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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第114話 誰かが歩き始めたからといって、同じ方向へ並ばせる必要はない



 朝食が終わる頃、生活観測区画の棚に置かれた白い花は、昨日よりはっきりと姿を変えていた。


 花弁の先は内側へ丸まり、白一色だった色にも、ところどころ薄い茶色が混じり始めている。細かった茎も以前ほどまっすぐではなく、乾いた小瓶の縁へ身体を預けるように傾いていた。


 水は与えていない。


 子供が昨日、自分でそう決めたからだ。


 変わることは嫌だった。


 けれど、変わらないために水を使うことも怖かった。


 だから、まずは乾いていくところを見る。


 正しいかどうかではなく、今はそうしたい。


 その選択の結果が、今、目の前にある。


 子供は根菜を二口、粥を三口食べたあと、自分で「小さい白」と呼んでいる塩をほんの少しだけ加えた粥を、もう一口だけ口へ運んだ。


 ゆっくり咀嚼する。


 飲み込む。


 それから匙を皿へ置いた。


「もう、いらない」


 向かい側で様子を見ていたセレナは、食事量を増やすよう促さなかった。


「お腹は?」


 子供は自分の腹へ手を置き、少し考える。


「いっぱい。少し」


「苦しいですか」


「ない」


「気持ち悪い?」


「ない」


「では、今はここで終わりにしましょう」


「うん」


 治療教師が食器を片づけ始めると、子供はその手元をじっと見た。以前のように、運ばれていくものすべてを不安そうに追うわけではない。それでも、残った粥が小さな器へまとめられたところで、視線が止まった。


