第108話 眠っている間にこぼれた音を、目覚めた本人より先に名前へしない
独立観測室の中では、朝になったことが分からなかった。
窓のない部屋には、外の空の色も、校舎を渡る風の音も届かない。壁へ埋め込まれた魔導灯は夜の間と変わらない淡い明るさを保ち、二台の寝台と、その間に横たわる黒猫の影を静かに照らしていた。
時間の変化を知らせるものは、扉の外から聞こえる交代時刻の鐘だけだった。
一度。
短く。
夜明けを告げる鐘が鳴る。
それでも、水の外へ出た子供は目を覚まさなかった。
寝台へ横向きになり、顔のない人影へ身体を向けたまま眠っている。水の中にいた頃よりも輪郭ははっきりしていたが、肌はまだ青白く、濡れていた髪も完全には乾いていない。
子供の手と人影の手は、もう握り合ってはいなかった。
互いの指先だけが触れている。
眠る前よりも弱い接触。
けれど、完全には離れていない。
人影の胸では、三つの小さな光が一定の間隔で揺れていた。
握られたこと。
握り返したこと。
自分から力を緩め、それでも指先を残したこと。
呼ばれた音ではない。
誰かに与えられた役割でもない。
自分の動きとして残った三つの光。
アリシアは椅子へ座ったまま、その変化を見つめていた。
眠気は強かった。
目の奥が重く、身体を少し動かすだけで肩と首へ鈍い痛みが走る。昨夜からほとんど休んでいないうえ、黒月を使った反動も完全には抜けていない。
それでも、目を閉じる気にはなれなかった。
子供が眠りの中で三つ目と思われる音をこぼした。
その事実が、胸の内側へ残っている。
聞かなかったことにはできない。
けれど、覚えていてよいとも決まっていない。
本人が起きたあと。
どう伝えるのか。
寝言で音が出たと言うのか。
何と聞こえたかまで話すのか。
聞いた者同士で照合せず、それぞれ別のまま持ち続けるのか。
あるいは、本人が忘れてほしいと望んだ場合、思い出さないようにするのか。
まだ何も決まっていなかった。
『眠りなさい』
ノアが二台の寝台の間から言った。
声は小さい。
子供を起こさないためだ。
「起きてる」
『見れば分かるわ』
「人影の光が変わるかもしれない」
『私が見ている』
「第四の声が来るかも」
『扉の外にも見張りがいる』
「子供が起きるかも」
『ミレイもいる』
反対側の椅子へ座るミレイが、少し気まずそうに目を伏せる。
「私も眠いです」
「じゃあ、二人とも寝たら」
「交代まで、あと少しです」
「少しって?」
「鐘がもう一度鳴るまで」
正確には分からない。
独立観測室の中には時計も置かれていない。
数字や文字を介した第四の声の干渉を避けるため、時間は外からの鐘だけで管理されている。
『だから、その鐘まで目を閉じなさい』
ノアの声が少し強くなる。
「でも」
『あなたが起きたまま倒れたら、子供が目を覚ましたとき余計な不安を与えるわ』
アリシアは言葉を止めた。
自分が見張る。
自分が守る。
そう思っていた。
けれど、眠りから起きた子供が最初に見るものが。
椅子から崩れ落ちたアリシアだったら。
安心させるどころではない。
「少しだけ」
『ええ』
「何かあったら起こして」
『私を誰だと思っているの』
「毒舌な黒猫」
『そこへ神獣を付けなさい』
ノアは尾を一度揺らした。
アリシアは椅子の背へ身体を預ける。
目を閉じる前。
子供と人影の指先を見る。
触れている。
胸の光も三つ。
変化なし。
「ミレイも」
「はい」
「寝て」
「アリシアさんが先に眠ったら」
「今から」
「分かりました」
二人は同じ時間に目を閉じた。
完全な眠りへ落ちたつもりはなかった。
それでも。
次にアリシアが目を開けたとき。
どれほど時間が経ったのか分からなかった。
最初に見えたのは、ノアの金色の目だった。
椅子の肘掛けへ前足を置き、顔を近づけている。
『起きなさい』
「何かあった?」
『子供が目を覚ました』
眠気が一瞬で薄れる。
アリシアは身体を起こす。
首と肩が痛む。
けれど、それより先に寝台を見る。
子供は目を開けていた。
横向きのまま。
人影の手を見る。
二人の指先は。
眠る前と同じように触れていた。
「起きた?」
アリシアが尋ねる。
「うん」
「どこか痛い?」
子供は少し考える。
「足」
「昨日と同じ?」
「少し違う」
「どんなふうに?」
「熱い」
水の中では冷たかった身体が。
水の外で体温を持ち始めているのか。
歩いたことで、擦れや痛みが出ているのか。
「セレナを呼ぶ?」
子供は扉を見る。
完全には閉じられていない。
外側の椅子へ座っていたセレナは、交代の治療教師と話しているらしく、姿は見えなかった。
「呼んで」
「うん」
アリシアは扉の近くへ向かう。
その途中。
子供が呼び止めた。
「アリシア」
「何?」
「眠った?」
「少し」
「どうして」
「ノアに怒られたから」
『怒ってはいないわ』
「怒ってないって」
「でも、寝た」
「うん」
「私が寝てても?」
「うん」
子供は少しだけ目を見開く。
「見てなくても、いた?」
「ノアが見てた」
「アリシアは?」
「同じ部屋にいた」
「眠ってた」
「うん」
「でも、いなくならなかった?」
「うん」
子供の視線が、人影へ向く。
自分が眠っている間。
アリシアも眠った。
それでも。
目を覚ませば、同じ場所にいた。
誰かが自分を見続けていなくても。
存在が消えるわけではない。
「この人も」
子供が言う。
「眠った?」
「分からない」
「目、ない」
「うん」
「でも」
人影の胸を見る。
「光、ある」
「三つ」
「増えた?」
アリシアは少し迷う。
眠る前。
子供が見た時点では、二つだった。
三つ目は、子供が眠ったあと。
人影が自分から手の力を緩めたときに増えた。
「増えた」
「何で?」
「手を」
アリシアは人影の指先を見る。
「握り続けるのをやめたからかもしれない」
子供の顔が固まる。
「離した?」
「完全には」
「私が眠ってたから?」
「分からない」
子供は人影の手を強く握ろうとする。
「待って」
アリシアが声をかける。
子供の手が止まる。
「どうしたい?」
「握る」
「人影は?」
「離した?」
「少し力を緩めた」
「なら」
「また強く握る?」
問いに。
