第119話 相手がそこにいると知るだけなら、まだ会わなくてもできる
翌朝、生活観測区画の窓には、昨日よりも少し強い光が差し込んでいた。
薄い雲はまだ空に残っているものの、東側にはところどころ淡い青が覗いている。庭の石畳へ落ちる光も昨日より輪郭がはっきりしていて、窓枠の影が床の上へ細長く伸びていた。
子供が目を覚ましたとき、最初に見たのはその朝の光ではなかった。
何度か瞬きをしてから、ゆっくり隣の寝台へ顔を向ける。
顔のない存在は、まだ横になっていた。胸に浮かぶ十一の光も昨夜と変わらず残っており、消えたものは一つもない。
「いる」
子供が小さく呟くと、十一の光の一つがゆっくり揺れた。
「朝」
今度は、知らせるように窓の方へ目を向けながら言う。
二つの光が、少し遅れて明るさを変えた。
「聞いてるように見える」
そこまで言ってから、子供は布団の中で少し身体を丸めた。
すぐに起き上がろうとはしない。
昨日の夜、顔のない存在が扉の方へ手を伸ばしたことを、子供はまだ知らなかった。
そして、東側地下空室にいる名前のない光も、昨夜いったん閉鎖結界からわずかに距離を取ったあと、元の通路へは戻っていない。今朝になっても生活観測区画側に近い場所へ留まり続けている。
その報告を、アリシアは子供が目を覚ます少し前に受けていた。
けれど、起きた直後には伝えなかった。
ノアから言われたことを、今日は最初から覚えている。
何か異変が起きたからといって、生活観測区画の朝まで、その異変へ差し出さなくてもいい。
「おはよう」
少し離れた椅子からアリシアが声をかけると、子供が振り返った。
「おはよう」
「よく眠れた?」
以前ならそう尋ねていたかもしれないが、アリシアは一度言葉を飲み込み、少し変えた。
「寝た?」
「寝た」
「途中で起きた?」
「たぶん、一回」
「怖かった?」
子供は少し考えたあと、首を横へ振る。
「今日は、そんなに」
「うん」
すると子供が、今度はアリシアをじっと見た。
「アリシアも寝た?」
「寝た」
「本当?」
「本当」
床へ敷かれた無地の布の上で丸くなっていたノアが、片目だけを開ける。
『今日は私へ確認しなくてもよさそうね』
「ノアが、今日は本当だって」
『勝手に意味を変えないでちょうだい』
「何て?」
子供がすぐに尋ねる。
「内緒」
「また」
子供が少し笑った。
その声へ反応するように、顔のない存在の胸で十一の光が幾つか淡く揺れる。
「起きる?」
子供は人影へ尋ねた。
返事はない。
少し待っても、すぐに身体が動く様子もない。
けれど、子供はもう何度も問いを重ねなかった。
「私は起きる」
そう言って、自分から寝台を降りる。
床へ足をつける前に、寝台の縁へ座って足裏を見る。擦れていたところはほとんど赤くなく、指で触れなくても見た範囲では昨日より落ち着いている。
膝も少し曲げてみる。
違和感はない。
「大丈夫」
誰かへの報告というより、自分へ確認するような声だった。
「何が?」
アリシアが尋ねる。
「足。今日、自分で見た」
「うん」
「セレナいなくても」
「あとで見てもらう?」
「うん。でも最初は私」
少しだけ得意そうな表情だった。
自分の身体を、誰かに見てもらわなければ何も分からないものにはしない。
全部ではなくても、自分で分かるところから見ていく。
子供は寝台を離れ、棚の方へ歩いていった。
最初に目を向けたのは、白い花だった。
もうほとんどの花弁が白から薄い茶色へ変わり、端は丸まり始めている。乾燥が進んだ茎も細くなり、以前より頼りなく小瓶の縁へ寄りかかっていた。
「白い花」
子供がいつもの呼び方をする。
「うん」
アリシアも訂正しない。
「白、少ない」
「うん」
「でも白い花」
「うん」
「名前は残る」
「うん」
「形は変わる」
「うん」
子供は少しだけ笑った。
それから花を見つめたまま、ふいに尋ねる。
「昨日の私も、今の私に残る?」
アリシアはすぐに答えず、少し考えた。
