第122話 扉を開けても、その向こうへ進まないことは選べる
翌朝、生活観測区画の窓の外には、久しぶりにはっきりとした青空が広がっていた。
昨日まで空を覆っていた薄い雲は東の端へ追いやられ、朝日が庭の石畳を明るく照らしている。窓枠から伸びた影も普段より濃く、低い棚の脚を越えて、床へ敷かれた無地の布の端まで細長く届いていた。
夜のあいだに雨は降らなかったらしい。窓硝子には水滴一つ残っておらず、風も弱いため、庭の木々も枝先をわずかに揺らすだけだった。
その細い枝の一本に、小鳥が止まっている。
鳥は何度か首を傾け、まだ鳴かないまま別の枝へ飛び移った。
子供が目を覚ましたのは、その少し前だった。
寝台の中でゆっくり瞬きを繰り返したあと、最初に窓ではなく隣の寝台へ目を向ける。
顔のない存在は、まだ横になっていた。
胸には十一の光が残っている。
昨夜と同じ数だった。
ただし、明るさまですべて同じではない。中央寄りの二つは周囲より少し弱く、外側にある一つだけが、呼吸の代わりをするようにゆっくり明滅している。
「いる」
子供が小さく呟いた。
返事はない。
それでもその声には、以前のような切迫した響きがほとんどなかった。返事が返ってこなければ存在まで消えてしまうと恐れて確認しているのではなく、朝になっても変わらずそこにいることを、自分の目で確かめているだけだった。
「朝」
もう一度、知らせるように言う。
すると十一の光のうち二つが、わずかに明るさを増した。
子供はそれをじっと見たあと、すぐに「聞いた」とは言わなかった。
「聞いてるように見える」
自分でそう言い直してから、今度は部屋の扉へ目を向ける。
生活観測区画の内扉は閉じたままだった。
その先には、昨日二度だけ薄くした外側結界がある。
さらにその向こう。
中間通路には、名前のない光が留まっている。
「向こうも?」
短い問いだったが、アリシアには何を聞かれているのか分かった。
「朝の報告では、いるよ」
「まだ?」
「うん」
「近い?」
「昨日の夜と、ほとんど同じところ」
「戻ってない?」
「戻ってない」
「こっちにも?」
「大きくは近づいてないよ」
子供は布団の中から扉を見つめた。
昨日は、外側結界を二度だけ薄くした。
一度目は、怖かった。
もう少し続けたいと思ったのに、学院長がそこで止めた。
二度目は、自分でも怖さを抱えたまま続けた。
向こうの光が少し動いた。
顔のない存在の胸に浮かぶ光も二つ強くなった。
それでも最後は、自分で終わりにした。
怖かったから。
続けたいとも思ったから。
その二つを同時に抱えたまま、昨日はそこで止めた。
「今日」
子供がぽつりと言った。
「うん」
「開ける?」
アリシアは、すぐには答えなかった。
昨日より準備が進んでいることは知っている。けれど、開けられることと、開けるべきことは同じではない。
子供もそれを察したらしい。
「まだ決めてない?」
「うん」
「昨日、準備した」
「うん」
「なら、開けられる」
「開けられるよ」
「でも、開けるじゃない」
「うん」
子供は少しだけ口を尖らせた。
「面倒」
「今日も?」
「今日も」
床の無地の布の上で寝そべっていたノアが、片方の耳だけをぴくりと動かした。
『むしろ、ここで簡単にしたら危ないでしょう』
「ノアが、面倒な方が安全だって」
『そこまで単純化していないわ』
「何て?」
子供が尋ねる。
「内緒」
「また」
子供が小さく笑った。
その笑い声が消えてから少し遅れて、顔のない存在の胸にある十一の光が幾つかゆっくり揺れた。
「起きる?」
子供が隣の寝台へ声をかける。
反応はない。
以前なら、もう一度呼んだかもしれない。
今日は違った。
「私は起きる」
そう言って、自分から布団をめくる。
寝台から足を下ろしたあと、床へ降りる前に足裏を確かめた。皮膚の色を見て、指先で軽く触れ、足の指を曲げる。
それから片足ずつ石床へ置いた。
「痛くない」
アリシアは、子供が自分で確認を終えるまで待ってから声をかけた。
「自分で分かった?」
「うん」
「あとでセレナにも見てもらう?」
「見てもらう。でも、最初は私が見た」
「うん。分かった」
その答えに、子供は少しだけ得意そうな顔をした。
自分の身体がどうなっているのかを、毎回誰かに尋ねなければ分からないわけではない。
全部は分からなくても。
少しなら、自分でも分かる。
子供は立ち上がると、まず棚へ向かった。
白い花は、最初に置かれたときから比べれば、別のものに見えるほど姿を変えている。
花弁の大部分は薄い茶色へ変わり、中央の奥にだけわずかな白さが残っていた。水気を失った花弁は縮れ、細くなった茎も乾いた小瓶の縁へ寄りかかるように傾いている。
それでも。
「白い花」
子供は同じ名前で呼んだ。
「うん」
アリシアも訂正しない。
「今日、もっと茶色」
「うん」
「白、少し」
