第110話 朝の光は名前を呼ばなくても、そこにいる者を照らしてくれる
中央棟北側の隔離観測廊へ向かう準備は、思っていたより時間がかかった。
ただ廊下を歩くだけなら、独立観測室から十五分もあれば着く。
けれど今は、その十五分のために幾つもの確認が必要だった。
通路に水気はないか。
壁へ文字が浮かんでいないか。
窓硝子の反射へ第四の声が入り込む可能性はないか。
移動中にすれ違う者はいないか。
子供が疲れた場合、途中で休める場所はあるか。
そして。
もし途中で「戻りたい」と言ったとき、誰がそれを聞き、どこまで戻るのか。
学院長は、移動そのものより、その途中で起きる変更へ時間を使っていた。
「観測廊は現在閉鎖済みです」
副学院長が簡易地図を机へ広げる。
「北側階段から二階へ上がり、連絡通路を一つ。途中に窓はありません。観測廊へ入る直前の扉から自然光が入ります」
「そこが最初に空を見る場所?」
アリシアが尋ねる。
「直接空が見えるのは、観測廊へ入ってからだ」
「扉の前で怖くなったら?」
「入らない」
学院長は即答した。
「今日の目的は、朝を見ることだ。観測廊へ入ることではない」
「扉の前まで行って戻っても?」
「本人がそれを選べば、今日の移動はそこで終わる」
アリシアはうなずいた。
その確認を聞いていた子供は、独立観測室の寝台へ腰掛けたまま、自分の足へ巻かれた柔らかい布を見ていた。
冷たい石はもう外してある。
足の熱は少し引いた。
歩けないほどではない。
けれど、長く歩けば痛みが戻る可能性はある。
「歩く?」
アリシアが尋ねる。
子供は答える前に、床を見た。
独立観測室からここまで歩いてきたとき。
足が痛くなった。
朝を見たい。
でも、また痛くなるかもしれない。
「少し」
「途中で痛くなったら?」
「止まる」
「戻りたくなったら?」
「戻る」
「抱えて運ぶ?」
子供がアリシアを見る。
「嫌」
「分かった」
「でも、歩けなくなったら」
「そのときもう一回聞く」
「今は、抱かない?」
「うん」
子供は安心したようにうなずいた。
「手」
「つなぐ?」
「うん」
「ずっと?」
「分からない」
「途中で離してもいい」
「またつなぐ?」
「子供がつなぎたいって言ったら」
「分かった」
隣の寝台。
顔のない人影は、六つの光を胸へ宿したまま横たわっている。
子供はそちらを見る。
「この人」
「うん」
「置いていく」
「うん」
「嫌かな」
「分からない」
すぐに答えを決めない。
「でも、ノアが残る」
アリシアが言う。
寝台の間に座っていたノアが、面倒そうに片耳を動かす。
『残るわよ』
「ノアは残るって」
「ノア」
子供が呼ぶ。
『いるわ』
「聞こえない」
「でも、いる」
「うん」
「私が戻ったとき」
子供は少し考える。
「まだ、いて」
『当たり前でしょう』
「いてくれるって」
「本当?」
「うん」
子供は人影へ向き直る。
「朝、見てくる」
返事はない。
「戻る」
胸の六つの光が、同じ間隔で揺れる。
「聞いた?」
子供が尋ねる。
アリシアは人影を見る。
「そう見える」
「私も」
子供は自分でうなずいた。
「行く」
移動が始まった。
先頭は警備隊員一名。
その後ろに結界術師。
子供。
アリシア。
ミレイ。
セレナ。
治療教師。
レオンハルト。
最後尾をもう一人の警備隊員が守る。
カイルはさらに外側。
通路の交差点ごとに先回りし、周囲へ人が入らないよう確認している。
学院長と副学院長は、直接列へ入らず通信中継室から全体を管理する。
誰か一人へ人数を集めない。
役割を分ける。
独立観測室の扉を出る。
子供は最初の一歩で止まった。
「どうした?」
アリシアが尋ねる。
「この前と、違う」
「何が?」
「音」
通路。
遠くで。
学院が朝を始める音がする。
扉が開く音。
食堂から運ばれる皿。
廊下を歩く足音。
誰かが笑う声。
授業再開の準備をする教師。
独立観測室の中には、ほとんど届かなかった生活の音。
「人がいる?」
「いる」
「見えない」
「別の場所に」
「私のこと、知ってる?」
「一部の人は」
子供の身体が硬くなる。
「名前」
