第117話 戻る場所があるからといって、そこへ戻らなければならないわけではない
翌朝、生活観測区画の窓の外には、昨日より薄い雲が広がっていた。
空はまだ完全には晴れていないが、雲の切れ間から白い光が落ち、庭の乾いた石畳をゆっくりと明るくしている。夜のあいだに雨は降らなかったらしく、窓硝子にも水滴は残っていなかった。
子供は目を覚ましても、すぐには起き上がらなかった。
寝台の中で何度か瞬きを繰り返し、それから隣へ視線を向ける。顔のない存在は昨夜と同じように横になっており、胸に浮かぶ十一の光も一つとして消えていない。そのうち二つだけが、呼吸の代わりのように弱く明滅していた。
「いる」
子供が小さく呟く。
返事はない。
それでも、声には以前のような切迫した響きはなかった。目を覚ましたとき、同じ場所に同じ存在がいる。そのことを確かめるための、ごく静かな言葉だった。
「朝」
窓を見てから、もう一度人影へ知らせる。
すると十一の光のうち三つほどが、ゆっくりと明るさを変えた。
「聞いてる?」
そこまで言ってから、子供は少し考え込む。
「……聞いてるように見える」
少し離れた椅子で起きていたアリシアは、その言い直しを聞いていた。
以前なら、光が揺れれば「聞いた」と決め、反応がなければ「聞いていない」と不安になっていただろう。けれど今の子供は、自分がどう見えたかと、相手が本当はどう感じているかを少しずつ分け始めている。
「おはよう」
アリシアが声をかけた。
「おはよう」
子供も返す。
「よく眠れた?」
「分からない」
「途中で起きた?」
「一回」
「怖かった?」
「少し」
「何が?」
子供は寝台の上で膝を抱えた。
「箱」
棚に置かれた、空の木箱。
戻りたいと思った気持ちを、文字にも音にもせず、その中へ置いたことにしている箱だった。
「開けたくなった?」
「違う」
「じゃあ?」
「中にあるって思ったら、怖くなった」
アリシアはすぐに問いを重ねなかった。
子供が自分から続けられるだけの間を置いてから、静かに尋ねる。
「何が怖かった?」
「戻りたいって思ったことが、ずっと中にいる」
「うん」
「私が寝ても、朝になっても、消えない」
「うん」
「それが嫌だった」
子供は、自分の胸へ手を置いた。
「入れたら少し軽くなった。でも、箱にあるって思うと、なくなってない」
「消したい?」
アリシアが尋ねると、子供はすぐに首を横へ振った。
「分からない。戻りたい気持ちは嫌。でも、なかったことにするのも嫌」
「うん」
「箱、どうする?」
今度は子供の方から尋ねた。
アリシアは、棚の上の箱を見る。
「今日は、箱の場所を変えてみる?」
「場所?」
「今は棚にあって、立ってても見えるでしょう。ずっと見えているのが嫌なら、少し見えないところへ置く」
「隠す?」
「完全には隠さない。子供がどこにあるか分かっていて、見たくなったら見られる場所。棚の下とか」
子供は木箱を見つめる。
「見えない」
「普段はね。でも、しゃがめば見える」
「なくならない」
「うん。でも、ずっと見なくてもいい」
その違いを考えるように、子供はしばらく黙った。
やがて、小さくうなずく。
「それ、いい」
「自分で動かす?」
「うん」
寝台から降りる。
足裏の痛みは、もうほとんどなかった。歩き方にも、数日前までの頼りなさはかなり減っている。
子供はゆっくり棚まで行き、木箱を両手で持ち上げた。
箱は空だった。
何も入っていない。
物としては軽い。
それなのに、持ち上げた子供の顔には妙な重さが残った。
「重くないのに、重い」
「うん」
「変」
「気持ちの方かな」
「箱じゃない?」
「たぶん」
子供は棚の一番下へ木箱を置いた。
しゃがまなければ見えない場所。
立っていれば、普段の視界へほとんど入らない。
「ある」
「うん」
「でも、見えない」
「うん」
「これでいい」
「分かった」
立ち上がった子供は、少し長く息を吐いた。
「戻りたいの、消えた?」
「どう?」
胸へ手を置き、自分の中を確かめる。
「少しある。でも、ずっと見なくていい」
「うん」
「なら、今はこれ」
