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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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115/182

第115話 守ると決めても、その光が何者なのかまで先に決めなくていい



 西側貯水槽の外へ出た光は、夜が明けても消えていなかった。


 旧排水路の乾いた石床から、人の胸ほどの高さを保ったまま、両手で包めるほどの白い光が静かに浮かんでいる。レオンハルトが使う光の神器の輝きとは違い、周囲を照らす力はほとんどなく、壁や床へ落ちる明かりもごく薄い。


 まるで外へ光を広げることより、自分自身の輪郭を保つことだけへ力を使っているようだった。


 夜通し交代で観測を続けた警備隊員たちは、誰も光へ近づいていない。


 結界術師も、記録担当者も、学院長から追加の指示が出るまでは旧排水路へ踏み込まないと決めていた。呼びかけず、手を伸ばさず、神器も向けず、ただ外側から状態を確認する。


「まだ、あります」


 朝の交代で現れたサーラは、排水路の入口へ立ち、しばらく光を見てから小さく息を吐いた。


「位置は?」


 学院長が尋ねる。


「夜明け前から、大きくは変わっていません。ただ……」


「ただ?」


「壁から少しだけ離れています」


 サーラは片手を広げ、その幅を示した。


「このくらいです」


「移動した時刻は」


「分かりません」


 申し訳なさそうに答えたが、学院長は責めなかった。


 夜間観測では、一人の者が光だけを長時間見続けないよう決められていた。


 第四の声は、音や名前だけではなく、人間側が与えた役割や注目までも利用する可能性がある。だから固定された間隔で観測するのではなく、外側の鐘、交代者の体調、地下の魔力変動などを見ながら、見る者そのものを不規則に変えていた。


