第112話 好きかどうか分からないものを、すぐに片づけなくてもいい
生活観測区画へ白い花が置かれてから、子供は何度も棚の方を見た。
じっと見続けるわけではない。食事の途中や、窓の外へ目を向けたあと、顔のない存在の胸に浮かぶ光を数えたあとにも、ふと思い出したように棚の端へ置かれた白い花へ視線を戻していた。
花は、水を入れていない乾いた小瓶へ差されている。そのため朝よりも少しだけ花弁の端が下がり、昨日より輪郭が柔らかく崩れ始めていた。
ミレイは、その変化へ最初から気づいていた。
記録した方がよいのではないかとも思った。生活観測区画へ初めて置かれた、役に立つかどうかも分からないものが、時間とともに形を変えている。その変化は、水の外へ出た子供に何か新しい感覚を教えるかもしれない。
それでも、ミレイは記録帳を開かなかった。
子供はまだ、この花を記録してほしいとは言っていない。そもそも花の変化まで観測対象として扱ってよいのか、それ自体が分からなかった。
「ミレイ」
子供に呼ばれ、ミレイは顔を上げた。
「はい」
「花」
「はい」
「下がった」
子供は自分の手を花弁のように少し下へ曲げてみせる。
「朝より?」
「はい」
「どうして」
「水がないからだと思います」
「水」
子供の表情が、ほんの少しだけ硬くなる。
水という言葉には、まだ第四の声や西側貯水槽、長く沈んでいた時間が重なっている。それでも子供は目を逸らさず、白い花を見たまま尋ねた。
「水、入れたら?」
「長く形を保てる可能性があります」
「声、入る?」
「そこは調べる必要があります」
「水、使わないと?」
「早く萎れると思います」
「萎れる?」
「花が元気を失って、少しずつ形が変わっていくことです」
「死ぬ?」
ミレイは答える前に、少し考えた。
「この花は、茎を切ってあります」
「切った」
「はい」
「もう、死んでる?」
「植物をどの状態まで生きていると呼ぶかは……少し難しいです」
子供が首を傾げる。
「難しい?」
「少し」
アリシアが横から言った。
「私も分からない」
『あなたは植物学の教師ではないでしょう』
ノアが寝台の足元で呟く。
「ノアも分からない?」
『分かる範囲はあるけれど、この子が聞いているのは学問上の定義ではないでしょうね』
「何て?」
子供が尋ねる。
アリシアは少し考えてから言い換えた。
「ノアが、難しいことを聞いてるって」
「私は死んでるか聞いただけ」
「それが難しいって」
「面倒」
「うん」
子供は白い花を見つめた。
「でも、昨日より少し違う」
「うん」
「変わった」
「うん」
「嫌?」
今度は、アリシアの方が尋ねられた。
「花が変わるのが?」
「うん」
アリシアは、昨日子供が自分で選び、まだ正式な名前も知らない白い花を見る。
「少し寂しいかも」
「どうして」
「同じ形でいてほしいと思うから」
「でも、変わる」
「うん」
「嫌?」
「嫌ってほどじゃない」
「好き?」
「好きでもない」
「じゃあ、何?」
子供の眉が寄る。
「分からない」
「私も」
その答えを聞くと、子供は少しだけ安心したようだった。
好き。
嫌い。
怖い。
痛い。
冷たい。
寂しい。
分からない。
少し。
今は。
水の外へ出てから、子供が使う言葉は少しずつ増えていた。けれど言葉が増えるほど、物事を一つの感情へ決めきれない場面も増えている。
「白い花」
子供が言う。
「好き?」
「子供が?」
「うん」
「分かる?」
子供は長いあいだ花を見た。
「分からない」
「じゃあ」
「でも、なくなったら嫌かも」
「少し?」
「少し」
「なら、少し好き?」
「同じ?」
アリシアは答えに詰まる。
ノアが小さく欠伸をした。
『なくなってほしくないことと、好きなことは同じとは限らないわ』
「ノアが」
「うん」