子供は答えられなかった。
「離れたかった?」
人影へ尋ねる。
返事はない。
「私が寝たから?」
反応なし。
「嫌だった?」
胸の光は変わらない。
「分からない」
子供の声が苦しそうになる。
「うん」
「また、分からない」
「うん」
「私が握ったら」
「どうなる?」
「戻る?」
「何が?」
「前」
水の中で。
人影がすべての呼び方へ振り向いていた頃。
輪から切り離される前。
自分が手を握ったことで。
何かが生まれた。
なら。
離れれば、その何かが失われるのではないか。
子供はそう恐れているのかもしれない。
「光は消えてない」
アリシアが言う。
「でも」
「手を緩めたあと、増えた」
子供が人影の胸を見る。
「離れたから?」
「少し離れることを、自分で選んだからかもしれない」
「分からない」
「うん」
「でも」
子供は指先だけの接触を見る。
「全部、離れてない」
「うん」
「私が起きるまで?」
「そう見える」
子供はしばらく人影を見つめた。
やがて。
強く握り直す代わりに。
自分の指先を、人影の指へ軽く触れさせる。
眠る前と同じ距離。
「これでいい?」
人影へ尋ねる。
胸の三つの光が。
ゆっくり揺れた。
一つ。
二つ。
三つ。
新しい光は増えない。
消えもしない。
「嫌じゃないように見える」
子供が言う。
「私にも」
アリシアは答える。
「でも、あとで変わるかも」
「そのとき、聞く」
「うん」
扉の外へ。
セレナを呼びに行こうとしたとき。
ミレイも目を覚ました。
「交代ですか」
「子供が起きた」
ミレイはすぐに姿勢を整える。
髪へ寝癖がついている。
片側だけ外へ跳ねていた。
子供がそれを見る。
「髪」
「何ですか」
「変」
ミレイが自分の髪へ触れる。
跳ねた部分に気づき、少し顔を赤くした。
「眠ったためです」
「記録する人も?」
「眠ります」
「間違う?」
「間違います」
「髪も変?」
「毎朝ではありません」
子供の口元が、わずかに緩む。
水の中では。
記録する者は中央に立つ役割だった。
忘れず。
間違えず。
すべてを持つ者。
目の前のミレイは。
眠り。
寝癖をつけ。
記録を忘れることもある。
それでも。
話を聞く者としてここにいる。
「セレナを呼びます」
ミレイが立ち上がる。
子供がうなずく。
「足、熱い」
「聞きました」
「書く?」
「まだ書きません」
「どうして」
「治療を受ける前に、本人がどう感じているかを私が覚えます。必要になったら、あとで記録してよいか尋ねます」
「忘れたら?」
「アリシアさんも聞いています」
「うん」
子供は少し安心したようだった。
セレナはすぐに来た。
ただし、独立観測室へは入らない。
扉の外へ膝をつき。
子供と同じ高さになる。
「おはようございます」
子供が少し迷う。
「朝?」
「学院の外では、朝になりました」
「ここ、同じ」
「窓がありませんから」
「朝って、何?」
セレナが一瞬止まる。
水の底にいた子供。
光や鐘は知っていても。
朝という時間を、身体で知っているとは限らない。
「夜のあとに来る時間です」
「夜は?」
「空が暗くなる時間」
「水の中、ずっと暗い」
「そうですね」
「じゃあ、ずっと夜?」
「いいえ」
セレナは言い切りかけ。
少し考える。
「水の中でも、外では朝や昼や夜が進んでいました」
「見えないのに?」
「はい」
「分からない」
「これから、外へ出られるときに見てみますか」
「外?」
「地上です」
「水、ない?」
「空に雨が降ることはあります」
子供の顔が強張る。
「雨」
「怖い?」
「水が、上から」
「はい」
「声、入る?」
「可能性があります」
「なら、行かない」
「今は行かなくても構いません」
セレナは無理に朝を見せようとしなかった。
「でも、朝があることは覚えておいてください」
「見てないのに?」
「見ていなくても、外では進んでいます」
眠っている間も。
誰かが見ていなくても。
朝は来る。
人はいる。
時間は進む。
子供はその言葉を、すぐには理解できないようだった。
「足を見てもよいですか」
セレナが尋ねる。
子供は自分の足を見る。
「触る?」
「最初は見ます。それで分からなければ、触れてよいかもう一度聞きます」
「アリシア、いる?」
「いる」
「ミレイ」
「はい」
「この人」
人影を見る。
「いるように見えます」
アリシアが答える。
「なら」
子供は寝台の端へ座り。
足を前へ出した。
「見て」
「ありがとうございます」
セレナは扉の外から確認する。
近くでなければ見えにくい。
それでも、最初から中へは入らない。
「足の裏へ、赤い部分があります」
セレナが言う。
「赤い?」
「水の中では見えにくかった色です」
「痛い色?」
「痛みがある場所と同じか、聞いてもよいですか」
子供は片方ずつ足を見る。
「こっち」
「右足?」
「分からない」
「私から見て、こちらです」
セレナが片側を示す。
「名前、つける?」
「右と左は、身体の場所を示すための言葉です」
「私が決めた?」
「いいえ」
子供の表情が曇る。
「嫌なら、今は使いません」
セレナはすぐに言う。
「こちら側の足、と呼びます」
「名前、いらない?」
「必要になったとき、使うか決めましょう」
身体の部位。
右。
左。
それも呼び方の一つ。
普通なら疑わない。
けれど、子供にとっては。
自分の身体へ新しい名前を次々と付けられることになる。
「赤いところは、歩いたことで皮膚が擦れた可能性があります」
セレナは説明する。
「治す?」
「布を当てると、痛みが和らぐかもしれません」
「触る?」
「はい」
「嫌」
「分かりました」
即座に引く。
「では、触れない方法を考えます」
「どうする」
「冷たい空気を少し当てる。足を床へつけず休む。自分で布を置く」
「自分で?」
「はい」
セレナは清潔な柔らかい布を一枚用意する。
名前も文字も書かれていない。
扉の内側へ置き。
そこから動かない。
「取ってもよいです。取らなくても構いません」
子供は布を見る。
アリシアを見る。
「取る?」
「子供が決める」
「アリシアは?」
「痛かったら使うかも」
「触っても、声入らない?」
「調べてある」
