第111話 暮らすための部屋には、役割より先に置きたいものがある
生活観測区画へ移すという話を聞いたとき、水の外へ出た子供は、すぐには返事をしなかった。
独立観測室の寝台へ座り、両手を膝の上に置いたまま、学院長から説明された内容を一つずつ胸の中で確かめているようだった。今いる部屋より少し広く、小さな窓があり、食事をするための机も置かれている。歩く練習ができ、休む場所と話す場所も少し離せるという。
必要なら文字を置かないまま生活できる。水は最小限に抑えられ、誰かが勝手に入ってくることもない。
そして、顔のない存在も状態が許せば一緒に移る。
「生活」
子供がようやく、その言葉を口にした。
「はい」
学院長は独立観測室の扉の外に立ったまま答える。子供との距離も、これまで通り勝手には縮めない。
「観測だけのためではなく、できるだけ日常に近い過ごし方を試す区画です」
「日常」
「毎日することです」
「何を?」
「食べる。眠る。休む。話す。歩く。それから、何もしない時間を過ごすことも含みます」
「何もしない?」
子供の眉が少し寄った。
「役に立たない?」
その問いに、室内と扉の外にいた者たちの表情がわずかに変わった。
水の中で名前を抱え、記録を保ち、第四の声を聞き、輪の中へ入るよう求められていた子供にとって、何かをすることは単なる行動ではなかったのかもしれない。役割を果たすことそのものが、自分がそこにいてよい理由だった可能性がある。
「役に立たなくてもいい時間です」
アリシアが言った。
子供がこちらを見る。
「何もしないのに?」
「うん」
「怒られない?」
「たぶん」
『そこは断言しなさい』
足元にいたノアがすかさず口を挟んだ。
アリシアは少しだけ眉を下げる。
「怒られない」
言い直すと、子供の口元がわずかに緩んだ。
「アリシア、今ノアに怒られた」
「注意されただけ」
『訂正よ』
「訂正だって」
「同じ?」
「少し違う」
「難しい」
「うん」
短いやり取りのあと、子供はまた生活観測区画の話へ意識を戻した。
「何もしないとき、名前いらない?」
「いらないと思う」
「役割も?」
「いらない」
「この人も?」
子供が隣の寝台を見る。
顔のない存在の胸には、七つの光が浮かんでいた。子供が朝の空や鳥の話をしたあとから、それらは弱く、けれど一定の間隔で揺れ続けている。
「人影も――」
アリシアはそこまで言いかけて、自分で止まった。
「この存在も、何もしなくていい時間がある」
「人影って呼んだ」
子供はすぐに気づいた。
「うん」
「嫌か分からない」
「うん」
「なら、呼ばなくても話せる?」
「話せる」
アリシアは顔のない存在へ視線を向けた。
「これから移動の話をするけど、聞こえていますか」
七つの光が一度だけ揺れる。
「生活するための部屋へ移る案があります。今より窓があって、子供も一緒に行きたいと言っています」
子供がぱっと顔を上げた。
「まだ、言ってない」
「あ」
アリシアの言葉が止まる。
『先走ったわね』
ノアが呆れたように言う。
「ごめん」
アリシアはすぐ子供を見る。
「一緒に行きたい?」
「分からない」
「うん」
「朝の話、もっとしたい」
「うん」
「食べるのも」
「うん」
「でも」
子供は独立観測室を見回した。
「ここ、知ってる」
その言葉に、アリシアも静かに部屋を見る。
ここは子供が初めて水の外で眠った場所だった。顔のない存在と手を握り、離し、三つ目の音を返してもらい、黒月で線を切った場所でもある。泣いて、怖がって、少し笑い、食べ、足を治した。
過ごした時間は短い。
それでも、もう知らない場所ではない。
「移ったら、ここなくなる?」
「部屋は残ります」
学院長が答えた。
「私たちがいなくても?」
「はい」
「同じ?」
「部屋そのものは残ります」
「でも、私たちいない」
「うん」
アリシアが答える。
「だから、同じではないかも」
「戻れる?」
「必要なら」
学院長が続ける。
「いつでも?」
「安全上、確認が必要な場合はあります」
「すぐじゃない?」
「そうだ」
子供は少し不満そうな顔をした。