「うん」
「でも、白い花」
「うん」
子供は慎重に顔を近づけ、鼻先を花へ寄せる。
以前なら壊してしまうことを恐れ、すぐに離れていた。今も触れはしないが、見るだけでなく、自分から変化を確かめようとしている。
「昨日の匂い」
「覚えてる?」
「少し」
「今日の匂いは?」
子供はもう一度鼻を近づける。
少し待った。
「ほとんど分からない」
「そっか」
「なくなった」
「匂いが?」
「うん」
その声には、少しだけ寂しさが混じっていた。
子供は乾いた花を見つめる。
「でも、昨日はあった」
「うん」
「覚えてる」
「うん」
「全部なくなってない?」
アリシアは少し考えてから答えた。
「子供の中には、少し残ってるね」
「忘れたら?」
「そのときは、思い出せなくなるかもしれない」
「でも、あった?」
「うん。思い出せなくなっても、昨日あったことまでなくなるわけじゃない」
子供はその言葉をしばらく考え、それ以上は尋ねなかった。
花へも触れない。
そのまま少し離れる。
棚の一番下には、戻りたいと思った気持ちを置いたことにしている木箱がある。
今は立ったままでは見えない。
子供もしゃがまなかった。
「箱、見ない?」
アリシアが尋ねる。
「うん。あるって知ってる」
「戻りたい気持ちも?」
子供は自分の胸へ手を置いた。
昨日ほどすぐには答えず、自分の内側を確かめるように少し黙る。
「ある」
「うん」
「昨日より?」
「分からない」
「うん」
「でも今日は、向こうの光の方を考える」
視線が扉へ移る。
「箱、開けなくていい」
「分かった」
戻りたい気持ちが消えたわけではない。
けれど、それを毎朝取り出して確かめる必要もない。
今は別のことを考えたい。
生活の中では、すべての感情を同時に机の上へ並べなくてもいい。
そのとき、隣の寝台で布がわずかに擦れる音がした。
顔のない存在が、ゆっくり上体を起こしている。
「おはよう」
子供が振り返る。
顔のない頭が少しだけ子供の方へ向いた。
「今日、青いっぱい」
子供が窓を指す。
胸の十一の光のうち一つが強くなる。
「見る?」
返事はない。
子供は少し待ったあと、自分の気持ちを先に言った。
「私は見る」
窓へ向かって歩き出す。
顔のない存在も、少し遅れて寝台から足を下ろした。
立ち上がった身体は、昨日ほど大きく揺れなかった。
子供は反射的に手を伸ばすこともなく、少し離れた位置からその動きを見守る。
「今日……」
何か言いかけ、途中で止まった。
「何?」
アリシアが尋ねる。
「昨日より上手って言おうとした」
「うん」
「でも」
子供は人影を見る。
「歩くとき、昨日より揺れてないように見える」
「うん。それなら、見えたことだね」
「上手?」
「歩くことだけなら、そう言ってもいいと思う」
「人間に近いは?」
「まだ分からない」
「うん」
子供は少し笑った。
「じゃあ、歩くの上手になったように見える」
顔のない存在は五歩。
それから、もう一歩。
昨日より一歩だけ遠くまで進んだところで止まり、自分から床へ座った。
「休む」
「うん」
「でも、遠くまで来た」
「うん」
子供も少し離れたところへ腰を下ろした。
完全には並ばない。
前後にも横にも少しずつずれている。
互いが自分で立ち上がり、自分で動ける距離を残したままだった。
窓の上側には、澄んだ青空が見える。
さっき枝を移った鳥が、今度は短く一度鳴いた。
「鳴いた」
子供の声に、顔のない存在の頭が上がった。
鳥がもう一度鳴く。
「今日、声」
人影の指が床から少し浮く。
窓そのものを指すほど大きな動きではなかったが、向いている方向はそちらだった。
「聞こえた?」
子供が尋ねる。
返事はない。
アリシアは少し待ってから、問いの形を変えた。
「子供には、聞こえたように見える?」
「うん」
「じゃあ、今はそれでいいんじゃないかな」
「でも、本当は分からない」
「うん」
子供は満足したように窓を見上げた。
「十一、増えない」
「うん」
「昨日も増えなかった」
「うん」
「でも、鳥鳴いた」
「うん」
「今日の朝」
「うん」
「これでいい」
アリシアは何も足さなかった。
光が増えなければ、出来事に意味がない。
変化が起きなければ、時間を過ごしたことにならない。
そんな考えから、子供は少しずつ離れ始めている。
朝食には、いつもの粥と柔らかく潰した根菜、それから子供が「小さい白」と呼ぶ塩が用意されていた。
昨日の朝に出された甘い焼き菓子はない。
代わりに、小さな皿へ二種類の果実が少しずつ載っている。
一つは、以前食べた甘い黄色。
もう一つは、甘い橙。
席へ着いた子供は、二つの皿を交互に見た。
「両方」
「身体の状態が良いので、今日は少しずつ試せます」
治療教師が答える。
「昨日、黄色なかった」
「はい」
「今日ある」
「はい」
「橙もある」
「はい」
「どっち先?」