その判断を、誰も記録しなかった。
区画外の机にはミレイがいたが、今のやり取りを見ても筆を取らない。安全上必要な情報でもなければ、身体や魔力の変化でもない。
本人が、自分の気持ちをどこへ置くか変えただけ。
そのくらいのことが、記録されないまま生活の中へ残ることを、学院側も少しずつ受け入れ始めていた。
子供は次に、棚の上の白い花へ向かった。
花は昨日よりさらに乾いている。白と茶色の境目は曖昧になり、一枚の花弁は内側へ折れ、細くなった茎も完全にはまっすぐ立っていなかった。
「白い花」
それでも子供は、同じ呼び方をする。
「うん」
アリシアも訂正しない。
子供は花へ鼻を近づけた。
「昨日の匂い、少し覚えてる」
「今日と違う?」
「少し」
「どっちが好き?」
「分からない。でも」
子供は、ほんの少しだけ笑った。
「忘れてない」
「うん」
「怒らなかった」
「誰に?」
「私に」
昨日、もし忘れても、自分を責めないと決めた。
結果として、匂いは少し残っていた。
だからといって、覚えられたことを成功とは呼ばない。忘れなかった自分が正しくて、忘れた自分なら間違いだったとも決めない。
ただ、少し覚えていた。
それだけだった。
「アリシア」
「うん」
「甘い黄色」
「残してあるよ」
「まだ?」
「治療教師が状態を確認してる」
「食べる?」
「今?」
「うん」
「朝ごはんの前に?」
子供は少し考えたあと、首を横へ振る。
「じゃあ、あと」
「うん」
「好きだから、先に食べてもいいと思った」
「うん」
「でも朝ごはんある」
「うん」
「今日は、あとにする」
「分かった」
選ぶことは、少しずつ特別な訓練ではなくなっていた。
甘いものを先に食べるか。
花をもう少し見ているか。
箱を目に入る場所へ置くか。
大きな決断ではない。
誰かへ任せなければ潰れてしまうほど重くもない。
そんな小さな選択が生活の中に増え始め、その一つ一つが、子供自身の時間になっている。
その途中で、顔のない存在が寝台の上でゆっくり上体を起こした。
子供が振り返る。
「おはよう」
顔のない頭が、わずかに子供の方へ向いた。
「朝」
窓を指すと、胸の十一の光が一度揺れる。
「今日、鳥いるかな」
返事はない。
「見たい?」
それにも明確な反応はなかった。
子供は少し考え、相手へ答えを求め続ける代わりに自分の気持ちを先に言う。
「私は見たい」
すると人影の頭が、今度はゆっくり窓へ向いた。
「一緒?」
十一の光のうち一つだけが少し強くなる。
「そう見える」
子供は自分でそう言ってから、人影の足元へ視線を落とした。
「でも、歩く?」
顔のない存在は、ゆっくり寝台から足を下ろした。
昨日より動きは安定している。
それでも立ち上がった瞬間には身体が少し揺れ、子供が反射的に手を伸ばしかけた。
途中で止める。
「触る?」
人影は、自分で寝台の縁へ手を置いて身体を支えた。
「いらない?」
返事はない。
「自分で?」
その問いに答える代わりのように、人影は一歩進んだ。
子供も隣へ並びきらない程度の距離を保ちながら歩く。
二人で窓へ向かい、顔のない存在は昨日より一歩多く進んだところで、自分から立ち止まり、そのままゆっくり床へ座った。
「今日も休んだ」
「うん」
「朝、進む。でも休む」
「うん」
子供も隣へ座った。
窓の上の方に見える空は昨日より明るかったが、鳥はまだ一羽も見えない。
「来ない」
「今はね」
「待つ?」
「見たい?」
「少し」
「朝ごはんもある」
「うん」
子供は少し悩み、顔のない存在を見る。
「この人、まだ座ってる。私も少し待つ」
「うん」
「鳥、来なかったら朝ごはん行く」
「いつまでにする?」
アリシアが尋ねるより前に、子供自身が窓から落ちる光を見た。
「昨日、休む時間で使った」
「うん」
「今日は、光が机の脚まで来るまで」
「分かった」
数字でも。
鐘でもない。
光が動く。
朝が進む。
その変化を、自分たちの時間にする。
しばらく待っていると、一羽の鳥が窓の外を横切った。
「いた!」
子供の声が弾む。
顔のない存在の頭も上がった。
「今日も」
人影の指が、鳥を追うようにゆっくり上へ向く。