結界術師が外から答える。
「水や文字の反応はありません」
「でも、分からない?」
「完全には」
子供は慎重に。
空いている手を伸ばす。
布へ触れる。
すぐに引く。
黒い文字は出ない。
水も浮かばない。
もう一度。
今度は掴む。
「柔らかい」
「足へ置けそうですか」
セレナが尋ねる。
子供は自分の足へ布を近づける。
触れる直前で止まる。
「怖い」
「置かなくてもいいです」
「でも、痛い」
「少しだけ触れてみますか」
「嫌だったら?」
「離してください」
子供は布の端を。
赤くなった足の裏へ。
そっと触れさせた。
身体が少し跳ねる。
「痛い?」
「最初、少し」
「今は?」
「冷たい」
「嫌?」
「分からない」
「そのままにしますか」
子供は考え。
うなずいた。
治療を受ける。
それも。
誰かに全部任せるのではなく。
自分で布を置くところから始めた。
「名前」
子供がセレナを見る。
「はい」
「布の名前」
「今、知りたいですか」
「うん」
「これは治療布と呼ばれています」
「治療布」
「ほかの呼び方もあります」
「一つじゃない?」
「はい」
「どれが正しい?」
「使う人によって違います」
子供は布を見る。
「私は?」
「何と呼びたいですか」
「柔らかい布」
「それで構いません」
「名前、長い」
「長くてもよいです」
子供は少しだけ笑った。
「柔らかい布」
自分で選んだ呼び方。
正式ではない。
ほかの者と違う。
それでも。
今の子供には、その名が一番近い。
「人影にも」
アリシアが尋ねる。
「何か必要?」
人影は横たわったまま。
胸の光に変化はない。
足も。
手も。
痛みを示す反応は見えない。
「この人」
子供が言う。
「ずっと、寝てる」
「起こしたい?」
「分からない」
「怖い?」
「少し」
「このまま動かなかったら?」
子供は人影の手を見る。
「消える?」
「分からない」
「呼べば、起きる?」
第四の器として作られていた頃。
すべての呼び方へ反応した。
「呼ばない方がいい」
アリシアは言う。
「どうして」
「呼ばれた音へ、勝手に返事するかもしれないから」
「でも」
「起こしたい?」
「うん」
「名前を使わずに?」
子供は考える。
人影の肩へ触れようとして。
止める。
「触っていい?」
返事はない。
「分からない」
「うん」
「どうする」
「触れないで起こす方法を考える?」
「声?」
「名前じゃない言葉」
「起きて?」
「それも命令になるかも」
子供の眉が寄る。
「難しい」
「うん」
「でも、起きてほしい」
「どうして?」
「話したい」
「何を?」
「手」
握りたいか。
離したいか。
どうして指先だけ残したのか。
「じゃあ」
アリシアは人影を見る。
「話したいことがあるって伝える?」
「名前、いらない?」
「うん」
子供は人影へ向き直る。
「聞こえる?」
反応はない。
「私は」
少し止まる。
「話したい」
胸の三つの光が揺れる。
「手」
人影の指先。
「どうしたいか、聞きたい」
光が。
一つずつ。
少し強くなる。
顔のない頭は動かない。
身体も起きない。
けれど。
指先が。
子供の手から離れる。
完全に。
子供が息を呑む。
手を追いかけようとする。
アリシアは止めなかった。
代わりに尋ねる。
「追いかけたい?」
「離れた」
「うん」
「嫌?」
「子供は?」
「怖い」
「握り直したい?」
「うん」
「でも、人影は自分で離したように見える」
子供の手が止まる。
人影の指は。
寝台の上へ戻る。
胸に。
四つ目の光が浮かんだ。
完全に手を離したこと。
誰かに命じられず。
自分で選んだ動き。
「光」
子供が言う。
「増えた」
「うん」
「離したから?」
「そう見える」
「私、嫌?」
「それは分からない」
子供の目に水が溜まる。
涙。
水の中とは違い。
頬を伝う。
「嫌だから、離した?」
「分からない」
「でも」
「子供は、離されて寂しい?」
「うん」
「悲しい?」
「うん」
「嫌だった?」
「うん」
自分の気持ちは。
少しずつ言える。
相手の意思は。
分からないまま。
「人影が離したいなら」
アリシアは慎重に言う。
「離すことを止めない方がいいと思う」
「私が悲しくても?」
「うん」
「一緒にいたいのに?」
「うん」
「嫌」
「聞いた」
「握りたい」
「聞いた」
「でも、握らない?」
「子供が決める」
「握ったら」
「人影が嫌かもしれない」
「分からない」
「うん」
子供は両手を胸の前で握る。
人影の手へ伸ばさないために。
「悲しい」
「ここにいる」
アリシアが言う。
「触っていい?」
子供は泣きながら。
少し考え。
うなずいた。
アリシアは肩へ手を置く。
強く抱かない。
逃げられる程度の触れ方。
「人影が離しても」
ミレイが言う。
「水の外へ一緒に出たことは消えません」
「でも、今は」
「離れています」
「名前もない」
「はい」
「手もない」
「手はあります。ただ、つながっていません」
「一緒じゃない?」
「同じ部屋にいます」
子供が人影を見る。
二台の寝台。
腕一本分の距離。
触れてはいない。
それでも同じ部屋にいる。
「離れても」
子供が言う。
「いる?」
「うん」
アリシアが答える。
「見てなくても?」
「うん」
「触ってなくても?」
「うん」
「呼ばなくても?」
「うん」
子供は涙を拭かなかった。
そのまま。
人影を見つめる。
「私は、ここ」
「うん」
「この人も」
「ここにいるように見える」
人影の胸。
四つの光。
消えない。
手を離しても。
その記憶は残っている。
「返事、しない」
子供が呟く。
「うん」
「でも、いる」
「うん」
「名前、ない」
「まだ分からない」
「でも、いる」
「うん」
子供は何度も確かめる。
第四の声が教えたものと。
違う答え。
名前がなくても。
返事をしなくても。
触れていなくても。
存在は消えない。
人影の胸にある四つの光が。
そのことを示しているようだった。
しばらくして。
子供の呼吸が落ち着いた。
アリシアは肩から手を離す前に尋ねる。
「もう離していい?」
「うん」
子供自身が答える。
手を離す。
子供は一人で座っている。
隣の寝台には人影。
触れていない。
それでも。