「生活の部屋、嫌だったら?」
「戻りたいと伝えてよい」
「戻れるかは、また話す?」
「そうなる」
「面倒」
扉の外から、カイルが小さく笑った。
「学院ってそういうところだ」
「あなたは黙ってください」
セレナがすぐに止める。
「俺、何も悪いこと言ってないだろ」
「今は説明中です」
「聞いてただけだ」
子供が扉の方を見る。
「カイル」
「いる」
「生活の部屋、行ったことある?」
「ない」
「じゃあ、知らない」
「知らない」
「なのに、学院は面倒って知ってる?」
「それは知ってる」
「どうして」
「長くいるから」
「生活の部屋に行ってなくても?」
「学院全体の話だからな」
子供はしばらく考えた。
「知らないことと、知ってること、一緒」
「あるな」
「分からないことも?」
「いっぱいある」
「火なのに?」
「火の神器を持ってても、何でも知ってるわけじゃないぞ」
「レオンハルトも?」
「もちろんです」
「セレナも?」
「はい」
「ミレイ」
「分からないことばかりです」
「アリシア」
「一番多いかも」
『競うものではないわ』
「ノアにも言われた」
子供が少しだけ笑う。
その笑いに合わせたように、顔のない存在の七つの光が同時に揺れた。
「今、動いた」
子供がすぐにそちらを見る。
「うん」
「笑うと?」
「前も動いた」
「じゃあ」
子供は、今度はわざと笑おうとした。口角だけを持ち上げ、さっきの自分の顔を真似する。
けれど、七つの光は動かなかった。
「動かない」
「本当に笑ってないから?」
アリシアが尋ねる。
「笑った形」
「うん」
「笑いじゃない?」
「たぶん」
「分かる?」
子供が顔のない存在へ向けて聞いた。
「私が、本当に笑ったか」
七つの光のうち、一つだけが小さく揺れる。
「今は?」
「分からない」
アリシアは正直に答えた。
「でも、さっきとは違う反応だった」
「顔ないのに」
「うん」
「名前もない」
「うん」
「でも、違い分かる?」
「そうかもしれない」
第四の声は音だけを拾い、呼ばれ方から意味を削り落としていた。誰がどんな気持ちで呼び、その音を本人がどう感じていたかを無視し、返事だけを残そうとした。
けれど、目の前の存在は違う。
同じように見える笑顔の形と、本当にこぼれた笑い声に、少しずつ別の反応を見せ始めている。
「生活の部屋」
子供がまた言った。
「この人にも聞く?」
「うん」
「どうやって」
「今までと同じように」
アリシアは顔のない存在へ向き直る。
「今いる部屋を離れる話です」
七つの光に変化はない。
「窓がある部屋です」
今度は少し揺れた。
「自然の光が入ります。子供が見た朝に、少し近い場所です」
七つの光のうち二つが、今度は同時に強くなる。
「空、見たい?」
子供が身を乗り出した。
顔のない存在の指が、寝台の上でゆっくり持ち上がる。以前、鳥の話を聞いたときにも見せた、空へ向けるような動きだった。
「行きたい?」
指が、窓のない壁の方へ少し向く。
「窓、分かる?」
反応はない。
「朝、見たい?」
指がもう一度上がった。
「行きたいように見える」
子供が言う。
「私にもそう見える」
アリシアが続ける。
「朝という言葉への反応が複数回確認されています」
ミレイも慎重に言う。
「光の強まりもあります」
レオンハルトが補足した。
「第四の声からの反応はありません」
結界術師が確認する。
「では」
学院長が口を開いた。
「移動そのものへの拒否反応がないか、もう一つ確認する」
「何を?」
子供が尋ねる。
「朝や窓ではなく、ここから出ること自体です」
学院長は顔のない存在へ向け、言葉を選びながら説明した。
「ここを離れます。戻る可能性はありますが、次の部屋を気に入れば、長くそこで過ごすかもしれません」
七つの光が一度揺れる。
「この寝台も、そのままでは持っていかない予定です」
子供が驚いて振り返った。
「寝台、違う?」
「生活観測区画のものを使う予定だった」
「これ、持っていけない?」
「必要なら検討する」
「どうして最初に言わないの」
責めるような声だった。
学院長は言い訳せずに受け止める。