「飛んだ」
子供も同じように指を動かした。
胸の十一の光は揺れたが、新しい光は増えない。
子供はそれを見て、ほんの少し首を傾げた。
「増えない」
「うん」
「でも見た」
「うん」
「昨日も、今日も」
「うん」
「増えなくても、ある」
「うん」
光が増えなかったからといって、何も起こらなかったわけではない。
同じ鳥ではない。
同じ朝でもない。
けれど今日の朝を、今日の二人が見た。
その事実は、胸の光が増えるかどうかとは別に存在している。
朝食のあと、子供は残していた「甘い黄色」を食べた。
昨日より少し冷たく、舌触りも変わっている。
「違う」
「嫌?」
扉の外からセレナが尋ねる。
「昨日の方が好き」
「今は?」
「今も好き。でも、昨日の方が好き」
「うん」
子供はゆっくりと食べる。
「同じ甘い黄色なのに、味が違う」
「時間が経ったからですね」
「名前、同じ」
「うん」
「白い花も、名前同じ。形、違う」
「うん」
そこで子供はアリシアを見た。
「アリシアも?」
「昨日と今日?」
「うん」
「違うと思う」
「名前、同じ」
「うん」
「アリシア。でも違う」
「うん」
子供は、自分の胸へ手を置いた。
「私も?」
「たぶん」
「名前、まだない。でも、昨日と今日、違う」
「うん」
少しだけ嬉しそうに笑う。
「じゃあ、名前なくても変わる」
「うん」
「名前あっても変わる」
「うん」
「第四の声、違う」
「何が?」
「名前決めたら、変わらないって言った」
アリシアは黙って子供を見る。
「でも、アリシアも、白い花も、甘い黄色も変わる」
「うん」
「じゃあ、名前って、止めるものじゃない」
その言葉が、アリシアの胸の奥へ静かに沈んだ。
六つ目。
闇の神器継承者。
アリシア。
どの呼び方も、自分を完全に固定するものではない。
以前そう呼ばれた自分と。
今その名で呼ばれている自分。
明日変わる自分。
全部が同じではない。
けれど、それでも呼べる。
「そうかもしれない」
アリシアはゆっくり答えた。
「名前って、変わらないためにあるんじゃなくて……変わっても、また呼び直せるためにあるのかも」
「呼び直す?」
「昨日と違っても、今日の私をアリシアって呼べる」
「明日変わっても?」
「アリシア」
「うん」
「でも、六つ目は?」
「それは呼ばれたくない」
「変わらない?」
「今は」
「今は」
「うん」
子供は、その答えをもう嫌がらなかった。
今は嫌。
明日は分からない。
それでいい。
昼前、西側貯水槽の観測班から新しい報告が届いた。
今回の変化は、生活観測区画とも無関係とは言い切れないものだった。
学院長はすぐ子供のもとへ向かわず、まずアリシア、ミレイ、セレナ、外周にいるカイルへ状況を共有した。
「外へ出た光の一つが移動した」
「どこへ?」
アリシアが尋ねる。
「香りの植物へ近づいた方だ」
「もっと植物へ?」
「いや。植物からではない」
「じゃあ?」
「生活観測区画の方向だ」
アリシアの胸が強く鳴った。
「ここ?」
「正確には学院地下の東側通路だ。昨日までより、この区画へ近づいている」
「どうして」
「分からない」
「子供と関係が――」
「決めるな」
学院長の声は強くなかった。
けれど、止めるには十分だった。
アリシアは一度息を整える。
「うん」
「最初に外へ出た光は、旧排水路の危険区域前に残っている。内部の文字環近くにいる光も大きくは動いていない」
「接続は?」
「低い。第四の声は呼びかけを続けているが、東側へ進んでいる光との新しい接続は確認されていない」
「人間側が作った道を進んでる?」
「直接誘導してはいない。既存の乾燥通路だ」
「危険は?」
「現時点では低い」
「止める?」
「介入条件には達していない」
アリシアの胸には、安堵と不安が同時に残った。
「生活観測区画へ来るかもしれない?」
「可能性はある」
「子供へ伝える?」
「本人と関係する可能性はある。ただし、今すぐ背負わせる必要があるとも限らない」
アリシアは朝からの様子を思い返した。
白い花。
甘い黄色。
鳥。
箱。
それから、何でもない会話。
生活。