「全部じゃないかもしれない」
「忘れる?」
「うん。覚えてないことも出てくると思う」
「でも、昨日いた?」
「いた」
「じゃあ」
子供は乾いていく花へ視線を戻す。
「白い花と少し同じ?」
「少し似てるかも」
「白じゃなくなっても、白い花」
「うん」
「昨日と違っても、私」
「うん」
「名前なくても?」
「うん」
子供は胸へ手を置いた。
「私」
「うん」
その言葉を確かめたあと、今度は棚の一番下へ目を向ける。
木箱は見えない。
戻りたいという気持ちを、文字にも音にもせず、そこへ置いたことにしている箱。
「箱」
「あるよ」
「うん」
「見たい?」
アリシアが尋ねる。
子供は少し考え、首を横へ振った。
「今はいい」
「うん」
「戻りたい気持ち、昨日もあった」
「うん」
「今日も」
胸へ手を置き、しばらく自分の中を確かめる。
「少しある」
「うん」
「でも、ここにもいたい」
「うん」
「今日も両方」
「うん」
棚の下へもう一度だけ視線を落としてから、子供は少し息を吐いた。
「箱、開けなくても分かる」
「うん」
置いた気持ちを、毎朝わざわざ取り出して確かめなくてもいい。
そこにあると知っている。
必要になったときだけ見ればいい。
それだけでも、今は十分だった。
そのとき、顔のない存在が寝台の上でゆっくり上体を起こした。
「おはよう」
子供がすぐに声をかける。
顔のない頭がわずかにこちらへ向いた。
「今日、青ある」
子供が窓を指すと、十一の光の一つが少し強くなる。
「見る?」
明確な反応はない。
子供はしばらく待ったあと、自分の気持ちを先に言った。
「私は見る」
そう言って窓へ向かう。
顔のない存在も少し遅れて寝台から足を下ろし、今日は最初から自分で寝台の縁へ手を置いて立ち上がった。
昨日ほど身体は大きく揺れない。
それを見た子供が口を開く。
「昨日より――」
そこで止まった。
「何?」
アリシアが尋ねる。
「昨日より上手って言おうとした」
「うん」
「でも、今日のこの人は昨日と違う」
「うん」
「上手って言ってもいい?」
「歩くことについて?」
「うん」
「子供にそう見えるなら」
子供は少し考えてから、人影を見る。
「歩くの、昨日より安定してるように見える」
「うん」
「人間に近いは?」
「それは、まだ言わない」
「うん」
「すごいは?」
「それは子供の気持ちだから、言っていいと思う」
「じゃあ」
子供が少し笑う。
「すごい」
十一の光が小さく揺れた。
子供は顔のない存在とともに窓へ向かう。
今日は人影が五歩ほど進んだところで立ち止まり、そのまま床へ座った。無理にもう一歩進もうとはしない。
「今日も休む」
「うん」
「でも昨日より……」
子供はまた少し考える。
「遠くまで来た」
「うん」
子供も、その隣へ少し距離を空けて座った。
窓の外には、今日はすぐに鳥が見えた。
一羽だけ。
窓の左端から現れ、そのまま斜め上へ横切っていく。
「いた」
子供の声が弾む。
顔のない頭も上がった。
「今日は早い」
鳥はすぐに窓の外から消えた。
「終わった」
「うん」
「でも見た」
「うん」
胸の十一の光は揺れたが、新しい光は増えない。
子供は少しだけ数を確認するように見つめた。
「十一」
「うん」
「今日も増えない」
「うん」
「でも鳥見た」
「うん」
「なら、いい」
以前なら、何か大きな出来事が起きるたび、光が増えることを期待したかもしれない。
増えれば意味がある。
変化が目に見えれば、正しく進んでいる。
けれど今は違う。
鳥を見た。
それだけでも、今日の出来事になる。
光が増えなくても、何もなかったことにはならない。
朝食には、いつもの粥と根菜、それから子供が「小さい白」と呼んでいる塩が用意されていた。
けれど、昨日残して食べた「甘い黄色」は見当たらない。
子供は席へ着くなり、小さな皿を順番に見てすぐ気づいた。
「ない」
「今日は別のものを試します」
