第121話 扉を開ける準備をしても、今日開けると決めたことにはならない
朝の生活観測区画には、昨日までより少し乾いた空気が入っていた。
窓の外には薄い雲が残っているものの、夜明け前の冷たさはすでに弱まり、庭の石畳へ落ちる光も白から淡い金色へ変わり始めている。窓硝子には水滴も曇りもなく、遠くの木々が風に揺れるたび、枝葉の隙間から細い光が室内の床を横切った。
子供は寝台の中で目を覚ますと、しばらく何も言わなかった。
隣を見る。
顔のない存在は、昨夜と同じように寝台へ横になっている。胸に浮かぶ十一の光も消えておらず、そのうち幾つかが弱く明滅していた。
次に、扉を見る。
生活観測区画の外。
さらにその先。
中間通路。
そして、東側地下空室から少しだけ出た名前のない光。
姿は見えない。
けれど、昨日の夜。
そこにいると聞いた。
「いる?」
子供が小さく言った。
アリシアは少し離れた椅子から、問いの向き先を確かめる。
「誰が?」
子供は隣の寝台を見る。
「この人」
それから扉。
「向こうの光」
「どっちも?」
「うん」
アリシアは、すぐにまとめて答えなかった。
「この人は、ここにいる」
「うん」
「向こうの光は、朝の最初の報告では中間通路にいる」
「まだ?」
「まだ」
「戻ってない?」
「うん。大きくは動いてないって」
子供はその言葉を聞くと、安心したような、不安になったような、曖昧な顔をした。
戻らなかった。
それを喜んでいいのか分からないのだろう。
「よかった?」
アリシアが尋ねる。
子供は少し考えたあと、首を傾げた。
「分からない」
「うん」
「来てほしい」
「うん」
「でも、来たら怖い」
「うん」
「戻ったら」
そこで言葉が止まる。
「寂しい?」
「少し」
「でも、戻りたいなら?」
「止めたくない」
「うん」
子供は布団の上へ視線を落とした。
「面倒」
アリシアは少し笑う。
「今日も?」
「今日も」
そこへ、床の無地の布の上で丸くなっていたノアが、ゆっくり前足を伸ばした。
『毎朝同じ結論へ戻ってくるわね』
「ノアが、面倒なのは毎日同じだって」
『言ってない』
「何て?」
「内緒」
「また」
子供が少し笑う。
その笑い声に反応するように、顔のない存在の十一の光が二つほど明るくなった。
子供はすぐに振り返る。
「聞いてる?」
言った直後、自分で少し口を閉じる。
「聞いてるように見える」
アリシアは何も言わず、その言い直しを受け取った。
顔のない存在の頭が、ゆっくり子供の方へ向いた。
「おはよう」
返事はない。
「朝」
十一の光が一つ揺れた。
「今日は」
子供は窓を見る。
「明るい」
人影の頭も、わずかに窓側へ動く。
「見る?」
返事はない。
「私は見る」
子供は自分の寝台から降りた。
足裏を自分で確かめる。
赤み。
痛み。
左右の違和感。
少し歩く。
「大丈夫」
「足?」
アリシアが聞く。
「うん」
「セレナにもあとで見てもらう?」
「うん。でも今は私が見た」
「分かった」
子供は少し得意そうにしてから、棚の前へ向かった。
白い花は、もう最初の頃の面影をかなり失っている。
花弁はほとんど薄茶色になり、中央にだけ白が残っている。乾いた茎は細く、少し触れれば折れてしまいそうだった。
「白い花」
それでも、子供は同じ呼び方をする。
「うん」
「もう白、少ない」
「うん」
「でも白い花」
「うん」
「変じゃない?」
アリシアは花を見た。
「私には、変じゃない」
「どうして」
「子供がそう呼んでるって知ってるから」
「ほかの人が見たら?」
「違う名前を使うかも」
「どっちが正しい?」
「どっちも、その人が何を見てるかで違うかも」
子供は少し考える。
「白だったところも見てる」
「うん」
「今の茶色も」
「うん」
「両方」
「うん」
子供は花へ顔を近づけた。
「匂い」