そこまで言ったあと、子供は自分で少し笑った。
「選ぶ」
扉の近くにいるセレナが、その笑みを見て尋ねる。
「疲れていませんか?」
「今は大丈夫」
「では、子供が決めてください」
少し考えてから、子供は甘い黄色を取った。
「こっち」
一口。
以前より少し柔らかくなっている。
子供は目を細めた。
「違う」
「前に食べたものと?」
「うん。でも甘い黄色」
「今も好き?」
「好き」
次は甘い橙。
同じように少量を口へ運ぶ。
ゆっくり噛む。
「こっちも好き」
「どちらが――」
治療教師が尋ねかけて、途中で止まった。
その変化に、子供が先に気づく。
「比べなくてもいい?」
「はい。比べたいなら比べてもいいですし、決めなくても構いません」
「今日は、黄色も橙も好き」
「分かりました」
「同じ好き?」
「どうですか?」
子供は皿を見比べる。
「違う気がする」
「それでもいいと思います」
「二つ好き」
少し嬉しそうに言った。
その言葉を聞いたアリシアは、なぜか胸の奥が少しだけ軽くなった。
一つを好きになったら、もう一つを捨てなければならないわけではない。
どちらかを選ばなければ、本当に好きではないわけでもない。
好きという気持ちさえ、一つの形へまとめなくていい。
今日の子供は、そんなことを食事の中からも覚えていく。
その途中。
生活観測区画の外で、短い鐘が一度だけ鳴った。
子供の手が止まる。
「光?」
アリシアも扉を見た。
「たぶん」
すると、外から学院長の落ち着いた声が届いた。
「急ぎではない。食べ終えてからでいい」
子供が目を瞬く。
「今、聞かなくていい?」
「食事中だ」
「でも、光」
「危険反応は出ていない。今すぐ聞かなければならない報告ではない」
子供は学院長の見えない扉と、自分の皿を交互に見た。
少し考え。
「なら、食べる」
「うん」
アリシアが答える。
鐘が鳴った。
西側で何かが起きている。
それでも今食べているものを途中で置き、すぐ異変の方へ向かわなくてもいい。
少し前までなら考えられなかったことだった。
子供は果実を全部食べきらず、黄色も橙も少し残した。
「もう、いっぱい」
「お腹は苦しくない?」
「ない。でも、もういい」
「分かりました」
「黄色、残る?」
「はい」
「橙も?」
「保存状態に問題がなければ」
「昼まで?」
「確認します」
「じゃあ、あとで」
「はい」
食事が片づけられたあと、セレナが短い体調確認をした。
今朝、子供が自分で確認した足裏にも異常はない。
身体に問題がないことを確認してから、ようやく学院長が扉の外へ立った。
「聞けるか?」
「今は大丈夫」
「では話す」
子供は床の無地の布へ座り、丸い木片を膝の上へ載せた。
アリシアも少し離れたところへ腰を下ろす。
「中間通路にいる光は、朝から大きく動いていない」
「近づいてない?」
「ほとんど」
「戻ってない?」
「はい」
「じゃあ、何があった?」
「もう一つある」
学院長は少し間を置いた。
「西側貯水槽側から、新たに別の光が外周方向へ動いている」
子供の指が木片の上で止まった。
「東じゃない?」
「今のところ北寄りだ」
「こっちに来る?」
「分からない」
「同じ光?」
「今観測している位置と動き方から、別の光として扱っている。ただし、別の存在だとまでは決めていない」
「うん」
子供は一度息を吐いた。
「それと」
学院長の視線が、中間通路のある方向へ移る。
「生活観測区画の外側結界を、今日は一段薄くするだけではなく、完全に開けられる状態まで準備できた」
子供の指が木片を少し強く握った。
「扉?」
「生活観測区画そのものの扉ではない。外側の結界だ」
「昨日は薄くした」
「そうだ。今日は必要なら、光が通過できる程度まで開放できる」
「光、来れる?」
「外側の待機空間までは」
「でも、この部屋には?」
「内側の扉を開けない限り入れない」
「私たちも?」
「内扉を開けない限り出ない」
子供の呼吸が少し浅くなった。
昨日より。
扉一枚。
近い。
怖い。
でも、会いたい。
「今日、やる?」
学院長が尋ねた。
すぐには返事が出ない。
子供は膝の上の木片を見た。
「アリシア」
「うん」
「決めてほしい?」
思いがけず逆に聞かれ、アリシアが目を瞬く。
「私が?」
「昨日、私が決めた」
「うん」
「今日は……分からない」
子供は木片を指先で転がした。
「疲れてない。でも怖い」
「うん」
「自分で決めたい?」
「少し」
「一人だけで決めるのは嫌?」
「うん」
「なら、一緒に考えよう」
子供は学院長へ視線を向けた。
「外側を開けたら、向こうの光が来るかもしれない」
「はい」
「来ないかもしれない」
「はい」
「戻るかもしれない」
「はい」
「この人も」
顔のない存在を見る。
「どうなるか分からない」
「はい」
「私も」
「はい」
「第四の声は?」