「なくなってほしくないのと、好きなのは違うかもって」
「違う?」
「うん」
「でも、似てる?」
「たぶん」
「たぶん、多い」
「仕方ない」
子供は少し不満そうにしながら、白い花へ近づいた。
生活観測区画の中では、歩く距離を昨日より少し増やしている。足裏の擦れも朝より良くなり、柔らかい布は今は外していた。ただし、歩くときにはセレナか治療教師が近くから状態を見ている。
触れない。
必要になるまで。
本人が求めるまで。
「触っていい?」
子供が白い花を指差す。
ミレイは花を持ち込んだ治療教師を見る。
「毒性はありません」
「結界反応もありません」
結界術師も答える。
「花弁へ軽く触れる程度なら問題ありません」
「触る」
子供は指先を伸ばし、白い花弁へそっと触れた。
「柔らかい」
「うん」
アリシアが近くで答える。
「柔らかい布と同じ?」
「違う」
「どんなふうに?」
「もっと……薄い」
「うん」
「壊れそう」
「強く触ると」
子供はすぐに手を離した。
「じゃあ、触らない」
「触りたくない?」
「壊したくない」
「違うんだね」
「何が?」
「触りたくないのと、壊したくないから触らないの」
子供は、自分で気づいたように花を見る。
「触りたい」
「うん」
「でも、壊したくない」
「うん」
「両方」
「うん」
子供は少し笑った。
「また、両方」
「多いね」
「面倒」
「うん」
「でも、前より分かる」
「何が?」
「一つじゃないって」
その言葉に、アリシアは少し驚いた。
第四の声は、一つの記録、一つの正しい名前、一つの中央へ戻そうとしていた。けれど子供は、その反対側へ少しずつ歩いている。
好きと嫌い。
触りたいと壊したくない。
外へ出たいと怖い。
顔のない存在と一緒にいたいと思いながらも、離した方がよいときがある。
名前がほしいかもしれないと思いながら、まだ音のまま持っていたい気持ちもある。
「花」
子供がまた言う。
「水、入れたい?」
今度は自分へではなく、花へ尋ねるような声だった。
けれど花は返事をしない。
「分からない」
「うん」
アリシアが答える。
「花は、返事しない」
「この人も、前は返事しなかった」
「うん」
「でも、動いた」
「うん」
「花も?」
「動くことはある」
「自分で?」
「太陽の方を向いたりするものもある」
「朝?」
「光がある方へ」
「白い花も?」
「種類による」
「これ、名前知らない」
「うん」
「なら、分からない」
「うん」
子供は白い花を見つめる。
返事をしないもの。
意思があるのか分からないもの。
そこへ勝手に答えを作らない。
「水を入れた方が長く形を保てると思います」
セレナが扉近くから言った。
「でも、水を入れれば第四の声が来る可能性を完全には否定できません」
「じゃあ、どうする?」
「方法を分けられます」
「分ける?」
「花をこの部屋へ置くことと、水を入れることを別に考えます。別の場所で水を使って花を保つ方法もあります」
「花、別の部屋?」
「はい」
「私、見えない」
「見に行くことはできます」
「いつでも?」
「安全確認は必要です」
「面倒」
「そうですね」
セレナも少し笑った。
「ほかは?」
「乾いたまま置いて、変化を見る」
「萎れる」
「はい」
「最後は?」
「枯れます」
「枯れる」
「今よりさらに水分がなくなり、形や色が変わります」
「捨てる?」
その問いには、誰もすぐに答えなかった。
「普通なら」
ミレイが慎重に言う。
「枯れた花は片づけることが多いです。新しい花へ替えたり、掃除したり」
「嫌」
「捨てたくない?」
「分からない」
「今は?」
「まだ」
子供は花を見る。
「変わってる途中」
「うん」
「まだ見たい」
「分かった」
花は、そのまま残されることになった。
水は入れない。