少し鼻を動かす。
「ほとんどない」
「昨日は?」
「少しあった」
「覚えてる?」
「少し」
「今日は?」
「もっと少ない」
しばらく黙ってから、子供は花へ触れずに離れた。
「なくなる」
「匂いが?」
「うん」
「嫌?」
「少し。でも」
子供は棚の下を見る。
空の箱は見えない場所に置かれている。
「なくなるの、全部止めなくていい」
アリシアは、その言葉に少し驚いた。
「そう思った?」
「うん」
「どうして」
「昨日の甘い橙も、もうない」
「うん」
「鳥も、飛んだらいなくなった」
「うん」
「でも、あった」
「うん」
「白い花の匂いも、あった」
「うん」
「なくなったら、なかったこと?」
「違うと思う」
「なら」
子供は少しだけ笑った。
「覚えてる間はある?」
「そうかもしれない」
「忘れたら?」
「忘れたとしても、あったことまで消えるわけじゃない」
「分からないのに?」
「うん」
「誰も覚えてなくても?」
アリシアは少し黙った。
五百人分の名前。
忘れられた呼び方。
黒月。
六つ目。
自分が選ばれる前から存在していたもの。
「それでも、あったと思う」
子供はその答えを、すぐには飲み込まなかった。
けれど、否定もしなかった。
「じゃあ」
小さく呟く。
「向こうの光も」
「うん」
「戻って、見えなくなっても」
「うん」
「ここに来たことは、なくならない」
「うん」
その瞬間。
顔のない存在が寝台の上でゆっくり身体を起こした。
子供が振り返る。
「おはよう」
人影の頭が少し動く。
「今日も窓?」
子供が尋ねると、十一の光の一つが強くなる。
「行く?」
顔のない存在は、自分で寝台から足を下ろした。
最近は、立ち上がるまでの動きも少し安定している。身体を支えるために寝台の縁へ手を置くことも、子供に促される前から行うようになっていた。
それでも、アリシアたちは「歩けるようになった」とは断定しない。
昨日より長く歩けた日もある。
途中で座る日もある。
その差を、成長の一本道にはしない。
「今日はどこまで?」
子供が尋ねる。
返事はない。
「私は窓まで行く」
そう言って、先に歩き始める。
顔のない存在は少し遅れて進む。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
そこで止まる。
「休む?」
子供が尋ねると、人影はゆっくり床へ座った。
「今日も途中」
子供も少し離れて座る。
窓はまだ遠い。
空全部は見えない。
それでも、上の方に青が少し見える。
「青」
子供が言う。
「昨日より多い」
人影の頭が少し上がる。
「見える?」
返事はない。
「見てるように見える」
子供は自分で補い、床へ座ったまま空を見た。
今日は鳥がすぐには来なかった。
子供は待った。
でも以前ほど、鳥が来ることを願って身体を固くはしない。
窓から入る風の音。
庭木の揺れ。
遠くで交代を知らせる鐘。
朝食を運ぶ食器の小さな触れ合う音。
それらを聞いている。
「来ない」
「今は」
「でも」
子供は空を見た。
「鳥いなくても、朝」
「うん」
「人影と見る」
「うん」
「十一、増えない」
「うん」
「でも、朝」
「うん」
何かが増えなくても。
結果が出なくても。
今日の時間は進んでいる。
そのことを、子供は少しずつ身体で覚え始めていた。
朝食の時間になると、子供は窓から離れた。
今日は粥と根菜に加え、小さな丸い焼き菓子のようなものが皿の端へ置かれている。
子供はすぐに目を留めた。
「甘い?」
治療教師が笑った。
「まだ分かりません」
「アリシア知ってる?」
「知ってるかも」
「名前」
「先に食べる?」
「うん」
子供は少し匂いを嗅ぐ。
昨日の甘い橙とは違う。
白い花とも違う。
香りの植物とも違う。
「甘い匂い」
「少しあります」
治療教師が答える。
