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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第108話 眠っている間にこぼれた音を、目覚めた本人より先に名前へしない



 独立観測室の中では、朝になったことが分からなかった。


 窓のない部屋には、外の空の色も、校舎を渡る風の音も届かない。壁へ埋め込まれた魔導灯は夜の間と変わらない淡い明るさを保ち、二台の寝台と、その間に横たわる黒猫の影を静かに照らしていた。


 時間の変化を知らせるものは、扉の外から聞こえる交代時刻の鐘だけだった。


 一度。


 短く。


 夜明けを告げる鐘が鳴る。


 それでも、水の外へ出た子供は目を覚まさなかった。


 寝台へ横向きになり、顔のない人影へ身体を向けたまま眠っている。水の中にいた頃よりも輪郭ははっきりしていたが、肌はまだ青白く、濡れていた髪も完全には乾いていない。


 子供の手と人影の手は、もう握り合ってはいなかった。


 互いの指先だけが触れている。


 眠る前よりも弱い接触。


 けれど、完全には離れていない。


 人影の胸では、三つの小さな光が一定の間隔で揺れていた。


 握られたこと。


 握り返したこと。


 自分から力を緩め、それでも指先を残したこと。


 呼ばれた音ではない。


 誰かに与えられた役割でもない。


 自分の動きとして残った三つの光。


 アリシアは椅子へ座ったまま、その変化を見つめていた。


 眠気は強かった。


 目の奥が重く、身体を少し動かすだけで肩と首へ鈍い痛みが走る。昨夜からほとんど休んでいないうえ、黒月を使った反動も完全には抜けていない。


 それでも、目を閉じる気にはなれなかった。


 子供が眠りの中で三つ目と思われる音をこぼした。


 その事実が、胸の内側へ残っている。


 聞かなかったことにはできない。


 けれど、覚えていてよいとも決まっていない。


 本人が起きたあと。


 どう伝えるのか。


 寝言で音が出たと言うのか。


 何と聞こえたかまで話すのか。


 聞いた者同士で照合せず、それぞれ別のまま持ち続けるのか。


 あるいは、本人が忘れてほしいと望んだ場合、思い出さないようにするのか。


 まだ何も決まっていなかった。


『眠りなさい』


 ノアが二台の寝台の間から言った。


 声は小さい。


 子供を起こさないためだ。


「起きてる」


『見れば分かるわ』


「人影の光が変わるかもしれない」


『私が見ている』


「第四の声が来るかも」


『扉の外にも見張りがいる』


「子供が起きるかも」


『ミレイもいる』


 反対側の椅子へ座るミレイが、少し気まずそうに目を伏せる。


「私も眠いです」


「じゃあ、二人とも寝たら」


「交代まで、あと少しです」


「少しって?」


「鐘がもう一度鳴るまで」


 正確には分からない。


 独立観測室の中には時計も置かれていない。


 数字や文字を介した第四の声の干渉を避けるため、時間は外からの鐘だけで管理されている。


『だから、その鐘まで目を閉じなさい』


 ノアの声が少し強くなる。


「でも」


『あなたが起きたまま倒れたら、子供が目を覚ましたとき余計な不安を与えるわ』


 アリシアは言葉を止めた。


 自分が見張る。


 自分が守る。


 そう思っていた。


 けれど、眠りから起きた子供が最初に見るものが。


 椅子から崩れ落ちたアリシアだったら。


 安心させるどころではない。


「少しだけ」


『ええ』


「何かあったら起こして」


『私を誰だと思っているの』


「毒舌な黒猫」


『そこへ神獣を付けなさい』


 ノアは尾を一度揺らした。


 アリシアは椅子の背へ身体を預ける。


 目を閉じる前。


 子供と人影の指先を見る。


 触れている。


 胸の光も三つ。


 変化なし。


「ミレイも」


「はい」


「寝て」


「アリシアさんが先に眠ったら」


「今から」


「分かりました」


 二人は同じ時間に目を閉じた。


 完全な眠りへ落ちたつもりはなかった。


 それでも。


 次にアリシアが目を開けたとき。


 どれほど時間が経ったのか分からなかった。


 最初に見えたのは、ノアの金色の目だった。


 椅子の肘掛けへ前足を置き、顔を近づけている。


『起きなさい』


「何かあった?」


『子供が目を覚ました』


 眠気が一瞬で薄れる。


 アリシアは身体を起こす。


 首と肩が痛む。


 けれど、それより先に寝台を見る。


 子供は目を開けていた。


 横向きのまま。


 人影の手を見る。


 二人の指先は。


 眠る前と同じように触れていた。


「起きた?」


 アリシアが尋ねる。


「うん」


「どこか痛い?」


 子供は少し考える。


「足」


「昨日と同じ?」


「少し違う」


「どんなふうに?」


「熱い」


 水の中では冷たかった身体が。


 水の外で体温を持ち始めているのか。


 歩いたことで、擦れや痛みが出ているのか。


「セレナを呼ぶ?」


 子供は扉を見る。


 完全には閉じられていない。


 外側の椅子へ座っていたセレナは、交代の治療教師と話しているらしく、姿は見えなかった。


「呼んで」


「うん」


 アリシアは扉の近くへ向かう。


 その途中。


 子供が呼び止めた。


「アリシア」


「何?」


「眠った?」


「少し」


「どうして」


「ノアに怒られたから」


『怒ってはいないわ』


「怒ってないって」


「でも、寝た」


「うん」


「私が寝てても?」


「うん」


 子供は少しだけ目を見開く。


「見てなくても、いた?」


「ノアが見てた」


「アリシアは?」


「同じ部屋にいた」


「眠ってた」


「うん」


「でも、いなくならなかった?」


「うん」


 子供の視線が、人影へ向く。


 自分が眠っている間。


 アリシアも眠った。


 それでも。


 目を覚ませば、同じ場所にいた。


 誰かが自分を見続けていなくても。


 存在が消えるわけではない。


「この人も」


 子供が言う。


「眠った?」


「分からない」


「目、ない」


「うん」


「でも」


 人影の胸を見る。


「光、ある」


「三つ」


「増えた?」


 アリシアは少し迷う。


 眠る前。


 子供が見た時点では、二つだった。


 三つ目は、子供が眠ったあと。


 人影が自分から手の力を緩めたときに増えた。


「増えた」


「何で?」


「手を」


 アリシアは人影の指先を見る。


「握り続けるのをやめたからかもしれない」


 子供の顔が固まる。


「離した?」


「完全には」


「私が眠ってたから?」


「分からない」


 子供は人影の手を強く握ろうとする。


「待って」


 アリシアが声をかける。


 子供の手が止まる。


「どうしたい?」


「握る」


「人影は?」


「離した?」


「少し力を緩めた」


「なら」


「また強く握る?」


 問いに。


 子供は答えられなかった。


「離れたかった?」


 人影へ尋ねる。


 返事はない。


「私が寝たから?」


 反応なし。


「嫌だった?」


