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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第120話 同じ場所へ入る前に、離れたまま選べることを増やしておく



 翌朝、生活観測区画の窓の外には、前日より少しだけ青い空が広がっていた。


 雲はまだ残っている。それでも東の空から差し込む光は昨日より明るく、庭の石畳には窓枠の影がはっきり落ちていた。風は弱く、枝先の葉がときどき揺れる程度で、雨の気配もない。


 子供が目を覚ましたのは、空が十分に明るくなってからだった。


 目を開けても、すぐには身体を起こさない。寝台の中でしばらく天井を見たあと、いつものように隣の寝台へ視線を移した。


 顔のない存在は、まだ横になっている。


 胸の十一の光も残っていた。


「いる」


 子供が小さく言った。


 以前なら、その言葉には確認の意味が強かった。目を覚ましたとき、昨日までいた者が消えていないかを確かめるための声だった。


 今朝は少し違う。


 そこにいることを知ったうえで、それでも朝になったことを知らせるような穏やかさがある。


「朝」


 顔のない存在の胸で、十一の光のうち二つがゆっくり揺れた。


「聞いてるように見える」


 子供は自分からそう付け加えた。


 そして、少し離れた椅子へ座っているアリシアを見る。


「昨日の夜」


「うん」


「何かあった?」


 アリシアは少しだけ目を瞬いた。


 昨日、子供自身が決めた。


 眠っている間に危険ではない変化があったなら、朝食前に「聞くかどうか」を尋ねる。


「ある」


「危ない?」


「今すぐ危険っていうものではない」


「じゃあ」


 子供は布団の中で少し考える。


「今、聞く?」


 アリシアは確認する。


「うん」


「東側地下空室の光は、夜のあいだも結界の近くにいた」


「戻ってない?」


「うん」


「近づいた?」


「大きくは変わってない」


「この人は?」


 顔のない存在へ視線を戻す。


「寝る前に扉の方を見ていた。それからは、大きな変化はなかった」


「手、伸ばした?」


「昨日は伸ばさなかった」


「光、増えた?」


「増えてない」


「十一?」


「うん」


 子供は少しだけ息を吐いた。


「終わり?」


「朝までの変化はそれくらい」


「分かった」


「今、聞いてよかった?」


 子供は少し考える。


「うん」


「朝ごはんのあとがよかった?」


「分からない」


「次も同じにする?」


「今日は、これでいい」


「うん」


 昨日作った手順が、今日も同じでなければならないわけではない。


 今朝は聞いた。


 明日は、朝食後にしたいと思うかもしれない。


 それでもいい。


 子供は布団をめくり、自分から寝台の端へ座った。


「足」


 昨日と同じように自分で見る。


 赤みはない。


 足首を少し動かす。


 膝も曲げる。


「痛くない」


「うん」


「あとでセレナにも見てもらう」


「うん」


「でも、先に私」


 少し得意そうな声。


 アリシアは笑った。


「覚えてたね」


「うん」


 子供は立ち上がり、棚へ向かう。


 白い花は、さらに乾いていた。


 花弁はほとんど薄茶色へ変わっている。それでも中央にはまだ少し白が残り、完全に崩れてはいない。


「白い花」


 今日も同じ呼び方。


「うん」


「白、もっと少ない」


「うん」


「でも、まだ白い花」


「うん」


「明日、全部茶色でも?」


「子供がそう呼びたいなら」


「白じゃないのに?」


「うん」


「嘘?」


 アリシアは少し考えた。


「昔、白かったことを含めて呼んでるなら、嘘じゃないと思う」


「昔?」


「前のこと」


「前も入る」


「うん」


 子供は花を見ながら、自分の胸へ手を置いた。


「私も」


「何?」


「水の中にいた」


「うん」


「今は外」


「うん」


「でも、水の中にいた私も入る?」


「今の子供に?」


「うん」


「入ってると思う」


