第116話 近づかないことを選んでも、見捨てたことにはならない
翌朝、生活観測区画の窓には、薄い雲越しの光が差し込んでいた。
昨日より少し白い朝だった。青空は見えないが雨でもなく、雲の向こうに太陽があることだけは分かる柔らかな明るさが、窓辺から棚や机の上へゆっくりと広がっている。前日に見た朝とは色も空気も違っていたが、それでも夜が終わり、新しい一日が始まったことだけは確かだった。
子供は寝台の中で目を開けると、起き上がるより先に隣を見た。
顔のない存在は、自分の寝台へ横になったままだった。胸には十一の光が残っており、昨夜から消えたものは一つもない。眠っているのか、ただ横になっているだけなのかは分からないが、少なくとも同じ場所に、変わらず存在している。
「いる」
子供は小さく呟いた。
以前なら、それは返事を求める呼びかけに近かった。今はどちらかといえば、自分自身へ確認するための声だった。
「朝」
続けて知らせるように言うと、顔のない存在の胸で十一の光のうち幾つかがゆっくり明るさを増した。
「起きる?」
返事はない。
子供はしばらく待った。すぐに手を伸ばすことも、もう一度強く呼びかけることもしない。相手が自分で動くかもしれない時間を、そのまま残す。
「まだ?」
動きはなかった。
子供は少し首を傾げ、それから自分の方を見下ろした。
「私は起きる」
そう言って布団の外へ足を出す。
すぐ床へ降りるのではなく、一度寝台の縁へ腰を下ろした。足裏の擦れはもうほとんど赤くない。昨日まではセレナや治療教師から何度も聞かれていたことを、今朝は自分で確かめるように足の裏へ意識を向ける。
「痛くない」
誰かへ報告したわけではなかった。
自分で自分の身体を確かめ、自分へ返す言葉だった。
少し離れた椅子では、アリシアがすでに起きていた。
「おはよう」
声をかけると、子供が振り返る。
「起きてた」
「少し前にね」
「寝た?」
「うん」
「本当?」
念を押され、アリシアは少し笑った。
「ノアが見てた」
床へ敷かれた無地の布の上では、黒猫が丸くなっている。片目だけを開けたノアが、小さく尾を動かした。
『今回はちゃんと眠っていたわ』
「ちゃんと寝てたって」
「よかった」
『なぜ私が証人扱いなのかしら』
アリシアは聞こえなかったふりをした。
子供はそれ以上アリシアの睡眠について確認せず、窓へ向かって歩き始める。
その途中、棚の前で足が止まった。
白い花は、もう素直に「白い」と言い切るには難しい姿になっていた。花弁の端は茶色へ変わり、中央にだけ以前の白さが残っている。茎も少し細くなり、乾いた小瓶の縁へ身体を預けるように傾いていた。
「白い花」
それでも子供は、昨日までと同じ呼び方をした。
「うん」
アリシアも訂正しない。
「まだ、白い花」
「うん」
「昨日より白くない」
「うん」
「それでも、白い花」
「うん」
子供は何度か言葉を確かめるように繰り返し、それから花へ少し顔を近づけた。
「匂い、ある」
「昨日と同じ?」
「分からない」
もう少し鼻を寄せる。
「前と違う気がする」
「乾いてきてるからかもしれないね」
「嫌?」
「子供は?」
「分からない」
子供は花を見つめたまま黙った。
しばらくして、少し寂しそうに言う。
「昨日の匂い、忘れた」
「うん」
「記録してない」
「うん」
「もう比べられない」
昨日は、残さなくていいと思った。
何でも記録することをやめると決めた。
けれど今日になれば、残さなかったものが本当に戻らないこともある。
「書けばよかった?」
子供に尋ねられ、アリシアはすぐに答えなかった。
「今は、そう思う?」
「少し」
「うん」
「でも」
子供は自分から続ける。
「昨日は、書かなくていいって思った」
「うん」
「間違い?」
「昨日の子供が?」
「うん」
アリシアは白い花を見ながら、ゆっくり首を横へ振った。
「違うと思う」
「でも、今は知りたい」
「うん」
「昨日の匂い」
「うん」
「分からない」
「うん」
子供の眉が少し寄る。
「じゃあ、残さなかったからなくなった」
「そういうこともあるね」
「嫌」
「うん」
「全部残した方がいい?」