「知らない」
「音は?」
「三つの音も知らない」
「本当?」
「知ってるのは、今まで聞いた人だけ」
「第四の声は」
「別」
アリシアは隠さない。
「第四の声は知ってる可能性がある」
「でも、人は?」
「知らない」
子供は少し安心したように息を吐く。
「見られる?」
「この通路には来ない」
「あとで?」
「地上へ出るようになれば、見る人はいると思う」
「嫌」
「今は出ない」
「でも、朝」
「観測廊からなら、人に見られず空だけ見られる」
子供はアリシアの手を握る。
「行く」
一歩。
二歩。
足音が石床へ重なる。
水の中では。
歩く音はなかった。
今は、自分の足が床へ触れるたび。
小さな音が返ってくる。
「私」
子供が言う。
「音、出してる」
「足音?」
「うん」
「嫌?」
「分からない」
「止めたい?」
「でも、歩いたら出る」
「ゆっくりなら小さくなる」
「やって」
アリシアは歩幅を狭める。
子供も真似る。
先ほどより足音が小さくなる。
「消えない」
「完全には」
「名前みたい?」
「何が?」
「私が嫌でも、出る」
アリシアは少し考えた。
「似てるところはあるかも」
「止められない?」
「立ち止まれば」
「でも、進めない」
「うん」
「じゃあ」
子供は足元を見る。
「出てもいい音?」
「子供が嫌なら、嫌でいい」
「でも、出る」
「出ることと、好きなことは別」
「嫌だけど、歩く?」
「うん」
子供はまた一歩進む。
自分の足音。
嫌いではない。
好きでもない。
ただ、今の自分が歩けば出る音。
それへ名前を付けなくても。
聞こえる。
二つ目の角を曲がったところで。
子供が立ち止まる。
「痛い?」
セレナが後ろから尋ねる。
「少し」
「どこ?」
子供は足を見る。
「柔らかい布のところ」
「擦れた場所ですね」
「触らない?」
「今は触りません」
「休む?」
アリシアが尋ねる。
子供は前を見る。
観測廊まで、まだ少しある。
「座るところ」
警備隊員が壁際へ置かれた小さな椅子を示す。
文字も印もない。
「ここ」
子供は慎重に座る。
アリシアの手を離す。
自分から。
そのことへ気づいたのか。
子供は離した手を見る。
「今、離した」
「うん」
「アリシア、いる?」
「いる」
「離しても?」
「いる」
子供は少し笑う。
「この前と同じ」
「人影と?」
「うん」
「離れても、いる」
「うん」
子供は一度、自分の両手を膝へ置く。
誰にも触れていない。
それでも。
周囲には人がいる。
「アリシア」
「うん」
「手、つながなくても歩けるかも」
「試す?」
「少し」
「転びそうなら?」
「言う」
「触っていいか聞く」
「うん」
休憩後。
子供は一人で立つ。
アリシアは半歩横。
手は出さない。
一歩。
身体が揺れる。
子供が腕を広げてバランスを取る。
二歩。
三歩。
足音。
自分の身体。
「いる」
子供が呟く。
「何が?」
「私」
アリシアは何も付け足さなかった。
名前がなくても。
手をつながなくても。
足が痛くても。
歩けば揺れて。
声を出せば響いて。
自分で転ばないよう身体を動かす。
それが。
今ここにいるという感覚へつながっている。
観測廊の手前。
最後の鉄扉へ到着する。
その向こうには。
自然光。
子供は扉を見上げる。
「朝?」
「この向こう」
レオンハルトが答える。
「眩しいかもしれません」
「痛い?」
「目が慣れていないと、痛く感じる可能性があります」
「閉じる?」
「目を?」
「うん」
「急に閉じても構いません」
「見えなくなる」
「また開けられます」
「本当?」
「はい」
「朝、消えない?」
「すぐには」
子供は扉へ近づかない。
呼吸が少し速くなる。
「開ける?」
学院長の声が通信具から届く。
「本人へ確認を」
アリシアが子供を見る。
「開けていい?」
子供は迷う。
「少し」
「どのくらい?」
「分からない」
「隙間だけ?」
「うん」
警備隊員が。
ほんの指二本分だけ。
扉を開く。
一筋の光が。
暗い通路へ入る。
子供の足元へ。
朝の光。
薄い金色。
雨は降っていない。
雲の間から差し込む柔らかな光。
子供が息を止める。