「接続は低い。だが、完全にないとは言わない」
「怖い」
「うん」
アリシアは否定しなかった。
「でも、会いたい」
「うん」
「外側だけなら、まだ会わない?」
「生活観測区画の内扉を閉じたままなら、直接は会わないよ」
「光は近くまで来られる」
「うん」
「この人は内側」
「うん」
「私も」
「うん」
子供は長く黙った。
木片を手の中で転がす。
押して。
戻して。
もう一度押す。
誰にも急かされない時間が続いた。
「開ける」
やがて子供が言った。
学院長が確認する。
「外側結界を?」
「うん」
「今日?」
「うん」
「今すぐ?」
子供は首を横へ振った。
「まだ」
「いつにする?」
「朝の木片」
「木片?」
「この人と少し遊ぶ。それから」
子供は顔のない存在を見た。
「開ける」
学院長は理由を尋ねなかった。
「分かった」
「待つ?」
「待つ」
「急がない?」
「急がない」
その返事を聞いた子供の肩から、わずかに力が抜けた。
大きなことを決めた。
だからといって、決めた瞬間に行動しなければならないわけではない。
決めたことを自分の中へ置き、身体と気持ちが追いつくまで少し過ごす時間があっていい。
子供は丸い木片を床へ置き、顔のない存在へ向かって転がした。
木片は人影の足元で止まる。
「遊ぶ?」
反応はない。
子供は急かさない。
「私は、やりたい」
そう伝えて待つ。
しばらくして、顔のない存在の指がゆっくり木片へ伸びた。
触れる。
少し押す。
ころころと木片が子供の方へ戻ってくる。
「返した」
子供の顔が明るくなった。
「もう一回」
今度は子供が返す。
顔のない存在は、さっきより少し早く指を伸ばした。
木片がまた戻る。
「今日、早い」
子供は言ったあと、すぐに言い直した。
「前より早いように見える」
「うん」
アリシアは笑ってうなずいた。
三度。
四度。
五度。
そこで、顔のない存在の手が木片へ伸びなくなった。
「終わり?」
返事はない。
子供は少し待つ。
「今は終わりに見える」
自分のところへ木片を戻し、両手で持つ。
それから立ち上がった。
「じゃあ、開ける」
外側結界の完全開放。
言葉だけを聞けば、それはここ数日の中でも大きな出来事だった。
けれど学院側は、あえて人数を増やさなかった。
生活観測区画の内部にいるのは、子供、顔のない存在、アリシア、ノア。
ミレイは安全記録に必要なため扉付近へ。
セレナは、子供との取り決め通り内部へ三歩まで。
外側には学院長、レオンハルト、土と風の神器継承者、それから最低限の結界術師が配置されている。
カイルは、さらに離れた廊下の奥だった。
「本当に遠いんだけど」
カイルのぼやきが廊下から届く。
子供が少し笑う。
「うるさいから」
「俺、一応火の神器継承者なんだけどな?」
「関係ない」
「最近みんな、それ言わないか?」
セレナが小さく息を吐いた。
「静かにしてください」
「はい」
カイルが素直に引き下がり、子供がもう一度小さく笑う。
張り詰めかけていた空気が、そのやり取りだけでほんの少し緩んだ。
学院長が周囲を見渡した。
「準備する」
中間通路には、名前のない光がいる。
今の位置は、生活観測区画から十数歩以上離れている。
外側結界を開けても、子供から直接姿が見えるわけではない。
「光、見えない」
子供が言う。
「うん」
「開けても?」
「内側の扉は閉じたままだから」
「匂いも?」
「今回は使わない」
「声も?」
「ない」
「でも近くなる?」
「魔力的な隔たりは一つ減る」
その説明に、子供の指先が少し強く胸元を押した。
「怖い」
「うん」
「止めてって言ったら?」
「開く前なら止める」
「開けたあとも?」
「閉じ直せる」
「すぐ?」
「状況を確認してから、できるだけ早く」
「光が中へ来てたら?」
学院長が答えた。
「外側の待機空間へ入った場合、まず位置を確認する。戻る方向は閉じない」
「閉じ込めない?」
「そのための待機空間だ」
子供はゆっくりうなずいた。
学院長が改めて全員へ告げる。
「外側結界を開放する。生活観測区画側の内扉は閉鎖を維持。光への呼びかけは禁止。誘導魔力なし。新しい照明、香り、音刺激も使用しない」
「了解」
結界術師たちの声が低く重なる。
子供は胸へ手を置いたまま、順番に周囲を確かめた。
「アリシア」
「いるよ」
「黒月」
「持ってる。でも今は抜かない」
「セレナ」
「ここにいます」
「三歩?」
「約束通り三歩です」
「ノア」
『いるわ』
「いるって」
最後に、顔のない存在を見る。
十一の光。
「この人も、いる」
「うん」
そして、自分の胸へ触れた。
「私もいる」
「うん」
子供はゆっくり息を吸う。
吐く。
もう一度。
それから学院長を見た。
「開けて」
学院長が片手を上げる。
「開放」
結界術師が操作へ入る。
外側結界が、ゆっくり解除されていった。