「嫌なことも?」


「うん」


「楽だったところも?」


「うん」


 子供は少し黙った。


「戻りたい気持ちも?」


「うん」


 棚の下。


 見えない木箱。


 子供は今日はしゃがまない。


「箱、ある」


「うん」


「見なくても」


「うん」


「今日も少し戻りたい」


「うん」


「でも、昨日より少ないかも」


「そう感じる?」


「うん」


「じゃあ、今はそうなんだと思う」


「明日増える?」


「かもしれない」


「減るかも」


「うん」


「なくなるかも」


「うん」


「また戻るかも」


「うん」


 子供は少し笑った。


「変わる」


「うん」


「名前なくても」


「うん」


 その横で、顔のない存在がゆっくり上体を起こした。


 子供が振り返る。


「おはよう」


 頭が少し子供の方へ向く。


「今日、青多い」


 窓を指す。


 十一の光が三つほど揺れた。


「見る?」


 明確な反応はない。


 子供は少し待ってから、自分の気持ちを先に言う。


「私は見たい」


 顔のない存在は寝台から足を下ろした。


 昨日よりさらに動きが安定しているように見える。


 けれど子供は、もうすぐには「上手になった」と言わなかった。


 人影が自分で立ち。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 窓へ向かう。


 四歩目で少し身体が揺れる。


 それでも寝台へは戻らず、壁へ手をついた。


「止まった」


 子供が言う。


「うん」


「休む?」


 人影は壁へ手を置いたまま、少しの間動かない。


 そして、自分から床へ座った。


「今日も」


 子供が少し笑う。


「休んだ」


「うん」


「昨日と同じ?」


「座って休んだところは」


「でも場所違う」


「うん」


「歩いた数も違う」


「うん」


「同じ休むでも、違う」


「うん」


 子供も隣へ座る。


 今日は窓まで少し近い。


 低い位置からでも空が昨日より多く見えた。


「青」


「うん」


「鳥、いる?」


「まだ見えないね」


「待つ?」


 子供は少し考えたあと、顔のない存在を見る。


「私は少し待つ」


 人影の頭は窓へ向いている。


「この人も待つ?」


「そう見える?」


 アリシアが尋ねる。


 子供はすぐに答えず、しばらく人影を見る。


「窓見てるように見える。でも、鳥を待ってるかは分からない」


「うん」


「じゃあ」


 子供は窓へ向き直る。


「私は鳥を待つ。この人は窓を見てる」


「うん」


 同じ場所。


 同じ向き。


 それでも、同じことをしているとは決めない。


 少しして、一羽の鳥が庭の木へ降りた。


 昨日までのように窓の前を横切るのではなく、枝へ止まったまま動かない。


「いた」


 子供の声が弾む。


 顔のない存在の頭が、少し上がる。


「飛ばない」


「うん」


「鳥なのに」


「鳥もずっと飛んでるわけじゃないよ」


「休む?」


「たぶん」


「人影みたい」


 言ってから。


 子供が止まる。


「人影って言った」


「うん」


「嫌か分からない」


「うん」


「今、どうする」


「子供は?」


 顔のない存在を見る。


「この人」


「うん」


「今はそれ」


「分かった」


 呼び方も、そのとき使いやすいものを選べばいい。


 固定しない。


 ただし。


 本人が嫌だと示したなら変える。


 それだけ。


 鳥はしばらく枝へ止まり、やがて羽を広げて飛び去った。


「飛んだ」


 子供が指を上げる。


 顔のない存在も、少し遅れて同じ方向へ指を向けた。


 十一の光が揺れる。


 増えない。


「十一」


「うん」


「今日も」


「うん」


「でも、いい」


「うん」


 朝食には、昨日と同じ粥と根菜、それから「小さい白」が用意されていた。


 新しい食べ物はない。


 子供は少しだけ皿を見回した。


「甘い黄色ない」


「今日はありません」


 治療教師が答える。


