第113話 明日の朝を待つと決めたなら、夜を急いで終わらせなくてもいい
生活観測区画へ夜が来ても、子供には、その変化がまだよく分からなかった。
窓の向こうでは、夕方から少しずつ空の色が薄れていた。昼間には見えていた青はゆっくり灰色へ沈み、庭の木々は枝や葉の形を失って、ひとまとまりの影へ変わっていく。遠くの校舎も輪郭を弱め、やがて外の景色より、部屋の中を照らす魔導灯の光の方が窓硝子へ強く映るようになった。
朝を見たときとは、反対だった。
朝は見えなかったものが少しずつ現れた。
今は、見えていたものが少しずつ分からなくなっていく。
「なくなる?」
子供は窓の前へ立ったまま、暗くなっていく外を見て尋ねた。
「何が?」
少し後ろの椅子に座っていたアリシアが返す。
「空」
「なくならないよ」
「見えない」
「暗くなったから」
「見えないのに、ある?」
「うん」
子供はしばらく窓の外を見続けた。
昼には雲があった。
その隙間に青があり、鳥が飛んでいた。
今は、どれも見えない。
「鳥も?」
「いると思う」
「見えない」
「夜は寝てる鳥も多いよ」
「どこで?」
「木とか」
「落ちない?」
「たぶん」
「たぶん」
「鳥によるから」
「また分からない」
「うん」
子供は、以前ほどその答えに苛立たなくなっていた。
それでも完全に気にならなくなったわけではないらしく、小さく鼻を鳴らす。分からないという言葉を受け入れられるようになっても、分かりたい気持ちまで消えたわけではない。
「朝は」
「うん」
「また来る?」
「来る」
「明日?」
「うん」
「この人と」
子供が顔のない存在を見る。
生活観測区画へ移ってから、人影は寝台へ横になっている時間が少しずつ減っていた。今も自分の寝台の端へ座り、窓の方へ顔のない頭を向けている。
胸には九つの光。
昼間、丸い木片を転がしたときに増えた光だった。
それから新しい光は増えていない。
けれど、子供が話すと明るさが変わる。窓や白い花、丸い木片へ自分から指を向けることもある。
時々、何もない場所へ手を伸ばすこともあった。
何を見ているのか。
何をしようとしているのか。
それだけは、まだ誰にも分からない。
「明日、一緒に朝を見る」
子供が言った。
人影の胸にある九つの光が、一度だけすべて同時に揺れた。
「覚えてる?」
返事はない。
「九つ」
「うん」
アリシアが答える。
「増えない」
「今日はね」
「減ってない」
「うん」
「なら、覚えてる?」
「光の数だけなら」
「約束も?」
「それは分からない」
子供は少し考えた。
「私は覚えてる」
「うん」
「この人が忘れてても」
「うん」
「朝になったら、また聞く」
「うん」
「覚えてる?って」
アリシアは少しだけ目を細めた。
以前の子供にとって、忘れることは、そのまま失うことに近かった。
音を忘れる。
名前を忘れる。
記録を落とす。
そうすれば、もう戻れないと思っていた。
けれど今は違う。
忘れたなら、もう一度聞けばいい。
約束が消えたように見えても、また確かめることができる。
「起きなかったら?」
子供が尋ねた。
「朝に?」
「うん」
「寝てたら?」
「うん」
「起こす?」
子供は人影を見る。
「起きてって言うの、命令?」
「場合によると思う」
「じゃあ、どうする?」
「朝になったって伝える?」
「それだけ?」
「うん」
「見たいなら、自分で動く?」
「できるなら」
「動かなかったら?」
「待つ?」
子供は窓を見る。
朝は待ってくれない。
昨日、白い花の前で知ったことだった。
決めていなくても花は萎れる。
朝も、誰かが決め終わるまで止まってはくれない。
昼になっていく。
「待ったら」
「うん」
「朝、終わる」
「うん」
「嫌」
「うん」
「でも、起こしたくない」
「うん」
「両方」
「まただね」
「多い」
子供は少し困ったように笑った。
そのとき。
顔のない存在の手が、ゆっくり持ち上がった。
「何?」
子供がすぐに見る。
人影は自分の胸へ手を置いた。
九つの光。
そのあと、指を窓へ向ける。
「朝?」