「今は疲れてない。聞きたいかどうかを聞いてみる」
「任せる」
生活観測区画へ戻ると、子供は顔のない存在と木片を転がしていた。
今日は何度か交互に続いている。
人影が返す。
子供が返す。
もう一度、人影が返す。
けれど三度目は足元で止まり、そのまま人影の手が木片から離れた。
「終わり?」
返事はない。
「今は?」
十一の光の一つが揺れる。
「今は終わり?」
人影の手は、もう木片へ伸びない。
「終わりに見える」
子供はそう言って、自分の前へ木片を戻した。
「私はまだやりたい」
「うん」
「じゃあ、一人でやる」
「うん」
アリシアはそのそばへ座った。
「話していい?」
子供はすぐこちらを見る。
「西側?」
「うん」
「何かあった?」
「うん」
「悪い?」
「分からない」
「怖い?」
「私は少し」
子供は木片を自分の前へ置いた。
「じゃあ、聞く」
「疲れてない?」
「今は大丈夫」
「外へ出た光の一つが、学院の東側へ少しずつ移動してる。この区画にも、前より近い」
子供の身体がわずかに硬くなった。
「私?」
「分からない」
「この人?」
「分からない」
「香り?」
「分からない」
「人?」
「それも分からない」
子供が少し口を尖らせる。
「分からない、いっぱい」
「うん」
「来る?」
「このまま同じ方向へ進めば、近くを通る可能性はある」
「ここ、入る?」
「今のままでは入れない」
「止める?」
「外周までは、危険がなければ止めない。でも生活観測区画へ直接入るところまでは、今は止めると思う」
子供の顔が固くなる。
「学院長?」
「安全確認が必要だから」
「でも、光は来たいかも」
「うん」
「分からないけど」
「うん」
「来たいなら、止める」
「うん」
子供は少し怒ったように黙った。
顔のない存在の胸で、十一の光がゆっくり揺れる。
「嫌」
「聞いた」
「でも」
子供はすぐに続ける。
「私も、知らない光が急にこの部屋へ来たら怖い」
「うん」
「止めるのも嫌。でも来るのも怖い」
「うん」
「両方」
「うん」
「また」
「うん」
「面倒」
「うん」
子供は少し笑った。
怒っている。
怖い。
興味もある。
どれか一つが本当なのではなく、全部が同時にある。
「どうする?」
アリシアが尋ねる。
「見たい」
「近くで?」
「分からない」
「今、そこだけ決めてほしい?」
子供はしばらく考えたあと、小さくうなずいた。
「一つ」
「分かった。じゃあ、光が外周まで来たら、直接この部屋へは入れずに、近くへ別の小さい観測場所を作る」
「隣?」
「少し離す」
「見える?」
「直接見える形にできるかは、まだ分からない」
「水なし?」
「うん」
「鏡なし?」
「うん」
「名前なし?」
「うん」
子供は少し迷ってから、さらに尋ねた。
「光も、閉じ込める?」
アリシアはすぐには答えなかった。
言葉を柔らかくするために誤魔化してはいけない。
「安全のために、出入口を制限するかもしれない。だから、少しはそうなる」
「嫌」
「うん」
「でも、急にここへ来るのも怖い」
「うん」
子供は棚の下へ目を向けた。
今は見えない。
でも、そこに箱がある。
「箱みたい」
「何が?」
「光を、いったん別の場所へ置く」
「うん」
「閉じ込める。でも、あとで開ける」
「そうできるようにする」
「期限は?」
「作る」
「理由は?」
「光へ直接は伝えられないかもしれない」
「声ない」
「うん。でも、人間側はどうして止めたか残す」
「嫌って動いたら?」
「見る。すぐに『正しいから我慢して』とは決めない」
子供は、完全ではないながらも少し納得したようだった。
「じゃあ、それ」
「分かった」
「でも私、見たいって思った。来ないでっても思った」
「うん」
「両方」
「うん」
「記録する?」
「したい?」
「しない」
「分かった」
そのやり取りを、顔のない存在がどう受け取っているかは分からない。
ただ、十一の光のうち一つが少し強く揺れた。
「この人は」
子供が人影を見る。
「光が来たら、怖い?」
反応はない。
「会いたい?」
それにも反応はない。
「分からない」
子供は自分でうなずく。
