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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第110話 朝の光は名前を呼ばなくても、そこにいる者を照らしてくれる


 中央棟北側の隔離観測廊へ向かう準備は、思っていたより時間がかかった。


 ただ廊下を歩くだけなら、独立観測室から十五分もあれば着く。


 けれど今は、その十五分のために幾つもの確認が必要だった。


 通路に水気はないか。


 壁へ文字が浮かんでいないか。


 窓硝子の反射へ第四の声が入り込む可能性はないか。


 移動中にすれ違う者はいないか。


 子供が疲れた場合、途中で休める場所はあるか。


 そして。


 もし途中で「戻りたい」と言ったとき、誰がそれを聞き、どこまで戻るのか。


 学院長は、移動そのものより、その途中で起きる変更へ時間を使っていた。


「観測廊は現在閉鎖済みです」


 副学院長が簡易地図を机へ広げる。


「北側階段から二階へ上がり、連絡通路を一つ。途中に窓はありません。観測廊へ入る直前の扉から自然光が入ります」


「そこが最初に空を見る場所?」


 アリシアが尋ねる。


「直接空が見えるのは、観測廊へ入ってからだ」


「扉の前で怖くなったら?」


「入らない」


 学院長は即答した。


「今日の目的は、朝を見ることだ。観測廊へ入ることではない」


「扉の前まで行って戻っても?」


「本人がそれを選べば、今日の移動はそこで終わる」


 アリシアはうなずいた。


 その確認を聞いていた子供は、独立観測室の寝台へ腰掛けたまま、自分の足へ巻かれた柔らかい布を見ていた。


 冷たい石はもう外してある。


 足の熱は少し引いた。


 歩けないほどではない。


 けれど、長く歩けば痛みが戻る可能性はある。


「歩く?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は答える前に、床を見た。


 独立観測室からここまで歩いてきたとき。


 足が痛くなった。


 朝を見たい。


 でも、また痛くなるかもしれない。


「少し」


「途中で痛くなったら?」


「止まる」


「戻りたくなったら?」


「戻る」


「抱えて運ぶ?」


 子供がアリシアを見る。


「嫌」


「分かった」


「でも、歩けなくなったら」


「そのときもう一回聞く」


「今は、抱かない?」


「うん」


 子供は安心したようにうなずいた。


「手」


「つなぐ?」


「うん」


「ずっと?」


「分からない」


「途中で離してもいい」


「またつなぐ?」


「子供がつなぎたいって言ったら」


「分かった」


 隣の寝台。


 顔のない人影は、六つの光を胸へ宿したまま横たわっている。


 子供はそちらを見る。


「この人」


「うん」


「置いていく」


「うん」


「嫌かな」


「分からない」


 すぐに答えを決めない。


「でも、ノアが残る」


 アリシアが言う。


 寝台の間に座っていたノアが、面倒そうに片耳を動かす。


『残るわよ』


「ノアは残るって」


「ノア」


 子供が呼ぶ。


『いるわ』


「聞こえない」


「でも、いる」


「うん」


「私が戻ったとき」


 子供は少し考える。


「まだ、いて」


『当たり前でしょう』


「いてくれるって」


「本当?」


「うん」


 子供は人影へ向き直る。


「朝、見てくる」


 返事はない。


「戻る」


 胸の六つの光が、同じ間隔で揺れる。


「聞いた?」


 子供が尋ねる。


 アリシアは人影を見る。


「そう見える」


「私も」


 子供は自分でうなずいた。


「行く」


 移動が始まった。


 先頭は警備隊員一名。


 その後ろに結界術師。


 子供。


 アリシア。


 ミレイ。


 セレナ。


 治療教師。


 レオンハルト。


 最後尾をもう一人の警備隊員が守る。


 カイルはさらに外側。


 通路の交差点ごとに先回りし、周囲へ人が入らないよう確認している。


 学院長と副学院長は、直接列へ入らず通信中継室から全体を管理する。


 誰か一人へ人数を集めない。


 役割を分ける。


