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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第123話 扉の向こうを見たいと思っても、相手にも同じ速さを求めなくていい


 翌朝、生活観測区画の窓へ差し込む光は、昨日ほど強くなかった。


 夜明け前から薄い雲が戻り、空の青はところどころ白く霞んでいる。それでも雨の気配はなく、庭の石畳には朝日の輪郭が淡く残っていた。昨日までなら窓枠の影は床の中央近くまで伸びていたが、今日は少し短く、無地の布の手前で曖昧に途切れている。


 部屋の中は静かだった。


 顔のない存在は寝台に横たわり、子供もまだ眠っている。二つの寝台から聞こえる呼吸は穏やかで、ときおり窓の外で葉が擦れる音だけが、朝の静けさへ小さく混じっていた。


 アリシアは窓際の椅子へ座り、二人を起こさないよう気をつけながら、昨夜届いた報告を読み返していた。


 中間通路の待機空間にいる名前のない光は、外側結界が閉じられたあとも元の通路へ戻らなかった。生活観測区画へ近づくことはできず、一方で戻る道そのものは開かれている。それでも光はどちらにも進まず、長い時間、その中間へ留まり続けていた。


 一方、西側貯水槽では、昨日新たに外周方向へ動き始めた別の光が北側排水路の半ばまで進んでいる。


 さらに、内部の文字環近くに残る光の一つも、昨夜遅く、中央からわずかに離れた。


 同じ場所にいたはずの光たちは、もう同じようには動いていない。


 近づくもの。


 遠ざかるもの。


 止まるもの。


 少し進んでから戻るもの。


 かつて一つの仕組みの中で同じ役割を与えられていた存在たちが、ほんのわずかな違いとはいえ、それぞれ別の動きを見せ始めている。


 アリシアは報告書を閉じた。


 全部を今すぐ子供へ伝える必要はない。


 危険反応は確認されておらず、第四の声との接続が急激に強まった形跡もない。急いで対応しなければならない理由がないのなら、朝は朝として過ごしていい。


 少なくとも、アリシアはそう思っていた。


「ん……」


 寝台で布の擦れる音がした。


 アリシアが顔を上げると、子供がゆっくり目を開けていた。何度か瞬きをして天井を見つめ、それから最初に隣の寝台へ視線を向ける。


 いつもの朝だった。


 顔のない存在は、まだ横になっている。


 胸に宿る十一の光も、昨夜と変わらずそこにあった。


「いる」


 子供が小さく呟いた。


 十一の光のうち一つが、弱く揺れる。


「朝」


 もう一度知らせるように言うと、今度は二つの光がわずかに明るくなった。


 子供はその変化をしばらく眺めたあと、以前のように断定することはせず、自分から言葉を選び直した。


「聞いたように見える」


「おはよう」


 アリシアが声をかけると、子供はこちらへ顔を向けた。


「おはよう」


「眠れた?」


「一回起きた」


「怖かった?」


「少し」


「何が?」


 子供はすぐには答えなかった。


 布団を胸元まで抱いたまま、生活観測区画の扉へ目を向ける。


 今は閉じている。


 昨日、その向こうまで名前のない光が来た。


 顔のない存在も扉へ近づいた。


 自分は怖くなり、止まってほしいと伝えた。


 外側結界も閉じてもらった。


「扉」


 それだけで、アリシアには十分だった。


「開いてる夢見た」


「どんな夢だった?」


「向こう、見えた」


「光が?」


「分からない」


 夢の中で何を見たのか、子供自身にもはっきりとは分からないらしい。それでも怖かったのかと尋ねれば、子供は素直に頷いた。


 しばらくして、布団を握る指へ少し力を込める。


「でも、起きたら少し見たかった」


「夢の続きを?」


「違う」


 子供は首を横へ振り、もう一度扉を見た。


「本当の向こう。昨日、開けたのは外側。ここは閉じた」


「そうだね」


「今日……少し、見たい」


「内扉の向こうを?」


「うん」


「怖くない?」


「怖い」


「それでも会いたい?」


「会いたい」


「今すぐ?」


 そこで子供は考えた。


 会いたい。


 怖い。


 見たい。


 でも、今すぐではない。


 以前なら、そのどれか一つを正しい答えとして選ばなければならないと思っていたかもしれない。


 今は違う。


 子供はしばらく自分の胸へ意識を向けたあと、首を横へ振った。


「まだ。でも、昨日より見たい」


「昨日は閉じてって言ったね」


「うん。今日、見たいって思う」


 子供の眉が少し寄った。


「昨日の私、変?」


「変じゃないよ」


「でも違う」


「昨日と今日で気持ちが違ってもいいよ」


 すぐには納得しきれなかったらしい。


 子供はしばらくアリシアの顔を見つめていたが、やがて小さく頷き、布団をどけて寝台から降りようとした。


 その途中で、一度動きを止める。


 足裏を自分で確認したのだ。


 今日は皮膚の色を見るだけではない。床へ降りる前に片足ずつ指で軽く押し、痛みや違和感がないかを確かめている。


「痛くない」


「自分で分かった?」


「うん。あとでセレナにも、見るだけしてもらう」


「分かった」


 以前なら身体の状態は誰かに確認してもらうものだった。


 今はまず自分で確かめ、そのあと必要なら他者の目も借りる。


 それもまた、この場所で少しずつ身につけた生活の一つだった。


 寝台から降りた子供は、最初に棚へ向かった。


 白い花は、もう最初の白さをほとんど残していない。花弁の大部分は淡い茶色へ変わり、ところどころさらに濃くなっている。中心にだけ、ごくわずかに白かった頃の色が残っていた。


