第109話 返した音を持たないままでも、そこにいた時間は消えない
独立観測室へ朝食が運ばれたのは、二度目の鐘が鳴ってから半刻ほど経った頃だった。
運び込まれたのは、湯気の立つ粥と、細かく崩した白パン、柔らかく煮た根菜、それから香りの薄い温かい飲み物だった。どれも文字や印の付いていない白い器へ分けられ、毒物や魔力の混入がないか、治療教師と結界術師が別々に確認している。
ただし、水の外へ出た子供の分だけは、まだ室内へ入れられていなかった。
子供が水や食べ物へどのような反応を示すのか分からない。
そもそも、人間と同じように食事が必要なのか。
器から切り離された存在なのか。
九年前から水中で生き続けていた人間なのか。
水や記憶によって作られた影なのか。
身体の輪郭がはっきりしてきた今も、何一つ断定できなかった。
子供は寝台の上へ座り、セレナから渡された冷たい石を足の裏へ当てていた。最初は手で持ったまま恐る恐る近づけていたが、何度か触れるうちに冷たさへ慣れたらしい。今は柔らかい布の上から石を置き、痛みがどのように変わるかを自分で確かめている。
「まだ熱い?」
アリシアが尋ねる。
「さっきより、少しだけ」
「痛い方?」
「分からない」
「冷たいのは分かる?」
「うん」
「嫌?」
「今は、嫌じゃない」
答えは短い。
けれど、子供は最初に足が熱いと言ったときより、自分の感覚を細かく分けられるようになっていた。
痛い。
熱い。
冷たい。
嫌。
怖い。
分からない。
一つの言葉で全部を説明せず、そのとき近いものを選ぶ。
「記録していい?」
ミレイが尋ねる。
膝の上には、まだ閉じたままの記録帳がある。
「何を?」
「冷たい石を、今は嫌ではないと感じていることです」
「あとで、嫌になるかも」
「その場合は、変わったことを残します」
「前の記録、間違いになる?」
「その時点では、間違いではありません」
「今は嫌じゃない。でも、あとで嫌」
「はい」
「両方、書く?」
「子供が望めば」
子供は少し考える。
「今は、書いていい」
「分かりました」
ミレイは記録帳を開く前に、もう一度確認する。
「呼び方は、『冷たい石』でよいですか」
「うん」
「正式な名称は記さない?」
「まだ、いらない」
「分かりました」
記録帳へ、短い文章が書かれる。
足へ当てた冷たい石を、現在は嫌ではないと本人が話した。
痛みが消えたとは書かない。
治療が成功したとも。
安全だとも書かない。
今、本人がそう感じている。
それだけを残す。
子供は、ミレイの筆先を見つめていた。
「書いた?」
「はい」
「見せて」
ミレイの手が止まる。
子供は文字を読めるのか。
見せれば、第四の声が文字を通して侵入する可能性はないか。
そもそも、本人について書かれた記録を、本人へ見せない方がよい理由はあるのか。
「見たいですか」
「うん」
「読める?」
「分からない」
「近くへ持っていってよいですか」
子供は記録帳を見る。
黒い文字。
白い紙。
水の中で浮かんでいた五百人の名前とは違う。
第四の声が壁へ書いた文字とも違う。
それでも、文字そのものへ不安があるようだった。
「少し遠く」
「分かりました」
ミレイは寝台から三歩ほど離れた位置へ腰を下ろし、帳面を子供の方へ向けた。
「ここに、今の言葉を書きました」
「どれ?」
ミレイは指で文字をなぞらない。
特定の音と文字を結びつければ、子供がまだ選んでいない呼び方を固定する可能性があるからだ。
「この一行全体です」
「一つじゃない?」
「いくつかの言葉を使っています」
「冷たい石は?」
「書いてあります」
「嫌じゃないも?」
「はい」
子供は目を細める。
「分からない」
「読めない?」
「形が、多い」
「今は、読まなくてよいです」
「でも、私のこと」
「はい」
「私が読めないのに、ほかの人は読む?」
問いに。
ミレイはすぐ答えられなかった。
記録する者が書く。
教師が読む。
学院長が判断する。
本人は知らない。
これまで、学院では珍しくないことだった。
神器継承者の体調記録。
訓練評価。
治療記録。
危険度。
本人へすべて開示されるとは限らない。
「読めないから、見せない方がいい?」
子供が尋ねる。
「いいえ」
ミレイは答えた。
「読めなくても、あなたについて何を書いたかは伝えるべきです」