「甘い橙も?」


「今日はありません」


「何で?」


「毎日新しいものを増やすと、身体の反応が分かりにくくなるからです」


「つまらない」


「聞きました」


「昨日、甘い橙、嫌じゃなかった」


「はい」


「でも黄色の方が好き」


「はい」


「今日、どっちもない」


「はい」


 子供は不満そうに匙を持つ。


「生活って」


「うん」


 アリシアが見る。


「好きなもの、毎日ない?」


「ないこともある」


「嫌」


「うん」


「でも」


 粥へ小さい白を少し入れる。


「これも好き」


「うん」


「じゃあ食べる」


 特別なものがない朝。


 それでも食べる。


 何か新しい出来事が起きなくても、朝は朝として進む。


 子供は粥を四口。


 根菜を二口。


 今日はそこで止めた。


「もういい」


「お腹は?」


「少しいっぱい」


「苦しい?」


「ない」


「では終わりにしましょう」


「うん」


 食事が片づけられたあと、セレナが三歩の位置まで区画内へ入り、足の状態を確認した。


「昨日と大きな変化はありません」


「私もそう思った」


「はい」


「同じ?」


「かなり近いです」


「じゃあ」


 子供は少し嬉しそうにする。


「今日も私、少し分かった」


「はい」


「明日も?」


「自分で見てから、必要なら私も確認します」


「うん」


 そのとき。


 生活観測区画の外で、短い鐘が一度鳴った。


 子供はすぐに扉を見る。


「光?」


「たぶん」


 アリシアが答える。


 扉の外へ、学院長が来る。


「東側地下空室について、今朝の観測結果が出た」


「聞く」


 子供はすぐに言った。


「疲れてない?」


「大丈夫」


「では話す」


 学院長は扉の外へ立ったまま続ける。


「昨夜から今朝まで、光は生活観測区画側の結界近くへ留まっている」


「近づいた?」


「大きな移動はない」


「戻った?」


「戻っていない」


「第四の声は?」


「呼びかけを続けている」


「光、反応?」


「接続値は低いまま。明確な応答もない」


 子供は少し胸へ手を置く。


「会いたい」


「うん」


 アリシアが答える。


「怖い?」


 学院長が尋ねる。


「うん」


「今日も両方か」


「うん」


「顔のない存在は」


 学院長は一度、人影を見る。


「扉への反応が続いているか確認したい」


 子供がすぐに人影へ向き直った。


「光の話」


 十一の光。


 一つ。


 少し強くなる。


「扉」


 人影の頭がゆっくり扉へ向く。


「向いた」


 子供が言う。


「うん」


「光?」


 反応は変わらない。


「外?」


 指が少し上がる。


「扉?」


 十一のうち二つが揺れる。


「昨日と同じ?」


 子供が尋ねる。


「似てる」


 アリシアは答える。


「でも、昨日と今日で同じ意味かは分からない」


「うん」


 子供は少し考えたあと、学院長を見る。


「今日、会う?」


「それを決める前に、もう一つ案がある」


「また?」


「会うより前にできることだ」


「何」


 学院長は、生活観測区画と東側地下空室の間の構造について説明し始めた。


 昨日は。


 同じ床へ、一度だけ小さな振動を送った。


 どちらにも別の反応が出た。


 今日は、それを繰り返さない。


「別の方法?」


「そうだ」


「何する?」


「何もしない場所を一つ作る」


 子供が眉を寄せる。


「何もしない?」


「中間通路に、小さな空間がある」


「昨日の床?」


「そこより少し生活観測区画側」


「何置く?」


「何も置かない」


「光?」


「置かない」


「香り?」


「なし」


「文字?」


「なし」


「名前?」


「なし」


「じゃあ」


 子供は困った顔になる。


「何するの」


「扉を一枚だけ開ける」


「どこ?」


「生活観測区画側ではない」


 学院長は簡単な位置関係を口頭で説明した。


 東側地下空室。


 閉鎖結界。


 その先に中間通路。


