
「いる」
「でも、外」
「そうだ」
「学院長」
学院長が少し驚く。
「ここにいる」
「治療する人」
治療教師は、すぐに自分の名を伝えようとしなかった。
「私の名前を聞きたいですか。それとも、今は役割で示しただけですか」
子供は考える。
「名前、あとで」
「分かりました」
本人が知りたいときに。
教える。
名前を持っている側も。
相手へ無理に渡さない。
「今」
子供が言う。
「この人と」
人影。
「アリシア」
「うん」
「ミレイ」
「はい」
「いて」
セレナの表情がわずかに曇る。
子供はそれに気づいた。
「セレナ」
「はい」
「外?」
「手首に、器の反応が残っています」
「中、危険?」
「私が入ることで、第四の声が近づく可能性があります」
「入りたい?」
セレナは少しだけ目を伏せた。
「入りたいです」
「でも?」
「今は、入らない方がよいと判断しています」
「寂しい?」
子供は。
先ほどカイルが使った言葉を覚えていた。
セレナは目を見開く。
「少し」
「私も」
「何が?」
「セレナ、外」
その一言で。
セレナの表情が崩れそうになる。
自分だけが寂しいのではない。
子供も。
近くに来てほしいと思っている。
「でも」
子供は続ける。
「今は、外」
「はい」
セレナはうなずく。
「ここにいます」
「声、置く?」
以前。
水盤へ置いた五つの声。
今も子供の中に残っているかもしれない。
「必要ですか」
「少し」
「何を言ってほしいですか」
「分からない」
「では、今の私が伝えたいことを言ってもよいですか」
「うん」
セレナは扉の外から。
子供へ向かって言った。
「足が痛いと教えてくれたことを、私は忘れません」
治療の約束ではない。
治すとも。
大丈夫とも言わない。
子供が痛いと伝えた。
その事実を受け取ったと伝える。
子供は足元を見る。
「あとで、見る?」
「触れてよいと、あなたが決めたら」
「分かった」
セレナはその場を離れなかった。
扉の外。
声が届く距離へ椅子を置く。
子供の希望と。
自分の危険。
二つの間にある場所。
「休める?」
アリシアが尋ねる。
子供は寝台へ横になろうとした。
だが、人影の手を握ったままでは姿勢を変えにくい。
腕がねじれる。
「痛い?」
「少し」
「手を離したい?」
子供は人影を見る。
離したくない。
でも、腕は痛い。
二つが同時にある。
「寝台、もっと近くできる?」
アリシアが土の神器継承者へ尋ねる。
扉の外から室内の床を確認していた彼が、慎重にうなずく。
「できる。ただし、完全につけると結界布の境界が重なる」
「危険?」
「互いの魔力が混ざる可能性がある」
「少しだけ?」
「指が自然につながる距離までなら」
子供へ確認する。
「近づけていい?」
「うん」
「人影は?」
返事はない。
指は離れない。
複数人で動きを確認する。
「近づけることを拒む反応は見えません」
ミレイ。
「胸の光にも変化なし」
レオンハルト。
「第四の声の反応もありません」
結界術師。
土の力で。
音を立てず寝台が近づく。
子供は横になる。
人影の手と。
無理なくつながる。
「楽?」
「さっきより」
「痛みは?」
「足。腕は、少しよくなった」
「覚えておく」
アリシアは言った。
「書かない?」
「今は」
「忘れたら?」
「ミレイも聞いてる」
「はい」
ミレイが答える。
「私は、腕の痛みが少し軽くなったと聞きました」
「違ったら?」
「あとで直してください」
子供は目を閉じかける。
すぐに開く。
「眠るの、怖い?」
「うん」
「目を閉じなくてもいい」
「ずっと?」
「眠くなったら閉じるかもしれない」
「閉じたら、声」
「聞こえたら、起こす?」
「分からない」
「起こしてほしい?」
「怖い声なら」
「どれが怖い声か、私たちに分かる?」
子供は答えられない。
第四の声は。
ミレイ。
