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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第109話 返した音を持たないままでも、そこにいた時間は消えない



 独立観測室へ朝食が運ばれたのは、二度目の鐘が鳴ってから半刻ほど経った頃だった。


 運び込まれたのは、湯気の立つ粥と、細かく崩した白パン、柔らかく煮た根菜、それから香りの薄い温かい飲み物だった。どれも文字や印の付いていない白い器へ分けられ、毒物や魔力の混入がないか、治療教師と結界術師が別々に確認している。


 ただし、水の外へ出た子供の分だけは、まだ室内へ入れられていなかった。


 子供が水や食べ物へどのような反応を示すのか分からない。


 そもそも、人間と同じように食事が必要なのか。


 器から切り離された存在なのか。


 九年前から水中で生き続けていた人間なのか。


 水や記憶によって作られた影なのか。


 身体の輪郭がはっきりしてきた今も、何一つ断定できなかった。


 子供は寝台の上へ座り、セレナから渡された冷たい石を足の裏へ当てていた。最初は手で持ったまま恐る恐る近づけていたが、何度か触れるうちに冷たさへ慣れたらしい。今は柔らかい布の上から石を置き、痛みがどのように変わるかを自分で確かめている。


「まだ熱い?」


 アリシアが尋ねる。


「さっきより、少しだけ」


「痛い方?」


「分からない」


「冷たいのは分かる?」


「うん」


「嫌?」


「今は、嫌じゃない」


 答えは短い。


 けれど、子供は最初に足が熱いと言ったときより、自分の感覚を細かく分けられるようになっていた。


 痛い。


 熱い。


 冷たい。


 嫌。


 怖い。


 分からない。


 一つの言葉で全部を説明せず、そのとき近いものを選ぶ。


「記録していい?」


 ミレイが尋ねる。


 膝の上には、まだ閉じたままの記録帳がある。


「何を?」


「冷たい石を、今は嫌ではないと感じていることです」


「あとで、嫌になるかも」


「その場合は、変わったことを残します」


「前の記録、間違いになる?」


「その時点では、間違いではありません」


「今は嫌じゃない。でも、あとで嫌」


「はい」


「両方、書く?」


「子供が望めば」


 子供は少し考える。


「今は、書いていい」


「分かりました」


 ミレイは記録帳を開く前に、もう一度確認する。


「呼び方は、『冷たい石』でよいですか」


「うん」


「正式な名称は記さない?」


「まだ、いらない」


「分かりました」


 記録帳へ、短い文章が書かれる。


 足へ当てた冷たい石を、現在は嫌ではないと本人が話した。


 痛みが消えたとは書かない。


 治療が成功したとも。


 安全だとも書かない。


 今、本人がそう感じている。


 それだけを残す。


 子供は、ミレイの筆先を見つめていた。


「書いた?」


「はい」


「見せて」


 ミレイの手が止まる。


 子供は文字を読めるのか。


 見せれば、第四の声が文字を通して侵入する可能性はないか。


 そもそも、本人について書かれた記録を、本人へ見せない方がよい理由はあるのか。


「見たいですか」


「うん」


「読める?」


「分からない」


「近くへ持っていってよいですか」


 子供は記録帳を見る。


 黒い文字。


 白い紙。


 水の中で浮かんでいた五百人の名前とは違う。


 第四の声が壁へ書いた文字とも違う。


 それでも、文字そのものへ不安があるようだった。


「少し遠く」


「分かりました」


 ミレイは寝台から三歩ほど離れた位置へ腰を下ろし、帳面を子供の方へ向けた。


「ここに、今の言葉を書きました」


「どれ?」


 ミレイは指で文字をなぞらない。


 特定の音と文字を結びつければ、子供がまだ選んでいない呼び方を固定する可能性があるからだ。


「この一行全体です」


「一つじゃない?」


「いくつかの言葉を使っています」


「冷たい石は?」


「書いてあります」


「嫌じゃないも?」


「はい」


 子供は目を細める。


「分からない」


「読めない?」


「形が、多い」


「今は、読まなくてよいです」


「でも、私のこと」


「はい」


「私が読めないのに、ほかの人は読む?」


 問いに。


 ミレイはすぐ答えられなかった。


 記録する者が書く。


 教師が読む。


 学院長が判断する。


 本人は知らない。


 これまで、学院では珍しくないことだった。


 神器継承者の体調記録。


 訓練評価。


 治療記録。


 危険度。


 本人へすべて開示されるとは限らない。


「読めないから、見せない方がいい?」


 子供が尋ねる。


「いいえ」


 ミレイは答えた。


「読めなくても、あなたについて何を書いたかは伝えるべきです」


「全部?」


「あなたが望む範囲で」


「私が、分からないときは?」