光が揺れる。
「起きる?」
指が、もう一度窓へ向く。
「自分で?」
人影の手は寝台へ戻った。
子供がアリシアを見る。
「分かる?」
「自分で起きるつもりに見える」
「私もそう見えます」
ミレイが、記録帳を閉じたまま答える。
「ただし、そう決めつけはしません」
「うん」
子供はまた人影へ向く。
「じゃあ、朝になったら言う」
九つの光が一度だけ揺れる。
「起こさない」
変化はない。
「でも、朝だって言う」
今度は九つの光が小さく揺れた。
「聞いた?」
「そう見える」
アリシアが答える。
子供は満足したように窓へ戻った。
その視線の先から少し横へずれると、棚には白い花がある。
昼よりさらに花弁を下げていた。
「花」
子供の表情が少し曇る。
「変わった」
「うん」
「水、入れてないから?」
「たぶん」
「明日まで」
「うん」
「大丈夫?」
「形は、もっと変わるかもしれない」
「朝」
子供は窓と花を交互に見る。
「朝も、花も待ってくれない」
「うん」
「でも」
子供は胸へ手を置いた。
「今日は、決めないって決めた」
「うん」
「変わっても」
「うん」
「明日、見る」
「うん」
「嫌になったら?」
「そのとき言えばいい」
「戻したくなったら?」
アリシアは白い花を見る。
「戻せないかもしれない」
子供の顔が強張った。
「戻せない?」
「花はね」
「水入れたら?」
「元の形に完全に戻るとは限らない」
「じゃあ」
言葉が止まる。
「決めなかったせいで、戻らない?」
「そうなることもある」
子供は黙った。
以前なら、すぐに水を入れると言ったかもしれない。
あるいは、誰かに決めてと頼んだかもしれない。
けれど今は。
白い花を見たまま、しばらく動かなかった。
「嫌」
「うん」
「でも」
「うん」
「今日、休むって決めた」
「うん」
「だから」
子供は長く息を吐く。
「明日まで、このまま」
「分かった」
変わるものを、変わるままに置く。
それは何もしないこととは違う。
今は触らない。
水を入れない。
捨てない。
変わっていく姿を見ながら、それでも手を出さない。
それも一つの選択だった。
夕食の前。
生活観測区画には、治療教師が新しい確認を持ち込んだ。
「食事について相談があります」
床に敷いた無地の布へ座っていた子供が顔を上げる。
「何?」
「昨日と今日、粥を食べました」
「うん」
「身体に大きな異常は出ていません」
「じゃあ」
「少しだけ、別のものを試せます」
子供の目が少し明るくなる。
「甘い?」
アリシアが思わず子供を見る。
「覚えてた?」
「アリシア、甘いの好き」
「うん」
「甘いの、食べる?」
治療教師は少し笑った。
「いきなり菓子は避けます」
「何で」
「消化への負担を確認したいので」
「消化」
「食べたものを、身体が使える形へ変えることです」
「難しい」
「簡単に言えば」
セレナが扉近くから補足する。
「お腹が、食べ物を受け取れるか確かめます」
「受け取る」
「はい」
「名前みたい」
セレナが一瞬だけ言葉を止める。
「少し似ていますね」
「嫌なら?」
「身体が痛くなったり、吐き出したりすることがあります」
「身体も、嫌って言う?」
「そう見えることがあります」
「私が平気って言っても?」
「身体が平気とは限りません」
「私なのに?」
「はい」
子供は自分のお腹へ手を置いた。
「身体も、私?」
「うん」
アリシアが答える。
「でも、別?」
「全部が同じようには動かないことがある」
「名前も?」
「どういうこと?」
「頭で嫌じゃない。でも身体、嫌」
アリシアは、一瞬だけ答えを止めた。
六つ目と呼ばれたとき。
相手に悪意がないと分かっていても、身体が先に硬くなることがある。
「ある」
「アリシア?」
「うん」
「呼ばれ方?」
「うん」
「じゃあ、身体の嫌も聞く?」
「うん」
「どうやって」
「痛いとか、息が苦しいとか。身体が硬くなるのもそう」
「今」
子供は白い花を見る。
「身体、少し硬い」
「花を見て?」
「うん」
「じゃあ」
「でも嫌いじゃない」
「うん」