生活観測区画の内側から見える景色は、何も変わらない。
扉も。
壁も。
床も。
窓から入る朝の光も。
形として変わったものはない。
それでも子供の身体が、わずかに硬くなった。
「分かる?」
アリシアが静かに尋ねる。
「少し」
「どこ?」
「胸」
「痛い?」
「違う」
「冷たい?」
「違う」
子供は言葉を探す。
「……近い?」
「何が?」
「分からない。でも、近い感じ」
アリシアはそれ以上、言葉を与えなかった。
顔のない存在にも変化が出ている。
十一の光のうち、一つ。
二つ。
三つ。
普段より明らかに強くなった。
「三つ」
子供が小さく言う。
「うん」
一方、中間通路でも変化が確認されていた。
外側結界が完全に開いた瞬間、名前のない光の輪郭が一度だけ大きく揺らいだ。
別室のサーラから、抑えた声で報告が届く。
「明るさ上昇。輪郭が一度拡大。第四の声との接続値に変化なし」
学院長が尋ねる。
「移動は?」
「まだありません」
「なら待つ」
それ以上の命令は出ない。
人間側は何もしない。
呼ばない。
近づかない。
刺激を増やさない。
固定した秒数を数えることさえせず、ただ変化を見る。
生活観測区画では、子供が胸へ手を置いたまま座っている。
顔のない存在は、いつの間にか窓ではなく扉の方へ頭を向けていた。
「この人」
「うん」
「扉見てる」
「そう見える」
「行く?」
返事はない。
「立つ?」
それにも反応はない。
だが、人影の手が床の上を少しだけ前へ動いた。
「動いた」
「うん」
子供は立ち上がらない。
人影へ触れもしない。
ただ、自分がどこにいるかを伝えた。
「私は、ここ」
十一の光が揺れる。
「扉は閉じてる」
また一つ。
「向こうは開いた」
子供はそこで言葉を止めた。
行きたいなら。
そう言いかけたのだろう。
けれど今、生活観測区画の内扉は閉じている。
「今は、行けない」
人影の手が止まった。
「嫌?」
反応はない。
子供は少し不安そうに見つめたあと、自分で首を小さく振る。
「分からない。でも、今は閉じてる」
その頃。
中間通路の光が初めて動いた。
「移動確認」
サーラの報告に、周囲の空気が一段張る。
「方向は?」
「生活観測区画側です」
子供の呼吸が速くなった。
「来た?」
「少しだけ、こっちへ動いた」
アリシアは事実だけを答える。
「どれくらい?」
「前より近い」
学院長が子供を見た。
「止めるか?」
子供はすぐに答えられなかった。
「怖い?」
アリシアが尋ねる。
「うん」
「閉じたい?」
「分からない」
「決めてほしい?」
「まだ」
その言葉が出たため、誰も代わりに判断しない。
名前のない光は、中間通路をゆっくり進んでいた。
途中で止まり。
また少し動く。
人間側が用意した待機空間の少し手前で、再び止まった。
「停止しました」
「位置」
「外側待機空間の入口まで、手の幅三つほど」
「接続値」
「変化なし」
「第四の声」
「新しい反応なし」
「危険値」
「平常範囲です」
学院長は何も命じなかった。
生活観測区画でも、誰も動かない。
「来ない?」
子供が言う。
「今は止まってる」
「怖い?」
「光が?」
「うん」
「それは分からない」
「私、怖い」
「うん」
子供は胸を押さえたまま、少し俯いた。
「でも」
声が続く。
「嬉しい」
アリシアが横顔を見る。
「近づいたから?」
「うん」
「怖いのに?」
「うん」
子供は少し困ったように笑った。
「両方」
「うん」
「また」
「うん」
その笑みに反応したように、顔のない存在の胸で十一の光のうち四つが少し明るくなった。
ほぼ同じ頃。
中間通路の名前のない光も、輪郭を少し横へ広げる。
「同時です」
若い観測者が思わず呟いた。
すぐにサーラの声が飛ぶ。
「別々に記録してください。理由を同じにしないで」
「はい」
同じ時刻。
似た変化。
それでも。
同じ理由とは決めない。
名前のない光は、待機空間の入口前に長く留まった。
やがて、ほんの少しだけ前へ進む。
「入る……?」
若い術師が小さく言い、学院長に視線だけで制された。
光は境目へ触れる。
半分ほどが待機空間へ入ったところで、また止まった。
「半分ほど入りました」
報告を聞いた子供が、自分の胸をさらに強く押さえる。
学院長が確認した。
「止めるか?」
「まだ」
声が少し震えている。
「怖い?」
「うん」
「身体は?」
「胸、早い」
セレナが距離を保ったまま子供の顔色と呼吸を見る。
「顔色は維持しています。呼吸は速いですが、受け答えは保てています」
「黒月は?」
学院長。
「反応なし」
アリシアが答える。
「第四の声との接続も上昇なし」
少しして。
名前のない光が、残りの半分も待機空間へ入った。
「入りました」
子供が息を呑む。
内扉。
その向こうの短い空間。
さらに外側。
今までで最も近い位置に、名前のない光がいる。
まだ姿は見えない。
けれど。