 独立観測室の扉を出る。


 子供は最初の一歩で止まった。


「どうした?」


 アリシアが尋ねる。


「この前と、違う」


「何が?」


「音」


 通路。


 遠くで。


 学院が朝を始める音がする。


 扉が開く音。


 食堂から運ばれる皿。


 廊下を歩く足音。


 誰かが笑う声。


 授業再開の準備をする教師。


 独立観測室の中には、ほとんど届かなかった生活の音。


「人がいる?」


「いる」


「見えない」


「別の場所に」


「私のこと、知ってる?」


「一部の人は」


 子供の身体が硬くなる。


「名前」


「知らない」


「音は?」


「三つの音も知らない」


「本当?」


「知ってるのは、今まで聞いた人だけ」


「第四の声は」


「別」


 アリシアは隠さない。


「第四の声は知ってる可能性がある」


「でも、人は?」


「知らない」


 子供は少し安心したように息を吐く。


「見られる?」


「この通路には来ない」


「あとで?」


「地上へ出るようになれば、見る人はいると思う」


「嫌」


「今は出ない」


「でも、朝」


「観測廊からなら、人に見られず空だけ見られる」


 子供はアリシアの手を握る。


「行く」


 一歩。


 二歩。


 足音が石床へ重なる。


 水の中では。


 歩く音はなかった。


 今は、自分の足が床へ触れるたび。


 小さな音が返ってくる。


「私」


 子供が言う。


「音、出してる」


「足音?」


「うん」


「嫌?」


「分からない」


「止めたい?」


「でも、歩いたら出る」


「ゆっくりなら小さくなる」


「やって」


 アリシアは歩幅を狭める。


 子供も真似る。


 先ほどより足音が小さくなる。


「消えない」


「完全には」


「名前みたい?」


「何が?」


「私が嫌でも、出る」


 アリシアは少し考えた。


「似てるところはあるかも」


「止められない?」


「立ち止まれば」


「でも、進めない」


「うん」


「じゃあ」


 子供は足元を見る。


「出てもいい音?」


「子供が嫌なら、嫌でいい」


「でも、出る」


「出ることと、好きなことは別」


「嫌だけど、歩く?」


「うん」


 子供はまた一歩進む。


 自分の足音。


 嫌いではない。


 好きでもない。


 ただ、今の自分が歩けば出る音。


 それへ名前を付けなくても。


 聞こえる。


 二つ目の角を曲がったところで。


 子供が立ち止まる。


「痛い?」


 セレナが後ろから尋ねる。


「少し」


「どこ?」


 子供は足を見る。


「柔らかい布のところ」


「擦れた場所ですね」


「触らない?」


「今は触りません」


「休む?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は前を見る。


 観測廊まで、まだ少しある。


「座るところ」


 警備隊員が壁際へ置かれた小さな椅子を示す。


 文字も印もない。


「ここ」


 子供は慎重に座る。


 アリシアの手を離す。


 自分から。


 そのことへ気づいたのか。


 子供は離した手を見る。


「今、離した」


「うん」


「アリシア、いる?」


「いる」


「離しても?」


「いる」


 子供は少し笑う。


「この前と同じ」


「人影と?」


「うん」


「離れても、いる」


「うん」


 子供は一度、自分の両手を膝へ置く。


 誰にも触れていない。


 それでも。


 周囲には人がいる。


「アリシア」


「うん」


「手、つながなくても歩けるかも」


「試す?」


「少し」


「転びそうなら?」


「言う」


「触っていいか聞く」


「うん」


 休憩後。


 子供は一人で立つ。


 アリシアは半歩横。


 手は出さない。


 一歩。


 身体が揺れる。


 子供が腕を広げてバランスを取る。


 二歩。


 三歩。


 足音。


 自分の身体。


「いる」


 子供が呟く。


「何が?」


「私」


 アリシアは何も付け足さなかった。


 名前がなくても。


 手をつながなくても。


 足が痛くても。


 歩けば揺れて。