その問いに、アリシアは少しだけ息を吐いた。
昨日までとは反対側から、同じ問題へ戻ってきた。
「全部残したら、子供が何回花を見たかも書くかもしれない」
「うん」
「何回笑ったかも」
「うん」
「何回木片を転がしたかも」
子供の顔が少し嫌そうになる。
「何回、この人を見たかも」
顔のない存在へ視線を向ける。
「……多い」
「うん」
「全部見られる」
「うん」
それは、第四の声がしようとしていたことに少し似ている。
すべてを覚える。
すべてを集める。
何も落とさず、一つの正しい記録へまとめる。
残さなかったことで失うものはある。
けれど、何も失わないようにすべてを残せば、今度は生きている時間そのものが記録へ変わってしまう。
「じゃあ」
子供は白い花を見ながら言った。
「昨日の匂い、なくてもいい?」
「子供が決める」
「また」
声に少し疲れが混じった。
アリシアはすぐに気づく。
「今、決めてほしい?」
子供は少し考えたあと、小さくうなずいた。
「一つ」
「分かった。じゃあ、昨日の匂いは残さなかったままにしよう」
「うん」
「今日の匂いも、今日は書かない」
「どうして?」
「明日また変わったら、今日の匂いを覚えてるかどうか、自分で確かめられるから」
「忘れたら?」
「忘れたって分かる」
「それ、嫌かも」
「あとで変えていい」
「うん」
子供はもう一度花へ鼻を近づけた。
「覚える」
「うん」
「でも、忘れても怒らない」
「誰が?」
「私が、私に」
アリシアは少し笑った。
「それは、いいと思う」
『あなたも覚えなさい』
ノアが横から言う。
アリシアの笑みが少し固まった。
「ノアが余計なこと言った」
「何て?」
「内緒」
『便利に隠すわね』
子供が楽しそうに笑う。
その声へ反応したように、顔のない存在の十一の光が淡く揺れた。
「起きてる?」
子供が振り返る。
今度は人影の手が寝台の上で少し動いた。手のひらで寝台を押し、時間をかけながら上体を起こしていく。
「おはよう?」
返事はない。
「朝。今日は白い」
子供が窓を指すと、顔のない頭がゆっくりそちらへ向いた。
子供も窓際へ立つ。
二人で、薄曇りの朝を見る。
「昨日より白い」
十一の光は静かだった。
「好き?」
反応はない。
「私は、昨日の方が好きかも」
「青かったから?」
アリシアが尋ねる。
「鳥、見えた」
「うん」
「今日は見えない」
「まだ飛んでないだけかもしれないよ」
「待つ?」
「見たいなら」
子供は窓の外と、朝食の準備が進んでいる扉側を交互に見た。
鳥を待つ。
朝食へ行く。
どちらかを選べば、もう片方を見逃す可能性がある。
「でも、朝ごはん」
「うん」
「鳥、来ても見られないかも」
「うん」
「朝ごはんも冷める」
「うん」
少し迷ったあと、子供は窓から離れた。
「また選ぶ」
「うん」
「疲れてない?」
今度はアリシアの方から先に尋ねる。
「今は大丈夫」
「じゃあ?」
「朝ごはん」
「うん」
「鳥、来ても」
「見られないかもしれない」
「でも、昨日見た」
「うん」
「次もあるかも」
「うん」
そう言って、子供は食卓へ向かった。
楽しいものが目の前にあっても、全部を逃さないように捕まえ続けなくていい。
鳥は飛ぶ。
朝は進む。
花は乾く。
その中で、自分は食べる。
生活とは、起きたことを全部同時に持つことではない。
朝食には粥と根菜、それから子供が「小さい白」と呼んでいる塩が用意されていた。
今日はさらに、小さな皿へ柔らかく煮た淡い黄色の果実が一片だけ置かれている。
「何?」
子供の視線がすぐそちらへ向く。
治療教師が穏やかに笑った。
「先に名前を知りたいですか」
「見てから」
「どうぞ」
根菜より少し透けた黄色い果実。
子供はしばらく眺め、それから鼻を近づける。
「甘い?」
「食べれば分かります」
「アリシア、知ってる?」
「たぶん」
「名前」
「今聞きたい?」
「まだ」
子供は、自分で「食べる道具」と呼んでいる匙の先へ果実を少しだけ取り、口へ運んだ。
舌へ触れた瞬間、目が少し大きくなる。
「甘い」
「うん」
アリシアが笑う。
「根菜より」
「うん」
「もっと甘い」
「うん」