 さらにその先に、生活観測区画へ続く別の結界。


「東側地下空室側の扉だけを開ける」


「こっちは?」


「閉じたまま」


「光、入れる?」


「光が入りたければ」


「来る?」


「分からない」


「何のため?」


「今より一つ近い場所へ、光自身が移動するかを見られる」


「私たちは?」


「生活観測区画から出ない」


「この人も?」


「出さない」


「じゃあ」


 子供は少し考える。


「向こうだけ動く?」


「可能性はある」


「光が来なかったら?」


「来なかった」


「戻ったら?」


「戻った」


「止まったら?」


「止まった」


「会わない?」


「会わない」


「でも近くなる?」


「光が中間通路へ入れば」


「向こうが決める?」


「そうだ」


 子供は長く考えた。


「私たちは動かない」


「うん」


 アリシアが答える。


「光だけに選ばせる?」


「嫌?」


 子供の眉が少し寄る。


「少し」


「どうして」


「私も会いたい」


「うん」


「でも、私、動かない」


「うん」


「向こうだけ」


「不公平?」


「うん」


 学院長はすぐには反論しなかった。


「なら」


「何?」


「こちら側にも、選べることを一つ作る」


「何」


「中間通路へ入った光を、直接は見ない」


「うん」


「ただ、そこへ入ったと知らされたあと」


「うん」


「生活観測区画側の結界へ近づくかどうかを、子供たちが決める」


「部屋から出る?」


「生活観測区画の中で、扉近くまで移動するだけ」


「光、分かる?」


「分からない」


「でも」


「距離は少し短くなる」


「私は近づく。光も近づく?」


「それぞれ別に」


「同じときじゃなくても?」


「うん」


 子供は顔のない存在を見る。


「この人も?」


「本人が動くなら」


「無理に?」


「しない」


「じゃあ」


 子供の表情が少しだけ変わる。


「向こうが中間へ来る」


「来るかもしれない」


「私たちは」


「そのあと、扉の近くへ行くか決める」


「行かなくてもいい」


「うん」


「向こうも来なくていい」


「うん」


「戻ってもいい」


「うん」


「それなら」


 子供は少し考えてから、うなずいた。


「いい」


「怖い?」


「うん」


「会いたい?」


「うん」


「今日、直接会う?」


 子供はしばらく黙った。


 昨日なら。


 会いたい気持ちの方を強く言ったかもしれない。


 今は。


 中間通路。


 もう一段だけ近づく。


 それを知ったあと。


「まだ」


「うん」


「今日は」


 子供は自分で続ける。


「同じ部屋は、まだ」


「分かった」


「でも」


「うん」


「中間まで来たら」


「うん」


「私、扉の近く行くかも」


「うん」


「そのとき決める」


「分かった」


 顔のない存在の十一の光が、一つだけゆっくり揺れた。


「この人」


 子供が見る。


「分からない」


「うん」


「でも、私が決めても、この人は別」


「うん」


「もし動かなかったら?」


「子供だけ行ってもいい」


「逆も?」


「顔のない存在が扉へ近づいて、子供は行かなくてもいい」


「別」


「うん」


 それぞれが。


 離れたまま。


 別々に選ぶ。


 会うか会わないかという一つの大きな決断の前に。


 どこまで近づくか。


 今日はどこで止まるか。


 そこを分ける。


 昼前。


 東側地下空室側の結界が、一部だけ開かれた。


 光を誘導するものは何もない。


 灯りも変えない。


 香りも置かない。


 人間も見える位置には立たない。


 中間通路。


 乾いた石床。


 壁。


 天井。


 それだけ。


「開きました」


 観測者が小声で報告する。


「光の位置」


「空室中央寄り」


「生活観測区画側から離れた?」


「まだ」


「第四の声」


「接続低値」


「人間側の魔力」


「最小」


「待つ」


 学院長の声。