 声を出せば響いて。


 自分で転ばないよう身体を動かす。


 それが。


 今ここにいるという感覚へつながっている。


 観測廊の手前。


 最後の鉄扉へ到着する。


 その向こうには。


 自然光。


 子供は扉を見上げる。


「朝?」


「この向こう」


 レオンハルトが答える。


「眩しいかもしれません」


「痛い?」


「目が慣れていないと、痛く感じる可能性があります」


「閉じる?」


「目を?」


「うん」


「急に閉じても構いません」


「見えなくなる」


「また開けられます」


「本当?」


「はい」


「朝、消えない?」


「すぐには」


 子供は扉へ近づかない。


 呼吸が少し速くなる。


「開ける?」


 学院長の声が通信具から届く。


「本人へ確認を」


 アリシアが子供を見る。


「開けていい?」


 子供は迷う。


「少し」


「どのくらい?」


「分からない」


「隙間だけ?」


「うん」


 警備隊員が。


 ほんの指二本分だけ。


 扉を開く。


 一筋の光が。


 暗い通路へ入る。


 子供の足元へ。


 朝の光。


 薄い金色。


 雨は降っていない。


 雲の間から差し込む柔らかな光。


 子供が息を止める。


「これ」


「光」


 レオンハルトが言う。


「神器?」


「違います」


 子供がレオンハルトを見る。


「光なのに?」


「太陽の光です」


「太陽」


「空にあります」


「見える?」


「扉を開けば」


 子供は足元へ落ちた光へ、手を伸ばす。


 触れる。


「熱くない」


「今の時間は強くありません」


「声、ない」


「うん」


 アリシアが答える。


「名前、呼ばない」


「うん」


「でも、私に当たる」


「うん」


「私って分かってる?」


「太陽が?」


「うん」


「たぶん、分かってない」


 子供は驚いた顔をする。


「じゃあ、どうして」


「そこにいるから」


 光は。


 名前を知らない。


 役割も。


 三つの音も。


 水中の記録も。


 五百人の名前も知らない。


 ただ。


 扉の隙間から差し込み。


 そこにいた子供の手を照らしている。


「私じゃなくても?」


「そこに誰かいれば」


「同じ?」


「光は当たると思う」


「名前、いらない?」


「いらない」


 子供は。


 手の甲へ落ちる光を見る。


「でも」


 少し指を動かす。


「私に、当たってる」


「うん」


 誰にでも当たる光。


 だから意味がないのではない。


 今。


 自分がそこにいるから。


 自分の手が明るくなっている。


「もっと、開ける?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は迷う。


「少し」


 扉が。


 もう少し開く。


 光の帯が広がる。


 子供の足。


 膝。


 胸元。


 顔。


 眩しさに。


 目を細める。


「痛い?」


「眩しい」


「嫌?」


「分からない」


「閉める?」


「待って」


 目を細めたまま。


 扉の向こうを見る。


 観測廊。


 その先。


 厚い硝子。


 さらに向こうに。


 空。


 子供の身体が止まる。


「青」


 今日は。


 雲が多い。


 完全な青空ではない。


 灰色の雲。


 その隙間。


 薄い青。


「空」


 セレナが言う。


 子供は動かない。


「水?」


「違います」


「青い」


「似た色のときもあります」


「落ちる?」


「空が?」


「うん」


「落ちません」


「ずっと上?」


「はい」


「水は下」


「多くは」


「空は上」


「はい」


 子供は。


 水へ沈んでいた記憶を思い出したのか。


 上を見たまま。


 身体が少し震える。


「怖い?」


 セレナが尋ねる。


「広い」


「うん」


 アリシアも。


 その言葉を受ける。


「終わらない?」


「見える範囲では、ずっと続いてる」


「壁、ない」


「うん」


「落ちそう」


「床がある」


 子供が足元を見る。


 石床。


 自分の足。


 柔らかい布。