「分かるまで説明します」


「難しい言葉は?」


「言い換えます」


「違ったら?」


「直します」


「消す?」


「以前の記録が誤りだった場合は、消さずに訂正を残します」


 子供の眉が寄る。


「間違ったの、残す?」


「はい」


「どうして」


「間違えたことまで消すと、最初から正しかったように見えるからです」


「正しい方だけでいい」


「そうした方が読みやすいです」


「なら」


「でも、誰が、いつ、どう間違えたかが分からなくなります」


 子供は黙る。


 第四の声は、間違いを嫌った。


 異なる記録を誤りと呼び、一つの正しい形へ揃えようとした。


 けれど人間側は。


 間違ったことも。


 聞き違えたことも。


 あとで変わったことも。


 なかったことにしない。


「私の音」


 子供が言った。


「最初、違って聞こえた」


「はい」


「き。ひ。し」


 アリシアの胸が小さく動く。


 子供自身が、候補として出た音を口にした。


 それでも。


 今、それを正しい一音へ決めたわけではない。


「違うの、残した?」


 子供が尋ねる。


「別々に残しました」


「どれが正しい?」


「まだ分かりません」


「私は知ってる?」


 子供は胸へ手を置く。


「中にある。でも、音にすると」


 言葉が止まる。


「変わる?」


 アリシアが尋ねる。


「うん」


「なら、記録が違うのも」


「私が、違うから?」


「子供が間違ってるんじゃなくて」


 アリシアは慎重に言う。


「聞く人と、出る場所の間で変わってるのかもしれない」


「それ、記録した?」


 ミレイが答える。


「可能性としては残しています」


「決めてない?」


「はい」


 子供は少し考えたあと、記録帳を指す。


「今のも、あとで違うかも」


「はい」


「残す?」


「残します」


「私が消してって言ったら?」


「理由を聞きます」


「消さない?」


「すぐには」


 子供の表情が曇る。


 眠っている間にこぼれた三つ目の音。


 子供は消してほしいと言った。


 アリシアたちは、黒月で記憶との線を切った。


 今度は記録。


 紙へ残されたもの。


「消したいことも、残す?」


「何を消したいと望んだかまでは、本人が許せば」


「許さなかったら?」


「消したいと望んだ人がいたことだけを残す方法もあります」


「私だって分からない?」


「はい」


「それでも、残る?」


「誰かが、記録を消してほしいと望んだことは」


 本人の名を残さず。


 内容を残さず。


 ただ、消したいという意思があったことだけ。


「それ、私の?」


「本人が分からない形なら、あなたのものとは言えないかもしれません」


「なら、違う」


「そうかもしれません」


 ミレイは否定しない。


「全部、難しい」


「はい」


「ミレイ、疲れる?」


 思いがけない問いだった。


 ミレイは少し驚き。


 そのあと、正直にうなずいた。


「疲れます」


「嫌?」


「記録することは嫌ではありません」


「でも、疲れる」


「はい」


「やめたい?」


「時々」


 子供の目が少し大きくなる。


「記録する人なのに?」


「記録することだけが、私ではありません」


「前に言った」


「覚えていたのですか」


「うん」


 ミレイは記録係と呼ばれること自体より。


 それだけになることが怖い。


 子供は覚えていた。


「今、やめたい?」


「少し休みたいです」


「なら、書かない?」


 ミレイは開いた帳面を見る。


 まだ書ける。


 記録すべきこともある。


 子供が文字を見たいと言った。


 間違いを残す意味について話した。


 それを記録したい気持ちもある。


「休みます」


 ミレイは帳面を閉じた。


「本当に?」


「はい」


「私が言ったから?」


「私も休みたいと思っていたからです」


「じゃあ、同じ?」


「少し」


 子供は満足そうにうなずいた。


「次、誰が書く?」


「今は、誰も書きません」


「忘れる」


「忘れるかもしれません」


「いい?」


「大事なことを全部、今すぐ残す必要はありません」


「本当?」


「忘れたら、あとで子供へ聞きます」


「私も忘れたら?」


「二人で忘れたと確認します」


 残せない。


 思い出せない。


 それでも。


 話していた時間が、なかったことになるわけではない。


 ミレイは帳面を膝から下ろし、椅子の横へ置いた。


 その動きを見ていた子供も。


 自分の足から冷たい石を外す。


「休む?」


 アリシアが尋ねる。


「石も」


「石を休ませる?」


「うん」


「石は疲れてる?」


「分からない」


「じゃあ、子供の足を休ませるため?」


「冷たいの、少し多くなった」


「嫌になった?」


「今は、少し嫌」


 先ほどの記録。


 今は嫌ではない。