「身体は嫌?」
「怖いのかもしれない」
「違う?」
「嫌いと怖いも違う」
「多い」
「うん」
治療教師は、そこで話を急がなかった。
今日試すのは、柔らかく煮た根菜をさらに潰したものだった。
「名前」
子供がすぐに尋ねる。
「知りたいですか」
「見てから」
小さな皿に、淡い黄色のものが盛られる。
「白くない」
「はい」
「匂い」
「どうですか」
子供は鼻を近づける。
「粥と違う」
「嫌?」
「まだ」
「触る?」
「食べる道具で」
「はい」
匙。
今は、子供自身もその正式な名前を知っている。
けれど子供はあえて「食べる道具」と呼ぶ。
知っていても、自分が今使いたい言葉を選べる。
「少し」
すくう。
口へ運ぶ。
噛む必要はほとんどない。
それでも粥とは違う舌触りと味があった。
「……」
子供の眉が少し寄る。
「嫌?」
セレナが尋ねる。
「分からない」
「味は?」
「甘い?」
アリシアが少し驚く。
根菜そのものの、ほんのりした甘みだった。
「少し」
治療教師が答える。
「これ、甘い?」
「はい」
「アリシアの好きな甘い?」
「お菓子はもっと甘い」
「もっと?」
「うん」
「これより?」
「うん」
子供はもう一口食べた。
「こっち」
「何?」
「粥より好き」
「今は?」
セレナが確認する。
子供が少し笑う。
「今は」
「記録してよいですか」
治療教師が尋ねた。
「身体の反応と食事量は必要です」
「好きも?」
「それは必要ありません」
「じゃあ、書かない」
「分かりました」
「アリシア、覚える?」
「たぶん」
「忘れても?」
「また食べたら分かるかも」
「うん」
好きという感覚まで、必ず記録しなくてもいい。
忘れたなら、また食べて、自分で確かめられる。
食事が終わる頃、子供は粥を三口、根菜を二口食べた。
それ以上は自分から首を横へ振る。
「もういらない」
「お腹は?」
「少し、いっぱい」
「いっぱい」
「入る場所、少ない?」
「身体が、もう食べなくてよいと感じている可能性があります」
「満足?」
「そうですね」
「好きでも?」
「好きでも、食べすぎると苦しくなります」
子供は根菜を見る。
「好きだから、全部じゃない?」
「はい」
「好きでも、やめる?」
「はい」
「嫌いじゃないのに?」
「はい」
「また別」
「うん」
アリシアが笑う。
「面倒?」
「少し」
けれど、子供の顔は嫌そうではなかった。
夜の準備が始まった。
生活観測区画には、独立観測室と違って小さな窓がある。
外はもう完全に暗い。
結界術師が窓の周囲を何度も確認する。
水滴なし。
文字なし。
第四の声の反応なし。
「夜」
子供が言う。
「うん」
「今?」
「うん」
「見える」
「暗いけどね」
「水の中と違う」
「どう違う?」
子供は窓へ近づいた。
「水の中は、全部同じ暗い」
「うん」
「ここは」
窓の向こう。
庭。
遠くの校舎。
「光、ある」
別の棟の窓に、小さな灯りが一つ、二つ、三つと浮かんでいる。
「人?」
「誰かいる部屋もあると思う」
「名前、知らない」
「うん」
「でも、いる」
「うん」
子供はしばらくそれを見た。
「眠る?」
「もう少ししたら」
「この人」
顔のない存在を見る。
「眠る?」
「分からない」
人影は夕方から一度も寝台へ横になっていない。
窓。
木片。
白い花。
時々、子供。
ゆっくり頭の向きを変えている。
「寝ない?」
返事はない。
「身体、疲れる?」
「分かりません」
治療教師が答える。
「魔力の消耗は、今のところ大きくありません」
「でも、眠るかも」
「はい」
「私」
子供は自分の寝台を見る。
「眠い」
「休む?」
「うん」
「何か必要?」
子供は部屋を見回した。
アリシア。
ミレイ。
セレナは扉の外。
ノア。
顔のない存在。
「全部」
「何が?」
「いる?」
アリシアはすぐには答えなかった。
「朝まで?」
子供が尋ねる。
「交代はある」
「アリシア、いなくなる?」
「途中で」
子供の顔が少し曇る。
「ミレイも?」
「休みます」
「ノア」
『私はしばらくいるわ』
「ノアはしばらくいる」