 乾いた花弁は薄く縮れ、触れれば簡単に崩れてしまいそうだった。


「白い花」


「うん」


 子供は顔を近づける。


 匂いを確かめているのだろう。


 けれど、以前そこにあった香りは、ほとんど残っていない。


「今日、もっとない」


「匂い?」


「うん」


「寂しい?」


「少し。でも、まだ見る」


 子供はしばらく花を眺めていた。


 やがて、一本の指がゆっくり伸びる。


「昨日、触らなかったら正しいでもないって言った」


「言ったね」


「今日、少し触りたい」


「壊したくない気持ちもある?」


「ある」


「じゃあ、どうする?」


 指先が花弁の少し手前で止まった。


 子供は花と自分の指を交互に見つめる。


 長い時間をかけて考えた末、伸ばしていた手を静かに戻した。


「今日は、まだ」


「触らない?」


「うん」


「昨日と同じ?」


「違う。昨日は怖いから」


「今日は?」


 子供は少し首を傾げた。


「触る日じゃない気がする」


 その言葉に、アリシアは少し驚いた。


「理由は分からない?」


「分からない」


「でも、今は触らない?」


「うん」


「それでいいと思う」


 理由を説明できなくてもいい。


 選んだものを、毎回理屈で証明しなくてもいい。


 子供は満足したように頷き、次に棚の下へ視線を向けた。


 そこには、普段は見えない位置へ移してある木箱がある。


「箱」


「あるよ」


「今日は開けない」


「うん」


 そして今度は、アリシアが尋ねるより先に自分の胸へ手を置いた。


「戻りたいのも、少しある」


「うん」


「でも昨日より、向こう見たいが強い。両方あるけど、今はこっち」


「見たい方?」


「うん」


 戻りたい気持ちがなくなったわけではない。


 会いたい気持ちだけになったわけでもない。


 だから、どちらが勝ったのかと決める必要はなかった。


 今、この瞬間。


 子供の意識は扉の向こうへ向いている。


 それだけでいい。


 そのとき、顔のない存在がゆっくり身体を起こした。


「おはよう」


 子供が振り返る。


 人影の頭部が、ほんの少し動いた。


「今日、雲ある」


 窓を指差すと、胸の十一の光のうち一つが強くなる。


「見る?」


 それ以上の反応はなかった。


 子供は少し待ったが、無理に答えを求めずに立ち上がる。


「私は見る」


 それだけ告げて窓へ向かった。


 顔のない存在も、少し遅れて寝台から足を下ろした。


 昨日より歩き方が安定しているように見える。


 けれど子供は、それをもう「人間に近づいた」とは言わなかった。


「今日も、揺れ少ないように見える」


「昨日と同じかな?」


「完全には分からない。でも、似てる」


 顔のない存在は窓へ向かい、今日は六歩で止まった。


 昨日とほぼ同じ距離だった。


 そのまま床へ座る。


「今日は同じくらい。進まない」


「うん」


「でも、悪くない?」


「進まないことが悪いとは限らないよ」


 子供はその言葉を聞いてから、顔のない存在とは少し距離を空けて床へ座った。


 昨日やってきた鳥はいない。


 別の鳥も、まだ見えなかった。


「来ない」


「今はね」


「待つ?」


「朝ごはんもあるよ」


 子供は窓から差し込む光を見た。


 床へ伸びる淡い光の端は、まだ無地の布へ届いていない。


「今日は、光が布まで来るまで待つ」


「分かった」


 二人はそのまま、しばらく窓の前で何もしなかった。


 誰も話さない。


 鳥も来ない。


 何か特別な変化が起こるわけでもない。


 窓の外では風に揺れた葉が、ときおり朝の光を細かく砕いている。遠くから学院の鐘が一度だけ聞こえたが、この区画へ届く頃には音の角が取れ、静かな余韻だけになっていた。


 それでも、時間は進んでいく。


 子供は途中で顔のない存在を見た。


「何もしない」


「そうだね」


「朝なのに」


「朝だから何かしなきゃいけないわけでもないよ」


「でも、朝ごはん前」


「うん」


「待ってるだけ。役に立たない」


「たぶんね」


 子供はその答えに少し笑った。


「でも、嫌じゃない」


「なら、今はそれでいいんじゃないかな」


 やがて窓から伸びた光が、無地の布の端へ触れた。


 子供はそれを確認すると立ち上がる。


「来なかった」


「鳥?」


「うん」


「じゃあ、どうする?」


「朝ごはん」


 顔のない存在は、その場へ座ったままだった。


 子供は一度振り返る。


「この人は?」


「どうしたいか分からないね」


「待つ?」


 返事はない。


 それでも子供は、以前のように何度も尋ね続けなかった。


「私は食べる」


 それだけ伝えて食卓へ向かった。


 朝食には粥と根菜、小さい白。それから今日は、甘い黄色だけが少量置かれている。


「橙ない」


「今日は黄色だけです」


 治療教師が答える。


「昨日、両方好きだった」


「はい」


「今日、黄色だけ」


「嫌ですか?」


 子供は少し考えてから答えた。


「少し。でも黄色は好き」


「橙がないのが嫌なのと、黄色が嫌いなのは別なんだね」


 アリシアが言うと、子供は頷いた。


「食べる」


 先に粥を口へ運び、根菜、小さい白と順番に食べる。そのあと甘い黄色を一口食べると、子供は少しだけ目を細めた。


「甘い」


「昨日より好き?」


「分からない。でも、今日も好き」


 それで十分だった。


 食事の途中、扉の外では学院長が待っていた。