 その結果、光が動いた瞬間は誰にも見られていない。


「移動を見逃しました」


 サーラが悔しそうに言う。


「それでいい」


「ですが」


「見逃さないために、一人が見続ける方が危険だ」


 学院長は光から目を離さないまま続けた。


「確認できた事実だけを残せ。西側貯水槽外へ出た光は、夜間観測中に壁から手の幅ほど中央へ移動した。移動時刻は不明。それで十分だ」


「はい」


 サーラは記録板へ視線を落とす。


「第四の声との接続は?」


 結界術師が答えた。


「昨夜より弱まっています」


「自然に弱まった?」


「分かりません。貯水槽から距離を取ったことが原因かもしれませんし、人間側の結界が何らかの影響を与えた可能性もあります」


「なら、自然に弱まったとは書くな」


「はい」


 最近の記録は、以前より書かれる言葉が少なくなっている。


 だからといって、情報が減ったわけではない。


 分からないところを、それらしい理由で埋めなくなっただけだった。


「接触試験はどうしますか」


 警備責任者が尋ねる。


 学院長はすぐには答えず、排水路の奥で浮かぶ光を見つめた。


「まだ行わない」


「このままですか」


「今はな」


「ですが、夜からほぼ同じ場所にいます。消える可能性もあります」


「その可能性はある」


「なら、何か保護を」


 学院長が彼を見る。


「何から守る?」


「第四の声です」


「接続は弱まっている」


「第三の器」


「反応はない」


「ほかの光が近づく可能性も」


「今のところ確認されていない」


 警備責任者は言葉を止めた。


 学院長は静かに続ける。


「今すぐ触れる理由がないなら、触れない。保護とは、必ずしも何かを与えることではない」


 光の神器で力を足す。


 土で囲う。


 結界で包む。


 そうした行動は、一見すれば守るためのものに見える。


 しかし、それで光の性質が変われば、人間側がこの存在を別の何かへ作り替えることにもなりかねない。


「周囲の温度を安定させる。魔力の乱れを抑える。危険な区域へ人が近づかないようにする。第四の声からの干渉を減らす」


 学院長は一つずつ挙げる。


「触れずに守れる範囲までは、触れずに守る」


「いつまでですか」


「光自身の状態が変わるまでだ」


「動いたら?」


「動き方を見る」


「輪郭が崩れたら?」


「そのとき介入を検討する」


「基準は」


「今、決める」


 決めないことと、準備をしないことは違う。


 学院長は朝の会議で、三つの介入条件を設定した。


 第四の声との接続が急激に強まること。


 光の輪郭が短時間で崩れ始めること。


 そして、周囲へ危険な魔力反応が生じること。


 それ以外は原則として観測に留める。


「呼びかけもなしですか」


「なしだ」


「仮の名前は?」


 サーラが尋ねた。


「記録上、区別が必要になるまでは付けない」


「では、どう書きますか」


「西側貯水槽外へ出た光」


「長いですね」


「ああ」


 学院長は、ほんの少しだけ苦笑した。


「だが今は、それでいい」


 その報告が生活観測区画へ届いたのは、朝食が終わったあとだった。


 子供は棚の前へ座り、昨日から乾かしている白い花を見ていた。


 花はさらに姿を変えている。花弁の一部へ薄い茶色が混じり、茎も以前より大きく傾いていた。


「白じゃない」


 子供が言う。


「少し茶色くなったね」


 アリシアは隣へしゃがんだ。


「名前、変わる?」


「白い花って呼んでた名前?」


「うん」


「変えたい?」


 子供は花をしばらく見る。


「白い花」


「まだそれでいい?」


「うん」


「茶色が混じっていても?」


「うん」


 アリシアはうなずいた。


「じゃあ、今は白い花でいい」


「間違い?」


「白いところも残ってるし、それに子供がそう呼びたいなら」


「全部茶色になったら?」


「そのときまた決めればいいよ。変えなくてもいい」


 子供は眉を寄せた。


「白くないのに?」


「昔は白かった」


「昔」


「うん」


 子供は、少し考えたあとで言う。


「昔、白かった花」


「長いね」


「でも、本当」


「うん」


 その言葉を聞きながら、アリシアの胸の中で何かが静かに引っかかった。


「名前って」


 子供は続ける。


「今だけじゃない?」


「どういうこと?」


「前も入る?」


 アリシアは一瞬、言葉を失った。


 今目の前にある姿だけではなく、そこまでにあったものも名前の中へ入るのか。


「入ることもあると思う」


「六つ目」


 子供が言ってから、すぐにアリシアの顔を見る。


「嫌だった」


「うん」


「でも、前?」


「うん」


「今はアリシア」


「うん」


「六つ目だったアリシア?」


 アリシアは少し考えてから首を横へ振った。


「六つ目だったというより、六つ目って呼ばれていたことがあるアリシア、かな」