「この人」
「分からない」
「セレナ」
「扉の外の治療担当は交代します」
「いなくなる」
「はい」
「みんな」
「ずっと同じ人ではない」
子供は寝台の端へ座った。
「嫌」
「うん」
「朝まで、今日の人がいてほしい」
「うん」
「でも、疲れる」
「うん」
「昨日、アリシア寝た」
「うん」
「ミレイも」
「うん」
「いても、寝る」
「うん」
「見てなくても、いる」
「うん」
子供は昨日のことを、自分で思い出す。
「いなくても?」
今度は、新しい問いだった。
「いなくても」
アリシアは少し考えた。
「戻る」
「いつ?」
「明日の朝」
「朝になる前に?」
「私は交代で少し戻る予定」
「本当?」
「予定」
「変わる?」
「何かあれば」
「嫌」
「うん」
「でも」
子供は息を吐いた。
「全部、止められない」
「うん」
朝。
花。
人。
食べ物。
時間。
身体。
誰も、全部を止めることはできない。
「じゃあ」
子供が言う。
「アリシア、行くとき言って」
「分かった」
「黙っていなくならない」
「うん」
「ミレイも」
「はい」
「セレナも」
「分かりました」
「ノアも」
『私は猫よ。寝たいときに寝るわ』
「寝るときも?」
『それくらいなら知らせる』
「言うって」
子供は顔のない存在を見る。
「この人」
少し迷う。
「いなくなるとき」
「伝えられるか分からない」
アリシアが答える。
「うん」
「でも、動く前に反応があるかもしれない」
「私、寝てる」
「うん」
「どうする」
子供は人影を見る。
「出たいなら」
言葉を探す。
「出ても、いい?」
学院長が扉の外から静かに口を挟んだ。
「区画外へ出ることは、現時点では止める」
子供が振り返る。
「閉じ込める?」
「安全のためだ」
「でも、この人が出たいなら」
「意思があっても、今は許可できない」
「嫌って言ったら?」
「理由を伝える」
「それでも?」
「それでも止める」
子供の表情が少し険しくなる。
「同じ」
「何と?」
「第四の声」
室内の空気が重くなった。
「第四の声も、危ないって言った」
「何が」
「外」
「……」
「名前、決めないと消えるって。だから決めろって」
「うん」
「学院も、外へ出るなって言う」
「うん」
「危ないから」
「うん」
学院長は否定しなかった。
「同じところはある」
子供が少し驚いたように顔を上げる。
叱られると思っていたのかもしれない。
「違うって言わない?」
「完全に違うとは言わない」
学院長は生活観測区画へ入らず、扉の外の見える位置に立ったまま続ける。
「我々も、危険を理由に自由を止めることがある」
「同じ」
「そうだ」
「じゃあ」
学院長は少しだけ間を置く。
「違いを作るのは、そのあとだ」
「あと?」
「理由を説明する。期限を決める。見直す。本人が嫌だと言えるようにする。こちらが間違っていたら変える」
「第四の声は?」
「変えない」
「正しいって言う」
「そうだ」
「学院も正しいって言う?」
「言う者はいる」
「学院長も?」
学院長は長く黙った。
「以前は」
その言葉にアリシアが顔を上げる。
「今は?」
子供が尋ねる。
「正しいと思う判断でも、間違える可能性を残す」
「分からない?」
「分からないことがあると認める」
「外へ出るのも?」
「今は危険が高いと判断している」
「でも、明日変わる?」
「情報が変われば」
「変わらなくても、私が嫌って言ったら?」
「聞く」
「出してくれる?」
「必ずとは言えない」
子供はやはり不満そうだった。
「嫌」
「聞いた」
「でも」
「うん」
「第四の声より、少し面倒」
学院長がほんの少し目を細める。
「それは褒め言葉として受け取っておく」
廊下の奥でカイルが吹き出した。
「学院長、面倒って言われて喜ぶんですか」
「黙っていろ」
「はい」
子供が少し笑う。
重くなっていた空気が、ほんの少しだけほどけた。
「この人が」
子供はまた人影を見る。
「夜、出たいって動いたら」
「警備が止める」
「傷つける?」
「必要がなければ傷つけない」
「止まらなかったら?」