捨てない。
新しいものへ交換しない。
ただ、本人がまだ見たいと言ったから。
「記録する?」
ミレイが尋ねた。
子供は少し考える。
「花が下がったこと?」
「はい」
「私が、まだ見たいって言ったことも?」
「必要なら」
「必要?」
ミレイは答えに迷った。
「生活観測としては……」
そこまで言いかけて、止める。
「いいえ。今、記録する必要があるかは分かりません」
「ミレイも、分からない?」
「はい」
「じゃあ、書かない?」
「今は」
「あとで?」
「必要になったら、もう一度聞きます」
「忘れたら?」
「花を見て思い出すかもしれません」
「花なくなったら?」
「忘れるかもしれません」
「それでも?」
ミレイは白い花を見る。
「今は、記録しません」
子供は少しだけ嬉しそうだった。
この部屋には、記録されない時間もある。
そのことを、子供自身が少しずつ理解し始めていた。
午前の後半、生活観測区画へ新しいものが三つ持ち込まれた。
一つは木でできた小さな箱。
一つは無地の布。
一つは丸い木片。
どれにも文字はなく、魔力も水気もない。
「何?」
子供が尋ねる。
物を運んできた治療教師は、すぐには名前を言わなかった。
「触ってみたいですか」
「うん」
「一つずつにしますか?」
「全部?」
「一度に持ち込んでも構いません。ただ、分かりにくくなるかもしれません」
「一つ」
最初は木の箱。
子供は両手で持ち上げる。
「重い」
「昨日の食べる道具より?」
「重い」
「蓋は開けられます」
治療教師が言う。
「開ける?」
「やる」
誰かに開けてもらうのではなく、自分で蓋へ指をかける。少し持ち上げると、中には何も入っていなかった。
「何もない」
「はい」
「何入れる?」
「好きなものを」
「必要なもの?」
「それでも構いません」
「いらないもの?」
「子供が置きたいなら」
「名前?」
その一言で、部屋の空気がほんの少しだけ変わった。
「音?」
「入れられる?」
子供は箱の中を見る。
音そのものを物理的に入れることはできない。けれど紙へ書き、文字にして記録として入れることならできる。
それは、今は危険だった。
「今は」
ミレイが言う。
「名前や音を文字にして入れるのは、やめた方が安全だと思います」
「第四の声?」
「はい」
「じゃあ、何も入れない」
子供は箱を閉じる。
「それでもいい」
「空の箱」
「うん」
「役に立たない?」
「今は」
「置く」
「どこへ?」
子供は白い花の近くを指した。
「棚」
空の木箱が、白い花の隣へ置かれる。
「何も入ってないのに?」
アリシアが尋ねる。
「うん」
「どうしてそこ?」
「分からない。でも置きたい」
「分かった」
二つ目は無地の布だった。
「柔らかい布?」
子供が尋ねる。
「治療用ではありません」
セレナが答える。
「じゃあ」
子供は布へ触れる。
「柔らかい」
「はい」
「でも、足に置くのと違う?」
「用途は決まっていません」
「用途」
「何に使うか、という意味です」
「決まってない?」
「子供が決めてもよいです」
「何でも?」
「危険でなければ」
子供は布を広げ、机、椅子、棚、顔のない存在、窓を順番に見た。
そのあと、床へ布を置く。
「そこ?」
アリシアが尋ねる。
「うん」
「何に使う?」
「座る」
子供は布の上へ自分で腰を下ろした。
「椅子あるよ」
「でも、ここ」
「好き?」
「今は」
「床が?」
「布」
「椅子より?」
「今は」
子供は、昨日から少しずつ使い始めた言葉を、自分から繰り返した。
今は。
「じゃあ、そこに置く?」
「うん」
誰も、それを敷物や座布、敷布とは呼ばなかった。本人が必要になったとき、聞けばいい。
三つ目は、手のひらに収まる丸い木片だった。
「これ」
子供は手の中で転がす。
「何する?」