「これ」
「光」
レオンハルトが言う。
「神器?」
「違います」
子供がレオンハルトを見る。
「光なのに?」
「太陽の光です」
「太陽」
「空にあります」
「見える?」
「扉を開けば」
子供は足元へ落ちた光へ、手を伸ばす。
触れる。
「熱くない」
「今の時間は強くありません」
「声、ない」
「うん」
アリシアが答える。
「名前、呼ばない」
「うん」
「でも、私に当たる」
「うん」
「私って分かってる?」
「太陽が?」
「うん」
「たぶん、分かってない」
子供は驚いた顔をする。
「じゃあ、どうして」
「そこにいるから」
光は。
名前を知らない。
役割も。
三つの音も。
水中の記録も。
五百人の名前も知らない。
ただ。
扉の隙間から差し込み。
そこにいた子供の手を照らしている。
「私じゃなくても?」
「そこに誰かいれば」
「同じ?」
「光は当たると思う」
「名前、いらない?」
「いらない」
子供は。
手の甲へ落ちる光を見る。
「でも」
少し指を動かす。
「私に、当たってる」
「うん」
誰にでも当たる光。
だから意味がないのではない。
今。
自分がそこにいるから。
自分の手が明るくなっている。
「もっと、開ける?」
アリシアが尋ねる。
子供は迷う。
「少し」
扉が。
もう少し開く。
光の帯が広がる。
子供の足。
膝。
胸元。
顔。
眩しさに。
目を細める。
「痛い?」
「眩しい」
「嫌?」
「分からない」
「閉める?」
「待って」
目を細めたまま。
扉の向こうを見る。
観測廊。
その先。
厚い硝子。
さらに向こうに。
空。
子供の身体が止まる。
「青」
今日は。
雲が多い。
完全な青空ではない。
灰色の雲。
その隙間。
薄い青。
「空」
セレナが言う。
子供は動かない。
「水?」
「違います」
「青い」
「似た色のときもあります」
「落ちる?」
「空が?」
「うん」
「落ちません」
「ずっと上?」
「はい」
「水は下」
「多くは」
「空は上」
「はい」
子供は。
水へ沈んでいた記憶を思い出したのか。
上を見たまま。
身体が少し震える。
「怖い?」
セレナが尋ねる。
「広い」
「うん」
アリシアも。
その言葉を受ける。
「終わらない?」
「見える範囲では、ずっと続いてる」
「壁、ない」
「うん」
「落ちそう」
「床がある」
子供が足元を見る。
石床。
自分の足。
柔らかい布。
「上、広い」
「うん」
「下、ある」
「うん」
「私、ここ」
「うん」
子供は一歩。
観測廊へ入る。
誰の手も握らず。
もう一歩。
眩しさへ目を細めながら。
厚い防護硝子の前まで。
途中で。
アリシアを見る。
「手」
「つなぐ?」
「今は」
少し迷い。
「いらない」
「分かった」
「でも、近く」
「ここにいる」
子供は硝子の前へ立つ。
朝の中庭。
露に濡れた草。
遠くの木々。
学院の屋根。
白い雲。
空。
鳥が一羽。
横切る。
「何?」
「鳥」
「小さい」
「遠いから」
「落ちない?」
「飛んでる」
「どうして」
「翼があるから」
「人影、翼ない」
「うん」
「私も」
「うん」
「飛べない?」
「たぶん」
「名前、なくても?」
「名前があっても飛べない人は多い」
子供が少し笑う。
「アリシアも?」
「飛べない」
『私も自力では飛べないわよ』
「ノアも?」
「飛べないって」
「カイル」
外周側の廊下。
「飛べないぞ」
「セレナ」
「飛べません」
「レオンハルト」
「神器を使えば浮くことはできますが、鳥のようには」
「ミレイ」
「もちろん飛べません」
子供は。
少し長く笑った。
「みんな、飛べない」
「鳥以外はね」
「鳥、名前ある?」
「種類の名前は」
「一羽の名前」
「分からない」
「名前なくても、飛ぶ」
「うん」
空を横切る鳥。
誰も名前を知らない。
でも。
そこにいた。
飛んだ。
消えたわけではない。
「朝」
子供が言う。
「名前、いらないもの、多い」
「うん」
「空」
「うん」
「光」
「うん」
「鳥」
「種類の名前はあるけど」
「でも、あれの名前、知らない」
「うん」
「それでも、見えた」
「うん」
子供は硝子へ顔を近づける。