「近い?」
子供が尋ねる。
「今までで一番近いよ」
「どれくらい?」
「扉と、その向こうの待機空間を挟んでる」
「見えない」
「うん」
「でも、いる」
「うん」
そのとき。
顔のない存在が、ゆっくり立ち上がった。
区画の内外で、幾人もの呼吸が止まる。
警備担当も。
結界術師も。
誰もすぐには動かない。
「この人」
子供が振り返った。
顔のない存在は窓ではなく、内扉へ身体を向けていた。
一歩。
前へ進む。
「待って」
子供の声が反射的に出た。
顔のない存在は止まった。
その瞬間。
言った本人の方が大きく動揺した。
「命令した?」
アリシアは答えを与えず、ゆっくり聞き返す。
「止まってほしくて言った?」
「怖かった」
「うん」
「この人、行くと思った」
「うん」
「止まった」
「うん」
「私が言ったから?」
「可能性はある。でも分からない」
「嫌だった?」
「それも分からない」
子供は立ったまま動かない顔のない存在を見つめた。
「ごめん」
返事はない。
「私、怖かった」
十一の光が小さく揺れる。
「行きたいなら……」
子供の声が途切れた。
何度か息を吸う。
「今は、私が怖い」
顔のない存在は、その場へ止まったままだった。
アリシアは言葉を急かさない。
子供は自分で続けた。
「だから、今は行かないでほしい」
お願い。
命令ではないと言い切ることもできない。
けれど、自分の恐怖を消して相手へ譲ることもしない。
「でも」
子供はすぐに言葉を足す。
「あなたが行きたいって思うのは、嫌じゃない」
十一の光のうち二つが強くなる。
「ただ、私が怖い」
子供の目に涙が浮かんだ。
「怒った?」
「分からない」
「嫌われた?」
「それも分からない」
「でも、止まった」
「うん」
「私のせい?」
「そうかもしれない」
曖昧に慰めない。
子供の呼吸がさらに速くなった。
学院長が静かに声をかける。
「閉じるか?」
子供は反射的に首を横へ振った。
「まだ」
「大丈夫か?」
「分からない」
「一つ、決めてほしい?」
今度は。
子供がゆっくりうなずいた。
「うん」
「何を?」
「閉じるか」
アリシアは目を閉じず、今あるものを一つずつ見る。
待機空間へ入った名前のない光。
扉へ向かった顔のない存在。
泣いている子供。
第四の声との接続は増えていない。
危険値も低い。
だが。
安全だから続けられるとは限らない。
身体と心も、守る対象だった。
「一度、外側結界を閉じる」
子供の顔に、残念そうな色が浮かぶ。
そのすぐ隣に。
安堵もあった。
「光は?」
「待機空間にいるなら」
アリシアは学院長へ確認する。
「戻る側を開けたまま、生活観測区画側の外結界だけ戻せる?」
「できる」
「閉じ込めない?」
子供が尋ねる。
「光が戻りたければ、元の通路へ戻れる」
「じゃあ」
アリシアは子供を見る。
「今日は一度閉じる」
「会ってない」
「うん」
「近くまで来た」
「うん」
「この人も行こうとした」
「そう見える」
「でも」
子供は涙を拭わないまま胸を押さえた。
「私が怖い」
「うん」
少し間を置き。
「閉じて」
「分かった」
学院長が即座に指示を出す。
「外側結界復帰。待機空間から元通路への退路は維持する」
「了解」
結界がゆっくり戻っていく。
名前のない光は、その瞬間に少しだけ輪郭を揺らした。
「光に変化」
「接続値は?」
「変化なし」
「移動は?」
「ありません」
「退路?」
「開放維持」
生活観測区画では、子供の呼吸が少しずつ落ち着き始めた。
顔のない存在は立ったまま、閉じた扉へ身体を向けている。
「この人」
子供が呟く。
「まだ、扉見てる」
「うん」
「行きたい?」
「分からない」
「私が止めた」
「うん」
「嫌」
「何が?」
「止めたこと」
「うん」
「でも、怖かった」
「うん」
アリシアは少しだけ子供へ近づいた。
触れはしない。
「怖いから、止めてほしいって言うことも、子供の気持ちだよ」
「この人の気持ちは?」
「同じくらい大事」
「ぶつかった」
「うん」
「どうする?」
その問いに。
アリシアは、すぐに解決策を出さなかった。
「今日は、ぶつかったって分かったところまでにする?」
「終わり?」
「今は。子供が休んで、顔のない存在と、向こうの光の状態も確認してから、もう一度考えることはできる」
子供は長く扉を見た。
次に顔のない存在を見る。
最後に、自分の胸へ手を置く。
「今日は」
息をゆっくり吐く。
「もう開けない」
「自分で決める?」
「うん」
「嫌じゃない?」
「嫌」
「うん」
「でも怖い」
「うん」
「この人も止めた」
「うん」
「向こうの光も、待機空間にいる」
「うん」
「全部、今は止まってる」
「うん」
子供は袖で涙を少し拭った。
「なら、今日は止まる」
その言葉に。
顔のない存在の十一の光のうち一つが、ゆっくり明るくなった。