もう一口。
表情は嫌そうではない。
「これ、好き」
「今は?」
扉の外からセレナが確認する。
「今は好き」
「身体は?」
「変じゃない」
「もう一口?」
「食べる」
三口目。
それでも体調に大きな変化はない。
子供が四口目へ手を伸ばそうとしたところで、セレナは止める代わりに尋ねた。
「お腹は?」
子供は少し意識を向けるように、自分の腹へ手を当てる。
「少しいっぱい」
「なら?」
「でも好き」
「うん」
「もう一口、食べたい」
「身体は?」
「少しいっぱい」
「どうしますか」
子供の眉が寄る。
「好きなのに」
「うん」
「身体、いっぱい」
「うん」
「昨日と同じ」
「うん」
しばらく迷ったあと、子供は匙を皿へ戻した。
「やめる」
「分かりました」
「残る」
「はい」
「捨てる?」
「時間が経てば」
「でも好き」
子供は名残惜しそうに黄色い果実を見た。
「また用意できます」
治療教師が言う。
「同じ?」
「同じ種類でも、味が少し違うことはあります」
「じゃあ、今日のはもうない」
「そうですね」
「嫌」
「うん」
アリシアは果実を見る。
「でも食べる?」
子供の手が止まった。
「身体、いっぱい」
「うん」
「好き」
「うん」
「残したい」
「うん」
「でも悪くなる」
「うん」
少し困った顔。
けれどそれは、器や名前を巡る恐怖とは違う。
生活の中で起きる、普通の困り方だった。
「保存できる?」
子供が自分から治療教師へ尋ねた。
「短い時間ならできます」
「どうやって」
「冷たい場所へ置きます」
「水?」
「使わない方法もあります」
「第四の声」
「反応が出ないか確認します」
「じゃあ、残す」
「昼まで?」
「うん」
「昼に食べたくなかったら?」
「そのとき、また決める」
好きだから、今すぐ全部食べなくてもいい。
あとで気持ちが変わるかもしれない。
残した結果、食べられなくなるかもしれない。
それでも、今好きだと思ったことは嘘にはならない。
朝食を終えたあと、子供が言った。
「名前」
「果実の?」
「うん」
「知りたい?」
「うん」
治療教師が正式な名前をゆっくり伝える。
子供は一度聞き、すぐに眉を寄せた。
「長い」
「そうですね」
「私は、甘い黄色」
アリシアが笑う。
「それでいい」
「正式な名前、知ったのに?」
「うん」
「忘れても?」
「うん」
「記録にある?」
「食材としてはあるよ」
「でも、私は甘い黄色」
「うん」
知らないから別の呼び方をするのではない。
正式な名を知ったうえで、自分が使いたい言葉を選ぶ。
それは以前までの子供にはなかった感覚だった。
朝食後、学院長が生活観測区画の外へ来た。
今日はアリシアだけを先に呼び出すことはせず、扉の外から子供へ直接声をかける。
「西側貯水槽の外へ出た光について、変化がある」
白い花の前にいた子供が振り返る。
「聞く?」
「今、聞けるか?」
学院長が逆に確認した。
子供は少し考えたあと、自分の腹へ一度手を当てる。
「甘い黄色、食べた」
「聞いている」
「好き」
「そうか」
「でも残した」
「それも聞いた」
「今、疲れてない」
「では話す」
学院長は扉の外に立ったまま続けた。
「外へ出た二つの光のうち、一つが昨夜、輪郭を何度か変えた」
「何に?」
「分からない」
「人?」
「そう見えた者もいたかもしれない」
「でも決めてない」
「そうだ」
「もう一つは?」
「危険区域へ進もうとしたように見えたため、昨日一度通路を塞いだ」
「知ってる。そのあと道、作った」
「安全な迂回路を作り、壁を下げた」
「入った?」
「入らなかった」
「戻った」
「そうだ」
「今は?」
「壁があった場所の近くに残っている」
子供は少し考え込む。
「人、近づいてない?」
「いない」
「ずっと?」
「はい」
「寂しいかも」
「うん」
「でも怖いかも」
「うん」
「何か置く話」
昨日、子供が考えた方法。
誰かがいることを押しつけず、声も名前も使わず、ただ別の何かが存在していることだけを感じられるもの。
「調べた」
「何?」
「香りのある植物だ」
子供の目が少し明るくなる。
「使える?」