「食べ物」


「はい」


「残ったら、捨てる?」


 治療教師は一度手を止める。


「時間が経って、身体に良くない状態になったものは捨てます」


「昨日、聞いた」


「覚えていましたか」


「うん」


「嫌ですか?」


 子供はすぐに答えず、残った粥と棚の白い花を交互に見た。


「食べ物は、少し分かった」


「何が?」


「変わるから」


「はい」


「身体に悪くなるなら、捨てる」


「はい」


「白い花も変わる」


 棚へ視線を移す。


「でも、まだ見る」


「うん」


 アリシアが答える。


「同じ、変わるなのに」


「違うね」


「どうして?」


 アリシアは少しだけ考えた。


 食べ物は、時間が経てば身体へ害を与える可能性がある。白い花は、萎れてもただ姿が変わるだけかもしれない。


 そう説明することもできる。


 けれど、それだけではない気がした。


「子供が、違うものとして見ているからじゃないかな」


「それでいい?」


「いいと思う」


「正しい?」


 アリシアは思わず少し笑った。


「正しいかは分からない」


「また」


「でもね」


「うん」


「食べ物を捨てることと、花を残すことが、同じ理由じゃなくてもいいと思う」


「一つじゃない」


「うん」


 子供は満足したように小さくうなずいた。


 一つの基準で全部を決めなくていい。


 変わるものだから捨てる、という決まりを、世界中のすべてへ当てはめなくてもいい。


 その横で、顔のない存在は窓の近くへ座っていた。


 今朝、初めて自分の足で寝台から下りた。朝を見るために窓へ向かおうとして、途中で疲れたように床へ座り、子供もその隣へ腰を下ろした。


 そのとき、二人は低い位置から少しだけ朝を見た。


 胸には十の光が浮かんでいる。


 姿勢も、手足の動きも、昨日よりわずかに自然になっているように見えた。


 けれど誰も、「人間らしくなった」とは言わなかった。


 人間へ近づいているとも。


 何かへ成長しているとも。


 まだ、そこまで決める理由がない。


「木片」


 子供が突然言った。


 机の脚のそば。


 昨日、遊びの途中で止まり、そのまま片づけなかった丸い木片が残っている。


「まだある」


「うん」


「誰も動かしてない」


「危険じゃなかったからね」


「邪魔?」


「少しは」


「でも?」


「朝まで置いておくって約束したから」


 子供は椅子から下り、自分の足で木片まで歩いていった。


 まだ走らない。


 歩き方にも少し慎重さが残っている。


 屈み、木片を拾う。


「取った」


「うん」


「昨日、取るかもって言った」


「覚えてる」


「取らないかもっても言った」


「うん」


「今日は、取った」


「うん」


「昨日の私、間違い?」


「間違いじゃないよ」


「でも違う」


「昨日は、どっちにするかまだ決めてなかっただけ」


「今、変えた?」


「うん」


 子供は木片を両手の中で転がした。


「この人」


 顔のない存在へ向く。


「遊ぶ?」


 反応はない。


「今は、遊びたくない?」


 胸の十の光も、ほとんど変化しない。


 以前なら、子供はそこですぐに不安そうな顔をした。


 自分が嫌われたのか。


 何かを間違えたのか。


 返事をさせる方法はないのか。


 今は、少し待ったあとで自分から言った。


「分からない」


 声に、以前ほどの失望はなかった。


「私は、一人で転がす」


 床へ敷いた無地の布の端から、木片をゆっくり転がす。


 ころころと進み、壁へ当たる。


 当然、戻ってはこない。


「返ってこない」


「壁は返してくれないね」


 アリシアが言う。


「でも」


 子供は立ち上がって自分で木片を取りに行った。


「一人でも遊べる」


「うん」


「この人、いなくても?」


「うん」


「でも、いる」


「うん」


「じゃあ」


 もう一度、転がす。


 顔のない存在が見ているのかは分からない。


 けれど、木片が動くたびに顔のない頭の向きが少しずつ変わっていた。


「見てる?」


 子供が尋ねる。


 返事はない。


「私は、見ているように見えます」


 ミレイが答えた。


「書く?」


「今は書きません」


「どうして」


「生活だからです」


「全部?」


「全部ではありません」


「難しい」


「うん」


 ミレイも、最近は自分の判断を絶対のものとして言わなくなっていた。


「安全に関係することは?」


「書きます」


「身体」


「必要な範囲で」


「この人の光」


 ミレイは少し迷った。


「急に増えたり減ったりして、安全や状態判断に必要だと思えば記録します」


「十、今は?」


「覚えています」


「書いてない」


「はい」


「消えたら?」


「消えたことが必要なら、それを記録します」


「十あったのに?」


「私たちが覚えていれば、そのことを話せます」


「忘れてたら」


「分からないと残します」


 子供は手の中の木片を止めた。


「分からないって書く?」


「はい」


「空欄じゃない?」


「空欄にすることもあります」


「違う?」


「違います」


「同じ、空いてる」


「本人の意思で残さない空欄と、調べても分からなかったという記録は、意味が違います」


 子供は少し眉を寄せた。


「面倒」


「そうですね」


 ミレイも小さく笑う。


 そのとき。


 生活観測区画の外で、短い鐘が一度だけ鳴った。


 警報ではない。


 緊急招集でもない。


 内部連絡の合図だった。


 アリシアは窓の方へ向けていた視線を扉へ移す。


 学院長が、外から入室許可を求めていた。


「入っていい?」


 アリシアが子供へ尋ねる。


「学院長?」


「うん」


「何かある?」


「たぶん」


「私のこと?」


「分からない」


「聞く?」


「子供が今、話を聞けるなら」


 子供は手の中の木片を見る。


 朝食。


 白い花。


 遊び。


 今は、生活の時間だった。


「長い?」


 扉の外から、学院長自身が答えた。


「長くしない」


「難しい話?」


「少し」


「嫌」


「なら、今すぐ聞かなくてもよい」


 子供が少し驚いた顔をする。


「急ぎじゃない?」


「変化は起きている。しかし、今この瞬間に君が聞かなければ危険になる状況ではない」


「アリシアは?」


「できれば報告を受けてほしい」


 学院長が答える。


 子供は少し考え、アリシアを見る。


「行く?」


「子供は?」


「木片」


「遊ぶ?」


「うん」


「私がいなくても?」


「いる人、いる」


 ミレイ。


 ノア。


 治療教師。


 扉の外にはセレナ。


 そして、顔のない存在もいる。


「アリシア」


「うん」


「行ってきて」


 その言葉を聞いた瞬間、アリシアの胸が小さく温かくなった。


 昨日、子供が顔のない存在へ使った言葉。


 行ってらっしゃい。


 離れても、戻ってくる前提で送る言葉。


「戻る?」


「戻る」


「いつ?」


「報告が終わったら」


「長くなったら?」


「途中で一度、伝えに来る」


「本当?」


「うん」


 子供は木片を床へ置き、少しだけ笑った。


「行ってらっしゃい」


 アリシアも自然に答える。


「行ってきます」


 生活観測区画を出る。