「食べる道具?」
「手でも大丈夫です」
「手」
子供は少し驚く。
「触っていい?」
「はい」
指先で持つ。
柔らかい。
少しだけ温かい。
「熱くない」
「うん」
「口」
一口。
噛む。
その瞬間。
子供の目が少し大きくなった。
「甘い」
アリシアが笑う。
「好き?」
セレナが扉の外から尋ねる。
子供は二口目を食べる。
「今は、好き」
「昨日の甘い黄色より?」
子供が止まる。
「違う」
「どっちが?」
「分からない」
「比べなくてもいいですよ」
治療教師が言う。
子供が治療教師を見る。
「どっちが好きか、決めなくていい?」
「はい」
「両方好きでも?」
「もちろん」
「違う好き?」
「そういうこともあります」
子供はもう一口だけ食べた。
「じゃあ」
少し笑う。
「これは、朝の甘い」
「正式名は?」
「知りたい?」
「あとで」
「分かりました」
名前を知らないまま好きになる。
名前を知っても自分の呼び方を使う。
それも、もう特別なことではなくなり始めている。
朝食が終わり、セレナが短い体調確認を終えた頃。
生活観測区画の外で、二度。
短い鐘が鳴った。
昨日までなら、子供はすぐに扉を見ていた。
今日は少しだけ遅かった。
木片を手の中で転がしていた途中だったからだ。
「連絡?」
アリシアが尋ねる。
扉の外から、学院長が答えた。
「東側中間通路についてだ」
子供の手が止まる。
「聞く?」
「今、聞けるか?」
学院長が逆に尋ねた。
子供は少し考えた。
朝。
花。
食事。
甘いもの。
身体。
今。
「聞ける」
「では話す」
学院長は生活観測区画へ入らず、扉の外に立ったまま続ける。
「光は今朝も中間通路にいる」
「戻ってない?」
「完全には」
「近づいた?」
「昨夜より、生活観測区画側へ少し近い」
子供の肩がわずかに固くなる。
「どれくらい」
「昨日、最後に確認した位置から、手の幅二つほど」
「少し」
「そうだ」
「第四の声」
「接続値は低いままだ」
「戻る道」
「開いている」
「生活観測区画の扉」
「閉じたまま」
「光、止まった?」
「今は」
子供は胸へ手を置いた。
「会いたい」
昨日と同じ言葉。
でも、声は少し違う。
勢いではなく。
何度も考えたあとに残った気持ち。
「怖い?」
アリシアが尋ねる。
「うん」
「どっちが大きい?」
「分からない」
「うん」
子供は顔のない存在を見る。
人影は床へ座ったまま。
頭の向きは、いつの間にか扉側へ少し変わっていた。
「この人も」
子供が言う。
「扉」
「うん」
「昨日も」
「うん」
「今日も」
「そう見える」
「光を?」
「そこは分からない」
「でも」
「扉は気にしてるように見える」
顔のない存在の十一の光のうち、一つが静かに揺れた。
子供はすぐに意味を決めなかった。
「学院長」
「何だ」
「今日、会う?」
「今は決めていない」
「まだ?」
「まだ」
子供の顔に少し不満が出る。
「いつ決める?」
「その前に」
学院長は少し間を置いた。
「扉を開けられる状態だけ作りたい」
「開ける?」
「今日は開けない可能性もある」
「でも、準備する?」
「そうだ」
子供は眉を寄せた。
「開けないのに?」
「開けたいとなったとき、準備から始めると、その間に状況が変わるかもしれない」
「じゃあ」
「開ける準備をしておけば、最後に開けるかどうかだけ決められる」
「決めたことにならない?」
「ならない」
子供は少し考える。
「第四の声は?」
「何が?」
「準備したら、もう戻れない?」
「そういう作りにはしない」
「途中でやめる?」
「できる」
「全部戻す?」
「可能な範囲で」
「じゃあ」
子供は少しだけ安心したようだった。
「準備は、してもいい」
「誰が決める?」
「私?」
「子供だけではない」
学院長はすぐに答えた。