「第四の声が香りを媒体にした記録は、今のところ確認されていない」
「なら」
「確認されていないだけだ」
学院長は先回りして続ける。
「安全とは断定しない。ただし、試す候補にはできる」
「何の花?」
「まだ選んでいない」
「匂いある?」
「弱いものを使う予定だ」
「名前は?」
「必要か?」
子供は少し考えた。
「光に名前、知られない方がいい?」
「植物の名を知ることが危険かは分からない」
「じゃあ、名前言わない」
「分かった」
「私も見たい」
「植物を?」
「うん。光の近くへ置く前に」
学院長は拒否しなかった。
「生活観測区画の外へ持ってくる。まず、水や第四の声との反応を確認する」
「中じゃない?」
「最初は外だ」
「私からも距離」
「そうする」
「見るだけ?」
「まずは」
「匂いは?」
「届く位置まで近づくかは、また別に決める」
「また」
子供の声が少しだけ嫌そうになる。
学院長も、その変化には気づいた。
「疲れたら、そこは我々が決める」
「一つだけ」
「一つだけだ」
「じゃあ、見たい」
「分かった」
同じ頃、西側貯水槽では、外へ出た二つの光と、内部に残っている光たちが昨日よりさらに異なる動きを見せていた。
北側排水路から最初に外へ出た光は、危険区域へ続く迂回路の前でほとんど動いていない。
もう一つの光は旧排水路の中央近く、乾いた石床の上へ留まっている。昨夜は輪郭を何度も変えたが、今朝は小さな丸に近い形へ戻っていた。
ただし完全な円ではない。
右側だけが、ほんの少し狭く見える。
「欠けていますか」
若い術師が尋ねた。
サーラはすぐに首を横へ振る。
「そう見えるだけかもしれません」
「昨日より小さい部分があります」
「比較はします。ただし、『欠けた』とは書かないでください」
「はい」
西側貯水槽内部でも動きがあった。
昨日、一度中央方向へ戻ったように見えた光が、さらに文字環へ近づいている。
「昨日の光と同じですか」
ケインが尋ねた。
「位置だけなら、そう見えます」
サーラは慎重に答える。
「断定は?」
「できません」
「では、どう記録しますか」
「昨日、上層側から中央方向へ移動したと見られる光。その位置付近にある光」
ケインが少し苦笑した。
「長いですね」
「それでいいです」
光はゆっくり文字環へ近づいていく。
第四の声が響いた。
「戻れ」
光は進む。
「記録へ」
さらに進む。
「名を与える」
光が少し揺れた。
「帰属を与える」
中央との距離がさらに縮まる。
「止めますか」
警備隊員の声が張った。
学院長は生活観測区画にいる。現場の判断を任されている副学院長は、すぐには命じなかった。
「接続値は」
「上昇中」
「介入条件に達したか」
「まだ基準値以下です」
「なら、観測を続ける」
「ですが、戻っています」
「戻ること自体を止める根拠はありません」
光と文字環の距離が縮まる。
誰も声をかけない。
やがて、光が文字環の外縁へ触れた。
その瞬間。
第四の声が、低く告げた。
「帰属」
黒い細い糸が文字環から光へ伸びる。
「接続急上昇!」
結界術師の声が響く。
「介入条件到達!」
「光そのものへ触れるな!」
副学院長が即座に命じた。
「文字環から伸びた線だけ遮断する!」
結界術師たちは、一枚の大きな壁を作らなかった。
三方向から、それぞれ異なる角度で小さな遮断結界を展開する。
「妨害」
第四の声が響く。
「分離は、誤り」
「戻せ」
光が激しく揺れた。
「接続、まだ上昇!」
「土!」
「床下にも流れがあります!」
土の神器継承者が床へ手を当てる。
「一本、通っています!」
「光を押し返さず切れるか!」
「床を持ち上げます!」
土の力が流れ込む。
文字環と光の間の石床が、わずかに隆起した。
地下を走っていた魔力の流れが、その物理的な亀裂によって弱まる。
「接続低下!」
「まだ残っています!」
第四の声は止まらない。
「名を与える」
「帰属せよ」
光はなお、文字環へ近づこうとしているように見えた。
「引かれている?」
「分かりません!」
そのとき、上層班の記録担当者が声を上げた。
「待ってください!」
「何だ!」
「この光、文字環へ近づいたのは今だけではありません!」