「結界で動きを止める」
「嫌」
「うん」
「でも」
子供は人影へ向く。
「今は、外、危ないって」
伝える。
「私は、朝までこの部屋にいてほしい」
九つの光が揺れた。
「でも」
子供はすぐに続ける。
「出たいなら、動いて」
アリシアが少し驚く。
「止められるかも」
「うん」
「それでも?」
「出たいって分かるから」
自由に出られなくても。
出たいという意思まで消さなくていい。
「出ようとしても」
子供は言った。
「悪いってしない」
人影の胸で、九つの光のうち一つがゆっくり強くなった。
「聞いた?」
「そう見える」
アリシアが答える。
夜の最初の鐘が鳴り、生活観測区画の明かりが少し落とされた。
完全には暗くしない。
水中にいた子供が、強い暗さへ恐怖を感じる可能性があるからだ。
「これ」
「嫌?」
「少し」
「明るくする?」
「でも、眠る」
「明るくても眠れるよ」
「暗いのも」
「うん」
「試す」
子供は寝台へ入った。
顔のない存在は、隣の寝台へ座ったまま。
「寝ない?」
反応はない。
「朝」
子供が言う。
「明日」
人影の光が揺れる。
「一緒に見る」
もう一度。
「私、先に寝る」
光。
「おやすみ」
子供が言った。
人影は動かない。
「返事ない」
「うん」
「でも、いい?」
「子供は?」
「うん」
子供は目を閉じた。
少しして、また開く。
「アリシア」
「うん」
「おやすみ、何?」
「眠る人に言う言葉」
「起きたら?」
「おはよう」
「朝?」
「朝じゃなくても、起きたときに言うこともある」
「正しくない?」
「何が?」
「朝じゃないのに、おはよう」
「そういう使い方もある」
「名前より面倒」
「たぶん」
子供は少し笑い、もう一度言った。
「おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ミレイ。
「おやすみなさい」
セレナ。
『おやすみ』
ノア。
子供にはノアの声が聞こえないため、アリシアが「ノアも」と伝える。
子供は今度こそ目を閉じた。
顔のない存在は、長いあいだ子供の寝台へ頭を向けていた。
やがて、ゆっくりと自分の身体を寝台へ戻し、横になる。
朝を見るために眠るのか。
ただ横になりたいのか。
誰にも分からない。
だから誰も、「眠った」とは記録しなかった。
夜が進み、交代の時間になる。
アリシアは子供との約束通り、寝台の近くまで行った。
起こさない。
ただ小さな声で言う。
「一度、出ます」
子供は眠っている。
返事はない。
「朝の前に戻る予定」
それだけ伝える。
顔のない存在の九つの光が、少しだけ揺れた。
「ノアは残る」
『ええ』
「ミレイも、少ししたら交代」
「はい」
アリシアは静かに扉を出た。
廊下へ出た途端、身体が一気に重くなる。
「疲れた?」
ミレイが尋ねる。
「うん」
「私も」
「決めるの」
「何が?」
「ずっと聞くのも」
「はい」
「聞かないのも」
「はい」
「難しい」
「はい」
二人はしばらく廊下の壁へ並んでもたれた。
「子供が」
ミレイが言う。
「疲れたとき、一つだけ決めてほしいと言いましたね」
「うん」
「私も」
「何?」
「今」
ミレイは少し笑った。
「寝るか、記録を確認するか。決めてください」
アリシアが目を瞬く。
「私?」
「一つだけ」
「寝て」
「分かりました」
「早い」
「決めてほしいと頼んだので」
「本当に?」
「はい」
「記録、気になる?」
「かなり」
「でも寝る?」
「決めてもらいましたから」
「嫌なら変えていいよ」
「今は、従います」
「従うって言うと」
「では」
ミレイは少し考えた。
「任せます」
「うん」
二人は少し笑った。
選ぶことを誰かへ任せる。
それも、自分で選べる。
夜半。
西側貯水槽では、第四の声に新しい変化が起きていた。
文字環は変わらず回り続けている。
捨てられた呼び方。
嫌われた名。
役割。
愛称。
そして、その中央。
本来なら顔のない存在が立っているはずだった場所は、空白のままだった。
第四の声は、何度も同じ音を流す。