先ほどより少しだけ背筋が伸びていた。
「寝てる間」
子供が言った。
アリシアの胸が動く。
「何?」
「夢、見た」
「どんな?」
「水」
「第四の声?」
「いた」
ミレイの表情が引き締まる。
「何を言われましたか」
「三つ」
子供は胸へ手を置く。
「音を、つなげろって」
アリシアはミレイと目を合わせない。
昨夜。
寝言でこぼれた三つ目。
聞いてしまった。
しかし。
まだ本人には伝えていない。
「つなげた?」
アリシアが尋ねる。
「少し」
「名前になった?」
「分からない」
「聞かせたい?」
子供は黙る。
「寝てるとき」
やがて言った。
「言った?」
アリシアの喉が詰まる。
嘘はつけない。
「音が一つ、聞こえた」
子供の顔が固まる。
「何て?」
「今は言わない」
「どうして」
「子供が、名前にしないでって言ってたから」
「覚えてる?」
「うん」
「ミレイも?」
「はい」
「ノアも?」
『聞いたわ』
「聞いたって」
子供の呼吸が少し速くなる。
「みんな、持ってる」
「三人だけ」
「名前にした?」
「してない」
「つなげた?」
「してない」
「最初と二つ目に?」
「してない」
「何と聞こえたか、話した?」
「話してない」
子供は一つずつ確認する。
アリシアたちは、一つずつ答える。
「忘れて」
突然。
子供が言った。
アリシアの胸が痛む。
「分かった」
「本当に?」
「完全に忘れるって約束はできない」
子供の顔が歪む。
「じゃあ」
「思い出さないようにする」
「違う」
「どうしてほしい?」
「消して」
「頭から?」
「うん」
できない。
黒月で。
記憶の線を切ることは。
できるかもしれない。
けれど。
それは三人の記憶へ刃を入れることになる。
「方法があるかもしれない」
アリシアは言う。
「黒月?」
子供は黒月を見る。
「うん」
「切る?」
「でも、すぐにはできない」
「どうして」
「何が一緒に消えるか分からないから」
「音だけ」
「音を聞いたときのこと。子供が眠ってたこと。人影の手が離れたこと。全部つながってるかもしれない」
「でも」
子供は両手で頭を押さえる。
「私が、言いたくなかった」
「うん」
「勝手に出た」
「うん」
「それを、持ってる」
「ごめん」
アリシアは謝った。
「聞こうとしたわけじゃない」
言い訳になりそうで。
続けなかった。
「でも、聞いてしまった」
ミレイも頭を下げる。
「私もです」
「悪い?」
子供が尋ねる。
「聞こえたこと自体は、止められませんでした」
ミレイは答える。
「でも、そのあと誰にも伝えず、文字にもせず、名前にもしていません」
「それで、いい?」
「子供は、よくないと思っている?」
「分からない」
怒っている。
怖い。
恥ずかしい。
取られたように感じる。
どれか。
全部かもしれない。
「今すぐ消してほしい?」
アリシアが尋ねる。
「うん」
「危険があっても?」
子供は答えを止める。
「音だけじゃなく、昨日のことまで消えるかもしれない」
「昨日?」
「人影の手が離れたこと。三つ目の光が増えたこと。アリシアたちが眠ってたこと」
「それも?」
「分からない」
子供は苦しそうに目を閉じる。
「第四の声は」
セレナが扉の外から言う。
「三つの音がそろえば、名になると考えています」
子供がセレナを見る。
「壁に、文字が出ました」
隠さない。
「三音あれば、名となる、と」
「読んだ?」
「カイルたちは読みませんでした」
「どうして分かった」
「結界術師が、文字を声にせず形だけ確認しました」
「なら」
子供は胸を押さえる。
「第四の声、知ってる」
「三つ目を?」
「はい」
「取られた」
「まだ、名前とは決まっていません」
「でも、知ってる」
「うん」
「アリシアたちも」
「うん」
「全部、取られた」
涙が再び落ちる。
三つの音。
子供が。
自分の中から。
少しずつ見つけたもの。
最初は違う聞こえ方。
二つ目は文字にしたくない。
三つ目は、まだ聞かせたくなかった。
それなのに。
眠っている間にこぼれ。
第四の声にも。
アリシアたちにも届いた。
「取られたと思う?」
アリシアが尋ねる。
「うん」
「返してほしい?」
「うん」
「どう返せばいい?」
「分からない」
音は。
物ではない。
手渡せない。
聞いた者の中から消すしかないのか。
あるいは。
聞いても、それを使わないことが返すことになるのか。
「私たちが」
ミレイが言う。
「音を持っているのではなく」
子供が見る。
「聞いたことを、あなたへ預け直す方法を考えさせてください」
「どうやって」
「今は分かりません」
「また、待つ?」
子供の声が強くなる。
待つことは苦しい。
何度も言われた。
「今すぐできることから」
アリシアが答える。
「何」
「私たちは、音を口にしない」
「もうしてる?」
「してない」
「名前へしない」
「しない」
「つなげない」
「しない」
「誰かに教えない」
「しない」
「記録しない」
「しない」
「それだけ?」
「今は」
子供の顔に不満が残る。
「足りない?」
「分からない」
「足りないって言っていい」
「足りない」
「聞いた」
「消してほしい」
「それも聞いた」
「でも、すぐしない」
「危険を調べる」
「私が嫌なのに?」
胸を突かれる。
本人が嫌だと言っている。
それでも。
危険だからと待たせる。
「黒月で切るか」
アリシアは言う。
「子供も一緒に調べる?」
「私も?」
「何が消えるか。どう切れば音だけ離せるか」
「分かる?」
「黒月で線を見る」
「私の音、見える?」
「分からない」
「見えなかったら?」
「別の方法を探す」
「いつ?」
「今日」
曖昧な先延ばしではなく。
具体的に。
「鐘が二回鳴る前に、最初の確認をする」
「鐘?」
「今から二回」
「遅い?」
「準備に必要」
「一回は?」
「急ぎすぎると、ほかの記憶まで切るかもしれない」
子供は悔しそうに唇を噛む。
「二回」
「うん」
「それまで」
「音を使わない」
「思い出さない?」
「できるだけ」
「でも、ある」
「うん」
「嫌」
「聞いた」
完全には納得していない。
それでも。
何もしないまま待つのではない。
一緒に調べる。
時間を決める。