昨日。
上層から中央へ。
今日。
さらに中央へ。
「第四の声に引かれているだけじゃなく、自分から戻っているようにも見えました!」
副学院長の表情が変わった。
「介入方法を変更!」
「どうします!」
「接続線だけ切れ! 光の移動そのものは止めるな!」
全員が即座に動きを変える。
光へ押し返す力を加えない。
文字環との黒い糸だけを遮断する。
「戻りたいなら――」
副学院長は言いかけ、口を閉じた。
光へ向けた言葉にはしない。
こちらへ来いとも。
戻るなとも。
言わない。
光は文字環のすぐ外まで進み、そこで止まった。
黒い接続線は切れている。
第四の声だけが響く。
「帰属なき接近は、無意味」
光は動かない。
「名を受けよ」
小さく揺れる。
「戻るなら、名を受けよ」
それでも、人間側は何も言わない。
やがて接続値は危険域を下回った。
「停止確認」
「接続、低値」
「介入継続は?」
「不要だ」
副学院長が長く息を吐く。
サーラは記録へ筆を置いた。
「上層側から中央方向へ移動した光。文字環へ接近。第四の声から接続線発生。介入条件に基づき接続線のみ遮断。光の移動そのものへの介入は停止。現在、文字環外周付近で停止」
「戻ろうとした、と書きますか」
誰かが尋ねた。
サーラは少し考え、首を横へ振る。
「そう見えた可能性はあります。でも記録には、行動だけを残します」
その報告は、すぐには生活観測区画へ届けられなかった。
子供には、香りのある植物を見る予定がある。
学院長は、生活のすべてを西側貯水槽で起こる異変へ吸い寄せないと決めていた。
生活観測区画の外側。
細い台の上へ、小さな鉢が置かれた。
水は使っていない。
乾燥した土と、水分をほとんど必要としない特殊な培地で根を包んだ植物だった。小さな花を幾つかつけ、近づけばかすかに分かる程度の香りがある。
「何?」
区画内から子供が見る。
「植物です」
「花?」
「小さな花がついています」
「白い?」
「違う色です」
「名前」
「まだ言いません」
「うん」
子供は扉から少し離れた場所へ立つ。
「匂い」
「届きますか」
セレナが尋ねる。
「少し」
「どんな?」
子供は鼻を小さく動かした。
「甘い?」
「食べ物の甘いと同じ?」
「違う」
「嫌?」
「分からない」
「近づきたい?」
「少し」
「疲れてる?」
「大丈夫」
子供は一歩だけ近づく。
鼻を少し動かした。
「強くなった」
「匂いが?」
「うん」
「嫌?」
「まだ」
もう一歩。
そこで自分から止まる。
「ここ」
「分かりました」
誰も、もう一歩来るようには言わない。
子供はしばらく香りを確かめた。
「これ、光の近くに置く?」
「候補です」
「人がいるって分かる?」
「分かりません」
「植物があるってだけかも」
「そうですね」
「でも、人が置いた」
「うん」
「光、分かる?」
「分からない」
子供は困ったように鉢を見る。
「何も分からない」
「うん」
「でも、名前も音もない」
「うん」
「怖くない」
「今は?」
「うん」
「好き?」
「分からない」
「うん」
しばらく見たあと、子供は自分から言った。
「置いてみる」
「決める?」
「うん」
「自分で?」
「これは、自分で」
「分かった」
学院長は扉の外から最終条件を確認する。
「光のすぐ近くには置かない」
「うん」
「外周保護区域の入口へ置く」
「遠い?」
「光からは遠い」
「近づかなければ匂わない?」
「ほとんど分からない」
「それでいい」
「どうして?」
「来いってしない」
子供の答えに、学院長が静かにうなずいた。
「近づいたら匂う」
「うん」
「嫌なら離れる」
「うん」
「植物も、そこに置いてあるだけ」
「うん」
「人がいるって分からなくてもいい」
「それでもよい」
誰かがいると知らせたいからといって、自分の存在を強く押しつけなくてもいい。
ただ何かがそこにある。
それだけを置いておく。
午後。
香りのある植物は、西側貯水槽外周保護区域の入口近くへ運ばれた。
光のそばまでは近づけない。
人間たちも、それまでより少し後ろへ下がる。
「匂い、かなり弱いですね」
観測員が言う。
「それでいいです」