 扉が静かに閉じ、子供の姿は見えなくなった。


 それでも。


 そこにいる。


 見えなくても。


 触れていなくても。


 呼び続けなくても。


 アリシア自身も、その感覚を以前より少しだけ理解できるようになっていた。


 隣室へ設けられた簡易作戦室には、学院長、副学院長、サーラ、ケイン、風と土の神器継承者、そしてカイルが集まっていた。


「レオンハルトは?」


 アリシアが尋ねる。


「ルクスの羽根の反応を確認している」


「セレナは?」


「生活観測区画の外周だ」


「そのまま?」


「今は」


 全員を、同じ報告のために一箇所へ集めない。


 必要な者だけが移動する。


 以前より、それが当たり前になり始めていた。


「西側貯水槽で変化があった」


 学院長が机へ一枚の図を置いた。


 ただし、全体図ではなかった。


 左半分。


 昨夜現れた十七の光のうち、九つだけが記録されている。


「何?」


 アリシアが尋ねる。


「昨夜から今朝にかけて、五百人分の名前が沈んでいる層から、文字ではない光が浮かび始めた」


「第四の声?」


「違う」


 サーラが答える。


「第四の声の命令へ反応していません」


「第三の器?」


「それも分かりません」


 ケインが自分の前へ別の紙を出した。


 そこには残り八つ。


 位置も、大きさも、明るさも違う。


「一つにまとめなかった?」


「はい」


 サーラがうなずく。


「学院長の指示で、私が九つ。ケインが八つを別々に記録しています」


「どうして?」


「一枚に描けば」


 ケインが紙を見ながら答える。


「十七を一つの現象として見てしまう可能性があるからです」


「同じじゃない?」


「同じ場所から出ています」


「うん」


「でも、同じ動きをしていません」


 学院長が図の外側を指した。


「そして一つだけ、完全に文字環から離れた」


「どこへ?」


「まだ移動中だ」


「上?」


「西側貯水槽の外周方向」


「第三の器からも?」


「距離を取っている」


 アリシアは紙を見つめた。


「自分で?」


 誰もすぐには答えなかった。


「そう見える」


 サーラが慎重に言う。


「第四の声は『統合せよ』『一つへ』『中央へ戻れ』と命じています」


「返事は?」


「ありません」


「動きは?」


「命令とは逆方向です」


 アリシアの胸が強く鳴った。


 生活観測区画の顔のない存在が頭へ浮かぶ。


 最初は呼び方へ反応するだけの器だった。


 けれど水から切り離され。


 自分から手を握り。


 力を緩め。


 離し。


 聞いてしまった音を返し。


 窓へ指を向け。


 木片を自分から返した。


「同じ?」


 アリシアが呟く。


「何と?」


 学院長が尋ねる。


「生活観測区画の……あの存在と」


「似ている可能性はある」


「五百人の名前から?」


「名前そのものではないかもしれない」


「じゃあ、人――」


「決めるな」


 ノアはここにいない。


 代わりに学院長が短く止めた。


 アリシアは口を閉じ、すぐにうなずく。


「うん」


「今確認できているのは」


 学院長が続ける。


「文字ではない光が十七あること。第四の声の命令へ従っていないこと。そして少なくとも一つは文字環から離れたことだけだ」


「声は?」


「ない」


「形は?」


「ない」


「名前」


「もちろんない」


 アリシアは、もう一度自分を止めた。


 人は、分からないものへ名前を付けたくなる。


 名前があれば理解した気持ちになれる。


 けれど今は。


 ただ、光。


 それだけでいい。


「一つだけ離れたなら」


 カイルが腕を組んだ。


「拾いに行くか?」


 アリシアがすぐ彼を見る。


「拾うって言い方」


「悪いか?」


「物みたい」


 カイルが少し黙る。


「……じゃあ、迎えに行く?」


「来てほしいか分からない」


「見るだけ?」


「それも」


 アリシアは自分で考える。


 顔のない存在。


 子供。


 西側貯水槽。


 第四の声。


 そして、ルクスの言葉。


「追うと」


「器を追うな」


 学院長が先に言った。


「そう」


 アリシアはうなずく。


「第四の声は中央へ戻れって言ってる」


 風の神器継承者が言う。


「こっちまで迎えに行けば、反対側から囲うことになるかもしれない」


「じゃあ」


 土の神器継承者が図を見ながら口を開いた。


「通れる場所だけ作るか」


 全員が彼を見る。


「道?」


「西側貯水槽の外周に、閉鎖中の小排水路がいくつかある」


 古い地下図を広げる。


「今は水を抜いてある。人が通るには狭すぎる箇所もあるが、魔力の光なら通れる可能性がある」


「出口を開ける?」


「直接触れずに」


 土の神器継承者は図の一箇所を指した。


「外側から土壁だけ少し広げる。光がそちらへ進みたいなら、道になる」


「進まなかったら?」


「そのまま」


「誘導しない?」


「誘導用の光も、声も、印も置かない」


「第四の声に利用されるかもしれないから?」


「そうだ。だから、道だけ」


 アリシアの胸に、小さな納得が生まれる。


「迎えに行かない」


「うん」


「でも、出たいなら出られる場所を作る」


「そうだ」


 土の神器継承者が答える。


 顔のない存在を切り離したときとは違う。


 あの存在には、子供が手を差し出した。


 そして、握り返した。


 今の光には、それさえない。


 なら、こちらから腕を掴みに行ってはいけない。


「道だけ作る」


 学院長が決めた。


「ただし、一方向へ固定するな」


「一つじゃない?」


 アリシアが尋ねる。


「排水路を三方向確認する。北、西、上層だ」


「全部開ける?」


「安全に可能な範囲で」


「第四の声が使う可能性は?」


「それぞれ別方式の逆流防止結界を張る」


 土。


 風。


 光。


 複数の手段を分けて使う。


 一つの正しい出口を作らない。


「十七全部が別方向へ行ったら?」


 カイルが聞く。


「行かせる」


 学院長は即答した。


「ばらばらになるぞ」


「それが、それぞれの動きなら」


「本人たちって――」


 カイルが言ったところで、自分から止まった。


「……光だったな」


「今は」


 アリシアが答える。


「十七の光」


「面倒だな」


「うん」


「全部まとめて助ける方が、ずっと楽だ」


「たぶん」


「でも、やらない?」


「うん」


「一個ずつ見るのか」


「それも、一人で全部は見ない方がいいです」


 サーラが言った。


「観測者を分けます」


 十七。


 同じ場所から浮かんでも。


 全部が違う。


「現地班を増やす」


 副学院長が言う。


「ただし中央へ集中させない」


「外周三班」


 学院長が決める。


「北、西、上層。それぞれ別の記録者を配置する。直接の音声通信は必要時のみ」


「第四の声が声を利用する可能性があるから」


「そうだ」


「私は?」


 アリシアが尋ねる。


「外周まで」


「中には?」


「今すぐは入れない」


「どうして」


「黒月が十七の光を、一つの接続線として見せる可能性がある」


 アリシアは腰の黒月へ手を置く。


「そんなこと」


「ないと言えるか」


「……言えない」


 黒月は接続を見る。