「説明が不足していた」
「全部言ったって言った」
「全部とは言っていない」
「でも、部屋が変わるって」
「その中に家具まで含まれると、こちらが考えていた」
「私は分からなかった」
「こちらの伝え方が悪かった」
子供は自分の寝台と、隣の寝台を交互に見る。
「この人、寝台好きかも」
「分からない」
「ここで光増えた」
「うん」
「なら、持っていきたい」
子供は学院長を見る。
「子供自身は?」
「私も」
「理由は?」
「知ってるから」
新しい部屋、新しい窓、新しい机、新しい床。
全部を一度に変えることが、怖い。
「二台とも移動可能か確認する」
学院長が警備責任者へ向く。
「結界ごと運べます」
土の神器継承者が答える。
「ただし通路幅が狭いので、寝台一台ずつになります」
「別々?」
子供の顔が硬くなる。
「時間差は短い」
「どっち先?」
「それも決める」
「同じじゃない」
「うん」
アリシアが言う。
「一緒に移動できないなら」
子供は顔のない存在を見る。
「この人、先」
「どうして?」
「新しい部屋、一人になる」
「子供は後から行く?」
「うん」
「ここでは?」
「ノアがいる」
『便利に使うわね』
「ノア、嫌?」
『嫌じゃない』
「嫌じゃないって」
「なら決める」
子供は少しだけ強い声になった。
「この人の寝台が先。ノアも一緒」
『私もかしら』
「一緒」
『仕方ないわね』
そう言いながら、ノアはどこか満足そうに尾を振る。
「子供は、そのあと?」
「アリシアと」
「うん」
「ミレイも?」
「行きます」
「セレナ」
「同行できます」
「レオンハルト」
「はい」
「カイル」
扉の外から返事がくる。
「俺も?」
「外?」
「たぶん外周だ」
「なら、いる?」
「いる」
「分かった」
誰がどこへいるのか。
誰が先に移り、誰が後から来るのか。
一つずつ決めていく。
その途中で、顔のない存在がゆっくり自分の寝台の縁へ手を置いた。
「何?」
子供がすぐに見る。
指先が寝台の布へ触れ、何度か同じ場所をなぞる。
「寝台?」
胸の光が少し強くなる。
「持っていきたい?」
七つの光が、今度ははっきり明るさを増した。
「そう見える」
子供が笑った。
「同じ」
「何が?」
「私も持っていきたい」
二つの存在が、同じものを望んでいるかもしれない。
そんな瞬間は、これが初めてだった。
ただし、理由まで同じだとは決めない。
「好きだから?」
子供が尋ねる。
反応はない。
「知ってるから?」
少し揺れる。
「分からない」
「うん」
「でも、持っていきたいように見える」
「うん」
生活観測区画への移動は、昼の鐘が鳴る前に行われることになった。
それまでのあいだ、子供は新しく用意された少量の粥を食べた。
最初の三口は昨日と同じ薄い味だったが、四口目だけは別の小皿へ分けられ、セレナがごく少量の塩を加えた。
「白い」
子供が塩を見る。
「砂?」
「塩です」
「名前、一つ?」
「いろいろ種類があります」
「これ」
「食塩と呼ばれます」
「私は?」
「何と呼びたいですか」
子供は、確認を終えた一粒を指先へ乗せてもらう。
「小さい白」
「それでよいです」
「味は?」
「舐めると分かります」
「怖い」
「やめますか」
「少しだけ」
舌先へ乗せた瞬間、子供の顔が大きく歪んだ。
「嫌!」
扉の外でカイルが思わず笑う。
「しょっぱかったか」
「強い!」
「一粒で?」
「初めてなのですから当然です」
セレナがカイルを見る。
「カイルは慣れすぎです」
「別に塩をそのまま舐めてるわけじゃないだろ」
「今、笑いましたね」
「反応が面白かった」
子供がカイルを睨んだ。
「嫌」
カイルの笑いがすぐ止まる。
「悪い」
「今、笑われるの嫌」
「聞いた」
子供は舌を少し出しながら、もう一度塩を見る。
「でも、小さい白すごい」
「少しなら粥の味が変わる」
「入れる」
今度は本当にわずかな量だけ粥へ混ぜる。
一口食べると、子供の表情がさっきとは変わった。
「どう?」
「違う」
「嫌?」
「さっきより、いい」
「塩味があった方が好き?」
「今は」
「分かりました」