 昨日までなら、地下の光に動きがあれば食事中でも報告を受けることがあった。しかし今は、危険でない限り生活の時間へ割り込ませない方針が守られている。


 子供も扉の外の気配に気づいているらしく、何度かそちらへ目を向けた。


 それでも食事を止めない。


「学院長」


「いる」


 外から穏やかな返事が聞こえた。


「光のこと?」


「報告はある」


「危ない?」


「今のところ危険反応はない」


「じゃあ、あと」


「分かった」


 子供は安心したように甘い黄色をもう一口食べた。


 しばらくして匙を置く。


「いっぱい」


「お腹が?」


「少し」


「では、今日はここまでにしますか」


「うん」


 食器が片づけられ、そのあとセレナによる簡単な身体確認が行われた。


「足裏に赤みはありません。今朝の自己確認と一致しています」


「私も合ってた」


「はい」


「毎回?」


「毎回一致するとは限りません。自分では気づきにくい変化もありますから」


 子供は一度考えたあと頷いた。


「でも、今日は合ってた」


「はい。今日は合っていました」


 その答えが嬉しかったらしく、口元が少し緩んだ。


 身体確認が終わってから、ようやく学院長が室内へ入る。


「報告を聞けるか?」


「うん」


 子供は床の布へ座った。


 今日は木片を膝へ置かない。


 代わりに扉を見ながら、学院長の言葉を待った。


「中間通路の光は、昨夜から待機空間に留まっている。元の場所へは戻っていない」


「こっちにも来られない?」


「今は外側結界が閉じているからな。ただ、戻る道そのものは開いている。それでも留まっている」


 子供は少し考えた。


「もう一つは?」


「昨日、北側排水路へ進んだ光は、その後も少しずつ外周方向へ移動している」


「もう出た?」


「まだだ。途中で何度か止まり、一度は少し戻っている」


「戻ることもある」


「ああ」


 学院長は続けた。


「それとは別に、文字環近くにいた光の一つが、昨夜、中央からわずかに離れた」


「外へ?」


「外周方向へ進んでいるのかは、まだ分からない」


「第四の声は?」


「呼びかけを続けている」


「戻れって?」


「そうだ」


 それでも離れた。


 子供はしばらく黙って考え、やがて小さく呟いた。


「みんな、違う」


「そう見えるね」


 アリシアも頷いた。


「中間通路の光は待機空間にいて、北へ向かった光は進んだり戻ったりしている。文字環の近くにいた光も、少しだけ中央から離れた」


「同じ名前の中から?」


「元は五百人分の名前がある層だ」


 学院長の答えを聞き、子供は自分の胸へ手を置いた。


「でも今は、同じじゃない」


「少なくとも、動きはそれぞれ違う」


 学院長も、そこへ意味を付け足さなかった。


 子供は少しのあいだ考えたあと、扉へ視線を向けた。


「今日、内側」


 その一言で、部屋の空気がわずかに変わる。


「朝、見たいって言ってたね」


「今も見たい」


「怖い気持ちは?」


「ある。昨日より怖いかは分からない。でも、見たい」


 学院長はすぐに「開けよう」とは言わなかった。


「内扉をどう扱うかについて、三つ方法を考えてある」


 子供の眉が少し寄る。


「また三つ」


「一つずつ聞くか?」


「それなら聞く」


「一つ目は、扉そのものを少しだけ開く方法だ」


「向こう見える?」


「角度にもよるが、待機空間そのものは直接見えない。今の光の位置なら、光も見えない可能性が高い」


「じゃあ隙間だけ」


「ああ。空気は少し通る」


「匂いも?」


「特別なものは置いていないから、石や通路の空気の匂い程度だろう」


 子供は少し肩を縮めた。


「それ、怖い」


「二つ目は、扉を開けずに、扉の下側だけ結界を薄くする方法だ」


「昨日の外側みたい?」


「近い。ただし、向こうは見えない」


「三つ目は?」


「扉そのものは開ける。ただ、その前へ薄い無地の布を下げる」


 子供の表情が変わった。


「布?」


「壁ではない。風が通れば少し動く」


「向こうは見えない?」


「直接は見えない。向こうからも、こちら側は見えにくい」


「でも、扉は開いてる」


「そうだ」


「触ったら?」


「布が揺れる」


「光も触れる?」


「どう反応するかは分からない」


 子供は今度、顔のない存在を見た。


「この人が行ったら?」


「内扉までは行ける。ただ、安全確認が済むまでは布より先へ進ませない方針になる」


「止めるの?」


「危険を避けるためにな」


 子供は黙り込んだ。


 扉を少しだけ開ける。


 扉は開けず、結界だけ薄くする。


 扉を開けるが、布を一枚挟む。


 三つの選択肢を、頭の中で一つずつ並べているようだった。


「多い」


「今すぐ決めてほしい?」


 アリシアが尋ねると、子供は首を横へ振った。


「まだ。一緒に考える」


「分かった」


「少し開けるのは、見えないかもしれないけど風が来る。薄くするのは昨日と似てる。布は……開いてるけど見えない」


「そうだね」


「光が布まで来たら?」


 学院長が答える。


「触れる可能性はある」


「怖い。この人も触るかも」


「それもあり得る」


 子供はそこで言葉を止めた。


 少ししてから、慎重に尋ねる。


「二人が……同じ布?」


 学院長も少し考えてから答えた。


「位置を調整すれば、同じ布を挟んで互いに近づく形にはできる」


 その意味を理解した瞬間、子供の身体が少し硬くなった。


「それ、会う?」


「直接姿を見るわけではない」


「でも近い」


「かなりな」


「昨日より近い」


「ああ」