何をしないかも決める。
「私」
子供が言う。
「三つ目、言いたくなかった」
「うん」
「でも、夢で」
「うん」
「第四の声に、押された」
「押された?」
「口から出た」
アリシアの背中へ冷たいものが走る。
「自分で言ったんじゃない?」
「分からない」
「夢の中で、言いたくなかった?」
「うん」
「でも、出た?」
「うん」
「第四の声が、言わせた可能性がある」
ミレイが小さく言う。
「なら」
アリシアは黒月へ手を置く。
「音の線だけじゃなく、第四の声が口へつないだ線が残ってるかもしれない」
子供が喉へ手を当てる。
「まだ、ある?」
「見る?」
「今?」
「黒月を抜くけど」
「怖い」
「抜かずに、鞘のまま近づける方法もある」
「切らない?」
「見るだけ」
「触る?」
「黒月を近づける。子供には触れない」
「どこまで?」
「子供が止めてって言ったところまで」
子供は少し考え。
うなずいた。
「見る」
扉の外。
警備。
結界。
レオンハルト。
学院長。
全員へ状況が伝えられる。
黒月を抜かない。
鞘のまま。
子供の喉へ向ける。
距離は五歩。
「何か感じる?」
アリシアが尋ねる。
「冷たい」
「近づける?」
「少し」
一歩。
黒月が微かに震える。
四歩。
子供の喉の奥。
細い黒い糸が見えた。
水ではない。
文字でもない。
音の形。
「ある」
アリシアが言う。
全員の空気が変わる。
「どこに?」
子供が尋ねる。
「喉の奥から、外へ」
「第四の声?」
「たぶん」
「三つ目?」
「糸の中に、何か音がある」
「私の?」
「分からない」
「切れる?」
「今すぐは」
アリシアは糸の先を見る。
子供の喉。
途中で枝分かれ。
一つは西側貯水槽。
一つは。
アリシア。
ミレイ。
ノア。
聞いた三者へ。
音を通してつながっている。
「私たちにも、線がある」
アリシアが言う。
「取られてる?」
子供が尋ねる。
「違う」
すぐに否定しかけ。
止める。
「そう見える」
言い直す。
「子供の音が、私たちへつながってる」
「なら、切って」
「三本?」
「うん」
「子供から切ると」
アリシアは慎重に見る。
「音そのものが、子供の中からも離れるかもしれない」
「嫌」
「うん」
「私のは、残して」
「聞いた側だけを切る?」
「うん」
「第四の声も」
「うん」
できるか。
線は一本から分かれている。
根元。
子供の喉。
その先で四つに枝分かれしている。
西側貯水槽。
アリシア。
ミレイ。
ノア。
「枝だけなら」
黒月で切れる可能性がある。
「でも、私たちの記憶へ何が起きるか分からない」
「消えてほしい」
「うん」
「ノアも?」
子供がノアを見る。
『本人が望むなら』
「ノアは、本人が望むならって」
「怖い?」
子供が尋ねる。
『少しはね』
「少し怖いって」
「でも、切る?」
『アリシアが線を見誤らなければ』
「私が失敗しなければ」
「アリシア、怖い?」
「うん」
「それでも?」
「子供が望むなら、方法を確認してから」
「今?」
「鐘が二回の前」
約束した時間。
「一回で」
子供が言う。
「急いでる?」
「嫌だから」
アリシアはミレイを見る。
ミレイはすぐには賛成しない。
「準備を一回の鐘までに整えられるか、確認します」
「できなかったら?」
「なぜできないかを伝えます」
「二回?」
「最大で」
子供は不満そうだった。
それでも。
「分かった」
うなずいた。
第一の鐘が鳴るまで。
独立観測室と隣室は、急速に動き始めた。
ただし。
子供を置き去りにして作戦を決めない。
学院長。
レオンハルト。
結界術師。
アリシア。
ミレイ。
ノア。
それぞれが、見えている線と危険を子供へ説明する。
「切る対象は三本」
アリシアが言う。
「アリシア、ミレイ、ノアへ伸びる線」
「第四の声は?」
子供が尋ねる。
「西側貯水槽への線は、別に切る」
「一緒?」
「同時だと反動が大きい」
「どっち先?」
「第四の声」
「どうして」
「そこから、また音を押される可能性があるから」
「私の音、消えない?」
「根元は残す」
「本当に?」
「分からない」
子供の顔が曇る。
「でも、光で線を見せて、結界で根元を守る」
レオンハルトが説明する。
「私の光が、子供の喉へ直接入らないようにします」
「光、怖くない」
「強いと痛いかもしれません」
「弱く?」
「はい」
「黒月は?」
「鞘から抜く」
アリシアが答える。
「怖い?」
「少し」
「止めてって言ったら?」
「止める」
「途中でも?」
「できる限り」
「できないとき?」
「止める方が危険なら、先に伝える」
「今、分かる?」
「切り始める前なら止められる。刃が線へ入ったあとは、一度振り抜いた方が安全」
「長い?」
「一息くらい」
子供は自分で呼吸をする。
一息。
吐く。
「これくらい?」
「うん」
「ミレイは?」
「記憶が一部失われる可能性があります」
ミレイが言う。
「三つ目だけ?」
「そのときの周囲の記憶も」
「眠ったこと?」
「はい」
「髪、変だったことも?」
ミレイが少し赤くなる。
「可能性はあります」
「忘れていい?」
問いに。
ミレイは少し考える。
「子供が忘れてほしい音と一緒に消えるなら、受け入れます」
「嫌じゃない?」
「少し寂しいです」
「どうして」
「アリシアさんと同じ時間に休めたこと。子供が眠れたこと。人影の光が増えたこと。どれも覚えていたいからです」
「でも、切る?」
「あなたの音を、私が持ち続けることを望んでいないから」
「それだけ?」
「私が覚えたいことだけで決めません」
子供は長くミレイを見た。
「あとで」
「はい」
「忘れてたら、教える?」
「何を?」
「髪、変だった」
ミレイが目を瞬く。
「子供が覚えていたら?」
「うん」
「教えてください」
「でも、音は教えない」
「はい」
忘れてほしいものと。
残してよいもの。
一つの記憶の中に。
両方ある。
全部が消えるかもしれない。
それでも。
あとから、本人が返したい部分だけを返せる可能性がある。
「アリシアは?」
子供が尋ねる。
「何が消えるの、嫌?」
「子供が寝たあと、起きるまで同じ部屋にいたこと」
「忘れたら」
「子供が教えてくれる?」