治療教師が答える。
「甘い黄色は?」
「また別の日に用意できます」
「今日、食べたかった」
「聞きました」
「嫌」
「うん」
アリシアが答える。
子供は少し不満そうだったが、すぐに新しく置かれた小皿へ視線を向けた。
淡い橙色をした、柔らかそうなものが一切れだけ載っている。
「これ、何?」
「先に名前を聞きたいですか」
「見てから」
「では、どうぞ」
子供は皿へ顔を近づけ、慎重に匂いを確かめる。
「甘い?」
「少し」
「黄色より?」
「食べてみないと分かりません」
子供は食べる道具の先へほんの少し取り、口へ運んだ。
噛む。
一度。
二度。
眉が少し寄る。
「嫌?」
扉の外からセレナが尋ねる。
「変」
「どんなふうに?」
「甘い。でも」
子供はもう一口食べてから、言葉を探した。
「少し、酸っぱい」
「嫌いですか」
「まだ分からない」
「もう一口食べますか」
「食べる」
三口目。
今度は少し長く味わってから飲み込む。
「どう?」
「甘い黄色の方が好き」
「うん」
「でも、これも嫌じゃない」
「うん」
「名前、知りたい」
「分かりました」
治療教師が正式な名前をゆっくり伝える。
子供は一度聞き、少し首を傾げた。
「長い」
「そうですね」
「私は、甘い橙」
「それでいいと思う」
「黄色と橙」
「うん」
「名前違う」
「うん」
「味も違う」
「うん」
「でも、どっちも甘い」
「うん」
子供は少し楽しそうに、二つの果実を思い比べている。
「同じところもある」
「うん」
「違うところもある」
「うん」
「全部違うわけじゃない」
「うん」
「全部同じでもない」
「うん」
「面倒」
「うん」
子供が笑った。
同じと違うは、いつもどちらか一つではない。
似ているところがあっても別のもの。
違っていても、同じ部分がある。
その曖昧さを、子供はもう以前ほど嫌がらなくなっていた。
朝食後、学院長はすぐには生活観測区画へ来なかった。
代わりにセレナが短時間だけ区画内へ入り、子供の足と体調を確認することになった。
以前は一歩までだった。
今は三歩。
子供の水への恐怖と、セレナの神器反応、その両方を確認しながら少しずつ距離を変えている。
「痛みは?」
「ない」
「自分でも確認しましたか」
「朝に」
「どうでした?」
「痛くなかった」
「では、私も見ます」
「うん」
セレナは最初から触らず、三歩の位置から足裏を確認する。
「赤みは、ほとんどありません」
「終わり?」
「触って確認しなくてもよさそうです」
「私が見たのと同じ?」
「かなり近いです」
子供の顔が少し明るくなる。
「じゃあ、私も少し分かる」
「はい」
「でも全部じゃない」
「はい」
「セレナも?」
「私も全部は分かりません」
「同じ」
子供が言う。
セレナは少し笑った。
「少しだけ」
確認が終わったところで、生活観測区画の外から短い鐘が一度鳴った。
内部連絡の合図。
子供はすぐに扉を見る。
「光?」
アリシアは断定せず、少し耳を澄ませた。
「たぶん」
すると扉の外から学院長の声がした。
「光についての報告だ」
「聞く」
子供はすぐに答えた。
昨日より迷いが少ない。
「疲れてない?」
アリシアが確認する。
「今は大丈夫」
「分かった」
学院長は区画内へ入らず、扉の外から話し始めた。
「東側地下空室の光は、今朝も生活観測区画側の結界近くにいる」
「戻ってない?」
「戻っていない」
「近づいた?」
「昨夜から大きな変化はない。ただ、位置は少し変わった」
「離れた?」
「少しだけだ。生活観測区画側から大きく離れてはいない」
子供は胸へ手を置いた。
「会いたい」
今日も、その気持ちはすぐに出てきた。
「聞いた」
アリシアが答える。
「昨日より強い?」
学院長が尋ねる。
子供は少し考えた。
「分からない」
「怖い?」
「うん」
「会いたい?」
「うん」
「両方か」
「うん」
そのとき、顔のない存在の胸で十一の光のうち一つだけが少し強くなる。