 胸の光は変わらない。


「分からない」


 子供の声が苦しそうになる。


「うん」


「また、分からない」


「うん」


「私が握ったら」


「どうなる?」


「戻る?」


「何が?」


「前」


 水の中で。


 人影がすべての呼び方へ振り向いていた頃。


 輪から切り離される前。


 自分が手を握ったことで。


 何かが生まれた。


 なら。


 離れれば、その何かが失われるのではないか。


 子供はそう恐れているのかもしれない。


「光は消えてない」


 アリシアが言う。


「でも」


「手を緩めたあと、増えた」


 子供が人影の胸を見る。


「離れたから?」


「少し離れることを、自分で選んだからかもしれない」


「分からない」


「うん」


「でも」


 子供は指先だけの接触を見る。


「全部、離れてない」


「うん」


「私が起きるまで?」


「そう見える」


 子供はしばらく人影を見つめた。


 やがて。


 強く握り直す代わりに。


 自分の指先を、人影の指へ軽く触れさせる。


 眠る前と同じ距離。


「これでいい?」


 人影へ尋ねる。


 胸の三つの光が。


 ゆっくり揺れた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 新しい光は増えない。


 消えもしない。


「嫌じゃないように見える」


 子供が言う。


「私にも」


 アリシアは答える。


「でも、あとで変わるかも」


「そのとき、聞く」


「うん」


 扉の外へ。


 セレナを呼びに行こうとしたとき。


 ミレイも目を覚ました。


「交代ですか」


「子供が起きた」


 ミレイはすぐに姿勢を整える。


 髪へ寝癖がついている。


 片側だけ外へ跳ねていた。


 子供がそれを見る。


「髪」


「何ですか」


「変」


 ミレイが自分の髪へ触れる。


 跳ねた部分に気づき、少し顔を赤くした。


「眠ったためです」


「記録する人も?」


「眠ります」


「間違う?」


「間違います」


「髪も変?」


「毎朝ではありません」


 子供の口元が、わずかに緩む。


 水の中では。


 記録する者は中央に立つ役割だった。


 忘れず。


 間違えず。


 すべてを持つ者。


 目の前のミレイは。


 眠り。


 寝癖をつけ。


 記録を忘れることもある。


 それでも。


 話を聞く者としてここにいる。


「セレナを呼びます」


 ミレイが立ち上がる。


 子供がうなずく。


「足、熱い」


「聞きました」


「書く?」


「まだ書きません」


「どうして」


「治療を受ける前に、本人がどう感じているかを私が覚えます。必要になったら、あとで記録してよいか尋ねます」


「忘れたら?」


「アリシアさんも聞いています」


「うん」


 子供は少し安心したようだった。


 セレナはすぐに来た。


 ただし、独立観測室へは入らない。


 扉の外へ膝をつき。


 子供と同じ高さになる。


「おはようございます」


 子供が少し迷う。


「朝?」


「学院の外では、朝になりました」


「ここ、同じ」


「窓がありませんから」


「朝って、何?」


 セレナが一瞬止まる。


 水の底にいた子供。


 光や鐘は知っていても。


 朝という時間を、身体で知っているとは限らない。


「夜のあとに来る時間です」


「夜は?」


「空が暗くなる時間」


「水の中、ずっと暗い」


「そうですね」


「じゃあ、ずっと夜?」


「いいえ」


 セレナは言い切りかけ。


 少し考える。


「水の中でも、外では朝や昼や夜が進んでいました」


「見えないのに?」


「はい」


「分からない」


「これから、外へ出られるときに見てみますか」


「外?」


「地上です」


「水、ない?」


「空に雨が降ることはあります」


 子供の顔が強張る。


「雨」


「怖い?」


「水が、上から」


「はい」


「声、入る?」


「可能性があります」


「なら、行かない」


「今は行かなくても構いません」


 セレナは無理に朝を見せようとしなかった。


「でも、朝があることは覚えておいてください」


「見てないのに?」


「見ていなくても、外では進んでいます」


 眠っている間も。


 誰かが見ていなくても。


 朝は来る。


 人はいる。


 時間は進む。


 子供はその言葉を、すぐには理解できないようだった。


「足を見てもよいですか」


 セレナが尋ねる。


 子供は自分の足を見る。


「触る?」


「最初は見ます。それで分からなければ、触れてよいかもう一度聞きます」


「アリシア、いる?」


「いる」


「ミレイ」


「はい」


「この人」


 人影を見る。


「いるように見えます」


 アリシアが答える。


「なら」


 子供は寝台の端へ座り。


 足を前へ出した。


「見て」


「ありがとうございます」


 セレナは扉の外から確認する。


 近くでなければ見えにくい。


 それでも、最初から中へは入らない。


「足の裏へ、赤い部分があります」


 セレナが言う。


「赤い?」


「水の中では見えにくかった色です」


「痛い色?」


「痛みがある場所と同じか、聞いてもよいですか」


 子供は片方ずつ足を見る。


「こっち」


「右足?」


「分からない」


「私から見て、こちらです」


 セレナが片側を示す。


「名前、つける?」


「右と左は、身体の場所を示すための言葉です」


「私が決めた?」


「いいえ」


 子供の表情が曇る。


「嫌なら、今は使いません」


 セレナはすぐに言う。


「こちら側の足、と呼びます」


「名前、いらない?」


「必要になったとき、使うか決めましょう」


 身体の部位。


 右。


 左。


 それも呼び方の一つ。


 普通なら疑わない。


 けれど、子供にとっては。


 自分の身体へ新しい名前を次々と付けられることになる。


「赤いところは、歩いたことで皮膚が擦れた可能性があります」


 セレナは説明する。


「治す?」


「布を当てると、痛みが和らぐかもしれません」


「触る?」


「はい」


「嫌」


「分かりました」


 即座に引く。


「では、触れない方法を考えます」


「どうする」


「冷たい空気を少し当てる。足を床へつけず休む。自分で布を置く」


「自分で?」


「はい」


 セレナは清潔な柔らかい布を一枚用意する。


 名前も文字も書かれていない。


 扉の内側へ置き。


 そこから動かない。


「取ってもよいです。取らなくても構いません」


 子供は布を見る。


 アリシアを見る。


「取る?」


「子供が決める」


「アリシアは?」


「痛かったら使うかも」


「触っても、声入らない?」


「調べてある」


 結界術師が外から答える。


「水や文字の反応はありません」


「でも、分からない?」


「完全には」


 子供は慎重に。


 空いている手を伸ばす。


 布へ触れる。


 すぐに引く。


 黒い文字は出ない。


 水も浮かばない。


 もう一度。


 今度は掴む。


「柔らかい」