「全部?」
「あなたが望む範囲で」
「私が、分からないときは?」
「分かるまで説明します」
「難しい言葉は?」
「言い換えます」
「違ったら?」
「直します」
「消す?」
「以前の記録が誤りだった場合は、消さずに訂正を残します」
子供の眉が寄る。
「間違ったの、残す?」
「はい」
「どうして」
「間違えたことまで消すと、最初から正しかったように見えるからです」
「正しい方だけでいい」
「そうした方が読みやすいです」
「なら」
「でも、誰が、いつ、どう間違えたかが分からなくなります」
子供は黙る。
第四の声は、間違いを嫌った。
異なる記録を誤りと呼び、一つの正しい形へ揃えようとした。
けれど人間側は。
間違ったことも。
聞き違えたことも。
あとで変わったことも。
なかったことにしない。
「私の音」
子供が言った。
「最初、違って聞こえた」
「はい」
「き。ひ。し」
アリシアの胸が小さく動く。
子供自身が、候補として出た音を口にした。
それでも。
今、それを正しい一音へ決めたわけではない。
「違うの、残した?」
子供が尋ねる。
「別々に残しました」
「どれが正しい?」
「まだ分かりません」
「私は知ってる?」
子供は胸へ手を置く。
「中にある。でも、音にすると」
言葉が止まる。
「変わる?」
アリシアが尋ねる。
「うん」
「なら、記録が違うのも」
「私が、違うから?」
「子供が間違ってるんじゃなくて」
アリシアは慎重に言う。
「聞く人と、出る場所の間で変わってるのかもしれない」
「それ、記録した?」
ミレイが答える。
「可能性としては残しています」
「決めてない?」
「はい」
子供は少し考えたあと、記録帳を指す。
「今のも、あとで違うかも」
「はい」
「残す?」
「残します」
「私が消してって言ったら?」
「理由を聞きます」
「消さない?」
「すぐには」
子供の表情が曇る。
眠っている間にこぼれた三つ目の音。
子供は消してほしいと言った。
アリシアたちは、黒月で記憶との線を切った。
今度は記録。
紙へ残されたもの。
「消したいことも、残す?」
「何を消したいと望んだかまでは、本人が許せば」
「許さなかったら?」
「消したいと望んだ人がいたことだけを残す方法もあります」
「私だって分からない?」
「はい」
「それでも、残る?」
「誰かが、記録を消してほしいと望んだことは」
本人の名を残さず。
内容を残さず。
ただ、消したいという意思があったことだけ。
「それ、私の?」
「本人が分からない形なら、あなたのものとは言えないかもしれません」
「なら、違う」
「そうかもしれません」
ミレイは否定しない。
「全部、難しい」
「はい」
「ミレイ、疲れる?」
思いがけない問いだった。
ミレイは少し驚き。
そのあと、正直にうなずいた。
「疲れます」
「嫌?」
「記録することは嫌ではありません」
「でも、疲れる」
「はい」
「やめたい?」
「時々」
子供の目が少し大きくなる。
「記録する人なのに?」
「記録することだけが、私ではありません」
「前に言った」
「覚えていたのですか」
「うん」
ミレイは記録係と呼ばれること自体より。
それだけになることが怖い。
子供は覚えていた。
「今、やめたい?」
「少し休みたいです」
「なら、書かない?」
ミレイは開いた帳面を見る。
まだ書ける。
記録すべきこともある。
子供が文字を見たいと言った。
間違いを残す意味について話した。
それを記録したい気持ちもある。
「休みます」
ミレイは帳面を閉じた。
「本当に?」
「はい」
「私が言ったから?」
「私も休みたいと思っていたからです」
「じゃあ、同じ?」
「少し」
子供は満足そうにうなずいた。
「次、誰が書く?」
「今は、誰も書きません」
「忘れる」
「忘れるかもしれません」
「いい?」
「大事なことを全部、今すぐ残す必要はありません」
「本当?」
「忘れたら、あとで子供へ聞きます」
「私も忘れたら?」
「二人で忘れたと確認します」
残せない。
思い出せない。
それでも。
話していた時間が、なかったことになるわけではない。
ミレイは帳面を膝から下ろし、椅子の横へ置いた。
その動きを見ていた子供も。
自分の足から冷たい石を外す。
「休む?」
アリシアが尋ねる。
「石も」
「石を休ませる?」