 光はすぐには動かなかった。


 一分。


 二分。


 さらに時間が過ぎる。


 誰も、来ないと判断しない。


 生活観測区画では、子供がその報告を待っていた。


 ただし。


 木片も机にある。


 白い花も棚にある。


 朝から新しいことばかりへ意識を取られないよう、アリシアは何も提案しなかった。


 子供自身も。


 最初は扉を見ていた。


 でもしばらくすると、木片を手に取る。


「待つ」


「うん」


「でも、木片」


「うん」


「遊ぶ」


「うん」


 顔のない存在へ転がす。


 一回。


 人影が返す。


 二回目。


 少し横へ逸れる。


 子供が取りに行く。


「光、動いたら言う?」


「うん」


「危ないことじゃなくても?」


「今回は、子供が待つって決めたから」


「うん」


「動きがあったら伝える」


「分かった」


 木片をもう一度転がす。


 顔のない存在は返さない。


「今は終わり?」


 反応はない。


「私はまだやる」


 一人で転がす。


 待ちながら。


 生活する。


 その両方。


 しばらくして。


 外から短い合図が入った。


「動いた」


 アリシアが言う。


 子供の手が止まる。


「どこ?」


「空室から、中間通路の入口へ近づいた」


「入った?」


「まだ」


「止まった?」


「うん」


「どうする?」


「待つ」


 子供は少し緊張した顔で扉を見る。


「私、扉の近く行く?」


「今決めたい?」


「……まだ」


「うん」


 光は中間通路の入口で長く止まった。


 人間側は何も変えない。


 やがて。


 光の輪郭が少し縦へ伸びる。


「変化」


「接続なし」


「移動」


「わずかに前」


 光の半分が、中間通路へ入る。


「入っています」


「静かに」


 さらに。


 少し。


 光が中間通路側へ進む。


 すべてが入りきったところで止まった。


「空室から出ました」


 生活観測区画へ報告が来る。


 子供が息を呑んだ。


「中間?」


「うん」


「戻る道」


「開いてる」


「こっちは?」


「閉じてる」


「向こう、来た」


「そう見える」


「私」


 子供は立ち上がりかける。


 でも止まる。


「扉行く?」


 アリシアは聞く。


 子供は少し胸へ手を置いた。


「怖い」


「うん」


「会いたい」


「うん」


「近い」


「うん」


「……決めてほしい」


「一つ?」


「うん」


「何を?」


「私が扉へ行くか」


 アリシアはすぐに答えなかった。


 今。


 東側の光は、自分から一段近い場所へ移動した。


 それが子供へ近づく意思かは分からない。


 ただ。


 中間通路へ入った。


 子供は会いたいと言っている。


 でも、怖いとも言っている。


「今日は」


 アリシアが言う。


「扉まで行かない」


 子供の顔が少し曇る。


「どうして」


「光が中間まで来たばかりだから」


「うん」


「すぐにこっちも近づいたら」


「うん」


「光が止まる時間を取れないかもしれない」


「光の時間」


「うん」


「私も会いたいのに」


「うん」


「嫌」


「うん」


「でも」


 子供は少し考える。


「今日?」


「今は」


「今は」


「うん」


「あとで変える?」


「光がそこへ長くいて、子供もまだ近づきたいなら」


「また決める」


「うん」


 子供は不満そうに唇を結んだ。


「任せた」


「うん」


「全部じゃない」


「一つだけ」


「うん」


 顔のない存在は、その会話の間ずっと扉を見ていた。


「この人」


 子供が気づく。


「扉」


 十一の光。


 少し揺れる。


「行きたい?」


 返事はない。


「私は行かないって」


 子供は少し迷いながら、人影へ伝える。


「今は」


 十一のうち一つが強くなる。


「この人は?」


「別」


 アリシアが言う。


「行きたいなら動くかもしれない」


「止める?」