「特に決まっていません」
治療教師が答える。
「本当に?」
「はい」
「役に立たない?」
「今は」
子供の目が少し明るくなった。
「置く?」
「どこでも」
子供は丸い木片を机の上へ置いた。
木片はころりと転がり、端へ近づく。
「待って」
子供が手を伸ばし、落ちる寸前で止めた。
「動いた」
「丸いから」
「面白い」
もう一度、机の反対側へ転がす。
今度はアリシアの方へ来た。
「アリシア」
「何?」
「返して」
アリシアが子供へ向けて木片を転がす。
木片は少し曲がった。
「違う」
「何が?」
「まっすぐじゃない」
「机が少し傾いてるのかな」
「分からない」
子供はもう一度、今度はミレイへ転がした。
「返す?」
「はい」
ミレイが指先で軽く押す。
木片は子供へ戻る途中で止まった。
「止まった」
「弱かったですね」
「間違い?」
「いいえ」
「届かなかった」
「はい」
「じゃあ」
子供は立ち上がり、自分で木片を取りに行く。
「自分で取った」
「はい」
「それも」
「遊び?」
アリシアが言う。
子供が止まった。
「遊び」
「役に立たないことをして楽しむこと」
「本当に?」
「全部が役に立たないわけじゃないけど、今は木片を転がしてるだけ」
「楽しい」
「うん」
「これ、遊び?」
「たぶん」
子供は嬉しそうにもう一度転がす。
「レオンハルト」
「はい」
「返して」
レオンハルトは真面目な顔で木片を転がした。
力が強すぎた。
木片は子供の横を通り抜け、壁へこつんと当たる。
「……すみません」
子供は一瞬止まり、そのあと笑った。
「下手」
レオンハルトの表情が少し固まる。
「初めてですので」
「私も」
「それでも、あなたの方が上手ですね」
「うん」
子供は少し得意そうになった。
「光なのに?」
「関係ありません」
アリシアが笑う。
「昨日、鳥でも同じような話したね」
子供も覚えていた。
光。
火。
水。
闇。
神器。
役割。
それらと、木片を転がすのが上手かどうかは関係ない。
「セレナ」
「私もですか」
「うん」
セレナは扉の近くに立っている。
まだ完全に区画内部へ長時間入らない方針だった。
「ここからでは少し遠いですね」
「入る?」
子供が尋ねる。
「今、私が入ると」
「水?」
「はい」
「でも、前より大丈夫?」
「少しずつ確認しています」
「今は?」
「短い時間なら、結界の内側へ一歩だけ入れます」
「一歩」
「はい」
「遊ぶため?」
セレナがほんの少し笑った。
「治療ではなく?」
「はい」
「役に立たない?」
「おそらく」
「入る?」
セレナは治療教師、結界術師、学院長へ順番に確認した。
「一歩まで」
「時間は短く」
「神器反応が上がれば即時退避」
許可が出る。
セレナはゆっくり区画内へ一歩だけ入った。
子供との距離は、昨日より近い。
「近い」
「はい」
「怖い?」
「少し」
「私も」
「聞きました」
「でも、遊ぶ」
「はい」
子供が木片を転がす。
セレナまでは届かず、途中で止まった。
「遠い」
「そうですね」
セレナは一歩の位置を守ったまま身体を少し前へ伸ばすが、それでも届かない。
「取れない」
「はい」
「どうする」
「誰かに取ってもらう?」
アリシアが尋ねる。
「でも、セレナに返してほしい」
「なら」
ミレイが少し考える。
「セレナさんの近くへ、誰かが木片を運ぶ」
「私が」
子供が立ち上がる。
「持っていく」
「セレナのところまで?」
「うん」
「近づくけど」
「怖い?」
今度はセレナへ逆に尋ねる。
「少し」
「どこまで?」
「あと二歩ほどなら」
「一歩?」
「はい」
子供は木片を持ち、一歩だけセレナへ近づいた。
水の神器継承者。
水中の記憶。
第四の声。
まだ完全には切れていない関係。
それでも子供は自分で止まる位置を選んだ。