「返事をする器」
返事はない。
「名なき器」
返事はない。
「戻れ」
返事はない。
「命令」
返事はない。
「拒絶」
返事はない。
そして。
「選べ」
水面が小さく揺れた。
第四の声が止まる。
「選べ」
もう一度。
今度は違う場所。
貯水槽の壁。
五百人の名前が封じられている層の一部から、淡い光が一つだけ浮かび上がった。
文字ではない。
声でもない。
ただ小さな点。
「選べ」
第四の声が命じる。
光は返事をしない。
「選べ」
それでも光は消えない。
「誤り」
第四の声が告げる。
だが、淡い点はその場に残ったままだった。
返事をしない。
命令にも従わない。
ただ存在する。
そして、その隣へもう一つ、小さな光が浮かぶ。
二つ。
少し離れて。
同じ大きさではない。
同じ明るさでもない。
「統合せよ」
第四の声が命じる。
二つの光は近づかない。
「一つへ」
動かない。
「中央へ」
動かない。
三つ目。
四つ目。
五つ目。
五百人の名前の層から、名前ではない光が少しずつ浮かび始める。
第四の声が、初めて声を強くした。
「戻れ!」
それでも光たちは戻らない。
西側貯水槽の中で、何かが変わり始めていた。
翌朝。
まだ日の出より少し前。
アリシアは約束通り生活観測区画へ戻った。
眠気は残っている。
身体も重い。
それでも、子供を起こさないよう静かに扉を開ける。
ノアは床へ敷かれた無地の布の上で丸くなっていた。
『遅くはないわね』
「朝、まだ?」
『もう少し』
「変化は?」
ノアが寝台を見る。
『二人とも、大きな変化はない』
「二人とも寝た?」
『子供は眠っている。もう一人は……』
ノアは少し迷う。
『眠っているように見える』
「分からない?」
『ええ』
アリシアは窓を見る。
外はまだ暗い。
けれど東の空だけ、ほんの少し灰色が薄くなっている。
昨日。
子供が初めて見た朝。
今日は、二人で見ると決めた朝。
アリシアは椅子へ座った。
起こさない。
待つ。
ただし朝が始まったら伝える。
しばらくして、空の色が少し変わった。
黒から濃い青へ。
窓の輪郭もはっきりしてくる。
「朝」
アリシアが小さく言った。
子供の瞼がゆっくり開く。
ほぼ同時に、顔のない存在の九つの光が一斉に強くなった。
「アリシア」
「いる」
「朝?」
「始まってる」
子供はすぐ隣の寝台を見る。
顔のない存在はまだ横になっている。
「朝」
子供が言う。
命令ではなく、知らせる。
「来た」
九つの光が揺れる。
人影の手が動いた。
寝台へ指を置き、腕へ力を入れ、ゆっくり上体を起こす。
子供の顔が一気に明るくなる。
「起きた!」
人影は窓へ顔のない頭を向ける。
「見たい?」
指が窓へ向く。
「一緒」
子供も寝台から降りた。
足裏は昨日より少し良い。
それでも走らない。
ゆっくり窓へ向かう。
顔のない存在も、初めて自分の足を床へ下ろした。
その瞬間、室内にいる全員の呼吸が止まる。
立てるのか。
身体を支えられるのか。
警備へ連絡するべきか。
アリシアは動かなかった。
人影の足が床へ触れる。
一歩。
身体が大きく揺れた。
子供が反射的に手を伸ばしかけ、途中で止める。
「触る?」
人影へ尋ねる。
返事はない。
人影は自分で寝台の縁へ手を置き、身体を支えた。
もう一歩。
小さく進む。
「自分で」
子供が呟く。
「うん」
アリシアが答える。
窓までは遠い。
五歩。
六歩。
子供なら、もう歩ける距離。
人影にとっては初めてだった。
一歩。
二歩。
三歩。
途中で止まる。
「休む?」
子供が尋ねる。
人影は自分で床へ座った。
子供が少し笑う。
「休んだ」
「そう見える」
「何も言ってない」
「うん」
「自分で」
「うん」
窓の外では、空が少しずつ明るくなっている。
「朝、進む」
子供が言う。
「うん」
「待たない」
「うん」
「でも」
床へ座る人影を見る。
「休む」
「うん」
「朝、終わるかも」
「うん」
人影の九つの光は消えない。
「それでも」
子供は少し考え、人影の横へ同じように床へ座った。
「一緒に休む」