「うん」
「なら、少し怖いけど切る」
「ノア」
『私は、あなたが寝言を漏らしたことまで覚えておく必要はないわ』
「嫌じゃない?」
『あなたの許可なく持ち続ける方が嫌よ』
子供にはノアの声が聞こえない。
アリシアが伝える。
「ノアも、切っていいって」
「分かった」
最後に。
人影。
人影は寝台へ横たわったまま。
手を離している。
胸の四つの光が揺れている。
「この人は」
子供が言う。
「音、聞いた?」
誰も分からない。
寝言が出たとき。
人影の光は増えていた。
指先は子供へ触れていた。
聞いた可能性がある。
「線」
アリシアは黒月の鞘を人影へ向ける。
薄い。
ほとんど見えない。
だが。
子供の喉から。
人影の胸へ。
細い線が一本伸びていた。
「ある」
「この人も、持ってる?」
「そう見える」
「切る?」
子供は人影を見る。
人影は答えない。
本人の意思を聞けない。
「勝手に切れない」
アリシアが言う。
「でも、私の音」
「うん」
「持ってる」
「そう見える」
「嫌」
「聞いた」
「でも、この人、決められない」
「うん」
子供の顔が苦しそうに歪む。
「どうする」
誰もすぐには答えられない。
子供の音を守る。
人影の記憶を守る。
二つの意思が。
今は衝突している可能性がある。
「人影が」
ミレイが慎重に言う。
「音を聞いた記憶だけを、自分で外せるかもしれません」
「どうやって」
「先ほど、手を離したように」
「言葉、ない」
「動きで選べることが増えています」
「聞く?」
「何を持っているか。離したいか」
「名前、使わない?」
「使いません」
子供は人影へ向く。
「聞こえる?」
胸の光が揺れる。
「私の音」
薄い線。
「持ってる?」
人影の指が少し動く。
「返してほしい」
四つの光が強くなる。
「でも」
子供は苦しそうに続ける。
「あなたが、持っていたいか、分からない」
人影の胸。
四つの光。
その間に。
聞いた三つ目の音を示す細い光が混じっている。
「私、嫌」
「でも、あなたも、嫌かもしれない」
「分からない」
子供は両手を握る。
「どうする?」
人影の指が。
寝台の上を。
少しずつ動く。
子供の方へではない。
自分の胸へ。
指先が。
細い光の線へ触れる。
アリシアたちは息を止める。
人影の指が。
音の線を。
ゆっくり外側へ押す。
「離してる?」
子供が尋ねる。
「そう見える」
アリシアが答える。
人影の胸から。
細い線が抜ける。
切れたのではない。
引き抜くように。
子供へ戻す。
線が。
空中で小さな光の粒になる。
子供の胸へ入る。
人影の胸には。
四つの光だけが残る。
音の線は消えた。
「返した」
子供が呟く。
「うん」
「自分で?」
「そう見える」
人影の胸に。
五つ目の光が浮かんだ。
聞いてしまったものを。
持ち主が嫌だと伝えたあと。
自分で返したこと。
名前ではない。
返事でもない。
選んだ動き。
「この人」
子供の目から、また涙が落ちる。
今度は。
悲しみだけではないように見えた。
「返した」
「うん」
「私が嫌って言ったから」
「うん」
「聞いた」
「そう見える」
「名前、ないのに」
「うん」
「声、ないのに」
「うん」
「分かった?」
「分かろうとしたのかもしれない」
子供は人影へ手を伸ばしかける。
止める。
先ほど。
人影は手を離した。
「触りたい?」
アリシアが尋ねる。
「うん」
「聞く?」
子供はうなずく。
「手、触っていい?」
人影の指が。
少し動く。
子供の方へではない。
寝台の上で。
掌を上へ向ける。
「いい?」
子供が尋ねる。
「そう見える」
複数人が確認する。
「掌が開きました」
ミレイ。
「子供側へ向いています」
レオンハルト。
「第四の声の反応はありません」
結界術師。
子供は。
人影の掌へ。
自分の指を一本だけ置く。
握らない。
触れるだけ。
人影も。
握り返さない。
それでも。
掌を閉じず。
触れた指を受け入れているように見えた。
「あと」
子供がアリシアを見る。
「三本」
アリシア。
ミレイ。
ノアへ伸びる線。
そして。
西側貯水槽へ伸びる第四の声の線。
合わせれば四本。
「第四の声を先に」
アリシアが言う。
「うん」
第一の鐘が。
廊下の外から鳴った。
約束した時間。
準備は整った。
アリシアは黒月を抜く。
刀身へ。
深い闇が広がる。
子供の身体が硬くなる。
「止める?」
アリシアが尋ねる。
子供は首を横へ振る。
「怖い」
「うん」
「でも、切って」
「分かった」
「一息?」
「うん」
子供が息を吸う。
アリシアも。
レオンハルトの光が。
子供の喉から伸びる線を照らす。
西側貯水槽へ。
黒く。
太い一本。
「第四の声との線を切る」
学院長が確認する。
「子供の音の根元は守る」
結界術師が答える。
「反動は、光と土で受ける」
レオンハルト。
土の神器継承者。
「ミレイは」
アリシアが見る。
「ここにいます」
「ノア」
『いつでも』
「子供」
「いる」
受け取りたい呼び方ではない。
今いることを、自分で伝える。
「切ります」
黒月を振るう。
子供の喉と。
西側貯水槽をつなぐ黒い線。
刃が入る。
第四の声が。
遠くから叫ぶ。
「三音は、名!」
子供の身体が震える。
「まだ、名前じゃない!」
アリシアが答える。
「眠りの声も、我が記録!」
「本人が渡してない!」
黒月を振り抜く。
線が切れた。
独立観測室全体が大きく揺れる。
子供の喉から。
黒い文字が幾つも飛び出す。
き。
ひ。
し。
違う聞こえ方。
二つ目。
三つ目。
誰かが勝手に当てはめた候補。
それらが。
空中へ散る。
「見ないで!」
ミレイが叫ぶ。
全員が文字から視線を外す。
レオンハルトの光が。
文字の輪郭だけを覆う。
黒月が。
西側貯水槽への線を完全に断つ。
子供が咳き込む。
黒い息。
水滴。
そして。
小さな光の粒が口からこぼれる。
三つ目の音。
形にはならない。
子供の胸へ戻る。
「ある?」
アリシアが尋ねる。
子供は胸へ手を当てる。
「三つ」
「全部?」
「うん」
「第四の声は?」
耳を澄ます。
子供は長く黙る。
「遠い」
「消えた?」
「分からない」
「でも、前より?」
「遠い」