「違う?」


「少し」


「今も呼ばれる?」


「たまに」


「嫌?」


「うん」


「でも、なくならない?」


「なくならない」


 呼ばれた記憶。


 傷ついたこと。


 そのあと黒月と出会ったこと。


 ノアと出会ったこと。


 六人へ繋がったこと。


 呼ばれたくないからといって、それらまで存在しなかったことにはならない。


「白い花と、少し似てる?」


「全部同じじゃないけど、少し似てるかも」


「前が、今にもある」


「うん」


 子供は自分の胸へ手を置いた。


「三つの音も」


「うん」


「前から?」


「分からない」


「でも、私の中にある」


「うん」


「名前にしなくても」


「うん」


「前からあったかもしれない」


「うん」


 子供は白い花を見る。


「第四の声は、一つにしたら全部分かるって言った」


「うん」


「でも、白い花って呼んでも」


 薄く茶色へ変わった花弁。


「茶色、ある」


「うん」


「一つの名前でも、全部同じにならない」


「そうだね」


 少し離れた窓の下には、顔のない存在が座っている。


 胸には十一の光。


 手を離したこと。


 聞いてしまった音を返したこと。


 木片を転がしたこと。


 朝を見たこと。


 花へ触れずに手を戻したこと。


 十一という数だけでは、その全部を表せない。


「この人」


 子供が言った。


「光、十一」


「うん」


「でも、十一だけじゃない」


「うん」


「手、離した」


「うん」


「音、返した」


「うん」


「木片、遊んだ」


「うん」


「朝」


「うん」


「花」


「うん」


「十一って言ったら、全部入らない」


「入らないね」


「名前も?」


 アリシアは少しだけ考えた。


「たぶん、入らない」


「全部?」


「うん」


「じゃあ」


 子供の表情が少し明るくなる。


「名前なくても、いっぱいある」


「うん」


 そのとき、生活観測区画の扉が軽く叩かれた。


「入ってもよいですか」


 セレナの声だった。


 子供が振り返る。


「一歩?」


「今日は三歩まで許可が出ました」


 セレナは白布の外れた自分の手首を見る。


 青い光はなく、痛みも今は出ていない。


「増えた」


「はい」


「怖い?」


「少し」


「私も」


「聞きました」


「入る?」


「子供がよければ」


 子供はしばらくセレナを見てからうなずいた。


「三歩」


「分かりました」


 セレナは一歩目を踏み出す。


 二歩。


 三歩。


 そこでぴたりと止まった。


「近い」


「昨日より」


「手首、本当に痛くない?」


「はい。治療教師にも確認してもらいました」


「カイルに怒られない?」


「そこは関係ありません」


 廊下の向こうから声が飛んだ。


「聞こえてるぞ」


 子供が笑う。


「カイル、いる」


「外周警備中です」


「また三分遅れた?」


「今日は定刻だ。褒めろ」


「普通です」


 セレナが即答した。


「厳しくないか?」


「普通のことをしただけです」


 顔のない存在の十一の光が小さく揺れた。


 子供がすぐ気づく。


「今、笑ってない」


「何か別の違いを感じたのかな」


 アリシアが言う。


「声?」


「カイルとセレナの声の変化かもしれない」


「怒ってる?」


「私は怒っていません」


 セレナが答える。


「呆れてる?」


 少し間が空いた。


「少し」


「怒るのと違う?」


「違います」


「カイル、嫌い?」


「いいえ」


「でも呆れる」


「はい」


「好き?」


 セレナの表情が完全に止まった。


 廊下も静かになる。


 カイルさえ声を出さない。


 アリシアは子供を見る。


「今、その答えを聞きたい?」


「うん」


「セレナは答えたい?」


 セレナは少しだけ視線を下げた。


「今は、その質問には答えたくありません」


「嫌?」


「嫌というより、今ここで答えを決めたくないです」


「決めたら変わる?」


「変わるかもしれません」


 子供はすぐにうなずいた。


「分かった」


 それ以上、聞かなかった。


 少しして、今度は廊下へ向く。


「カイルは?」


「俺?」


「答えたい?」


 短い沈黙。


「今はやめとく」


「セレナと同じ?」


「同じかは分からない」


「分かった」


 関係へ名前を付けなくても。


 答えを決めなくても。


 そこにあるものまで消えるわけではない。


 セレナは子供の状態を確かめてから、静かに話題を移した。


「西側へ出た光ですが、今朝も残っています」


 子供の表情が少し引き締まる。


「外?」


「はい」


「消えてない?」


「確認した時点では」


「動いた?」