「聞いた?」
子供が尋ねる。
「そう見える」
アリシアが答える。
子供は、今度はほんの少しだけ笑った。
午後。
名前のない光は、外側結界が元へ戻ったあとも、待機空間からすぐには動かなかった。
戻る道は開いている。
東側地下空室へ戻ることも。
その先の元通路へ進むこともできる。
それでも光は、待機空間の中央近くへ留まり続けていた。
「閉じられたから、動けない?」
若い術師が尋ねる。
「戻る方向は開いています」
別の術師が答える。
「なら、自分で留まっているように――」
「決めないで」
サーラが静かに止めた。
「はい」
「退路が開いた状態で、待機空間内に留まっている。それだけを残してください」
「でも」
若い術師は、生活観測区画側へ戻った結界を見る。
「近くにいたいのかな」
「その可能性を考えることはできます」
「記録には?」
「書きません」
「はい」
生活観測区画では、昼食の時間になっていた。
朝に残した甘い黄色と甘い橙も、保存状態に問題がなかったため少量ずつ並べられている。
「食べる?」
治療教師が尋ねた。
子供は皿を見たあと、少し考える。
「今は、いらない」
「朝は好きだと言っていたけど?」
アリシアが尋ねる。
「好き」
「でも、今はいらない?」
「うん。胸いっぱい」
「お腹?」
「違う」
扉。
名前のない光。
顔のない存在。
止めてしまったこと。
怖かったこと。
まだ会いたかったこと。
「気持ちの方?」
「たぶん」
治療教師が皿を下げようとした。
子供は、その手を見てすぐ尋ねる。
「捨てる?」
「まだ保存できます」
「なら、あと」
「分かりました」
好きなものでも。
今はいらない。
今食べたくない。
そう思ったからといって、朝に好きだと思ったことが嘘になるわけではない。
食事のあと。
子供は棚の白い花の前へ行った。
乾ききりかけた花は、近くで見れば見るほど繊細になっている。
「今日」
「うん」
「扉、近かった」
「うん」
「この花も」
子供は花の手前まで近づく。
「近い。でも触らない」
「うん」
「光も近づいた。でも会わなかった」
「うん」
「この人も扉に行こうとした。でも止めた」
「うん」
「違う?」
「全部違うことだよ」
「でも」
「うん」
「近いけど、まだ触らない」
「少し似てるって思う?」
「うん」
子供は今日も白い花へ手を伸ばさなかった。
「触ったら壊れるかも」
「うん」
「でも、ずっと触らなかったら」
花は。
いずれ自然に崩れる。
「それでも壊れる」
「うん」
子供の眉が寄った。
「じゃあ、触らなかったら正しい、でもない」
アリシアはすぐに答えられなかった。
ここまで。
触れない。
近づかない。
待つ。
そうすることで守れたものはたくさんあった。
けれど。
いつまでもそれだけでは。
何も始められないこともある。
「そうだね」
アリシアは、乾いた花を見ながらゆっくり答えた。
「触らない方がいい時もある」
「うん」
「触った方がいい時もある」
「うん」
「どうやって分かる?」
「分からない」
「また」
「うん。でも、そのとき自分がどれくらい怖いかとか、相手がどう動いてるかとか、自分が本当は何をしたいかとか。いろんなものを見る」
「全部?」
「全部を完璧に見るのは無理だと思う」
「じゃあ」
「間違えることもある」
子供は少し俯いた。
「今日、私」
「うん」
「止めてって言った」
「うん」
「間違い?」
「今の時点で、私はそうは思わない」
「どうして?」
「怖いって言えたから」
「でも、この人は行きたかったかもしれない」
「うん」
「なら」
アリシアは少しだけ考えた。
「次に考えるときは、そのことも一緒に持っていけばいい」
「今日の私、消さない?」
「消さない」
「明日、違うこと決めても?」
「うん」
「今日が間違いになる?」
「ならないよ」
子供は、その言葉を長く考えた。
「変わっても、前はある」
「うん」
「白い花」
「うん」
「最初は白かった」
「うん」
「今は茶色」
「うん」
「今が正しいから、白かったのが間違いじゃない」
「うん」
子供は少し泣きそうな顔で笑った。
「なら、今日止めた私も」
「うん」
「明日、開けたいって思っても」
「うん」
「今日が嘘にならない」
「うん」
「よかった」
午後遅く。
顔のない存在が、珍しく自分から生活観測区画の内扉へ近づいた。
寝台から立ち上がり。
一歩ずつ。
ゆっくり。
今日は窓ではない。
明確に扉の方向だった。
あと二歩。
そこで、自分から止まる。
外側で見守る警備担当の身体に緊張が走った。
結界術師も手を上げかける。
しかし、学院長が何も命じないため、誰も動かなかった。
アリシアも黒月へ触れない。
子供が立ち上がる。
「行く?」
返事はない。
顔のない頭は扉へ向いている。
「向こう、いる」
子供が言った。
「うん」
アリシアが答える。