「うん」
「石は疲れてる?」
「分からない」
「じゃあ、子供の足を休ませるため?」
「冷たいの、少し多くなった」
「嫌になった?」
「今は、少し嫌」
先ほどの記録。
今は嫌ではない。
すでに変わった。
「ミレイ」
子供が呼ぶ。
「はい」
「書く?」
ミレイは閉じた帳面を見る。
「休んだあとに、覚えていたら」
「忘れたら?」
「聞き直します」
「今は、少し嫌」
「聞きました」
「アリシアも?」
「聞いた」
「セレナ」
扉の外へ声をかける。
「聞こえています」
「冷たい石、今は少し嫌」
「分かりました」
三人が聞いた。
紙へ書かなくても。
今はそれでよい。
治療用の冷たい石は寝台脇の布へ置かれた。
足の裏には、少し赤みが残っている。
だが、朝より腫れは減っていた。
「お腹」
子供が呟く。
「どうした?」
アリシアが尋ねる。
「変」
「痛い?」
「違う」
「熱い?」
「違う」
「気持ち悪い?」
「分からない」
セレナの表情が引き締まる。
「空腹の可能性があります」
「空腹?」
「食べ物を必要としているときの感覚です」
「食べ物」
子供は扉の外へ置かれた白い器を見る。
湯気はもう弱くなっている。
「水?」
「水分も含まれています」
子供の顔が硬くなる。
「声、入る」
「結界で調べました」
「入らない?」
「今、確認できる範囲では」
「でも、分からない」
「はい」
セレナは嘘をつかない。
「食べないと?」
「今すぐ危険かは分かりません。ただ、身体が食べ物を求めている可能性があります」
「食べたら?」
「お腹の変な感覚が弱くなるかもしれません」
「強くなるかも?」
「あります」
「怖い」
「うん」
アリシアが答える。
「食べたい?」
「分からない」
「匂いは?」
子供は鼻から息を吸う。
温かな粥。
白パン。
根菜。
ほとんど香辛料を使っていない。
「少し」
「嫌?」
「分からない」
「近くで見る?」
子供は迷い。
「アリシア、持つ?」
「うん」
「中に、入れない?」
「器を?」
「うん」
「扉のところまで?」
「うん」
アリシアはセレナと治療教師へ確認し、白い器を一つだけ持つ。
中には、薄い粥が少量。
文字も印もない匙が添えられている。
独立観測室の入口。
子供から四歩離れた位置へ置く。
「ここでいい?」
「もう少し、遠い」
一歩下げる。
「ここ?」
「うん」
子供は粥を見る。
湯気。
白い表面。
水面のようにも見える。
「動いた」
粥の表面が、小さく揺れた。
アリシアが黒月へ手を伸ばす。
「待って」
子供が言う。
「何?」
「声じゃない」
「分かる?」
「湯気」
器から立ち上る熱。
表面が冷えることで、わずかに動いている。
「水、動く」
「うん」
「でも、声じゃない?」
「今は、黒月も反応してない」
ノアも器の匂いを嗅ぐ。
『魔力の異常はないわ』
「ノアも、変じゃないって」
「ノア、食べる?」
『猫扱いしないで』
「食べないって」
「嫌?」
『今は必要ないだけよ』
「今は、食べなくていいって」
子供は粥を見る。
「私も?」
「うん」
「でも、お腹、変」
「一口だけ試す?」
「一口」
「子供が自分で?」
子供は手元を見る。
冷たい石。
柔らかい布。
どちらも自分で触れた。
食べ物も。
自分で選んで。
自分で口へ運べる。
「匙」
セレナが説明する。
「食べ物を口へ運ぶための道具です」
「名前」
「匙と呼ばれています」
「私は?」
「何と呼びたいですか」
子供は細い道具を見る。
「分からない」
「今は、道具でも構いません」
「食べる道具」
「はい」
「長い」
「問題ありません」
子供は寝台から降りようとする。
足の痛み。
床への恐怖。
アリシアが手を伸ばしかけ。
止める。
「支える?」
子供が尋ねる。
「触っていいなら」
「手」
「どっち?」
子供は右と左をまだ使いたくない。
「こっち」
アリシアに近い側の手を差し出す。
人影の手は、今は握っていない。
「この人」
子供が顔のない人影を見る。
「離れてる」
「うん」
「私が動いても、いる?」
「胸の光はある」
「五つ」
「うん」
「待っててって、言う?」
アリシアは人影を見る。
「言いたい?」
「うん」
「命令じゃなく?」
子供は少し考える。
「私、食べる道具を見に行く」
人影へ言う。
「ここに、いてほしい」
返事はない。