「子供。顔のない存在。東側の光。こちらの安全状況。それぞれを分けて見る」
「この人、言えない」
「だから行動を見る」
「光も」
「同じ」
「私だけ、言える」
「言えるからといって、全部決める役にはしない」
子供はゆっくりうなずいた。
「じゃあ」
「うん」
「準備、する」
「子供は賛成?」
「今は」
「分かった」
学院長が合図を出すと、区画の外側で待機していた結界術師たちが動き始めた。
ただし。
扉には触れない。
最初に行うのは、生活観測区画と中間通路の間にある二重結界の確認だった。
普段は、生活観測区画側から外へ出るための扉。
その外側に、もう一枚。
中間通路へ通じる結界。
二つを一度に開けない。
「もし開けるなら」
結界術師が説明する。
「まず外側の結界だけを一部解除します」
「生活観測区画の扉は?」
子供が尋ねる。
「閉じたまま」
「光、入れない?」
「はい」
「じゃあ、何が変わる?」
「空間の間に、閉じた小さな待機場所ができます」
「箱?」
子供がすぐに言った。
学院長が少しだけ目を細める。
「似ている部分はある」
「閉じ込める?」
「誰もそこへ入れなければ、ただ空間ができるだけだ」
「光が来たら?」
「そこで止めることもできる」
「戻る?」
「戻る側は開いたままにする」
「私が行く?」
「今は予定していない」
「この人は?」
「予定していない」
子供は少し安心した。
「じゃあ」
「何?」
「今日は、空の場所作るだけ?」
「まずは」
「名前」
「付けない」
「何も置かない?」
「置かない」
「匂い」
「なし」
「水」
「なし」
「文字」
「なし」
「声」
「必要な指示以外は使わない」
子供は一つずつ確認し、最後に息を吐いた。
「分かった」
準備が始まっても、生活観測区画の日常は止めなかった。
結界術師たちが外で小さな調整をしている間、子供は木片を手に取った。
「遊ぶ?」
顔のない存在へ転がす。
人影はすぐには返さない。
木片は足元で止まる。
「今は、返さない?」
反応なし。
「私は待つ」
子供は少し待った。
扉の外からは、結界術師たちの低い声。
土の神器継承者が床の歪みを確認する音。
遠くの警備員の足音。
いつもより、人が多い。
けれど、区画の中では誰も急がない。
しばらくして。
顔のない存在の手が、木片へ伸びた。
指先が触れる。
少し押す。
ころり。
子供の方へ戻る。
「返した」
子供の顔が明るくなる。
「扉、準備してるのに」
「うん」
「遊んだ」
「うん」
「関係ない?」
「分からない」
「でも」
子供は木片を受け取る。
「今、遊んだ」
「うん」
大きな出来事の準備をしていても。
それだけが今日の全部にはならない。
そのことを。
生活観測区画では、何度も確かめるようになっていた。
昼前。
外側の結界調整が終わった。
学院長から報告が入る。
「準備完了」
子供は木片を膝の上に置いた。
「開いた?」
「まだ」
「全部閉じてる?」
「生活観測区画側の扉は閉じている。外側結界も、通過できない状態だ」
「じゃあ」
「必要なら、段階的に変えられる」
「今、会わない?」
「今は」
子供は少しだけ唇を尖らせた。
「面倒」
「聞いた」
「でも」
子供は扉を見る。
「準備できた」
「うん」
「会いたくなったら」
「すぐ会うとは約束しない」
「また安全」
「うん」
「でも、最初からじゃない」
「うん」
その答えに、子供は少しだけ納得した。
中間通路側。
名前のない光は、結界調整中も大きく動かなかった。
作業の魔力は光へ直接触れない。
それでも、周囲の空気や床の振動がわずかに変わった可能性はある。
「明るさ変化」
サーラが報告する。
「いつ?」
「結界術師が外側の固定石を動かした直後」
「刺激?」
「可能性はあります」
「接続値」
「変化なし」
「移動は」
「ありません」
「記録は?」