「この人は、この人。私が会いたいって思っても、同じじゃない」
「うん」
午後。
東側へ進む光のために、学院地下の空き部屋が一つ準備されることになった。
生活観測区画から二つ通路を隔てた場所にある、長く使われていなかった小部屋だった。
ただし、そこへ「第二生活観測区画」や「光保護室」といった役割を先に与える名前は付けない。
記録上は、東側地下空室。
それだけ。
土の神器継承者が室内を確認する。
窓はない。
水もない。
机や椅子も置かない。
空のまま。
「何を置く?」
結界術師が尋ねる。
「最初は何も置かない」
学院長が答える。
「香りも?」
「置かない。まだ生活する存在だと決まったわけではない」
「なら、空間だけ?」
「そうだ」
「閉じ込めることにはなりませんか」
「出入口を二つ残す」
生活観測区画とは反対方向へ抜ける道。
そして、元の通路へ戻る道。
「戻れる?」
「必要なら」
「両方とも結界?」
「通過できる状態で監視する。ただし、生活観測区画側だけは、安全確認が終わるまでその先を閉じる」
「見直す期限は?」
「到着後、最初の鐘までに一度判断する。反応が変われば、それ以前でも見直す」
完全な袋小路にはしない。
入る。
戻る。
そこへ留まる。
通り過ぎる。
何もしない。
できるだけ、光自身の動きが残る形にする。
「でも」
若い術師が尋ねた。
「光が、そもそもこの空室へ入りたくなかったら?」
「入れない」
「誘導は?」
「しない。光も香りも置かない。魔力も最小限にする。人も遠ざける」
そこはただ、道の途中にある空間でしかない。
光は東側の乾燥通路を、ゆっくり進んでいた。
一度進み。
止まる。
また少し進む。
人間側は十分な距離を取り、誰も呼ばない。
遠く西側貯水槽から、第四の声だけが届いた。
「戻れ」
光が止まった。
観測者たちの身体に緊張が走る。
「接続は?」
「低いままです」
「戻る?」
「分かりません」
「なら待つ」
誰も動かなかった。
こちらへ来いとも。
戻るなとも。
何も言わない。
しばらくして。
光は再び東へ進んだ。
「移動再開」
「記録します」
生活観測区画では、外から一度鐘が鳴った。
「近い?」
子供が尋ねる。
「前より近い」
「ここ?」
「まだ二つ通路向こう」
「見えない」
「うん」
「匂いも?」
「たぶん届かない」
「声もない」
「うん」
子供は少し胸へ手を置いた。
「でも、いる?」
「そう見える」
「近いのに見えない」
「うん」
「見てなくても、いる」
「うん」
水の外へ出たばかりの頃。
子供は何度も確かめていた。
誰かが見ていなくても。
触れていなくても。
呼んでいなくても。
存在は消えない。
「光、見てない」
「うん」
「でも、いる」
「うん」
「近づかなくても、いる」
「うん」
子供は少し息を吐いた。
「なら、今は見なくていい」
アリシアは少し驚く。
「見たいって言ってた」
「うん」
「変わった?」
「うん」
「どうして?」
「近いって分かったら、怖くなった」
子供は少しだけ苦笑した。
「でも、見たいのもある」
「うん」
「だから、今は見ない」
「うん」
「あとで変えていい」
「うん」
光が近づいたからこそ、急いで会わなくてもいい。
遠くにいたときは見たいと思った。
近くまで来れば怖くなった。
どちらも、そのときの自分の本当だった。
午後遅く。
光は東側地下空室の前まで到達した。
入口は開いている。
中には何もない。
人間たちは遠くへ下がっている。
「入るか」
誰かが小さく呟いた。
「呼ぶな」
サーラがすぐに注意する。
「はい」
光は入口の前で止まった。
すぐには進まない。
空室。
元来た通路。
さらに先。
どの方向にも動ける位置で、長く留まる。
「どっちへ行くか、こちらで決めない」
サーラが静かに言った。
光が少しだけ右へ動き、空室の入口へ近づく。
「入る?」
「まだです」
境目で、また止まった。
「結界は?」
「通過可能」
「第四の声の反応」
「なし」
「光の魔力は?」
「安定しています」
やがて。
光の半分ほどが、空室の中へ入った。
「入った」
「静かに」