 子供は胸を押さえた。


「怖い」


「うん」


 アリシアはそれ以上、怖さを消そうとはしなかった。


 子供は顔のない存在へ目を向ける。


「でも、見たい」


 アリシアはその横顔を見ながら、昨日の出来事を思い返していた。


 顔のない存在が扉へ進んだ。


 子供は怖くなり、止めた。


 だからといって、昨日止めたことを今日の判断に対する失敗や反省として持ち込む必要はない。


 昨日は昨日だった。


 今日は今日だ。


「アリシア」


「なに?」


「どれがいいと思う?」


 以前とは少し違う尋ね方だった。


 決めてほしいのではない。


 自分で考えるために、誰かの意見も聞いてみたい。


 そういう問いだった。


「私は、今日は布がいいと思う」


「どうして?」


「扉が開いたことは分かる。でも、いきなり互いの姿を見ることにはならないから。怖くなったら、布を残したまま扉を閉じることもできる」


「この人が近づいても?」


「布の前で止められる」


「向こうの光も?」


「布の向こうまでなら」


 子供は少し眉を寄せた。


「でも、布も人間が作った壁」


「そうだね」


「邪魔。光、嫌かも。この人も嫌かも」


「そうかもしれない」


「それでも?」


「今の私は、その邪魔が一枚あった方が安心する」


 子供はアリシアを見た。


「アリシアも怖い?」


「怖いよ」


「見たい?」


「見たい」


「両方?」


「両方」


 すると子供は、ほんの少し笑った。


「同じ」


「少しだけね」


 学院長が静かに尋ねる。


「今日は布を使う方法で進めるか?」


 しかし子供は、まだ首を縦へ振らなかった。


「まだ」


「何をする?」


「木片」


「遊んでから考える?」


「うん」


 昨日と同じだった。


 大きな判断の前に、生活をする。


 決めるためだけに時間を使い続けない。


「そのあと、また聞く」


「分かった」


 顔のない存在は、朝から何度か扉を見ていた。


 子供が木片を転がすと、一度目はすぐに返した。二度目もほぼ同じだったが、三度目は少し時間がかかった。


「今日は遅い」


 そう言いかけた子供は、一度口を閉じる。


「返すまで、昨日より長かったように見える」


「うん。そう見えたね」


 四度目。


 今度は、人影が木片を返さなかった。


「今は終わり?」


 返事はない。


 子供はしばらく待った。


 それでも木片を無理に人影の方へ押し戻したりはしない。


「終わりに見える。じゃあ、私も終わり」


 木片を自分のところへ戻した。


 今日は一人で遊びを続けなかった。


「どうして?」


「扉のこと考える。遊びたいのもあるけど、今はこっち」


「分かった」


 子供は無地の布へ座った。


 指先で、その端を撫でる。


「今、座ってるこれと同じ?」


「材質は似たものを使う。ただし、もっと薄い布だ」


「文字なし?」


「なし」


「色は?」


「無地」


「名前は?」


「布でいい」


「役割は?」


「遮るために使う。ただ、それ以上の名前や意味は付けない」


 子供は自分の下にある布をもう一度触った。


「柔らかい。壁より怖くない」


 そして、しばらく考えてから顔を上げる。


「これにする」


 学院長は確認するように尋ねた。


「内扉を開けて、その間に無地の布を下げる方法だな?」


「うん。今日やる」


「その場合、外側結界も開ける必要がある」


「昨日みたいに?」


「そうだ」


「光、まだ待機空間にいる?」


「今のところは」


「戻ったら?」


「そのときは、光がいない状態でも扉を開けたいか、もう一度考えよう」


「分かった」


 子供は一度胸へ手を置いた。


「怖くなったら止める」


「ああ」


「私が言えなくなったら?」


 学院長は少し間を置いた。


「身体反応を見て、こちらから一度確認する。危険な状態まで上がった場合だけは、安全のためにこちらの判断で閉じる」


「怖いだけなら?」


「まず聞く」


「それならいい」


 準備が始まった。


 けれど、決まったからといってすぐに扉を開けるわけではない。


 使用する布が持ち込まれ、結界への影響が確認される。水分は含ませない。文字もない。香りも付けない。魔力もほとんど通さない、ただの薄い布として用意する。


 第四の声との接続状態も確認された。


 異常なし。


 生活観測区画の扉の内側へ細い棒を渡し、そこへ布を吊るす。扉が開いても向こう側が直接見えないようにしながら、足元にはわずかな隙間を残した。


「下、見える」


 子供がすぐに気づいた。


「石床だけだね」


「光、下から見える?」


「光が低い位置まで来れば可能性はある」


「全部隠すんじゃない?」


「完全に隠すことが目的ではないからな」


 子供はしばらく足元の隙間を見つめたあと、布へ視線を戻した。


「今は、これがいい」


 少し安心したようだった。


 準備をしているあいだ、顔のない存在は何度も扉へ頭を向けていた。


 胸の十一の光は増えない。


 減りもしない。


 けれど布が吊るされた瞬間、一つだけがわずかに強くなった。


「布?」


 子供が尋ねる。


 返事はない。


「気になる?」


 今度は別の光が小さく揺れた。


 子供は以前なら「気になってる」と言い切ったかもしれない。


 けれど今日は少し待ち、アリシアを見る。


「気になるように見える」


「私にもそう見えるよ」


 昼が近づいた頃。


 準備が整った。


 外側結界が再び開かれる。


 昨日と同じく、呼びかけはしない。