「外側固定石移動直後、一時的に明るさ上昇。その後元へ戻る」
「意味は?」
「書きません」
光はそのまま中間通路へ留まり続けた。
生活観測区画側へも。
東側地下空室へも。
大きくは動かない。
「待ってる?」
若い術師が小さく呟く。
サーラは少し間を置いてから答えた。
「そう見えるかもしれません」
「書かない?」
「書きません」
「でも」
「待っているのか。動けないのか。その場所がいいのか。何も決めていないのか。分かりません」
「はい」
「だから、位置だけ」
サーラは記録紙へ必要なことだけを残した。
昼食前。
子供は、準備が終わったと聞いてから何度も扉を見ていた。
アリシアは気づいていた。
けれど。
何度目に見たかは数えない。
なぜ見たかも聞かない。
子供が自分から言うまで待つ。
「アリシア」
「何?」
「開けたい」
来た。
「今?」
「少し」
「少し開けたい?」
「違う」
子供は困った顔をする。
「開けたい気持ちが、少し強い」
「うん」
「怖いもある」
「うん」
「どうする?」
「子供は、決めてほしい?」
子供はすぐに答えなかった。
以前なら。
疲れた。
決めて。
そう言ったかもしれない。
今日は。
少し長く考える。
「自分で決めたい」
「うん」
「でも、一人は嫌」
「一緒に考える?」
「うん」
「じゃあ」
アリシアは扉を見る。
「開けたら、何が一番怖い?」
「光、来る」
「うん」
「この人」
顔のない存在を見る。
「変になる」
「接続?」
「うん」
「第四の声?」
「うん」
「ほかは?」
「私」
「子供が?」
「名前、出る」
三つの音。
胸の中。
「勝手に?」
「夢みたいに」
アリシアの表情が少し硬くなる。
「それは怖いね」
「うん」
「じゃあ、開けるなら何があれば少し安心?」
子供は考える。
「黒月」
アリシアは少し驚く。
「切る?」
「違う」
「持ってるだけ?」
「うん」
「抜かない?」
「うん」
「ほか」
「セレナ」
扉の外。
セレナが少し目を見開く。
「水、怖いのに?」
「今は」
子供は少し考える。
「セレナなら、少し大丈夫」
セレナの表情が、ほんの少し緩んだ。
「ありがとうございます」
「でも、近くは三歩」
「分かりました」
「ノア」
『当然でしょう』
「いるって」
「学院長」
「いる」
「レオンハルト」
「外周へ配置可能です」
「カイル」
廊下の奥。
「俺まで?」
「いる?」
「いるぞ」
「うるさい?」
「それは否定できないな」
「じゃあ、遠く」
「扱い!」
子供が少し笑う。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
「この人」
子供は顔のない存在を見る。
「どうする」
「本人に聞ける範囲で」
「扉」
人影へ向く。
「開けるかもしれない」
十一の光。
一つ揺れる。
「向こう、光」
変化なし。
「分からない光」
もう一つ。
「私は、会いたい」
光が揺れる。
「でも、怖い」
反応はない。
「あなたは?」
返事もない。
子供は少し待つ。
「扉、開いたら」
顔のない存在の頭が、ゆっくり扉へ向く。
「行きたい?」
人影の指が。
床へ。
少しだけ伸びる。
扉ではない。
窓でもない。
そのまま床へ触れる。
「分からない」
子供が言う。
「でも、扉気になる?」
十一の光の一つが少し強くなった。
「そう見える」
アリシアが答える。
「開けるの、嫌?」
変化なし。
「いい?」
変化なし。
子供の眉が寄る。
「分からない」
「うん」
「じゃあ」
子供は自分で考える。
「開けたら、嫌かもしれない」
「うん」
「でも、開けなくても嫌かも」
「うん」
「どうする」
アリシアは答えない。
子供が決めたいと言ったから。
少し待つ。
「少しだけ」
やがて。
子供が言う。
「何を?」
「扉じゃなくて」