子供がすぐに振り返った。
「この人」
「うん」
「昨日、扉見た?」
アリシアの胸がわずかに詰まる。
子供は、昨夜のことをまだ知らないはずだった。
「どうしてそう思ったの?」
「今」
子供が顔のない存在を見る。
人影の頭が、ほんの少しだけ扉の方へ向いている。
「光の話したら、扉見た」
「そう見える」
アリシアは答えた。
そして、昨夜伝えなかったことを、このまま黙ったままにするべきか迷う。
危険な情報ではなかった。
けれど、本人と関係するかもしれない行動だった。
「昨日」
アリシアが言う。
「何?」
「子供が寝たあと、この存在が扉の方へ手を伸ばした」
子供の目が大きくなる。
「光?」
「分からない」
「何で言わなかったの」
「寝てたから」
「朝は?」
アリシアはすぐに言い訳をしなかった。
「すぐ言う必要があるか迷った」
「隠した?」
「少し」
子供の顔が曇る。
「どうして」
「起きてすぐに光のことばかり考えさせるかもしれないと思ったから」
「私、知りたかった」
「うん」
「嫌」
「うん」
子供は不満そうに唇を結んだ。
それでも少しして、今朝のことを思い返すように窓と棚へ視線を動かす。
「でも、朝、白い花見た」
「うん」
「鳥も見た」
「うん」
「朝ごはん食べた」
「うん」
「知らなかったから?」
「光のことを急いで考えなくても済んだ」
子供の眉が寄る。
「じゃあ、よかった?」
「子供はどう思う?」
「分からない」
「うん」
「知りたかった。でも、朝もあった」
「うん」
「隠すのは嫌」
「うん」
「でも、起きてすぐ言われるのも……」
そこで言葉が止まる。
「嫌かもしれない?」
「分からない」
アリシアは、そこで自分から新しい決まりを提案しなかった。
少し待つ。
子供はしばらく考えたあと、自分から口を開いた。
「今度」
「うん」
「寝てる間に何かあったら、危ないこと?」
「危険があるならすぐ伝える」
「危なくないなら」
「うん」
「朝ごはんの前に、聞くか聞かないか聞いて」
「分かった」
「それも疲れたら」
「近くにいる人が、一つ決める?」
「うん」
「この決め方は記録する?」
「して」
「分かった」
また一つ、生活の手順が増えた。
けれど、それは永遠に変わらない規則ではない。
今の子供が、今使いたい形として残すだけだ。
必要なら、あとから変えればいい。
「この人」
子供は顔のない存在へ向き直る。
「昨日、扉に手」
十一の光がわずかに揺れた。
「光に会いたい?」
反応はない。
「私に?」
変化なし。
「外?」
人影の指が少し上がる。
窓ではない。
扉の方向だった。
「扉?」
十一の光の一つが強くなる。
その場にいた者たちの空気が一瞬で引き締まった。
「行きたい?」
子供が尋ねる。
返事はない。
「光?」
変化なし。
「廊下?」
変化なし。
子供は少し待ったあと、自分から言う。
「分からない。でも、扉が気になる?」
人影の指がもう一度、ほんの少しだけ扉へ向く。
「そう見える」
アリシアが答えた。
「記録しますか」
扉の外にいたミレイが尋ねる。
子供は少し考えた。
「安全に関係する?」
「今後、対面するかどうかを判断するときに必要になる可能性があります」
「じゃあ」
子供は顔のない存在を見る。
「この人の気持ちは分からない」
「うん」
「でも行動は書く?」
「行動だけ」
ミレイが答える。
「光について話したあと、扉方向へ指を向けたこと。昨夜、扉方向へ手を伸ばしたこと。それ以上の意味は書きません」
子供はしばらく考えた。
「それなら」
「記録してよいですか」
「私はいい」
「この存在は?」
「分からない」
ミレイはすぐに書き始めず、もう一度人影を見る。
「本人の意思は確認できません。ですが、安全判断に必要な最小限として、行動だけ残します」
「勝手?」
「少し」
「嫌」
「聞きました」
「でも安全」
「はい」
「面倒」
「そうですね」