「少しだけ、壁から離れました」


「どうして?」


「分かりません」


「人間、近づいた?」


「いいえ」


「ずっと?」


「はい」


 子供は考える。


「寂しくない?」


「光が?」


「うん」


「分かりません」


「私だったら」


 子供は少し迷いながら言う。


「寂しい」


「一人だから?」


 アリシアが尋ねる。


「うん」


「でも、人が急に来たら?」


「怖い」


「うん」


「両方」


「うん」


「なら、光も両方かも」


 セレナが小さくうなずいた。


「可能性はあります」


「人が近づくの怖い。でも、一人は寂しい」


「そうかもしれません」


「どうする?」


 子供が尋ねる。


 アリシアは少し考える。


「人が近くにいることだけ分かる方法があればいいのかな」


「呼ばない」


「うん」


「人、見える?」


「今の場所だと、たぶん見えない」


「足音?」


「第四の声が使うかもしれない」


「光で合図?」


「それも誘導になるかもしれない」


「匂い?」


 アリシアが目を瞬いた。


「匂い?」


「人、匂いある」


「まあ、あるけど」


「アリシア、甘い?」


「それは好きな食べ物の話」


「でも、人の匂い」


 セレナが少し考え込む。


「物を置く方法はあるかもしれません」


「何?」


「誰かが近くにいた痕跡だけ分かるもの」


「名前なし」


「はい」


「文字なし」


「はい」


「音なし」


「はい」


「水なし」


「はい」


「魔力も」


「できる限り」


「触らなくてもいい」


「はい」


「花?」


 子供が白い花を見る。


「これは嫌」


「持っていきたくない?」


「今、見たい」


「じゃあ別の植物?」


「匂いある?」


「種類によります」


 香りのある植物。


 第四の声が今のところ使っていない感覚。


 しかし、使わない保証はない。


「いきなり光の近くへ置くのは危険です」


 セレナが言う。


「なら?」


「まず、もっと離れた場所へ置いて反応を見る」


「人がいる場所と、光の間?」


「そうですね」


 誰かが近くにいる。


 でも、来いとは言わない。


 触れてほしいとも言わない。


 ただ、何かが存在していた痕跡だけを残す。


「試す?」


 子供が尋ねた。


 学院長へ連絡が送られた。


 許可はすぐには出なかった。


 第四の声が香りを新しい媒体として利用する可能性。


 植物そのものが持つ微弱な魔力。


 光が香りへどのような反応を示すか。


 調べることが多い。


 子供は少し不満そうに眉を寄せた。


「待つ?」


「うん」


「また」


「今日は疲れてる?」


 アリシアが尋ねる。


「少し」


「一つ、決めてほしい?」


 子供はうなずいた。


「じゃあ、匂いの方法は学院長たちへ任せよう」


「私、決めない?」


「今日は」


「結果は?」


「教える」


「分かった」


 すべての光を救う方法まで、自分で決めなくていい。


 そのことを、子供は少しずつ受け入れ始めていた。


 昼。


 西側貯水槽の北側排水路で、新しい動きが確認された。


 最初に外へ出た光の後方から、文字環に残っていた別の光が同じ北側へ進み始めたのだ。


「二つ目――」


 観測員が言いかけたところで、サーラが視線を向ける。


「北側排水路へ近づく別の光、としてください」


「はい」


「先に出た光は?」


「外側。位置変化は少ないです」


「互いへの反応は」


「今のところありません」


「同じ道ですね」


 観測員が少し期待を含んだ声で言う。


「追っているのでしょうか」


「そう書かないでください」


「はい」


「同じ方向へ動いている。それだけです」


 新たな光は北側排水路へ入った。


 先に通った光と比べ、進む速度はやや速い。


 止まる時間も短い。


「同じじゃない」


 ケインが呟いた。


「速度が?」


「はい」


「別記録にします」


 北へ進む二つ。


 同じ道。


 それでも一つの群れとしては扱わない。


 そして、新たな光が外周へ近づくと、最初に出た光が初めてはっきりと動いた。


「移動!」


「どちらへ?」


「さらに外周側です」


「近づかれたくない?」


「そう見える可能性はあります」


 サーラが答える。


「なら、人間側も距離を詰めないままで」


「はい」


 後ろから来た光も外周結界を通過した。


 二つの光。


 同じ場所へ出る。


 けれど、出た直後に一つは右へ、一つは左へ動いた。


「分かれました」


「同じ方向ではない」


「はい」


 西側貯水槽の外へ、二つの光が出た。


 声はない。


 形もない。


 名前もない。


 人間側は近づかない。


「保護範囲を広げますか」


 結界術師が尋ねる。


「二つを同じ結界で囲うな」