 そして切る。


 強い力だ。


 だからこそ、黒月を通して見えるものへ判断を引っ張られる危険もある。


「今日は」


 学院長はアリシアを見る。


「黒月を使う前に、普通の目で見る」


「私も?」


「お前も」


「でも」


 アリシアは図を見る。


 生活観測区画。


 子供。


 顔のない存在。


 西側貯水槽。


 自分に、何をする役割があるのか分からない。


「役割がないのが不安か」


 学院長に言われ、アリシアは答えを止めた。


「少し」


「なら、見る役割を与える」


「見る?」


「ただし、切らないことも仕事へ含める」


 アリシアが顔を上げる。


「黒月を抜かない?」


「必要になるまで」


「見るだけ」


「普通の目で」


「役に立つ?」


「分からん」


 アリシアは少しだけ笑った。


「子供に言われたみたい」


「何が」


「役に立たなくてもいい時間」


「今回は仕事だ」


「うん」


「だが、何かをしなければ仕事にならないとは思うな」


 アリシアは静かにうなずいた。


「生活観測区画へ戻ってから移動する」


「子供へ報告する?」


「十七の光についてか」


「うん」


 学院長は少し考えた。


「今すぐ全部を伝える必要はない」


「隠す?」


「本人と関係している可能性は高い。だから知る権利はある」


「なら」


「ただし」


 学院長は言葉を区切った。


「食事と遊びを終えたばかりの者へ、異変が起きるたび全部を背負わせる必要もない」


 アリシアは昨日の子供の言葉を思い出す。


 選べること。


 毎回選ばされること。


 それは同じではない。


「聞きたいかだけ聞く?」


「まずは、異変があると伝える」


「それも選ばせる?」


 アリシアは少し迷った。


「疲れてるときは?」


「その確認自体が負担なら」


「近くにいる人が、一つ決める」


「覚えていたか」


「うん」


「なら、状態を見て判断しろ」


 すべてを固定手順にはしない。


 同じ問い。


 同じ返し。


 同じ順番。


 それすら、第四の声にとっては利用できる形になるかもしれない。


 生活観測区画へ戻ると、子供は床の布へ座っていた。


 丸い木片は顔のない存在の足元にあり、その存在が指先をゆっくり近づけている。


「戻った」


 子供がアリシアを見る。


「ただいま」


「報告?」


「うん」


「難しい?」


「少し」


「私のこと?」


「関係あるかもしれない」


 子供の身体がわずかに硬くなる。


「聞く?」


 アリシアが尋ねた。


 子供は木片を見る。


 白い花。


 顔のない存在。


 それから自分の胸。


「今は、疲れてない」


「うん」


「聞く」


「分かった」


 アリシアは床へ腰を下ろした。


 子供と同じ高さ。


「西側貯水槽で、十七の小さな光が出た」


「光」


「うん」


「文字?」


「違う」


「名前?」


「今は分からない」


「声?」


「ない」


「人?」


「それも決めてない」


 子供の呼吸が少しずつ整う。


「第四の声は?」


「中央へ戻れって言ってる」


「光、戻った?」


「戻ってない」


 子供が目を見開いた。


「一つは、文字環から完全に離れた」


「どこ?」


「外側へ」


「逃げた?」


「そう見えるかもしれない。でも、まだそうとは決めない」


「追う?」


「追わない」


 今度は、別の意味で子供が驚く。


「助けない?」


「道を作る」


「道?」


「三つ」


 北。


 西。


 上。


 アリシアは簡単に説明した。


「どれが正しい?」


「決めない」


「光が選ぶ?」


「選べるなら」


「選べないかも」


「そのときは、そのまま」


「第四の声、捕まえる」


「その可能性はある」


「なら」


 子供の声が強くなる。


「一つ、決めた方が」


 アリシアは口を挟まず待った。


「安全な道」


「うん」


「全部、そこ」


「うん」


「同じところ……」


 言いながら、子供自身が止まる。


 一つ。


 中央。


 全員。


 同じ。


「第四の声と似てる?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は少し悔しそうにうなずく。


「うん」


「でも、安全な道を作ることと、そこへ行けって命令することは違うと思う」


「同じ道でも?」


「うん」


「三つ全部、危ないかも」


「うん」


「一つも選ばないかも」


「うん」


「それでも」


 子供は胸へ手を置く。


「道、ある」


「うん」


「出たいとき」


「うん」


「選べる」


「たぶん」


「追わない?」


「うん」


「本当に?」


「今は」


「今は」


「うん」


 子供の肩から、少しだけ力が抜けた。


「私」


「何?」


「見たい」


「十七の光?」


「うん」


 アリシアはすぐに、いいよとは言わなかった。


「西側貯水槽へ行って?」


「うん」


「危険だよ」


「うん」


「第四の声もいる」


「うん」


「水も」


「うん」


「怖い?」


「うん」


「それでも?」


「光」


 子供は顔のない存在を見る。


「この人みたいかもしれない」


「うん」


「私みたいかも」


「うん」


「五百人の誰か」


「まだ決めない」


「うん」


 子供は自分の三つの音がある胸を押さえた。


「でも、行きたい」


 アリシアは答えを止める。


 扉の外から、セレナが口を開いた。


「今すぐではなくてもよいですか」


「どうして」


「あなたの身体が、長い移動へ耐えられるかまだ分かりません」


「歩ける」


「短い距離なら」


「抱かれない」


「抱くとは言っていません」


「じゃあ」


「見る方法を分けましょう」


「また分ける」


「はい」


「どうやって」


「現地へ行く。中継観測を見る。現地から持ち帰った情報を、形だけにして見る」


「形?」


「光の位置を、名前や文字を使わず再現します」


 子供は考える。


「本物じゃない」


「はい」


「でも、危なくない」


「現地よりは」


「違うかも」


「違います」


「どっち」


「子供が何を見たいかによります」


「また選ぶ」


 子供の顔に、少し疲れが出た。


 アリシアはすぐ気づく。


「決めてほしい?」


 子供はしばらく黙り、やがてうなずいた。


「一つ」


「うん」


「今は、アリシアが決めて」


 頼まれた。


「分かった」


 自分なら、現地へ行きたい。


 本物を見たい。


 でも、それは自分の気持ちだ。


 今決めるのは、子供から預けられた一つだけ。


「今日は、中継観測にする」


「現地、行かない?」


「うん」


「どうして」


「子供の身体がまだ分からない。それから」


「何?」


「十七の光も、子供が近づいたらどう反応するか分からない」


「怖いから?」


「うん」


「アリシアが?」


「うん」


 隠さない。


「子供が近づいて、また五百人の名前とつながるのが怖い」


「私も」


「うん」


「じゃあ、今日は遠くから見る」


「うん」


「嫌だったら?」


「あとで変える」


「現地行く?」


「そのとき、また考える」


 子供は少し不満そうだった。