「今も?」
「待機空間にいる」
「戻ってない?」
「うん」
子供は顔のない存在へ伝えた。
「向こう、まだいるって」
十一の光がゆっくり強くなる。
「行きたい?」
反応はない。
子供は少し黙った。
「私は、今は行かない」
人影は動かない。
「でも」
子供は一度息を整えた。
「明日、また考える」
十一の光のうち二つが静かに揺れた。
「あなたも」
子供は言葉を探す。
「今日、ここにいたいなら……ここにいていい」
顔のない存在は、それ以上扉へ近づかなかった。
子供も隣へ並ぼうとはせず、少し離れた床へ腰を下ろした。
「ここ」
「うん」
「扉の前」
「うん」
「会ってない」
「うん」
「でも」
子供は扉へ手を伸ばした。
触れる直前で止める。
「近い」
「うん」
待機空間。
一枚の扉。
顔のない存在。
子供。
昨日より。
今朝より。
ずっと近い。
それでも。
誰も、次の一歩を急がなかった。
夕方、西側貯水槽から新しい報告が届いた。
朝に学院長が伝えた別の光が、北側排水路へ半分ほど入ったという。
ただ、その報告はすぐ生活観測区画へ持ち込まれなかった。
危険反応はない。
緊急性もない。
今日は子供が、一つの扉と向き合っている。
それなら。
西側で起こるすべてまで、今日の子供へ持たせる必要はない。
夕食の時間。
朝から残していた甘い黄色が、もう一度少量だけ出された。
子供は昼にはいらないと言ったそれを、自分から一口食べた。
「昼、いらなかった」
「うん」
「今、食べたい」
「うん」
「同じ今日なのに」
「うん」
「変わった」
「うん」
子供は甘い黄色を見た。
「昼の私、間違いじゃない」
「うん」
「今の私も?」
「うん」
子供は少し満足そうに笑い、もう一口だけ食べる。
そして、そこで自分から止めた。
「もう、いっぱい」
「うん」
夜。
顔のない存在は寝台へ戻る前に、もう一度だけ内扉へ頭を向けた。
その向こう。
外側結界は元へ戻っている。
さらに先の待機空間には、名前のない光がまだ残っていた。
戻る道は開いている。
元の通路へ帰ることもできる。
それでも光は戻らない。
生活観測区画側は閉じているため、前へも進めない。
ただ。
そこで留まっていた。
さらに遠い西側貯水槽から、第四の声がかすかに届く。
「戻れ」
返事はない。
「名を受けよ」
返事はない。
「帰属せよ」
名前のない光が弱く揺れた。
しかし、位置は変わらない。
生活観測区画では、子供が寝台へ入っていた。
「アリシア」
「うん」
「今日」
「うん」
「外側、開けた」
「うん」
「光、近くまで来た」
「うん」
「この人も扉へ行った」
「うん」
「私、止めた」
「うん」
「それで、閉じた」
「うん」
「会わなかった」
「うん」
子供は天井を見たまま、少し長い間黙った。
「失敗?」
アリシアは、その問いだけには迷わなかった。
「違うよ」
「どうして?」
「今日は、ここまで近づけるって分かった」
「うん」
「子供が、ここまで来ると怖くなることも分かった」
「うん」
「顔のない存在が、扉へ近づいた」
「うん」
「向こうの光も、待機空間まで来た」
「うん」
アリシアは少しだけ笑った。
「それで、誰も壊れなかった」
子供の目が少し大きくなる。
「うん」
「第四の声との接続も強くなってない」
「うん」
「戻る道も残ってる」
「うん」
「なら」
子供はしばらく考える。
「今日、会わなかったのも」
「うん」
「今日のところまで?」
「うん」
「明日」
「うん」
「違うかも」
「うん」
子供は目を閉じた。
「おやすみ」
「おやすみ」
顔のない存在の胸で、十一の光のうち一つがゆっくり揺れた。
その夜。
生活観測区画の内扉は閉じたままだった。
外側結界も元の状態へ戻っている。
さらにその向こう。
待機空間には、名前のない光が留まっていた。
戻る道は、閉じられていない。
今日、一度だけ外側の道は完全に開いた。
光は近づいた。
顔のない存在も扉へ向かった。
そして子供は怖くなり、止まってほしいと願った。
だから閉じた。
それは、失敗ではなかった。
扉は、開けたからといって必ずその向こうへ進まなければならないものではない。
開いた道を使わないこともできる。
途中で閉じ直すこともできる。
近くまで行き、そこで止まることもできる。
怖くなったなら、戻すこともできる。
そして次の日に、また違うことを望んでもいい。
今日、互いの姿を見ることまではしなかった三者は、それでも昨日より近い場所にいた。
子供。
顔のない存在。
名前のない光。
それぞれ違う怖さを持ち。
それぞれ違う動きをし。
誰にも一つの意思へまとめられないまま。
同じ夜を迎えていた。
扉は閉じている。
けれど、今日一度開いたという事実まで消えたわけではない。
明日また開くかもしれない。
開かないかもしれない。
今はまだ、それでよかった。