最初の一本。
成功した。
次。
アリシアたち三人へ伸びる線。
「今、切る?」
アリシアが尋ねる。
子供は呼吸を整える。
「一息、終わった」
「うん」
「もう一回?」
「三本を一度に切るなら、一息より少し長い」
「一つずつ?」
「その方が安全かもしれない」
「誰から?」
アリシア。
ミレイ。
ノア。
子供は順番を決めようとする。
誰を先に。
誰を後に。
「順番、決めなくていい方法は?」
子供自身が尋ねた。
アリシアは線を見る。
三本。
同じ根元から。
それぞれへ伸びている。
「円にして」
レオンハルトが言う。
「三本を一度に同じ位置で切れます」
「一つにする?」
子供が警戒する。
「統合ではありません」
レオンハルトは説明する。
「三本を同じ扱いにするためです。誰が先でも後でもなく」
「違う線なのに?」
「違う線のまま、同時に切ります」
「できる?」
「アリシアの黒月なら」
アリシアは刃の角度を変える。
根元へ近づきすぎれば。
子供の音そのものを傷つける。
遠すぎれば。
アリシアたちの記憶へ一部が残る。
「ここ」
黒月を通して見える位置。
子供の喉から離れ。
三本が分かれた直後。
「三本は別々」
アリシアが説明する。
「でも、一度の横薙ぎで全部切れる」
「私の音、残る?」
「根元は残す」
「三人の記憶は?」
「一緒に消えるかもしれない」
「ほかも?」
「うん」
子供はミレイを見る。
「髪」
「あとで教えてください」
アリシアを見る。
「寝た」
「あとで教えて」
ノア。
「ノアは?」
『私には、あとで説明されなくても構わないわ』
「ノアは大丈夫って」
「本当?」
『本人が望むなら』
「うん」
子供は目を閉じる。
「切って」
アリシアは黒月を構える。
「一息より少し長い」
「分かった」
子供が息を吸う。
アリシアも。
レオンハルトの光。
結界。
土の支え。
ミレイは椅子へ座り。
記録を持たない。
ノアは床へ立つ。
「切ります」
横薙ぎ。
黒月の刃が。
三本の線へ入る。
アリシアの頭に。
短い痛み。
独立観測室。
眠る子供。
人影の手。
三つ目の音。
それらが、一瞬だけ強く浮かぶ。
次の瞬間。
刃が振り抜かれた。
三本の線が切れる。
ミレイが椅子から少し傾く。
ノアの身体が揺れる。
アリシアの視界が白くなる。
何かが。
頭の奥から抜ける。
床へ膝をつく。
「アリシア!」
誰かに呼ばれる。
返事をしようとして。
自分がどこにいるのか。
一瞬分からなくなる。
目の前。
寝台。
子供。
顔のない人影。
ミレイ。
ノア。
「アリシア」
子供が呼ぶ。
「……いる」
返事が遅れる。
「ミレイ」
子供が呼ぶ。
ミレイは目を瞬き。
「はい」
返事をする。
「ノア」
ノアが顔を上げる。
『いるわ』
アリシアは伝えようとして。
子供が先にうなずく。
「いる」
「うん」
頭痛。
少し。
でも。
何が消えたのか。
すぐには分からない。
「音」
子供が尋ねる。
「何の?」
アリシアが返す。
子供の目が揺れる。
「三つ目」
「聞いてない」
口から。
自然に出た。
ミレイも。
少し考え。
「私は、聞いていません」
ノアは。
金色の瞳を細める。
『思い出せないわ』
「ノアも、思い出せないって」
子供の肩から。
大きく力が抜けた。
「消えた?」
「私たちからは」
「ほかは?」
アリシアは周囲を見る。
夜。
眠った。
それは覚えている。
子供が寝言を言った。
その事実も。
でも。
何を言ったか。
そこだけが。
空白になっている。
「子供が眠ってたことは覚えてる」
「うん」
「人影の光が増えたことも」
「うん」
「音だけ、ない」
ミレイが自分の髪へ触れる。
「私は」
少し戸惑う。
「なぜ髪のことを確認したのか、分かりません」
子供が。
ほんの少し笑った。
「髪、変だった」
「そうでしたか」
「寝てたから」
「アリシアさんも?」
「寝た」
「同じ時間?」
「うん」
二人の記憶へ。
子供が。
残してよい部分を返す。
「音は?」
ミレイが尋ねる。
子供は首を横へ振る。
「教えない」
「分かりました」
「今は」
「はい」
自分で。
戻す範囲を選ぶ。
音は返さない。
眠ったこと。
寝癖。
同じ部屋にいたこと。
それだけを返す。
「第四の声」
学院長が尋ねる。
「接続は?」
結界術師が測定する。
「西側貯水槽への線、消失。アリシア、ミレイ、ノアへの線も確認できません」
「人影は?」
「先に自分で返したため、接続なし」
子供の三つ目の音は。
子供の中だけへ戻った。
「返った?」
子供が尋ねる。
「そう見える」
アリシアは答えた。
「私の?」
「うん」
「誰も持ってない?」
「今、見える範囲では」
「第四の声も?」
「線は切れた」
「でも、知ってる?」
第四の声は、一度聞いた。
記録したかもしれない。
完全に忘れたとは言えない。
「分からない」
アリシアが答えると、子供の顔が曇った。
「でも」
ミレイが言う。
「第四の声が何と覚えていても、あなたがその音を名前にしなければ、それはあなたの名前にはなりません」
「でも、呼ぶ」
「呼ばれても、受け取らなくてよいです」
「全部の音?」
「はい」
「三つを、つなげて呼ばれても?」
「あなたが選んでいなければ」
「返事、しなくていい?」
「うん」
アリシアが答える。
「自分の中にある音でも?」
「うん」
「自分のなのに?」
「持っていることと、名前にすることは違うから」
子供は胸へ手を置く。
三つの音。
自分の中にはある。
でも、それをどう扱うかはまだ決めていない。
「私が」
子供が言う。
「名前にしたいって思ったら?」
「そのとき、聞かせたい人へ聞かせる」
「誰に?」
「子供が決める」
「みんなって言った」
「変えてもいい」
「一人でも?」
「うん」
「誰にも言わなくても?」
「うん」
「名前にしても?」
「自分の中だけで?」
「うん」
「それも、子供が決める」
子供は長く黙った。
そのあと。
「今は」
「うん」
「まだ、音」
「うん」
自分の胸へ。
三つの音を置く。
今度は。
誰にもつながっていない。
第四の声にも。
アリシアたちにも。
人影にも。
子供だけの中にある。
「返った」
小さく呟く。