アリシアも何も言わず、少し離れた位置へ座る。
「見えない?」
子供が窓を見る。
低い位置からでは、空全部は見えない。
けれど、窓の上の方に色が少しだけ見える。
「少し見える」
「うん」
「全部じゃない」
「うん」
「でも」
子供は人影を見る。
「ここでいい?」
人影の指が床へ軽く触れる。
胸の九つの光がゆっくり明るくなる。
「いいように見える」
「私にも」
朝を全部見なくてもいい。
最初から最後まで、窓の前へ立っていなくてもいい。
途中で座ってもいい。
休んでもいい。
少ししか見えなくても、その朝はなくならない。
子供は人影と並び、床へ座った。
言葉は少ない。
空が明るくなる。
その途中。
窓の外を鳥が一羽横切った。
「鳥」
子供が言う。
人影の頭が少し上がる。
「見えた?」
九つの光が一斉に揺れる。
「名前、知らない」
子供が笑う。
「でも」
人影の指が上へ向かう。
昨日と同じように、鳥の動きを真似る。
「飛んだ」
子供が続けた。
「本当に」
その瞬間。
人影の胸へ十個目の光がゆっくり浮かんだ。
「十」
子供が息を呑む。
アリシアもミレイも、今は記録帳を持っていない。
誰もすぐには書かない。
「何?」
子供が尋ねる。
「分からない」
アリシアが答える。
「朝を一緒に見たから?」
「かもしれない」
「鳥?」
「かもしれない」
「休んだから?」
「それも」
「一緒?」
「分からない」
子供は十の光を見る。
「全部?」
「何が?」
「今の全部で、十?」
アリシアは少し考える。
「一つの理由じゃないかもしれない」
「一つじゃない?」
「うん」
子供は、その答えを嫌がらなかった。
「なら」
少し笑う。
「十、分からない光」
「うん」
「でも、ある」
「うん」
朝は進む。
空は変わる。
白い花は昨日より萎れている。
丸い木片は机の脚のそばにまだ転がったまま。
空の箱も何も入っていない。
夜のあいだ、誰かが勝手に片づけたものは一つもなかった。
朝を見終えると、子供は最初に白い花のところへ向かった。
「もっと下がった」
「うん」
アリシアも隣へ行く。
「昨日」
「うん」
「アリシアが決めた」
「水は入れないって」
「うん」
「今日」
「うん」
「私、決める?」
「疲れてない?」
子供は少し考えた。
「今は、大丈夫」
「じゃあ」
「でも」
花へ指を伸ばす。
触らない。
「水、まだ怖い」
「うん」
「枯れるの、嫌」
「うん」
「両方」
「うん」
「別の方法」
「探してる」
「ある?」
アリシアは少し考える。
「一つ、試せるかもしれない」
「何」
「土」
「土?」
「花を土へ戻す」
子供の目が少し大きくなる。
「戻る?」
「元の場所には戻せない」
「じゃあ」
「別の土へ植える」
「生きる?」
「茎だけの花だと、根がないから難しいかもしれない」
「根」
「地面の中で水や栄養を取るところ」
「ない?」
「この花には」
「じゃあ無理」
「かもしれない」
「ほか」
「乾かして、形を残す方法もある」
「水、いらない?」
「うん」
「でも、白?」
「色は変わるかもしれない」
「形も?」
「少し」
「変わる」
「うん」
子供は花を見る。
「変わらない方法」
「完全には、たぶんない」
「嫌」
「うん」
「第四の声なら」
アリシアの胸が少し硬くなる。
「一つにしたら、変わらないって」
「うん」
「でも」
子供は昨日より長く花を見る。
「変わらないなら」
「うん」
「朝も、ずっと朝?」
アリシアは少し驚いた。
「たぶん」
「昼、ない?」
「一つに固定するなら」
「夜も?」
「うん」
「鳥、ずっと同じところ?」
「そうなるかも」
「木片も」
机の脚のそばを見る。
「ずっと止まる?」
「うん」
「嫌」
子供ははっきり言った。
「変わるのも嫌」
「うん」
「変わらないのも嫌」
「うん」
「両方、嫌」
「うん」
「どうする?」
「どっちかしかない?」
アリシアが尋ねる。
子供は少し考える。
「分からない」
「じゃあ」
「うん」
「今日、花をどうするかだけ決める」
「世界全部じゃなく?」
「うん」
「花だけ」
「うん」