 すでに変わった。


「ミレイ」


 子供が呼ぶ。


「はい」


「書く?」


 ミレイは閉じた帳面を見る。


「休んだあとに、覚えていたら」


「忘れたら?」


「聞き直します」


「今は、少し嫌」


「聞きました」


「アリシアも?」


「聞いた」


「セレナ」


 扉の外へ声をかける。


「聞こえています」


「冷たい石、今は少し嫌」


「分かりました」


 三人が聞いた。


 紙へ書かなくても。


 今はそれでよい。


 治療用の冷たい石は寝台脇の布へ置かれた。


 足の裏には、少し赤みが残っている。


 だが、朝より腫れは減っていた。


「お腹」


 子供が呟く。


「どうした?」


 アリシアが尋ねる。


「変」


「痛い?」


「違う」


「熱い?」


「違う」


「気持ち悪い?」


「分からない」


 セレナの表情が引き締まる。


「空腹の可能性があります」


「空腹?」


「食べ物を必要としているときの感覚です」


「食べ物」


 子供は扉の外へ置かれた白い器を見る。


 湯気はもう弱くなっている。


「水?」


「水分も含まれています」


 子供の顔が硬くなる。


「声、入る」


「結界で調べました」


「入らない?」


「今、確認できる範囲では」


「でも、分からない」


「はい」


 セレナは嘘をつかない。


「食べないと?」


「今すぐ危険かは分かりません。ただ、身体が食べ物を求めている可能性があります」


「食べたら?」


「お腹の変な感覚が弱くなるかもしれません」


「強くなるかも?」


「あります」


「怖い」


「うん」


 アリシアが答える。


「食べたい?」


「分からない」


「匂いは?」


 子供は鼻から息を吸う。


 温かな粥。


 白パン。


 根菜。


 ほとんど香辛料を使っていない。


「少し」


「嫌?」


「分からない」


「近くで見る?」


 子供は迷い。


「アリシア、持つ?」


「うん」


「中に、入れない?」


「器を?」


「うん」


「扉のところまで?」


「うん」


 アリシアはセレナと治療教師へ確認し、白い器を一つだけ持つ。


 中には、薄い粥が少量。


 文字も印もない匙が添えられている。


 独立観測室の入口。


 子供から四歩離れた位置へ置く。


「ここでいい?」


「もう少し、遠い」


 一歩下げる。


「ここ?」


「うん」


 子供は粥を見る。


 湯気。


 白い表面。


 水面のようにも見える。


「動いた」


 粥の表面が、小さく揺れた。


 アリシアが黒月へ手を伸ばす。


「待って」


 子供が言う。


「何?」


「声じゃない」


「分かる?」


「湯気」


 器から立ち上る熱。


 表面が冷えることで、わずかに動いている。


「水、動く」


「うん」


「でも、声じゃない?」


「今は、黒月も反応してない」


 ノアも器の匂いを嗅ぐ。


『魔力の異常はないわ』


「ノアも、変じゃないって」


「ノア、食べる?」


『猫扱いしないで』


「食べないって」


「嫌?」


『今は必要ないだけよ』


「今は、食べなくていいって」


 子供は粥を見る。


「私も?」


「うん」


「でも、お腹、変」


「一口だけ試す?」


「一口」


「子供が自分で?」


 子供は手元を見る。


 冷たい石。


 柔らかい布。


 どちらも自分で触れた。


 食べ物も。


 自分で選んで。


 自分で口へ運べる。


「匙」


 セレナが説明する。


「食べ物を口へ運ぶための道具です」


「名前」


「匙と呼ばれています」


「私は?」


「何と呼びたいですか」


 子供は細い道具を見る。


「分からない」


「今は、道具でも構いません」


「食べる道具」


「はい」


「長い」


「問題ありません」


 子供は寝台から降りようとする。


 足の痛み。


 床への恐怖。


 アリシアが手を伸ばしかけ。


 止める。


「支える?」


 子供が尋ねる。


「触っていいなら」


「手」


「どっち?」


 子供は右と左をまだ使いたくない。


「こっち」


 アリシアに近い側の手を差し出す。


 人影の手は、今は握っていない。


「この人」


 子供が顔のない人影を見る。


「離れてる」


「うん」


「私が動いても、いる?」


「胸の光はある」


「五つ」


「うん」


「待っててって、言う?」


 アリシアは人影を見る。


「言いたい?」


「うん」


「命令じゃなく?」


 子供は少し考える。


「私、食べる道具を見に行く」


 人影へ言う。


「ここに、いてほしい」


 返事はない。


 胸の光が揺れる。


 子供はそれを見て。


「聞いたように見える」


「私にも」


 アリシアが答える。


「戻る」


 子供が付け加える。


 離れても。


 戻ると伝える。