胸の光が揺れる。
子供はそれを見て。
「聞いたように見える」
「私にも」
アリシアが答える。
「戻る」
子供が付け加える。
離れても。
戻ると伝える。
寝台から降りる。
アリシアの手へつかまり。
一歩。
足裏が痛む。
「痛い?」
「少し」
「戻る?」
「行く」
一歩ずつ。
粥の器へ。
四歩の距離。
昨日まで水の中へいた子供には。
それだけでも長かった。
器の前へ座る。
アリシアも隣へ。
ミレイは記録帳を持たないまま見守る。
セレナは扉の外。
「食べる道具」
子供が匙を見る。
「持つ?」
「うん」
「熱いかもしれないので、先に柄へ触れてください」
セレナが言う。
子供は匙の端へ指先で触れる。
「冷たい」
「持てますか」
掴む。
少し不器用。
水の中では。
道具を持ったことがあるのか。
記憶がないだけなのか。
「重い?」
「軽い」
「粥を少しすくいます」
「すくう?」
「道具を入れて、持ち上げることです」
子供は匙を粥へ入れる。
白い表面が割れる。
身体が固まる。
水面へ何かを入れる。
第四の声が現れた記憶。
「止める?」
アリシアが尋ねる。
「少し」
匙を止める。
黒い文字は出ない。
声もない。
「入った」
「うん」
「何もない」
「うん」
「持ち上げる」
自分で言う。
匙へ粥が少し乗る。
持ち上げる途中。
半分が器へ落ちる。
小さな音。
「失敗?」
子供が尋ねる。
「少し残ってる」
「全部じゃない」
「一口には多いかもしれないから、それでいい」
「失敗じゃない?」
「初めてなら、分からない」
「初めて?」
「覚えてない?」
子供は匙を見る。
「知ってる気もする」
「前に使った?」
「分からない」
水へ沈む前。
七歳ほどの子供として生きていたなら。
食事をした記憶が身体に残っているのかもしれない。
「口へ運ぶ」
セレナが言う。
「熱さを確かめてから」
「どうやって」
「唇へ少し近づけて、熱すぎないか感じます」
子供は匙を口元へ近づける。
湯気はほとんどない。
「熱くない」
「では、口へ入れても構いません」
「嫌になったら?」
「出してください」
「汚い?」
「いいえ」
子供は慎重に口を開く。
少量の粥。
唇。
舌。
喉。
飲み込むまで。
長い時間がかかった。
全員が見ている。
そのことへ気づいたアリシアは、少し視線を外す。
「見ない?」
子供が尋ねる。
「食べるところ、見られるの嫌かもしれないと思って」
「分からない」
「見ててほしい?」
「少し」
「じゃあ、見る」
飲み込む。
子供の喉が動く。
身体が固まる。
「どう?」
セレナが尋ねる。
子供は答えない。
自分の中の変化を探っている。
「温かい」
「痛い?」
「違う」
「嫌?」
「分からない」
「お腹の変な感じは?」
「まだ」
「もう一口試しますか」
子供は粥を見る。
「声、来ない」
「今は」
「もう一口」
今度は。
最初より少し上手にすくう。
口へ運ぶ。
飲み込む。
「味」
子供が言う。
「何か感じる?」
「薄い」
「嫌?」
「少し、物足りない?」
カイルの声が扉の外から飛んだ。
全員が振り返る。
彼は立入許可の線より外へ立っている。
「何ですか、その言い方は」
セレナが眉を寄せる。
「薄いなら、塩が少ないんだろ」
「初めて口にするものへ、強い味を付けられません」
「分かってる。ただ、薄いって感じるなら味覚はある」
セレナは少し考え。
子供を見る。
「塩味を感じますか」
「塩?」
「しょっぱい味です」
「分からない」
「粥の中には、ごく少量入っています」
「増やす?」
カイルが尋ねる。
「今は増やしません」
セレナが即答する。
「子供へ聞けよ」
正しい。
セレナは一瞬黙り。
すぐに言い直した。
「味を少し変えたいですか」
「変えたら、戻せる?」
「同じ器へ入れた場合、完全には戻せません」
「別?」
「別の一口へ、ごく少しだけ加えることはできます」
「試す」
「体調を確認してから」
「今は?」
「もう少し待ちます」
カイルが外から言う。
「待ってる間に冷めるぞ」
「あなたは静かにしてください」
「味の話だから入れると思っただけだ」
「入れません」
子供がカイルを見る。
「カイル、食べたい?」
「朝飯はまだだ」
「お腹、変?」
「かなり」
「同じ?」
「多分」
「カイルも、食べる?」
「外でな」
「どうして」