「ここ」
「大丈夫?」
セレナが尋ねる。
「うん」
「私も」
子供は木片を床へ置いた。
「返して」
そして自分から一歩下がる。
セレナが指先で木片を転がす。
今度はまっすぐ、子供の足元へ届いた。
「上手」
「ありがとうございます」
「レオンハルトより」
「比較しないでください」
レオンハルトが少し困った顔をする。
子供がまた笑った。
その声に、顔のない存在の胸にある八つの光がすべて明るくなる。
そして人影の指が、机の上にある木片を指した。
全員が止まる。
「やる?」
子供が尋ねる。
指。
木片。
胸の光。
「遊びたい?」
人影の指が、もう一度木片へ向く。
「そう見える」
アリシアが言う。
「私もそう見えます」
ミレイも続ける。
「光反応も上昇しています」
レオンハルト。
「第四の声に変化はありません」
結界術師。
「なら」
子供は木片を持ち、顔のない存在の寝台近くにある低い机へ置いた。
「転がす?」
顔のない存在は上体を起こしていた。
昨日、自然光へ向けて初めて自分から身体を起こした。今も誰にも支えられず、静かに座っている。
右手が、ゆっくり木片へ触れる。
「押す」
子供が言ってから止まった。
「でも、命令になる?」
アリシアを見る。
「やり方を教えることと、命令することは少し違うと思う」
「でも、やれって聞こえるかも」
「じゃあ」
子供は人影を見る。
「私はこうする」
自分の指で、何もないところを押す動きを見せた。
「やりたいなら、同じでも違ってもいい」
人影の指は、しばらく木片へ触れたまま動かなかった。
「待つ」
子供が言う。
全員が待った。
やがて、人影がゆっくり指を押す。
木片がころりと机の上を転がり、子供の方へ向かったが、途中で止まった。
「動いた!」
子供の顔が明るくなる。
「遊んだ?」
アリシアが尋ねる。
「分からない」
子供はすぐに決めつけなかった。
「でも」
木片を自分の側へ取り、もう一度人影へ転がす。
「返す?」
人影は今度、少し早く手を伸ばした。
押す。
前より強い。
木片は子供のところまで届いた。
「上手!」
胸の八つの光が一斉に強くなる。
そして、その奥へ九つ目の小さな光が浮かんだ。
誰かの音を返した記憶でもない。
朝を一緒に見たいと思ったことでもない。
何の役にも立たない。
ただ、木片を押し、誰かが返し、もう一度自分から返した。
その時間だった。
「九」
子供が数える。
「増えた」
ミレイは記録帳へ手を伸ばさなかった。
昨日、八つ目の光も本人の意思が分からないため記録しなかった。今日も同じだった。
「書かない?」
子供が尋ねる。
「今は」
「忘れる?」
「かもしれません」
「でも、九」
「今は覚えています」
「この人は?」
子供は顔のない存在を見る。
「覚えてる?」
返事はない。
「分からない」
子供が自分から言う。
「でも、もう一回?」
木片を机の中央へ置く。
人影の手が少し上がった。
「やる」
子供が笑った。
役に立たない。
記録にもならない。
器を止める方法でもない。
五百人の名前を救うための作戦でもない。
ただ木片を転がす。
それだけの時間の中で、顔のない存在は九つ目の光を得た。
午後になると、生活観測区画の前で別の小さな問題が起きた。
遊びの時間が長くなり、カイルが外周警備の交代時刻を三分過ぎたのだ。
「忘れてない」
「予定時刻を過ぎています」
セレナが指摘する。
「三分だけだろ」
「三分でも過ぎています」
「木片がこっちまで飛んできたんだよ」
「だから拾った?」
「拾って返した」
「あなた、区画内には入っていませんね?」
「線の外からだ」
「本当に?」
「本当だ」
子供が廊下側を見る。
「カイルも遊んだ?」
「少し」
「役に立たない?」
「まあ」
「楽しい?」
「少し」