セレナがうなずく。
「じゃあ」
子供が言う。
「私、薄いより、少し小さい白がある方が好き」
「そうですね」
「これも、私?」
「うん」
アリシアが答える。
「名前じゃないけど?」
「うん」
「好きな味」
「うん」
好き。
嫌い。
少し嫌。
今は好き。
昨日と違う。
そういう小さな違いが、名前とは別の形で子供の輪郭を増やしていく。
「この人、味分かる?」
子供が顔のない存在を見る。
「分からない」
「食べられる?」
「それも、今は分かりません」
治療教師が答える。
「身体の構造が人間と同じか確認できていないので」
「食べないと?」
「今のところ弱る様子はありません」
「私は?」
「食べることで身体へ変化が出ています」
「違う?」
「はい」
子供は少し寂しそうに顔を曇らせた。
「一緒に食べられない」
「今は」
アリシアが言う。
「今は、が多い」
「うん」
「嫌」
「聞いた」
「でも、あとで変わる?」
「変わるかもしれない」
「分からない?」
「うん」
子供は粥をもう一口食べ、それ以上はいらないと自分から首を振った。
「もういい」
「お腹は?」
「変じゃない」
「食べ終わり?」
「うん」
食べる量も、すべて誰かに決められるわけではない。
セレナは体調を確認する。必要量として十分でない可能性はあるが、だからといって一度にすべて食べさせることはしない。
「少しあとで、また食べるか尋ねます」
「今、いらないって言った」
「今は、ですね」
子供は少し黙った。
「……今は」
「はい」
「あとで聞く?」
「はい」
「嫌なら、いらないって言う」
「言ってください」
昼前、最初の寝台移送が始まった。
顔のない存在は寝台ごと薄い結界へ包まれ、土の神器継承者が床へ力を流して、脚の下へ滑らかな土の膜を作る。持ち上げず、できるだけ揺らさず、ゆっくり移動させるためだった。
「行く」
子供が顔のない存在へ言う。
「先」
七つの光が揺れる。
「ノアも」
『いるわ』
「あとで、私も行く」
人影の指が少し持ち上がる。
「待っててって言っていい?」
子供が尋ねる。
「本人に?」
「うん」
「言いたいなら」
「待ってて」
子供はそう言ったあと、すぐに考え直したように続けた。
「でも、待ちたくなかったら?」
言葉が止まる。
「どうする」
「動けるなら、自分で動くかもしれない」
アリシアが答える。
「危険なら止める?」
「うん」
「なら」
子供は少し考える。
「私が来るまで、危なくないなら、好きにして」
七つの光が、一度だけ強く揺れた。
「好きにして、分かる?」
「分からない」
アリシアは答える。
「でも、今までで一番、役割じゃない言葉かも」
子供は少し笑った。
「行ってらっしゃい」
アリシアが言う。
子供がこちらを見る。
「何?」
「行く人に言う言葉」
「名前じゃない?」
「うん」
「戻る?」
「戻ってくる人にも言う」
「じゃあ」
子供は顔のない存在へ向き直る。
「行ってらっしゃい」
胸の七つの光が、一つずつゆっくり揺れた。
寝台が動き始める。
子供は、そのあとを追わなかった。
独立観測室へ残り、ノアだけが寝台と一緒に扉の向こうへ消える。姿が見えなくなった途端、子供の表情が少し硬くなった。
「行った」
「うん」
「見えない」
「うん」
「いない?」
「今、この部屋にはいない」
アリシアは言葉を選んだ。
「でも、生活の部屋へ向かってる」
「本当?」
「途中から合図が来る」
しばらくして、中継結界に短い光が二度灯った。
「何?」
「最初の角を曲がったって」
「もう?」
「うん」
「見えないのに?」
「向こうから教えてくれた」
「誰が?」
「風の神器継承者」
「名前」
「今、知りたい?」
子供は少し考えた。
「あとで」
「分かった」
また光が二度灯る。
「次?」
「連絡通路へ入った」
「人影、動いた?」
「異常なしって」
「本当?」
「今、見ている人たちの報告では」
子供の手は、膝の上で強く握られていた。
「怖い?」
「うん」
「手、つなぐ?」
「今は、いらない」
「うん」
「でも、話して」
「何を?」
「何でも」