「中へ入るなって言われてるから」
「私が」
子供は少し迷う。
「今は、入らないでって言った」
「そうだ」
「怒ってない?」
「少し寂しいけど、怒ってない」
「お腹、変でも?」
「それはお前のせいじゃない」
子供は粥を見る。
「分ける?」
「子供の分だ」
「多い」
「残したら俺が食べる」
「衛生上、別の食事を用意します」
セレナが遮る。
「別に少しくらい」
「初めて食べた者の残りを、外周警備中の神器継承者へ渡すことはできません」
「俺は丈夫だ」
「そういう問題ではありません」
子供の口元が少し緩む。
「カイル、怒られる」
「いつもだ」
「いつもではありません」
「毎日だろ」
「必要なときだけです」
「それを毎日って言うんだ」
子供が小さな声を出す。
笑い。
水中で見せたものより。
少し長い。
その声に。
顔のない人影の胸の光が揺れた。
五つ。
同じように。
「聞こえた?」
子供が振り返る。
人影は動かない。
それでも。
胸の光が、子供の笑い声に合わせて揺れている。
「呼んでない」
子供が言う。
「うん」
「でも、動いた」
「うん」
「返事?」
アリシアは少し考える。
「返事じゃないかもしれない」
「何?」
「笑った声を聞いた?」
「私の?」
「うん」
「名前じゃない」
「うん」
「でも、反応した」
「そう見える」
人影は。
すべての呼び方へ振り向くために作られた。
けれど今。
誰の名でもない笑い声へ。
胸の光を揺らした。
「この人」
子供が立ち上がろうとする。
「待って」
アリシアが声をかける。
「足」
痛みがある。
子供は足元を見る。
「戻りたい」
「人影のところへ?」
「うん」
「食事は?」
「少し、あと」
「粥は置いておく?」
「声、入らない?」
「結界を続ける」
「なら、置く」
アリシアの手を借りて。
寝台へ戻る。
人影の手は。
寝台の上へ置かれたまま。
掌は上を向いていない。
子供を拒んでいるようにも。
待っているようにも見えない。
「笑った」
子供が人影へ話しかける。
「聞いた?」
胸の光が揺れる。
「カイル、怒られてた」
「怒られてないぞ」
外から声が飛ぶ。
「静かに」
セレナが言う。
「また、怒られた」
子供が少し笑う。
人影の胸の光。
今度は。
一つずつではなく。
五つが同時に明るくなった。
そして。
六つ目の光が。
新たに浮かぶ。
誰かに呼ばれたわけではない。
手を握ったわけでも。
離したわけでも。
音を返したわけでもない。
子供が笑った。
それを聞き。
人影の中に何かが残った。
「増えた」
ミレイが言う。
休むと決めた記録帳へは手を伸ばさない。
ただ。
見たことを口にする。
「六つ」
子供が数える。
「私の笑ったの?」
「そうかもしれない」
アリシアが答える。
「名前じゃないのに」
「うん」
「呼び方じゃないのに」
「うん」
「持った?」
「そう見える」
人影の中へ。
誰かの名前ではなく。
誰かといた時間が残る。
呼ばれた音を持たなくても。
返した三つ目の音を覚えていなくても。
一緒に水の外へ出たこと。
手を握ったこと。
離したこと。
笑い声を聞いたこと。
それらは消えていない。
「この人」
子供が言う。
「私の音、持ってない」
「うん」
「返した」
「うん」
「でも、私、分かる?」
難しい問い。
人影に顔はない。
声もない。
名前もない。
「笑ったとき、光が増えた」
アリシアは言う。
「子供のことを全部分かってるとは言えない」
「うん」
「でも、今の声を聞いたことは残ったように見える」
「それ、私?」
「子供の笑い声」
「名前じゃない」
「うん」
「でも、私?」
「子供が出した声だから」
名前は。
その人を示す唯一のものではない。
笑い方。
迷い方。
何を怖がるか。
何を嫌うか。
何を食べて。
どんな味を薄いと感じたか。
誰に近くにいてほしいか。
それらも。
その人を作る。
「第四の声」
子供が呟く。
「何?」
「名前がないと、消えるって」
「うん」
「この人、名前ない」
「うん」
「でも、光、六つ」
「うん」
「消えてない」
「今は」
「私も?」
「うん」
「名前、まだない」
「うん」
「でも、粥、薄いと思った」
「うん」
「冷たい石、少し嫌になった」
「うん」
「カイル、怒られて笑った」
「怒られてない」
「静かにしてください」