子供は不満そうではあったが、最後には小さくうなずいた。
「分かった」
本人の意思が確認できない存在を、完全に何も記録せず扱うこともできない。
だから必要最小限。
動いたことだけ。
意味は付けない。
その線を、今は守る。
「会わせる?」
子供が学院長を見る。
「今日の判断をする前に」
「何?」
「直接会わせず、互いが存在することだけ確認できる方法を一つ試したい」
「昨日の風?」
「それとは違う。もう一段だけ近い方法だ」
「何するの?」
学院長は、生活観測区画と東側地下空室、それらを隔てる通路について簡潔に説明した。
「床を使う」
「床?」
「両方の部屋は、同じ地下構造の上にある」
「つながってる?」
「石と土の層は続いている」
「第四の声は?」
「土を通じた干渉も確認されている。だから神器の魔力は使わない」
「じゃあ?」
「ただ、床へごく弱い振動を一度だけ送る」
子供の表情が変わる。
「音?」
「耳で聞くための音ではありません」
土の神器継承者が補足する。
「床へごく弱い震えを一度だけ伝えます。生活観測区画からでも、東側地下空室からでもない、中間通路から」
「光、分かる?」
「分かりません」
「私も?」
「床へ足をつけていれば、少し感じると思います」
「名前なし?」
「はい」
「文字なし?」
「はい」
「声なし?」
「はい」
「同じ揺れ?」
「なるべく、両方へ同じ程度に届くようにします」
「一回?」
「一回だけ」
子供は少し考える。
「何の意味?」
「意味は付けない」
「いるって意味でもない?」
「それさえ決めない」
「じゃあ何?」
土の神器継承者は少しだけ考え、できる限り余計な意味を足さずに答えた。
「ただ、同じ床が一度だけ揺れます」
「それだけ?」
「それだけです」
子供は困ったように、それでも少し笑った。
「役に立たない」
「かもしれない」
「でも」
しばらく考えたあと、うなずく。
「やる」
「怖い?」
「少し」
「顔のない存在は?」
子供が人影を見る。
返事はない。
「分からない」
「昨日と同じ問題ですね」
セレナが静かに言う。
「やると決めても、その存在が嫌かどうかは分からない」
「うん」
「では、できるだけ小さくしますか」
子供はすぐにうなずいた。
「少ない方」
「何を?」
「一回だけ。小さい」
「分かりました」
昼前、その確認が行われることになった。
実験とも。
試験とも。
接触とも呼ばない。
記録上は「中間通路床振動確認」。
ただ、それだけ。
生活観測区画では、子供が床の無地の布へ座った。
「布あると分かりにくい?」
土の神器継承者が尋ねる。
「少し弱くなると思います」
「じゃあ」
子供は布から足だけを出し、裸足で石床へ触れる。
「冷たい」
「嫌?」
「大丈夫」
顔のない存在も窓の近くへ座っており、片方の手を石床へついていた。
偶然なのか。
自分から床へ触れたのか。
それも分からない。
「この人も床」
「うん」
アリシアは少し距離を取って座った。
ノアは机の下。
「ノア」
『私は床の振動なんて普段から山ほど感じているわ』
「ノアは大丈夫って」
『要約が雑すぎるわ』
子供が少し笑う。
東側地下空室では、名前のない光が生活観測区画側の閉鎖結界手前に留まっている。
床からは、わずかに浮いていた。
「光、床に触ってない」
子供が聞く。
「振動は空気にも少し伝わる可能性があります」
「分からない?」
「うん」
「じゃあ」
子供は胸へ手を置いた。
「一回」
「準備はいい?」
「うん」
「嫌になったら、始める前なら止められる」
「始まったら?」
「一瞬で終わります」
「分かった」
土の神器継承者は、生活観測区画でも東側地下空室でもない中間通路へ移動した。
神器は使わない。
魔力も流さない。
ただ、小さな石片を指で持ち上げる。
ほんのわずかな高さ。
そして落とす。
こつ。
耳へはほとんど届かない程度の音だった。
けれど、その一瞬だけ石床がわずかに震えた。