「上、広い」


「うん」


「下、ある」


「うん」


「私、ここ」


「うん」


 子供は一歩。


 観測廊へ入る。


 誰の手も握らず。


 もう一歩。


 眩しさへ目を細めながら。


 厚い防護硝子の前まで。


 途中で。


 アリシアを見る。


「手」


「つなぐ?」


「今は」


 少し迷い。


「いらない」


「分かった」


「でも、近く」


「ここにいる」


 子供は硝子の前へ立つ。


 朝の中庭。


 露に濡れた草。


 遠くの木々。


 学院の屋根。


 白い雲。


 空。


 鳥が一羽。


 横切る。


「何?」


「鳥」


「小さい」


「遠いから」


「落ちない?」


「飛んでる」


「どうして」


「翼があるから」


「人影、翼ない」


「うん」


「私も」


「うん」


「飛べない?」


「たぶん」


「名前、なくても?」


「名前があっても飛べない人は多い」


 子供が少し笑う。


「アリシアも?」


「飛べない」


『私も自力では飛べないわよ』


「ノアも?」


「飛べないって」


「カイル」


 外周側の廊下。


「飛べないぞ」


「セレナ」


「飛べません」


「レオンハルト」


「神器を使えば浮くことはできますが、鳥のようには」


「ミレイ」


「もちろん飛べません」


 子供は。


 少し長く笑った。


「みんな、飛べない」


「鳥以外はね」


「鳥、名前ある?」


「種類の名前は」


「一羽の名前」


「分からない」


「名前なくても、飛ぶ」


「うん」


 空を横切る鳥。


 誰も名前を知らない。


 でも。


 そこにいた。


 飛んだ。


 消えたわけではない。


「朝」


 子供が言う。


「名前、いらないもの、多い」


「うん」


「空」


「うん」


「光」


「うん」


「鳥」


「種類の名前はあるけど」


「でも、あれの名前、知らない」


「うん」


「それでも、見えた」


「うん」


 子供は硝子へ顔を近づける。


 触れる直前で止める。


「触っていい?」


 警備隊員が結界術師を見る。


「硝子自体に異常なし」


「触りたい?」


 アリシアが尋ねる。


「うん」


「触っていいって」


 子供は指先を硝子へつける。


 冷たい。


 その向こう。


 空。


「壁、ある」


「硝子」


「空までじゃない」


「うん」


「私と空の間」


「今は」


「壊す?」


「壊さない」


「どうして」


「外へ出る準備がまだできてないから」


「安全?」


「それも」


「閉じ込める?」


 また。


 同じ問い。


「今は、外へ出ないための壁」


 アリシアが答える。


「でも」


 子供が言う。


「朝、見える」


「うん」


「なら、少しだけ外?」


「そう感じる?」


「分からない」


 完全に出る。


 完全に閉じ込める。


 二つだけではない。


 硝子越し。


 扉の内側。


 光だけ受ける。


 間の場所。


「外、怖い」


 子供が言う。


「うん」


「でも、見たい」


「うん」


「両方」


「うん」


「どっちか、決めなくていい?」


「うん」


 子供は長く空を見る。


 その後ろ。


 ミレイは。


 記録帳を持っていない。


 朝を見た時刻。


 最初に空を見た反応。


 鳥。


 光。


 すべて残したい。


 でも。


 今は。


 子供が朝を見ている時間を。


 記録へ変えない。


「ミレイ」


 子供が振り返る。


「はい」


「書かない?」


「今は」


「どうして」


「私も朝を見ています」


 子供は少し驚く。


「何回目?」


「数え切れないくらい」


「それでも見る?」


「はい」


「同じじゃない?」


「今日の空は、今日しか見られません」


「記録する?」


「しません」


「忘れる」


「忘れるかもしれません」


「いい?」


「今は」


 子供は空を見る。


「私も」


「はい」


「忘れるかも」


「はい」


「でも、今日見た」


「はい」


 残らないかもしれない。


 でも。


 今はある。