セレナが再び止める。
子供がまた少し笑う。
「全部、私?」
「うん」
アリシアは迷わず答えた。
「名前じゃなくても?」
「うん」
「記録なくても?」
ミレイが閉じた帳面を見る。
「今は、私たちが聞いています」
「忘れても?」
「忘れるかもしれません」
「なら、消える?」
「違う」
アリシアは言った。
「誰かが忘れても、子供が感じたことまで、なかったことにはならない」
「でも、誰も覚えてない」
「子供も忘れたら?」
「うん」
すぐには答えられない。
すべての者が忘れた出来事。
記録もない。
本人も覚えていない。
それでも、あったと言えるのか。
「私は」
ミレイがゆっくり言う。
「記録する者なので、残らないことが怖いです」
子供が見る。
「でも」
ミレイは続ける。
「記録がない出来事が、存在しなかったとは思いません」
「どうして」
「私が知らない時間にも、人は生きているからです」
「見てないのに?」
「はい」
「書いてないのに?」
「はい」
「分からない」
「私も、完全には分かりません」
子供は寝台へ座ったまま。
自分の手を見る。
粥をすくった手。
冷たい石を持った手。
人影とつながり。
離れた手。
「今」
子供が言う。
「私が、手を動かした」
「うん」
「誰も書かない」
「うん」
「でも、動いた」
「うん」
「これ?」
「たぶん」
記録されなくても。
呼ばれなくても。
動いたことは起きた。
本人が覚えている間だけでなく。
忘れたあとも。
身体や関係へ。
何かが残ることはある。
「人影」
アリシアは呼びかけようとし。
止める。
人影という呼び方も。
便宜上のもの。
本人が選んでいない。
「話したい」
名前を使わず。
存在へ向けて言う。
胸の六つの光が揺れる。
「子供の音を返したあとも」
アリシアは続ける。
「一緒にいた時間は残っていますか」
返事はない。
身体も動かない。
それでも。
六つ目の光が。
他の五つと並び。
消えずに揺れている。
「そう見える」
子供が答えた。
「うん」
アリシアもうなずく。
朝食の粥は。
そのあと、子供が自分で三口だけ食べた。
四口目は。
匙を持ったところで止めた。
「もう、いらない?」
セレナが尋ねる。
「お腹の変、少し減った」
「食べすぎると気持ち悪くなる可能性があります」
「やめる」
「分かりました」
「残す?」
「あとで食べたいですか」
「分からない」
「では、一定時間だけ保管します。それを過ぎたら安全のため処分します」
「捨てる?」
「はい」
子供の表情が曇る。
「食べ物、消える」
「そうですね」
「名前と同じ?」
「違います」
セレナは考えながら答える。
「食べ物は、時間が経つと身体へ悪いものへ変わる可能性があります」
「悪いもの?」
「食べるとお腹が痛くなることがあります」
「なら、捨てる」
「はい」
「でも、食べなかったこと、残す?」
「必要ですか」
「分からない」
「残さなくてもよい?」
「うん」
すべてを記録しない。
食べ残し。
何口食べたか。
治療上必要な範囲は、セレナが覚える。
だが、子供の生活のすべてを記録へ変えない。
食べたこと。
笑ったこと。
冷たい石を嫌になったこと。
その一つ一つを、観測対象として囲まない。
「この部屋」
子供が周囲を見る。
「ずっと?」
「何が?」
「私たち、ここにいる?」
学院長が扉の外から答える。
「安全が確認できるまでは」
「いつまで?」
「決まっていない」
「出られない?」
「出る方法を一緒に決める」
「私が出たいって言ったら?」
「行き先と危険を確認する」
「だめって言う?」
「危険が高い場合は、止めることがあります」
「私が決めるのに?」
「君だけが危険になるとは限らない」
第四の声。
第三の器。
西側貯水槽。
子供が外へ出れば。
学院全体へ影響が広がる可能性がある。
「閉じ込める?」
子供の声が少し冷える。
水の中。
器。
名前。
再び、どこかへ閉じ込められるのではないか。
「そう感じる可能性がある」
学院長は否定しなかった。
「でも、こちらは安全のためって言う」
「言うだろう」
「同じ?」
「同じにならないよう、君へ理由を伝え、期限を決め、見直す」
「期限、決まってない」
「今、決める」
学院長は副学院長を見る。
「次の見直しは、鐘が六回鳴ったあと」