「朝は朝」
「うん」
「木片は木片」
「うん」
「人影は」
顔のない存在を見る。
アリシアは言葉を止める。
「そのまま」
子供が自分で言った。
「名前、まだいらない」
「うん」
子供は白い花を見る。
「乾かす」
「いい?」
「うん」
「水、使わない」
「うん」
「変わる」
「うん」
「でも」
少しだけ、花弁へ指先を触れる。
「どこまで変わるか見る」
「分かった」
ミレイが近くへ来る。
「記録しますか」
子供は花を見る。
「花のこと?」
「水を使わず乾かすと決めたこと」
「必要?」
「生活上は必要ではありません」
「じゃあ、書かない」
「分かりました」
「忘れたら?」
「花を見ます」
「うん」
「花がなくなったら?」
子供は少しだけ笑った。
「そのとき、忘れてたら」
「はい」
「分からないって言う」
ミレイも少し笑った。
「分かりました」
その頃。
西側貯水槽では、夜に現れた小さな光が十七個まで増えていた。
名前ではない。
文字でもない。
第四の声へ返事をしない。
ただ、五百人の名前が封じられた層から少しずつ外へ浮かんでいる。
「統合せよ」
第四の声が命じる。
光はばらばら。
「一つへ」
近づかない。
「正しい記録へ」
光の一つが、むしろ少し遠ざかる。
「誤り」
第四の声。
別の光も違う方向へ動く。
「戻れ」
戻らない。
十七。
それぞれ別の位置。
別の明るさ。
別の揺れ方。
その異変を最初に地下観測室で確認したのは、サーラだった。
「学院長」
声がわずかに震える。
「西側貯水槽の内部に、新しい反応があります」
「第四の声か」
「違います」
「第三の器?」
「それとも違うように見えます」
「数は」
「十七」
「同じ反応か」
「全部違います」
サーラは記録板へ数字を書く。
ただし、個々の位置を一枚へまとめない。
「一つの図にするな」
学院長がすぐに命じる。
「はい」
「ケインへ半分。別の紙へ」
「ミレイは?」
「生活観測区画から外す必要はない。今いる役割を変えさせるな」
「分かりました」
「アリシアへは?」
学院長は少し考える。
「朝の観測が終わるまで待て」
以前なら、異変があれば神器継承者をすぐ呼んだ。
今は違う。
生活観測区画で、子供と顔のない存在が初めて一緒に朝を見ている。
「急変したら?」
「そのとき呼ぶ」
「はい」
すべてを異変へ集めない。
必要な者だけが動き、今いる場所を守る。
朝の光が生活観測区画へ入り込む。
顔のない存在の十の光。
子供の、まだ名前ではない三つの音。
乾かすと決めた白い花。
机の脚へ転がったままの木片。
誰にも名前を付けられていない空の箱。
それらを、同じ朝の光が区別せず照らしている。
「アリシア」
「うん」
「朝」
「うん」
「昨日と違う」
「うん」
「この人と見た」
「うん」
「十、増えた」
「うん」
「花、乾かす」
「うん」
「今日」
「うん」
「何する?」
アリシアはすぐには答えなかった。
西側貯水槽の異変は、まだ知らない。
それでも今日も、何かは起きる。
何かを決める。
何かが変わる。
「今は」
窓を見る。
「朝ごはん?」
子供が少し笑った。
「根菜」
「好き?」
「今は」
「うん」
「小さい白、少し」
「塩」
「私の呼び方」
「分かった」
子供は顔のない存在を見る。
「この人は?」
「食べられるか、まだ分からない」
「なら」
子供は空の箱を指す。
「木片」
「遊ぶ?」
「朝ごはんのあと」
「うん」
「何もしない時間も」
「うん」
「花も見る」
「うん」
「全部、役に立つ?」
アリシアは少し考える。
「器を止めるためには、直接は役に立たないかも」
子供は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、やる」
その笑いへ、顔のない存在の十の光が同時に揺れる。
その瞬間。
西側貯水槽では、十七の小さな光のうち一つが、初めて文字環から完全に離れた。
名前を告げず。
返事もせず。
中央へ戻らず。
ただ、水の中を自分の方向へ向かって、ゆっくり動き始めた。