「人影」


 子供の表情が変わる。


「どうした?」


「見せたい」


「朝を?」


「うん」


「でも、今日は残った」


「うん」


「次に?」


「次、ある?」


「朝はまた来る」


「同じじゃない」


「うん」


「でも、朝」


「うん」


 子供は少し悔しそうに。


 でも、納得しようとする。


「今日は、私」


「うん」


「次は、この人」


「人影が見たいように見えたら」


「どうやって聞く?」


「これから考える」


「言葉ない」


「動きはある」


「光も」


「うん」


「じゃあ」


 子供は。


 硝子から離れる。


「戻る」


「もういい?」


「朝、見た」


「もっと見なくていい?」


「見たい」


「なら」


「でも」


 胸へ手を当てる。


「この人に、話したい」


 アリシアはうなずいた。


「戻ろう」


 帰り道。


 子供は。


 最初よりゆっくり歩いた。


 足が少し痛い。


 でも。


 一人で歩く。


 途中。


 何度かアリシアの手へ視線を向ける。


 それでも。


 つながない。


「手、いらない?」


 アリシアが尋ねる。


「今は」


「うん」


「でも、転びそうなら」


「聞く」


「分かった」


 連絡通路。


 遠くで。


 学院の生徒たちの声が聞こえる。


「授業?」


「そろそろ」


「みんな、名前ある?」


「多分」


「嫌な名前も?」


「ある人もいる」


「名前なくても、授業できる?」


「学院では登録名が必要になることが多い」


「私、無理?」


「今すぐ入る話じゃない」


「でも、外へ出たら」


「そのとき考える」


「名前、決めろって言われる?」


 学院。


 記録。


 寮。


 治療。


 生活。


 社会は。


 名前を必要とする。


 第四の声ほど強引ではなくても。


 名前がないと不便な場所は多い。


「必要になる場面はある」


 ミレイが答える。


「でも」


 アリシアが続ける。


「仮の呼び方でもいい方法を探す」


「仮」


「リィみたいに」


「リィ」


 子供が思い出す。


「二つ持ってる」


「うん」


「本当の名前、決めてない?」


「どちらも持ってる」


「私も?」


「三つの音を持ってる」


「でも、呼ばれ方ない」


「必要なら、仮の呼び方を自分で作る方法もある」


「今?」


「今じゃなくていい」


「朝、名前いらなかった」


「うん」


「でも、学院はいる」


「場面によって違う」


「面倒」


「うん」


 アリシアは少し笑った。


「私もそう思う」


 子供も笑う。


「アリシア、名前あるのに?」


「あるから面倒なこともある」


「六つ目?」


 胸が少し痛む。


 けれど。


 子供はからかっているわけではない。


「それも」


「嫌?」


「呼ばれ方としては」


「でも、言った」


「子供が聞いたから」


「今、嫌だった?」


「少し」


 子供の顔が固まる。


「ごめん」


「聞きたい?」


「何を」


「今どうしてほしいか」


 以前なら。


 ただ謝って終わっていたかもしれない。


 今は。


 自分から尋ねる。


「アリシアって呼んで」


 子供はすぐにうなずく。


「アリシア」


「うん」


 胸の硬さが少しほどける。


「これで?」


「少し」


「全部じゃない?」


「嫌だった気持ちは、すぐ消えない」


「でも、変わる?」


「うん」


「分かった」


 子供は覚える。


 嫌な呼び方をした。


 謝る。


 本人が望む呼び方を聞く。


 呼び直す。


 それで。


 嫌だった事実が消えるわけではない。


 でも。


 そのあとを作ることはできる。


 独立観測室の前へ戻る。


 ノアが。


 扉の内側から待っていた。


 子供の姿を見ると。


 尾を一度立てる。


『戻ったのね』


「ノア」


 子供が呼ぶ。


『ええ』


「ただいま」


 アリシアがノアの返事を伝える前に。


 ノアが子供の足へ身体を擦りつける。


 子供が驚く。


「触った」


『嫌なら離れるわ』


「嫌じゃない」


 ノアはそのまま一度だけ擦り。