サーラが答える。
危険区域前で止まっている最初の光は、ほとんど動かない。
もう一つは旧排水路中央近くで、わずかに輪郭を変えている。
一分。
二分。
何も起きない。
さらに時間が過ぎる。
「変化なし」
誰かが小さく言う。
しばらくして。
二つ目の光が、横へ少しだけ動いた。
「植物側?」
「斜めです」
「近づいていますか」
「位置としては少し」
誰も声をかけない。
光はもう一度動き、香りが届くか届かないかという距離で止まった。
「揺れが強くなっています」
「危険値は?」
「平常」
「第四の声との接続」
「変化なし」
光の輪郭が横へ伸び、次に上へ伸びる。
それから、小さく縮んだ。
「匂いに反応した?」
「分かりません」
植物そのものへ直接近づくことはない。
ただ、その距離に留まる。
「鉢を少し近づければ」
若い術師が言いかけ、自分から口を閉じた。
「……誘導になりますね」
「そうです」
サーラが答える。
「光がここまで来た。それなら、人間側が距離を縮める理由はありません」
「はい」
光が止まったなら、こちらも止まる。
植物。
光。
人間。
三つは距離を変えないまま、長い時間を過ごした。
すると、別の場所にいる最初の光も少し動いた。
植物とは逆方向へ。
「離れました」
「植物から?」
「位置としては」
「匂いが嫌だった?」
「決めません」
「でも」
「一つは近づいた。一つは離れた。それだけです」
同じ植物。
同じ香り。
同じ場所。
それでも反応は違う。
「配置を変えますか」
「なぜですか」
「離れた光が嫌がっている可能性が」
「危険反応は?」
「ありません」
「なら変えません」
「嫌がっていたら?」
「離れられる距離を残します」
「はい」
相手へ配慮することも、先回りしすぎれば相手自身の反応を奪う。
嫌がるかもしれないから、何も置かない。
寂しいかもしれないから、近づく。
どちらも人間側が勝手に答えを決めれば、結局同じことになる。
夕方。
生活観測区画へ報告が届いた。
「一つ、近づいた」
子供が確認する。
「うん」
「一つ、離れた」
「うん」
「同じ匂い」
「うん」
「違う」
「うん」
子供は少し嬉しそうだった。
「よかった?」
アリシアが尋ねる。
「何が?」
「違う反応だったこと」
「うん」
「どうして?」
「同じじゃない」
「うん」
「第四の声、全部同じにする」
「うん」
「でも、匂いに一つは近づいて、一つは離れた」
「うん」
「どっちも間違いじゃない」
「うん」
子供は生活観測区画の外へ置かれている植物の方を見る。
「私、この匂い」
「うん」
「少し好き」
「うん」
「この人は、何も」
顔のない存在を見る。
「反応しなかったね」
「うん」
「それもいい?」
「うん」
子供は笑った。
「アリシア、また、うん」
「必要だから」
「便利」
「うん」
『完全に癖になったわね』
「ノア、何て?」
「内緒」
「また」
顔のない存在の十一の光が、子供の笑いに反応するように小さく揺れた。
けれど、香りの植物へ近づこうとする様子はない。
「この人、近づかない」
「うん」
「見捨てた?」
アリシアは少し目を瞬いた。
「何を?」
「植物。匂い」
「興味がないなら、見捨てた?」
アリシアは少し考えた。
「違うと思う」
「どうして?」
「見捨てるって」
言葉を探す。
「相手が困っていて、自分にできることがあるのに、もう知らないって背を向ける感じだと思う」
「興味ないのは?」
「ただ、今は近づかない」
「違う?」
「うん」
「光も」
「何?」
「人間が近づかない」
「うん」
「見捨てた?」
今度は、迷わなかった。
「違う」
「でも助けない」
「今すぐ触って助けることはしてない」
「うん」
「道を作った」
「うん」
「危険なら止めた」
「うん」
「香りも置いた」
「うん」
「でも、近づかない」
「うん」
「それでも、いる」
「うん」
「見てる」
「うん」
子供は長く考える。
「アリシア」
「うん」
「私が戻りたいって思って、箱に入れた」
「うん」
「アリシア、開けない」
「うん」
「見捨てた?」
「違う」
「でも助けない」
「今は」
「うん」
