第118話 会いたいと思ったからといって、今日会わなければならないわけではない
翌朝、生活観測区画の窓へ最初の光が差し込んだとき、子供はまだ眠っていた。
昨日より雲は少なく、東の空には淡い青色が戻り始めている。夜の冷気を残した窓硝子は少し白く曇っていたが、水滴になるほどではなく、結界術師が夜明け前に確認した範囲でも第四の声につながる反応は一つも出ていなかった。
アリシアは窓際の椅子へ座ったまま、外の空と二つの寝台を交互に見ていた。
子供は横向きになって眠っている。
その隣では、顔のない存在も寝台へ身体を横たえていた。眠っているのか、それともただ動かないでいるだけなのかは分からない。胸の十一の光は昨夜と同じ数を保ち、ときどき幾つかがゆっくりと明るさを変えている。
そして、生活観測区画から二つ通路を隔てた東側地下空室。
そこにも、別の光がいる。
夜半に生活観測区画側の閉鎖結界まで近づき、そのまま朝まで戻らなかった光。
アリシアはその報告を、夜明け前の交代時に聞いていた。
『考えている顔ね』
床の無地の布へ丸くなっていたノアが、目を閉じたまま言った。
「起きてた?」
『あなたが椅子の上で落ち着きなく三回座り直した辺りから』
「三回も?」
『正確には四回』
「見てたんだ」
『猫はよく見ているのよ』
アリシアは少しだけ肩を落とした。
「光、まだ結界の前にいる」
『聞いたわ』
「戻らなかった」
『ええ』
「子供がここにいるって分かったのかな」
『分からない』
「うん」
『そこで勝手に物語を作らなかったのは成長ね』
「褒めてる?」
『かなり』
珍しく毒のない言葉に、アリシアは少しだけ笑った。
しかし笑みはすぐに小さくなる。
「でも、もし会いたいなら」
『会わせたい?』
「……少し」
『子供は?』
「昨日は怖いって言った」
『それが今朝も同じとは限らない』
「うん」
『だから聞く』
「でも、聞くことも疲れる」
『ええ』
ノアが片目を開けた。
『なら、起きてすぐ聞かないことね』
アリシアは子供を見る。
「朝ごはんとか?」
『昨日までの生活を先にすればいいでしょう。光が来たからといって、朝まで光のものにする必要はないわ』
「うん」
『あなたたちは異変が起きるたび、一日の中心を異変へ渡しすぎるのよ』
「学院だから」
『生活観測区画でしょう?』
言われて、アリシアは黙った。
ここは作戦室ではない。
観測室でもない。
子供が食べ、眠り、遊び、何もしない時間を過ごすために作った部屋。
光が近づいたからといって、その意味まで変える必要はない。
やがて寝台の中で、子供の指が少し動いた。
瞼が開く。
最初に天井を見たあと、いつものように隣へ目を向ける。
「いる」
小さな声。
顔のない存在の十一の光が、一つだけ揺れた。
「朝」
子供が続ける。
今度は三つが明るくなる。
「聞いてるように見える」
自分からそう言い直してから、子供はアリシアへ気づいた。
「おはよう」
「おはよう」
「アリシア、起きてた」
「少し前から」
「寝た?」
「寝た」
「本当?」
「ノア」
『寝ていたわ』
「寝てたって」
「よかった」
子供は布団から出ようとして、途中で棚の下へ目を向けた。
木箱は見えない。
けれど、その場所を一度確認する。
「箱、ある?」
「あるよ」
「うん」
昨日と同じ問い。
でも今日は、それ以上続けなかった。
戻りたい気持ちが消えたのか。
まだあるのか。
アリシアも尋ねない。
子供が自分から話したくなったときまで、箱は棚の下にあっていい。
寝台を降りた子供は、白い花の前へ向かった。
花は、昨日よりさらに乾いていた。
残っていた白い部分にも薄い茶色が広がり、花弁は細く縮んでいる。触れれば砕れてしまいそうなほどではないものの、最初にこの部屋へ運ばれたときとはもうまったく違う姿だった。
「白い花」
「うん」
「もっと変わった」
「うん」
「匂い」
子供は鼻を近づける。
少し待つ。
「弱い」
「昨日より?」
「たぶん」
「覚えてる?」
「少し」
「今日は?」
「覚えたい」
「記録する?」
アリシアは確認する。
子供は首を横へ振った。
「私が覚える」
「忘れても?」
「怒らない」
「うん」
子供は花を見ながら、少しだけ口元を緩めた。