セレナ。
アリシア。
ほかの人の声を真似る。
「合図を決める?」
ミレイが尋ねる。
「合言葉は作らないって」
子供が覚えていた。
「はい。第四の声が覚えるからです」
「じゃあ」
ミレイは考える。
「目を覚ましたとき、毎回違う質問をします」
「どんな?」
「寝る前に何を話したか。今、誰の声を聞きたいか。手を握っていたいか」
「答え、変わる」
「変わって構いません」
「第四の声、答えるかも」
「それでも、答えだけであなたと決めません」
「何を見る?」
「顔。手。声。迷い方」
器は。
正しい答えだけを返そうとする。
本人は。
迷う。
間違える。
途中で気持ちが変わる。
「全部を合わせて、今のあなたか考えます」
「間違ったら?」
「謝ります」
「遅かったら?」
ミレイの顔が少し曇る。
「その可能性があります」
子供は目を伏せる。
「でも」
ミレイは続ける。
「一つの合言葉だけで決めるより、あなたを見ます」
「分かった」
子供はゆっくり目を閉じた。
人影の手を握ったまま。
アリシアは寝台の横へ椅子を置いた。
ミレイは反対側。
ノアは二つの寝台の間へ丸くなる。
『私が一番近いのね』
「嫌?」
『いいえ』
ノアは人影の胸へ視線を向ける。
『この光が変わったら起こすわ』
「私たちには聞こえない」
『あなたの袖を引く』
「分かった」
観測室の扉は。
完全には閉じなかった。
子供が、閉め切られることを怖がったから。
ただし第四の声を防ぐ結界は。
扉の隙間を含め、三重に張られた。
セレナは扉の外。
レオンハルトは結界の中央。
カイルはさらに外側。
学院長と治療教師は隣室。
それぞれ違う場所で。
二つの存在を守る。
子供の呼吸が、少しずつ静かになる。
眠ったのか。
目を閉じているだけか。
アリシアには分からない。
「名前」
子供が目を閉じたまま呟いた。
アリシアが身を乗り出す。
「聞こえてる」
「聞かない?」
「何を?」
「三つ目」
喉が詰まりそうになる。
聞きたい。
でも。
「今、聞かせたい?」
「分からない」
「なら、聞かない」
「眠ったら、言うかも」
「寝言で?」
「それを」
子供の眉が寄る。
「名前にしないで」
「分かった」
眠っている間に出た音。
本人が選んで聞かせたものではない。
それを名前へしない。
「覚える?」
「どうしてほしい?」
子供は答えられないまま。
呼吸が深くなる。
眠った。
アリシアはミレイを見る。
「寝言で三つ目が出たら」
「本人へ聞くまで、名前として扱いません」
「記録は?」
「書きません」
「覚える?」
ミレイは少し考えた。
「聞こえてしまったことは消せません」
「うん」
「でも、ほかの人へ伝えません」
「本人が、忘れてほしいって言ったら?」
「完全に忘れることはできないかもしれません」
「どうする?」
「思い出さないよう努めます」
忘れると約束しない。
でも。
使わない。
広げない。
名前へしない。
それなら選べる。
独立観測室に。
静かな時間が流れた。
水音はない。
第四の声もない。
子供の呼吸。
人影の胸に浮かぶ二つの光。
ノアの尾が床へ触れる小さな音。
扉の外では、セレナが椅子へ座っている。
カイルは遠く。
警備隊員とともに通路を見張っていた。
誰も話さない。
それでも、一人ではない。
半刻ほど経った頃。
人影の指が動いた。
子供は眠っている。
握る力が弱まっている。
人影の手が。
ゆっくり。
子供の指から離れかける。
ノアが身体を起こす。
アリシアの袖を前足で引いた。
「動いた?」
小声で尋ねる。
『ええ』
人影の手は。
完全には離れない。
けれど。
先ほどまでのように、握り続けてもいない。
子供が眠ったから。
自分から離したいのか。
力が抜けただけか。
分からない。
「起こす?」
アリシアがミレイへ尋ねる。
「子供を?」
「うん」
「手が離れそうだと伝えるために?」