「じゃあ」
子供は空の箱を見る。
「近づかないのも、一緒にいる?」
「こともある」
「ことも」
「うん」
子供は、その言葉を胸の中で転がすように黙った。
近づかない。
触れない。
呼ばない。
開けない。
聞かない。
それは、冷たさだけではない。
相手が自分で動ける場所を残すために、あえて手を出さないこともある。
子供は棚の白い花へ近づいた。
かなり乾いている。
少し触れれば、花弁が崩れてしまうかもしれない。
「触らない?」
アリシアが尋ねる。
「うん」
「どうして?」
「壊れそう」
「うん」
「でも、見る」
「うん」
「見捨ててない?」
「うん」
「近づかないけど」
「うん」
子供は、乾いていく白い花を触れずに見ていた。
その夜。
顔のない存在は珍しく、子供より先に寝台へ横になった。
「寝る?」
返事はない。
「疲れた?」
反応もない。
「遊ばない?」
子供は丸い木片を見る。
人影は動かない。
以前なら、それだけで遊びをやめたかもしれない。
けれど今夜は、子供が自分で木片を持った。
「じゃあ、今日は一人」
床へ転がす。
壁へ当たり、止まる。
自分で取りに行く。
もう一度。
二回。
三回。
「見てない?」
「分からない」
アリシアが答える。
「でも、私は遊ぶ」
「うん」
人影が返してくれなくても、自分の遊びまで止めなくていい。
やがて子供も疲れ、木片を棚の近くへ戻した。
空箱。
白い花。
無地の布。
どれも、同じ場所へ残っている。
「アリシア」
「うん」
「今日、光、一つ近づいた」
「うん」
「一つ離れた」
「うん」
「この人、何も」
「うん」
「私、少し好き」
「うん」
「全部違う」
「うん」
「いい?」
「うん」
子供は少し笑った。
「アリシアは?」
「何が?」
「匂い」
「まだ嗅いでない」
「じゃあ、分からない」
「うん」
「明日、嗅ぐ?」
「子供がまだ置いておきたいなら」
「うん」
「じゃあ嗅ぐ」
「予定?」
「うん」
「変わっても?」
「うん」
子供は目を閉じる。
「おやすみ」
「おやすみ」
顔のない存在の十一の光が一つだけ静かに揺れた。
「聞いた?」
「そう見える」
「でも、起こさない」
「うん」
夜。
西側貯水槽外では、香りのある植物がそのまま置かれていた。
二つの光のうち一つは、植物へ少し近づいた場所へ留まっている。
もう一つは、そこからさらに離れた場所にいる。
どちらも消えていない。
西側貯水槽内部では、文字環のすぐ外へ戻ったように見えた光も、その位置へ留まったままだった。
第四の声が響く。
「戻れ」
返事はない。
「名を受けよ」
返事はない。
「名なきものは、孤立」
光が小さく揺れる。
「孤立は、消失」
その瞬間。
外へ出た光のうち、香りの植物へ近づいた方が、遠くでわずかに明るさを増した。
ほぼ同じ頃。
文字環のすぐ外へ留まっている光も、小さく明るさを変える。
「接続?」
観測者が尋ねる。
「確認できません」
「第四の声との反応は?」
「変化なし」
「光同士?」
「分かりません」
誰も橋だとは呼ばなかった。
仲間とも。
助けを求めたとも。
呼び合ったとも決めない。
ただ。
離れた場所にいる二つの光が、ほぼ同じ時刻に少しだけ明るくなった。
その事実だけを、別々の観測者が、別々の紙へ残した。
近づかない。
呼ばない。
それでも見捨てない。
朝になれば、また見る。
必要なら道を作る。
危険なら止める。
嫌だと思った者がいれば、その異議を残す。
動かなければ待つ。
戻ったからといって、失敗とは呼ばない。
学院も少しずつ学び始めていた。
誰かを大切に思うことと、その誰かのすぐそばへ行くことは、いつも同じではない。
距離を置くこと。
手を出さないこと。
名前を付けないこと。
答えを急がないこと。
そうして相手が自分で動ける場所を空けたまま、守ることもある。
その夜。
文字環のすぐ外へ戻ったように見えた光は、第四の声の中へ戻らなかった。
けれど、外へ進むこともしなかった。
誰にも進路を決められないまま。
誰にも名前を与えられないまま。
それでも消えずに。
ただ、自分が今いる場所へ留まり続けていた。