 それでも、うなずいた。


「任せた」


「うん」


「全部じゃない」


「一つだけ」


「うん」


 その会話の途中。


 顔のない存在が足元の木片へ指を触れた。


 ころ。


 子供の方へ木片が転がる。


「今?」


 子供が驚く。


 話を聞いていたのか。


 遊びたかったのか。


 ただ、木片へ触れたかったのか。


 分からない。


「返す?」


 子供が木片を戻す。


 顔のない存在も、もう一度返した。


「この人」


「うん」


「話、難しいのに」


「うん」


「遊んでる」


「うん」


「役に立たない」


「うん」


「でも」


 子供は少し笑った。


「今、これもしたい」


「うん」


 西側貯水槽では、何かが動き始めている。


 五百人の名前。


 十七の光。


 第四の声。


 危険。


 それでも生活観測区画では、木片が二人の間を転がっている。


 一つの大きな出来事が起きたからといって、それ以外の時間を全部止める必要はない。


 昼前。


 中継観測の準備が整った。


 直接の映像は使わない。


 鏡も。


 水も。


 文字も使わない。


 西側貯水槽の北側、西側、上層で観測された位置情報を、それぞれ別の担当者が生活観測区画近くの小室へ持ち込んだ。


 十七の光を一枚へまとめない。


 机も三つ。


 部屋の三方向へ離して置かれている。


「何で一緒じゃない?」


 子供が小室へ入った瞬間に尋ねた。


「一緒にすると、一つの形に見えやすいから」


 アリシアが答える。


「でも、十七」


「うん」


「全部見る?」


「少しずつ」


「順番」


「子供が決める?」


 子供の表情が少しだけ嫌そうに変わる。


 アリシアはすぐに言い直した。


「今日は、私が決める?」


「うん」


「じゃあ、北から」


「どうして」


「外周に近い光が多いから」


「正しい?」


「分からない」


「なら」


「変えたくなったら言って」


「うん」


 北側の机には、長さや太さの違う木棒が置かれていた。


 文字なし。


 数字なし。


 それぞれの位置と距離を、木棒の長さで代用している。


「光?」


「位置と距離を、木で置き換えてる」


「本物と違う」


「うん」


「明るさは?」


「高さで少し分けてる」


「色?」


「今は同じ木だから同じ」


「違うのに?」


「うん」


 子供の眉が寄る。


「じゃあ、同じに見える」


「そうだね」


「だめ」


 はっきり言った。


「違うのに、同じ木」


 室内の全員が止まる。


「記録のために」


 ミレイが言いかけ、すぐ自分で止めた。


「……そうですね」


「第四の声」


 子供は木棒を見る。


「全部、同じ音にする」


「うん」


「人間も」


 アリシアが並んだ木棒を見る。


 確かにそうだった。


 分かりやすくするため。


 比較しやすくするため。


 同じ形へ置き換えた。


 でも、その瞬間に削った違いがある。


「変える?」


 子供が尋ねる。


「どう変える?」


「本物、違うんでしょう」


「うん」


「長さだけじゃない」


「明るさ。揺れ方。位置。動く速さも違う」


「全部」


「違う」


「じゃあ」


 子供は机を見渡す。


「同じにしない」


「完全に再現するのは難しいです」


 ミレイが言う。


「難しくても」


 子供は少し怒ったように返した。


「違うなら、違うって」


 アリシアがミレイを見る。


 ミレイも静かにうなずいた。


「正確に再現できない部分は、再現しない」


「空ける?」


「はい」


「分からないって?」


「はい」


 木棒で十七すべてを置き換える案は、その場で中止された。


 代わりに。


 北側班が確認できたことだけを、短く、名前を付けずに口頭で伝える。


「一つ目――」


 観測者が言いかける。


 子供が手を上げた。


「一つ目って」


「順番のためです」


「光の名前みたい」


「では」


 観測者は少し困った顔をした。


「北側で、最も外周へ近い光」


「長い」


「ですが、位置は分かります」


「うん。それで」


「北側で最も外周へ近い光は、昨夜から今朝まで、第四の声へ一度も反応していません」


「動いた?」


「ゆっくり北へ」


「道?」


「まだ開いていません」


「じゃあ、自分で」


 子供が言いかけ。


 自分から止まった。


「そう見える?」


「はい」


「次」


「北側で壁へ最も近い光は、動いていません」


「第四の声」


「呼びかけています」


「返事」


「ありません」


「次」


「その二つの間にある――」


「二つ?」


 子供が眉を寄せる。


「正確には複数あります」


「まとめないで」


「分かりました」


 一つずつ。


 ただし、一つ目、二つ目、三つ目と番号を固定名のように使わない。


 その都度、位置やその瞬間の状態で説明する。


 長い。


 面倒。


 時間がかかる。


 聞き間違える可能性もある。


 それでも、違いを潰さない。


 北側。


 西側。


 上層。


 十七すべての状況を聞き終えるには、かなりの時間が必要だった。


 途中から、子供の集中が明らかに落ちてきた。


 視線が机から外れる。


 何度も手を握り直す。


「疲れた?」


 アリシアが尋ねる。


「でも、全部」


「今聞かなくてもいいよ」


「変わる」


「うん」


「聞いてない間に」


「うん」


「嫌」


「うん」


「でも、疲れた」


「うん」


 子供は自分で決めようとして、顔を少し苦しそうに歪めた。


「一つ、決める?」


 アリシアが尋ねる。


 子供がうなずく。


「決めて」


「休む」


「どのくらい?」


「木片を十回転がすくらい」


「数」


「あ」


 アリシアが止まる。


 子供が少し笑った。


「鐘一回?」


「それだと長いかも」


「じゃあ?」


 アリシアは窓を見る。


 小室の床へ差し込む自然光が、細い帯になっている。


「窓の光が、机の端まで動くまで」


「それ、変わる?」


「うん」


「止まらない?」


「うん」


「じゃあ、それ」


「分かった」


 正確ではない。


 毎日同じ長さにもならない。


 でも今は、それでいい。


 子供は生活観測区画へ戻った。


 木片。


 顔のない存在。


 白い花。


 空の箱。


 何も決めなくていい時間。


「光」


 子供が顔のない存在へ言う。


「十七」


 口にしてから、自分で止まる。


「十七って、まとめた」


 胸の十の光が揺れた。


「でも、十七ある」


「うん」


 アリシアが答える。


「一つじゃない」


「うん」


「十七って呼んでも、一つにならない?」


「数えるために使うならね」


「第四の声は」


「一つにする」


「うん」


「違う?」


「使い方で」


「面倒」


「うん」


 子供は顔のない存在の前へ木片を転がす。


「光、いっぱい」


 今度は数を使わない。


「違うの、いっぱい」


 人影の頭が少し傾く。


「一つ」


 子供は自分から首を横へ振る。


「違う」


 言い直す。


「外へ行ってるのもある」


 人影の胸で、十の光のうち一つだけが強くなった。