 寝台から降りる。


 アリシアの手へつかまり。


 一歩。


 足裏が痛む。


「痛い?」


「少し」


「戻る?」


「行く」


 一歩ずつ。


 粥の器へ。


 四歩の距離。


 昨日まで水の中へいた子供には。


 それだけでも長かった。


 器の前へ座る。


 アリシアも隣へ。


 ミレイは記録帳を持たないまま見守る。


 セレナは扉の外。


「食べる道具」


 子供が匙を見る。


「持つ?」


「うん」


「熱いかもしれないので、先に柄へ触れてください」


 セレナが言う。


 子供は匙の端へ指先で触れる。


「冷たい」


「持てますか」


 掴む。


 少し不器用。


 水の中では。


 道具を持ったことがあるのか。


 記憶がないだけなのか。


「重い?」


「軽い」


「粥を少しすくいます」


「すくう?」


「道具を入れて、持ち上げることです」


 子供は匙を粥へ入れる。


 白い表面が割れる。


 身体が固まる。


 水面へ何かを入れる。


 第四の声が現れた記憶。


「止める?」


 アリシアが尋ねる。


「少し」


 匙を止める。


 黒い文字は出ない。


 声もない。


「入った」


「うん」


「何もない」


「うん」


「持ち上げる」


 自分で言う。


 匙へ粥が少し乗る。


 持ち上げる途中。


 半分が器へ落ちる。


 小さな音。


「失敗?」


 子供が尋ねる。


「少し残ってる」


「全部じゃない」


「一口には多いかもしれないから、それでいい」


「失敗じゃない?」


「初めてなら、分からない」


「初めて?」


「覚えてない?」


 子供は匙を見る。


「知ってる気もする」


「前に使った?」


「分からない」


 水へ沈む前。


 七歳ほどの子供として生きていたなら。


 食事をした記憶が身体に残っているのかもしれない。


「口へ運ぶ」


 セレナが言う。


「熱さを確かめてから」


「どうやって」


「唇へ少し近づけて、熱すぎないか感じます」


 子供は匙を口元へ近づける。


 湯気はほとんどない。


「熱くない」


「では、口へ入れても構いません」


「嫌になったら?」


「出してください」


「汚い?」


「いいえ」


 子供は慎重に口を開く。


 少量の粥。


 唇。


 舌。


 喉。


 飲み込むまで。


 長い時間がかかった。


 全員が見ている。


 そのことへ気づいたアリシアは、少し視線を外す。


「見ない?」


 子供が尋ねる。


「食べるところ、見られるの嫌かもしれないと思って」


「分からない」


「見ててほしい?」


「少し」


「じゃあ、見る」


 飲み込む。


 子供の喉が動く。


 身体が固まる。


「どう?」


 セレナが尋ねる。


 子供は答えない。


 自分の中の変化を探っている。


「温かい」


「痛い?」


「違う」


「嫌?」


「分からない」


「お腹の変な感じは?」


「まだ」


「もう一口試しますか」


 子供は粥を見る。


「声、来ない」


「今は」


「もう一口」


 今度は。


 最初より少し上手にすくう。


 口へ運ぶ。


 飲み込む。


「味」


 子供が言う。


「何か感じる?」


「薄い」


「嫌?」


「少し、物足りない?」


 カイルの声が扉の外から飛んだ。


 全員が振り返る。


 彼は立入許可の線より外へ立っている。


「何ですか、その言い方は」


 セレナが眉を寄せる。


「薄いなら、塩が少ないんだろ」


「初めて口にするものへ、強い味を付けられません」


「分かってる。ただ、薄いって感じるなら味覚はある」


 セレナは少し考え。


 子供を見る。


「塩味を感じますか」


「塩?」


「しょっぱい味です」


「分からない」


「粥の中には、ごく少量入っています」


「増やす?」


 カイルが尋ねる。


「今は増やしません」


 セレナが即答する。


「子供へ聞けよ」


 正しい。


 セレナは一瞬黙り。


 すぐに言い直した。


「味を少し変えたいですか」


「変えたら、戻せる?」


「同じ器へ入れた場合、完全には戻せません」


「別?」


「別の一口へ、ごく少しだけ加えることはできます」


「試す」


「体調を確認してから」


「今は?」


「もう少し待ちます」


 カイルが外から言う。


「待ってる間に冷めるぞ」


「あなたは静かにしてください」


「味の話だから入れると思っただけだ」


「入れません」


 子供がカイルを見る。


「カイル、食べたい?」


「朝飯はまだだ」


「お腹、変?」


「かなり」


「同じ?」


「多分」


「カイルも、食べる?」


「外でな」


「どうして」


「中へ入るなって言われてるから」


「私が」


 子供は少し迷う。


「今は、入らないでって言った」


「そうだ」