「足へ置けそうですか」


 セレナが尋ねる。


 子供は自分の足へ布を近づける。


 触れる直前で止まる。


「怖い」


「置かなくてもいいです」


「でも、痛い」


「少しだけ触れてみますか」


「嫌だったら?」


「離してください」


 子供は布の端を。


 赤くなった足の裏へ。


 そっと触れさせた。


 身体が少し跳ねる。


「痛い?」


「最初、少し」


「今は?」


「冷たい」


「嫌?」


「分からない」


「そのままにしますか」


 子供は考え。


 うなずいた。


 治療を受ける。


 それも。


 誰かに全部任せるのではなく。


 自分で布を置くところから始めた。


「名前」


 子供がセレナを見る。


「はい」


「布の名前」


「今、知りたいですか」


「うん」


「これは治療布と呼ばれています」


「治療布」


「ほかの呼び方もあります」


「一つじゃない?」


「はい」


「どれが正しい?」


「使う人によって違います」


 子供は布を見る。


「私は?」


「何と呼びたいですか」


「柔らかい布」


「それで構いません」


「名前、長い」


「長くてもよいです」


 子供は少しだけ笑った。


「柔らかい布」


 自分で選んだ呼び方。


 正式ではない。


 ほかの者と違う。


 それでも。


 今の子供には、その名が一番近い。


「人影にも」


 アリシアが尋ねる。


「何か必要?」


 人影は横たわったまま。


 胸の光に変化はない。


 足も。


 手も。


 痛みを示す反応は見えない。


「この人」


 子供が言う。


「ずっと、寝てる」


「起こしたい?」


「分からない」


「怖い?」


「少し」


「このまま動かなかったら?」


 子供は人影の手を見る。


「消える?」


「分からない」


「呼べば、起きる?」


 第四の器として作られていた頃。


 すべての呼び方へ反応した。


「呼ばない方がいい」


 アリシアは言う。


「どうして」


「呼ばれた音へ、勝手に返事するかもしれないから」


「でも」


「起こしたい?」


「うん」


「名前を使わずに?」


 子供は考える。


 人影の肩へ触れようとして。


 止める。


「触っていい?」


 返事はない。


「分からない」


「うん」


「どうする」


「触れないで起こす方法を考える?」


「声?」


「名前じゃない言葉」


「起きて?」


「それも命令になるかも」


 子供の眉が寄る。


「難しい」


「うん」


「でも、起きてほしい」


「どうして?」


「話したい」


「何を?」


「手」


 握りたいか。


 離したいか。


 どうして指先だけ残したのか。


「じゃあ」


 アリシアは人影を見る。


「話したいことがあるって伝える?」


「名前、いらない?」


「うん」


 子供は人影へ向き直る。


「聞こえる?」


 反応はない。


「私は」


 少し止まる。


「話したい」


 胸の三つの光が揺れる。


「手」


 人影の指先。


「どうしたいか、聞きたい」


 光が。


 一つずつ。


 少し強くなる。


 顔のない頭は動かない。


 身体も起きない。


 けれど。


 指先が。


 子供の手から離れる。


 完全に。


 子供が息を呑む。


 手を追いかけようとする。


 アリシアは止めなかった。


 代わりに尋ねる。


「追いかけたい?」


「離れた」


「うん」


「嫌?」


「子供は?」


「怖い」


「握り直したい?」


「うん」


「でも、人影は自分で離したように見える」


 子供の手が止まる。


 人影の指は。


 寝台の上へ戻る。


 胸に。


 四つ目の光が浮かんだ。


 完全に手を離したこと。


 誰かに命じられず。


 自分で選んだ動き。


「光」


 子供が言う。


「増えた」


「うん」


「離したから?」


「そう見える」


「私、嫌?」


「それは分からない」


 子供の目に水が溜まる。


 涙。


 水の中とは違い。


 頬を伝う。


「嫌だから、離した?」


「分からない」


「でも」


「子供は、離されて寂しい?」


「うん」


「悲しい?」


「うん」


「嫌だった?」


「うん」


 自分の気持ちは。


 少しずつ言える。


 相手の意思は。


 分からないまま。


「人影が離したいなら」


 アリシアは慎重に言う。


「離すことを止めない方がいいと思う」


「私が悲しくても?」


「うん」


「一緒にいたいのに?」


「うん」


「嫌」


「聞いた」


「握りたい」


「聞いた」


「でも、握らない?」


「子供が決める」


「握ったら」


「人影が嫌かもしれない」


「分からない」


「うん」


 子供は両手を胸の前で握る。


 人影の手へ伸ばさないために。


「悲しい」


「ここにいる」


 アリシアが言う。


「触っていい?」


 子供は泣きながら。


 少し考え。


 うなずいた。


 アリシアは肩へ手を置く。


 強く抱かない。


 逃げられる程度の触れ方。


「人影が離しても」


 ミレイが言う。


「水の外へ一緒に出たことは消えません」


「でも、今は」


「離れています」


「名前もない」


「はい」


「手もない」


「手はあります。ただ、つながっていません」


「一緒じゃない?」


「同じ部屋にいます」


 子供が人影を見る。


 二台の寝台。


 腕一本分の距離。


 触れてはいない。


 それでも同じ部屋にいる。


「離れても」


 子供が言う。


「いる?」


「うん」


 アリシアが答える。


「見てなくても?」


「うん」


「触ってなくても?」


「うん」


「呼ばなくても?」


「うん」


 子供は涙を拭かなかった。


 そのまま。


 人影を見つめる。


「私は、ここ」


「うん」


「この人も」


「ここにいるように見える」


 人影の胸。


 四つの光。


 消えない。


 手を離しても。


 その記憶は残っている。


「返事、しない」


 子供が呟く。


「うん」


「でも、いる」


「うん」


「名前、ない」


「まだ分からない」


「でも、いる」


「うん」


 子供は何度も確かめる。


 第四の声が教えたものと。


 違う答え。


 名前がなくても。


 返事をしなくても。


 触れていなくても。


 存在は消えない。


 人影の胸にある四つの光が。


 そのことを示しているようだった。


 しばらくして。


 子供の呼吸が落ち着いた。


 アリシアは肩から手を離す前に尋ねる。


「もう離していい?」


「うん」


 子供自身が答える。


 手を離す。


 子供は一人で座っている。


 隣の寝台には人影。


 触れていない。


 それでも。


 先ほどより少しだけ背筋が伸びていた。


「寝てる間」


 子供が言った。


 アリシアの胸が動く。


「何?」


「夢、見た」


「どんな?」


「水」


「第四の声?」


「いた」


 ミレイの表情が引き締まる。