「うん」
「外側」
学院長の説明。
生活観測区画の扉。
その先の小さな空間。
さらに外側の結界。
「外側だけ」
「一段階?」
「うん」
「生活観測区画の扉は閉じたまま?」
「うん」
「なら、光も入れない」
「うん」
「子供たちも出ない」
「うん」
「それを今日やる?」
子供は深く息を吸った。
吐く。
「やる」
「分かった」
学院長がすぐに準備へ入る。
「外側結界のみ、第一段階解除」
「解除幅」
「完全開放ではない。魔力膜を薄くするだけ」
「通過可能?」
「不可」
「光は?」
「通れない」
「なら、何が変わる?」
子供が尋ねる。
「魔力の遮断が少し弱くなる」
「向こう、分かる?」
「可能性はある」
「こっちも?」
「顔のない存在が反応する可能性はある」
「私」
「子供も何か感じるかもしれない」
「嫌なら?」
「すぐ戻す」
「何秒?」
子供が聞いて。
自分で少し止まる。
「時間、固定しない?」
「子供が止めてと言うまででもいい」
「でも、私が分からなくなったら?」
「最初は短くする」
「鐘?」
「鐘より短い」
学院長は少し考える。
「アリシアが一息、二回するくらい」
「アリシア?」
「なぜ私」
「子供から見えるから」
アリシアが少し困った顔をする。
「私、呼吸遅いときある」
「では」
土の神器継承者が言う。
「床へ差す光が、椅子の脚一つ分動く前」
「それ、かなり長い」
「朝ほどではない」
子供が少し笑う。
「面倒」
「なら」
学院長も少しだけ口元を緩める。
「最初は、本当に短くする。異常がなければ閉じる」
「私がもっとって言っても?」
「今日は一度閉じてから再判断」
「嫌」
「聞いた」
「でも」
「戻せることを優先する」
子供は少し不満そうだった。
それでも。
「分かった」
午後。
最初の段階。
生活観測区画の扉は閉じたまま。
その外側。
結界術師が魔力膜を一段だけ薄くする。
音はない。
光もない。
床の振動もほとんどない。
見た目には何も変わらない。
「変わった?」
子供が尋ねる。
「今」
学院長が答える。
子供は胸へ手を置く。
「何も」
「うん」
顔のない存在。
床へ座る。
十一の光。
一つ。
少し揺れる。
「この人」
「変化あり」
ミレイが記録しようとして、子供を見る。
「安全判断?」
「最小限だけ」
「分かりました」
中間通路。
名前のない光。
一瞬。
明るさが増える。
「変化」
「接続値?」
「低いまま」
「移動」
「なし」
「第四の声」
「反応なし」
生活観測区画。
子供。
呼吸。
少し早い。
「怖い?」
アリシアが聞く。
「少し」
「止める?」
「まだ」
「身体は?」
「胸、少し」
「痛い?」
「違う」
「苦しい?」
「少しだけ」
「じゃあ」
「まだ」
子供は扉を見る。
「向こう」
「うん」
「何か変わった?」
学院長が報告を受ける。
「明るくなった。移動はなし」
「この人は?」
「光一つが揺れた」
「同じ?」
「違う」
「私は?」
「呼吸が少し早い」
「違う」
「うん」
三者。
同じ結界の変化。
反応は違う。
その違いを。
誰もまとめない。
「閉じる」
学院長が言った。
「もう?」
子供がすぐに反応する。
「最初は短くすると決めた」
「まだ見たい」
「一度戻す」
「嫌」
「聞いた」
「でも」
「戻してから、体調と反応を見る」
子供の表情が不満に歪む。
けれど。
外側結界は元へ戻された。
その瞬間。
顔のない存在の光は弱くなる。
中間通路の光も、少し暗くなる。
子供は胸へ手を置く。
「戻った」
「うん」
「嫌」
「何が?」
「終わった」
「うん」
「もっとしたかった」
「うん」
「向こうも?」
「分からない」
「この人も?」
「分からない」
「私だけ?」
「今、もっとしたいと言ったのは子供」
「うん」
「だから」
アリシアは少し近くへ座る。