残った輪郭も、時間をかけるようにゆっくり進む。
やがてすべての光が内側へ収まった。
人間側は何もしない。
「入口を閉じますか」
「まだだ」
学院長が答える。
「戻るかもしれない」
「逃げても?」
「今の外側通路は安全だ。それから『逃げる』とも決めるな」
「はい」
「元の通路側は開けておく。生活観測区画側は予定通り、その先を閉じたまま」
「一方通行にはしない?」
「しない」
光は空室の中央近くへ進み、そこで止まった。
壁にも。
天井にも。
床にも。
何もない。
それでも、そこへ留まっている。
「保護対象ですか」
若い術師が尋ねる。
学院長は少し考えてから答えた。
「守る必要はある。ただし今は、この空間に留まっている光だ。それ以上は決めない」
「持ち主も、名前も、役割も?」
「決めない」
「閉じ込めない?」
「安全確認のために制限はする。だが、戻る道までは奪わない」
その報告が、生活観測区画へ届いた。
「入った」
子供が確認する。
「うん」
「ここじゃない」
「二つ向こう」
「止まった?」
「うん」
「戻れる?」
「元の通路は開いてる」
「こっちは?」
「生活観測区画側は閉じてる」
子供は少し眉を寄せた。
「私が怖いって言ったから?」
「それもある」
「光が来たかったら?」
「今は入れない」
「嫌」
「うん」
子供はしばらく黙った。
嫌。
でも。
怖い。
その両方を、自分でももう知っている。
「……でも、今は怖い」
「うん」
「じゃあ、閉じてていい」
「今は」
「うん。あとで変えられる」
「うん」
「私が会いたくなったら?」
「それだけで開けるとは約束できない。安全も確認する」
「面倒」
「うん」
子供は少し笑った。
「第四の声より?」
「いっぱい聞く」
「うん」
「だから面倒」
「うん」
「でも」
少し考え。
「変わる」
「うん」
夜。
東側地下空室では、名前のない光が中央近くへ留まり続けていた。
香りはない。
水もない。
音もない。
名前も。
文字もない。
人間たちは遠くから監視しているだけだった。
第四の声は、さらに遠く西側貯水槽から呼びかける。
「戻れ」
光が小さく揺れる。
しかし、動かない。
「名を受けよ」
また揺れる。
「帰属なき存在は、消える」
そのとき、光がわずかに暗くなった。
「魔力値低下」
観測者の声に、周囲の空気が張り詰める。
「介入条件は?」
「まだです。輪郭は維持しています」
「第四の声との接続は」
「上昇なし」
「なら待つ」
誰も魔力を与えなかった。
誰も、消えるなと呼びかけなかった。
誰も、明るくしようとしない。
光が本当に弱っているのか。
何かを変えようとしているのか。
ただ暗くなっただけなのか。
まだ分からない。
しばらくして。
暗くなっていた光は、外部から何も与えられないまま、少しだけ明るさを戻した。
「回復?」
「そう見えます」
「自力?」
「分かりません」
「記録は?」
「一度暗くなった。その後、外部介入なしで明るさが一部回復。それだけで」
「はい」
生活観測区画では、子供が眠る前に棚の下へ目を向けていた。
木箱は見えない。
けれど、そこにある。
「アリシア」
「うん」
「箱、ある?」
「ある」
「見てないのに?」
「ある」
「光も?」
「うん」
「見てない」
「うん」
「でも、いる」
「うん」
子供は少し考えた。
「私、会わないって決めた」
「今は」
「うん」
「見捨ててない?」
「うん」
アリシアは、はっきりと答えた。
「会わないことと、見捨てることは違うよ。怖いって言って距離を取ることも、相手をいなかったことにするのとは違う」
「光、怒るかも」
「うん」
「嫌がるかも」
「うん」
「それでも?」
「今の子供が怖いなら、その怖さまで消さなくていい」
子供は長く黙った。
窓の外は、もう夜。
顔のない存在は隣の寝台へいる。
棚の下には箱。
二つ通路向こうには、名前のない光。
「明日、まだ怖かったら?」
「会わなくていい」
「見たくなったら?」
「方法を考える」
「光が、こっちへ来たいなら?」
「その反応も見る」
「全部、一緒に?」
「うん。でも全部を同じにはしない」