「何を言われましたか」


「三つ」


 子供は胸へ手を置く。


「音を、つなげろって」


 アリシアはミレイと目を合わせない。


 昨夜。


 寝言でこぼれた三つ目。


 聞いてしまった。


 しかし。


 まだ本人には伝えていない。


「つなげた?」


 アリシアが尋ねる。


「少し」


「名前になった?」


「分からない」


「聞かせたい?」


 子供は黙る。


「寝てるとき」


 やがて言った。


「言った?」


 アリシアの喉が詰まる。


 嘘はつけない。


「音が一つ、聞こえた」


 子供の顔が固まる。


「何て?」


「今は言わない」


「どうして」


「子供が、名前にしないでって言ってたから」


「覚えてる?」


「うん」


「ミレイも?」


「はい」


「ノアも?」


『聞いたわ』


「聞いたって」


 子供の呼吸が少し速くなる。


「みんな、持ってる」


「三人だけ」


「名前にした?」


「してない」


「つなげた?」


「してない」


「最初と二つ目に?」


「してない」


「何と聞こえたか、話した?」


「話してない」


 子供は一つずつ確認する。


 アリシアたちは、一つずつ答える。


「忘れて」


 突然。


 子供が言った。


 アリシアの胸が痛む。


「分かった」


「本当に?」


「完全に忘れるって約束はできない」


 子供の顔が歪む。


「じゃあ」


「思い出さないようにする」


「違う」


「どうしてほしい?」


「消して」


「頭から?」


「うん」


 できない。


 黒月で。


 記憶の線を切ることは。


 できるかもしれない。


 けれど。


 それは三人の記憶へ刃を入れることになる。


「方法があるかもしれない」


 アリシアは言う。


「黒月?」


 子供は黒月を見る。


「うん」


「切る?」


「でも、すぐにはできない」


「どうして」


「何が一緒に消えるか分からないから」


「音だけ」


「音を聞いたときのこと。子供が眠ってたこと。人影の手が離れたこと。全部つながってるかもしれない」


「でも」


 子供は両手で頭を押さえる。


「私が、言いたくなかった」


「うん」


「勝手に出た」


「うん」


「それを、持ってる」


「ごめん」


 アリシアは謝った。


「聞こうとしたわけじゃない」


 言い訳になりそうで。


 続けなかった。


「でも、聞いてしまった」


 ミレイも頭を下げる。


「私もです」


「悪い?」


 子供が尋ねる。


「聞こえたこと自体は、止められませんでした」


 ミレイは答える。


「でも、そのあと誰にも伝えず、文字にもせず、名前にもしていません」


「それで、いい?」


「子供は、よくないと思っている?」


「分からない」


 怒っている。


 怖い。


 恥ずかしい。


 取られたように感じる。


 どれか。


 全部かもしれない。


「今すぐ消してほしい?」


 アリシアが尋ねる。


「うん」


「危険があっても?」


 子供は答えを止める。


「音だけじゃなく、昨日のことまで消えるかもしれない」


「昨日?」


「人影の手が離れたこと。三つ目の光が増えたこと。アリシアたちが眠ってたこと」


「それも?」


「分からない」


 子供は苦しそうに目を閉じる。


「第四の声は」


 セレナが扉の外から言う。


「三つの音がそろえば、名になると考えています」


 子供がセレナを見る。


「壁に、文字が出ました」


 隠さない。


「三音あれば、名となる、と」


「読んだ?」


「カイルたちは読みませんでした」


「どうして分かった」


「結界術師が、文字を声にせず形だけ確認しました」


「なら」


 子供は胸を押さえる。


「第四の声、知ってる」


「三つ目を?」


「はい」


「取られた」


「まだ、名前とは決まっていません」


「でも、知ってる」


「うん」


「アリシアたちも」


「うん」


「全部、取られた」


 涙が再び落ちる。


 三つの音。


 子供が。


 自分の中から。


 少しずつ見つけたもの。


 最初は違う聞こえ方。


 二つ目は文字にしたくない。


 三つ目は、まだ聞かせたくなかった。


 それなのに。


 眠っている間にこぼれ。


 第四の声にも。


 アリシアたちにも届いた。


「取られたと思う?」


 アリシアが尋ねる。


「うん」


「返してほしい?」


「うん」


「どう返せばいい?」


「分からない」


 音は。


 物ではない。


 手渡せない。


 聞いた者の中から消すしかないのか。


 あるいは。


 聞いても、それを使わないことが返すことになるのか。


「私たちが」


 ミレイが言う。


「音を持っているのではなく」


 子供が見る。


「聞いたことを、あなたへ預け直す方法を考えさせてください」


「どうやって」


「今は分かりません」


「また、待つ?」


 子供の声が強くなる。


 待つことは苦しい。


 何度も言われた。


「今すぐできることから」


 アリシアが答える。


「何」


「私たちは、音を口にしない」


「もうしてる?」


「してない」


「名前へしない」


「しない」


「つなげない」


「しない」


「誰かに教えない」


「しない」


「記録しない」


「しない」


「それだけ?」


「今は」


 子供の顔に不満が残る。


「足りない?」


「分からない」


「足りないって言っていい」


「足りない」


「聞いた」


「消してほしい」


「それも聞いた」


「でも、すぐしない」


「危険を調べる」


「私が嫌なのに?」


 胸を突かれる。


 本人が嫌だと言っている。


 それでも。


 危険だからと待たせる。


「黒月で切るか」


 アリシアは言う。


「子供も一緒に調べる?」


「私も?」


「何が消えるか。どう切れば音だけ離せるか」


「分かる?」


「黒月で線を見る」


「私の音、見える?」


「分からない」


「見えなかったら?」


「別の方法を探す」


「いつ?」


「今日」


 曖昧な先延ばしではなく。


 具体的に。


「鐘が二回鳴る前に、最初の確認をする」


「鐘?」


「今から二回」


「遅い?」


「準備に必要」


「一回は?」


「急ぎすぎると、ほかの記憶まで切るかもしれない」


 子供は悔しそうに唇を噛む。


「二回」


「うん」


「それまで」


「音を使わない」


「思い出さない?」


「できるだけ」


「でも、ある」


「うん」


「嫌」


「聞いた」


 完全には納得していない。


 それでも。


 何もしないまま待つのではない。


 一緒に調べる。


 時間を決める。


 何をしないかも決める。


「私」


 子供が言う。


「三つ目、言いたくなかった」


「うん」


「でも、夢で」


「うん」


「第四の声に、押された」


「押された?」


「口から出た」


 アリシアの背中へ冷たいものが走る。


「自分で言ったんじゃない?」


「分からない」


「夢の中で、言いたくなかった?」


「うん」


「でも、出た?」