「警備、忘れた?」
「忘れてない」
「三分」
「セレナ、それもういいだろ」
「よくありません」
子供が笑った。
「カイル、役に立たないことして、役割忘れた」
「言い方が悪い!」
「でも、少し」
「少しだ!」
「三分です」
「お前は細かいな!」
セレナの眉がぴくりと動く。
カイルも言った直後に止まり、子供も二人の空気が少し変わったことへ気づいた。
「セレナ、嫌?」
セレナはすぐには答えない。
「カイルからなら、普段は気にしていません」
「今は?」
「少し腹が立っています」
「呼び方じゃなく?」
「内容です」
子供の目が少し大きくなる。
「同じ音でも、人で違う」
「はい」
「同じ人でも、今で違う?」
「そうですね」
カイルが少し困ったように頭を掻いた。
「じゃあ、今はやめる」
「お願いします」
「セレナ」
「何ですか」
「細かい」
「まだ言いますか」
それでも今度は、名前で呼んでから言った。
子供が少し笑う。
「呼び直した」
「まあな」
「前、私にも」
「覚えてる」
「間違う」
「悪かったって」
「でも、直す」
「努力してる」
「それ、カイル?」
「そうだ」
「名前以外」
「性格ってことか?」
「分からない」
「でも、カイル」
「……まあ、そうかもな」
名前は一音では足りない。
呼ばれ方だけでも、役割だけでも、その人にはならない。
間違う。
言い直す。
笑う。
怒る。
遊ぶ。
仕事を忘れかける。
注意される。
そうしたものが少しずつ重なり、その人になっていく。
夕方になると、白い花はさらに花弁を下げていた。
子供は遊びのあと、床に敷いた無地の布へ座り、長いあいだ花を見ていた。丸い木片は隣に置かれ、木の箱はまだ空のままだ。
「白い花」
アリシアが近くへ座る。
「うん」
「どうしたい?」
「分からない」
「水、入れる?」
「怖い」
「うん」
「でも、このままだともっと下がる」
「うん」
「明日、なくなる?」
「完全にすぐなくなるわけじゃないけど、変わる」
「嫌」
「うん」
「でも、水も嫌」
「うん」
子供は膝へ顔を近づけた。
「どうする」
「決めなくていい?」
「決めないと、花は変わる」
「うん」
「待ってくれない」
「うん」
子供は初めて、少し怒ったような目で白い花を見る。
「嫌」
「何が?」
「決めてないのに、変わる」
アリシアは、すぐに言葉を返せなかった。
水中にいた頃、時間の流れはほとんど分からなかった。
けれど水の外では、花が萎れる。
食事が冷める。
朝が昼になる。
痛みが変わる。
顔のない存在が手を離す。
自分が決めるまで、世界は止まってくれない。
「待ってって言っても、花は待たない」
「うん」
「朝も昼になる」
「うん」
「食べ物も変わる」
「うん」
「嫌」
「うん」
子供は少し低い声で言った。
「第四の声は、一つにしたら変わらないって」
アリシアの背中へ冷たいものが走る。
「言われた?」
「前」
「いつ?」
「水の中」
「何て?」
「名前を決めたら、もう迷わない」
子供は胸へ手を置いた。
三つの音。
「一つにしたら、変わらない」
第四の声。
一つの正しい名前。
一つの記録。
一つの中央。
迷わない。
変わらない。
一度決めれば、ずっとそこにいられる。
「少し、楽かも」
子供が言った。
アリシアの胸が痛む。
否定したくなる。
だめ。
第四の声を信じないで。
一つへ戻らないで。
けれど、子供が今疲れていることは本当だった。
「そう思う?」
「うん」
「迷うの、疲れた?」
「少し」
「選ぶのも?」
「うん」
「聞かれるのも?」
子供は少し迷ってから、うなずいた。
「うん」
アリシアは言葉を失う。
この数日、本人の意思を守るため、何度も聞いた。
どうしたい?
嫌?
怖い?
触っていい?
残す?
消す?
今は?
あとでは?