「怒ってない?」


「少し寂しいけど、怒ってない」


「お腹、変でも?」


「それはお前のせいじゃない」


 子供は粥を見る。


「分ける?」


「子供の分だ」


「多い」


「残したら俺が食べる」


「衛生上、別の食事を用意します」


 セレナが遮る。


「別に少しくらい」


「初めて食べた者の残りを、外周警備中の神器継承者へ渡すことはできません」


「俺は丈夫だ」


「そういう問題ではありません」


 子供の口元が少し緩む。


「カイル、怒られる」


「いつもだ」


「いつもではありません」


「毎日だろ」


「必要なときだけです」


「それを毎日って言うんだ」


 子供が小さな声を出す。


 笑い。


 水中で見せたものより。


 少し長い。


 その声に。


 顔のない人影の胸の光が揺れた。


 五つ。


 同じように。


「聞こえた?」


 子供が振り返る。


 人影は動かない。


 それでも。


 胸の光が、子供の笑い声に合わせて揺れている。


「呼んでない」


 子供が言う。


「うん」


「でも、動いた」


「うん」


「返事?」


 アリシアは少し考える。


「返事じゃないかもしれない」


「何?」


「笑った声を聞いた?」


「私の?」


「うん」


「名前じゃない」


「うん」


「でも、反応した」


「そう見える」


 人影は。


 すべての呼び方へ振り向くために作られた。


 けれど今。


 誰の名でもない笑い声へ。


 胸の光を揺らした。


「この人」


 子供が立ち上がろうとする。


「待って」


 アリシアが声をかける。


「足」


 痛みがある。


 子供は足元を見る。


「戻りたい」


「人影のところへ?」


「うん」


「食事は?」


「少し、あと」


「粥は置いておく?」


「声、入らない?」


「結界を続ける」


「なら、置く」


 アリシアの手を借りて。


 寝台へ戻る。


 人影の手は。


 寝台の上へ置かれたまま。


 掌は上を向いていない。


 子供を拒んでいるようにも。


 待っているようにも見えない。


「笑った」


 子供が人影へ話しかける。


「聞いた?」


 胸の光が揺れる。


「カイル、怒られてた」


「怒られてないぞ」


 外から声が飛ぶ。


「静かに」


 セレナが言う。


「また、怒られた」


 子供が少し笑う。


 人影の胸の光。


 今度は。


 一つずつではなく。


 五つが同時に明るくなった。


 そして。


 六つ目の光が。


 新たに浮かぶ。


 誰かに呼ばれたわけではない。


 手を握ったわけでも。


 離したわけでも。


 音を返したわけでもない。


 子供が笑った。


 それを聞き。


 人影の中に何かが残った。


「増えた」


 ミレイが言う。


 休むと決めた記録帳へは手を伸ばさない。


 ただ。


 見たことを口にする。


「六つ」


 子供が数える。


「私の笑ったの?」


「そうかもしれない」


 アリシアが答える。


「名前じゃないのに」


「うん」


「呼び方じゃないのに」


「うん」


「持った?」


「そう見える」


 人影の中へ。


 誰かの名前ではなく。


 誰かといた時間が残る。


 呼ばれた音を持たなくても。


 返した三つ目の音を覚えていなくても。


 一緒に水の外へ出たこと。


 手を握ったこと。


 離したこと。


 笑い声を聞いたこと。


 それらは消えていない。


「この人」


 子供が言う。


「私の音、持ってない」


「うん」


「返した」


「うん」


「でも、私、分かる?」


 難しい問い。


 人影に顔はない。


 声もない。


 名前もない。


「笑ったとき、光が増えた」


 アリシアは言う。


「子供のことを全部分かってるとは言えない」


「うん」


「でも、今の声を聞いたことは残ったように見える」


「それ、私?」


「子供の笑い声」


「名前じゃない」


「うん」


「でも、私?」


「子供が出した声だから」


 名前は。


 その人を示す唯一のものではない。


 笑い方。


 迷い方。


 何を怖がるか。


 何を嫌うか。


 何を食べて。


 どんな味を薄いと感じたか。


 誰に近くにいてほしいか。


 それらも。


 その人を作る。


「第四の声」


 子供が呟く。


「何?」


「名前がないと、消えるって」


「うん」


「この人、名前ない」


「うん」


「でも、光、六つ」


「うん」


「消えてない」


「今は」


「私も?」


「うん」


「名前、まだない」


「うん」


「でも、粥、薄いと思った」


「うん」


「冷たい石、少し嫌になった」


「うん」


「カイル、怒られて笑った」


「怒られてない」


「静かにしてください」


 セレナが再び止める。


 子供がまた少し笑う。