「うん」


「第四の声が、言わせた可能性がある」


 ミレイが小さく言う。


「なら」


 アリシアは黒月へ手を置く。


「音の線だけじゃなく、第四の声が口へつないだ線が残ってるかもしれない」


 子供が喉へ手を当てる。


「まだ、ある?」


「見る?」


「今?」


「黒月を抜くけど」


「怖い」


「抜かずに、鞘のまま近づける方法もある」


「切らない?」


「見るだけ」


「触る?」


「黒月を近づける。子供には触れない」


「どこまで?」


「子供が止めてって言ったところまで」


 子供は少し考え。


 うなずいた。


「見る」


 扉の外。


 警備。


 結界。


 レオンハルト。


 学院長。


 全員へ状況が伝えられる。


 黒月を抜かない。


 鞘のまま。


 子供の喉へ向ける。


 距離は五歩。


「何か感じる?」


 アリシアが尋ねる。


「冷たい」


「近づける?」


「少し」


 一歩。


 黒月が微かに震える。


 四歩。


 子供の喉の奥。


 細い黒い糸が見えた。


 水ではない。


 文字でもない。


 音の形。


「ある」


 アリシアが言う。


 全員の空気が変わる。


「どこに?」


 子供が尋ねる。


「喉の奥から、外へ」


「第四の声?」


「たぶん」


「三つ目?」


「糸の中に、何か音がある」


「私の?」


「分からない」


「切れる?」


「今すぐは」


 アリシアは糸の先を見る。


 子供の喉。


 途中で枝分かれ。


 一つは西側貯水槽。


 一つは。


 アリシア。


 ミレイ。


 ノア。


 聞いた三者へ。


 音を通してつながっている。


「私たちにも、線がある」


 アリシアが言う。


「取られてる?」


 子供が尋ねる。


「違う」


 すぐに否定しかけ。


 止める。


「そう見える」


 言い直す。


「子供の音が、私たちへつながってる」


「なら、切って」


「三本?」


「うん」


「子供から切ると」


 アリシアは慎重に見る。


「音そのものが、子供の中からも離れるかもしれない」


「嫌」


「うん」


「私のは、残して」


「聞いた側だけを切る?」


「うん」


「第四の声も」


「うん」


 できるか。


 線は一本から分かれている。


 根元。


 子供の喉。


 その先で四つに枝分かれしている。


 西側貯水槽。


 アリシア。


 ミレイ。


 ノア。


「枝だけなら」


 黒月で切れる可能性がある。


「でも、私たちの記憶へ何が起きるか分からない」


「消えてほしい」


「うん」


「ノアも?」


 子供がノアを見る。


『本人が望むなら』


「ノアは、本人が望むならって」


「怖い?」


 子供が尋ねる。


『少しはね』


「少し怖いって」


「でも、切る?」


『アリシアが線を見誤らなければ』


「私が失敗しなければ」


「アリシア、怖い?」


「うん」


「それでも?」


「子供が望むなら、方法を確認してから」


「今?」


「鐘が二回の前」


 約束した時間。


「一回で」


 子供が言う。


「急いでる?」


「嫌だから」


 アリシアはミレイを見る。


 ミレイはすぐには賛成しない。


「準備を一回の鐘までに整えられるか、確認します」


「できなかったら?」


「なぜできないかを伝えます」


「二回?」


「最大で」


 子供は不満そうだった。


 それでも。


「分かった」


 うなずいた。


 第一の鐘が鳴るまで。


 独立観測室と隣室は、急速に動き始めた。


 ただし。


 子供を置き去りにして作戦を決めない。


 学院長。


 レオンハルト。


 結界術師。


 アリシア。


 ミレイ。


 ノア。


 それぞれが、見えている線と危険を子供へ説明する。


「切る対象は三本」


 アリシアが言う。


「アリシア、ミレイ、ノアへ伸びる線」


「第四の声は?」


 子供が尋ねる。


「西側貯水槽への線は、別に切る」


「一緒?」


「同時だと反動が大きい」


「どっち先?」


「第四の声」


「どうして」


「そこから、また音を押される可能性があるから」


「私の音、消えない?」


「根元は残す」


「本当に?」


「分からない」


 子供の顔が曇る。


「でも、光で線を見せて、結界で根元を守る」


 レオンハルトが説明する。


「私の光が、子供の喉へ直接入らないようにします」


「光、怖くない」


「強いと痛いかもしれません」


「弱く?」


「はい」


「黒月は?」


「鞘から抜く」


 アリシアが答える。


「怖い?」


「少し」


「止めてって言ったら?」


「止める」


「途中でも?」


「できる限り」


「できないとき?」


「止める方が危険なら、先に伝える」


「今、分かる?」


「切り始める前なら止められる。刃が線へ入ったあとは、一度振り抜いた方が安全」


「長い?」


「一息くらい」


 子供は自分で呼吸をする。


 一息。


 吐く。


「これくらい?」


「うん」


「ミレイは?」


「記憶が一部失われる可能性があります」


 ミレイが言う。


「三つ目だけ?」


「そのときの周囲の記憶も」


「眠ったこと?」


「はい」


「髪、変だったことも?」


 ミレイが少し赤くなる。


「可能性はあります」


「忘れていい?」


 問いに。


 ミレイは少し考える。


「子供が忘れてほしい音と一緒に消えるなら、受け入れます」


「嫌じゃない?」


「少し寂しいです」


「どうして」


「アリシアさんと同じ時間に休めたこと。子供が眠れたこと。人影の光が増えたこと。どれも覚えていたいからです」


「でも、切る?」


「あなたの音を、私が持ち続けることを望んでいないから」


「それだけ?」


「私が覚えたいことだけで決めません」


 子供は長くミレイを見た。


「あとで」


「はい」


「忘れてたら、教える?」


「何を?」


「髪、変だった」


 ミレイが目を瞬く。


「子供が覚えていたら?」


「うん」


「教えてください」


「でも、音は教えない」


「はい」


 忘れてほしいものと。


 残してよいもの。


 一つの記憶の中に。


 両方ある。


 全部が消えるかもしれない。


 それでも。


 あとから、本人が返したい部分だけを返せる可能性がある。


「アリシアは?」


 子供が尋ねる。


「何が消えるの、嫌?」


「子供が寝たあと、起きるまで同じ部屋にいたこと」


「忘れたら」


「子供が教えてくれる?」


「うん」


「なら、少し怖いけど切る」


「ノア」


『私は、あなたが寝言を漏らしたことまで覚えておく必要はないわ』


「嫌じゃない?」


『あなたの許可なく持ち続ける方が嫌よ』


 子供にはノアの声が聞こえない。


 アリシアが伝える。


「ノアも、切っていいって」


「分かった」


 最後に。


 人影。


 人影は寝台へ横たわったまま。


 手を離している。


 胸の四つの光が揺れている。


「この人は」


 子供が言う。


「音、聞いた?」


 誰も分からない。