 すぐに離れる。


「ノアも、離れた」


「うん」


「でも、いる」


「うん」


 子供は独立観測室へ入る。


 人影。


 寝台。


 胸の六つの光。


 変化はない。


「戻った」


 子供が言う。


 人影へ。


「朝、見た」


 六つの光が揺れる。


「空」


 揺れる。


「青かった」


 また。


「雲もあった」


 光。


「鳥」


 子供が笑う。


「名前、知らない鳥」


 六つの光が。


 同時に強くなる。


「飛んだ」


 人影の指が動く。


 子供は駆け寄りそうになる。


 足を止める。


「近づいていい?」


 人影へ尋ねる。


 人影の指が。


 寝台の端へ。


 少し外側へ動く。


 子供の方。


「来てほしい?」


 返事はない。


「そう見える?」


 子供がアリシアたちを見る。


「指が子供の方へ動きました」


 ミレイ。


「胸の光が強くなっています」


 レオンハルト。


「第四の声の反応なし」


 結界術師。


「私も、近づいてほしいように見える」


 アリシア。


「じゃあ」


 子供はゆっくり近づく。


 寝台の横。


 手は握らない。


「朝」


 人影のそばへ座る。


「次、見たい?」


 人影の指が。


 わずかに上がる。


「分からない」


 子供は自分で言う。


「でも、聞いてるように見える」


 そのとき。


 人影の胸へ。


 七つ目の光が浮かんだ。


 全員が息を止める。


「何?」


 子供が尋ねる。


 誰にも分からない。


 人影は朝を見ていない。


 鳥も。


 空も。


 自然光も知らない。


 けれど。


 子供が話した。


 その話を聞いた。


 自分が体験していない時間。


 他者から受け取ったもの。


「思い出?」


 ミレイが呟く。


「人影自身の?」


 アリシアが尋ねる。


「違う」


 子供が言う。


「私の朝」


「うん」


「この人、見てない」


「うん」


「でも、聞いた」


「うん」


「それ、持っていい?」


 人影へ尋ねる。


 光が揺れる。


「私が話したから」


 子供は続ける。


「持っていい」


 初めて。


 子供が自分から。


 何かを渡す。


 名前ではない。


 音でもない。


 朝の話。


 空。


 雲。


 鳥。


 光。


 自分が見た時間。


「持ってほしい?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は考える。


「うん」


「忘れても?」


「この人が?」


「うん」


「嫌」


 少し止まる。


「でも」


「何?」


「忘れたら、また話す」


 人影の胸の七つ目の光が。


 ゆっくり明るくなる。


 ミレイは。


 記録帳へ手を伸ばさなかった。


 子供が朝を見たこと。


 人影へ話したこと。


 七つ目の光。


 大切な変化。


 それでも。


 今は。


 本人たちの間にある時間として。


 少しだけ置いておく。


 昼前。


 学院長は、独立観測室の扱いを見直すための小会議を開いた。


 子供が朝を見たいと希望したこと。


 隔離観測廊まで自力で歩いたこと。


 自然光に異常反応がなかったこと。


 第四の声の干渉も確認されなかったこと。


 人影を置いて外へ出ても。


 戻ったあと、互いの状態が大きく崩れなかったこと。


 一つずつ。


 安全の範囲が広がっている。


「完全隔離を一段階下げる案を出す」


 学院長が言う。


 セレナが顔を上げる。


「どう変えるのですか」


「独立観測室から、生活観測区画へ移す」


「生活?」


 アリシアが尋ねる。


「寝台だけではなく、食事、休息、短い歩行、簡単な日常動作を試せる部屋だ」


「窓は?」


「小さいものがある」


「外へ出る?」


「まだだ」


「水は?」


「洗浄用に最小限。本人が望まなければ使わない」


「文字?」


「外せるものは外す」


「人影も?」


「状態が安定していれば」


 子供は。


 会議へ直接は参加していない。


 だが。


 本人に関わることを。


 本人へ伝えず決めない。


「まず、子供へ話す」