「うん」
「全部」
「見える範囲では」
「分からないって、つける」
「うん」
子供は少し不満そうにしながらも、うなずいた。
「でも」
「何?」
「さっきより、いい」
「何が?」
「私の中だけ」
初めて。
子供は、自分だけが持つものを得た。
五百人の名前ではない。
第四の声が与えた役割でもない。
他人から集められた呼び方でもない。
自分の内側から出た三つの音。
まだ名前ではない。
けれど。
誰にも預けず。
誰にも記録させず。
今は自分だけが持っている。
「人影」
アリシアは隣の寝台を見る。
顔はない。
声もない。
胸の五つの光。
変化なし。
「音を返したあと」
子供が言う。
「光、増えた」
「うん」
「私が、嫌って言ったから?」
「そうかもしれない」
「聞いて、返した」
「うん」
「名前、なくても」
「うん」
「私の声、聞いた」
「そう見える」
子供は。
人影の掌に置いていた指を。
ゆっくり離した。
今度は。
悲しそうではあった。
でも。
追いかけなかった。
「離しても」
「いる」
アリシアが言う。
「うん」
「呼ばなくても」
「いる」
「うん」
「返事しなくても」
「いる」
「うん」
子供は自分で確かめる。
人影の胸。
五つの光。
消えない。
自分の三つの音。
胸の中。
消えない。
そのとき。
扉の外で。
第二の鐘が鳴った。
本来なら。
最初の確認を終えるための期限だった。
しかし。
線はすでに切れ。
三つ目の音は子供へ戻った。
「二回」
子供が言う。
「うん」
「終わった?」
「最初の確認は」
「早かった?」
「一回と少し」
「一回で、できなかった」
「うん」
「でも、二回より前」
「うん」
「約束?」
「守れた?」
子供は少し考える。
「分からない」
「何が?」
「一回って言った」
「子供が」
「うん」
「私たちは、最大二回って言った」
「うん」
「だから」
子供は鐘の余韻を聞く。
「間?」
「真ん中くらい?」
「うん」
「それでいい?」
「今は」
「分かった」
完全に同じ理解ではない。
でも。
双方が言ったことを。
あとから確認できる。
「次」
子供が言う。
「何をする?」
「休む?」
アリシアが尋ねる。
「また?」
「疲れてる?」
子供は自分の身体を確かめる。
「少し」
「足は?」
「柔らかい布、冷たくなくなった」
「変える?」
「水、いる?」
「布へ少し湿り気をつけると、冷たくできます」
セレナが答える。
「怖い?」
「うん」
「水を使わない冷却石もあります」
「石」
「触ると冷たいです」
「名前、ある?」
「冷却石と呼ばれています」
「私は?」
「何と呼びたいですか」
「冷たい石」
「分かりました」
「長い?」
「大丈夫です」
子供は少し笑った。
「冷たい石、見る」
セレナが用意する。
次の治療。
次の選択。
名前を取り戻したわけではない。
第四の声を倒したわけでもない。
第三の器も。
西側貯水槽の文字環も。
五百人の名前も残っている。
それでも。
この朝。
子供は。
眠っている間にこぼれた音を。
自分のところへ取り戻した。
聞いてしまった者たちは。
本人より先に名前へしなかった。
記録もしなかった。
正しい音を決めなかった。
そして。
本人が忘れてほしいと望んだとき。
危険を伝え。
一緒に方法を考え。
音だけを切り離した。
何も失わずに済んだわけではない。
アリシアとミレイの記憶には、小さな空白が残っている。
ノアも。
その音を思い出せない。
けれど。
空白があることは分かる。
本人の意思で返したことも。
音が子供の中へ戻ったことも。
忘れてはいない。
独立観測室の壁の外。
昨夜浮かんだ黒い文字は。
完全に消えていた。
――三音あれば、名となる。
その断定は。
誰にも読まれず。
誰にも受け取られず。
子供の三つの音とも切り離された。
西側貯水槽の底では。
第四の声が。
初めて。
名前にできるはずだった音を失っていた。
「三音」
黒い口が囁く。
返事はない。
「名となる」
水中に。
音は戻ってこない。
子供の喉へつながっていた線もない。
聞いた者へ伸びた線もない。
人影へ預けた音も返された。
「記録は」
第四の声が。
文字環を探る。
そこにあるのは。
捨てられた呼び方。
五百人の名前。
意味を失った音。
子供の三つ目は。
どこにも残っていない。
「記録せよ」
誰も応えない。
記録する者は。
本人が望まなかったから書かなかった。
聞いた者は。
本人が望んだから返した。
器として作った人影まで。
音を自分で手放した。
第四の声は。
初めて理解できないものへ触れていた。
覚えているのに使わない。
聞いたのに記録しない。
持っているのに返す。
空白を、空白のまま守る。
一つへまとめないために。
自分から忘れることを選ぶ。
「誤り」
第四の声が言う。
だが。
その声は。
これまでよりわずかに小さかった。
独立観測室では。
子供が冷たい石を自分の足へ当てていた。
最初は驚き。
すぐに離し。
もう一度。
今度は少し長く。
自分で触れる。
「痛い?」
セレナが尋ねる。
「少し、よくなった」
「聞きました」
「書く?」
「記録してよいですか」
子供は考える。
「足が痛かったこと?」
「はい」
「柔らかい布と、冷たい石も?」
「必要な範囲で」
「名前、私の言い方?」
「望むなら」
子供は少し迷う。
「柔らかい布。冷たい石」
「その呼び方で記録します」
「正式じゃない?」
「正式な呼び方も、別にあります」
「どっちを書く?」
「子供が使った呼び方を先に」
「正式は?」
「必要なら括弧の外へ」
「括弧?」
また新しい言葉。
子供が首を傾げる。
ミレイは記録帳を開かないまま。
言葉の意味から説明を始める。
急がず。
一つずつ。
その横。
顔のない人影の胸では。
五つの光が。
静かに揺れていた。
聞いた音を返した記憶。
それは。
人影にとって。
初めて誰かの名前を持たないと選んだ行動だった。
すべての呼び方へ返事をさせられていた存在が。
誰かの音を。
自分のものにせず。
本人へ返した。
名前を選ぶより先に。
持たないことを選んだ。
その小さな意思を。
アリシアたちは。
まだ名前にはしなかった。