「行きたい?」


 子供が思わず尋ねる。


 返事はない。


「外?」


 指が少しだけ窓へ向く。


「西側貯水槽?」


 反応なし。


「分からない」


 子供が自分で言う。


「でも、外は見たい?」


 指が窓へ向く。


「それは分かるように見える」


 アリシアが答えた。


「光も」


 子供が言う。


「外、見たいかも」


「決めない」


「うん」


 午後。


 北側、西側、上層。


 三本の新しい道が開かれた。


 どれも完全な通路ではない。


 人間が通るには狭い。


 第四の声が文字を流し込みにくく。


 音も反響しにくい。


 わざと少し曲げられた、不揃いな道だった。


「もっとまっすぐ作れます」


 若い結界術師が土の神器継承者へ言った。


「その方が構造も安定します」


「まっすぐにするな」


「なぜですか」


「三本とも同じ形になる」


「施工上は、その方が」


「今回は、同じにすること自体が危険だ」


 北側の道は少し下る。


 西側は途中で一度狭くなる。


 上層は緩く曲がり、石と土の壁が交互に続く。


 どこか一つを正しい出口と思わせないため。


 三つとも違う。


 入口にも印を付けない。


 呼びかけない。


 光を置いて誘導しない。


 ただ、通れる。


 それだけ。


 そして。


 最初に文字環から離れていた光が、動きを変えた。


 少し北へ。


 次に西。


 そこで止まり。


 また北へ。


「迷ってる?」


 観測者が呟いた。


 サーラがすぐに言う。


「そう書かないでください」


「でも」


「方向が変わった。停止した。再び北へ進んだ。それだけです」


「迷ったように」


「見える」


「はい」


「でも、本当に迷ったかは分かりません」


 生活観測区画で使われ始めた言葉が、地下の観測室にも少しずつ広がっている。


 光はゆっくり北側排水路へ近づいた。


 誰も声をかけない。


 来い。


 こっちだ。


 安全だ。


 出口だ。


 何も言わない。


「入るか?」


 警備隊員が息を詰める。


 光は排水路の前で止まった。


 一分。


 二分。


 誰も動かない。


「閉じますか?」


 若い術師が尋ねる。


「なぜ」


「入らないなら」


「待て」


「第四の声が」


「待て」


 学院長の声は低かった。


 光はその場へ留まり続ける。


 後方。


 遠く。


 第四の声が水の中へ響いた。


「戻れ」


 光は動かない。


「統合せよ」


 動かない。


「名を返せ」


 その瞬間。


 光が北側排水路へ入った。


「入った!」


 思わず声を上げた警備隊員へ、隣の者がすぐに振り向く。


「呼びかけるな!」


「分かってる!」


 光は曲がった排水路をゆっくり進む。


 最初の狭い場所。


 止まる。


 少し進む。


 また止まる。


 こちらが張った結界へ近づく。


 弾かれない。


「逆流防止結界、維持」


「第四の声は?」


「追っていません」


「ほかの光は」


「動きがあります」


 文字環に近かった別の光が、西へわずかに動く。


 上層側の一つも、少し上へ。


「三方向」


 誰かが言った。


「同じものを見て?」


「まとめるな」


 学院長が即座に言う。


「はい」


 北へ進んだ光は排水路の中にいる。


 外周結界まで、あと少し。


 そのとき。


 第四の声が今までより強く響いた。


「名を持たぬものは、消える」


 光が止まる。


「戻れ」


 動かない。


「名を与える」


 光が揺れる。


「帰属を与える」


 揺れが強くなる。


「記録へ戻れ」


 北側の監視員が手に汗を握る。


 言いたい。


 行け。


 あと少しだ。


 こちらへ来い。


 安全だ。


 でも言わない。


 第四の声と同じように、進む方向を決める声にならないために。


「止まってる」


「はい」


「戻るかもしれない」


「はい」


「どうする」


「何もしない」


 学院長が答える。


「でも」


「道はある」


「はい」


「選ぶのは、こちらではない」


 光は長く止まり。


 やがて、ゆっくり後ろへ少し戻った。


 観測班の空気が沈む。


「戻る!」


「追うな!」


 さらに少し。


 第四の声のいる方へ。


「閉じるか?」


「閉じない!」


 学院長の声が鋭くなる。


「でも、戻ったら」


「道を残せ」


「はい」


 光はもう一度止まった。


 前にも。


 後ろにも進まない。


 そのまま長い時間、そこにいた。


 生活観測区画へこの報告が届いたのは、子供が休憩を終えたあとだった。


「道に入った」


 アリシアが伝える。


「出た?」


「まだ」


「止まった?」


「うん」


「戻った?」


「少し」


 子供の顔が強張る。


「第四の声」


「呼んだ」


「何て?」


「名前を持たないと消える。名前を与えるって」


 子供の手が胸へ行く。


 まだ一つにつなげていない三つの音。


「怖い」


「うん」


「光も?」


「分からない」


「戻ったなら」


「怖かったように見えるかもしれない」


「でも分からない」


「うん」


「助けに――」


 言いかけて止まる。


「行きたい?」


 アリシアが尋ねる。


「うん」


「でも」


「うん」


「私が行ったら」


「うん」


「光、私へ来るかも」


「うん」


「五百人、また」


「うん」


 子供は苦しそうに顔を伏せた。


「どうする」


「道は開いたまま」


「でも、止まってる」


「うん」


「待つ?」


「うん」


「嫌」


「うん」


「でも行くのも」


「怖い」


「うん」


「両方」


「うん」


 子供は目を閉じ、長く呼吸した。


「決めて」


「一つ?」


「うん」


「何を?」


「私が行くか」


 アリシアはすぐには答えなかった。


 子供が、決めてほしいと頼んだ。


 だから今は、自分が決める。


 怖い。


 それでも。


「今日は行かない」


 子供が顔を上げる。


「どうして」


「今、光は道の中にいる」


「うん」


「第四の声へ戻ってない」


「うん」


「消えてもない」


「うん」


「だから」


 アリシアは言葉を選ぶ。


「今の場所にいる時間を、奪いたくない」


「止まってるだけ」


「うん」


「怖くて動けないかも」


「うん」


「それでも?」


「怖くて止まってるなら」


 アリシアは昔の自分を少しだけ思い出した。


 人の多い場所。


 話しかけられる。


 何を返せばいいか分からない。


 早く動けと言われれば言われるほど、身体が動かなくなる。


「動けない時間も、その光のものかもしれない」


 子供がアリシアを見る。


「人見知り?」


 少しだけ胸がくすぐったい。


「似てるかも」


「アリシアも止まる」


「うん」


「助けられたら」


「余計怖いこともある」


「じゃあ」


 子供は少しだけ笑った。


「今日、行かない」


「うん」


「決めてもらった」


「嫌?」


「少し」


「変える?」


 子供は考える。


「今は、変えない」


「分かった」


 その会話のあいだ。


 顔のない存在が白い花へ手を伸ばしていた。