アリシアは困ったように眉を寄せる。
『あなた、こういうとき本当に弱いわね』
「ノアいない」
「何?」
「いつもなら、ノアが何か言う」
「今、いない」
「うん」
「寂しい?」
「少し」
「アリシアも?」
「うん」
「同じ?」
「少し」
子供が少し笑った。
「じゃあ、ノアの悪口」
「戻ったら怒られる」
「戻ってから?」
「絶対」
「面白い」
「やめよう」
子供は少し考えてから、別の問いを出した。
「アリシアのこと」
「私?」
「名前以外。何が好き?」
「好きなもの?」
「うん」
「……静かなところ」
「ここ?」
「ここも」
「でも、人いる」
「今は少ないから」
「ほか」
「甘いお菓子」
「甘い?」
「小さい白とは違う味」
「塩は甘くない」
「難しい」
「今度、食べる?」
言ってから、アリシアは止まった。
今の子供が食べられるかは、治療教師が確認しなければ分からない。
「食べられたら、少し」
言い直す。
子供がうなずいた。
「アリシア、甘いの好き」
「うん」
「黒なのに?」
「関係ない」
「闇、甘い?」
「関係ない」
子供が笑う。
「六つ目」
アリシアの胸が、わずかに硬くなった。
子供はすぐに表情を変える。
「あ」
「うん」
「嫌」
「少し」
「ごめん」
「うん」
「今、どうしてほしい?」
昨日、自分で覚えた問いだった。
「アリシアって呼んで」
「アリシア」
「うん」
「甘いの好き」
「うん」
「静かなところ好き」
「うん」
「人見知り?」
また胸が少し動く。
子供がすぐ気づいた。
「これも嫌?」
「人による」
「私が言うのは?」
「今は、少し恥ずかしい」
「嫌じゃない?」
「嫌ではない」
「違う」
「うん」
「難しい」
「同じ呼び方でも、誰が言うかで違うことある」
「リィが言ってた」
「うん」
「豆残し」
「それ」
アリシアは思わず笑った。
「今は少し面白いって」
「うん」
「じゃあ、人見知りも」
「子供からなら、今は少し恥ずかしい」
「嫌じゃない?」
「うん」
名前ではない。
呼び方でも、特徴でも、説明でもある。
同じ言葉でも、誰がどういう気持ちで言うかによって意味が変わる。
「アリシア」
「何?」
「甘いの好きな、人見知り」
「長い」
「嫌?」
「少し恥ずかしい」
「でも?」
「今は嫌じゃない」
子供が満足そうに笑った。
「長い名前」
「名前じゃない」
「呼び方?」
「それも違う気がする」
「じゃあ何」
「説明?」
「分からない」
「私も」
その会話の途中で、中継結界の光が三度目に揺れた。
「着いた」
アリシアが言う。
子供の表情が一気に変わった。
「生活の部屋?」
「うん」
「この人?」
「着いた」
「大丈夫?」
「今、確認中」
少しして、四度目の合図が灯る。
「異常なし」
「ノアは?」
「一緒」
「寝台?」
「置いた」
子供の肩から、ゆっくり力が抜けた。
「行く」
「うん」
今度は子供の移動だった。
独立観測室を出る前に、子供はもう一度だけ部屋を見回した。寝台は一台減り、空いた場所だけが妙に広く見える。ノアもいない。
「ここ、戻ってもいい?」
「うん」
「今は、行く」
「うん」
子供はアリシアの手を見る。
けれど、つながなかった。
「一人で歩く?」
「うん」
「近くにいる」
「うん」
扉を出る。
セレナ。
ミレイ。
レオンハルト。
治療教師。
警備隊。
外周にはカイルもいる。
子供は、その誰にも抱かれず、自分の足で歩いた。
まだ足裏には少し痛みが残っているため、途中で一度休む。柔らかい布を確認してもらい、それでも手を引かれず、また立って歩き始める。
「生活」
移動の途中で、子供が呟いた。
「何?」
アリシアが尋ねる。
「何もしない時間も?」
「ある」
「食べる」
「うん」
「寝る」
「うん」
「話す」
「うん」
「朝、見る」
「また見られる」
「何もしない」
「うん」
「それも生活?」
「たぶん」
「役に立たない?」
「うん」
「それでも、いい?」
「うん」
子供は少しだけ嬉しそうだった。
生活観測区画の扉は、独立観測室より木の色が多かった。