「その気持ちは本物」
「でも、止めた」
「うん」
「学院長」
「安全のため」
「面倒」
「聞いた」
学院長は扉の外から短く答える。
子供は少し怒っていた。
でも。
以前とは違う。
怒ったからといって、もう全部やめるとは言わない。
「もう一回」
「今日は再判断する」
「今?」
「少し休んでから」
「どのくらい」
「子供が落ち着くまで」
「私が決める?」
「呼吸が戻ったら、一緒に確認する」
子供は自分の胸へ手を当てた。
「早い」
「うん」
「今、怒ってるから?」
「それもあるかも」
「怖いも?」
「あるかも」
「会いたいも?」
「あると思う」
「全部?」
「たぶん」
子供は少しだけ笑った。
「また両方より多い」
「増えたね」
「面倒」
「うん」
休憩。
木片。
今日は顔のない存在へ転がさない。
子供が一人で転がす。
一回。
二回。
三回。
途中。
人影が自分から手を伸ばした。
木片が近くへ来る。
押す。
子供へ返す。
「遊ぶ?」
子供が少し驚く。
人影はもう一度、木片へ指を伸ばした。
「今?」
子供が笑う。
「扉、終わったのに?」
人影の十一の光が少し揺れる。
「じゃあ、遊ぶ」
子供の呼吸は。
少しずつ。
落ち着いていった。
外側結界を薄くしたこと。
向こうの光が明るくなったこと。
人影の光が揺れたこと。
自分の胸が少し苦しくなったこと。
全部。
残っている。
でも。
今。
木片が転がる。
それも。
同じ午後の中にある。
しばらくして。
セレナが子供の状態を確認する。
「息は?」
「戻った」
「胸」
「変じゃない」
「怖さ」
「少し」
「会いたい?」
子供は少し考える。
「まだ」
「怒りは?」
「学院長に少し」
廊下。
カイルが吹き出す。
「正直だな」
「黙っていろ」
学院長の声。
子供が笑う。
「少し減った」
「怒り?」
「うん」
「じゃあ」
アリシアが尋ねる。
「もう一回やりたい?」
子供は扉を見る。
顔のない存在を見る。
胸へ手。
「やりたい」
「うん」
「でも」
少し考える。
「今日、最初に一回って決めてない」
「うん」
「もう一回してもいい?」
「子供だけで決めない」
「安全?」
「うん」
学院長が現場班へ確認する。
中間通路の光。
状態安定。
接続値低。
第四の声との変化なし。
顔のない存在。
十一の光。
大きな魔力変化なし。
子供。
体調回復。
「再実施は可能」
学院長が言う。
「ただし、今度も短く」
「また戻す?」
「うん」
「嫌」
「聞いた」
「でも、やる」
「分かった」
二回目。
外側結界。
再び。
少しだけ薄くなる。
子供は今回は立たず、床の布へ座ったまま。
顔のない存在も。
少し離れた位置。
中間通路。
光。
動かない。
「変わった」
学院長。
子供の呼吸。
今度は。
少しだけ早くなる。
でも。
前ほどではない。
「怖い?」
アリシア。
「少し」
「まだ?」
「うん」
顔のない存在。
十一の光。
今度は二つ。
明るくなる。
「二つ」
「うん」
東側の光。
輪郭。
少し。
横へ広がる。
「形」
「固定しません」
サーラ。
「移動」
「ごく僅かに生活観測区画側」
子供の目が大きくなる。
「来た?」
「少しだけ」
「私?」
「分からない」
「この人?」
「分からない」
「結界?」
「それも分からない」
子供は胸へ手を置く。
会いたい。
怖い。
嬉しい。
少し。
全部。
「もっと」
言いかけ。
アリシアを見る。
「まだ、やりたい?」
「うん」
「でも?」
子供は考える。
「向こう、嫌か分からない」
「うん」
「この人も」
「うん」
「私だけ、もっと」
「うん」
「じゃあ」
長く。
息を吐く。
「今日は、ここで終わる」
学院長が確認する。
「自分で?」
「うん」
「本当に?」
「うん」
「戻すぞ」
「うん」
外側結界が元へ戻る。