「生活観測区画の扉は、まだ開けない」


「じゃあ、行っても出られない」


「うん」


「嫌」


「うん」


「でも」


 子供は顔のない存在を見る。


「行きたいなら、扉まで行っていい?」


 学院長が扉の外から答える。


「区画内であれば止めない」


「分かった」


 人影へ。


「私は行かない。でも、この人は行っていい」


 返事はない。


 人影はしばらく座ったままだった。


 そのあと。


 ゆっくり。


 床へ手をつく。


 立ち上がる。


 全員の緊張が高まる。


「動く」


「うん」


 子供は立ち上がらない。


 約束したからではない。


 今は行かないと決めてもらい、それをまだ変えないと自分で選んでいるから。


 顔のない存在は一歩進む。


 二歩。


 窓ではなく。


 扉へ。


「本当に扉」


 子供の声が小さくなる。


 人影はさらに一歩。


 途中で身体が揺れる。


 壁へ手をつく。


 それでも。


 座らない。


 もう一歩。


 生活観測区画の扉まで、あと三歩。


「行きたい?」


 子供が尋ねる。


 返事はない。


「止めない?」


「区画内なら」


 アリシアが答える。


 人影。


 一歩。


 あと二歩。


 そこで。


 止まる。


 長い。


 十一の光が、全部ではなく。


 三つ。


 ゆっくり揺れる。


「休む?」


 人影はその場で床へ座った。


 子供が少し息を吐く。


「止まった」


「うん」


「扉まで行かなかった」


「うん」


「でも近づいた」


「うん」


「私より」


 子供は自分の位置を見る。


 床の布。


 扉から遠い。


「この人の方が近い」


「うん」


「違う」


「うん」


 子供は少し笑った。


「私、会いたいっていっぱい言ったのに」


「うん」


「この人、言ってない」


「うん」


「でも、この人の方が近い」


「うん」


「面白い」


「うん」


 人の気持ちは。


 言葉の大きさだけでは測れない。


 話せない存在の動きも。


 言葉にした子供の行動も。


 同じにはならない。


 東側中間通路の光は。


 その間。


 ほとんど動かなかった。


「向こうも止まってる」


 報告。


「こっちも」


 子供が人影を見る。


「止まってる」


「うん」


「同じ?」


「止まってるところは」


「でも場所違う」


「うん」


「理由、分からない」


「うん」


「じゃあ違うかも」


「うん」


 昼を過ぎても。


 光は中間通路へ留まり続けた。


 戻る道は開いている。


 生活観測区画側は閉じている。


 誰も誘導しない。


 その位置で。


 何もせず。


 ただ留まる。


 子供も。


 昼食を食べた。


 今日は甘いものはない。


 粥。


 根菜。


 少量。


 食べ終えたあと。


「光、まだ?」


「まだいる」


「戻ってない?」


「うん」


「この人」


 顔のない存在は扉から二歩ほど離れた場所へ座ったまま。


「まだ」


「うん」


「私」


「うん」


 子供は胸へ手を置く。


「行きたい」


「うん」


「朝より?」


「分からない」


「怖い?」


「うん」


「決めてほしい?」


 子供は少し考える。


「今は、自分で」


「うん」


「扉、近づく」


「どこまで?」


「分からない」


「じゃあ、途中で止まってもいい」


「うん」


 子供は自分から立ち上がった。


 顔のない存在を見る。


「私も行く」


 人影の頭が少し動く。


 子供は一歩進む。


 二歩。


 朝より。


 扉へ近い。


 でも、人影の位置まではまだ遠い。


 三歩。


 そこで止まる。


「怖い」


「うん」


 アリシアは近づかない。


「ここ」


「うん」


「今日は、ここ」


「分かった」


 子供はその場へ座った。


 顔のない存在。


 扉から二歩。


 子供。


 そこからさらに何歩か後ろ。


 東側の光。


 閉鎖結界の向こう。