 寝言が出たとき。


 人影の光は増えていた。


 指先は子供へ触れていた。


 聞いた可能性がある。


「線」


 アリシアは黒月の鞘を人影へ向ける。


 薄い。


 ほとんど見えない。


 だが。


 子供の喉から。


 人影の胸へ。


 細い線が一本伸びていた。


「ある」


「この人も、持ってる?」


「そう見える」


「切る?」


 子供は人影を見る。


 人影は答えない。


 本人の意思を聞けない。


「勝手に切れない」


 アリシアが言う。


「でも、私の音」


「うん」


「持ってる」


「そう見える」


「嫌」


「聞いた」


「でも、この人、決められない」


「うん」


 子供の顔が苦しそうに歪む。


「どうする」


 誰もすぐには答えられない。


 子供の音を守る。


 人影の記憶を守る。


 二つの意思が。


 今は衝突している可能性がある。


「人影が」


 ミレイが慎重に言う。


「音を聞いた記憶だけを、自分で外せるかもしれません」


「どうやって」


「先ほど、手を離したように」


「言葉、ない」


「動きで選べることが増えています」


「聞く?」


「何を持っているか。離したいか」


「名前、使わない?」


「使いません」


 子供は人影へ向く。


「聞こえる?」


 胸の光が揺れる。


「私の音」


 薄い線。


「持ってる?」


 人影の指が少し動く。


「返してほしい」


 四つの光が強くなる。


「でも」


 子供は苦しそうに続ける。


「あなたが、持っていたいか、分からない」


 人影の胸。


 四つの光。


 その間に。


 聞いた三つ目の音を示す細い光が混じっている。


「私、嫌」


「でも、あなたも、嫌かもしれない」


「分からない」


 子供は両手を握る。


「どうする?」


 人影の指が。


 寝台の上を。


 少しずつ動く。


 子供の方へではない。


 自分の胸へ。


 指先が。


 細い光の線へ触れる。


 アリシアたちは息を止める。


 人影の指が。


 音の線を。


 ゆっくり外側へ押す。


「離してる?」


 子供が尋ねる。


「そう見える」


 アリシアが答える。


 人影の胸から。


 細い線が抜ける。


 切れたのではない。


 引き抜くように。


 子供へ戻す。


 線が。


 空中で小さな光の粒になる。


 子供の胸へ入る。


 人影の胸には。


 四つの光だけが残る。


 音の線は消えた。


「返した」


 子供が呟く。


「うん」


「自分で?」


「そう見える」


 人影の胸に。


 五つ目の光が浮かんだ。


 聞いてしまったものを。


 持ち主が嫌だと伝えたあと。


 自分で返したこと。


 名前ではない。


 返事でもない。


 選んだ動き。


「この人」


 子供の目から、また涙が落ちる。


 今度は。


 悲しみだけではないように見えた。


「返した」


「うん」


「私が嫌って言ったから」


「うん」


「聞いた」


「そう見える」


「名前、ないのに」


「うん」


「声、ないのに」


「うん」


「分かった?」


「分かろうとしたのかもしれない」


 子供は人影へ手を伸ばしかける。


 止める。


 先ほど。


 人影は手を離した。


「触りたい?」


 アリシアが尋ねる。


「うん」


「聞く?」


 子供はうなずく。


「手、触っていい?」


 人影の指が。


 少し動く。


 子供の方へではない。


 寝台の上で。


 掌を上へ向ける。


「いい?」


 子供が尋ねる。


「そう見える」


 複数人が確認する。


「掌が開きました」


 ミレイ。


「子供側へ向いています」


 レオンハルト。


「第四の声の反応はありません」


 結界術師。


 子供は。


 人影の掌へ。


 自分の指を一本だけ置く。


 握らない。


 触れるだけ。


 人影も。


 握り返さない。


 それでも。


 掌を閉じず。


 触れた指を受け入れているように見えた。


「あと」


 子供がアリシアを見る。


「三本」


 アリシア。


 ミレイ。


 ノアへ伸びる線。


 そして。


 西側貯水槽へ伸びる第四の声の線。


 合わせれば四本。


「第四の声を先に」


 アリシアが言う。


「うん」


 第一の鐘が。


 廊下の外から鳴った。


 約束した時間。


 準備は整った。


 アリシアは黒月を抜く。


 刀身へ。


 深い闇が広がる。


 子供の身体が硬くなる。


「止める?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は首を横へ振る。


「怖い」


「うん」


「でも、切って」


「分かった」


「一息?」


「うん」


 子供が息を吸う。


 アリシアも。


 レオンハルトの光が。


 子供の喉から伸びる線を照らす。


 西側貯水槽へ。


 黒く。


 太い一本。


「第四の声との線を切る」


 学院長が確認する。


「子供の音の根元は守る」


 結界術師が答える。


「反動は、光と土で受ける」


 レオンハルト。


 土の神器継承者。


「ミレイは」


 アリシアが見る。


「ここにいます」


「ノア」


『いつでも』


「子供」


「いる」


 受け取りたい呼び方ではない。


 今いることを、自分で伝える。


「切ります」


 黒月を振るう。


 子供の喉と。


 西側貯水槽をつなぐ黒い線。


 刃が入る。


 第四の声が。


 遠くから叫ぶ。


「三音は、名!」


 子供の身体が震える。


「まだ、名前じゃない!」


 アリシアが答える。


「眠りの声も、我が記録!」


「本人が渡してない!」


 黒月を振り抜く。


 線が切れた。


 独立観測室全体が大きく揺れる。


 子供の喉から。


 黒い文字が幾つも飛び出す。


 き。


 ひ。


 し。


 違う聞こえ方。


 二つ目。


 三つ目。


 誰かが勝手に当てはめた候補。


 それらが。


 空中へ散る。


「見ないで!」


 ミレイが叫ぶ。


 全員が文字から視線を外す。


 レオンハルトの光が。


 文字の輪郭だけを覆う。


 黒月が。


 西側貯水槽への線を完全に断つ。


 子供が咳き込む。


 黒い息。


 水滴。


 そして。


 小さな光の粒が口からこぼれる。


 三つ目の音。


 形にはならない。


 子供の胸へ戻る。


「ある?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は胸へ手を当てる。


「三つ」


「全部?」


「うん」


「第四の声は?」


 耳を澄ます。


 子供は長く黙る。


「遠い」


「消えた?」


「分からない」


「でも、前より?」


「遠い」


 最初の一本。


 成功した。


 次。


 アリシアたち三人へ伸びる線。


「今、切る?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は呼吸を整える。


「一息、終わった」


「うん」