子供は目を閉じた。
「おやすみ」
「おやすみ」
顔のない存在の胸で、十一の光のうち一つが静かに揺れた。
子供はそれを見たが、もう起こそうとはしなかった。
同じ夜。
西側貯水槽では、別の光が文字環の近くへ戻ったように見える位置で留まっていた。
最初に外へ出た光は、香りの植物から距離を取った場所へ残っている。
内部のほかの光たちも、それぞれ別の場所で動き、止まり、ときには中央へ近づき、ときには遠ざかっていた。
第四の声は、変わらず呼び続ける。
「一つへ」
返事はない。
「中央へ」
返事はない。
「帰属せよ」
返事はない。
そして夜半。
東側地下空室に留まっていた光が、初めて生活観測区画側の閉じた通路へ動いた。
ゆっくり。
少しずつ。
壁際から離れ。
空室の中央を越え。
閉じた通路の方へ近づく。
観測者たちの呼吸が浅くなった。
「移動」
「生活観測区画側です」
「結界は?」
「維持」
「開ける?」
誰かが尋ねる。
学院長はすぐには答えなかった。
子供は、今は会わないと決めている。
光は、こちらへ進んでいるように見える。
どちらも消してはいけない。
「開けない」
「追い返しますか」
「それもしない」
「では」
「見る」
光は、閉じた結界の少し手前で止まった。
それ以上は進めない。
後ろへ戻ろうと思えば、戻れる。
空室の反対側。
元の通路は、今も開いている。
第四の声のいる西側へ完全に戻る道も、遠くには残っている。
けれど光は戻らなかった。
結界の前へ留まる。
一分。
二分。
それより長く。
「開けた方が」
若い術師が小さく言いかけた。
サーラが視線だけで止める。
「子供は今、会わないと決めています」
「でも光は」
「来たいとは決まっていません」
「ここまで来た」
「行動としては」
「なら」
「ここまで来たことを奪わない。だから追い返さない」
「でも開けない」
「子供の怖さも奪わない」
若い術師は黙った。
どちらか一つへ合わせれば簡単だった。
光が来たのだから、子供へ会わせる。
子供が怖いのだから、光を遠ざける。
けれど、そのどちらも一方の動きだけを正しいものにしてしまう。
「明日の朝」
学院長が言った。
「子供へ伝える」
「それまで?」
「このまま」
「光が暗くなったら?」
「介入条件に達すれば安全措置を取る」
「戻ったら?」
「止めない」
「進もうとしたら?」
「結界は開けない。ただし、その動きは残す」
夜は長かった。
光は何度か小さく揺れた。
それでも、元の通路へ戻らない。
かといって結界へぶつかることもなかった。
ただ、その手前へ留まり続けた。
戻れる場所はある。
戻る道も閉じられていない。
そこが知っている場所なのかもしれない。
第四の声がいる。
名前がある。
帰属を与えられる。
迷わずに済むかもしれない。
それでも。
戻れることと。
戻らなければならないことは違う。
前へ進めないことと。
後ろへ戻ることもまた、同じではない。
光は閉じた道の前で止まった。
後ろへも行かず。
前へも進めず。
その場所へ留まる。
誰かに待てと命じられたわけではない。
戻れという声には従わず。
こちらへ来いという声もない。
ただ、自分が今いる場所にある。
人間側はそれを「迷っている」とは記録しなかった。
「生活観測区画側の閉鎖結界前まで移動。その後、位置変化なし」
それだけ。
夜がさらに深くなる。
生活観測区画では、子供も顔のない存在も眠っているように見えた。
棚の下には、戻りたい気持ちを置いた箱がある。
箱は、開いていない。
捨ててもいない。
戻りたい気持ちそのものも、消えてはいない。
けれど子供は、今ここで眠っている。
東側地下空室では。
名前のない光もまた、戻れる道を後ろへ残したまま、戻らずにいた。
戻る場所がある。
だから安心できることもある。
けれど。
戻る場所があるからといって、そこへ戻らなければならないわけではない。
その夜。
子供と光は、互いを見ることもなく。
同じ学院地下の少し離れた場所で。
どちらも戻れる場所を持ちながら。
それでも今いる場所を離れずに。
静かに朝を待っていた。