 学院長が答える。


「なぜです」


「囲った時点で、一つの対象として扱いやすくなる」


「ですが外敵から守るには」


「光を個別に囲うのではなく、周囲の区画そのものを広く保護する」


 通路。


 温度。


 魔力の乱れ。


 周囲を安全にする。


 光そのものを檻へ入れない。


 その判断は、すぐに試されることになった。


 先に出た光が、外周保護区域の端へ向かい始めたのだ。


「このままだと保護区域を出ます」


「その先は?」


 旧排水路のさらに奥。


 未整備の地下区画。


 崩落箇所。


 魔力溜まり。


 低級魔物が出る可能性もある。


「止めますか」


 警備責任者が尋ねる。


 学院長はしばらく黙った。


 自由。


 安全。


 第四の声と人間側の違いは、止めるか止めないかだけではない。


「危険区域へ入る前に、壁を作る」


「止めるのですね」


「はい」


「理由は伝えられません」


「それでも止める」


「光が嫌がったら?」


「反応を残す」


「出口は?」


「別方向を残す」


 一つの道は塞ぐ。


 だが全部は塞がない。


 土の神器継承者が力を流し、危険区域へ続く通路の床から低い壁を持ち上げる。


 完全な壁だけでは足りない。


 光が上から越えられる可能性もあるため、魔力結界も重ねた。


 光は壁の前へ来ると止まった。


「反応」


「揺れが強くなっています」


「第四の声との接続は?」


「変化なし」


「戻る?」


「動きません」


 長い沈黙。


 やがて、光は壁へ沿うように右へ動き始めた。


「回り込もうとしている?」


「危険区域側へ行こうとしているようにも見えます」


「行動だけ記録しろ」


 学院長は言う。


 光は右へ。


 左へ。


 一度戻り。


 また右へ。


「出たいようには見えます」


 誰かが呟いた。


 学院長は今回は否定しなかった。


「そう見える」


「なら?」


「今は止める」


「嫌がっていても?」


「安全確認が終わるまでだ」


「期限は?」


「今日中に先の区画を調べる」


 止める。


 でも永遠にはしない。


 期限を決める。


 見直す。


 こちらの判断が間違っている可能性を残す。


 生活観測区画へその報告が届くと、子供は難しい顔をした。


「壁」


「うん」


「光、嫌?」


「揺れが強くなった」


「怒った?」


「分からない」


「でも、出たい?」


「そう見える」


「学院、止めた」


「うん」


「第四の声みたい」


「うん」


 アリシアは否定しなかった。


「でも、今日だけ?」


「先を調べるまで」


「危なかったら?」


「別の道を作る」


「出たいのに」


「うん」


「止める」


「うん」


 子供は明らかに不満そうだった。


「嫌」


「うん」


「私なら怒る」


「うん」


「学院長に言う」


「何て?」


「出たいのに止めたら嫌って」


「伝える?」


「うん」


 子供の言葉は、そのまま学院長へ届けられた。


 返答は短かった。


「聞いた」


 子供が眉を寄せる。


「それだけ?」


「今は」


「謝らない?」


「光が本当に嫌だったかは分からないから」


 少しして、追加の返事が届く。


「君が嫌だと思ったことは聞いた。壁を下げるかどうかとは別に、その意見は残す」


 子供はしばらく不満そうな顔をしていた。


「面倒」


「うん」


「でも、第四の声より話が長い」


 アリシアが少し笑った。


『ルクスといい勝負ね』


 ノアが言う。


「ノアが、ルクスといい勝負って」


「話、長い?」


「ルクスも長い」


「光の神獣なのに?」


「関係ない」


 子供が笑った。


 顔のない存在の十一の光も、静かに揺れる。


 そのあと、子供の視線が空の木箱へ向いた。


「光」


「うん」


「出たいのに止められた」


「うん」


「私」


「うん」


「戻りたいって思った」


「うん」


「でも、戻るって言ったら止める」


「うん」


「同じ?」


 アリシアは少し考えた。


「少し同じ」


「じゃあ」


「でも」


「何?」


「子供は、戻りたい気持ちを消してない」


「うん」


「箱へ置いた」


「うん」


「学院も、光が壁の前でどう動いたかを消さないようにしてる」


「記録?」


「うん」


「勝手に?」


「光の気持ちとは決めずに、動いたことだけ」


「壁の前で右と左に動いた」


「うん」


「出たいように見えた」


「うん」


「それを残す」


「うん」


「あとで壁を下げたら」


「うん」


「光、出るかも」


「うん」


「出なかったら?」


「出なかったって見る」


「じゃあ、間違い?」


「出たいって決めつけて書かなければ、見えたことと考えたことを分けられる」