「来た」
子供がすぐに言う。
「一回」
「うん」
顔のない存在は、床へ置いていた手を動かさなかった。
ただ、胸の十一の光のうち一つだけが、明らかに強くなる。
「この人」
子供が息を呑む。
「反応――」
ミレイが言いかけ、自分から止めた。
「光が一つ、強くなりました」
「うん」
同じ頃。
東側地下空室の名前のない光も、一瞬だけ輪郭を縦方向へ伸ばした。
「変化確認」
「一度だけです」
「床振動直後」
「接続値は?」
「変化ありません」
「移動は?」
「なし」
「明るさは?」
「わずかに上昇しました」
しかし、すぐに元の輪郭へ戻った。
「何?」
子供が尋ねる。
「東側の光も少し変わった」
「同じ?」
「違う」
「この人は胸の光が一つ。向こうは形?」
「うん」
子供は、少し嬉しそうに笑った。
「違う」
「うん」
「でも、両方変わった」
「うん」
「同じ揺れで」
「うん」
そこで、子供の表情が少し真剣になる。
「相手がいるって分かった?」
誰もすぐには答えなかった。
「分からない」
アリシアが言う。
子供は少し残念そうな顔をする。
「でも」
アリシアは続けた。
「同じときに、それぞれ違う変化はあった」
「うん」
「それだけ?」
「それだけ」
子供は少し黙ったあと、自分の手を石床へ置いた。
「向こうにも、同じ床?」
「ずっと続いてる」
「見えない」
「うん」
「でも、そこにいる」
「うん」
顔のない存在も、まだ床へ手を置いたままだった。
「この人も」
「うん」
「私も」
「うん」
「光も」
「うん」
「大きく見たら、同じ床?」
「うん」
「でも、別の部屋」
「うん」
「会ってない」
「うん」
子供は少しだけ笑った。
「でも、昨日より」
「何?」
「いるって分かる」
「うん」
「会わなくても」
「うん」
誰も、もう一回やろうとは言わなかった。
一度だけ。
最初にそう決めた。
反応があったからといって、すぐ二回、三回と増やさない。
ただ、アリシアは子供へ尋ねる。
「もう一回したい?」
子供は少し考えた。
「したい」
「うん」
「でも、今日は一回って決めた」
「変えてもいいよ」
「うん」
「どうする?」
子供は、東側地下空室があるはずの見えない方向をしばらく見つめた。
「一回でいい」
「どうして?」
「向こう、嫌だったか分からない」
「うん」
「この人も」
「うん」
「私だけ、もう一回したい」
「うん」
「だから、今日はしない」
「分かった」
会いたい。
もう一度反応を見たい。
確かめたい。
自分が思ったことが正しいか知りたい。
そういう気持ちがあっても、自分が欲しい答えを得るためだけに、何度も相手へ刺激を送らなくてもいい。
午後、西側貯水槽側でも別の変化が起きていた。
最初に外へ出た光は危険区域前へ留まり、ほとんど位置を変えていない。香りの植物からも距離を取ったままだった。
一方、以前は香りへ近づいた別の光は、今日は植物から少しだけ離れていた。
「昨日は近づいたのに、今日は離れた」
若い観測者が言う。
「はい」
サーラが答える。
「嫌いになった?」
「決めません」
「昨日は好きだった?」
「それも決めていません」
「でも」
観測者は自分の記録を見る。
「昨日は近づいた。今日は離れた」
「それなら書けます」
「同じ光?」
「同じものと見ていますが、完全な識別方法はまだありません」
「でも、昨日と今日で違う」
「はい」
サーラは小さくうなずく。
「行動だけ残してください」
「分かりました」
昨日近づいたから、今日も近づくとは限らない。
昨日好きだったように見えたものを、今日も好きだと決める理由にはならない。
生活観測区画で繰り返されていることが、少しずつ外側の観測にも染み込んでいる。
東側地下空室の光は、床振動のあと長い時間をほとんど動かずに過ごしていた。
しかし午後の鐘が一度鳴った頃、生活観測区画側の閉鎖結界へ、さらに少しだけ近づいた。