 学院長が言う。


「案として」


 決定ではない。


「人影へは?」


 ミレイが尋ねる。


 難しい。


 言葉がない。


 返事も。


 それでも。


「今までの動きを使って確認する」


 学院長が答える。


「移動させる前に、環境の変化へどう反応するかを見る」


「拒否が分からなければ?」


「移動を延期する」


「子供が一緒に行きたいと言っても?」


「人影側の意思が確認できなければ、別になる可能性がある」


 それを。


 子供が受け入れられるか。


 分からない。


「話します」


 アリシアが言う。


「誰が?」


「私と」


 セレナを見る。


「セレナ」


「はい」


「ミレイも?」


 ミレイは少し考え。


「記録帳を持たずに」


「レオンハルト」


「同行します」


「カイルは」


 扉の外から声。


「呼ばれてないけど聞こえてるぞ」


 セレナが眉を寄せる。


「また盗み聞きですか」


「扉が開いてる」


「だからといって」


「俺も行く」


「子供が入ってよいと言えば」


 アリシアが言う。


 カイルは一瞬黙る。


「……分かった」


 以前なら。


 何でだよと返したかもしれない。


 今は。


 本人へ聞くことを受け入れる。


 会議を終え。


 アリシアたちは独立観測室へ戻る。


 子供は。


 人影の寝台のそばへ座って。


 朝の続きを話していた。


「空、全部青じゃなかった」


 胸の七つの光。


 揺れる。


「灰色も」


 揺れる。


「でも、隙間、青」


 子供が指で。


 小さな隙間を作る。


「鳥、一羽」


 光。


「名前、知らない」


 また。


「でも、飛んだ」


 人影の指が。


 少しだけ上へ動く。


 鳥を真似るように。


 子供が目を見開く。


「飛ぶ?」


 人影の指。


 もう一度。


 上へ。


 少し。


「見たい?」


 子供が尋ねる。


 人影の指が止まる。


「分からない」


 子供は笑う。


「でも、次」


 顔のない人影。


 七つの光。


 一本の指。


 まだ名前はない。


 それでも。


 朝の話を聞き。


 飛ぶ鳥を真似るような動きをした。


 アリシアは。


 その姿を見ながら。


 第四の声が作ろうとしていたものを思い出す。


 すべての呼び方へ。


 同じように。


 迷わず振り向く者。


 今。


 目の前の存在は。


 返事をしない。


 迷う。


 手を離す。


 聞いた音を返す。


 誰かの笑いへ反応する。


 見ていない朝の話を聞く。


 鳥を真似る。


 一つずつ。


 違う反応を増やしている。


 それは。


 器としては。


 不完全になっているのかもしれない。


 けれど。


 人として見るなら。


 少しずつ。


 何かを持ち始めているようにも見えた。


 そして。


 西側貯水槽の底では。


 第四の声が。


 空になった文字環を回し続けていた。


「返事をする器」


 呼ぶ。


 誰も振り向かない。


「捨てられた名」


 返事はない。


「六つ目」


 文字環だけが回る。


「記録係」


 音は。


 壁へ当たり。


 水へ溶ける。


「水」


 セレナはいない。


「光」


 レオンハルトも。


「名なきもの」


 子供も。


 人影も。


 戻ってこない。


 第四の声は。


 初めて。


 呼んでも誰も返事をしない場所へ取り残されていた。


「誤り」


 黒い口が呟く。


「名は、返事」


 だが。


 西側貯水槽から遠く離れた独立観測室では。


 子供が。


 誰にも呼ばれていないのに。


 窓のない天井を見上げ。


 朝に見た鳥を思い出していた。


 人影も。


 名前を呼ばれていないのに。


 一本の指を。


 もう一度だけ。


 空へ向けるように持ち上げた。


 呼ばれなくても。


 返事をしなくても。


 自分から動く。


 朝の光は。


 それを名前で呼ばなかった。


 ただ。


 そこにいた者を。


 同じように照らしていた。

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