中間通路の光。
少し暗くなる。
でも。
元の位置まで戻らない。
顔のない存在の光も。
二つ。
ゆっくり元の明るさへ。
子供は胸へ手を置いたまま。
「終わった」
「うん」
「今、嫌じゃない」
「うん」
「もっとしたいけど」
「うん」
「明日もある」
「うん」
「光、戻るかも」
「うん」
「この人、違うかも」
「うん」
「私も」
「うん」
「でも」
子供は少し笑った。
「今日、二回した」
「うん」
「昨日より近い?」
「何が?」
「会う」
アリシアは少し考える。
「距離は、少し近くなったかも」
「でも会ってない」
「うん」
「なら」
子供は扉を見る。
「準備した」
「うん」
「開けなかった」
「うん」
「それも進んだ?」
「子供は?」
「少し」
「うん」
夕方。
西側貯水槽では。
また別の光が。
北側排水路から外周方向へ。
少し動いていた。
しかし。
生活観測区画へ。
その報告は。
すぐに送られなかった。
子供は。
今。
東側の光との距離について。
自分の身体と。
顔のない存在の反応と。
今日の二回を。
受け止めている。
すべての変化を。
一つの場所へ。
集めない。
学院側も。
それを。
守り始めている。
夕食。
今日は。
朝の甘いものは。
出なかった。
子供は少し不満そうに。
「朝の甘い」
と言った。
「また別の日」
治療教師。
「今日、好きだった」
「聞きました」
「明日も?」
「身体の状態を見て」
「面倒」
「はい」
子供は少し笑う。
「でも」
粥。
根菜。
小さい白。
「これも食べる」
「うん」
アリシアが答える。
生活。
扉。
光。
全部。
同じ日にある。
夜。
子供は棚の下の木箱を。
今日は。
見なかった。
「戻りたい?」
アリシアは。
尋ねなかった。
子供が。
自分から。
胸へ手を置く。
「少しある」
「うん」
「でも」
扉を見る。
「向こうも、少し近い」
「うん」
「ここにもいたい」
「うん」
「全部」
子供は少し考える。
「今日は、箱に入れなくていい」
「うん」
「胸にあっても」
「うん」
「重くない?」
「少し重い」
「うん」
「でも、持てる」
アリシアは。
それ以上。
何も言わなかった。
顔のない存在は。
眠る前。
扉へ。
一度だけ。
頭を向けた。
手は伸ばさない。
立たない。
ただ。
見るような向き。
「明日?」
子供が尋ねる。
十一の光。
一つ。
小さく揺れる。
「私も」
子供。
「明日、また考える」
光。
もう一つ。
揺れる。
中間通路。
名前のない光。
夜。
外側結界。
元通り。
生活観測区画側。
閉じたまま。
戻る道。
開いている。
第四の声。
遠い。
「戻れ」
返事なし。
「名を受けよ」
返事なし。
「帰属せよ」
光。
少し。
暗くなる。
でも。
戻らない。
生活観測区画側へも。
進まない。
今日。
二度。
結界が。
薄くなった。
そのたび。
光は。
少し。
変わった。
人影も。
子供も。
違う変化。
それ以上は。
誰も。
試さなかった。
扉は。
まだ。
閉じている。
けれど。
開けられる準備は。
終わっている。
それは。
今日開けると。
決めたことではない。
明日。
開けるとも。
決めていない。
戻るかもしれない。
近づくかもしれない。
怖くなるかもしれない。
会いたくなくなるかもしれない。
それでも。
もし。
開けたいと。
誰かが思ったとき。
その気持ちを。
準備不足という理由だけで。
止めなくてもいいように。
道だけは。
少しずつ。
整えられている。
進むことと。
進める状態を作ることは。
同じではない。
扉を開ける準備をしても。
その扉を。
今日開けなければならないわけではない。
そして。
閉じたままの扉の両側で。
三つの違う存在は。
それぞれ。
今日の距離を。
自分の場所として。
残したまま。
夜を迎えた。