「距離」
「昨日より短いです」
「接続は?」
「ありません」
「第四の声」
「呼びかけ継続中」
「反応は?」
「確認できません」
若い結界術師が、閉鎖結界と光を交互に見る。
「開けますか」
「まだだ」
学院長が答える。
「子供は会いたいと言っています」
「知っている」
「顔のない存在も扉へ反応している」
「行動は確認している」
「なら」
「だからこそだ」
学院長は閉ざされた先を見ながら、少し間を置いた。
「双方が互いを求めていると、まだ決められない」
「でも反応はあります」
「ある」
「同じ床の振動にも、同時に変化した」
「それも確認した」
「それでも?」
「意味を決めるには足りない」
若い術師は歯痒そうに眉を寄せた。
「慎重すぎませんか」
「そうかもしれん」
「なら」
「だが」
学院長はすぐに続けなかった。
東側地下空室の光。
生活観測区画の子供。
顔のない存在。
その間にある閉鎖結界。
「急いで会わせ、そこで新たな接続が生まれれば」
「はい」
「後から、待てばよかったとは戻せない」
術師は黙った。
「会わずに待った一日は」
学院長が静かに続ける。
「まだ、明日変えられる」
「……はい」
その日の午後、東側地下空室の光が少し近づいたことは、子供へも伝えられた。
「来た?」
「少し」
「床のあと?」
「かなり時間が経ってから」
「じゃあ、床だから?」
「分からない」
「私?」
「分からない」
「この人?」
「分からない」
「でも、近い」
「うん」
子供は今日は箱を見なかった。
会いたい気持ちを、棚の下へ置こうともしない。
そのまま胸に置いている。
「会いたい」
「うん」
「学院長」
扉の外へ向けて呼ぶ。
「何だ」
「今日、会わない?」
「今は、その判断だ」
「嫌」
「聞いた」
「でも」
子供は少し考える。
「昨日より、いるって分かる」
「うん」
「だから、少し待てる」
学院長がわずかに目を細めた。
「聞いた」
「でも明日」
「明日、状況を見直す」
「絶対?」
「見直すことは約束する」
「会うのは?」
「約束しない」
「面倒」
「そうだな」
子供は少し笑った。
「でも、第四の声は明日見直すって言わなかった」
「うん」
「ずっと同じ」
「うん」
「学院は」
「うん」
「毎日、面倒」
「たぶん」
廊下の奥からカイルの声が聞こえた。
「そこは完全に同意する」
「あなたは黙ってください」
すぐにセレナが返す。
「またかよ!」
子供が声を上げて笑った。
顔のない存在の胸で十一の光が一斉に揺れる。
ほぼ同じ頃。
東側地下空室にいた名前のない光も、ほんのわずかに明るさを増した。
「変化確認」
「接続?」
「なし」
「音声は?」
「届いていません」
「床振動?」
「ありません」
「なら」
観測者が言葉を止める。
サーラが静かに答えた。
「分かりません」
別の紙へ。
生活観測区画側に近い光。夕刻、外部刺激を確認できない状態で一時的に明るさ上昇。
それだけを残す。
生活観測区画で子供が笑った時間と近い。
けれど、そのせいだとは書かない。
夕方。
白い花は、さらに乾いていた。
子供は棚の前へ立ち、しばらく花を見る。
「これ」
「うん」
「もう花じゃない?」
「子供はどう思う?」
「白い花」
「うん」
「でも前と違う」
「うん」
「触ったら壊れる?」
「壊れる可能性はある」
「触りたい」
「うん」
「でも壊したくない」
「うん」
「今日も両方」
「うん」
子供は手を伸ばさない。
代わりに、顔だけ少し近づける。
「見てるだけ」
「うん」
「近づいてる。でも触らない」
「うん」
少し考えたあと、子供が東側地下空室の方角を見る。
「光と同じ?」
「どの光?」
「向こう。近づいた。でも会わない」
「少し似てるかも」
「白い花は会うじゃないけど」
「うん」
「近くにいても、触らない」
「うん」
子供は難しい顔になる。
「会うって」
「うん」
「触ること?」
「それだけじゃない」