「うん」
ミレイは考える。
「眠る前、離れたくないとは言っていません」
「離したいとも」
「はい」
「人影の意思は?」
「指が緩んでいます」
「でも、力がないだけかも」
「はい」
二人だけでは決めない。
レオンハルトへ。
結界術師へ。
見えたことを伝える。
「人影の胸の光に変化はありません」
レオンハルトが答える。
「第四の声の反応もなし」
結界術師。
「では」
アリシアは子供を起こさなかった。
「今は見る」
人影の指が。
さらに少し動く。
子供の掌から。
一本。
二本。
ゆっくり外れる。
最後に。
指先だけが触れた状態になる。
そこで止まった。
「離したい?」
アリシアは人影へ小さく尋ねる。
反応はない。
「全部は離してない」
ミレイが言う。
「うん」
「触れていたいけれど、握られ続けるのは嫌?」
「そう見える?」
「私は、そう見えました」
「私は」
アリシアは人影の手を見る。
「離れる練習をしてるように見える」
二人の見え方が違う。
どちらも残す。
人影の指先が。
子供の手へ触れたまま。
胸の光が三度目に揺れた。
一つ。
握られた記憶。
二つ。
握り返した意思。
三つ。
自分から力を緩め。
それでも触れることを選んだ動き。
「増えた」
アリシアが呟く。
人影の胸に。
三つ目の光。
名前ではない。
呼ばれ方でもない。
自分で選んだ。
小さな動き。
それが一つずつ。
空だった身体へ残っていく。
その瞬間。
眠っていた子供の唇が動いた。
短い音。
最初の一音でも。
二つ目でもない。
柔らかく。
かすかな。
三つ目と思われる音。
アリシアは聞いてしまった。
ミレイも。
ノアも顔を上げる。
扉の外にいたセレナには、届かなかったようだった。
「今」
ミレイが小さく言う。
「うん」
「三つ目?」
「決めない」
「はい」
子供は眠ったまま。
自分で聞かせたいと決めていない。
アリシアは。
その音を口にしなかった。
ミレイも筆を持たない。
互いに何と聞こえたかも確認しない。
ただ。
聞いてしまったことだけを。
自分の中へ置く。
名前としてではなく。
寝言として。
本人が起きたあと。
扱い方を尋ねる必要がある音として。
人影の指先は。
子供の手へ触れ続けている。
三つ目の光も消えない。
第四の声は来ない。
それでも。
独立観測室の壁の外。
三重結界のさらに外側。
誰にも見えない細い亀裂へ。
黒い文字が一つだけ浮かんだ。
――三音あれば、名となる。
その文字を。
見張っていたカイルが見つけた。
読まない。
声にも出さない。
すぐに近くの警備隊員の肩を叩く。
指で壁を示し。
自分の目を閉じず。
口を開かないまま。
危険があることを伝えた。
警備隊員も文字を読まない。
結界術師を呼ぶ。
誰も声に出さない。
それでも連携は進む。
黒い文字は。
読まれなかったことで。
少しずつ薄くなる。
第四の声は。
子供が三つ目の音を口にしたことを知っている。
だが。
誰もその音を名前へしなかった。
誰もつなげなかった。
誰も正しい読み方を決めなかった。
そして。
水の外へ出た子供は。
眠ったまま。
人影の手が少し離れたことにも。
自分が三つ目の音を漏らしたことにも気づいていない。
目を覚ましたとき。
それをどう伝えるか。
聞いてしまった音を、覚えていてよいか。
忘れてほしいか。
名前として扱わないまま残すか。
また新しい選択が必要になる。
それでも今は。
誰も答えを急がなかった。
アリシアは寝台の横で。
子供と人影の間に残る、指先一つ分の接触を見つめていた。
握り続けることだけが。
一緒にいることではない。
離れたいかを聞くこと。
離しても消えないと確かめること。
少しだけ触れる距離を、自分で選ぶこと。
名前より先に。
二つの存在は。
互いとの距離を。
ほんの少しだけ選び始めていた。