 子供はしばらく考えたあと、自分の胸へ手を当てた。


「私も」


「何?」


「戻りたいって思った」


「うん」


「でも、戻るって決めてない」


「うん」


「分ける」


「うん」


 子供は空箱へ近づき、蓋へ触れた。


「開ける?」


「今は開けない」


「うん」


「でも、ある」


「うん」


 戻りたい。


 ここにいたい。


 怖い。


 楽だった。


 外へ出たい。


 戻りたい。


 一つに決めなくても、同時に存在していい。


 午後遅く。


 危険区域の調査が行われた。


 人間が直接入るのではなく、土の神器による地中感知と、風で動かす小さな虫型の魔導具を使う。


 その結果、旧排水路の先には大きな崩落があり、深い亀裂の向こうへ古い水路が続いていることが分かった。


「危険です」


 土の神器継承者が言う。


「光なら通過できる可能性はありますが、亀裂へ落ちた場合、どこへ流れるか分かりません」


「別の道は」


「作れます。崩落を避けて右へ迂回し、学院北地下の乾燥区画へ繋げられる」


「作れ」


 学院長は即答した。


「壁は?」


「別道が完成するまで残す」


「光が嫌がっていても?」


「それでもだ」


「期限は」


「夕方まで」


「間に合わなかったら?」


「一度、壁を低くするか再判断する」


 土の神器継承者たちが作業を始める。


 ただし、光を誘う印は置かない。


 まっすぐな道にも作らない。


 ただ、安全に抜けられる経路を一つ増やす。


「今回は一つしか作れません」


 若い術師が言う。


「第四の声と同じになりませんか」


 学院長が彼を見る。


「一つしか作れないことと、一つしか選ばせないことは違う」


「行かなくてもいい?」


「もちろんだ」


「戻っても?」


「道は閉じない」


「その場にいても?」


「待つ」


 選択肢は、道の数だけではない。


 進む。


 戻る。


 待つ。


 使わない。


 一本道であっても、意思まで一本道になるわけではない。


 夕方。


 迂回路が完成した。


 土壁がゆっくり下がる。


 光は、壁のあった場所の前にまだ残っていた。


「残っています」


「壁を下げろ」


 土が沈む。


 先には、以前とは違う道が開いている。


 光はすぐに進まなかった。


 一分。


 二分。


 誰も呼ばない。


 やがて、ほんの少しだけ前へ出る。


 壁があった場所へ。


 そこで止まる。


 さらに、新しい迂回路の入口へ近づいた。


「入る?」


 誰かが小さく呟く。


「静かに」


 光は一度後ろへ戻った。


 人間側の空気がわずかに沈む。


 けれどサーラは、紙へ淡々と書いた。


「新設迂回路前まで移動。その後、旧位置側へ戻る」


「失敗ですかね」


 若い術師が苦笑する。


 土の神器継承者は首を横へ振った。


「道は作った」


「使わなかった」


「今はな」


「……今は」


 夕暮れ。


 子供へ報告が届く。


「新しい道、作った?」


「うん」


「光は?」


「入口まで行った」


「入った?」


「戻った」


 子供は少し目を伏せた。


「嫌だった?」


「分からない」


「違う道だから?」


「分からない」


「人間が作ったから?」


「分からない」


「出たくなくなった?」


「分からない」


 子供の眉が寄る。


「全部、分からない」


「うん」


「何する?」


「今日は、もう何もしない」


 子供が顔を上げた。


「放っておく?」


「道は残ってる」


「第四の声」


「接続は弱いまま」


「危険」


「増えてはいない」


「でも」


「うん」


「待つ」


「うん」


「嫌」


「うん」


 子供は空箱を見る。


「私も」


「何?」


「戻りたい気持ち」


「うん」


「今、何もしてない」


「うん」


「箱、そのまま」


「うん」


 もしかすると、光にも人間には見えない何かがあるのかもしれない。


 進みたい。


 戻りたい。


 その場にいたい。


 どれも決めていないだけかもしれない。


「明日」


 子供が言う。


「うん」


「まだいたら、見たい」


「中継で?」


「うん」


「現地は?」


「まだ行かない」


「自分で決めた?」


「うん」


「どうして?」


「光が動かないなら」


 子供は少し考える。


「私も急がない」


 アリシアは小さく笑った。


「分かった」


 棚の白い花はさらに乾いていた。


 子供は今日も捨てない。


 丸い木片を顔のない存在へ転がす。


 一度目。


 人影が返す。


 二度目。


 返さない。


「終わり?」


 子供が尋ねる。


 返事はない。


「今は、やめたい?」


 十一の光にも変化はない。


「分からない」