「もう一回?」


「三本を一度に切るなら、一息より少し長い」


「一つずつ?」


「その方が安全かもしれない」


「誰から?」


 アリシア。


 ミレイ。


 ノア。


 子供は順番を決めようとする。


 誰を先に。


 誰を後に。


「順番、決めなくていい方法は?」


 子供自身が尋ねた。


 アリシアは線を見る。


 三本。


 同じ根元から。


 それぞれへ伸びている。


「円にして」


 レオンハルトが言う。


「三本を一度に同じ位置で切れます」


「一つにする?」


 子供が警戒する。


「統合ではありません」


 レオンハルトは説明する。


「三本を同じ扱いにするためです。誰が先でも後でもなく」


「違う線なのに?」


「違う線のまま、同時に切ります」


「できる?」


「アリシアの黒月なら」


 アリシアは刃の角度を変える。


 根元へ近づきすぎれば。


 子供の音そのものを傷つける。


 遠すぎれば。


 アリシアたちの記憶へ一部が残る。


「ここ」


 黒月を通して見える位置。


 子供の喉から離れ。


 三本が分かれた直後。


「三本は別々」


 アリシアが説明する。


「でも、一度の横薙ぎで全部切れる」


「私の音、残る?」


「根元は残す」


「三人の記憶は?」


「一緒に消えるかもしれない」


「ほかも?」


「うん」


 子供はミレイを見る。


「髪」


「あとで教えてください」


 アリシアを見る。


「寝た」


「あとで教えて」


 ノア。


「ノアは?」


『私には、あとで説明されなくても構わないわ』


「ノアは大丈夫って」


「本当?」


『本人が望むなら』


「うん」


 子供は目を閉じる。


「切って」


 アリシアは黒月を構える。


「一息より少し長い」


「分かった」


 子供が息を吸う。


 アリシアも。


 レオンハルトの光。


 結界。


 土の支え。


 ミレイは椅子へ座り。


 記録を持たない。


 ノアは床へ立つ。


「切ります」


 横薙ぎ。


 黒月の刃が。


 三本の線へ入る。


 アリシアの頭に。


 短い痛み。


 独立観測室。


 眠る子供。


 人影の手。


 三つ目の音。


 それらが、一瞬だけ強く浮かぶ。


 次の瞬間。


 刃が振り抜かれた。


 三本の線が切れる。


 ミレイが椅子から少し傾く。


 ノアの身体が揺れる。


 アリシアの視界が白くなる。


 何かが。


 頭の奥から抜ける。


 床へ膝をつく。


「アリシア!」


 誰かに呼ばれる。


 返事をしようとして。


 自分がどこにいるのか。


 一瞬分からなくなる。


 目の前。


 寝台。


 子供。


 顔のない人影。


 ミレイ。


 ノア。


「アリシア」


 子供が呼ぶ。


「……いる」


 返事が遅れる。


「ミレイ」


 子供が呼ぶ。


 ミレイは目を瞬き。


「はい」


 返事をする。


「ノア」


 ノアが顔を上げる。


『いるわ』


 アリシアは伝えようとして。


 子供が先にうなずく。


「いる」


「うん」


 頭痛。


 少し。


 でも。


 何が消えたのか。


 すぐには分からない。


「音」


 子供が尋ねる。


「何の?」


 アリシアが返す。


 子供の目が揺れる。


「三つ目」


「聞いてない」


 口から。


 自然に出た。


 ミレイも。


 少し考え。


「私は、聞いていません」


 ノアは。


 金色の瞳を細める。


『思い出せないわ』


「ノアも、思い出せないって」


 子供の肩から。


 大きく力が抜けた。


「消えた?」


「私たちからは」


「ほかは?」


 アリシアは周囲を見る。


 夜。


 眠った。


 それは覚えている。


 子供が寝言を言った。


 その事実も。


 でも。


 何を言ったか。


 そこだけが。


 空白になっている。


「子供が眠ってたことは覚えてる」


「うん」


「人影の光が増えたことも」


「うん」


「音だけ、ない」


 ミレイが自分の髪へ触れる。


「私は」


 少し戸惑う。


「なぜ髪のことを確認したのか、分かりません」


 子供が。


 ほんの少し笑った。


「髪、変だった」


「そうでしたか」


「寝てたから」


「アリシアさんも?」


「寝た」


「同じ時間?」


「うん」


 二人の記憶へ。


 子供が。


 残してよい部分を返す。


「音は?」


 ミレイが尋ねる。


 子供は首を横へ振る。


「教えない」


「分かりました」


「今は」


「はい」


 自分で。


 戻す範囲を選ぶ。


 音は返さない。


 眠ったこと。


 寝癖。


 同じ部屋にいたこと。


 それだけを返す。


「第四の声」


 学院長が尋ねる。


「接続は?」


 結界術師が測定する。


「西側貯水槽への線、消失。アリシア、ミレイ、ノアへの線も確認できません」


「人影は?」


「先に自分で返したため、接続なし」


 子供の三つ目の音は。


 子供の中だけへ戻った。


「返った?」


 子供が尋ねる。


「そう見える」


 アリシアは答えた。


「私の?」


「うん」


「誰も持ってない?」


「今、見える範囲では」


「第四の声も?」


「線は切れた」


「でも、知ってる?」


 第四の声は、一度聞いた。


 記録したかもしれない。


 完全に忘れたとは言えない。


「分からない」


 アリシアが答えると、子供の顔が曇った。


「でも」


 ミレイが言う。


「第四の声が何と覚えていても、あなたがその音を名前にしなければ、それはあなたの名前にはなりません」


「でも、呼ぶ」


「呼ばれても、受け取らなくてよいです」


「全部の音?」


「はい」


「三つを、つなげて呼ばれても?」


「あなたが選んでいなければ」


「返事、しなくていい?」


「うん」


 アリシアが答える。


「自分の中にある音でも?」


「うん」


「自分のなのに?」


「持っていることと、名前にすることは違うから」


 子供は胸へ手を置く。


 三つの音。


 自分の中にはある。


 でも、それをどう扱うかはまだ決めていない。


「私が」


 子供が言う。


「名前にしたいって思ったら?」


「そのとき、聞かせたい人へ聞かせる」


「誰に?」


「子供が決める」


「みんなって言った」


「変えてもいい」


「一人でも?」


「うん」


「誰にも言わなくても?」


「うん」


「名前にしても?」


「自分の中だけで?」


「うん」


「それも、子供が決める」


 子供は長く黙った。


 そのあと。


「今は」


「うん」


「まだ、音」


「うん」


 自分の胸へ。


 三つの音を置く。


 今度は。


 誰にもつながっていない。


 第四の声にも。


 アリシアたちにも。


 人影にも。


 子供だけの中にある。


「返った」


 小さく呟く。


「うん」


「全部」


「見える範囲では」


「分からないって、つける」


「うん」


 子供は少し不満そうにしながらも、うなずいた。