「全部、私?」


「うん」


 アリシアは迷わず答えた。


「名前じゃなくても?」


「うん」


「記録なくても?」


 ミレイが閉じた帳面を見る。


「今は、私たちが聞いています」


「忘れても?」


「忘れるかもしれません」


「なら、消える?」


「違う」


 アリシアは言った。


「誰かが忘れても、子供が感じたことまで、なかったことにはならない」


「でも、誰も覚えてない」


「子供も忘れたら?」


「うん」


 すぐには答えられない。


 すべての者が忘れた出来事。


 記録もない。


 本人も覚えていない。


 それでも、あったと言えるのか。


「私は」


 ミレイがゆっくり言う。


「記録する者なので、残らないことが怖いです」


 子供が見る。


「でも」


 ミレイは続ける。


「記録がない出来事が、存在しなかったとは思いません」


「どうして」


「私が知らない時間にも、人は生きているからです」


「見てないのに?」


「はい」


「書いてないのに?」


「はい」


「分からない」


「私も、完全には分かりません」


 子供は寝台へ座ったまま。


 自分の手を見る。


 粥をすくった手。


 冷たい石を持った手。


 人影とつながり。


 離れた手。


「今」


 子供が言う。


「私が、手を動かした」


「うん」


「誰も書かない」


「うん」


「でも、動いた」


「うん」


「これ?」


「たぶん」


 記録されなくても。


 呼ばれなくても。


 動いたことは起きた。


 本人が覚えている間だけでなく。


 忘れたあとも。


 身体や関係へ。


 何かが残ることはある。


「人影」


 アリシアは呼びかけようとし。


 止める。


 人影という呼び方も。


 便宜上のもの。


 本人が選んでいない。


「話したい」


 名前を使わず。


 存在へ向けて言う。


 胸の六つの光が揺れる。


「子供の音を返したあとも」


 アリシアは続ける。


「一緒にいた時間は残っていますか」


 返事はない。


 身体も動かない。


 それでも。


 六つ目の光が。


 他の五つと並び。


 消えずに揺れている。


「そう見える」


 子供が答えた。


「うん」


 アリシアもうなずく。


 朝食の粥は。


 そのあと、子供が自分で三口だけ食べた。


 四口目は。


 匙を持ったところで止めた。


「もう、いらない?」


 セレナが尋ねる。


「お腹の変、少し減った」


「食べすぎると気持ち悪くなる可能性があります」


「やめる」


「分かりました」


「残す?」


「あとで食べたいですか」


「分からない」


「では、一定時間だけ保管します。それを過ぎたら安全のため処分します」


「捨てる?」


「はい」


 子供の表情が曇る。


「食べ物、消える」


「そうですね」


「名前と同じ?」


「違います」


 セレナは考えながら答える。


「食べ物は、時間が経つと身体へ悪いものへ変わる可能性があります」


「悪いもの?」


「食べるとお腹が痛くなることがあります」


「なら、捨てる」


「はい」


「でも、食べなかったこと、残す?」


「必要ですか」


「分からない」


「残さなくてもよい?」


「うん」


 すべてを記録しない。


 食べ残し。


 何口食べたか。


 治療上必要な範囲は、セレナが覚える。


 だが、子供の生活のすべてを記録へ変えない。


 食べたこと。


 笑ったこと。


 冷たい石を嫌になったこと。


 その一つ一つを、観測対象として囲まない。


「この部屋」


 子供が周囲を見る。


「ずっと?」


「何が?」


「私たち、ここにいる?」


 学院長が扉の外から答える。


「安全が確認できるまでは」


「いつまで?」


「決まっていない」


「出られない?」


「出る方法を一緒に決める」


「私が出たいって言ったら?」


「行き先と危険を確認する」


「だめって言う?」


「危険が高い場合は、止めることがあります」


「私が決めるのに?」


「君だけが危険になるとは限らない」


 第四の声。


 第三の器。


 西側貯水槽。


 子供が外へ出れば。


 学院全体へ影響が広がる可能性がある。


「閉じ込める?」


 子供の声が少し冷える。


 水の中。


 器。


 名前。


 再び、どこかへ閉じ込められるのではないか。


「そう感じる可能性がある」


 学院長は否定しなかった。


「でも、こちらは安全のためって言う」


「言うだろう」


「同じ?」


「同じにならないよう、君へ理由を伝え、期限を決め、見直す」


「期限、決まってない」


「今、決める」


 学院長は副学院長を見る。


「次の見直しは、鐘が六回鳴ったあと」


「今日?」


「今日だ」


「そのとき、出たいって言う?」


「言ってよい」


「だめって言われても?」


「理由を聞ける」