触れる直前で止める。
「触っていい?」
警備隊員が結界術師を見る。
「硝子自体に異常なし」
「触りたい?」
アリシアが尋ねる。
「うん」
「触っていいって」
子供は指先を硝子へつける。
冷たい。
その向こう。
空。
「壁、ある」
「硝子」
「空までじゃない」
「うん」
「私と空の間」
「今は」
「壊す?」
「壊さない」
「どうして」
「外へ出る準備がまだできてないから」
「安全?」
「それも」
「閉じ込める?」
また。
同じ問い。
「今は、外へ出ないための壁」
アリシアが答える。
「でも」
子供が言う。
「朝、見える」
「うん」
「なら、少しだけ外?」
「そう感じる?」
「分からない」
完全に出る。
完全に閉じ込める。
二つだけではない。
硝子越し。
扉の内側。
光だけ受ける。
間の場所。
「外、怖い」
子供が言う。
「うん」
「でも、見たい」
「うん」
「両方」
「うん」
「どっちか、決めなくていい?」
「うん」
子供は長く空を見る。
その後ろ。
ミレイは。
記録帳を持っていない。
朝を見た時刻。
最初に空を見た反応。
鳥。
光。
すべて残したい。
でも。
今は。
子供が朝を見ている時間を。
記録へ変えない。
「ミレイ」
子供が振り返る。
「はい」
「書かない?」
「今は」
「どうして」
「私も朝を見ています」
子供は少し驚く。
「何回目?」
「数え切れないくらい」
「それでも見る?」
「はい」
「同じじゃない?」
「今日の空は、今日しか見られません」
「記録する?」
「しません」
「忘れる」
「忘れるかもしれません」
「いい?」
「今は」
子供は空を見る。
「私も」
「はい」
「忘れるかも」
「はい」
「でも、今日見た」
「はい」
残らないかもしれない。
でも。
今はある。
「人影」
子供の表情が変わる。
「どうした?」
「見せたい」
「朝を?」
「うん」
「でも、今日は残った」
「うん」
「次に?」
「次、ある?」
「朝はまた来る」
「同じじゃない」
「うん」
「でも、朝」
「うん」
子供は少し悔しそうに。
でも、納得しようとする。
「今日は、私」
「うん」
「次は、この人」
「人影が見たいように見えたら」
「どうやって聞く?」
「これから考える」
「言葉ない」
「動きはある」
「光も」
「うん」
「じゃあ」
子供は。
硝子から離れる。
「戻る」
「もういい?」
「朝、見た」
「もっと見なくていい?」
「見たい」
「なら」
「でも」
胸へ手を当てる。
「この人に、話したい」
アリシアはうなずいた。
「戻ろう」
帰り道。
子供は。
最初よりゆっくり歩いた。
足が少し痛い。
でも。
一人で歩く。
途中。
何度かアリシアの手へ視線を向ける。
それでも。
つながない。
「手、いらない?」
アリシアが尋ねる。
「今は」
「うん」
「でも、転びそうなら」
「聞く」
「分かった」
連絡通路。
遠くで。
学院の生徒たちの声が聞こえる。
「授業?」
「そろそろ」
「みんな、名前ある?」
「多分」
「嫌な名前も?」
「ある人もいる」
「名前なくても、授業できる?」
「学院では登録名が必要になることが多い」
「私、無理?」
「今すぐ入る話じゃない」
「でも、外へ出たら」
「そのとき考える」
「名前、決めろって言われる?」
学院。
記録。
寮。
治療。
生活。
社会は。
名前を必要とする。
第四の声ほど強引ではなくても。
名前がないと不便な場所は多い。
「必要になる場面はある」
ミレイが答える。
「でも」
アリシアが続ける。
「仮の呼び方でもいい方法を探す」
「仮」
「リィみたいに」
「リィ」
子供が思い出す。
「二つ持ってる」
「うん」
「本当の名前、決めてない?」
「どちらも持ってる」
「私も?」
「三つの音を持ってる」
「でも、呼ばれ方ない」
「必要なら、仮の呼び方を自分で作る方法もある」
「今?」
「今じゃなくていい」
「朝、名前いらなかった」
「うん」
「でも、学院はいる」
「場面によって違う」
「面倒」
「うん」
アリシアは少し笑った。
「私もそう思う」
子供も笑う。
「アリシア、名前あるのに?」