安全のため。
自由のため。
それでも、選ぶこと自体が疲れることもある。
『気づいた?』
ノアが静かに言う。
いつもの毒舌ではなかった。
『選べることと、毎回選ばせ続けることは同じじゃない』
アリシアは子供を見る。
「ごめん」
「何が?」
「聞きすぎたかも」
「嫌じゃない」
「でも、疲れた?」
「少し」
子供は白い花を見る。
「今、誰かに決めてほしい」
「花のこと?」
「うん」
アリシアは、すぐに「じゃあこうしよう」とは言わなかった。
けれど今は、本人が決めてほしいと頼んでいる。
「私が決めてもいい?」
「うん」
「あとで嫌になったら?」
「言う」
「変えていい?」
「うん」
「じゃあ」
アリシアは白い花を見る。
「今日は、水を入れない」
子供の表情が少し不安になる。
「どうして」
「第四の声が入る危険を、まだ調べきれてないから」
「花、下がる」
「うん」
「明日」
「朝に、もう一度見る」
「もっと下がってたら?」
「水を使わない別の方法を、私たちが考えておく」
「今、決める?」
「方法を探すのは、私たちがやる」
「私は?」
「今日は休む」
「役に立たない?」
「うん」
「決めなくていい?」
「うん」
「本当に?」
「うん」
子供の肩から、ゆっくり力が抜ける。
「分かった」
アリシアは、その返事を聞いて少し怖かった。
自分が決めた。
本人の代わりに。
でも本人が、今は決めてほしいと頼んだ。
任せることも、選択なのかもしれない。
「全部」
子供が言う。
「何?」
「全部、アリシアが決める?」
「それは嫌」
アリシアは反射的に答えた。
子供が少し笑う。
「嫌?」
「怖い」
「どうして」
「間違えるから」
「ミレイも?」
「間違います」
ミレイが答える。
「セレナ」
「もちろん」
「レオンハルト」
「私もです」
「カイル」
「俺は特に間違う」
「自覚してください」
セレナが言う。
「分かってるって」
子供は少し笑った。
「じゃあ」
「うん」
「疲れたときだけ、決めてって言う」
「うん」
「誰に?」
「そのとき選ぶ?」
子供は眉を寄せる。
「また選ぶ」
「あ」
アリシアが止まる。
子供が笑う。
「アリシア、馬鹿?」
「それは嫌」
「ごめん」
「今、どうしてほしい?」
子供がすぐに尋ねる。
「アリシアって呼んで」
「アリシア」
「うん」
「少し面白かった」
「うん」
「じゃあ」
子供は考える。
「疲れたって言ったら、近くにいる人が一つだけ決める」
「一つ?」
「うん」
「全部じゃなく?」
「一つ」
「それなら、できそう」
アリシアも少し安心した。
「嫌だったら、あとで変える」
「うん」
「何回も聞かない」
「うん」
「でも、危ないときは?」
セレナが尋ねる。
「安全確認は必要です」
子供は少し悩んだ。
「それは聞いて。でも、全部は嫌」
「必要なところだけにします」
「うん」
新しい手順だった。
本人の意思を守る。
でも、本人だけへ判断を集中させない。
疲れたときには、決めてほしいと頼める。
一つだけ誰かへ任せて、あとから変えることもできる。
ミレイは思わず記録帳へ手を伸ばしたが、すぐに止めた。
「これは」
子供が見る。
「書く?」
「今後の対応に関わるので」
「必要?」
「私は必要だと思います」
「じゃあ、書いて」
「言葉は?」
「全部?」
「子供が疲れたとき、自分で決め続けなくてもよい。近くにいる者へ一つだけ判断を任せられる。あとから変更できる」
子供はその言葉を聞く。
「私だけ?」
「まずは」
「ほかの人も?」
「必要なら」
「アリシアも?」
「私も使いたいかも」
「何を?」
「疲れたとき」
「誰かに決めてもらう?」
「うん」
「ノア?」
『嫌よ。全部押しつけられそうだもの』
「ノアは嫌だって」
「じゃあ、ノアにも聞く」
「うん」
「疲れた?」
『今は平気』
「平気って」