「でも」


「何?」


「さっきより、いい」


「何が?」


「私の中だけ」


 初めて。


 子供は、自分だけが持つものを得た。


 五百人の名前ではない。


 第四の声が与えた役割でもない。


 他人から集められた呼び方でもない。


 自分の内側から出た三つの音。


 まだ名前ではない。


 けれど。


 誰にも預けず。


 誰にも記録させず。


 今は自分だけが持っている。


「人影」


 アリシアは隣の寝台を見る。


 顔はない。


 声もない。


 胸の五つの光。


 変化なし。


「音を返したあと」


 子供が言う。


「光、増えた」


「うん」


「私が、嫌って言ったから?」


「そうかもしれない」


「聞いて、返した」


「うん」


「名前、なくても」


「うん」


「私の声、聞いた」


「そう見える」


 子供は。


 人影の掌に置いていた指を。


 ゆっくり離した。


 今度は。


 悲しそうではあった。


 でも。


 追いかけなかった。


「離しても」


「いる」


 アリシアが言う。


「うん」


「呼ばなくても」


「いる」


「うん」


「返事しなくても」


「いる」


「うん」


 子供は自分で確かめる。


 人影の胸。


 五つの光。


 消えない。


 自分の三つの音。


 胸の中。


 消えない。


 そのとき。


 扉の外で。


 第二の鐘が鳴った。


 本来なら。


 最初の確認を終えるための期限だった。


 しかし。


 線はすでに切れ。


 三つ目の音は子供へ戻った。


「二回」


 子供が言う。


「うん」


「終わった?」


「最初の確認は」


「早かった?」


「一回と少し」


「一回で、できなかった」


「うん」


「でも、二回より前」


「うん」


「約束?」


「守れた?」


 子供は少し考える。


「分からない」


「何が?」


「一回って言った」


「子供が」


「うん」


「私たちは、最大二回って言った」


「うん」


「だから」


 子供は鐘の余韻を聞く。


「間?」


「真ん中くらい?」


「うん」


「それでいい?」


「今は」


「分かった」


 完全に同じ理解ではない。


 でも。


 双方が言ったことを。


 あとから確認できる。


「次」


 子供が言う。


「何をする?」


「休む?」


 アリシアが尋ねる。


「また?」


「疲れてる?」


 子供は自分の身体を確かめる。


「少し」


「足は?」


「柔らかい布、冷たくなくなった」


「変える?」


「水、いる?」


「布へ少し湿り気をつけると、冷たくできます」


 セレナが答える。


「怖い?」


「うん」


「水を使わない冷却石もあります」


「石」


「触ると冷たいです」


「名前、ある?」


「冷却石と呼ばれています」


「私は?」


「何と呼びたいですか」


「冷たい石」


「分かりました」


「長い?」


「大丈夫です」


 子供は少し笑った。


「冷たい石、見る」


 セレナが用意する。


 次の治療。


 次の選択。


 名前を取り戻したわけではない。


 第四の声を倒したわけでもない。


 第三の器も。


 西側貯水槽の文字環も。


 五百人の名前も残っている。


 それでも。


 この朝。


 子供は。


 眠っている間にこぼれた音を。


 自分のところへ取り戻した。


 聞いてしまった者たちは。


 本人より先に名前へしなかった。


 記録もしなかった。


 正しい音を決めなかった。


 そして。


 本人が忘れてほしいと望んだとき。


 危険を伝え。


 一緒に方法を考え。


 音だけを切り離した。


 何も失わずに済んだわけではない。


 アリシアとミレイの記憶には、小さな空白が残っている。


 ノアも。


 その音を思い出せない。


 けれど。


 空白があることは分かる。


 本人の意思で返したことも。


 音が子供の中へ戻ったことも。


 忘れてはいない。


 独立観測室の壁の外。


 昨夜浮かんだ黒い文字は。


 完全に消えていた。


 ――三音あれば、名となる。


 その断定は。


 誰にも読まれず。


 誰にも受け取られず。


 子供の三つの音とも切り離された。


 西側貯水槽の底では。


 第四の声が。


 初めて。


 名前にできるはずだった音を失っていた。


「三音」


 黒い口が囁く。


 返事はない。


「名となる」


 水中に。


 音は戻ってこない。


 子供の喉へつながっていた線もない。


 聞いた者へ伸びた線もない。


 人影へ預けた音も返された。


「記録は」


 第四の声が。


 文字環を探る。


 そこにあるのは。


 捨てられた呼び方。


 五百人の名前。


 意味を失った音。


 子供の三つ目は。


 どこにも残っていない。


「記録せよ」


 誰も応えない。


 記録する者は。


 本人が望まなかったから書かなかった。


 聞いた者は。


 本人が望んだから返した。


 器として作った人影まで。


 音を自分で手放した。


 第四の声は。


 初めて理解できないものへ触れていた。


 覚えているのに使わない。


 聞いたのに記録しない。


 持っているのに返す。


 空白を、空白のまま守る。


 一つへまとめないために。


 自分から忘れることを選ぶ。


「誤り」


 第四の声が言う。


 だが。


 その声は。


 これまでよりわずかに小さかった。


 独立観測室では。


 子供が冷たい石を自分の足へ当てていた。


 最初は驚き。


 すぐに離し。


 もう一度。


 今度は少し長く。


 自分で触れる。


「痛い?」


 セレナが尋ねる。


「少し、よくなった」


「聞きました」


「書く?」


「記録してよいですか」


 子供は考える。


「足が痛かったこと?」


「はい」


「柔らかい布と、冷たい石も?」


「必要な範囲で」


「名前、私の言い方?」


「望むなら」


 子供は少し迷う。


「柔らかい布。冷たい石」


「その呼び方で記録します」


「正式じゃない?」


「正式な呼び方も、別にあります」


「どっちを書く?」


「子供が使った呼び方を先に」


「正式は?」


「必要なら括弧の外へ」


「括弧?」


 また新しい言葉。


 子供が首を傾げる。


 ミレイは記録帳を開かないまま。


 言葉の意味から説明を始める。


 急がず。


 一つずつ。


 その横。


 顔のない人影の胸では。


 五つの光が。


 静かに揺れていた。


 聞いた音を返した記憶。


 それは。


 人影にとって。


 初めて誰かの名前を持たないと選んだ行動だった。


 すべての呼び方へ返事をさせられていた存在が。


 誰かの音を。


 自分のものにせず。


 本人へ返した。


 名前を選ぶより先に。


 持たないことを選んだ。


 その小さな意思を。


 アリシアたちは。


 まだ名前にはしなかった。

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