「でも、忘れたら寂しいかも」
「それも、そのとき?」
「うん」
以前なら、忘れないためにすべてを書き残すか、忘れてしまうなら最初から持たないか、どちらかへ寄っていたかもしれない。
今は。
覚えたい。
でも、記録しない。
忘れたら寂しいかもしれない。
それでも、今はそうしたい。
幾つもの気持ちが並んだまま残っている。
「甘い黄色」
子供が次に言った。
「今日はないよ」
「昨日、食べた」
「うん」
「好きだった」
「うん」
「今日も食べたい」
「治療教師に聞いてみる?」
「うん」
そこへ、顔のない存在がゆっくり上体を起こした。
「おはよう」
子供が振り返る。
頭が少し子供へ向く。
「今日は鳥、まだ見てない」
人影の頭が窓の方へ動いた。
「見たい?」
返事はない。
「私は見たい。でも、甘い黄色も食べたい」
アリシアが少し笑う。
「朝ごはんもね」
「またいっぱい」
「うん」
子供は少し困った顔をしてから、人影を見る。
「朝ごはん先にする?」
反応はない。
「私は、先に食べる」
人影へ決定を求めず、自分の予定だけを決める。
「鳥が来たら」
窓を見る。
「見られないかも」
「うん」
「でも、昨日も見た」
「うん」
「今日見なくても、鳥いなくならない?」
「たぶん」
「たぶん」
「世界中の鳥のことまでは約束できないから」
「面倒」
「うん」
子供は笑った。
その声に、十一の光が幾つか揺れる。
朝食にはいつもの粥と根菜、それから少量の塩が用意された。
甘い黄色は、治療教師が昨日と同じ種類のものを新しく一片だけ持ってきた。
「同じ?」
子供がすぐ尋ねる。
「同じ種類です」
「昨日の?」
「別のものです」
「味は?」
「食べてみないと分かりません」
「名前は同じ?」
「はい」
子供は果実を見る。
「じゃあ、昨日と同じ名前。でも違う甘い黄色」
「そうですね」
少量を口へ入れる。
ゆっくり味わう。
「昨日より」
一度止まる。
「少し、酸っぱい」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「好き?」
「昨日の方が好き。でも、これも好き」
「今は?」
「うん。今は」
子供は二口目を食べたあと、自分から匙を置いた。
「あと」
「残しますか」
「うん」
「昼まで?」
「うん」
昨日と同じように保存する。
同じ手順。
でも。
同じ味ではない。
同じ選択でもない。
食事を終えたあと、子供は窓へ向かった。
鳥はいなかった。
「来なかった」
「食べてる間に来たかも」
「見てない」
「うん」
「でも」
子供は昨日までの自分の言葉を思い出したように、少し笑う。
「見てなくても、いたかも」
「うん」
顔のない存在も、今日は自分から寝台を降りた。
窓まで歩こうとして、四歩目で止まる。
昨日より二歩多い。
だが、子供は数えたあと、すぐに言い直した。
「昨日より多い」
「うん」
「でも、昨日と同じじゃない」
「うん」
「朝も違う」
「うん」
人影は床へ座った。
子供も、少し離れて座る。
「今日はここ」
胸の十一の光が一度揺れた。
窓の外を、少し遅れて一羽の鳥が横切る。
「あ」
子供が指を上げる。
人影も、少し遅れて指を上げる。
「見えた?」
返事はない。
「私は見た」
今度はそれで終わる。
十二個目の光は増えなかった。
子供は胸の光を一度数えただけで、それ以上気にしなかった。
「十一」
「うん」
「昨日と同じ」
「うん」
「でも今日、鳥見た」
「うん」
「じゃあ、光増えなくても今日ある」
「うん」
そうして朝の生活が一段落したところで、学院長が外から声をかけた。
「話してよいか」
子供が振り返る。
「西側?」
「関係する」
「光?」
「そうだ」
子供の身体が少しだけ硬くなる。
アリシアはすぐに口を出さない。
「今、聞ける?」
学院長が尋ねる。
子供は白い花。
木片。
顔のない存在。
窓。
それらを一度見てから答えた。
「少しなら」
「長くはしない」
「うん」
学院長は生活観測区画へ入らず、扉の外に立ったまま話した。
「昨夜、東側地下空室へ入った光が、生活観測区画側の通路へ近づいた」
子供の目が大きくなる。
「ここ?」
「この区画へ続く結界の手前まで」
「来た?」
「そう見える」