 誘導もしない。


 名前も呼ばない。


 香りも、音による刺激も用意しない。


 立ち会う人員も必要最低限まで減らした。


 子供は今日は寝台ではなく、無地の布の上へ座っている。


 顔のない存在は少し離れた場所にいた。内扉までは六歩ほどある。


「光は?」


 子供が尋ねる。


「待機空間にいます」


 学院長が答えた。


「昨日と同じ場所?」


「少し違う。昨日より、内扉から手の幅二つほど遠い」


 子供の表情が止まった。


「離れた」


「少しだけね」


「私、開けるって決めたのに。向こうは離れた」


 その声には、はっきりと寂しさが混じっていた。


「嫌だった?」


「分からない」


「戻りたい?」


「それも分からない」


「会いたくない?」


「分からないよ」


 同じ答えが続くたび、子供は少しずつ俯いていった。


「私だけ?」


「何が?」


「会いたいの」


 アリシアは、安心させるためだけに否定することはしなかった。


「今のところは、そうかもしれない」


 子供が顔を上げる。


 少し傷ついたような表情だった。


 それでも、それが分からない以上、「向こうもきっと会いたい」と言うことはできない。


「じゃあ、開けない方がいい?」


「光が離れたから?」


「うん。私も少し止まった方がいい?」


「それも選べるよ」


「でも、私は扉を開けたい」


「うん」


「向こうが会いたくないなら……」


 そこで言葉が止まる。


 子供は唇を少し噛んだ。


「嫌」


 顔のない存在を見る。


「この人も、会いたいか分からない?」


「分からない」


「みんな違う」


「そうだね」


「同じ速さじゃない」


「うん」


 子供は長く息を吐いた。


 胸の奥にある寂しさも、期待も、怖さも、全部を一度に消すことはできない。


 それでも、やがて顔を上げる。


「開ける」


 アリシアは急がず確認した。


「でも?」


「向こうに、来てってしない。離れてても、そのまま。見えなくてもいい」


 子供は一度だけ、胸へ置いていた手を強く握った。


「私が開けたいから開ける。向こうは、来たくなかったら来なくていい」


 少し震えた声だった。


 それでも言葉は最後まで途切れなかった。


「同じ速さじゃなくていい」


 学院長は静かに頷いた。


「分かった。そうしよう」


 まず外側結界が開放された。


 待機空間にいる名前のない光は、すぐには動かなかった。


 次に、内扉の開放準備へ移る。


 布は正しい位置へ吊られている。


 子供はそこから少し離れて座り、顔のない存在はさらに横にいる。


「内扉を、布が維持される範囲で開放する」


 学院長の確認に、子供が頷いた。


「途中で止められる?」


「必要ならいつでも」


「少しずつにして」


「分かった」


 扉はほとんど音を立てないよう、ゆっくり動かされた。


 油は使っていない。


 魔力による潤滑も避けた。


 余計な刺激を増やさないため、人の手だけで慎重に開いていく。


 最初は指一本分。


 吊るされた布はまだ揺れない。


「開いた?」


「少しだけ」


「見えない」


「うん」


 子供は胸元へ手を置いた。


「でも、空気が違う」


「分かる?」


「少し」


 顔のない存在の胸で、十一の光のうち二つが強くなった。


 それでも立ち上がらない。


 待機空間側を観測していたサーラが、小さな声で報告する。


「名前のない光、明るさがわずかに上昇。位置の変化はありません」


「第四の声との接続は?」


「変化なしです」


 扉がもう少し開く。


 手の幅ほどになったところで、吊るされた布がほんのわずかに揺れた。


「動いた」


「風だね」


 土の神器継承者が、必要なことだけを説明する。


「こちらと通路の空気に少し差がある。布の向こう側にも同じ風が流れている」


「向こうにも」


 子供は布を見つめた。


 そのとき、顔のない存在がゆっくり立ち上がった。


 室内の緊張が一段高くなる。


 誰も大声を出さない。


 誰も動きを止めようとはしない。


 子供は胸へ置いた手を少し強く押しつけた。


「立った」


「怖い?」


「怖い。でも、まだ止めない」


 顔のない存在が一歩、扉へ近づく。


 そして二歩目。


 布までは、まだ四歩ほどある。


 そこで一度止まった。


 胸の十一の光のうち、三つが強く輝いている。


「向こうの光は?」


「動いていません」


「離れたまま?」


「はい」


 サーラの答えを聞いた子供は、少し寂しそうな顔をした。


 けれど、「来て」とは言わなかった。


「もっと開ける?」


 学院長が尋ねる。


 子供は布を見て、顔のない存在を見て、その向こうにいるはずの名前のない光を想像する。


 それから、小さく頷いた。


「少し」


 扉がさらに開かれた。


 人一人が通れる程度の幅になる。


 けれど、そこには一枚の布が下がっているため、通路を直接見ることはできない。


 足元だけは別だった。


 布の下の隙間から、向こう側の暗い石床が少し見える。


「床」


「向こうの床だね」


「ここと同じ石?」


「同じ通路の石だ」


「昨日、揺らしたところ?」


「続いている場所だよ」


 子供はじっとその床を見た。


「今日は揺らさない」


「分かった」


 顔のない存在が、さらに一歩進んだ。


 布まであと三歩。


 そこでまた止まる。


 子供自身は立ち上がらなかった。


「私は行かない」


「うん」


「でも、この人が行きたいなら……布までなら」