 子供が気づく。


「花?」


 人影の指は、萎れた花弁へ触れる少し手前で止まっている。


「触りたい?」


 反応はない。


「見たい?」


 十の光の一つが揺れる。


「変わった」


 子供が言う。


「うん」


「昨日より」


「うん」


「この人、見てる」


「そう見える」


 子供は人影の隣へ座った。


「乾かすって、私が決めた」


 光が揺れる。


「水、入れない」


 また揺れる。


「変わる」


 人影の指が少しだけ花へ近づく。


「触る?」


 そのまま止まった。


「壊したくない?」


 反応は分からない。


「私は、触りたい。でも壊したくないって思った」


 人影の指が、花から少し離れた。


「同じ?」


 返事はない。


「分からない」


 子供が自分から言う。


「でも」


 少し笑う。


「触らないの、同じ」


 その瞬間。


 顔のない存在の胸へ、十一個目の淡い光がゆっくり浮かんだ。


「増えた」


 子供が息を呑む。


「十一」


 アリシアも見る。


 けれど何を意味するかは分からない。


 花へ触れなかったことなのか。


 壊したくなかったのか。


 ただ興味を失ったのか。


 子供の言葉を聞いたからか。


 それとも、まったく別の何かなのか。


「書く?」


 子供がミレイを見る。


 ミレイは記録帳を持っていない。


「今は」


「書かない?」


「はい」


「十一、忘れるかも」


「はい」


「でも」


「何?」


「今は、ある」


「はい」


 子供は十一の光を見た。


「光も」


「うん」


「西側の」


「うん」


「今は道で止まってる」


「うん」


「動かないけど、ある」


「うん」


「なら」


 子供は少し胸へ手を置く。


「動かないのも、いなくなってない」


「うん」


 西側貯水槽。


 北側排水路。


 一つの光は長い時間、その場に止まり続けていた。


 第四の声は繰り返す。


「戻れ」


 返事はない。


「名を与える」


 返事はない。


「消える」


 返事はない。


 人間側も何も言わない。


 来い。


 安全だ。


 逃げろ。


 こちらへ。


 一言も。


 ただ三つの道を開いたままにする。


 夕方。


 北側排水路の光が、ほんの少しだけ前へ進んだ。


 誰も歓声を上げなかった。


「北側排水路内の光。外周方向へ、ごく小さく移動」


「時刻」


「記録」


「第四の声」


「反応強まり」


「こちらからの呼びかけ」


「なし」


 それだけ。


 光はまた止まる。


 西側では別の光が排水路へ半分ほど近づいた。


 上層にいた一つは、逆に文字環へ少し戻った。


「戻った」


 監視員が悔しそうに呟く。


 サーラは紙へ、


 上層付近の光、中央方向へ移動。


 とだけ書いた。


「助けられなかった」


「まだです」


 ケインが言う。


「何が?」


「戻っただけです」


「でも」


「消えたとは確認していません」


「うん」


「戻った理由も分かりません」


「うん」


「失敗って書かない?」


「書きません」


 光たちは同じ方向へ進まない。


 一つは外へ。


 一つは止まる。


 一つは戻る。


 一つは横へ。


 まったく動かない光もある。


 同じではない。


 人間側は、それを初めて失敗と呼ばなかった。


 夕食前。


 生活観測区画へ、その日の最後の報告が届く。


 子供は全部を聞きたいとは言わなかった。


「三つだけ」


「何を?」


 アリシアが尋ねる。


「北の光」


「うん」


「外へ出た?」


「まだ。でも少し前へ進んだ」


「うん」


「西」


「一つ、道へ近づいてる」


「上」


「一つ、中央へ戻った」


 子供の顔が曇る。


「第四の声へ?」


「近づいた」


「捕まった?」


「確認できてない」


「行く?」


 今度は自分から尋ねた。


「今は行かない」


 アリシアが答える。


「決めた?」


「うん」


「私が決めてって言ったから?」


「それも」


「あと」


「現地班も、まだ子供が行くには危険が高いって」


「うん」


 アリシアは少し考えてから続ける。


「戻った光も、戻りたいのかもしれない」


 子供が驚いて顔を上げた。


「第四の声に?」


「分からない」


「でも危ない」


「うん」


「戻りたいって思う?」


「あるかもしれない」


「どうして」


「知ってる場所だから」


 子供は黙った。


 生活観測区画へ移るとき。


 独立観測室を離れるのが怖かった。


 危険な場所ではない。


 けれど、新しい場所が怖かった。


 それと同じではない。


 第四の声がいる。


 危険な文字環がある。


 それでも、そこしか知らない光があるのなら。


「戻るの、間違い?」


「分からない」


「危ないのに」


「うん」


「止めない?」


「今、外から観測しているだけなら」


「うん」


「今は」


「うん」


 子供は白い花を見る。


「花も」


「何?」


「変わるの、嫌」


「うん」


「でも昨日の花に戻せない」


「うん」


「戻りたいって思っても?」


「うん」


「戻れない」


「そうだね」


「光は」


「うん」


「戻れる」


「今は」


「じゃあ」


 子供は少し考える。


「戻るの、選んだかも」


「うん」


「第四の声、怖いけど」


「うん」


「私も」


 その声が急に小さくなる。


 アリシアが子供を見る。


「前」


「うん」


「少し、戻りたいって思う」


 アリシアは息を止めた。


「今?」


「少し」


「どうして」


「水の中」


「うん」


「痛くない」


 足。


 食事。


 明るさ。


 歩くこと。


 疲れること。


 選ぶこと。


 迷うこと。


「歩かなくていい」


「うん」


「食べなくていい」


「うん」


「花、変わらない」


「水の中では?」


「分からない」


「でも、そう感じる?」


「うん」


「第四の声」


 子供の声がさらに小さくなる。


「決めてくれた」


 アリシアの胸が強く痛んだ。


「戻りたい?」


「少し」


「今、戻る?」


 子供は長く考えた。


「嫌」


「うん」


「でも、少し戻りたい」


「うん」


「両方」


「うん」


 アリシアは否定しなかった。


「戻りたいって思ったら、だめ?」


「だめじゃない」


「第四の声、喜ぶ」


「それでも」


「私、弱い?」


「違う」


 そこだけは、迷わず言えた。


「戻りたいって思ったことは、第四の声を選んだことと同じじゃない」


「でも」


「楽だった?」


「少し」


「なら、楽だったところまで嘘にしなくていい」


 子供の目に涙が浮かぶ。


「水の中、怖かった」


「うん」


「でも」


「うん」


「楽だったところもある」


「うん」


「嫌いだけじゃない?」


「うん」


「戻りたくないけど、戻りたい」


「うん」


「面倒」


「うん」


 子供は泣きながら少し笑った。


「アリシア」


「何?」


「うん、しか言わない」


「今は」


「何か言って」


 アリシアは子供の隣へ座った。


「じゃあ」