「入った?」
「入れていない」
「止めた?」
「結界を開けなかった」
「光、ぶつかった?」
「いいえ」
「戻った?」
「戻っていない」
子供の顔から、少しずつ表情が消える。
「朝まで?」
「はい」
「ずっと?」
「位置変化はほとんどない」
「私?」
子供が胸へ手を置く。
「分からない」
学院長は即答した。
「顔のない存在?」
「分からない」
「ここ?」
「何を目的に近づいたかは分からない」
「でも」
子供は少し息を速くする。
「近い」
「うん」
アリシアが答える。
「二つ向こう?」
「うん」
「昨日より」
「うん」
「見たい?」
アリシアはあえて尋ねなかった。
学院長も待つ。
子供が自分の手を見る。
「怖い」
「聞いた」
アリシア。
「でも」
しばらく沈黙。
「会いたい」
初めて。
はっきりと。
子供自身が言った。
「うん」
「昨日、見たくないって言った」
「うん」
「でも、今は会いたい」
「うん」
「変?」
「変じゃない」
「昨日、間違い?」
「違う」
「今日も、あとで変わる?」
「変わるかもしれない」
「じゃあ」
子供は眉を寄せる。
「今会わないと」
「うん」
「また怖くなるかも」
「うん」
「会いたいの、消えるかも」
「うん」
「だったら」
すぐ会いたい。
その言葉が出かけている。
けれど子供は止まった。
昨日まで学んだことが、簡単な答えを止めている。
「会いたいと思ったら」
「うん」
「すぐ会う?」
アリシアは少し考えた。
「私は、そうしないこともある」
「どうして?」
「会いたくても、怖いことあるから」
「アリシア、人見知り」
「うん」
「好きな人でも?」
アリシアの顔が少し赤くなる。
「それは……」
『そこで詰まるのね』
「ノア、黙って」
「何て?」
「何でもない」
子供が少し笑った。
「でも」
アリシアは続ける。
「会いたいって思ったことと、今日会うって決めることは、別でもいいと思う」
「会いたいのに?」
「うん」
「会わない?」
「うん」
「気持ち、嘘?」
「違う」
「じゃあ」
子供は長く考える。
「会いたいって思ったまま、会わない?」
「できる」
「面倒」
「うん」
学院長が口を挟む。
「安全面だけを言えば、今日すぐ直接対面させる許可は出さない」
子供がそちらを見る。
「止める?」
「止める」
「私が会いたいって言っても?」
「今は」
「嫌」
「聞いた」
「でも理由」
「まだ光の性質が分からない。子供や顔のない存在へ近づいたとき、接続が起きる可能性がある」
「第四の声?」
「その可能性もある」
「黒月?」
「接続ができれば、黒月で切ることになるかもしれない」
子供の身体が少し強張る。
「嫌」
「だから、会わせない?」
「今すぐは」
「いつ?」
「今日中に、直接会わずに互いの反応を確認できる方法を考える」
「期限?」
「昼の次の鐘までに最初の案を出す」
「それまで」
「結界は閉じたまま」
「光、怒るかも」
「うん」
「戻るかも」
「止めない」
「消えるかも」
「介入条件に達すれば守る」
「私」
子供は胸を押さえる。
「会いたい」
「聞いた」
学院長は、いつものように否定しない。
「その気持ちは、結界を閉じたからといって消したことにはしない」
「でも、会えない」
「今は」
子供の目に不満が残る。
「第四の声も」
「うん」
「今はって言う?」
「言ったことはあるかもしれない」
「同じ?」
「同じ部分はある」
学院長は逃げなかった。
「違いを作るのは、あとで見直すことだ」
「昼の次の鐘」
「約束する」
「忘れない?」
「記録する」
「これは記録していい」
「分かった」
子供は少しだけ息を吐いた。
「じゃあ」
「うん」
「会いたいって思ったことは」
「どうする?」
「箱に入れない」
アリシアが少し驚く。
「どうして?」
「重くないから」
「うん」
「怖いけど」
「うん」
「持ってる」
「うん」
戻りたい気持ちは、少し重かった。
だから箱へ置いた。
会いたい気持ちは、怖さと一緒に胸へ置いておける。
同じ気持ちでも。
置く場所は同じではない。
昼前、東側地下空室の観測方法が変更された。
生活観測区画側の閉鎖結界。
その手前には光。
反対側には、人間。
直接の姿を見せない。