「あるから面倒なこともある」
「六つ目?」
胸が少し痛む。
けれど。
子供はからかっているわけではない。
「それも」
「嫌?」
「呼ばれ方としては」
「でも、言った」
「子供が聞いたから」
「今、嫌だった?」
「少し」
子供の顔が固まる。
「ごめん」
「聞きたい?」
「何を」
「今どうしてほしいか」
以前なら。
ただ謝って終わっていたかもしれない。
今は。
自分から尋ねる。
「アリシアって呼んで」
子供はすぐにうなずく。
「アリシア」
「うん」
胸の硬さが少しほどける。
「これで?」
「少し」
「全部じゃない?」
「嫌だった気持ちは、すぐ消えない」
「でも、変わる?」
「うん」
「分かった」
子供は覚える。
嫌な呼び方をした。
謝る。
本人が望む呼び方を聞く。
呼び直す。
それで。
嫌だった事実が消えるわけではない。
でも。
そのあとを作ることはできる。
独立観測室の前へ戻る。
ノアが。
扉の内側から待っていた。
子供の姿を見ると。
尾を一度立てる。
『戻ったのね』
「ノア」
子供が呼ぶ。
『ええ』
「ただいま」
アリシアがノアの返事を伝える前に。
ノアが子供の足へ身体を擦りつける。
子供が驚く。
「触った」
『嫌なら離れるわ』
「嫌じゃない」
ノアはそのまま一度だけ擦り。
すぐに離れる。
「ノアも、離れた」
「うん」
「でも、いる」
「うん」
子供は独立観測室へ入る。
人影。
寝台。
胸の六つの光。
変化はない。
「戻った」
子供が言う。
人影へ。
「朝、見た」
六つの光が揺れる。
「空」
揺れる。
「青かった」
また。
「雲もあった」
光。
「鳥」
子供が笑う。
「名前、知らない鳥」
六つの光が。
同時に強くなる。
「飛んだ」
人影の指が動く。
子供は駆け寄りそうになる。
足を止める。
「近づいていい?」
人影へ尋ねる。
人影の指が。
寝台の端へ。
少し外側へ動く。
子供の方。
「来てほしい?」
返事はない。
「そう見える?」
子供がアリシアたちを見る。
「指が子供の方へ動きました」
ミレイ。
「胸の光が強くなっています」
レオンハルト。
「第四の声の反応なし」
結界術師。
「私も、近づいてほしいように見える」
アリシア。
「じゃあ」
子供はゆっくり近づく。
寝台の横。
手は握らない。
「朝」
人影のそばへ座る。
「次、見たい?」
人影の指が。
わずかに上がる。
「分からない」
子供は自分で言う。
「でも、聞いてるように見える」
そのとき。
人影の胸へ。
七つ目の光が浮かんだ。
全員が息を止める。
「何?」
子供が尋ねる。
誰にも分からない。
人影は朝を見ていない。
鳥も。
空も。
自然光も知らない。
けれど。
子供が話した。
その話を聞いた。
自分が体験していない時間。
他者から受け取ったもの。
「思い出?」
ミレイが呟く。
「人影自身の?」
アリシアが尋ねる。
「違う」
子供が言う。
「私の朝」
「うん」
「この人、見てない」
「うん」
「でも、聞いた」
「うん」
「それ、持っていい?」
人影へ尋ねる。
光が揺れる。
「私が話したから」
子供は続ける。
「持っていい」
初めて。
子供が自分から。
何かを渡す。
名前ではない。
音でもない。
朝の話。
空。
雲。
鳥。
光。
自分が見た時間。
「持ってほしい?」
アリシアが尋ねる。
子供は考える。
「うん」
「忘れても?」
「この人が?」
「うん」
「嫌」
少し止まる。
「でも」
「何?」
「忘れたら、また話す」
人影の胸の七つ目の光が。
ゆっくり明るくなる。
ミレイは。
記録帳へ手を伸ばさなかった。
子供が朝を見たこと。
人影へ話したこと。
七つ目の光。
大切な変化。
それでも。
今は。
本人たちの間にある時間として。
少しだけ置いておく。
昼前。
学院長は、独立観測室の扱いを見直すための小会議を開いた。
子供が朝を見たいと希望したこと。
隔離観測廊まで自力で歩いたこと。
自然光に異常反応がなかったこと。
第四の声の干渉も確認されなかったこと。
人影を置いて外へ出ても。
戻ったあと、互いの状態が大きく崩れなかったこと。
一つずつ。
安全の範囲が広がっている。