 中間通路。


 三者。


 同じ部屋にはいない。


 同じ距離でもない。


 それでも。


 昨日より。


 少しだけ。


 近い。


「光」


 子供が言う。


「うん」


「向こう?」


「うん」


「この人」


 人影。


「ここ」


「うん」


「私」


 自分。


「ここ」


「うん」


「全部、違う場所」


「うん」


「でも」


 子供は少しだけ笑った。


「同じ方、向いてる?」


 アリシアは扉を見る。


 顔のない存在の頭。


 扉。


 子供の身体も。


 扉側。


 東側の光。


 正確な向きは分からない。


「向こうの光がどっちを向いてるかは分からない」


「うん」


「じゃあ」


 子供は言い直す。


「私と、この人は同じ方」


「そう見える」


「でも同じ気持ち?」


「分からない」


「うん」


 子供は満足したようだった。


 午後。


 学院長は。


 今日の対面を。


 見送る判断を出した。


「まだ会わない?」


 子供が尋ねる。


「今日は」


「何で」


「中間通路の光が、自分からそこへ留まる時間を取った」


「うん」


「生活観測区画側では、この存在も扉へ近づいた」


「うん」


「子供も近づいた」


「うん」


「だから」


 学院長は少し言葉を選ぶ。


「今日は、ここまでで十分変化があった」


「十分?」


 子供の眉が寄る。


「多い?」


「何かを増やし続ける必要はないという意味だ」


「会いたいのに」


「聞いた」


「嫌」


「聞いた」


「でも」


 子供は自分の座っている場所。


 顔のない存在。


 扉。


「今日、私も近づいた」


「うん」


「この人も」


「うん」


「光も」


「うん」


「全部、別に」


「うん」


「じゃあ」


 少し不満そうに。


「今日は、ここ」


「そうだ」


「明日?」


「見直す」


「会う?」


「約束しない」


「面倒」


「知っている」


 子供は少し笑った。


「でも」


「何?」


「今日、昨日より近い」


「うん」


「会ってないけど」


「うん」


「進んだ?」


 アリシアは少し考える。


「子供は、そう思う?」


「うん」


「なら、子供にとっては進んだ」


「この人は?」


「分からない」


「光は?」


「分からない」


「じゃあ」


 子供は自分の胸へ手を置く。


「私だけ、進んだでもいい」


「うん」


 全員が同じ速度で進まなくてもいい。


 一人だけ近づきたい日もある。


 一人は止まり。


 一人は戻る。


 一人だけ先へ進む。


 それでも。


 全部を同じ歩幅へそろえなくていい。


 夕方。


 中間通路の光が、少しだけ後ろへ動いた。


「戻る?」


 観測者が尋ねる。


「空室方向へ、ごく小さく移動」


 サーラが答える。


「今日の接近、嫌だった?」


「決めません」


「でも、戻った」


「少し」


「生活観測区画側が近づいたから?」


「確認できません」


「じゃあ」


「中間通路内で空室側へわずかに移動。それだけです」


 子供へも報告された。


「戻った?」


「少し」


「私が近づいたから?」


「分からない」


「この人?」


「分からない」


「嫌だった?」


「分からない」


 子供の顔に少しだけ不安が浮かぶ。


「私、近づかない方がよかった?」


「今日の子供は、近づきたかった?」


「うん」


「なら、その気持ちで近づいたことまで間違いにしなくていい」


「でも光、戻った」


「光の理由は分からない」


「嫌だったら?」


「次に同じことをするとき、考える」


「もうしない?」


「それもまだ決めない」


 子供は少し黙った。


「向こうも、戻っていい」


「うん」


「私、嫌だけど」


「うん」


「でも戻っていい」


「うん」


「会いたいのに」


「うん」


 子供は少しだけ泣きそうな顔をした。


「会いたいって」


「うん」


「相手が来るとは限らない」