結界を隠すための装飾ではない。文字も刻まれていない。それでも、石だけだった以前の部屋より、どこか温かく見える。
「扉、違う」
「うん」
「中」
「開ける?」
「少し」
扉がゆっくり開く。
最初に見えたのは、小さな窓だった。
厚い硝子越しではあるが、そこから自然光が入っている。机と椅子、低い棚があり、まだ何も置かれていない壁の前には寝台が二台並ぶ予定だった。
その一つ。
先に運ばれた寝台へ、顔のない存在が横たわっている。
その隣にはノア。
『遅かったわね』
「ノア」
子供が声を上げた。
『いるわ』
「いた」
「うん」
顔のない存在の胸にある七つの光が、子供の声へ反応するようにすべて強くなる。
「戻った」
子供が言う。
人影の指が少し上がった。
「待ってた?」
反応はない。
「分からない」
子供が自分で言い直す。
「でも、いる」
「うん」
子供は部屋へ入り、最初に自分の寝台を見る。
「同じ」
「独立観測室から運んだ」
「ここに置く?」
「位置、変えたい?」
子供は部屋を見回した。
顔のない存在の寝台。
窓。
机。
入口。
「近く」
「人影の寝台へ?」
「うん」
「前と同じくらい?」
「少し」
土の神器継承者が、二台の寝台を腕一本分ほどの距離へ静かに動かした。
「これ?」
「うん」
「窓は?」
子供が見上げる。
「この人、見える?」
寝台から顔のない頭を窓へ向ければ、自然光は届く。けれど低い位置からでは、外の景色そのものはあまり見えない。
「朝、見える?」
「寝たままだと空は少しだけ」
アリシアが答える。
「起きたら?」
「もっと見える」
「起きる?」
「本人が」
「うん」
子供は顔のない存在へ向く。
「窓」
七つの光が揺れる。
「外、少し見える」
指が上がった。
「見たい?」
その指が、ゆっくり窓の方向へ動く。
「寝台、窓向きにする?」
今度は全員が、人影の反応を確かめた。
「そうしたいように見えます」
ミレイが言う。
「私にも」
アリシアが続ける。
「光反応も上昇しています」
レオンハルト。
「第四の声からの反応はありません」
結界術師。
寝台が少しだけ回される。
顔のない頭が窓の方へ向き、自然光が胸の七つの光へ当たった。
その瞬間。
人影の身体が、自分から少しだけ起き上がった。
「動いた!」
子供が声を上げる。
警備隊員たちが反射的に足を動かしかけた。
「待って!」
アリシアが止める。
攻撃ではない。
人影は肘も使わず、不自然なほどゆっくり上体を起こし、顔のない頭を窓へ向けている。
「朝?」
子供が尋ねる。
七つの光が強くなる。
「見たい?」
人影の指が窓へ向いた。
「なら」
子供が笑う。
「一緒」
自分の寝台へ腰を下ろし、同じように窓を見る。
「今は昼?」
「昼前です」
セレナが答える。
「朝じゃない?」
「朝は少し過ぎました」
子供の顔が曇る。
「この人、朝見られない」
「次がある」
アリシアが言う。
「明日?」
「うん」
「同じじゃない」
「うん」
「でも、朝」
「うん」
子供は顔のない存在を見る。
「明日、一緒に見る?」
七つの光がすべて明るくなる。
そして、その胸の奥へ。
八つ目の光が、ゆっくり浮かび上がった。
誰かに呼ばれたからではない。
何かへ返事をしたからでもない。
子供が持っていた過去の記憶を受け取ったからでもなかった。
まだ来ていない明日の朝を、一緒に見たいかもしれない。
未来へ向けた選択のような反応だった。
「増えた」
子供が息を呑む。
「八つ」
ミレイが記録帳へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「書く?」
子供が尋ねる。
ミレイは少し考えてから答える。
「書いてよいか、聞きます」
今度は子供だけではない。
顔のない存在へ向けて。
「八つ目の光が増えたことを、記録してよいですか」
返事はない。
胸の八つの光にも、明確な変化は見られない。
「分からない」
子供が言う。
「うん」
ミレイは帳面へ手を戻さなかった。
「では、今は書きません」
「忘れる?」
「可能性はあります」
「八つなのに?」
「はい」
「大事」
「そう思います」
「でも書かない?」