「私が、違うって言える?」


「言える」


「それでも、だめ?」


「あり得る」


 子供は不満そうに眉を寄せる。


「嫌」


「聞いた」


「今、出たい」


 全員の空気が変わる。


「どこへ?」


 アリシアが尋ねる。


「外」


「地上?」


「朝」


 朝を見ていない。


 窓のない部屋。


 夜のあとに来る時間。


 見ていなくても進むもの。


「雨、怖い」


 子供は続ける。


「でも、朝、見たい」


 セレナが窓のない通路の先を考える。


 地上へ出る。


 空。


 陽光。


 風。


 水気。


 学院の生徒。


 第四の声。


 危険は多い。


「今すぐは」


 学院長が言いかける。


 子供の顔が硬くなる。


「だめ?」


「完全な地上へ出す準備はできていない」


「閉じ込める」


「代わりに」


 学院長は続ける。


「外の光を見られる場所へ移動できるか検討する」


「窓?」


「厚い観測硝子越しなら」


「朝?」


「まだ朝だ」


「本当?」


「地上から確認する」


 子供はアリシアを見る。


「一緒?」


「行けるなら」


「人影も」


 顔のない存在。


 動けない。


 結界布。


「運べるか確認する」


 子供はすぐにうなずかなかった。


「また、別の部屋?」


「短い時間だけ」


「戻る?」


「戻る予定」


「私が戻りたくないって言ったら?」


「そのとき話し合う」


「話しても、戻る?」


「危険があれば」


「嫌」


「うん」


「でも、朝、見たい」


「うん」


 望みと。


 条件。


 危険。


 全部が重なる。


「鐘が三回鳴るまでに」


 学院長が言う。


「朝の光を見られる部屋へ移動できるか確認する」


「三回」


「準備できなければ、理由を伝える」


「六回の見直しは?」


「変えない」


「二つ?」


「朝を見るための移動と、この部屋から出る扱いは別だ」


「分ける?」


「はい」


 ミレイが答える。


「一つの外出で、全部を決めません」


 子供は考える。


「人影も?」


「本人の状態を見て」


「本人、決められない」


「見える反応を複数人で確認します」


「行きたいか、分からない」


「だから、連れていかない可能性もあります」


「私だけ?」


 不安が浮かぶ。


 人影を置いて。


 朝を見る。


「一人で行きたい?」


「分からない」


「人影と離れる練習をする?」


 アリシアが尋ねる。


「朝を見るために?」


「うん」


「戻っても、いる?」


「胸の光を観測する人を残す」


「誰?」


「子供が決める?」


 子供は人影を見る。


 声のない存在。


 誰にいてほしいか。


 代わりに選べない。


「この人が、決められない」


「うん」


「なら、どうする」


「誰か一人だけじゃなく、複数人を残す」


 ミレイが提案する。


「見え方を一つにしないために」


「ミレイ、残る?」


「子供は、私に残ってほしい?」


「一緒に、朝も見たい」


「両方は難しいですね」


「分けられない?」


「私自身は一人なので」


 子供が少し不満そうになる。


 役割を分けられても。


 人は分けられない。


「アリシアは?」


「朝、行くなら一緒にいたい」


「人影は?」


「ノアに残ってもらう?」


『私が?』


「嫌?」


 ノアは人影を見る。


 胸の六つの光。


『嫌ではないわ』


「ノア、残ってもいいって」


「声、聞こえない」


「ノアが変化を見たら、通路の人に伝える」


「どうやって」


『扉を引っ掻くわ』


「扉を引っ掻くって」


「それ、分かる?」


「警備隊へ、先に伝える」


 子供はノアを見る。


「ノア、残る?」


『ええ』


「残るって」


「嫌じゃない?」


『朝なら、また見られる』


「朝はまた見られるから、って」


 子供は少し驚く。


「今日じゃなくても?」


『朝は一度きりではないわ』


「一度じゃない?」


「毎日来る」


 アリシアが答える。


「同じ?」


「同じじゃない」


「朝なのに?」


「空の色も。雲も。風も違う」


「正しい朝、一つじゃない?」


「うん」


 子供の目が、少し明るくなる。


「なら」


 人影を見る。


「今日は、私が見る」


「うん」


「この人は、次?」


「次に見たいように見えたら」


「分からないけど」


「うん」


「ノア、いて」


『任せなさい』


「いるって」


 子供は決めた。


 人影と離れる。


 朝を見るために。


 ただし、ノアが残る。


 胸の光を複数人で観測する。


 自分は戻る予定。


 完全な外出ではない。


 鐘が六回鳴ったあと。


 この部屋での扱いを見直す。


 一つずつ。


 決める。


「朝」


 子供が胸へ手を置く。


 三つの音。


 まだ誰にも聞かせない。