声も届かせない。
代わりに。
「空気?」
風の神器継承者が確認する。
「微弱な流れだけ」
学院長が答える。
「生活観測区画の空気を送る?」
「それはしない」
「なぜ」
「子供の匂い。顔のない存在の魔力。食べ物。全部混ざる」
「誘導になる?」
「可能性がある」
「では」
「ただ、二つの空間の間にある通路の空気を循環させる」
結界を開かない。
しかし完全に隔絶もしない。
壁一枚の向こうに別の空間があると、もし光が何らかの方法で感じられるなら。
その程度。
「意味ある?」
若い術師が尋ねる。
「分からない」
「それでも?」
「直接会わせるより危険が低い」
「子供へは?」
「同じことを説明する」
生活観測区画。
子供は話を聞きながら、少し不満そうに眉を寄せた。
「見えない」
「うん」
「声もない」
「うん」
「匂いも?」
「意図的には送らない」
「じゃあ、何も分からない」
「かもしれない」
「それで会う?」
「会うというより」
アリシアは言葉を探す。
「近くにいるまま、少しだけ間を薄くする?」
「間?」
「完全に閉じてる今より、空気だけ動く」
「光、分かる?」
「分からない」
「私、分かる?」
「たぶん風は感じるかも」
「それだけ?」
「うん」
子供は顔のない存在を見る。
「この人は?」
「同じ部屋にいるなら、一緒に感じる」
「怖い?」
「子供は?」
「少し」
「やめる?」
「……」
長く迷う。
「やる」
「決めた?」
「うん」
「途中で嫌になったら?」
「止めてって言う」
「分かった」
ただし。
顔のない存在の意思は、まだ分からない。
「この人」
子供が人影へ向く。
「近くの光と、空気だけつなげる」
胸の十一の光。
一つ。
揺れる。
「嫌?」
反応なし。
「やりたい?」
反応なし。
「分からない」
「うん」
「なら」
子供は少し悩んだ。
「この人まで巻き込む?」
アリシアも考える。
生活観測区画全体へ風を通せば、顔のない存在も対象になる。
「人影の寝台周りだけ、風を弱くする?」
「できる?」
「風の神器継承者なら」
「完全になし?」
「完全に分けると、新しい結界を作ることになる」
「それも閉じ込める」
「うん」
子供は、人影を見る。
「分からないのに」
「うん」
「どうする」
答えがない。
本人の意思が確認できない。
それでも生活の中では、周囲の環境は変わっていく。
「危険が低い範囲で」
学院長が扉の外から言う。
「区画全体へごく弱い風を通す」
「この人、嫌だったら?」
「光や行動の変化を見る」
「それだけ?」
「今できるのは」
「嫌」
「うん」
「でも」
子供は少し俯く。
「何も変えないのも、私が決めることになる」
アリシアが顔を上げた。
「この人の代わりに?」
「うん」
「風を入れるのも」
「うん」
「入れないのも」
「うん」
「どっちも決める」
「そうだね」
「じゃあ」
子供は苦しそうに考える。
「少ない方」
「変化が?」
「うん」
「弱い風だけ」
「うん」
「嫌そうなら止める」
「分かった」
午後。
生活観測区画と東側地下空室の間にある通路へ、ほんのわずかな空気の流れが作られた。
扉は閉じたまま。
結界も開けない。
ただ、石壁の上部にある古い換気孔だけを利用する。
風は弱い。
髪が動くほどでもない。
それでも。
「来た」
子供が言った。
「分かる?」
アリシアが尋ねる。
「少し冷たい」
頬へ手を当てる。
「今までと違う」
「怖い?」
「少し」
「止める?」
「まだ」
顔のない存在は、窓際の床へ座っている。
胸の十一の光。
大きな変化はない。
「この人」
「うん」
「変わらない」
「今は」
「嫌じゃない?」
「分からない」
「うん」
東側地下空室。
閉鎖結界の前にいた光。
そこにも、同じ通路の空気がわずかに届く。
「光の明るさ」
「変化なし」
「位置」
「変化なし」
「第四の声との接続」
「低値」
「なら」
「待つ」
一分。
二分。
長い。
何も起きない。
生活観測区画では、子供が少しずつ空気へ慣れていく。
「何もない」
「うん」
「会ってない」
「うん」
「でも、あっちにも同じ風?」
「同じ通路の空気」
「光も?」
「触れてる可能性はある」
「じゃあ」
子供は目を閉じる。