「本人が、記録してほしいか分からないからです」
子供は八つの光を見つめる。
「私、覚える」
「うん」
アリシアが答える。
「アリシアも?」
「覚えられるだけ」
「セレナ」
「覚えます」
「レオンハルト」
「はい」
「ノア」
『当然』
「ノアも」
子供はうなずく。
「忘れたら?」
「また数える?」
アリシアが言う。
「光、消えたら?」
誰もすぐには答えられない。
しばらくして、子供が自分で言った。
「消えたら、消えたって見る」
「うん」
「前は?」
「覚えていたら話す」
「忘れてたら?」
「分からないって言う」
「うん」
一つの正しい数。
完全な記録。
いつでも戻れる答え。
それを今は作らない。
昼。
生活観測区画で、二つの存在は初めて同じ窓から自然光を見た。
朝ではない。
雲は午前より少し増え、鳥も飛んでいない。空の青も、朝ほど鮮やかではなかった。
「違う」
子供が言う。
「朝と?」
「うん」
「どっちが好き?」
「まだ分からない」
「うん」
「この人は?」
顔のない存在は窓へ頭を向けたまま、八つの光を静かに揺らしている。
「分からない」
「うん」
子供は、その答えを以前ほど嫌がらなくなっていた。
分からない。
まだ決めない。
あとで変わる。
今は好き。
今は嫌。
役に立たない時間。
何もしない時間。
名前を持たないまま過ぎる時間。
生活観測区画の机には、まだ何も置かれていない。低い棚も空のままで、壁には文字一つない。
新しい部屋なのに、何を置くかはまだ決まっていなかった。
「何、置く?」
子供が尋ねた。
「必要なもの?」
セレナが答える。
「食べる道具。治療用の布。冷たい石などでしょうか」
「それだけ?」
「生活に必要なものから」
子供の表情が少し曇る。
「必要じゃないものは?」
「例えば?」
「分からない」
「置いても役に立たないもの?」
「うん」
「花とか?」
ミレイが言う。
「花」
「植物です」
「食べる?」
「食べないものも多いです」
「何する?」
「見る」
「それだけ?」
「香りがするものもあります」
「役に立つ?」
ミレイは少し考えてから答えた。
「役に立つと感じる人もいます」
「感じない人も?」
「はい」
子供は空の棚を見た。
「なら、役に立たないもの置きたい」
セレナが少し笑う。
「何を?」
「まだ知らない」
「探しますか」
「私が?」
「はい」
「選ぶ?」
「はい」
「この人も?」
顔のない存在を見る。
「選べる反応があれば」
「一緒に?」
「うん」
アリシアが答える。
「必要だから置くんじゃなくて」
子供はゆっくり言葉を探した。
「好きだから?」
「そういうものもある」
「まだ、好きか分からない」
「それを探す」
「生活?」
「たぶん」
子供は空の棚を見つめ、少しだけ楽しそうに笑った。
顔のない存在の胸に浮かぶ八つの光も、すべてが静かに揺れる。
その日、生活観測区画へ最初に運ばれたものは、記録帳でも、新しい名前でも、器を調べる魔導具でもなかった。
午後、治療棟の庭で摘まれた小さな白い花が一輪、乾いた小瓶へ差されて棚の端へ置かれた。
水は入っていない。
短い時間なら、それでも花は形を保てる。
「名前」
子供が尋ねる。
ミレイは答える前に、聞き返した。
「知りたいですか」
「今は」
子供は少し考える。
「まだ、いい」
「分かりました」
「白い花」
「はい」
「それで」
正式な植物名は、誰も言わなかった。
子供が必要だと思うときまで。
白い花。
それだけでいい。
役に立つかどうかも分からない。
明日には萎れてしまうかもしれない。
器を止める役にも、調査の記録にも、何の意味も持たないかもしれない。
それでも子供は、何度も棚の白い花を見た。
顔のない存在も、窓へ向けていた頭を、少しずつ花の方へ動かした。
呼ばれたからではない。
命じられたからでもない。
ただ、そこに見たいものがあったから。
その小さな動きを、誰も役割とは呼ばなかった。
暮らすための部屋には、名前より先に、役割より先に、役に立つか分からないものを置いておける場所が、少しだけ必要だった。