生活観測区画へ、静かな夕方が戻ってきた。
白い花は萎れ始めている。
それでも片づけない。
水も入れない。
今夜はそのままにする。
子供は決めなくていい時間を過ごし、無地の布の上へ座って丸い木片を顔のない存在へ転がした。
一度。
二度。
三度。
人影も返す。
九つの光が静かに揺れる。
途中で木片が机の脚へ当たり、止まった。
「止まった」
子供は人影を見る。
「取りたい?」
返事はない。
「私は……今は、いい」
木片は机の脚のそばに残された。
誰も片づけない。
「明日」
「うん」
アリシアが答える。
「まだあったら、取るかも」
「うん」
「取らないかも」
「うん」
「誰かが片づけたら?」
アリシアは今日の話を思い出す。
「片づける前に聞く」
「寝てたら?」
「朝まで置く」
「邪魔だったら?」
「危険じゃなければ」
「危険だったら?」
「動かす」
「どこへ?」
「見えるところ」
「勝手に捨てない?」
「捨てない」
子供は満足そうにうなずいた。
白い花も。
空の箱も。
床の布も。
止まった木片も。
全部、今すぐ正しい場所へ戻さなくていい。
役に立つ形へ整理しなくていい。
気に入ったのか。
必要なのか。
残したいのか。
まだ決まっていない。
それでも生活の中には、そういうものがあっていい。
夜。
区画の外では、ミレイが一日の記録をまとめていた。
ただし、すべては書かなかった。
足の状態。
食事量。
水との反応。
顔のない存在の魔力変化。
必要な安全情報。
それらは残す。
けれど白い花を何回見たか、木片を何回転がしたか、子供が何度笑ったか、アリシアが何回「うん」と答えたかまでは書かなかった。
「少ないですね」
ケインが横から記録を見る。
「何が?」
「今日の出来事に対して」
「うん」
「不安ですか」
「すごく」
ミレイは正直に答えた。
「忘れるかもしれない」
「はい」
「でも」
生活観測区画の扉を見る。
「全部を残したら、また中央へ集める記録になる気がする」
ケインは少し考えた。
「では、私も今日見たことを全部は書きません」
「合わせない?」
「はい」
「違うところだけ?」
「必要になったら」
「うん」
少し離れた机では、サーラも顔を上げた。
「人数と出入りは残します」
「それはお願い」
「誰が何回笑ったかは書きません」
「うん」
それからサーラは少し笑う。
「でも、カイルが警備交代を三分過ぎたことは?」
廊下の向こうから声が飛んだ。
「聞こえてるぞ!」
ミレイは思わず笑った。
「警備記録なので残します」
「そこだけ厳しくないか!」
「役割ですから」
「記録係!」
言った瞬間、ミレイの表情が少しだけ固まった。
カイルも、すぐに気づく。
「……悪い」
「うん」
「今、どうしてほしい?」
子供が使い始めた問いが、少しずつ学院の中へ広がっていた。
ミレイは少し考える。
「ミレイと呼んでください」
「ミレイ」
「はい」
「警備記録、三分は消せ」
「それは消しません」
「何でだ!」
生活観測区画の中から、子供の笑い声が聞こえる。
顔のない存在の九つの光も、また同時に揺れた。
そして西側貯水槽の底では、第四の声が今日も文字環を回していた。
捨てられた名。
嫌われた名。
忘れられた名。
役割。
愛称。
呼び方。
「整理せよ」
黒い口が告げる。
「残すもの」
「捨てるもの」
「選べ」
だが、返事はない。
生活観測区画では、白い花が萎れながら残されている。
空の箱も。
用途の決まっていない布も。
丸い木片も。
今すぐ残すか捨てるかを決められていない。
「不要は、除け」
第四の声が言う。
それでも誰も返事をしない。
好きかどうか。
必要かどうか。
役に立つかどうか。
今は、まだ分からない。
分からないものを、すぐに片づけなくてもいい。
その選択だけがまた一つ、第四の声の届かない場所へ静かに増えていた。