 子供は木片を自分のところへ戻した。


「じゃあ、一人でやる」


 人影が返さなくても。


 遊びそのものまで終わらせなくていい。


「明日の朝」


 子供が窓を見る。


「また、一緒?」


 人影の指が少しだけ窓へ向いた。


 十一の光が揺れる。


「聞いたように見える」


 アリシアが言う。


「でも、朝になったら」


 子供は続ける。


「また聞く」


 昨日と同じ約束。


 けれど、昨日とは違う二人。


 夜。


 西側貯水槽の外には二つの光が残っていた。


 一つは旧排水路の、壁が下がった場所の近く。


 もう一つは、そこから離れた乾いた石床。


 二つは互いへ近づかない。


 第四の声が遠くから響く。


「戻れ」


 返事はない。


「名を与える」


 返事はない。


「無名は空白」


 返事はない。


「空白は器へ戻る」


 そのとき。


 離れた場所にいた光が、初めて大きく揺れた。


 観測者たちの身体が強張る。


「第四の声への反応?」


「可能性はあります」


「接続は?」


「上昇していません」


「なら」


「分かりません」


 光は大きく揺れたあと、ゆっくり石床へ近づいた。


 床へ触れる寸前。


 指一本分ほどの高さで止まる。


 次に、横へ広がった。


「形が」


 観測員が息を呑む。


 丸ではない。


 箱でもない。


 文字でもない。


 人の形にもならない。


 細い光が二方向へ伸び。


 一方は上へ。


 もう一方は横へ。


 次の瞬間には縮む。


 そして、また別の方向へ広がる。


「何に見えます?」


 警備責任者が尋ねる。


 誰も答えなかった。


 人の腕。


 枝。


 翼。


 何かの器。


 そう見えた者はいたかもしれない。


 でも誰も口にしない。


 光は何度か輪郭を変えたあと、最後には元の小さな光へ戻った。


「記録します」


 サーラが紙へ筆を置く。


「西側貯水槽外へ出た光の一つ。夜間、輪郭が複数回変化。固定形状は確認できず」


「伸びた方向は?」


「必要なら各観測者が別々に残してください。一つの図にはしません」


 誰かが見た形を。


 全員の正解にはしない。


 生活観測区画では、子供が眠る前に空箱へ触れていた。


「アリシア」


「うん」


「箱」


「うん」


「明日、開けるかも」


「うん」


「開けないかも」


「うん」


「戻りたいって、まだ思ってる」


「うん」


「少し」


「うん」


「でも」


 子供は窓を見る。


 白い花。


 顔のない存在。


 丸い木片。


 無地の布。


 食べた根菜。


 朝の光。


「ここにも、いたい」


「うん」


「どっちが本当?」


「両方」


 アリシアは今度は迷わなかった。


 子供が目を瞬く。


「両方?」


「うん」


「一つじゃない?」


「うん」


「名前みたいに?」


「たぶんね」


「三つの音」


「うん」


「全部、本当かも?」


「うん」


「でも、名前にしなくても?」


「うん」


 子供は少しだけ目を閉じる。


「なら」


「何?」


「光も」


「うん」


「出たい。戻りたい。止まりたい」


「うん」


「全部かも」


「うん」


「人間が」


「うん」


「一つだけ見て助けたら」


「うん」


「違うの、取るかも」


 その言葉が、アリシアの胸へ静かに沈んだ。


 助ける。


 守る。


 外へ出す。


 名前を返す。


 どれも正しいように聞こえる。


 けれど、一つの意思だけを見て動けば、別の意思を踏みにじることもある。


「気をつける」


 アリシアが言う。


 子供は目を閉じたまま答えた。


「全部、分からないけど」


「うん」


「分からないまま、光、そこにいる」


「うん」


「私も」


「うん」


「この人も」


「うん」


 顔のない存在の十一の光が静かに揺れた。


「おやすみ」


「おやすみ」


 夜。


 誰も、西側貯水槽の外にいる光を「保護対象一号」とは呼ばなかった。


 逃走した光とも。


 救出成功例とも。


 呼ばなかった。


 ただ、西側貯水槽の外へ出た光。


 外へ出て。


 止まり。


 戻り。


 また進み。


 別の光から距離を取り。


 危険区域へ向かおうとしたようにも見え。


 人間が作った道の前で引き返し。


 夜には形さえ変えた。


 それでも、まだそこにある光。


 守ると決めても。


 守られる側が何者なのかまで、人間が先に決める必要はない。


 そして。


 持ち主も。


 役割も。


 名前もないまま。


 二つの光は学院地下の乾いた石床で、それぞれ違う距離を保ちながら、朝まで消えずに残っていた。

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