「朝に、名前いる?」


「いらない」


 アリシアが答える。


「空、私を呼ばない?」


「たぶん」


「たぶん?」


「風の音や鳥の声はする」


「名前?」


「違う」


「でも、私へ聞こえる」


「うん」


「返事、しなくていい?」


「うん」


 名前を持たないまま。


 朝を見る。


 誰にも呼ばれず。


 返事を求められず。


 ただ。


 空の色を見る。


 風を感じる。


 それが。


 水の外での最初の外出になる。


 準備が始まった。


 移動先は、中央棟北側の隔離観測廊。


 厚い防護硝子の向こうに、学院の中庭と空が見える場所。普段は危険な魔導具へ自然光を当てる試験に使われているが、現在は閉鎖されている。


 水場はない。


 文字も撤去できる。


 生徒の通行を止められる。


 第四の声の侵入を防ぐ結界も、短時間なら重ねられる。


「朝を見るだけです」


 学院長が関係者へ何度も確認する。


「質問を集めるな。名前を尋ねるな。観測対象として囲むな」


 興味を持つ教師。


 治療師。


 警備隊員。


 誰もが、初めて水の外へ出た子供の反応を知りたがる。


 だが。


 見られるために外へ出すのではない。


 本人が朝を見たいと言ったから。


 その希望を。


 危険を抑えた形で実現する。


 観測廊へ移動する人数は絞られた。


 アリシア。


 ミレイ。


 レオンハルト。


 セレナ。


 治療教師。


 警備隊員二名。


 カイルは外周。


 ノアは人影と残る。


「セレナ、入れる?」


 子供が尋ねる。


「観測廊は水の神器から距離があるため、短時間なら」


「近く?」


「子供が望む距離で」


「隣」


「分かりました」


 セレナの顔へ。


 小さな安堵が浮かぶ。


「カイルは?」


「外」


 カイルが答える。


「また?」


「火の神器が自然光と反応する可能性がある」


「入りたい?」


 子供が尋ねる。


「入りたい」


「寂しい?」


「かなり」


「でも、外?」


「そうだ」


「朝、見たことある?」


「毎日じゃないけどな」


「同じじゃない?」


「毎回違う」


 先ほどの話を聞いていた。


「次、一緒?」


「入っていいって言われたら」


「私が?」


「お前が」


 子供の眉が動く。


「お前、やめてって言った」


 カイルの顔が固まる。


「あ」


「忘れた?」


「悪い」


「怒る?」


「俺が悪い」


「次、どうする」


「呼ばない。見る」


 カイルは子供を見る。


「次に一緒に朝を見てもいいか」


「聞いた」


「返事は?」


「まだ、分からない」


「分かった」


 失敗する。


 謝る。


 言い直す。


 カイルは、呼ばないと決めた子供へ。


 また以前の癖で「お前」と言った。


 それでも。


 その間違いをなかったことにはしない。


 子供も。


 怒らず受け入れる必要はない。


「少し、嫌だった」


「聞いた」


「でも、前より早くやめた」


「次は言う前に止める」


「できる?」


「努力する」


「分からない?」


「できるって約束はしない」


 子供は少しだけ笑った。


「カイル、間違う」


「悪かったな」


「それ、少し面白い」


「笑うところじゃない」


「静かに」


 セレナが言う。


「また、怒られた」


 子供が笑う。


 独立観測室の寝台。


 顔のない人影の胸で。


 六つの光が。


 ノアの前で。


 同時に淡く揺れた。


 子供の笑い声は。


 もう部屋の外。


 通路の向こう。


 人影へ届かないはずだった。


 それでも。


 六つの光は。


 子供が笑った時刻と同じ頃に揺れた。


『聞こえているの?』


 ノアが人影へ尋ねる。


 返事はない。


 扉は閉じられている。


 結界も張られている。


 声の線は確認できない。


 それなのに。


 人影は。


 子供の笑い声がしたときだけ。


 光を揺らした。


『名前でも、音でもない』


 ノアは金色の目を細める。


『一緒にいた時間が、まだつながっているのかしら』


 誰かの名前を持たなくても。


 返した音を覚えていなくても。


 手を離し。


 別の部屋にいても。


 二つの存在の間には。


 まだ何かが残っている。


 それは第四の声が作った線とは違う。


 黒月で見ても。


 光で照らしても。


 記録へ書いても。


 まだ形にならない。


 同じ時間を過ごしたこと。


 互いに離れることを選んだこと。


 それでも、もう一度会いたいかもしれないと思うこと。


 名前よりも。


 呼び方よりも先に生まれたつながり。


 人影の胸へ浮かぶ六つの光は。


 静かに。


 子供が戻るのを待っていた。

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