「うん」


「嫌」


「うん」


「でも」


 顔のない存在を見る。


「この人も、私が手握りたいとき、離した」


「うん」


「嫌だった」


「うん」


「でも、光増えた」


「うん」


「この人が離したこと、なくせない」


「うん」


「じゃあ」


 子供は東側地下空室の方角を見る。


「向こうも、戻るなら」


「うん」


「止めない」


「うん」


「でも、会いたいって言う」


「うん」


 その両方を。


 今は持つ。


 夕方の窓。


 白い花。


 乾いた花弁。


 子供は今日は触れない。


「明日」


「うん」


「壊れるかも」


「うん」


「でも、今日触らない」


「うん」


「光も」


「うん」


「明日、もっと離れるかも」


「うん」


「でも今日は追わない」


「うん」


「似てる?」


「少し」


 夜。


 中間通路の光は。


 完全には空室へ戻らなかった。


 少し後ろへ下がった位置で止まり。


 そのまま。


 夜を迎える。


 生活観測区画では。


 顔のない存在が、今日は扉から少し離れた場所で一度床へ座ったあと、自分から寝台へ戻った。


 子供も。


 寝る前。


 一度だけ。


 扉の近くまで行く。


 昼に自分で決めた位置。


 そこへ立つ。


「向こう」


 見えない。


「いる?」


「観測では」


 アリシアが答える。


「まだ中間通路にいる」


「少し戻った」


「うん」


「でも、いる」


「うん」


「私、ここ」


「うん」


「この人」


 寝台。


「いる」


「うん」


「別」


「うん」


 子供は扉へ手を伸ばさなかった。


 結界にも触れない。


 ただ。


 その場所で少し立つ。


「今日」


「うん」


「同じ部屋、入らなかった」


「うん」


「でも」


「うん」


「向こう、近づいた」


「うん」


「この人も」


「うん」


「私も」


「うん」


「全部、同じじゃない」


「うん」


「向こう、少し戻った」


「うん」


「私、戻ってない」


「うん」


「この人、寝台戻った」


「うん」


 子供は少し笑った。


「みんな違う」


「うん」


「でも」


 少し考える。


「今日、会わなかったの、失敗じゃない?」


「うん」


「光、戻ったのも?」


「うん」


「私、近づいたのも?」


「うん」


「この人が先に扉へ行ったのも?」


「うん」


「全部?」


「うん」


「じゃあ」


 子供は長く息を吐く。


「今日は、いっぱい違った」


「うん」


 その夜。


 第四の声は、西側貯水槽の奥から変わらず呼び続けていた。


「一つへ」


 返事はない。


「中央へ」


 返事はない。


「帰属せよ」


 外へ出た光も。


 中間通路にいる光も。


 文字環近くに留まる光も。


 それぞれ違う場所で。


 違う明るさで。


 違う距離を保っている。


 生活観測区画の子供。


 顔のない存在。


 中間通路の光。


 三者は。


 今日も直接は会わなかった。


 けれど。


 何も起きなかったわけではない。


 光は一段近い場所へ入り。


 顔のない存在は扉へ歩き。


 子供も、自分の足で途中まで近づいた。


 そのあと。


 誰かは止まり。


 誰かは戻り。


 誰かは同じ場所に残った。


 同じ場所へ入る前に。


 同じ結論へ並べる前に。


 離れたまま。


 それぞれが選べる距離を増やしておく。


 会うことを急がなかった一日は。


 何もしなかった一日ではない。


 戻れる場所を残し。


 止まれる場所を残し。


 近づける場所を残し。


 それでも、同じ部屋へ入らなくていい場所を残した。


 そして。


 翌朝になれば。


 また。


 今日とは違う位置から。


 会いたいかどうかを。


 それぞれが。


 もう一度。


 選び直せる。

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