 顔のない存在から、はっきりした反応は返ってこない。


 十一の光の一つが揺れただけだった。


「この人、決めた?」


「分からないよ」


 アリシアは穏やかに答える。


「じゃあ、待つ」


 そこから、長い時間が流れた。


 布は通路から流れ込む空気を受け、ときおり小さく揺れている。


 顔のない存在は動かない。


 子供も動かない。


 ただ、最初は速かった子供の呼吸が、時間とともに少しずつ落ち着いていった。


「向こう、来ない」


「そうだね」


「少し寂しい」


「うん」


「でも……嫌じゃない」


「どうしてだと思う?」


 アリシアが逆に尋ねる。


 子供はしばらく考えた。


「私、昨日止めたから」


「うん」


「今日、向こうも止まってるのかも。同じじゃないけど、止まる時間がある」


「そうかもしれないね」


 そのときだった。


 中間通路にいる名前のない光が、わずかに動いた。


「移動を確認」


 サーラの声が低く響く。


 学院長がすぐに尋ねた。


「方向は?」


「生活観測区画と平行です。こちらへ近づいてはいません」


 子供にも、そのまま伝えられた。


「横?」


「うん」


「こっちじゃない?」


「今の移動方向は違う」


 子供の表情が少し沈んだ。


「嫌?」


 アリシアが尋ねる。


「少し」


「扉を閉じる?」


 今度は学院長が確認する。


 子供はすぐには答えなかった。


 布の向こうを見つめ、やがて首を横へ振る。


「まだ」


「どうして?」


「向こうが横に行ったからって、私もやめなくていいと思う」


 自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続ける。


「私は今、扉を開けてる。でも向こうへ進んでない。向こうも、こっちへ来なくてもいい」


 最後のところで、少し声が震えた。


「寂しいけど。同じ速さじゃなくていい」


 アリシアは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 その直後。


 顔のない存在が、また一歩進んだ。


 布まであと二歩。


「この人は来る」


「そうだね」


「向こうは来ない」


「今はね」


「違う」


「うん」


 子供は自分の膝へ目を落とした。


「私は、ここ」


 三者は同じではない。


 子供はその場に留まっている。


 顔のない存在は布へ近づいている。


 名前のない光は横へ移動し、少し距離を取った。


 けれど誰も、それを失敗とは呼ばなかった。


 顔のない存在が、さらに一歩進む。


 布まで、あと一歩。


 子供の呼吸が少し速くなった。


「怖い?」


「うん」


「止める?」


「まだ。少し怖いけど、見てる」


 人影は最後の一歩を進み、布の手前で止まった。


 そして。


 ゆっくり手を持ち上げる。


 指先と布との距離は、ほんのわずかだった。


「触る?」


 子供が思わず尋ねる。


 返事はない。


 人影の指が、少しだけ前へ進んだ。


 布へ触れる。


 ほんの一瞬だった。


 薄い布がわずかに押され、遅れて小さく揺れる。


 同時に、人影の胸に宿る十一の光すべてが一度だけ強く輝いた。


 生活観測区画にいた全員が、ほとんど同時に息を止めた。


 それでも子供は立ち上がらない。


「触った」


「うん」


「向こうの光は?」


 サーラが観測記録を確認する。


 ほんの少しの沈黙が、ひどく長く感じられた。


「位置の変化はありません。明るさにも目立った変化なし」


 子供の表情が曇る。


「何もない」


「向こう側は、今のところね」


「でも、この人は触った」


「うん。それは見えた」


 顔のない存在は布から指を離した。


 もう一度触れようとはしない。


 ただ、その場へ立っている。


「終わり?」


 子供が尋ねても返事はない。


 それでも胸の十一の光がゆっくり揺れた。


「今は、そこにいたいように見える」


 アリシアが言う。


「私は布まで行かない。この人は行った。光は来なかった」


 子供は三つを順番に確かめる。


 そして少しだけ笑った。


「全部違う。面倒」


 そのとき、遠い廊下からカイルの声がした。


「今日も結論そこなのか」


「黙ってて」


 子供が即座に返す。


「俺、何も悪くないだろ!」


「緊張している場面で余計な口を挟まないでください」


 セレナの冷たい声が飛ぶ。


「はい……」


 ほんの少しだけ、室内の緊張がほどけた。


 しかし、その直後だった。


 待機空間の名前のない光がさらに横へ動き、そこからほんの少し後方へ下がった。


「再び移動」


 サーラの報告に、子供の笑顔が止まる。


「戻る方?」


「少しだけ、元の通路へ近づく方向です」


「私、開けたのに」


 子供は布を見つめた。


「この人も触ったのに。向こう、戻る」


 目が少し潤む。


「嫌」


「うん」


「会いたくないのかな」


「分からない」


「でも、戻ってる」


「行動としてはそう見えるね」


 子供は黙り込んだ。


 顔のない存在は、まだ布の前へ立っている。


 学院長が尋ねた。


「閉じるか?」


 すぐには答えられなかった。


「光が戻るなら……閉じた方がいい?」


「それを今、自分で決めたい?」


 アリシアが尋ねると、子供は疲れたように目を伏せた。


 考えることが多かった。


 怖いか。


 見たいか。


 扉を開けるか。


 顔のない存在を止めるか。