頬へ当たる、ほとんど分からない風。
「近い」
「うん」
「でも見えない」
「うん」
「会いたい」
「うん」
「でも」
少し間。
「今は、これでもいい」
アリシアは小さくうなずいた。
「うん」
そのとき。
東側地下空室。
光が、ごくわずかに動いた。
「移動!」
「どちらへ?」
「結界側です」
閉鎖結界へ。
指一本分。
それだけ。
「風への反応?」
「分かりません」
「空気流、変える?」
「変えない」
「近づけますか?」
「人間側からは何もしない」
光はそこで止まる。
生活観測区画側。
子供には、その変化をすぐ伝えなかった。
まず、介入条件。
危険なし。
接続上昇なし。
輪郭安定。
「報告する?」
アリシアが学院長へ確認する。
「子供は今、風を感じている」
「うん」
「知りたいと思う?」
「たぶん」
「たぶんで決めるな」
「うん」
「聞け」
アリシアは子供のところへ戻る。
「変化あった」
子供がすぐ目を開けた。
「光?」
「うん」
「聞く」
「少し、こっち側へ動いた」
「どのくらい?」
「ほんの少し」
「風?」
「分からない」
「私?」
「分からない」
「この人?」
「分からない」
「でも」
子供の顔が少し明るくなる。
「近づいた」
「行動としては」
「うん」
「会いたい?」
「分からない」
「うん」
以前なら。
光が近づいた。
だから自分に会いたい。
そう結びつけていたかもしれない。
今は。
近づいた。
そこまで。
「私」
子供が言う。
「もっと風、強くしたい」
「どうして?」
「光、もっと来るかも」
「誘導したい?」
子供が止まる。
「……うん」
「悪い?」
「分からない」
「来てほしいんだね」
「うん」
「じゃあ」
アリシアは急がない。
「来てほしいって思うことと、風を強くすることは別にする?」
「また別」
「うん」
「面倒」
「うん」
子供は少し悔しそうに顔をしかめる。
「でも」
「何?」
「私、来てほしい」
「うん」
「光は、来たいか分からない」
「うん」
「風強くしたら」
「うん」
「来るかもしれない」
「うん」
「でも、私が動かしたことになるかも」
「うん」
長い沈黙。
「じゃあ、今はこのまま」
「自分で決めた?」
「うん」
「嫌?」
「少し」
「変える?」
「今は、変えない」
アリシアは小さく息を吐いた。
子供は、会いたいと思っている。
来てほしいとも思っている。
それでも、その気持ちを相手の動きへ直接使わないことを選んだ。
夕方まで。
風は弱いまま維持された。
光は、それ以上近づかなかった。
生活観測区画の子供も、途中から風のことばかり考えなくなった。
木片を転がす。
白い花を見る。
昼に残していた甘い黄色を食べる。
今日は朝より少し甘く感じた。
「変わった?」
「保存したから温度が変わったのかも」
「昨日も違った」
「うん」
「同じ甘い黄色、毎回違う」
「うん」
顔のない存在へ木片を転がす。
一度目は返ってくる。
二度目も。
三度目は止まる。
「今日は三回?」
子供は数えてから、少し笑った。
「昨日と同じか分からない」
「記録してないからね」
「でも、今は三回」
「うん」
人影の胸。
十一の光。
増えない。
減らない。
それでも。
木片を返した。
窓を見た。
風に触れた。
今日がある。
夕方。
学院長が約束した通り、最初の判断を伝えた。
「直接対面は、今日は行わない」
子供が少し不満そうに顔を上げる。
「どうして」
「光の性質がまだ不明。接続値は低いが、距離を縮めたときの反応を判断できる情報が足りない」
「明日?」
「明日、もう一度見直す」
「約束?」
「はい」
「私、会いたい」
「聞いた」
「今日じゃなくていい?」
今度は。
学院長へではなく。
自分へ尋ねるような声だった。
アリシアは答えを急がない。
子供はしばらく黙り、自分で続ける。
「今日、会いたいって思った」
「うん」
「でも今日、会わなかった」
「うん」
「消えた?」
「どう?」
「まだ会いたい」
「うん」
「じゃあ」
少しだけ笑う。
「今日会わなくても、会いたいは残る」
「うん」
「明日、変わったら?」
「変わった」
「それでいい?」
「うん」
「会いたくなくなっても?」
「うん」
「今日の会いたい、嘘じゃない?」