「見ること?」
「それだけでもないと思う」
「話す?」
「それも一つ」
「じゃあ」
しばらく考えてから、子供は尋ねた。
「相手と、同じところにいるって分かること?」
アリシアも少し考える。
「それも、会うの一つかもしれない」
「じゃあ」
子供は石床へ手を置いた。
「今日、向こうにいるって少し分かった」
「うん」
「なら」
少し迷う。
「少し会った?」
誰もすぐに答えなかった。
アリシアは正解を渡す代わりに、子供へ返す。
「子供は、そう思う?」
長い沈黙。
子供は床へ置いた手を見ながら考えた。
「分からない」
「うん」
「でも」
少しだけ笑う。
「全部会うじゃなくてもいい」
「うん」
「少し知る」
「うん」
「少し近い」
「うん」
「明日、もっとかも」
「うん」
「少なくなるかも」
「うん」
夜になった。
換気は昨日までと同じように、眠る少し前に止められた。
今日はもう床を揺らさない。
一度だけ。
そう決めたものを、反応があったからと増やさなかった。
子供は寝台へ入り、横になったあとも少しだけ目を開けていた。
「アリシア」
「うん」
「光、近い」
「うん」
「でも壁ある」
「うん」
「会いたい」
「うん」
「今日、少し分かった」
「うん」
「明日、まだ会いたかったら言う」
「うん」
「会いたくなくなったら」
「うん」
「それも言う」
「うん」
「どっちでも」
「うん」
「今日、会いたかったのは嘘じゃない」
「うん」
子供が少し笑う。
「また、うん」
「必要だから」
「便利」
「うん」
ノアが尾を一度だけ揺らした。
『もう完全に癖になったわね』
「ノアは?」
子供が尋ねる。
「何?」
「何て言った?」
「内緒」
「また」
子供が笑う。
顔のない存在は、寝台へ横になる前に今日も一度だけ扉を見た。
手は伸ばさない。
ただ、顔のない頭だけを扉の方へ向ける。
「気になる?」
子供が尋ねる。
返事はない。
「私も」
十一の光の一つが揺れる。
「明日、また」
もう一つ。
ゆっくり揺れた。
同じ頃。
東側地下空室では、名前のない光が閉鎖結界の手前に留まり続けていた。
第四の声は遠い。
「戻れ」
返事はない。
「名を受けよ」
返事はない。
「孤立は消失」
光が少しだけ揺れる。
それでも戻らない。
生活観測区画側へも進まない。
ただ、その位置を保っている。
人間側も、今日はもう何もしなかった。
閉じた道は閉じたまま。
戻るための道は開いたまま。
風も送らない。
床も揺らさない。
香りも追加しない。
それでも光は消えずに残っていた。
生活観測区画では、やがて子供が眠る。
顔のない存在も、しばらく扉へ頭を向けたあと、自分の寝台へ横になった。
互いの姿は、まだ知らない。
声も知らない。
名前もない。
何を望んでいるのかも分からない。
それでも今日、同じ床が一度だけ揺れた。
同じ瞬間に、それぞれ違う反応があった。
確かなことは、それだけだった。
けれど昨日よりは、少しだけ多い。
壁の向こうにも何かがいる。
こちら側にも何かがいる。
すぐに会わなくても、その存在を知ることはできるかもしれない。
名前を知る前に。
役割を決める前に。
姿を見る前に。
そこにいるらしいと、少しずつ知っていく時間があってもいい。
誰かがそこにいると分かったからといって、すぐに近づかなければならないわけではない。
会わなければ関係が始まらないとも限らない。
まだ壁がある。
まだ分からない。
明日になれば、会いたい気持ちが変わるかもしれない。
光も、離れるかもしれない。
顔のない存在も、扉へ興味を示さなくなるかもしれない。
それでも、今日起きたことまでなくなるわけではない。
同じ床が一度だけ揺れた。
それぞれが違う形で反応した。
そして誰も、その反応を同じ意味へまとめなかった。
そのことだけは。
昨日よりほんの少しだけ。
壁の向こうとこちら側の距離を、「会う」以外の方法で近づけていた。