 向こうの光が来なくても続けるか。


 そして今度は、閉じるか。


 選べることと、選ばされ続けることは違う。


 子供はそのことを、もう知っている。


「一つ、決めてほしい」


「誰に?」


 子供はアリシアを見た。


「アリシア。今日は閉じるか」


「分かった」


 アリシアもすぐには答えなかった。


 観測記録を見て、布の前にいる顔のない存在を見て、最後に子供を見る。


「私は、今日は閉じた方がいいと思う」


「どうして?」


「向こうの光が少し戻る方向へ動いたから。それが会いたくないからなのか、怖いからなのか、別の理由なのかは分からない」


「うん」


「分からないからこそ、今は追わない方がいいと思う」


 子供は布の前に立つ人影を見た。


「この人は?」


「布から離れるまで少し待とう」


「戻ってって言う?」


 子供の表情が苦しそうになる。


「命令みたい」


「言いたくない?」


「うん」


「なら、まず扉を少しずつ閉じよう。布も一緒にこちら側へ下げる。押したりはしない」


「この人が動かなかったら?」


「そのとき、もう一度考えよう」


 子供はしばらく顔のない存在を見つめた。


 そして頷く。


「閉じて」


「分かった」


 学院長が周囲へ合図を出す。


「内扉、段階閉鎖」


 扉がゆっくり動き始めた。


 開いていた幅が少しずつ狭くなり、それに合わせて吊るされた布も内側へ移ってくる。


 顔のない存在は、動く布を見ているように頭を向けた。


 そして。


 自分から一歩、後ろへ下がった。


「下がった」


 子供の肩から少し力が抜ける。


 扉がさらに閉じる。


 顔のない存在も、もう一歩戻った。


「自分で戻った」


「うん」


 やがて内扉が完全に閉じられた。


 布は生活観測区画側へ残り、再び静かに垂れ下がる。


 そのあと、外側結界もゆっくり閉鎖された。


「光は?」


「元の通路方向へ、もう少し移動しています」


「戻る?」


「位置としてはそう見える」


 子供は寂しそうだった。


 それでも泣かなかった。


「今日、見えなかった。来なかった。この人は布に触った。向こうは戻った」


 一つずつ確かめる。


「失敗?」


 アリシアは首を横へ振った。


「違うと思う」


「また?」


「うん。今日は、同じ速さじゃないって分かった」


 子供は黙って聞いている。


「あなたは扉を開けたいと思った。顔のない存在は布まで行った。名前のない光は近づかなかった。それぞれ違った」


「でも、会いたかった」


「うん」


「来なかったの、嫌だった」


「それもいいよ」


「向こうが戻るのも、止めない?」


「止めない」


「嫌でも?」


「嫌だと思うことと、相手を止めることは別だから」


 その言葉に、子供は長く黙った。


「同じ速さじゃない」


「そうだね」


「私、待つ?」


「今日はどうしたい?」


 子供は胸へ手を置いた。


 しばらく考える。


「少し休む。扉は今日はもう開けない」


「それは自分で決めた?」


「うん」


「分かった」


 午後の生活観測区画は、午前中とは違う静けさに包まれた。


 子供は無地の布へ座り、しばらく何もしなかった。


 白い花を見る。


 木片には触れない。


 木箱のことも確かめない。


 考えることに疲れたからといって、眠るわけでもない。ただそこへ座り、自分の中に残った寂しさや怖さが少しずつ形を変えていくのを待っているようだった。


 顔のない存在も寝台へは戻らなかった。


 扉から少し離れた床へ座っている。


 胸の十一の光は静かだった。


「この人、布触った」


「うん」


「何でだろう」


「分からないね」


「向こうは来なかった。でも、この人は行った」


 子供が顔のない存在へ視線を向けると、十一の光の一つが揺れた。


「私より速い?」


 アリシアは少し考える。


「扉へ近づくことだけなら、今日は顔のない存在の方が速かったかもしれない」


「向こうは遅かった」


「今日はね」


「私は真ん中?」


「順位にしなくてもいいんじゃないかな」


 子供はその答えを聞き、少し笑った。


「競争じゃない」


「そうだね」


「誰が先に会うかでもない」


「うん」


「私が会いたいからって、二人も会いたいじゃない。この人が布に触ったからって、向こうも来たいじゃない」


「うん」


「難しい」


「難しいね」


 子供は白い花へ視線を移した。


「花も同じ?」


「どういうところが?」


「私、触りたい。でも今日まだ触ってない。花が私に触ってほしいかも分からない」


 そこで少し困ったように笑う。


「でも花は言わない。光も言わない。この人も言わない」


「そうだね」


「全部分からない」


「うん」


 子供はアリシアを見る。


 少し呆れたような顔だった。


「アリシア、また『うん』」


「今は必要だから」


「便利」


「否定しないで聞いてるときにはね」


 子供は小さく笑った。


 その笑い声に反応したのか、顔のない存在の十一の光も、ほんの少し揺れた。


 同じ頃。


 西側貯水槽の北側排水路では、新たに動き始めていた別の光が外周まであとわずかという場所で止まっていた。


 冷たい水音が石壁の奥で反響する中、第四の声が繰り返される。


『戻れ』


 光が揺れる。


『名を受けよ』


 その直後、光はわずかに後方へ移動した。


「戻るのでしょうか」


 若い術師が小声で尋ねる。


 サーラは観測板から目を離さない。


「まだ判断しません。記録は『後方へわずかに移動』だけにしてください」