「うん」


「戻りたくなったら、言って」


「止める?」


「本当に今すぐ西側貯水槽へ戻るって言ったら、止める」


「学院長と同じ」


「うん」


「嫌」


「うん」


「でも、戻りたいって気持ちは?」


「止めない」


「消さない?」


「うん」


「記録」


「したい?」


 子供はしばらく黙り、首を横へ振った。


「今は、しない」


「分かった」


「でも」


「何?」


「明日、まだ思ってたら」


「うん」


「もう一回、聞いて」


「分かった」


 今、戻りたいと思った。


 それを名前にしない。


 決定にも。


 役割にも。


 水へ戻る理由にも。


 ただ、今の気持ちとして置いておく。


 その夜。


 生活観測区画の棚にある白い花は、かなり萎れていた。


 それでも子供は捨てなかった。


 顔のない存在も、ときどき花へ頭を向ける。


 木片は机の中央。


 無地の布は床。


 空の木箱は、まだ何も入っていない。


「箱」


 子供が突然言った。


「何?」


 アリシアが尋ねる。


「入れたい」


「何を?」


 子供は少し考える。


「戻りたいって思ったこと」


 アリシアは空の木箱を見た。


「文字にする?」


「嫌」


「音?」


「嫌」


「じゃあ?」


「何も入れない」


「え?」


 子供は木箱のところへ歩き、自分で蓋を開けた。


 中は空。


 本当に、何もない。


「ここに」


「うん」


「入れたってことにする」


「何もないまま?」


「うん」


「戻りたいって思ったことを?」


「うん」


「忘れないため?」


「少し」


「閉じ込めるため?」


 子供は少し考えた。


「分からない」


「うん」


「でも」


 開いた箱の中を見つめる。


「今、胸にあると重い」


「うん」


「少し、ここへ置きたい」


 アリシアはすぐに「いいよ」とは言わなかった。


「置いたら、戻りたい気持ちがなくなる?」


「分からない」


「箱を閉めたら、考えちゃだめになる?」


「嫌」


「じゃあ」


「なくすんじゃない」


 子供が、自分から言う。


「少し、持たない」


「今は?」


「うん」


  戻りたい気持ちを、消すわけではない。


 忘れるわけでもない。


 間違いだったことにするわけでもない。


 ただ。


 ずっと抱え続けるには、少し重かった。


 だから今だけ。


 箱へ置く。


 子供はそう考えているようだった。


 アリシアは木箱の前へしゃがみ込む。


 中には何もない。


 本当に空っぽだ。


 けれど、子供がそこへ置こうとしているものは、確かに存在している。


「置いてもいいと思う」


 アリシアが言う。


「うん」


「でも、なくなったことにはしないでね」


「うん」


「また取り出したくなったら?」


「開ける」


「うん」


「なくなってなかったら?」


「それでいい」


 子供は箱の中を見つめたまま、小さく息を吐いた。


 それから両手を胸へ当てる。


 三つの音。


 戻りたいと思った気持ち。


 怖かった記憶。


 少し楽だった記憶。


 全部を言葉へしないまま。


 そっと胸から離すように手を前へ動かした。


 空気の中へ。


 何もない箱の中へ。


 ゆっくり。


「置いた」


 誰にも見えない。


 音もしない。


 光も出ない。


 それでも。


 子供は確かにそう言った。


「うん」


 アリシアは否定しない。


「置いた」


「軽い?」


 子供は少し考える。


「少し」


「なくなった?」


「ううん」


「うん」


「でも」


 箱を見る。


「今、ここ」


 胸ではなく。


 目の前。


「うん」


「見える」


「箱があるからね」


「うん」


 子供は蓋へ手を伸ばした。


 閉じる。


 けれど完全には押さえない。


 少しだけ隙間を残す。


「閉める?」


 アリシアが尋ねる。


「うん」


「どうして少し開けるの?」


 子供はしばらく考えた。


「分からない」


「うん」


「でも」


 指先で蓋を撫でる。


「出られないの、嫌」


 アリシアは息を止めた。


 西側貯水槽。


 第四の声。


 中央。


 統合。


 そして今、北側排水路で止まっている光。


 全部がどこかで繋がる。


「そうだね」


「うん」


「閉じるけど」


「うん」


「出られる」


「うん」


「開けたくなったら」


「開けられる」


 子供は満足したようにうなずいた。


 箱の蓋は、ほんの少しだけ浮いている。


 閉じた。


 でも閉じ込めてはいない。


 その形が、今の子供にはちょうどよかった。


 窓の外では夕暮れが深くなり始めていた。


 空の色は昼の青を失い、群青へ変わっている。


 顔のない存在は窓際に座り、変わる空を見ていた。


 胸には十一の光。


 子供はその隣へ座る。


「私」


 人影へ言う。


「戻りたいって思った」


 十一の光が静かに揺れた。


「でも」


 箱を見る。


「置いた」


 光がもう一度揺れる。


「分かる?」


 返事はない。


「分からない」


 子供は自分で言う。


「でも、今はそれでいい」


 返事がなくても。


 同じかどうか分からなくても。


 全部を確かめなくても。


 今は、それでいい。


 木片が机の中央にある。


 白い花が棚にある。


 箱がある。


 顔のない存在がいる。


 アリシアもいる。


 戻りたい気持ちも、なくなっていない。


 ここにいたい気持ちもある。


 一つではない。


 だからといって、間違いでもない。


 その夜。


 西側貯水槽では、一つの光が北側排水路の途中で止まり続けていた。


 第四の声は何度も呼びかける。


「戻れ」


 返事はない。


「名を与える」


 返事はない。


「統合せよ」


 返事はない。


 光は進まない。


 戻らない。


 ただ、そこにいる。


 人間側も何もしなかった。


 呼ばない。


 押さない。


 引っ張らない。


 道だけを残す。


 北。


 西。


 上層。


 三つの出口。


 どれも開いたまま。


 選ばせるためではない。


 選べるようにするためだった。


 夜が深まる。


 子供は眠る前、もう一度だけ箱へ視線を向けた。


「明日」


 アリシアが尋ねる。


「うん」


「開ける?」


 子供は少し考えた。


「分からない」


「うん」


「でも」


 白い花を見る。


 顔のない存在を見る。


 窓を見る。


「まだ、ここに置いておく」


「うん」


「戻りたいの」


「うん」


「なくなってない」


「うん」


「でも、今は持たない」


「うん」


 アリシアは小さく笑った。


「それでいいと思う」


 子供は目を閉じる。


 戻りたい気持ちを消さないまま。


 ここにいたい気持ちも消さないまま。


 箱は空だった。


 けれど、確かに何かが入っていた。


 名前のない気持ち。


 まだ決めていない気持ち。


 今すぐ答えを出さなくていい気持ち。


 それらを置く場所として。


 空箱は、その夜初めて使われた。

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