「完全隔離を一段階下げる案を出す」
学院長が言う。
セレナが顔を上げる。
「どう変えるのですか」
「独立観測室から、生活観測区画へ移す」
「生活?」
アリシアが尋ねる。
「寝台だけではなく、食事、休息、短い歩行、簡単な日常動作を試せる部屋だ」
「窓は?」
「小さいものがある」
「外へ出る?」
「まだだ」
「水は?」
「洗浄用に最小限。本人が望まなければ使わない」
「文字?」
「外せるものは外す」
「人影も?」
「状態が安定していれば」
子供は。
会議へ直接は参加していない。
だが。
本人に関わることを。
本人へ伝えず決めない。
「まず、子供へ話す」
学院長が言う。
「案として」
決定ではない。
「人影へは?」
ミレイが尋ねる。
難しい。
言葉がない。
返事も。
それでも。
「今までの動きを使って確認する」
学院長が答える。
「移動させる前に、環境の変化へどう反応するかを見る」
「拒否が分からなければ?」
「移動を延期する」
「子供が一緒に行きたいと言っても?」
「人影側の意思が確認できなければ、別になる可能性がある」
それを。
子供が受け入れられるか。
分からない。
「話します」
アリシアが言う。
「誰が?」
「私と」
セレナを見る。
「セレナ」
「はい」
「ミレイも?」
ミレイは少し考え。
「記録帳を持たずに」
「レオンハルト」
「同行します」
「カイルは」
扉の外から声。
「呼ばれてないけど聞こえてるぞ」
セレナが眉を寄せる。
「また盗み聞きですか」
「扉が開いてる」
「だからといって」
「俺も行く」
「子供が入ってよいと言えば」
アリシアが言う。
カイルは一瞬黙る。
「……分かった」
以前なら。
何でだよと返したかもしれない。
今は。
本人へ聞くことを受け入れる。
会議を終え。
アリシアたちは独立観測室へ戻る。
子供は。
人影の寝台のそばへ座って。
朝の続きを話していた。
「空、全部青じゃなかった」
胸の七つの光。
揺れる。
「灰色も」
揺れる。
「でも、隙間、青」
子供が指で。
小さな隙間を作る。
「鳥、一羽」
光。
「名前、知らない」
また。
「でも、飛んだ」
人影の指が。
少しだけ上へ動く。
鳥を真似るように。
子供が目を見開く。
「飛ぶ?」
人影の指。
もう一度。
上へ。
少し。
「見たい?」
子供が尋ねる。
人影の指が止まる。
「分からない」
子供は笑う。
「でも、次」
顔のない人影。
七つの光。
一本の指。
まだ名前はない。
それでも。
朝の話を聞き。
飛ぶ鳥を真似るような動きをした。
アリシアは。
その姿を見ながら。
第四の声が作ろうとしていたものを思い出す。
すべての呼び方へ。
同じように。
迷わず振り向く者。
今。
目の前の存在は。
返事をしない。
迷う。
手を離す。
聞いた音を返す。
誰かの笑いへ反応する。
見ていない朝の話を聞く。
鳥を真似る。
一つずつ。
違う反応を増やしている。
それは。
器としては。
不完全になっているのかもしれない。
けれど。
人として見るなら。
少しずつ。
何かを持ち始めているようにも見えた。
そして。
西側貯水槽の底では。
第四の声が。
空になった文字環を回し続けていた。
「返事をする器」
呼ぶ。
誰も振り向かない。
「捨てられた名」
返事はない。
「六つ目」
文字環だけが回る。
「記録係」
音は。
壁へ当たり。
水へ溶ける。
「水」
セレナはいない。
「光」
レオンハルトも。
「名なきもの」
子供も。
人影も。
戻ってこない。
第四の声は。
初めて。
呼んでも誰も返事をしない場所へ取り残されていた。
「誤り」
黒い口が呟く。
「名は、返事」
だが。
西側貯水槽から遠く離れた独立観測室では。
子供が。
誰にも呼ばれていないのに。
窓のない天井を見上げ。
朝に見た鳥を思い出していた。
人影も。
名前を呼ばれていないのに。
一本の指を。
もう一度だけ。
空へ向けるように持ち上げた。
呼ばれなくても。
返事をしなくても。
自分から動く。
朝の光は。
それを名前で呼ばなかった。
ただ。
そこにいた者を。
同じように照らしていた。