「はい」


 文字環近くに残っている別の光も、朝に中央から少し離れた位置で止まったままだった。


「これも外へ来るんでしょうか」


「分かりません」


「同じ北側へ?」


「分かりません」


「東側の可能性は?」


「それも分かりません」


 若い術師は記録板を見つめ、苦笑した。


「全部、分からないですね」


 サーラもほんの少し口元を緩める。


「以前より、ちゃんと分からないと言えるようになりました」


「それ、褒められてます?」


「たぶん」


「たぶんですか」


 張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 学院地下の異なる場所で。


 異なる光が。


 異なる進み方をしている。


 そして生活観測区画でも、夕食の時間はいつも通りやってきた。


 子供は朝にも食べた甘い黄色を、一口だけ口へ入れる。


「朝も食べた」


「うん」


「今も好き」


 けれど視線は、ふと扉へ向かった。


「向こう、戻った」


「そうだね」


「少し寂しい」


「うん」


 子供はもう一度、甘い黄色を噛んだ。


「でも、甘い黄色は甘い」


「うん」


「寂しくても、甘いの分かる」


「そうだね」


「変」


「変かな?」


 子供は少し考え、それから首を横へ振った。


「分からない。でも好き」


 もう一口食べる。


 寂しいからといって、甘さが消えるわけではない。


 悲しいからといって、好きなものまで嫌いにならなければならないわけでもない。


 一つの感情が強くなったからといって、ほかの感覚や気持ちが全部なくなるわけではなかった。


 夜。


 顔のない存在は寝台へ戻る前、今日布が吊られていた扉へ頭を向けた。


 子供も同じ扉を見る。


「今日、開けた」


「うん」


「布があった。この人は触った。向こうは来なかった」


「少し戻ったね」


「うん。私、嫌だった」


「うん」


 子供は胸へ手を置いた。


「でも、怒ってない」


「光に?」


「うん」


「どうしてだと思う?」


「分からない。でも、来いって言ってないから」


 子供は自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続ける。


「私は来てって言ってない。向こうは来なかった。なら、それは向こうの速さ」


「うん」


「私の速さじゃない」


「そうだね」


 今度は顔のない存在を見る。


「この人には、この人の速さがある」


「うん」


「私には、私の速さ」


「うん」


 三つを同じにしない。


 それは、今日一日で子供が何度も確かめたことだった。


「明日、また開けたいって思うかもしれない」


「うん」


「思わないかもしれない」


「それでもいいよ」


「向こう、もっと戻ってるかもしれない」


「うん」


「逆に、もっと来てるかもしれない」


「そうかもしれない」


「この人も、もう布に触らないかもしれない」


「うん」


 子供はゆっくり目を閉じた。


「全部、明日」


「うん」


「今日、決めなくていい」


「決めなくていいよ」


「おやすみ」


「おやすみ」


 やがて生活観測区画の灯りが落とされた。


 顔のない存在の胸に宿る十一の光だけが、暗い室内で淡く揺れている。


 その夜。


 中間通路にいた名前のない光は、待機空間から元の通路へ向かって、さらに少しだけ戻った。


 完全に東側地下空室まで戻ったわけではない。


 生活観測区画へ近づくわけでもない。


 そのどちらでもない中間。


 昨日より生活観測区画から少し遠い場所で、光は再び止まった。


『戻れ』


 遠くから第四の声が届く。


 返事はない。


『名を受けよ』


 それにも反応しない。


 光はただ、その場へ留まり続ける。


 生活観測区画の扉は閉じている。


 顔のない存在は寝台へ横になり、子供も静かな寝息を立てていた。


 今日、扉は確かに開いた。


 一枚の布が間にあり、向こう側を直接見ることはできなかった。


 顔のない存在は布まで進み、自分から手を伸ばして触れた。


 名前のない光は来なかった。


 むしろ、少し戻った。


 同じ場所へ近づこうとしているように見えた三者は、同じ速さではなかった。


 けれど、それでいい。


 誰かが会いたいと思ったからといって、相手にも今すぐ会いたいと思わせなくていい。


 自分が一歩進んだからといって、相手にも同じ一歩を求めなくていい。


 近づく者がいる。


 その場で止まる者もいる。


 少し戻る者もいる。


 同じ日に、その全部があっていい。


 誰かが少し戻ったからといって、それまでに生まれた関係まで消えてしまったわけではない。


 扉の向こうを見たい。


 会ってみたい。


 けれど、怖い。


 来てくれなければ寂しい。


 それでも、無理に来させたくはない。


 子供は今日、そのどれか一つを消してしまうのではなく、全部を自分の中へ残した。


 名前のない光へ押しつけず。


 顔のない存在へ命じず。


 そして、自分自身にも明日の答えを強制しない。


 明日になったら、また考えればいい。


 そのとき自分が何を感じるのか。


 扉を開けたいのか。


 閉じたままにしたいのか。


 会いたいのか。


 少し離れたいのか。


 今夜の子供は、まだ何一つ決めていなかった。


 決めていないまま眠ることも、もう怖いことではなくなり始めていた。

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