「今日?」
「今日だ」
「そのとき、出たいって言う?」
「言ってよい」
「だめって言われても?」
「理由を聞ける」
「私が、違うって言える?」
「言える」
「それでも、だめ?」
「あり得る」
子供は不満そうに眉を寄せる。
「嫌」
「聞いた」
「今、出たい」
全員の空気が変わる。
「どこへ?」
アリシアが尋ねる。
「外」
「地上?」
「朝」
朝を見ていない。
窓のない部屋。
夜のあとに来る時間。
見ていなくても進むもの。
「雨、怖い」
子供は続ける。
「でも、朝、見たい」
セレナが窓のない通路の先を考える。
地上へ出る。
空。
陽光。
風。
水気。
学院の生徒。
第四の声。
危険は多い。
「今すぐは」
学院長が言いかける。
子供の顔が硬くなる。
「だめ?」
「完全な地上へ出す準備はできていない」
「閉じ込める」
「代わりに」
学院長は続ける。
「外の光を見られる場所へ移動できるか検討する」
「窓?」
「厚い観測硝子越しなら」
「朝?」
「まだ朝だ」
「本当?」
「地上から確認する」
子供はアリシアを見る。
「一緒?」
「行けるなら」
「人影も」
顔のない存在。
動けない。
結界布。
「運べるか確認する」
子供はすぐにうなずかなかった。
「また、別の部屋?」
「短い時間だけ」
「戻る?」
「戻る予定」
「私が戻りたくないって言ったら?」
「そのとき話し合う」
「話しても、戻る?」
「危険があれば」
「嫌」
「うん」
「でも、朝、見たい」
「うん」
望みと。
条件。
危険。
全部が重なる。
「鐘が三回鳴るまでに」
学院長が言う。
「朝の光を見られる部屋へ移動できるか確認する」
「三回」
「準備できなければ、理由を伝える」
「六回の見直しは?」
「変えない」
「二つ?」
「朝を見るための移動と、この部屋から出る扱いは別だ」
「分ける?」
「はい」
ミレイが答える。
「一つの外出で、全部を決めません」
子供は考える。
「人影も?」
「本人の状態を見て」
「本人、決められない」
「見える反応を複数人で確認します」
「行きたいか、分からない」
「だから、連れていかない可能性もあります」
「私だけ?」
不安が浮かぶ。
人影を置いて。
朝を見る。
「一人で行きたい?」
「分からない」
「人影と離れる練習をする?」
アリシアが尋ねる。
「朝を見るために?」
「うん」
「戻っても、いる?」
「胸の光を観測する人を残す」
「誰?」
「子供が決める?」
子供は人影を見る。
声のない存在。
誰にいてほしいか。
代わりに選べない。
「この人が、決められない」
「うん」
「なら、どうする」
「誰か一人だけじゃなく、複数人を残す」
ミレイが提案する。
「見え方を一つにしないために」
「ミレイ、残る?」
「子供は、私に残ってほしい?」
「一緒に、朝も見たい」
「両方は難しいですね」
「分けられない?」
「私自身は一人なので」
子供が少し不満そうになる。
役割を分けられても。
人は分けられない。
「アリシアは?」
「朝、行くなら一緒にいたい」
「人影は?」
「ノアに残ってもらう?」
『私が?』
「嫌?」
ノアは人影を見る。
胸の六つの光。
『嫌ではないわ』
「ノア、残ってもいいって」
「声、聞こえない」
「ノアが変化を見たら、通路の人に伝える」
「どうやって」
『扉を引っ掻くわ』
「扉を引っ掻くって」
「それ、分かる?」
「警備隊へ、先に伝える」
子供はノアを見る。
「ノア、残る?」
『ええ』
「残るって」
「嫌じゃない?」
『朝なら、また見られる』
「朝はまた見られるから、って」
子供は少し驚く。
「今日じゃなくても?」
『朝は一度きりではないわ』
「一度じゃない?」
「毎日来る」
アリシアが答える。
「同じ?」
「同じじゃない」
「朝なのに?」
「空の色も。雲も。風も違う」
「正しい朝、一つじゃない?」
「うん」
子供の目が、少し明るくなる。
「なら」
人影を見る。
「今日は、私が見る」
「うん」
「この人は、次?」
「次に見たいように見えたら」
「分からないけど」
「うん」
「ノア、いて」
『任せなさい』
「いるって」
子供は決めた。
人影と離れる。
朝を見るために。
ただし、ノアが残る。
胸の光を複数人で観測する。
自分は戻る予定。
完全な外出ではない。
鐘が六回鳴ったあと。