「嘘じゃない」
子供の肩から、少し力が抜けた。
「なら」
「うん」
「今日は会わない」
「うん」
「でも、見捨てない」
「うん」
「光も、戻ってない」
「うん」
「近づいた」
「うん」
「今は、間に壁ある」
「うん」
「壁あっても」
「うん」
「いる」
「うん」
夜。
生活観測区画側の換気は、一度止められた。
理由は単純だった。
子供が眠る時間だから。
「止める?」
「うん」
「光、離れるかも」
「うん」
「嫌?」
「少し」
「続ける?」
子供は考える。
「寝たい」
「うん」
「風、少し気になる」
「じゃあ止める」
「光に、何も言わない?」
「言えない」
「うん」
「でも、明日また?」
「安全なら」
「うん」
風が止まる。
東側地下空室。
光は、すぐには動かなかった。
「位置変化なし」
「接続?」
「なし」
「暗くなる?」
「今のところなし」
生活観測区画では。
子供が寝台へ入る。
「アリシア」
「うん」
「今日」
「うん」
「会いたかった」
「うん」
「会わなかった」
「うん」
「嫌だった」
「うん」
「でも」
少し考える。
「明日ある」
「うん」
「明日、会わないかも」
「うん」
「それでも、明日」
「うん」
子供は隣の寝台を見る。
顔のない存在は、まだ座っている。
「この人」
「うん」
「光、近い」
「うん」
「会いたいと思ってるか、分からない」
「うん」
「明日、聞く?」
「反応を?」
「うん」
「聞き方、考える?」
「うん」
「今は?」
子供は布団を少し引き上げた。
「寝る」
「うん」
「決めない」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
顔のない存在の十一の光が、静かに揺れた。
そのあと。
人影はすぐには横にならなかった。
窓。
子供。
閉じた扉。
それぞれへ顔のない頭をゆっくり向ける。
そして。
しばらくしてから。
扉の方へ手を伸ばした。
アリシアの身体が少しだけ強張る。
「外?」
反応はない。
「光?」
十一のうち、一つが強くなる。
「東側の?」
変化なし。
「分からない」
アリシアは、自分で言った。
人影の手は、扉の方向へ伸びたまま。
しかし。
立ち上がらない。
進まない。
ただ。
指先だけが。
閉じた扉の方を向いている。
「行きたい?」
アリシアは尋ねかけ。
止めた。
子供は眠り始めている。
今。
答えを急がなくていい。
「明日」
アリシアは小さく言う。
「また、見る」
十一の光。
一つ。
揺れる。
東側地下空室。
名前のない光も。
生活観測区画側の閉鎖結界の前へ。
留まっている。
風はもう止まった。
それでも。
戻らない。
進まない。
二つの空間。
間に。
通路。
結界。
石壁。
そして。
互いが何を望んでいるのか。
まだ。
分からない。
人間側は。
その分からなさを。
今夜も。
埋めなかった。
会いたい。
でも。
今日会わない。
近づきたい。
でも。
誘導しない。
相手も同じかもしれない。
でも。
決めない。
明日まで待つ。
それは。
今日の気持ちを軽く見ることではない。
今日の「会いたい」を。
今日のうちに使い切らず。
明日まで持っていてもいいと。
初めて知ることだった。
夜が深くなる頃。
顔のない存在は。
ようやく扉へ向けていた手を下ろした。
寝台へ横になる。
東側地下空室の光も。
少しだけ。
結界から距離を取った。
それは。
戻ったのか。
休んだのか。
気が変わったのか。
誰にも分からない。
ただ。
元の通路へは帰らなかった。
生活観測区画からも離れきらなかった。
閉じた道の少し手前。
昨日とは。
ほんの少し違う位置。
そこで。
光はまた止まった。
そして。
生活観測区画では。
子供が眠り。
顔のない存在も横になり。
棚の下には箱があり。
乾いた白い花は。
今日も。
捨てられずに残っている。
会いたいと思った。
それでも。
会わなかった。
戻れる場所もある。
進みたいかもしれない場所もある。
けれど。
今日。
どちらかを選ばなくてもいい。
そうして。
二つの場所にいる名前のない存在たちは。
互いの姿を一度も見ないまま。
それでも昨日より少し近い場所で。
それぞれの夜を過ごした。