この部屋での扱いを見直す。
一つずつ。
決める。
「朝」
子供が胸へ手を置く。
三つの音。
まだ誰にも聞かせない。
「朝に、名前いる?」
「いらない」
アリシアが答える。
「空、私を呼ばない?」
「たぶん」
「たぶん?」
「風の音や鳥の声はする」
「名前?」
「違う」
「でも、私へ聞こえる」
「うん」
「返事、しなくていい?」
「うん」
名前を持たないまま。
朝を見る。
誰にも呼ばれず。
返事を求められず。
ただ。
空の色を見る。
風を感じる。
それが。
水の外での最初の外出になる。
準備が始まった。
移動先は、中央棟北側の隔離観測廊。
厚い防護硝子の向こうに、学院の中庭と空が見える場所。普段は危険な魔導具へ自然光を当てる試験に使われているが、現在は閉鎖されている。
水場はない。
文字も撤去できる。
生徒の通行を止められる。
第四の声の侵入を防ぐ結界も、短時間なら重ねられる。
「朝を見るだけです」
学院長が関係者へ何度も確認する。
「質問を集めるな。名前を尋ねるな。観測対象として囲むな」
興味を持つ教師。
治療師。
警備隊員。
誰もが、初めて水の外へ出た子供の反応を知りたがる。
だが。
見られるために外へ出すのではない。
本人が朝を見たいと言ったから。
その希望を。
危険を抑えた形で実現する。
観測廊へ移動する人数は絞られた。
アリシア。
ミレイ。
レオンハルト。
セレナ。
治療教師。
警備隊員二名。
カイルは外周。
ノアは人影と残る。
「セレナ、入れる?」
子供が尋ねる。
「観測廊は水の神器から距離があるため、短時間なら」
「近く?」
「子供が望む距離で」
「隣」
「分かりました」
セレナの顔へ。
小さな安堵が浮かぶ。
「カイルは?」
「外」
カイルが答える。
「また?」
「火の神器が自然光と反応する可能性がある」
「入りたい?」
子供が尋ねる。
「入りたい」
「寂しい?」
「かなり」
「でも、外?」
「そうだ」
「朝、見たことある?」
「毎日じゃないけどな」
「同じじゃない?」
「毎回違う」
先ほどの話を聞いていた。
「次、一緒?」
「入っていいって言われたら」
「私が?」
「お前が」
子供の眉が動く。
「お前、やめてって言った」
カイルの顔が固まる。
「あ」
「忘れた?」
「悪い」
「怒る?」
「俺が悪い」
「次、どうする」
「呼ばない。見る」
カイルは子供を見る。
「次に一緒に朝を見てもいいか」
「聞いた」
「返事は?」
「まだ、分からない」
「分かった」
失敗する。
謝る。
言い直す。
カイルは、呼ばないと決めた子供へ。
また以前の癖で「お前」と言った。
それでも。
その間違いをなかったことにはしない。
子供も。
怒らず受け入れる必要はない。
「少し、嫌だった」
「聞いた」
「でも、前より早くやめた」
「次は言う前に止める」
「できる?」
「努力する」
「分からない?」
「できるって約束はしない」
子供は少しだけ笑った。
「カイル、間違う」
「悪かったな」
「それ、少し面白い」
「笑うところじゃない」
「静かに」
セレナが言う。
「また、怒られた」
子供が笑う。
独立観測室の寝台。
顔のない人影の胸で。
六つの光が。
ノアの前で。
同時に淡く揺れた。
子供の笑い声は。
もう部屋の外。
通路の向こう。
人影へ届かないはずだった。
それでも。
六つの光は。
子供が笑った時刻と同じ頃に揺れた。
『聞こえているの?』
ノアが人影へ尋ねる。
返事はない。
扉は閉じられている。
結界も張られている。
声の線は確認できない。
それなのに。
人影は。
子供の笑い声がしたときだけ。
光を揺らした。
『名前でも、音でもない』
ノアは金色の目を細める。
『一緒にいた時間が、まだつながっているのかしら』
誰かの名前を持たなくても。
返した音を覚えていなくても。
手を離し。
別の部屋にいても。
二つの存在の間には。
まだ何かが残っている。
それは第四の声が作った線とは違う。
黒月で見ても。
光で照らしても。
記録へ書いても。
まだ形にならない。
同じ時間を過ごしたこと。
互いに離れることを選んだこと。
それでも、もう一度会いたいかもしれないと思うこと。
名前よりも。
呼び方よりも先に生まれたつながり。
人影の胸へ浮かぶ六つの光は。
静かに。
子供が戻るのを待っていた。




